駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇月組『Anna Karenina』

2019年01月16日 | 観劇記/タイトルあ行
 宝塚バウホール、20年1月12日14時半。

 19世紀後半ロシア。母(五峰亜季)の出迎えのためにモスクワ駅にやってきた青年将校アレクセイ・ヴィロンスキー(美弥えりか)は、美貌の貴婦人アンナ・カレーニナ(海乃美月)と出会い、一瞬で心奪われる。アンナもまた、魅力的で洗練されたヴィロンスキーに惹かれていくのを抑えることができなかった。社交界の華と謳われ、政府高官であるアレクセイ・カレーニン(月城かなと)の貞淑な妻として平穏に生きてきたアンナは、ヴィロンスキーの激しく真摯な求愛を受け、内に秘めていた情熱的な自我が目覚めていくのを感じるが…
 原作/レフ・トルイトイ、脚本・演出/植田景子、作曲・編曲/吉田優子、甲斐正人。2001年雪組初演、2008年星組WSで再演されたミュージカルの三演。

 外部だとたとえばこちらとかこちらを観ているのですが、実は宝塚版は映像でしか観たことがありません。でも大好きな作品です。景子先生の傑作のひとつだと思っています。『舞姫』(これも生では観ていないのですが)なんかもそうですが、古典に近いような近代小説の舞台化、ミュージカル化がとても上手いですよね。このあたりの文芸作品の美意識や恋愛観、人生観なんかに景子先生は共感しているのでしょう。時代とともにだんだんとウケなくなっていってしまう価値観なのかもしれませんが、私も好きです。恋や情熱を美しいものと見る感性、恋こそ正義、けれど幸福に直結するとは限らない、むしろ悲劇に終わることが多い…そんな物語を私は愛しているのです。自分が恋愛体質ではないから、破滅体質ではないからなおさら、なのかなあ。憧れるというか、人間たるものあれるのであればそうありたい、と願う叶わない思いというか。でもなかなかそうはできない、と歯噛みするところまでセットで、ドラマを味わい尽くせる気がしています。
 今回も、美しさに泣きました。お話としては、もちろん筋はわかっているし、かわいそうにと思ってはらはら泣くというタイプの作品とはちょっと違うかなと思っていたので(たとえば私はヴィロンスキーとかホント卑怯でしょうもない、ザッツ「男」なキャラクターだぜ、ケッ胸くそ悪い、とか思っていますしね。それに引きずられて破滅するアンナを哀れんで、ヴィロンスキーへの怒りに震えて泣く、ならありえます)、自分でも意外でした。でもそれは、ああ、これがみやちゃんとくらげちゃんの集大成なのかもしれないな、次の本公演で卒業しちゃうのかもしれないな…と思ってしまうほどの壮絶な美しさ、緊密な芝居、集中具合に胸打たれた部分が大きかったのでした。そして残念ながらそうなった方がもろもろ美しいのではないか、とかも考えてしまいました。ファンの方々にはすみません。もちろん全然そうならないことも普通にありえると思ってはいます…

 みやちゃんが再演時にカレーニンがやりたくてオーディションに挑んで…というのはわりと有名なエピソードかと思います。当時、かなり背伸びして演じていたのかもしれませんが、映像で見てもちゃんとしていましたよね。
 美貌で、小柄だけれど低い声の持ち主で、男役としての資質にとても恵まれたスターさんだと思います。私個人はこういうタイプの美形にはあまり興味がないので、好きでも嫌いでもないのですが、珠城さんのトップ就任に関して、上級生二番手スターという微妙な立場にもかかわらず、とても優しく気を遣いトップだけでなく組全体のサポートをしているであろう様子に、本当に性格がいいんだろうな人間的に素敵な人なんだろうなと思わせられました。
 どこか場所が空くなら、トップスターにさせてあげたい。またなんの問題もなく務まるでしょう。けれどではどこが空く?というだけの問題で、そしてそういう運に恵まれずにトップにならずに辞めていく番手スターももちろん過去にもたくさんいたわけで…でもトップスターの歴史に残らなくても、代表作や当たり役があってファンの記憶に今も残るスターという方もたくさんいますし、逆にトップになっても作品運が悪くてなんだったの?なスターもいたわけで…こればかりはなんとも、ですよねえ。
 ともあれ、みやちゃんの今回のヴィロンスキーは当たり役のひとつになったと言って問題ないと思います。発表当時は、一度は若手のWS演目になったこともあってもう少し若い役者の方が…と思わなくもありませんでしたが、言い方がアレですがちょっとトウが立ったヴィロンスキーというものもまた正しいな、と思わされたのです。ヴィロンスキーは愚かな男ですが、それは若さゆえのものではなく、大人なのになお愚かな、まさしくただの男なのである、とした方が、物語として正しいのではないかなとも思わせられたからです。
 美貌で、伯爵の地位を持ち、軍人としても優秀で、財産も潤沢にあるのでしょう。そしてスティーバ(光月るう。こういう役がまた絶妙に上手い!)とアンナが似ているように彼と母親も実はよく似ていて、母の言うような貴族社会での生き方を彼は決してできないわけではないんですよ。その程度の器用さも酷薄さも彼は充分に持っている。ただ、それだけじゃつまんないな、なんかないかなとか思っている。それを愚かと言うのです。そこに、アンナが居合わせてしまった…
 ヴィロンスキーが、ただ愛のために何もかも捨てて生きたい、僕にはそれができるとかぬかすのは、彼がなんでも持っているからです。でもアンナは違う。名字も、息子も、家屋敷も家財道具も衣服も財産も、みんな夫のものなのです。美人で貞淑だという評判も周りが勝手にもたらすもので、彼女自身の持つものとは言いがたい。彼女は本当に身ひとつの、なんの所有もさせてもらえない存在なのです。当時のこの社会の女性には、父親か夫の庇護のもとにしか居場所がなかったのです。
 そういう相手にそうでない者が一方的に求愛するなんて全然対等じゃないし本当に乱暴なことで、それこそ死刑宣告に等しく、許されざることなんですよ。優しさも配慮も何もない。
 でも、舞踏会でマズルカを誘うために跪いてアンナの手を取るヴィロンスキーの美しさに、というかそれを満を持して美しく色っぽくいやらしく傲慢にしかし真摯に情熱的にやってみせる美弥るりかに、「あかん許すしかない。てかコレ孕むマジあかん」と白旗上げました私。
 ヴィロンスキーという男の愚かさ、鼻持ちならなさ、卑怯さは、タカラジェンヌが美しく演じることでしか購われません。『春の雪』の清さまと一緒で、美しくなければ許されない、成立しない役です。それを痛感した一瞬でした。オールバックを踏襲せず、やや現代的に揺らしたウェービーな前髪も罪深い。みやちゃんが出会うべくして出会った役でした。
 だから、たとえば、次の本公演でご卒業となったとしても、それはそれで悔いはないのではあるまいか…とまで考えてしまった、ということです。もちろんファンにとっては悔いがないなんてことはない、というのも承知してはいるのですが…

 さて、そんな美しくも強引で情熱的な男、これに堕ちなきゃ女じゃない。これはそんな物語です。
 それでもアンナは、カレーニンに追及されて、夫と愛の話をしようとしました。アンナは夫を愛していたからです。もっときちんと愛させてほしかったし、愛してもらいたかったのです。それがたとえめくるめくような情熱的なものではなかったとしても。
 でもカレーニンは、ヴィロンスキーとはまた違う意味で卑怯な男だから、自信のない分野からは逃げるわけです。彼はあんなにまっすぐ応えません。世間体とか体裁とか道徳の話ばかりする。もちろんそこには彼が孤児の育ちであり、愛を知らずに育ったのであろうことや、そこから勉学だけはがんばって政府高官の地位を得て、ずっと人に誹られぬよう侮られぬよう自分を律して必死に正しく生きてきたのであろうことなどの理由がのちに語られるのだけれど、とにかくこの夫婦はあまりにもコミュニケーションを怠ってきたので、もはや話が通じないわけです。だからアンナは、走り出したら何もかも失うまで止められないとわかっていても、走り出してしまうしかなかった。そしてこの何もかも、の中には、生命そのものも入っていたのです。
 産後の肥立ちの悪さに心痛が重なって…という状態は一度はカレーニンの理解と許しで回復したけれど、二度はなかった。彼女は自殺します。でもヴィロンスキーの自殺は未遂に終わる。職業軍人が自殺をミスるとか笑えます。ホント臆病で卑怯。死にたくなかったからに決まっていますよね。しかもアンナのためを思って会わずに去ることもできない、しない。ホント潔くなさすぎて怒りに震えます。会ったら火が点いちゃうのはわかっているのに。しかもイタリアで新生活を打ち立てることもできない、しない。腑抜けすぎます。戻れるはずなんかないのに、戻っても居場所なんかないに決まっているのに。失うものが多すぎるのはアンナの方だけだとわかっているはずなのに。
 オペラハウスにアンナが着て行った気合いの赤のドレスは、誰が選んだものなのでしょうね…
 アンナが死んで、ヴィロンスキーがすべきはセビリア戦線に死にに行くことなんかではなく、なんちゃらのお嬢さんと結婚してアーニャを引き取り育て、彼女やセリョージャ(蘭世惠翔)や、コスチャ(夢奈瑠音)とキティ(きよら羽龍)に生まれる子供たちがより望むように、幸せに生きられる新しい世の中を作ることですよ。それがアンナの供養ですよ。でなければむしろ、母親やベッツィ(美穂圭子)やナスターシャ(夏風季々)が望むように、この貴族社会に殉じて生きて、世の変わらなさに奉じることですよ。
 でもヴィロンスキーはどちらもできない、しない。自決すらできずに戦地に死にに行く。戦争の方がいい迷惑ですよそんな利用のされ方しちゃあ。どんだけ卑怯なんだヴィロンスキー!
 でも最後に彼の前に現れる、やっと「裸足のアンナ」になったアンナのくらげちゃんのダンスがまたまた凄絶に美しいので、許すしかないか…と私は泣いたのでした。これしかなかったか、これでいいんだと当のアンナが言っているのだから…とただただ、泣けたのでした。
 くらげちゃんは私にはやっぱり地味に見えたし、まひるとかまりもとかの明るくまっすぐでややウェットでとにかく情熱的なアンナ像が好みだったので、ちょっと辛気くさく見えるなーとか自分に酔ってるように見えるなーとかカマトトっぽく見えるなーとかいろいろ引っかかりはしたのですが、なんせダンスが素晴らしくて、このアンナもありだなと思わせられました。
 で、やはり美しすぎるように見えたので、ああ、次で一緒に辞めちゃうのかしら、と思ってしまったわけです。新公ヒロインも別箱ヒロインもこれくらいの回数やって、それでトップにならなかった娘役スターさんなんてそれこそたくさんいますからね。トップスター以上にタイミングの問題があるし、そこに相手役さんとの相性も関わってくるんだから、それはもう誰のせいというものではありません。ご本人が満足して卒業できることを祈っています。トップになろうとなるまいと、みんないつかは卒業するのですから…
 フィナーレのデュエダンのアンナのお衣装が赤で、オペラハウスの場面のドレスを思い起こさせ、また情熱的な真実の姿のアンナ、みたいなものも思わせてそれはそれは美しく、とてもよかったです。けれどラインナップがまた黒のドレス、というのもいい。この黒は決して地味ではないのです。ドリィ(楓ゆき)に赤を譲って自分は黒を着たけれど、凝った装飾があってとてもシックでエレガントなドレスで、ちゃんと勝負服なんですよね。だってアンナはヴィロンスキーも舞踏会に来ることを知っていたのですから、そこは自分が一番綺麗に見えるものを着ていきますよ、それが女ってものですよ。その最初のドレス(最初の出会いはコート姿でしたからね)こそが一番、それをラインナップでまた着るくらげちゃん…まぶしかったです。
 というか景子先生の美意識が全体に冴え渡り、実に素晴らしい舞台でした。
 ドラマシティくらいまでならこの緊密さは保てたと思いますが、バウがベストサイズと言えば言えるかな。せめてもう倍くらい公演期間があればねえ…観られて幸いでした。

 れいこちゃんカレーニンには私はもっと背伸び感を感じるかなとか心配していたのですが、『ラスパ』も経てさらに芝居が上手くなりましたよね。完全に杞憂でした。私がこのキャラクターを大好きすぎるというのもあるけれど、本当にキュンキュンしたし、アンナとの話の通じ合わなさには「そういう言い方じゃ伝わらないんだってアリョーシャ!」と心の中で叫び続けでした。ヴィロンスキーもカレーニンも同じアレクセイなのに、アンナは夫を愛称では呼ばないんですもん、私が代わりにナンボでも呼んであげますがな!てなもんです。
 フィナーレの男役群舞のセンターの色っぽさもたまりませんでした。ホント、スターとしての風格が出てきたと思います。
 もしみやちゃんが卒業して、ちなつが再び組替えして来ても、普通にれいこちゃんが正二番手に昇格するものだと思うんだけどなあ…同期のれいちゃんもまこっちゃんもすでに立派に務めているわけですし、劇団はこの期を揃えて上げたいんでしょうからね。でもちなっちゃんはれいちゃんの時代になっても別格スターとして花組にいてくれた方がいいのではと思うのですが、どうなんでししょう…最近ではきぃちゃんとかキキちゃんとか、組替えは基本的には栄転ですが二度目となると特にトップ直結人事であることが多いものだしそうであるべきだと私は考えているのですが(キキちゃんには未だ確約はありませんが)、はたして今回の人事の意図はどのあたりにあるのでしょうね…???

 コスチャも私は大好きなキャラクターであたりまえですがキーパーソンのひとりなのですが、るねっこにはもう一押し、前に出て欲しかったかなー。なんかもえことかに近いものを感じるというか、あまり私が私がってタイプじゃないんだろうけどスターとしてはちょっともどかしい弱さを感じたので。歌ももう一押しパンチが欲しい! 
 キティの話題の研1おはねちゃん、お化粧はまだまだでしたが確かに普通に芝居ができて歌は上手い! 怖いもの知らずなだけかもしれませんがクソ舞台度胸だけではなかなかこれはできないと思いますよ、期待のニューフェイスです! 首とデコルテが美しいのも素晴らしい。月組にはホントいい娘役ちゃんが配属されるなあ…!

 圭子姉さんはあまり変わらないしこういうお役はお手のものなんだけど(というか同じ役だし)、マユミさんがいい感じに口角が下がって貫禄が出てきていかにもな中年女性になっていて、お役にぴったりでした。
 ひびきちのキティパパも素晴らしく、キティママの清華蘭ちゃんがまた、この役も良かったんだけどサロンの嫌味な夫人が絶妙に上手くて、こういう派手顔美人の正しい起用法…!と奮えました。
 意外な出世役と言われる(笑)セルプホフスコイ(英かおと)も、もう少しパンチが欲しかったかなー。でもその恋人のナスターシャはとても良かった! こんな役あったっけ?というくらいの印象だったんですけれど、コスチャとキティのカップルがヴィロンスキーとアンナのカップルと対照的なように、セルプホフスコイとナスターシャのカップルもまたその位置にあるんですよね。私はラストのベッツィのシメ台詞をナスターシャに言わせるアップデートもありなのかもしれない、とかもちょっと考えました。ベッツィが言うのと、次の世代を担うナスターシャが言うのとでは意味が違って聞こえてくると思うのです。結局はその後滅んで今はないロシア貴族社会なのだけれど、中の人たちはそのことにどれだけ自覚的だったのだろうか…というのは、今上演して今に生きる人間が観るからこそ、ちょっと考えていい視点なのかもしれません。
 たんちゃんやアンヌシカ(香咲蘭)は手堅い。ぎりぎりや蘭尚樹くんもさすが目を惹きました。せれんくんの医者が美形だったなあ。

 個人的に気になったのは、こういういわゆる「不倫もの」のときはわりとたいていそうなのだけれど、主要人物に共感できないとか、恋に夢中になりすぎて周りが見えなさすぎではとかの、わりと否定的な、ちょっとピューリタン的にも思える感想を意外に多く聞くことです。なんか世の中の全体的な空気として、世知辛くなっているというかしょっぱくなっているというかロマンがなくなっているというか生真面目すぎるというかつまんなくなっているというか、なのかなあ? でもお話なんだからいいじゃん、とか私は思ってしまうし、現実に自分ではなかなかこうはできないからこそ、でも憧れないではない生き方だからこそ、舞台や映画や小説や漫画で見られると楽しい…ってのがあるんじゃないのかなあ?とか思うんですけれどね。それともみんなホントに「こんな生き方、1ミリたりとも憧れたりしません」とか言うのかなあ?
 恋こそすべて、恋こそ正義…みたいなのってある意味正しいし、動物的なパッション含めとても自然であたりまえなことだと思うんだけどなあ。もっと明るく肯定されていいと思うんですよね。
 そしてこの物語はそんな色恋以上に、「世間や社会に抑圧されて人が自由に生きられない、まっとうに幸せになれない不合理、つらさ」を描いているものだと思うので、それで古びないんじゃないかと思うんですよね。
 もちろん人が完全に自由気ままに生きようとしたら無人島へでも行くしかないわけで、でもおそらく人間は群れて暮らさないと生きていけない非力な生き物で、だから社会も形成されるしそこにはルールも生まれるわけですが、社会の成熟がすぎるとちょっと無意味にも思えるルールが増えすぎちゃったりするし、お互い抑圧しすぎがんじがらめになりすぎて誰のためにもなっていなかったりする。そのしわ寄せは特に女に来ます。本来男女は対等で平等に扱われるべきなのに、古今東西たいていの社会でそうはなってこなかったからです。
 この時代のロシア貴族社会でも、男に許されることと女に許されることは違っていました。男に望まれることと女に望まれることも。ただ愛し愛されたいという、人として生き物としてごく根源的なシンプルな望みを、女だけが叶えさせてもらえなかったりする。
 今もなお状況は大きく変わっていないと言えます。この物語が神話のような寓話のような、本当にこんなことがありえたのかねと思われるような、平等で公平で差別のない世の中はいつか訪れるのでしょうか…多分、ない。だからこそこの物語は不朽で、永遠なのだと思います。




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細川展裕『演劇プロデューサーという仕事』(小学館)

2019年01月04日 | 乱読記/書名あ行
 第三舞台や劇団☆新感線のプロデューサーをしていた(している?)著者の自伝。鴻上尚史との対談、いのうえひでのり・古田新太との鼎談も収録。

 演劇のプロデュースや制作の仕事を解説したり指南するものではなくて、あくまでほぼたまたまそうやって生きてきたと言う著者の自伝なのですが、おもしろくてほぼ一気読みしてしまいました。ちなみに私は舞台ファンとしては第三舞台も新感線もあまり観ていない方で、でも作品のタイトルくらいは知っているし役者の名前も当時のブームも(ブームは今なお、ですが)知っているので、「へー」とか「さもありなん」とか思えて、楽しく読めたのです。
 チケット代金と客席数の話は出てきますが、それ以上のお金の話は出てきません。もっと興業面のことを語ってもいい気もしますが、それは専門的すぎるとかおもしろくないとか差し障りがあると判断したのかもしれません。劇評が演目や役者しか対象としていない、興業としての側面を批評するものはほぼない、と指摘されているのは確かにそのとおりだと思いましたし、それは片手落ち(今この表現が問題とされているのは知っていますが他にいい言葉を思いつかなかったのでここはあえて。すみません)だとも思いました。だからこそもっとそのあたりを語ってもらいたかった、読んでみたかった気がします。学生演劇がスタートだろうと、お給料が出る、それで食べていける、というのは大事なことですし、劇団は役者だけでなく裏方さん、スタッフさんの技こそが大事であり新感線はそこも素晴らしいのだ、みたいな主張はもっとあってもいいのかなと思ったのです。でもそれこそ著者は俺が俺がと表に出たがるようなタイプの人ではないのだろうし、才能ある脚本家や演出家、役者が友達にいたので、制作面を引き受けた、それができた…というだけのことだと自分の仕事のことをまとめているのかもしれません。今は半引退なようなそうではないような…な状態のようですが、十歳ほど年上であることや両親の看取りの問題などもなかなかに人ごとではなく、そういう意味でもおもしろく読みました。先達の言葉は響きます。エンターテインメントって何か、といったことについても。
 また、劇評について、褒めるかスルーするかにしてくれ、という訴えもなかなかおもしろく感じました。私は評論家ではないし、このブログに書き付けているものはあくまで自分のための備忘録であり、もし読んでくれる人があるとすればそれはその舞台を観た人(ないし書いた人)を想定しているつもりだったのだけれど、この人は「劇評の多くは検証不可能」「観劇できなかった人にとって、劇評を正しく評価する手段はありません」「劇評は言いっ放しになりかねません」という危惧を抱いているのですね。これは「先生方」に「芸術」扱いされなかったことを憤っているのとはまた違う問題かとも思いましたが、何かトラブルがあったのでしょうか…ここまで売れてくればそれこそが評価であり、そうなればむしろ意味があるのは苦言の方だと思うのだけれど、どうなんでしょう?
 演劇のことは好きだけれど演目や脚本の中身に細かく口を出すことはしない、というスタンスの人なだけに、外野がまことしやかにあれこれ言うのが嫌なのかもししれませんね。
「人生は、飲み会・納税・墓参り!」というのは、わかるようなわからないような、です。遊んで、働いて、先祖を大事にする、というのは言われればそのとおりかなと思いますが、三つ目は「恩返し」みたいな言葉に替えたいなと思わなくもないですし、そういうオリジナルの座右の銘を作るためにがんばって生きていくのが人生だ、ということなら私はまだまだ甘ちゃん、駆け出し、素人なのかもしれません。
 そんなこともいろいろ考えさせられた、いい本でした。




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今年もお世話になりました!&来年の抱負!!

2018年12月30日 | 日記
 今年の観劇回数は144回でした。去年より微減、ほぼ一昨年並みかな。近年で最多観劇回数だったのは2015年でしたが、まあほぼほぼ平均していると思います。
 8割が宝塚歌劇、その8割が宙組だったかと思います。ホントは外部ももっと観たいんだけどなー。とりあえず宝塚歌劇に関してはおかげさまで今年も全演目が観劇できました(DSやタカスペなどのイベント系を除く)、なので満足です。

 仕事は、去年異動したので油断していたら今年は大きな担当業務替えがあって、夏以降はバタバタしましたねー。体重と体脂肪を記録するだけのダイエットアプリを使っているのですが、夏まで横ばいで8月以降が完全に右肩上がりなんですよ。わかりやすいストレス過食…さすがに業務には慣れましたが、本質的には向いているとは思えないことをやっているので、この先はちょっと悩みますね。来年は異動はないと思うけれど、その先、異動希望を出すかどうか、出すならどこへ行って何をやるのか、やれるのか…定年までのカウントダウンもあるので、そろそろ真面目に考えないと、とは思っています。
 ともあれ健康で元気に過ごせたことには感謝しています。ただ、強度の近視で眼圧が高いため緑内障の疑いがあるということで、ここ5、6年ずっと半年に一度くらい視野検査を受けていて、ずっと経過観察という診断だったのについに、左目だけ目薬にしましょうと言われてしまいました。緑内障は治らないので点眼で進行を遅くするしかなく、つきあっていくしかない病気です。私にはアンドレばりにまだまだ見たいものがあるので、きちんとやっていきたいと思っています。副作用でまつげが濃くなるらしいんだけど、ホントかな!? てか左目だけって…

 プライベートでは、去年のさる出来事をやっとあちこちに漏らせたりして、まああとはお友達にも恵まれ、楽しく呑んで食べて元気に過ごせたのでいいのです。パリ旅行も台湾旅行も観劇絡みではあったけれど、楽しく行けました。感謝です。

 そして来年はいよいよ50歳になる年です。人生折り返し地点です!(笑)人生100年時代だと思っていますからね、宝塚歌劇150周年を杖ついてでも観に行く気満々ですからね! アラン・ショレふうに言うと残暑を終えて実りの秋に突入!ってなところです(笑)。なので何かメモリアルなこともしたいと思っていますし、とりあえず三大目標を立ててみました。
 ひとつめは、社交ダンス教室通いの再開。一昨年の異動で仕事の忙しさのレベルが変わって足が遠のいてしまい、また行くとなってもまた入会金を支払うところから始めないとダメかなとも思いますが、そしてなんか全部忘れた気がするしまた初心者クラスからかと思うのですが、とにかく一生の趣味としてもう少しやりたいんですよねえ。えいやっ!と時間を作って再開したいと思っています。
 ふたつめはひとり旅。遠征や出張を別にすれば、純粋な意味でのひとりでの旅行というものをしたことが私はないのです。わりと同行者に頼っていろいろやってもらいがち、というのもある。でももういいオトナなんですから、一度くらいひとりで何もかもがんばってみたいと思っています。
 第一候補はヴェネチア。私はイタリアはフィレンツェとミラノしか行ったことがなくて、ローマとヴェネチアにもいずれ行きたいと思っていて、しかもヴェネチアは沈む前に行かないと、とか思っているわけです。3泊5日のパリ弾丸旅行がけっこうなんとかなって楽しかったことに味をしめているので、行ける気がするんですよね。観光や美術館やカフェやごはんをマイペースに進めまくるのは楽しい気がします。
 次点は香港。返還されてから行っていないのです。あとは、アジアンリゾートはひとりだと退屈しそうな気がしますが、ハノイはちょっと興味あります。ホーチミンが楽しかった記憶があるので。
 さてどこなら休めるかな…
 そしてみっつめは、ややしょっぱいですが、終活第一弾とは言わないまでも、ちょっといろいろまとめて、とりあえず母親と親友に預けておこうかな、実家に関しては逆に預かってもおこうかな、とか考えています。たとえば預金通帳やハンコをどこに閉まってあるかとか、そもそもどこに預金口座があるのかとか暗証番号とか、あるいはこうしたサイトのパスワードとか、そういうもののことです。何かで倒れたら、車に轢かれでもしたら、テロに遭ったりしたら、と明日のことはわからないわけで。両親もありがたくもピンピンしているのですが、どこに何をどうしているのかとか聞いておかないとな、弟と共有しておかないとな、とかちょっと真面目に考えるのです。
 とりあえず、ツイッターに12時間現れないことは海外旅行の飛行機とか寝だめとかでありえると思うのですが、24時間いないとなったら何かあったと思っていただけると嬉しいです(^^;)。まさかのときには、ここの更新とかも誰かにどうしかしてもらわないと、とかね…最後の一筆とかを用意しておいた方がいいのかしらん。
 孤独死云々と言われても、配偶者がいようが子孫がいようが人はひとりで自分の死を死ぬのです。だからそれはいい。ただ後始末とか、逆に長患いすることになったときの対処は、ある程度しておかないとな、とは考えているということです。
 そういうようなことも、来年のうちには一度ちゃんと考えてみて、何かしら支度したいと思っています。

 ともあれ、来年もよろしくお願いいたします。みなさまも良いお年をお迎えくださいませ。



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宮崎駿『風の谷のナウシカ』(徳間書店アニメージュコミックス全7巻)

2018年12月30日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名ま行
 巨大文明滅亡後1000年、人類はわずかに残された居住可能な土地に点在していた。そんな中のひとつ、「風の谷」のナウシカは、ある日腐海で王蟲の抜け殻に出会うのだが…

 アニメ版の方は中学生くらいのときから何度も何度も見ていると思います。原作漫画の最終巻の刊行は奥付によれば1995年のようですが、私が愛蔵しているのは2001年発行のものなので、そのころに揃えたのでしょう。来年歌舞伎になるというので久々に見て号泣し、再読してまた号泣しました。愛蔵コミックスとして記事を立てていないことに気づいたので、今さら書いています。
 しかしアニメ版は原作漫画のごく序盤を、かつかなり単純化して仕立てているのですが、これはこれで本当に素晴らしいなと思います。今なお古びていない動きや演出もそうですし、絵の持つパワーも素晴らしい。そして戦争の愚かさについてなどのモチーフは、残念ながら今なお刺さるのでした。
 原作漫画はさらに複雑で深遠で、また漫画としては残念ながらやや稚拙というかわかりづらいせいもあって、読む人を選ぶタイプの作品かもしれません。けれどやっていることは意外とまっとうな、というか言ってしまえばよくあるSFなんですよね。主人公が少女であることやクシャナが女性であることには、実はあまり意味がありすぎることはない。そこもなんとはなしに私には好ましいです。ナウシカはオーマの「母」になったりしていますが、そこにもヒロインに必要以上の「母性」みたいなものは強要されていない。ナウシカの行動はあくまで人間としての責任感によるものに見えます。そしてこの作品で作家が描きたかったことはあくまで、文明がいかに愚かになりえるかとか、それでも生命は尊く自由であり制御されたり制限されるべきでない、あくまで自律の中でより良く進化できるはずのものなのだ、文明はそれを信じられず統制しようとした瞬間に堕ちた神になるのだ、というわりと単純なテーマかな、と思うのです。聖少女が世界を救う、みたいな話ではない。そこがいい。
 もちろん人類が進化しそびれそして滅びてしまっても、自然も地球も何も困らない。存在し続けるし銀河は回転し宇宙は膨張し続け、すべて世はこともなしなのです。でも私たちはこうした作品からいろいろなことが学べるはずなのです。たとえばここで描かれている戦争の愚かさ、悲惨さです。黄昏のこの世界で、国と国はもはや土地や富の取り合いをしているのではなく、奴隷にする人民、国民にする人間を取り合っている。次の世代を産み育て国を存続させる人間がもはや足りていない世界で、小さないじましい争いを続けているその愚かさに、あきれかえる他ありません。私たちは共存する優しさと賢さを手に入れなければならないのです。けれどそれが全然達成されていないからこそ、まだまだ読み継がれるべき作品なのでしょう。そして舞台化でもなんでもして、広く知られていくべき作品なのです。
 デジタルアニメとか実写化とかには向かない作品だと思うので、舞台化、しかも歌舞伎というのはなかなかにおもしろいかもしれません。楽しみです!

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麻生みこと『そこをなんとか』(白泉社花とゆめコミックススペシャル全15巻)

2018年12月29日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名あ行
 弁護士は儲かる! そんな考えから成績ギリギリで弁護士になった改世楽子。しかしその年の司法試験には大量の合格者で、就職にあぶれてしまった楽子は零細事務所に押しかけ就職!? そこには嫌味でデキる先輩弁護士・東海林がいて…新米弁護士の奮闘記。

 隔月刊誌(連載当初はまだ月刊誌だったかな?)「メロディ」にて11年に及んだ連載でしたが、楽しく読んできました。
 理屈っぽい人間なので、法律とかそういう理屈が通ったりでも通らなかったりする法廷ものというかリーガルものというかが昔から大好きなのです。一話完結で、本筋が進む話もあれば本当に事件や裁判メインの話もあり、らっこが活躍することもあれば騙されることも失敗することも描かれる、いい作品でした。菅原先生や久保田さん、中道先生や赤星くんといったキャラクターの置かれ方もとても上手かったです。
 で、もちろんらっこと東海林先生のラブコメとして読んだわけですが、後半は本当に「この赤星君をどうフるの!?」と心配で心配で…なんせらっこがザルなので酒の上での不埒なんてネタは使えないし、赤星くんだって意外と(オイ)誠実というか真面目というか気弱というかプライド高いというか、要するにらっこに本当の意味では愛されていない、必要とされていないことがわかっちゃってるから踏み込めない、でもあきらめきれない、という事態が長く続いたわけで…
 で、結果、まさしくその「長く」続いた「時間」が解決してしまったわけです。最終巻は厚く最終エピソードも長く最終裁判にも時間がかかったわけですが、その時間の長さに恋の情熱は耐えられなかったのです。こんなに会わないですむのなら残りの人生も一緒でなくてもやっていけるってことですもんね。赤星くんは愛よりプライドを取ったのかもしれませんが、それでも正解だったと思います。中道先生が言うほど彼は誰でもいいわけじゃなくて、意外に面倒な男だとは思いますがしかしこういう男が得意な女もいるものなので、赤星くんのことはやはり心配にはなりません(ヒドい)。でも東海林先生は心配だもんね。
 東海林先生は正しく「私のメガネくん」でした。好き…! ラブコメと言いつつラブ以前みたいなもので、らっことはチューもしてなきゃ手も握っていません。でも愛があるのは充分にわかる。からの、ラストのあの台詞ですよあの見開きですよダブルミーニング最高! 上手い!! 犬の肉球以上にときめいた!!!(笑)今どき男が女の頭ポンポンするなんて(まあ「ぐりぐり」だけど)、ってのはあるんだけどこれはソレと違うってのも充分わかるじゃないですか! だからこそ素晴らしいわけですよ!!
 菅原先生と久保田さんの松本ライフとか、ちみちみ番外編が描かれるといいなとも思いますが、とりあえず綺麗に完結してよかったです。大満足で愛蔵するのでした。


 
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