駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『マリー・アントワネット』

2021年02月11日 | 観劇記/タイトルま行
 シアターオーブ、2021年2月8日17時。

 18世紀末のフランス。国王ルイ16世(原田優一)統治の下、国家は財政難に陥っていた。それにもかかわらず上流階級の貴族たちはいまだ豪奢な生活を送り、飢えと貧困に苦しむ民衆たちの王室への不満はふくれあがっていた。パリのバレ・ロワイヤルでは、オルレアン公(この日は上原理生)が主催する豪華な舞踏会が開かれている。圧倒的な美しさを誇る王妃マリー・アントワネット(この日は笹本玲奈)は、スウェーデン貴族フェルセン伯爵(この日は田代万里生)と再会する。そこへ、舞踏会に忍び込んできた貧しい少女マルグリット・アルノー(この日はソニン)が突然現れる。MAという同じイニシャルを持ちながら、正反対の環境で生きるふたりの女性が出会った瞬間だった…
 脚本・歌詞/ミヒャエル・クンツェ、音楽・編曲/シルヴェスター・リーヴァイ、演出/ロバート・ヨハンソン、翻訳・訳詞/竜真知子、音楽監督/甲斐正人、振付/ジェイミー・マクダニエル。遠藤周作『王妃マリー・アントワネット』を原作に、2006年に東宝が「帝劇から世界へ」と銘打って初演したミュージカルで、2009年ドイツ、14年韓国、15年・16年にハンガリーで上演されブラッシュアップがされ続け、18年に日本で改訂版を上演したものの再演。全2幕。

 『パレード』もそうだったのですけれど、初演のときにはなんとなく食指が動かず、再演と聞いて「再演されるくらい良作なんだったら観ようかな」とチケット取りに動きました。実際には製作費回収のためとかで2年後くらいの再演というところまではあらかじめ折り込み済みなのかもしれませんが、でもこのご時勢の中で上演できるだけすごいし、上演してくれるだけでありがたいことです。初日直前くらいに取ってもまだまあまあの良席が買えたところがせつなかったですが…でも、健全ではあるかもしれません。それでも空席はぼつぼつとあり、来られなかった人も多いのだろうなと思うとそれもまたせつなかったです。あ、私はマリーハナフサをミュージカル女優としてあまり買っていなくて、ソニンは好きなのでこの組み合わせを取りましたが、花ちゃん回は満席だったよとかならそれはそれで申し訳ありませんです…チケットが売れることはいいことです。
 さてしかし、そんなわけで初演からだいぶいろいろな変遷を経てきた作品ではあるようですが、もっともっと手を入れられるだろう、てかまだまだ脚本が弱くて全然できてないじゃんこの作品、というのが率直な感想でした。楽曲は素晴らしく役者の歌唱もみな素晴らしく、音の圧に当てられ酔いしれ楽しめただけに、またゴージャスなお衣装(衣裳/生澤美子)も八百屋の盆の装置含め豪華なセット(美術/松井るみ)もシオティーの指揮(指揮/塩田明弘)による生オケも十分に堪能できただけに、肝心のお話がこれかーい!てか、なってなーい!!と私には思えたのでした。毎度、感激感涙大感動だった方にはすみません…
 遠藤周作の『王妃~』を私も昔読んだ記憶はあるのですが、中身は覚えていません…『ベルばら』以上のものはなかったんじゃないかな? というかマルグリットのアイディアってこの小説にあったものなんですか?
 てかそもそもマリー・アントワネットのイニシャルってMAじゃなくない? 彼女の名字は結婚前はド・ロレーヌ・オートリッシュで(私のこのあたりの知識は何もかも池田理代子『ベルサイユのばら』によっています)、結婚後はド・ブルボンなのかな? とにかく、イニシャルってファーストネームとセカンドネームの頭文字で作るものではないのでは? 西洋の風習にくわしくないので、よくわかりませんが…少なくともマルグリットの「アルノー」は名字でしょう? そこがすでにバランス崩れてるってのは、どうなの?
 あと、なので私はこの作品の正式タイトルは『MA(エムエー)』だとずっと思っていたんですけれど、会場についてプログラムを買って初めてくらいに『マリー・アントワネット』だということに気づきました(発券したチケットの日時や会場以外の文面をよく見なかったので…)。MAってのはこの舞台の単なるロゴマークみたいなものだったんですね。でも、ラインナップでは最後にマリー役者がひとりで登場し、その前がマルグリット役者でしたが、あとはずっとふたりセットでいました。カテコに出てきても常にふたり一緒で、マリーはフェルセンに、マルグリットはオルレアンにエスコートされてハケる。なので、ダブル主演というかダブルヒロインというか、対等なキャラクターとされているんじゃないの? もちろん、『メアリー・スチュアート』もタイトルロールはメアリーだけどメアリーとエリザベスがダブルヒロインのような、なんならエリザベスの方が主役っぽい作品でしたが、それと比べるとこのマルグリットにはあまりにドラマがない、と私は感じました。マリーと対比される民衆側の架空の女性キャラクターとして、例えばロザリーやジャンヌほどには描けていません。なら、『ベルばら』からオスカルのパートだけ抜いてやればよかったんじゃないの? あれこそマリーの物語です。今、マリーについても『ベルばら』以上のものが描けているとは思えません。ましてマルグリットは同格のキャラとしてもそうでないとしても、全然描けていない。本当は、「女を入れると会議が長引く」みたいな森発言とかが飛び出しちゃうような今だからこそ、現代日本でやるからこそ、マリーとマルグリットを通して描けるものがもっともっとあるはずなのに。なのにこんなあいまいで漠然とした脚本で、こんな豪華な座組がもったいないよ…と歯噛みしながら観てしまいました。
 本当は、ストーリーとテーマこそが作品の命なんだと思うんです。でも、この作品は何を描きたいのかが、私には中途半端に見えました。
 マリーの人生を描きたかったのだとしたら、彼女の魅力を上手く描けていないと思いました。ハナから浅はかでしょーもない女に描いているようにしか見えませんでした。それじゃ観客は彼女のことをいいな、好きだな、応援したいなと思えないし、そのあと彼女が目覚めようが運命に凜々しく立ち向かおうが、感動できません。それじゃダメで、観客がもっと彼女に対して親身になれるように、好感を持つように、私もこうかもしれないなと思うくらいに彼女をチャーミングに、良く描いてあげなければならないのではないでしょうか。
 彼女はたまたまオーストリア皇女に生まれついちゃっただけの、私たちと変わらないごく平凡で善良な女で、明るくて優しくて朗らかでお茶目で、それが陰謀渦巻く宮廷の貴族社会の中では浮いちゃって陰で馬鹿にされる原因になっちゃっただけで、人を信じやすくて騙されやすいのも欠点とは言いきれなくて本当なら美点のはずで、家族と友達を愛し自分にできる小さな幸せを見つけて楽しむいじらしく可愛らしい人で、それが庶民のどれだけの犠牲の上に成り立つものなのか思い至らなかったことは確かに不勉強だったし国民を愛し守るべき王妃としては愚かでふさわしくなかったんだけど、なんせフツーの女だったんだししょうがないんですよ、私たちだってうっかりこんなふうに生まれついたらこうなっちゃいますよ、そんな上手く政略結婚に対応して良き妻良き国母良き王妃良き君主になんてそうそうなれませんよ…と観客に思わせるように作ってほしいのです。そう描けるエピソードもチャンスも多々あるのに、そうなってない。そこがもったいないのです。フェルセンが説教するくだりなんかも逆効果になっていると思います。マリーの愚かさが際立つだけだし、フェルセンは愛する女のことを全然理解してくれない、心ない男にしか見えません。ランバル公爵夫人(彩乃かなみ)もあいまいなキャラで、ただの享楽的な女友達かと思っていたら後半急に信心深げに歌ったり教会に行こうとして殺されたりしていて、「えっ、そういうキャラだったの?」と思っちゃいましたよ。神に関して描くつもりなら、このあたりももっとやりようがあったでしょうよ…
 フツーの女、しかもフツーよりはちょっと美人でちょっと勉強が嫌いな、そんなわけでフツーよりちょっとやっかいな、でも明らかに私たちみたいなただの女がこんな家に生まれちゃって、国の都合で幼くして結婚させられて世継ぎを産むことばかり期待されて周りからやいやいうるさく言われて、そりゃささやかな贅沢や恋くらいしちゃうっつーの、って感じの空気をもっと上手く作らないと、この作品は響かないと思います。それでも「わがまますぎない? この立場になったんだからわきまえろよ」って視点が出ちゃうのが世知辛い現代なのだとも思うので。『エリザベート』のシシィの「鳥のように自由に生きたい」みたいなのも、人として不変の想いだと捉えるか、この立場の人にふさわしくないワガママだと捉えるかはかなり別れるところなわけで、でもこの作品ではこのキャラのこの心情に肩入れしてもらいたいんです、って意図があるのならやり過ぎなくらいにそう描かないとダメなんですよ。その意味でたとえば『ベルばら』の演出を全然越えられていません。なので、なら『ベルばら』やれよ、って言いたくなっちゃうわけです。
 マルグリットという、同じイニシャルだけど正反対の境遇の女を出すことでマリーを描く、というのなら、ふたりの似ているところと違うところの描写をもっと突き詰めなければダメでしょう。てか異母姉妹ってさすがに無理がありませんかね? ウィーンでマリア・テレジア女帝の夫やってる男にパリで私生児作る暇なんかありますかね? でもそこはあえて目をつぶって、同じ父親を持つ同じ歳の、でも全然違う境遇に育った女ふたり、とするのはおもしろいと思うので、だったらもっともっと描き込みたいですよね。
 たとえばマリーが天真爛漫でおてんばで勉強嫌いな少女だったのだから、マルグリットはおとなしくて引っ込み思案ででも本を読むのが大好きな勉強熱心な少女、にするとかね。父親はたまにしか顔を見せないけれどお金も出してくれるし本も送ってくれる、だから母娘は貧しいながらもなんとか暮らしていて、マルグリットはもっと勉強したい、もっと世界を見たいと思って育ち、やがて啓蒙思想に目を開かされていき、自由や平等というものを欲するようになる、とかね。けれど父が死んだのか送金が絶え、母が病を得て生活は一気に苦しくなる、とかね。マリーが政略結婚をさせられたのだから、逆にマルグリットは幼馴染みの仲良しとラブラブの結婚をするんでもいい。でも飢饉で生活が苦しくなり仕事も干されて夫は酒に溺れるようになり、暴力を振るい、子供からすら食べ物を取り上げるような男になっていって、マリーの長男ルイ・ジョセフと同じ年に生まれたマルグリットの子供は飢えで死んでしまう、とかね。それでマルグリットは変わる、革命の闘士として立ち上がる。のちに監獄でマルグリットがマリーの娘や次男を見たときに、「あなたにもお子さんがいるの?」「いたよ、生きていればあんたの死んだ長男と同い歳だ」と語り合う、とかね…
 でも、マルグリットをキャラとして立てることがなかなか難しいのはわかります。暴徒の先頭に立つ女、ってやっぱ怖いですもん。プログラムに「私の憤りが、いつか世界を変える」とあって、それはわかるんですね。怒りとか憤りが大事、ってのは最近でも、しつこいですが森発言に瞬時に怒って性差別だと訴え反発するような力が必要とされていることからもわかるのです。でも、それが暴動につながるというのはやはり男性的だと思うんですよね。これもある種の性差別に当たるかもしれませんが、でも、女はどうしても本能的に暴力を回避しようとするものだと思うのです。今のような、貴族を倒せ、王妃を殺せ、とわめき叫ぶマルグリットは、気持ちはわかるんだけれども観客の支持は得られない、という存在になっちゃっていると思います。また、復讐の対象としてマリーの命を狙う、というのも違う気がします。そんなことをしても死んだ長男は帰らないし、民衆の飢えた腹が満たされるわけでもないからです。観客には復讐の虚しさがわかっているので、やはりそういうマルグリットには同調しづらい。
 でも、同じ人間なのに、同じ父を持つ同じ歳の女なのに、こんなのは理不尽だ、人間は平等であるべきだ、等しく幸福になる権利があるはずだ…と怒り、嘆き、憤るマルグリット、という流れは作れるはずです。それで観客の共感を呼ぶようなキャラにするためには、彼女はもっと高邁な理想を、理念を、思想を、ある種の綺麗事を訴える人間にすればいいと思うんですよ。今、たとえば『1789』にあるような、人権宣言みたいなことを言うキャラクターが全然いないじゃないですか、この作品には。歌詞にもそういう部分が全然ないんですよね。貴族の浪費と傲慢に民衆がキレて騒ぐ、というだけで、自由や平等を求める革命の理念みたいなものが熱く語られるようなくだりは全然ないのです。だからそれをマルグリットにやらせるといいと思うのですよ。ロベスピエール(青山航士)が今はなんかいるだけみたいなキャラになっちゃってるので、他の作品とかで闇落ちする以前の彼が言いそうな青い理想をマルグリットが言えばいいと思うのです。死んだ子供の復讐がしたいのではなく、貴族を懲らしめたいのでもない、人はみな自由で平等であるべきだ、だから今のこの社会を変えたい、だからみんなで立ち上がろう、と熱く訴えるくだりを作ればいい。それは観客の心にも響くでしょう、現在なお達成されていない人類の課題だからです。
 そしてそんなマルグリットが、今のように、オルレアンそしてジャック・エベール(この日は上山竜治)たち、理想や思想のためより目先の小金や自分の権力に目をくらませている男たちに利用される…とすると、よりドラマチックになるのではないかしらん。その場合、マルグリットは彼らのどちらかに惚れちゃってもいいのかもしれません。女性キャラクターだと色恋沙汰を作らないとドラマにならない、ってのもまた性差別的ですが、でも色恋ってものすごく大きなファクターです。人間の情動の原因となるものの大きなひとつです。ここでさらに性差別的なことを言うのはどうかと思うのですが、私は男が「勝ちたい」と思うのと同じくらい女が「愛されたい」と思うことは強く激しい欲求だと考えているので、そしてマリーが「愛する女」として描かれているので、マルグリットにもそういう面があってもいいのではないかな、と思ったのです。少なくとも今、あまりに何もなくてただ怒ってるだけみたいになっちゃってるので、人間味がなくてつまらないし、空っぽで寂しいキャラになっちゃってると思うんですよね。
 フェルセンがすごく紳士的で、マルグリットを人間扱い、貴婦人扱いするところなんか、いいなと思ったんですよね。それでマルグリットはちょっとほろりと絆されてもいいと思うんです、なおさらマリーに妬いちゃうとかでもいいでしょう。とにかくなんでもいいからマルグリットの心が動く様子がもっと欲しいわけです、それがドラマになるのですから。
 マルグリットがエベールかオルレアンをちょっと好きになって、でも利用されただけで裏切られた、というような恋愛展開じゃないなら、恨みを持つ展開でもいいかな。ロザリーのパクリに近いけど、たとえば夫が死んだのはオルレアンのせいだとかで、密かに復讐の機会を探している、とかね。それで彼らに協力し、民衆の先頭に立つ振りをして、エベールとオルレアンの契約書をそっと盗んでおくマルグリット…とかね。それとも、惚れるのはフェルセンに対してで、でも彼は貴族で雲の上の人間みたいなものだし王妃の恋人だ、この想いが届くわけはない、でもせめて身分が対等なら友達くらいにはなれたかもしれない、やはり生まれながらに身分や階級が決まってしまうなんておかしい、こんな世の中は変えよう…と同志エベールたちと立ち上がる、でもいいかもしれません。
 これまたいいなと思いつつ物語として未消化だなと感じたエピソードは、マルグリットが立ち上がろうと演説をぶっても、女たちは目先の賃金が欲しくて洗濯に勤しんで耳も貸さない、というくだりです。そうですよね、理想や思想では腹は膨れない、彼女たちにとっては革命運動に身を投じるなんざ贅沢なことで、ただ家族に今日食べさせるもののことしか考えられないのです。だからマルグリットがどんなに理想を語っても、彼女たちは動かない。でも、オルレアンがギャラを出すからデモれと言うと、彼女たちは飛びつくんですよ。そして行進を始める。マルグリットは呆然として最後をついていく…
 すごく、わかるんですよね。さもありなん、とも思う。でもこれって、マルグリットが負けたってことでしょ? オルレアンが金の力を使ってずるく立ち回って勝ちをさらったってことじゃないですか。いやオルレアンはマルグリットに「先頭に立て、行進を率いろ」と勝ちを譲るようなことを言いますよ? でも実際のマルグリットは出遅れて、最後尾を行く形になっているじゃないですか。オルレアンは彼女を、女たちのパワーを利用しているだけで、自分は体よく陰に隠れて、民衆が国王たちを引きずり下ろすのを待っている。マルグリットたちは矢面に立たされて利用されているにすぎないんです。ここに高邁な理想なんか全然ない。観ていて、なんの救いもなくただ醜い現実が突きつけられただけの場面になっていて、私は鼻白みましたね。でもこの視点は『ベルばら』にはなかった。だからどうせなら生かしたい。
 だからここは明らかにマルグリットが負けて、しかもそれを悔しがる場面にすべきなんじゃないでしょうか。彼女は人々に理想のために立ち上がってほしかったのに、彼らはそれでは動かず、金をチラつかされて動いた。それでは利用されているだけだ、オルレアンは民衆の味方なんかじゃない、自分がルイの代わりに王座に就きたいだけの権勢欲の塊みたいなチンケな男だ、騙されるな、行っちゃダメだ…マルグリットがそう叫んでも誰も耳を貸さない、人々はいつしか暴徒化して王宮へ進軍してしまう。暴力では何も解決できないのに、と打ちひしがれるマルグリット…
 革命は進み、国王一家は監獄に移送され、マルグリットはスパイとして世話係になり、その日々の中でマリーが意外とただのフツーの女であること、家庭の外に恋人を持ってはいたけれど意外に良き妻良き母親であり、父に教わった懐かしい子守歌を歌う、自分の異母姉妹かもしれない女であることに気づく。この人を処刑してもなんの意味もないんじゃなかろうか、最愛の恋人に最後に一目合わせてあげてもいいんじゃなかろうかと思うようになる…とかね。
 けれど革命はさらに凶暴化して貴族を端から断頭台に送り、マリーもついに処刑されてしまう。オルレアンやエベールは我が世の春とばかり天狗になっている。だからマルグリットは彼らの秘密の契約書を持ち出して彼らを告発する。自由や平等といった理念をホントは屁とも思わず、ただ自分がのし上がったりいい思いをしたかっただけの男たちを正義の名の下に引きずり下ろす。その時点ではまだヒーロー方だったロベスピエールは、正しい判決を下すでしょう。
 それでも革命はまだ道半ばで、そもそも女性は未だ二級市民扱いです。真の自由、平等、友愛の世は遠い。それでもそれを目指したい、とマルグリットが歌い出し、そこへ霊魂となったマリーも加わって全員で歌うラストの「どうすれば世界は」は、問題が据え置きのまま持ち越されている現代に生きる我々観客の胸に、深く響いてくるのではないでしょうか。女が主役で、主に女が多く観る現代日本のミュージカルの舞台で、これなら訴えるに足るテーマになり、それを紡ぐストーリーになるのではないでしょうか。どうすれば世界は変えられるの?と歌い上げられて終わる、オチのない、宿題を観客に押しつける作品。かんばらなくては、彼女たちの遺志を継いで自分たちが世界を正しく、豊かに変えていかなければ…と思わせられる作品に、こういう流れでなら、できたんじゃないのかなあ。そういうものが、私は観たかったなあ…

 さて、久々に観た笹本玲奈ちゃんは歌が上手くて可愛くて、とても素敵でした。演技が上手いのかどうかは、なんせこの作品の中でのマリー像が私にはよくわからなかったので、ちょっと判断ができませんでしたが。
 そしてこういう役はお手のものだよね、というソニンも素晴らしかった。だからこそ、ただオルレアンやエベールの掌で転がされていただけに見えかねないマルグリット像なんかじゃなくて、もっと理想と信念に生きて傷つき戦う熱く激しい演技が見たかったなー。
 田代くんは王子さま、上原さんは楽しげな悪役で、いずれもよかったです。とにかく出てくる人みんな歌が上手いので、耳が喜ぶったらありませんでした。ミホコの歌も良かっただけに、意味不明だったことが残念です。ユミコも良かったけれど、なんならあのキャラはいらなかったよね…貴族を利用し調子に乗らせてその下で小ずるく稼ぐ小悪党、という存在意義は、マリーの純粋さと他の貴族の傲慢さとがもっときちんと描かれてこそ生きてくるものだと思うので、今は不発です。
 ルイ、ギヨタン(朝隈濯朗)、ラ・モット夫人(家塚敦子)もそれぞれ良かった。子役も泣かせてくれました。
 そうだ、大ラスはマリー・テレーズ(この日は石倉雫)で締めてもいいな、とも思ったのでした。マリーの娘、のちにオーストリアへ逃れ、もちろん苦難もありつつも天寿をまっとうしたと言ってもいい女性。そうやって女は血をつなぎ遺志をつないでいく、私たちもまた…と観客に思わせる流れとして、です。

 再度手直しして、コロナの収まった世界で、またヨーロッパへそしてアメリカへ(アメリカではマリーはあまりウケないのかしら…)進出していけたらいいのになあ、と思います。あとはこれくらいの作曲家が日本人でも出てきてほしい。舞台の基本はまずは脚本だけれど、ミュージカルにするなら楽曲がもちろん大事ですからね。
 輸入過多どころかほぼほぼ輸入一本槍の日本のミュージカルですが、漫画だアニメだ2.5だってどんどん海外進出しているんだから、戯曲が続けないはずはないんですよね。がんばっていただきたいものです。海外公演を追っかけて旅行できる日々が、早くまた来ますように…



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