駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『Alma de Tango タンゴの魂2023』

2023年01月31日 | 観劇記/タイトルあ行
 イイノホール、2023年1月28日16時半。

 アンドレス・リネツキー楽団を招聘しての演奏、ダンス、歌のタンゴ公演。プロデューサー、構成、演出/高橋正人。全1幕。

 前回が楽しすぎたので、今回も大空さんゲスト回にいそいそと出かけてきました。
 楽団はピアノがアンドレス・リネツキー、ヴァイオリンがウンベルト・リドルフィ、バンドネオン/ラミーロ・ボエロ、コントラバス/パブロ・リカルド・グスマン。眼鏡率が高くて萌えました(笑)。ヴァリオリンがステージ前面に出ての、ジャズみたいな多彩なアレンジのカデンツァを聞かせた「ジェラシー」が超絶素敵でした。ピアソラ・メドレーももっと長く聴きたいくらいに素敵でした。しかし演奏時のバックに移る作曲家の写真はともかく、ブエノスアイレスの街の風景らしき写真が前回と同じだったのは芸がなさすぎると思うよ演出…
 シンガーはパウラ・カスティニョーラ。最初が金で次が赤のドレス…だったかな? ラインナップでは黒のドレスに着替えて出てきてくださって、さすが!と思いました。「ゴッドファーザー愛のテーマ」がよかったなー!
 村野みりとエマニュエル・ドス・レイスのカップルは長身の美男美女で、華やかで軽やか。1曲目がピンク、次が赤のドレスで、男性はタキシードやスーツが多いけれど1曲目がシャツにサスペンダー、ハンチングみたいなザッツ・パリジャン!なお衣装で、村野さんもボブカットが素敵で娘役さんみたいで、見とれました。
 続く美翔かずきとダビッド・レギサモンは、1曲目が黒と金で2曲目が銀に裾が白みたいなドレスだったかな? これが素敵だったなー! このリーダーも次の天緒圭花の相手のエセキエル・ゴメスも、ヒールがなくてもパートナーの女性より背が低く、小太りと言ってもいいおじさまなんだけど、めっちゃ踊れるし動きもキレキレ!というのがまたたまらないんですよね。天緒さんは現役時代ぶりに観ましたが、やはりタンゴをやっていたんですねー。1曲目が恋人がデートに遅れてやってきてキレる、みたいなお芝居仕立てのものでとてもチャーミングでした。
 本場カップルはミリアム・ラリシとレオナルド・バリオヌエボ。1曲目が透け方が絶妙な黒のドレスで、次は豹柄みたいな模様の入った金だったかなあ? とにかく女性のボディのあの肉厚感はなかなか日本人には出せないんですよねー。そしてお互いに意外と相手を見ない、ずっと足下を見ているような踊りだったのも印象的でした。
 今回も狭いステージを4組でユニゾンで踊る1曲があり、優雅でスリリングで堪能しました。
 フィギュアスケート選手だった浅田舞が今回タンゴ初挑戦ということでしたが、紫のドレスも素敵で、ドラマチックな振付を存分に表現していて、とても素晴らしかったです。ダンスの優劣は私のような素人には全然わからないので、もちろん現役時代に氷上で踊っていたしそういうトレーニングも積んでいたということもあるのでしょうが、見せ方も上手くて遜色なく、トリにふさわしい出来でした。
 でも大トリはミリアム&レオナルドで「リベルタンゴ」で圧巻!という構成の上手さなんですけどね。
 カンタンテの大空さんは3曲。ブルーの、肩は出すけど身体の線は出さない素敵なドレスで、しかし残念ながら今回もお召し替えナシ。ややワイルドめに仕立てたヘアスタイルがとてもお似合いでした。「迷子の小鳥たち」「最後のコーヒー」「想いの届く日」で、うち2曲はCD「Canto」にも収録されていますが、より情熱的だったような…収録ではリネツキー楽団の演奏に歌を乗せたんだそうで、打ち合わせなどもリモートだったので、今回はこうしてあえて嬉しい、といった紹介もありました。ニコニコしてくれるリネツキーさんが可愛く、「グラシアス」だけで乗り切る大空さんがキュートでした(笑)。
 贅沢な時間を持てた、優雅な週末になりました。





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『キングアーサー』

2023年01月29日 | 観劇記/タイトルか行
 新国立劇場中劇場、2023年1月26日18時。

 その昔、英国の偉大なるユーサー王がこの世を去り、サクソン族が侵入して危機が迫っていた。魔術師マーリン(石川禅)は混沌とした時代に終止符を打つべく、新しい王を王座に就かせるために動き出す。自分が王の血筋であることを知らずに育ったアーサー(浦井健治)は義兄ケイ(東山光明)の従者として騎士決闘場に赴き、マーリンの導きによって伝説の剣エクスかリバーを抜くが…
 音楽・脚本・歌詞/ドーヴ・アチア、日本版台本・演出/オ・ルピナ、翻訳・訳詞/高橋亜子、音楽監督/竹内聡、振付/KAORIalive、美術/二村周作。2015年パリ初演、16年宝塚歌劇団月組で上演、19年と22年には韓国で上演されたスペクタクルミュージカル。全2幕。

 ダブルキャストは、この回はメレアガン/加藤和樹、ランスロット/平間壮一、グィネヴィア/小南満佑子。
 宝塚歌劇月組『アーサー王伝説』の感想はこちら。一週間ほど前に予習として久々にDVDを見てから臨んだので、「おおまゆぽん! あっあーさ出てきた、あああったねこの歌!」みたくワクテカしながら観ました。でも珠城さんサヨナラショーでもやった「♪畏れられる王でなく愛される王に…」みたいなメインテーマ曲がなかなか出てこないな?と思い続け、そして結局出てきませんでしたが、あれは『アーサー王~』のために書き下ろされた新曲で、その後の公演でも使われていないオリジナル曲となっているようですね。さすが珠城さん…(笑)イヤ今見ると珠城さんもちゃぴもまだまだ硬いというか初々しくて、おもしろすぎましたけどね。あともともとの伝承がどうにも整合性がつけづらく、メインとなるエピソードもなかなかしょっぱいものなので、お話としてとにかくしんどい、というのはあり、それは今回の上演でも改善、解消されていないなと感じました。
 アーサーがユーサー王の隠し子である、しかも王が部下の妻を孕ませ産ませた子供である、というのが、自分の出生の真実を知って以降アーサーの屈託になるのですが、アーサーのせいではないんだけれどどうにも取り返しがつかないことでもあり、いかにも据わりが悪いです。マーリンは何度も「ユーサー王は本気で彼女を愛していた」みたいなことを言いますが、それはなんのフォローにもなっていないんですよね。王が本気だろうと相手の女性がどう思っていたのかは語られないし、たとえ当人同士が本気だろうとお互いの配偶者は不承知だったに違いないんですから、やっぱり罪は罪でしょう。この時代の結婚というものの固さや重要度はよくわかりませんが、この関係に問題があるとされているからアーサーも悩むわけでさ…罪ある男の罪から生まれた息子であっても、血を引くというだけで聖剣が抜けるのか、そんなんでいいのか、という大問題がそもそもある物語になってしまっているワケですよ、そもそも。
 モルガン(安蘭けい)はアーサーを産んだ女性とその夫との間の娘なので、アーサーの父親違いの姉になります。彼女は母親をユーサー王に汚されたことを恨みに思い、ユーサー王はもういないのでその恨みをそのままアーサーにぶつけているわけですが、これもよくよく考えるとちょっと謎です。母親がユーサーをそしてアーサーをどう思っていたのかの説明がないから、というのもありますが、彼女は結局夫のもとでアーサーを産み、モルガンとともに育てたんでしょうか? それともすぐにケイの父親に預けちゃったのかなあ? そのあたりも説明がなく、でもどう解釈しても上手く納得できないんですよね…それとも浮気した女として村八分にされ魔女扱いされ、モルガンは母親からも引き離されてかつ魔女の娘として周りから忌み嫌われ、それでグレて魔女になっていった…とかなのかなあ? 彼女が歌う子守歌はアーサーが生まれる前、自分がまだ一人娘だったころに母親に歌ってもらったもので、なので母親への思慕はあるようですが…
 モルガンがアーサーを逆恨みに近い形で憎む、のはわからなくはないし、アーサーがグィネヴィアと出会ってキャッキャウフフしてるのが腹立たしくて邪魔したろ、ってなるのもまあわかります。だがグィネヴィアに化けてアーサーをたぶらかし、性交し、息子を孕み、やがてその息子にアーサーを殺させることで復讐を遂げようとする、というのは…かなり遠大な計画ではあるまいか。このあたりが苦しいので、なんか感情移入しづらいというか共感しづらいというか、何がどうなれば正義でゴールでハッピーエンドなんだろうかこの話は??と観客が迷子になってしまうのではないかしらん、と思うのです。
 マーリンはユーサー王が部下の妻と通じるのに魔法で協力しているようなので、モルガンが憎むべきはむしろマーリンの方が自然なのかもしれません。アーサーの方も、過去のいきさつを知らされてなおマーリンを師と仰いでいますが、むしろ彼にキレて怒ってもいいくらいじゃないですかね? なのになんかただうじうじするだけなので、主人公としてヒーローとして精彩を欠きますよね。それで寂しくなったグィネヴィアがランスロットに流されるような展開になるんですけれど、それもなんかオイオイって感じで、みんなもうちょっとよく考えてちゃんと行動して?って言ってやりたくなっちゃいます。
 むしろ、いわゆる悪役とされているメレアガンの方が筋は通っていて、役者がプログラムで彼を「至極真っ当」と評していましたがまったく同感です。一国の王子で、研鑽を積み、婚約も決まっていて、決闘に勝ち上がり、けれど聖剣は抜けなかった。まだ修行が足りないということなのか…などと反省していたら、騎士でもない田舎者の小僧が勝手に引き抜いていった。なんならそのまま婚約者をさらっていった。それは怒って当然ですよね。彼の心情や行動はとてもわかりやすいし、共感できるのです。その他のキャラは行動原理がみんななんかよくわからないのでした。
 あ、ランスロットは、お花畑の「湖の騎士」、傾国の美青年なので、まあアレでいいんだと思います。道化担当にさせられていたケイも、無口で真面目にアーサーに仕えるガウェイン(小林亮太)なんかも、それぞれそれなりに素敵でした。
 なので問題はやはり主役周りのメインキャラたちにあるのであって、なんかもうちょっとやりようがある気がするんですよね、今なら。今あえてこの題材を扱うというのなら。ラインナップでトリの主役のひとつ前に出てきたのはトウコさんでした。グィネヴィアではなくモルガンがトップ娘役格(違)、ヒロインなのです。だからやはり物語としてはモルドレッドまで出して、アーサーが死ぬまでを、モルガン主人公でやるべきなんじゃないんでしょうかね、むしろ。完全なるフェミニズム劇として。アーサー自身に罪はなくても男であるという罪はあるのだし、そんな義弟を憎み愛してしまった女の物語として再構築できるなら、このカビの生えた神話も生きる道があるのではないかしらん…
 ウラケンはヒーロー役者だと思うけれど、アーサーってどちらかというと受け身のキャラになっちゃってるので、これをリアル男子にやられると本当にイラッとさせられるんですよねー。そういう白い受け身の役ってホント宝塚歌劇の主役でないと成立しないんだと思います。加藤さんは難曲も気持ちよく歌いこなしていて楽しそうでした。小南さんも歌えるのは知っているので…でもこの役の演技は難しいよね、って感じでした。別に嫌われてもいいとは思うんだけれど、ある種の魅力は役として必要だから…でも今のホンではグィネヴィアにそれはないですよね。平間さんはニンじゃなかったかなー、なんとか雰囲気イケメンを作っていましたけどね。そして石川さんのええ声はなんでも納得させてしまいそうだけど、やはりこの人がガンだと思うのよ…トウコさんはもうバリバリに素敵でした! 影のような分身のような侍女のレイア(碓井菜央)も素敵だったなー、見とれました。狼(長澤風海)と鹿(工藤広夢)もものごっついいダンスを見せてくれましたが、これは原作準拠のキャラなの…?
 などとぐるぐる考えつつ、つまり芝居としては、物語としてはアレだったのですが、なんせ楽曲が素晴らしくアンサンブル含めてダンスも素晴らしく、カッコいいナンバーがバンバン連続するスペクタクルな舞台に仕上がっていたので、もうこれはダンス・コンサートだな、と割り切れば実に楽しく観られたのでした。席も後方ながらもどセンターを買ったので、フォーメーションも美しく見え、観ていて本当に楽しかったです。映像(上田大樹)もうるさすぎなくてよかったですしね。楽曲のキーや編曲やアレンジは宝塚版とそんなに大きく違わない印象でしたが、より『1789』感を感じました。スケールが大きい感じ、ドラマチックな感じが、同じ作曲家だしやはり共通していますよね。振付は圧倒的にカッコよくなっていたと思います。
 そんなわけで観劇としてはなかなか楽しめたのですが、芝居としては納得できなかったし、物語、ドラマとしてはなんかヘンだった、というのが私の印象です。
 でも平日夜でも満席だったし、客入りがいいのはひとつの正解でもあるのでしょうから、まあいいのかな…私は引き続き自分が納得できるアーサー王の物語という聖杯を探し続けたいと思います。



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初春歌舞伎公演 通し狂言『遠山桜天保日記』

2023年01月25日 | 観劇記/タイトルた行
 国立劇場大劇場、2023年1月22日12時。

 江戸木挽町の芝居小屋・河原崎屋の楽屋で笛方と鳴物師が喧嘩を始めて大騒ぎになる。すると唄方の芳村金四郎こと遠山金四郎(尾上菊五郎)が仲裁に入った。気っ風が良くてみなに慕われる金四郎の諫めに騒ぎは収まるが、そこへ遠山家家老の箕浦甚兵衛(板東楽善)が来訪し、金四郎に北町奉行就任の奉書を届ける…
 作/竹柴其水、監修/尾上菊五郎、補綴/国立劇場文芸研究会。1893年初演の「遠山政談もの」の代表作のひとつ。2008年に歌舞伎として半世紀ぶりにアレンジ上演、その十四年ぶりの再演。今年十月に建て替えを控える初代国立劇場のさよなら公演のひとつ。

 序幕、大詰合わせて全六幕、三回の休憩込み四時間でたっぷりのんびりなんでもアリで送る痛快娯楽作で、楽しく観ました。
 国立劇場は仕事でお堀端をタクシーで走るときなんかにずっと見かけてきましたし、お隣のホテルにはお茶会なんかで何度も行きましたが、演目的にご縁がありませんでした。が、ここ数年私がちょっと歌舞伎づいてきたのと、建て替えとなると劇場として見てみたくて、いそいそとチケットを取ってみました。
 ロビーは広く、売店やお土産物屋さん、幕間に予約して食事ができるレストランやお弁当などが持ち込める無料休憩所がたくさんあり、優雅で心地良く、ベンチも多く配されてトイレも改装されているのか綺麗で、なんの問題もないハコじゃん、と思いました。が、楽屋や舞台機構などの中がいろいろアレなのかな? 客席も、歌舞伎座や新橋演舞場、明治座は確かコの字型で、サイド席は椅子が斜めに振られていない、舞台が観づらい席かと思いますが、国立劇場にはサイド席がそもそもなくて、2階席からでも花道は半分かたちゃんと見えるし、舞台がとても近くて観やすい、いい劇場だと思いました。椅子も、これはちょっと男性の背の高さに合わせている気もしますがヘッドレストがちゃんとある座席で、シートも綺麗。いいところはきちんと残して建て替えられるといいなー、と思います。
 しかし六年もかかるものなのか、大変ですね…歌舞伎って意外とあちこちでやっていてホントめまぐるしいな、全部観ようと思ったら大変なんだろうな、などと思っていたところですが、それでも常打ちの小屋がしばらく使えないのはまあまあ痛手だったりするのでしょうね。でも、新劇場のお披露目にはまた出かけてみたいものです。チケット代があまり上がらないといいな…今回はかなりコスパが高いなと感じました。

 さて、で、遠山の金さんです。最近だとあがちんってことです(笑)。
 まあこういう演目の主人公あるあるなのか、最初と最後にしか出てこないような役ではあるのですが、初演では金四郎と悪役の短筒強盗・生田角太夫(尾上松緑)を初代市川左団次が二役で演じたんだそうですね。それはおもしろい趣向だと思いました。てか歌舞伎ってホントそーいうことするよね(笑)。
 今回も、若旦那が芸妓…ではなく芸事の師匠なんだけどやはりカタギではないという扱いで結婚は許されないというトンデモ差別を受ける女性ですが、ともあれ恋仲ででも別れろと言われて別れられなくて心中してでも死にきれなくて、そして悪党に転がり落ちるという(笑)、先日観た演目と展開おんなじなんですけど!?というあるあるというかあるかそんなこと!とつっこみたい楽しい展開なのですが、そこから三悪人になる仲間とのまたまさかの因縁が…というもうもう展開がたまりませんでした。世間狭すぎだろう!(笑)
「生きていたのか!」「おまえだったのか!」の連続で展開する韓ドラも真っ青のストーリーで、でも百年前も今も庶民はこーいう話が大好物ってことですよね。しょーもないけどいじらしい、人間だもの(笑)。そして最後はお祭り(初芝居、という設定ですが)、総踊り…つまりフィナーレ。ホント、やってることはいつでもどこでも変わらないんですね。
 この若旦那、尾花屋小三郎(尾上菊之助)は前回上演時も今回も続演だったそうですが、前回は角太夫の女房おもと(中村時蔵)とその娘でヒロインのおわか(中村梅枝)を時蔵さんが二役でやっていたとか、それを今回は息子とふたりで母娘を演じるとか、小三郎を慕う丁稚の辰吉(尾上丑之助)をやはり中の人の息子が子役として演じるとか、ホント卑怯というか濃いというかなんというか…そういうところも含めて、長く観て、おおらかな気持ちで楽しんでいく文化なんでしょうね。ちょっとだけわかってきた気分です。
 やはりお白洲での長袴バッサー!桜吹雪ドドン!にはアガります。人情裁きの一件落着、めでてぇなあ!ってなもんです。そして金さんは芝居禁令も解いてくれて、フィナーレ大団円となるのでした。
 プログラムのたちいりハルコのコラムにありましたが、やはり通しだとストーリーが楽しめるので素人にはとっつきやすいですよね。機会を見て引き続きちょこちょこ手を出していきたいです。





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『李香蘭』

2023年01月23日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA、2023年1月19日18時半。

 李香蘭(西内まりや)、本名・山口淑子。1920年、中華民国奉天省で日本人の両親のもとに生まれた彼女は、中国で生まれ育った日本人だった。だが13歳のとき、両親の友人であった李将軍と義理の娘として縁を結び、李香蘭という中国名を得る。その後、歌う中国人女優・李香蘭として思いがけずデビューすることになり、日中戦争時には満州映画協会の専属女優として数多くの日本映画に出演し、彼女が歌う「夜来香」や「蘇州夜曲」はアジアで大ヒットするが…
 脚本・作詞/岡本貴也、演出・振付/良知真次、作曲/鎌田雅人、振付協力/名倉加代子、総合監修/横内謙介。日中国交正常化50周年、日中平和友好条約45周年記念公演の日中合作音楽劇。全2幕。

マヌエラ』の翌日に観たので、昨日は上海、今日は満州で、日本人でない振りをする日本人女性の物語(しかもこちらには中国人でない振りをする中国人女性も出てくる…)を観るんだな…と、ちょっとおもしろかったです。ただしこちらはがっつり歌い踊るグランド・ミュージカルで、ハコはむしろ交換してもよかったかもしれない、とも思いました。でもそれだとますます後方席が寂しいことになっちゃうでしょうけれどね…入りが悪かったのは平日夜だったからと思いたいものですが、いい作品だったので残念です。
 そしてこれは中国で、北京とか上海とかで中国語で上演されたりはしないのかなあ? もちろんキャストは中国語ネイティブに変更していいかと思いますが…それとも中国ではこのヒロインの印象や扱いは日本とは違うものなのかしら、この物語とは違う語られ方をしている存在なのかしらん…力のあるオリジナル・ミュージカルだなと思えただけに、ここだけの上演は残念に感じました。
 マヌエラはもうちゃんとした成人で、芸名としてなんちゃってプロフィールごと外国人名を名乗ること、外国人になりきることを割り切っていたというか、自覚的だったと思われます。日本嫌い、軍人嫌いの彼女は楽しんで、そして進んで非日本人を演じていたところもあったことでしょう。けれど淑子はまだ子供で、流されるままに、というか単に当時の現地の風習として知人と義理の親子となり、中国名を通称として使っていただけなのに、中国を取り込みたい日本の国策に利用されてしまって…という面が強いようでした。作品としても、政治に利用される芸能、という面を意識的に扱うものでした。
 のちに帰国し議員も務めた老境…と言ってはアレかな、中年期の淑子(安寿ミラ)をヤンさんが演じていて、これが「特別出演」なんて扱いではもったいないくらいに出番あるし歌うし踊るしバイトもするしで大活躍で、かつ作品そのものが彼女が回想する若き日の物語、という構造になっていて、それもとても効いていましたが、余計に若き日の西内まりや演じる李香蘭は流され周りの利用されるままの子供、という側面が際だったんだと思います。
 でもお話が、両親の出会いみたいなところから始まるものだから、あーなってこーなってみたいなしょーもない伝記音楽劇だったらどうしよう、とか実は一瞬心配しました。でもみんながみんな歌が上手いのと、それぞれのナンバーにパワーがあるのとでどんどん惹き込まれていきました。ストレートながら華がある作品になっていたと思います。
 これが初舞台、もともとはモデルというヒロインは、一幕ラストまではむしろ影が薄く、作品は彼女の周りの人間たちがあれこれ思惑を持ち画策し動き回ることで進み、彼女だけが台風の目のように静かでむしろ透明化されている…という作りになっていて、それもまたおもしろく感じました。またすらりと背が高く頭は小さくてホントOGのような(あーちゃんみがあった気がする)美しい佇まいが、その居場所にぴったりに思えたのです。が、実は歌も芝居もダンスもちゃんと上手くて、一幕ラストに存在感を見せ始めると、二幕は俄然彼女の物語になったのでした。おもしろい!
 彼女は子供で、流されるままに、周りに進められるままにまた周りの期待に応えたいがために、李香蘭として懸命に歌い踊り笑い演技をし生きてきた…のかもしれないけれど、それでも何かがおかしいとはやはり気づいていたのです。きちんと言語化できたり、それを政治的な行動に結びつけられるかはともかく、自分が嘘をつかされていること、正しくないことをやらされていることにはちゃんと気づいていて、居心地が悪いとも正しくないとも思い、ちゃんとしたい、正したい、周りのみならず世界のすべてに正直で誠実でありたいと考えるようになったのです。それでおずおずとでも声を上げた。それが通らないことがストレスで倒れもした。彼女は必死で真実を告げようとし、正直であろうとし、けれど時の政府はそれを許さず、そして戦争が激化していって…という、これはなんとも重苦しい闘いの物語なのでした。
 二幕になると、李香蘭は中国人として捕らえられ、日本に協力した売国奴として裁判にかけられますが、そもそも日本人なんだからその罪には当たらない…というような方向で彼女の周りの人々が彼女を救おうと奔走します。でも史実や当時の記録や司法その他のこともさておき、国籍とか人種とかってなんなんだろう、とこれを観ていて改めて私たちは考えさせられるのです。名前は単なる記号だし、見た目はほぼ変わらないし、言葉がペラペラなことも何も証明しないし、両親の戸籍や出生証明書も本当は「人種」の説明にはならないのです。というか戦争で国境がいくらでも変わってしまい、なんなら帝政ロシアのように国ごとひっくり返りなくなるような時代に、国籍や○○人というくくりになんの意味があるのでしょうね? その無意味さ、理不尽さ、でもそれらをもとに裁かれる命すら奪われることがある戦争裁判…おそろしすぎました。
『マヌエラ』が彼女の踊りで物語を閉めたように、この作品では引き揚げ船でかかるラジオとそこに唱和する人々の歌、李香蘭の歌で閉められました。歌や踊りに罪はない。それが政治に利用されることは多々あれど、そもそもはもっと根源的な、ごくシンプルな思いから湧き起こり始まるもの、愛と希望と喜びと幸せの輝き、祈り…本来はそうしたものなのです。だからこそ下手したら国より、政権より長く愛され引き継がれ、残っていく…それを寿ぎ、利用する者への静かな怒りと二度とこんなことはしないさせないという誓い、明日への希望と祈りを込めて、全員が手をつないでのラインナップになだれ込むのでした。
 力強い、良き作品でした。

 川島芳子(この日は飛龍つかさ)は、私には男装の麗人というよりは現役時代まんまの男役に見えて、そしてもちろん男性キャストも出演しているので男性には見えないという、不思議なキャラクターと存在感でよかったです。バリバリ歌い踊りカッコいいので、つかさっちの今後にさらなる期待をかけたいです。
 これまた『マヌエラ』にもリューバという名の女性キャラクターがいましたが、こちらはリュバチカ(この日は玉置成実)。リュボーフィが「愛」なので、つまり「愛ちゃん」「愛子ちゃん」みたいなものなのでしょう。白系ロシア人の中国への亡命というか移民、避難も実に多かったということですよね。彼女もまた金髪のリリカルな外見に似合わぬ、力強い活躍をしてくれるのでした。とてもよかったです。玉置成実は川島芳子とこの役をダブルキャストで演じるというなかなかの離れ業、素晴らしいですね。
 男性陣もみんなよかったなー。キャラが立っていて、歌も踊りも芝居もちゃんとしていてまったくストレスがありませんでした。そしてそういえば『マヌエラ』同様、わかりやすいロマンスはないな…まあ色恋沙汰でまとめるにはこの戦争の記憶はやはり近いし重い、ということなのかもしれません。
 私は母親が昭和20年生まれなので、母の歳を数えることで戦後何年かを考えていますが、新しい戦前なんてまっぴらです、ホントずっと戦後でいいんです。憲法をまっとうできる世の中になりきっていないのに、憲法の方を変えようとか姑息すぎて卑怯すぎて人としてダメすぎます。もっと高みを目指せよ、そっちに向かって生きていこうよ。なので戦争ものはフィクションでしつこいくらいにやって、学校でもちゃんと近現代史を教えないと、若い人の知識や意識が本当に心配です。利用されるのはまずそうした人たちなんだから、それを止める義務が私たち世代には確実にありますよね。そうしたことも肝に銘じて、観劇し、感じたこと考えたことを伝え、より良く生きていきたいです。あの戦争で命を落とした人々のためにも、今も戦争で命を落としている人々のためにも。
 空に星、地には花、そして平和を。地球まるごと、私たちの故郷なのですから…






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『マヌエラ』

2023年01月21日 | 観劇記/タイトルま行
 東京建物ブリリアホール、2023年1月18日18時。

 末松妙子(珠城りょう)は東京の歌劇団で将来を嘱望されながらも、愛に生きて日本を捨て、上海に駆け落ちする。だがあえなく破局し、生きていくためにナイトクラブの踊り子になる。クラブに集まる客のダンスの相手をしながらも、ダンスへの情熱を失わない妙子は、やがてバリのムーラン・ルージュのスターで、今や上海の芸能を仕切る振付家のパスコラ(パックン)に見出され、一流クラブのショウダンサーに転身するチャンスを手にする。パスコラは妙子に、「国籍不明で美貌のスターダンサー、マヌエラ」という新たな物語を授けて売り出そうとするが、さまざまな特権を有する租界にすら戦争の魔手が迫っていて…
 脚本/鎌田敏夫、演出/千葉哲也、音楽/玉麻尚一、振付/本間憲一。全2幕のダンス・プレイ。

 お友達のおかげで3列目どセンターの席をいただいて着席したら、1列目にカメラが置かれていて、2列目には黒い布を引っ被ってしゃがんでカメラを操作するスタッフさんが入ったので、私の視界は見事に開かれて実質的な最前列となったのでした。まあやや見上げる体勢になって役者の足下とかが見えず、靴まで観たい私としてはそこは不満ではありましたが、オペラグラス要らずでよかったです。この劇場のこのあたりの席は音響的に沼と聞いていましたが、達者な役者揃いだったからかそれもまったく問題なかったです。
 ただ、芝居のタイプから言って、トラムとまでは言わないけれど新国立の小劇場とか、サイズは似た感じかもしれないけどクリエかそれこそパルコ劇場でもよかったかもしれません。ハコがブリリアだし、ポスターの感じから言っても私はもっとグランド・ミュージカルっぽい作品をイメージして行ったのですが、実際にはミュージカルではなくダンス・プレイとされていて、でもそれほどダンスがガンガン入る印象もなく、いかにも演劇らしい演劇、もっと言えば小劇場っぽい演劇だなと私は感じたからです。もっとそういう方向で売った方がもっと客入りがよかったんではないかしらん…とか思えた後方席の寂しさだったこともあり、ちょっとアレレと思いました。
 ま、私は好みでしたけれどね。ちょっと大空さんが選びそうな演目だな、とか思ったりしました。ヒロインの一代記みたいな作品では全然なく、ドラマチックな山あり谷ありのロマンス活劇でもなく、『冬霞の巴里』にあった台詞で言うなら「上海ではよくある話です」みたいな感じの群像点景物語かな、とも思ったので、それこそ『上海輪舞曲(シャンハイ・ロンド)』みたいなタイトルにしてもっとメンツ揃えてそう宣伝する、とかね…
 プログラムにそういう解説が全然ないので経緯がよくわからないのですが、これはもともとは、テレビドラマとして企画されたものなのでしょうか? それを舞台でもやることになって、それが23年前で、それがユリちゃんの退団後の初仕事だった…のかなあ? 残念ながら私は観ていません。脚本以外のその他の座組は前回公演時とは違っているんでしょうね、多分。私は千葉さんは役者としては最近はこちら、演出家としてはこちらなどを観ていますが、くわしくないなりに、千葉色に染まった舞台に仕上がっているのかな、とかも思いました。この人が司会者として出演もしている、というのがいいんですよね。これが物語のとっぱしに登場する役でもある。この回のアフタートークショーでも言っていましたが、まさしく外側と内側の枠があるタイプの芝居で、舞台もセンターに四角いステージが一段高く作られていて、それはナイトクラブのフロアやショーステージでもあるんだけれど(美術/伊藤雅子)、コロスのようでもあるダンサーたちがこのステージを降りると芝居も降りて、楽屋にいるみたいに椅子に座ってくつろいで見せたりもする、ちょっとメタな作りになっているのでした。ステージセンターに置かれてサスが当たっていた赤いリボンが巻かれた椅子が、ピアニストでやはり出演もする、みたいな男装の麗人ふうの黒燕尾の女性(磯部莉菜子)に片付けられたあと、司会者が語り始めて、この作品の印象は決定的になったと感じました。
 だから、あまりマヌエラのためとか、珠城さんのための舞台という感じもなかったように思います。それがいいことなのか悪いことなのかはよくわからないけれど…私は珠城さんのことはずっと好きだったけれど、OGになってどうかはこれから観ていかないとわからないと思っているし、今回に関してはわりと普通だなというか、特に際だった印象をあまり感じませんでした。マヌエラとしては、もっとエキセントリックでアグレッシブな役作りでもいいんじゃなかろうか、とも思いましたね。彼女が語る日本社会の息苦しさって、今にも通じる、ビンビン刺さる言葉ですごくわかるんだけれど、珠城さんのマヌエラはそれを嫌ってこんなところまで来ちゃう女性にはちょっと見えなかった気が私はしたのです。いい子ちゃんっぽい、すごく珠城さんっぽい、つまりわりとフツーで常識的でなんならちょっとおっとりしている女性に見えたので…(実は『8人の女たち』でもそう思ったのですが。これは私がファンだから余計に中の人本人に見えちゃう、ってことなのかなあ…)
 実際には別にそうまでとんがった女性ではなく、たまたま色恋がこじれて、またそのころ中国大陸の一部は「日本」だったのでそこまで外国意識がなく、なんとなく流されて船に乗って来ちゃった、みたいな程度なのかもしれませんが…そのあたりの経緯はこの物語では語られていないので、窺い知れません。軍人嫌いで、フロアで客の相手として踊るホステスのようなダンサーではなく、ひとりでステージショーを踊って金を取れるダンサーになりたがっている、というのは語られるんだけれど、実際の力量とか周りの評価がどうなのかとかがよくわからないんですよね。周りがあれこれ語るようなくだりもないし、そうバリバリ踊るシーンもないし、あっても珠城さんのダンスで説得力が出たかは謎ではある…なので私は途中からずっと、「これ、ちゃぴでやったらいいんじゃないのかなあ…」とか考えてしまいました。
「ダンス、ダンス、ダンス!」という、何度も出てくる印象的な台詞はあるけれど、そして確かにコロスのようなダンサーたちがほぼ出ずっぱりで常に何かしら踊っているんだけれど、でも舞台のダンスってそういうんじゃないじゃないですか。別にミュージカルのダンス・ナンバーみたいなのをどかんと入れろ、と言いたいわけではないんだけれど、ならいっそ作中ではマヌエラはまったく踊らない、という作り方だってありえたんじゃないのかなこのホンと演出なら…とも考えたりしました。ラストの5分半のソロダンスも、バリッとした、誰が見てもすげえ!ってなるようなアクロバティックなダンスじゃなかったので。実際のマヌエラのダンスの映像記録が残っているのかどうか知りませんが、これが彼女のプロフィールに合わせた、あるいは当時のエキゾチック好みに合わせたダンスに近く、振りとして的確なのかもしれないけれど、そしてそれが最後に花開く祈りのような希望のような踊りである、と演出されているのもわかったしうるっとしないではなかったんだけれど、でもちょっともの足りなく感じたので、ね…
 むしろその前の、妙子が和田中尉(渡辺大)に踊ろうと言って手を差し出すところの方が、私には感動的でした。嬉しかったり楽しかったりしたら身体を揺らして踊る、というのは人間が太古の昔から行っていたことで、そこにリズムや歌や音楽がすぐついて、やがてみんなで踊ったり組んで踊ったりし始めたんだと思うんですけれど、カップルで踊るペアダンスってやはりとても特殊なものだと思うのです。軍人嫌いの妙子と、バリバリの軍人の和田はずっと反発し合っていて、和田の方は踊る妙子を見て運命を感じていたわけですが妙子からしたら知ったこっちゃないし、いろいろあっても命を助けてもらっても愛とか恋とかどころか全然心が通じ合わなくて、でもここに至って、組んで踊る。片手はつないで、もう片方の手はお互いの腰に回し肩に置き、相手の思いを察して、心をひとつにして、一緒に動く、揺れる、踊る、それがペアダンスです。1、2、たくさん。ひとりで踊る、その次のこと、世界に開いていく最初の一歩。周りのみんなが組んで踊り出すさまは幸せで、平和で、夢のようでした。チェン(宮崎秋人)がパスコラをリードするホールドだったのにもキュンとしました。異性同士でも、同性同士でも、どんな組み合わせでも、仲良し同士で、愛と敬意のある者同士で、音楽に合わせて、心を沿わせて、手に手を取って、踊る。基本のキ。でも戦時下では一瞬の幻…
 うん、やはりおもしろい作品でした。重いし暗いけど。
 せっかくなのでもっと外国ルーツの出演者を集められるとなおよかったかもしれませんね。パックンの起用はとてもよかったと思いました。でもだからこそやはり、ネイティブが演じるときはコレをやっちゃダメだな、とも思いました。本当ならフランス租界で片言の英語やフランス語で話していたのは妙子の方で、これはそれを日本人が日本語で演じて日本人が観る芝居の嘘として日本語でやっているのですからね。
 しかし女優さんになったからには男性とのチューもあるのかしらん…などと案じるファンの気持ちを別方向に裏切る(笑)リューバ(齋藤かなこ)とのキスシーン、追っ手の目をはぐらかすために…って『AfO』かよ!ってなりましたよね(^^;)。イヤときめきました。この人がまたトップ娘役ちゃんみたいな、すらんとしたスタイルとリリカルなムードを持つ女優さんで、ここもOGもアリかなーとか思っていたら後半そんな生ぬるさではしのげない役になっていって、またすごーくよかったです。てか憎々しく恐ろしげな村岡部長の宮川浩といい、これまた紳士的なようで絶妙に胡散臭くもある杜月笙の岡田亮輔といい、みんな達者で素晴らしかったですね。アンサンブルもちゃんと役がある人が多く、厚みがありました。
「戦争も革命も、私には関係ない。私はダンサー。踊るために生まれてきた女よ」と妙子は言います。それはそう、と言いたいけれど、でも少なくとも政治から逃れて生きていける人間はいないことを、私はもう知っていますし、それはもっと知られていくべきです。国なんか関係ない、とは言ってもいい。国を移る許可が国から出ないという恐ろしい国もあるけれど、そうでないならいくら移ったっていいのですから。でも人はひとりでは生きていけない存在で、群れて集まったら社会ができて、なんらかのルールが必要になり、そこからはすべて政治になるのです。食べて寝て生きるだけでも関わってくる問題なのです。
 実際の彼女は戦争を生き抜き、戦後に帰国して、そこからも長寿をまっとうし、いろいろと思うところの多い人生だったに違いありません。でも切り取られて物語にされるのはごく若いころの、このあたりのことばかり、でしょう。そしてこういう、愛と芸術とロマンと戦争と、みたいな物語になる。それでいいのだろうか、とも考えたりします。私たち観客は物語として消費するだけでなく、ここから学び、より良く生きなければ、世界をより良くする努力を少しずつでもし続けなければ、またいつ銃弾が飛び交う日々が日常になるかもしれないと思うと気が気ではありません。
 戦争は絶対に嫌です。この国を戦争をできる国にしようとしている、憲法違反の今の政府に対する革命が必要です。武力蜂起とかではなくて、ちゃんとしたデモや、選挙で。それも立派な革命です。それが政治で、人生です。愛や喜びやダンスのために、生活を守らなくては。生命を、暮らしを守らなくては。白いドレスで踊られる、祈りのようなダンスに心打たれ拝んでいるだけではなく。戦わなくては、おかしいことには声を上げなくては。踊れる世をのちの世代に引き継ぐために。私には子供がいないけれど、だからって自分の死んだあとは野となれ山となれなんて思っていません。そう思っていそうな爺さんたちにばかり任せておけないのです。BADDYみたいに蹴散らしていかないと…
 そんなことも考えさせられた観劇となりました。






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