駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

コマーシャの博多旅日記~あの人に会わなければ、銀河を越えて冬を越えて~

2019年02月25日 | 澄輝日記
 私の初めての博多座遠征は2009年、大空さんのプレお披露目『大江山花伝/Apasionado!!Ⅱ』のときでした。じゅ、十年前…!? まさに一昔…! 勇気を奮い起こしてスタッフさんに声をかけ、入会案内をもらったのも良き思い出です。
 そこから私のヅカオタ人生第二期が始まったのですが(正しくは『太王四神記』東京公演マイ初日、かな)、思えば今の贔屓の初博多座出演演目でもあったのですねえ。奇遇さと縁の深さにクラクラします。
 このときは1回しか観劇しない日帰りでしたが、駅や空港からのアクセスの良さや周辺グルメが楽しいことはすぐわかったので、以後はなるべく泊まって遊べるよう算段して、何度も何度も通ってきました。
 ただ今回は、演目が好きすぎたのと、貸切などで阻まれることがほぼなかったので、フルフルで観劇予定を入れてしまい、かつ生来せっかちでケチなものですからタイトな時間の安い便を狙いすぎて、毎回かなりドタバタしました。今回はそんなお話です。

 まずは初日合わせの初回遠征。
 博多座公演の初日楽屋入り待ちは梅芸公演などと同じでお昼前後のことが多く、本公演のように前乗りが必要なくらいの早朝ではないことはわかっていたのですが、「まあいいか」と早起きを日和ってゆっくりめの便で飛びました。このときはキャナルシティのワシントンホテルがわりと安く取れていたのですが、キャリーバッグを引いて博多座駅から歩くのがちょっとかったるかったこともあり、空港からタクってしまいました。荷物を預けて身軽になって、すっかりおなじみの川端商店街を端から端まで歩いて、気になっていたうどん屋さんでごぼ天うどんをいただいたらもうチケ出しの時間でした。
 この日は珍しく出待ちもして、共に泊まるお友達とこれまた川端商店街の焼き鳥屋さんで祝杯を上げてからチェックイン。翌朝は入り待ちのあとベローチェでした。朝はたいていここかタリーズになりますね。チェックアウトして、2日目はダブル観劇でした。大休憩のランチはまたまた川端商店街でラーメンと餃子でした(笑)。
 で、初日が15時開演だったこともあり、私はこの日の終演時間を30分早く勘違いしていました。なので取っていた飛行機は19:15発です。しかして本当の終演時刻は18:35なのでした。 羽田なら20分前に保安検査場を通っていないとおいていかれます。しかしここは福岡、15分前で大丈夫だとは思われる、少なくともそうアナウンスされている。しかし本当に間に合うのか? 地下鉄ですぐとはいえ、かなりの綱渡りだぞ!? だが焦ってもなんせ安く取った便なので、もう変更は効きません。
 そして来たのはありがたくも1階上手通路席でした。プロローグの客席降りでそらの羽根飾りに頭わさわさ撫でてもらえるお席でした(笑)。カテコがないのはもうわかっていたので、ショーの幕が下りきった瞬間に席を立って小走りで客席を抜け、次は早歩きになってフロアを抜け階段を降り一番にキャリーを引き取って博多座を出、エスカレーターをガンガン歩き降りて(いけないことですよねわかってますすみません)地下鉄のホームに出て来た電車にすぐ乗って、福岡空港駅でもエスカレーターと歩く歩道をガシガシ歩いて上って空港ビルに入って混み合うフードコートをさっさか抜けたら、なんと北保安検査場を18:55には難なく通れていました!
 もう優先搭乗が始まっているくらいでしたが、せっかちな私は最後に乗って最初に降りたい派なので前方席の搭乗グループ4。コンタクトを外してメガネになって、乾燥対策のマスクもつけてコートも脱いで丸めて物入れに納めるだけにして、ゆうゆうオンタイムで搭乗したのでした。目をつけておいたしらすくじらで一杯できなかったのは仕方ない(笑)。定刻どおりの帰京となりました。

 その次の週末はお茶会合わせで2泊の遠征でした。
 数日前から関東は雪かも、という予報が出ていましたが、まあまあ早い便の予定でしたし、前日夕方にいつもどおり搭乗口を知らせるメールも来ていたので、空港まで行く電車が遅れると嫌だから気持ち早めに起きるかねー、くらいで運行を信じきって、ぐーすか寝ました。
 で、起きたら欠航だった(笑)。
 起きぬけのパジャマ姿のまま、寒いリビングで、スマホに来ていた欠航メールを見てさらに凍りつく私…普段から新幹線派で飛行機をあまり使わないので、欠航で振り替えといった作業をしたことがほとんどなかったので、どうしたらいいのかもよくわかりませんでした。メールには払い戻しやら振り替え案内もリンクされていましたが、飛んだ先のサイトのわかりづらさにわたわたしていると、LINEの会社ヅカオタ仲間トークルームで『群盗』を観に行くという同僚も伊丹行きの便が欠航であわてていて、そこに後輩がすかさず新幹線の空席状況を返信しているのを見て、やっとアタマが回ってのぞみを抑えることを思いつきました。最低限の化粧をして身支度してすぐ家を出れば1時間後の便には乗れるのですが、まあまあ席がなく、まだあった1時間半後の便のグリーン車をまず抑えてから再度飛行機を確認すると、振り替えようにも前後は満席か欠航で夜まで振り替えようがありませんでした。のちに親友に聞いたところによれば、こういうときはまず真っ先にコードシェア便が欠航対象になるんだそうですね。私の予約していた便はまさしくそれでした…
 やはり6時間かかろうとのぞみで行くしかない。しかし今の便では開演には間に合わない…
 ところで博多まで6時間、というのは私の古いイメージで、実際には今は5時間ちょっとで着くんですね。もう一本早いのぞみに乗れれば開演には間に合いそうなので、空席が出ないか東京駅の新幹線改札前でギリギリまで粘って待ったのですがついに出ず、とはいえ自由席に並ぶ危険を冒す勇気もなく、おとなしく予約できていた便に乗りました。長丁場だし、とお金を出してグリーン車にした自分を褒めたい。乗車までに時間があった分、お弁当や飲み物やお菓子なんかまで事前にきっちり買えましたし、グリーン車もさすがに満席でしたがなんと言っても快適でした。というか全車満席でデッキにも人があふれていたようで、大変だったようでした。
 この日の観劇は友人同伴予定でした。けれど前日に花組大劇場公演初日を観た足で福岡入りしていた親友と、早くも前日に成田からの便が欠航になることがわかっていたので早朝ののぞみですでに旅立っていたお友達が先行していたので、チケットの引き取りと劇場預けは頼むことができました。
 博多駅着は15:33でした。以前『うたかたの恋/Amour de 99!!』全ツを広島で観て小倉で観て福岡で観る、みたいなことをやらかしたことがあり、そのときに新幹線と博多駅を使っていたのでなんとなく駅の作りはわかっていましたが、構内図で調べた最短ルートで地下鉄ホームに降り地下鉄車両の最後尾に乗り、中洲川端駅では2泊用のやや大きめのキャリーを持っていたにもかかわらず流れるようにエスカレーターを歩き上がり(いけないことですよねホントすみません)、博多座ロビーに預けられていたチケットを受け取りキャリーを預けると、博多座の蛍嬢は慣れたもので華麗なリレーで私をエレベーターで二階席までこれまた流れるように案内してくれ、決闘場面くらいかなーと思っていたらその全然前の、歌い踊る北の勇者たちの場面で入場できました。
 ブロックのど真ん中の席だったので、足下に荷物を置いていた通路寄りの席の方数人にお手数をおかけしましたが、どうやら完全に地元の方たちだったらしく、終演後には「どこからいらしたの? え、東京!? え、雪で欠航!? え、わざわざ新幹線で!?」となんかやたらと気さくに話しかけてくれ、かつあきれられました…遠くからわざわざ観に来る人がいることにピンときていない様子のご婦人方でした。初宝塚観劇だったのかなあ。だからお芝居の驚きの展開に「そうだったのねえ、あのときのねえ」みたいにいちいち声出して感想言っちゃったり、ショーでもいちいちどよめいていたりはしゃいだりで、耳障りだけど微笑ましくもありました。おもしろかったです。
 同伴友人には平謝りして、出待ちはサボって3人で水炊きと鳥まぶしの宴会をし、飛行機で帰京する親友を送り出して解散。初めて泊まる祇園のホテルにチェックインしましたが、壁が薄くて隣室のいびきもアラームも聞こえて、しょんぼりなお宿でした…
 翌日は11時の回を観劇してお茶会、終宴後は中州の居酒屋でお友達たちと宴会して、地下鉄の終電を逃しました(笑)。夜が早いよ博多!
 翌々日はダブル観劇して(大休憩ランチはまたまた川端商店街で海鮮丼)、この日はある程度時間に余裕のある便で帰京しました。今度は南保安検査場で、まだ工事の途中っぽかったですが飲み食いどころもあったので赤ワインとフライドポテトで一服してから搭乗し、機内でもかぼすハイボールとのり天チップスとか買っちゃいましたホント飲兵衛ですんません。アルコール分解酵素のない贔屓の代わりにせっせと呑んでいるのです…(笑)

 続いてバレンタイン日帰りダブル観劇。5時起床で羽田に向かい、オンタイムで博多について、楽屋口に差し入れしてからチケ出しへ。大休憩ランチは狙っていた川端商店街のカレー屋さんがアイドルタイムか営業していなかったので、またまたラーメン。この日は出待ちもして毎度の同期惚気も堪能し、ポイントもらって地下鉄に乗ってまたまた流れるように南保安検査場を通ったらもう優先搭乗が始まっているような、ギリギリっぷりでした。

 次の週末は出張があって博多座には行けず、ラスト遠征はもう千秋楽合わせでした。
 これまた定刻どおりスムーズに福岡空港に着いて、またまたキャナルシティのワシントン泊だったのでタクってまず荷物を預け、川端商店街を歩いて今度は例のカレー屋さんに入れてカツカレーをがっつり。15時半開演の前楽を観て、出待ちもして、帰阪する友達を見送って、川沿いのバーで軽く呑んでからチェックイン。ツインはとても広くてリッチなホテルですが、シングルルームは残念ながら狭かったです。
 翌朝、入り待ちのあとは博多ベーカリーでパンを買って帰って部屋でいただいて、チェックアウトしてタクシーで空港へ。中洲川端駅までキャリーを引いて歩いてコインロッカーがいっぱいだったら目も当てられないので、空港のコインロッカーにキャリーを預けて(こちらもラストひとつでした!)地下鉄で中洲川端に戻り、12時開演の千秋楽を観劇。出待ちの解散は17時過ぎでしたでしょうか。地下鉄で空港へ行ってキャリーをピックアップしてレストラン街で豚骨ラーメンいただいて、どらきんぐと福岡限定一番搾りを買ったらもう搭乗時間でした。18:40発の便で帰京。
 今、この記事を推敲しています(笑)。

 インフルエンザにもはしかにも罹らず、仕事もなんとかやりくりして、博多座はどこでもとても観やすいですがとんでもない神席もいただいて、冷たい手にハイタッチもできて、ソーランで大声出せて、黒燕尾の美しさに泣いて、千秋楽翌日に専科へ異動する愛ちゃんに万感の拍手ができて、千秋楽の出待ちでは次の集合日が入った特製ポケカレみたいなラミネートカードを手渡しでいただけて、幸せな3週間あまりでした。
 お茶会もホントにアットホームで楽しかったです。博多座『王家』のときも楽しかったけれど、今回も本当に何もかもが幸せでした。お友達にも周りにも恵まれました。


 では、最後にプチ澄輝日記を。
 というか例の写真集の件なんですけれど、お友達たちとはアレは「姫ではなく殿でいくべきだったろう!」ってことで意見の一致を見たんですよね(笑)。ちょっと『白鷺の城』を引きずってますけど(というか公演中にこの写真集が出ていたらもっと萌えて観られたかもしれないのに!)、布陣としてはキキちゃんのお屋形さまに、ゆりかちゃんの軍師、澄輝冠者、春瀬冠者、お屋形さまのお小姓のあきも、です(笑)。で、あっきーが「殿」と呼んでお仕えしているのはゆりかちゃんなのです。あの澄輝冠者は殿の月見の警護に就いていて、殿から「月が綺麗だな」とか声かけられても「今は曇っておりますが…」とか返事しちゃうような朴念仁なんです。キャー萌える!!! そんな澄輝冠者を「なんだかなあ…」と残念な目で見つつ、ちょっとよこしまな想いがないでもない春瀬冠者。さらにお屋形さまのお小姓なんだけれど春瀬冠者にアレコレされちゃって春瀬さんに岡惚れしている秋音さんが、そんな澄輝さんを逆恨みしちゃうんです! キャー愛憎ドロドロの白鷺の城よ!!
 …とおバカな妄想をすぐさま繰り広げられるくらいにはまかあきに飢えているので、っていうかココ本当に需要あると思っているので、火祭り程度の絡みじゃもの足りないんですもっとくれ。でも『オーシャンズ11』もそんなには望めないんだろうなあ、残念…

 ことほどさように愛が重くて申し訳ございません。でもまたホイホイお稽古待ちにも通ってしまうことでしょう。
 演目に関する感想の記事はまたゆっくりまとめますが、『黒い瞳』でマーシャがニコライを救うべくペテルブルクを目指す場面、舞台としての演出や振付も素晴らしいんだけれど、何よりキャラクターのその心情に心打たれました。とんでもない距離を、ただ愛のためだけに超えようとするマーシャ…新幹線で博多に行ったとき観た回ではボロ泣きしました。自分のことやん、と思えたからです。
 イヤ命とかかかっていないんですけれどね私はね。でも新幹線も飛行機もきちんと定時で動いてくれているのは動かしてくださっている方々のおかげ、そのおかげで私は全国あちこちほぼ隣町までちょっとお出かけ、の気分で行けるのであって、何事もあたりまえではないのです。そのことに改めて気づかされ、感謝し、ありがたく利用させていただき、しっかりお金落として経済回して、引き続き愛を捧げたいだけ捧げていきたい、と改めて思ったのでした。
 いい遠征でした。遊んでくださった方々、かまってくださった方々、ありがとうございました。すれ違いやニアミスでお会いできなかった方、残念でした。またお声がけください。

 次は初めての集合日お稽古待ちなるものをやってみる予定です。たまたま行ける日のようなので。
 あ、やっとカテゴリーも作りました。ザルなことに日記の7がふたつあることが発覚しましたし、まだまだこぼれていて拾えていないもの、移せていない記事もありそうですが、ゆるくかまえておいていただけると助かります。
 心のままに、時のかけらを拾い集めて、これからもあれこれ更新していきたいと思っています。おつきあいいただけたら嬉しいです。






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こまつ座『イーハトーボの劇列車』

2019年02月22日 | 観劇記/タイトルあ行
 紀伊國屋ホール、2019年2月20日18時半。

 詩人にして童話作家、宗教家で音楽家、科学者で農業技師、土壌改良家で造園技師、教師で社会運動家。しなやかで堅固な信念を持ち、夭逝した宮澤賢治(松田龍平)。短い生涯でトランク一杯に挫折と希望を詰め込んで、岩手から上京すること九回。そのうち転機となった四回の上京を、あの世に旅立つ亡霊たちや自ら描いた童話の世界の住人たちと共に描く。夜汽車に揺られて行き着く先は、星々がきらめく宇宙の果てか…
 作/井上ひさし、演出/長塚圭史、音楽/宇野誠一郎、阿部海太郎。1980年初演、全2幕。

 私は実は宮澤賢治を読んだことがなくて、学校で習う程度の、雨ゆじゅとてちてけんじゃとか雨ニモマケズとかどっどどどどうどとかセロ弾きとかカムパネルラとか、くらいの知識しかありません。『銀河鉄道の父』も読んだんですけれど、あまりピンとこなかった記憶…
 でも、舞台はとてもおもしろかったです。まあまあ長かったですけれどね。
 廃校のようにも見えるさびれた教室とそこに転がる椅子、みたいなものが、役者たちが舞台に上がってちょっと動かすと列車の車両になり、さらに畳を敷いてちゃぶ台を置けば下宿の茶の間になるしベッドを出せば病室になる…舞台の、お芝居の醍醐味だと思いました。
 村岡希美、土屋佑壱の上手いのにはいつも舌を巻きます。何役かをやる人のその重ねぶりにもニヤリとさせられました。
 ポスタービジュアルが良かったのも印象に残りました。
 なんとも説明しようがない作品だと思うし、私は東北生まれではなく都会というか東京への愛憎みたいなものをこんなふうには持っていない人間なのでそのあたりは感じ方が違うかもしれませんが、広く、長く受け継がれて観られていくべき作品なのだろうなとは思いました。
 物語の最後に思い残し切符が客席に向かってばらまかれるのには驚きましたが、つまりあれは何か作為や意図があって誰かに届けられるものではなくて、届くときには届けられてしまうもの、受け取ってしまうものだということなのでしょうね。私もすでに誰かの何かを受け取って生きているのかもしれません。そしてこの世を去るときに、何かを思い残して、切符に預けて旅立っていくのかもしれません。それはなんだろう、私は何を思いのこうのだろう…そんなことを、考えさせられました。


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柚木麻子『王妃の帰還』(実業之日本社文庫)

2019年02月19日 | 乱読記/書名あ行
 私立女子中等部二年生の範子は地味ながらも気の合う仲間と平和に過ごしていた。ところが、公開裁判の末にクラスのトップから陥落した滝沢さん(=王妃)を迎え入れると、グループの調和は崩壊。範子たちは穏やかな日常を取り戻すために、ある計画を企てるが…傷つきやすくてわがままで、みんながプリンセスだった時代を鮮烈に描き出すガールズ小説。

 ザッツ少女小説というか中二小説というか歴史大河ロマンというか(笑)、でとてもおもしろく読みました。いつの時代にも通じるリアリティがあると思います。女子っておそらく変わらない。
 私がこの年代の頃にはもちろんスクールカーストなんて言葉はまだありませんでしたが、グループというか派閥というかは当時ももちろんありました。そしてこの小説はこの言葉が生まれて以降に書かれたものだと思うけれど、カーストみたいな上下の話というよりは、メンバーが増えたり減ったり役割が変化したりといった、グループのドラマに私には思えました。王族、貴族、商工業者、聖職者、農民といった階層が入れ替わり立ち替わりめまぐるしく天下を取ったフランスの一時代になぞらえて…というのは私には正直ピンとこなかったけれど(でもイメージはわかりました)、古今東西似たタイプの気の合う人間がとりあえず集まる、という心理はとてもよくわかるしいたって自然なことだと思うんですよね。それが思春期はことに鮮烈になりがち、というだけのことです。
 よく男性は「女は派閥を作っていがみ合ってて怖ぇ」みたいなことを言いますが、男性だって政党を筆頭に学閥や部活動その他派閥やグループ作りが大好きなことは論を待たないと思います。ただそのルールというか空気は男女で何か違うのかもしれませんけれどね。そして男は女が自分たちにわからない何かで連帯したり楽しそうにしていたりはたまた喧嘩したりなんたりしているのが本当に気になって仕方なくて気に障って仕方ない生き物なんですよね。ママの関心がよそにあるのが嫌な赤ちゃんと一緒。だからこういうことを言ってちょっかいだしたがるんですよね。女は男の派閥のことなんか気にしちゃいませんけれどね。
 ま、そんな男女の話はともかく、だからこれは少女たちのグループの物語です。一年経って彼女たちが見違えたように強くしなやかになるように、成長すると、大人になると、そこまで同族だけで群れなくても生きていけるようになります。はたまた、全然違う相手とこそ友情を育めるようにもなる。その過程の、もろくて危なげではかなくて美しい、物語でした。

 この作家の底意地がけっこう悪いことは私は知っているつもりだったので、ラストがどう落ちるかは全然信用できなくて、だからこそラストシーンには感動して、電車の中で読みながらうるうるしてしまいました。この作品のタイトルの意味って、このシーンにこそあったのかもしれません。



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アンディ・ウィアー『アルテミス』(ハヤカワ文庫SF全2巻)

2019年02月19日 | 乱読記/書名あ行
 人類初の月面都市アルテミスは、直径500メートルのスペースに建設された5つのドームに2000人の住民が生活する。合法/非合法の品物を運ぶポーターとして暮らす女性ジャズ・バシャラは、大物実業家のトロンドから謎の仕事の依頼を受ける。それは都市の未来を左右する陰謀へとつながっていた…『火星の人』で究極状態のサバイバルを描いた作者が、舞台を月に移してハリウッド映画さながらの展開で描く第二作。

 前作とはもちろん設定が全然違いますが、ノリが一緒で楽しく読みました。
 たとえば主人公の口調というかモノローグのノリなんかも基本的に同じなんだけれど、女性となるとなんかこっちが「こんなふうかな?」と気恥ずかしくなったりざわついたりするのは、私の中にもあるジェンダーバイアスのせいかもしれません。でもやっぱり男性作家がムリして書いてる感じはなくもないかな(^^;)。
 私が前作同様一番に愛しているテイストは、結局のところこれがものすごくちゃんとした空想科学小説、である点です。低重力だとどうか、真空だとどうか、要するに地球であたりまえのことが宇宙では全然そうではなくて、気圧のことも火のことも、普段意識しないようなことに気づかされて、スリリングで、とてもおもしろいのです。こういう「宇宙の常識」があるのか、と自分も読んでいるだけでスペースノイドになれた気がする、それが醍醐味の小説です。
 前作同様映画化も決まっているそうですが、ジャズといいグギといいレネといいサンチェスといい、強くしなやかであでやかで知力胆力十分な個性派女性キャラクター揃いなので、ぜひ『オーシャンズ8』ばりに豪華キャストを並べてカッコ良くやっていただきたいものです。楽しみです!




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『チャイメリカ』

2019年02月12日 | 観劇記/タイトルた行
 世田谷パブリックシアター、2019年2月8日18時半。

 時代は現代。NYマンハッタンのギャラリーで写真展が開催されている。そこでは天安門事件をとらえたある一枚の写真が人々の目を引いている。撮影したのはアメリカ人の報道カメラマン、ジョー・スコフィールド(田中圭)。白いシャツを着て買い物袋をふたつ下げた中国人の男が、隊列を組む戦車の前に立つ、それはヒロイズムの写真である。10代の時に北京で撮影した戦車男の行方を追うジョー、彼の中国の友人ヂァン・リン(満島真之介)と兄ヂァン・ウェイ(眞島秀和)、ジョーと恋愛関係に陥るイギリス人女性テス・ケンドリック(倉科カナ)。2012年のアメリカ、1989年の中国、時代と国を行き来しながら、彼らは写真が切り取った瞬間の謎に巻き込まれていく…
 作/ルーシー・カークウッド、翻訳/小田島則子、演出/栗山民也。2013年初演の戯曲の本邦初上演。全2幕。

 不思議なタイトルだな、チャイナ・アメリカってこと? 中華系アメリカ人の話? あ、天安門事件の話なのか、へー…この写真は、見たことがあるようなないような…な程度で、それでも同じ脚本家の『チルドレン』がおもしろかったので、また田中圭と眞島秀和が出演していたので、いそいそと出かけてきました、すみません。
 私はジョーやヂァン・リンよりひとつ年上、当時大学生でした。当時の報道をまったく覚えていませんし、今でも、たとえば日本でかつて学生運動があって東大安田講堂でうんちゃら、みたいなのの大規模版で、学生デモに国家権力側が武力行使して死人が出ている非人道的かつ非民主主義的事件…という程度の認識でいるのですがそれが正解なのかもよくわかっていないような状態で、お恥ずかしい限りです。このグローバル時代の現代に生きる成人として、国際社会情勢や自国含め各国の歴史や文化に疎いだなんて許されないことですよね。不勉強を恥じました。
 でも、だからわからないとか、難しいという作品ではありませんでした。
 基本的には、ジョーが若き日に偶然撮影した戦車男のその後を追う、という形で(今までずっと追ってきたのかとかそれでそこまで成果が出なかったならムリだろうとか今急に思いついたんかい、とかは謎でしたが。でもそういう台詞や説明はあったのに、私が聞き逃しているだけかもしれませんすみません)ストーリーが進むので、彼が誰なのか、今も生きているのか、どこでどうしているのかを追うミステリーめいた展開になっていて、ついていきやすかったからです。
 一方で、その若き日のジョーが友達になったヂァン・リンの青春が語られる。そしてこれが事件のあとの顛末ではなく、少し前のものだったのだ…という、ミステリーでいうところのある種の叙述トリックみたいなアイディアがミソの作品だったのでした。
 なんせ38場もある芝居で2幕たっぷり3時間半近く、パラパラ細切れの場面が続くだけのようでもあり、でも抽象的なようで必要十分な装置が素晴らしくてストレスはないのですが、それでもこれは映像とかの方が向く芝居なのでは…? てか結局これってなんの話…? とかいろいろ考えつつ、しかし集中して観られました。
 で、アメリカ人に全然見えないんだけどこれってミスキャストなんじゃないの?とまで途中までは思えた田中圭がジョーであることが、結局は意味があったんだな、と思ったオチでした。これは別に戦車男の真実とは何か、とかそういう話ではないのです。ジョーがどれだけジャーナリストとしての自分に自負を持っているのか知りませんが、彼は真実とは全然方向違いのところをただ掘っていただけだったし、たまたま撮影したこの写真は確かに世界にある種のインパクトを与えたかもしれないけれど、それで具体的に世界の何かを変えたとかはなかったのです。そりゃ報道ってそういうものでしかないのかもしれないけれど、ならばグローバル企業に再就職しながらそれに反対する市民運動に参加して催涙スプレー浴びたりしている(しかもそれに慣れている)テスの方がよっぽど世界と直に向き合い戦っているわけです。ジョーとテスはいっときつきあい、別れ、テスはジョーの子を宿し、だからジョーはテスにプロポーズする。ナイナイナイ。ジョーのこの無責任さ(この境遇で妊娠の責任をとって結婚するという提案をすることの無責任さにまったく気づけない男の愚かさが本当に怖い…)、脳天気さ、お気楽さ、けれどそれが誠意とか優しさに見えなくもないところ、人たらしでチャラい素軽さ…愛すべき愚かな男、要するにザッツ男、そんな役に扮することができるのは今田中圭のみ!みたいなことだったんじゃないでしょうか。ああ、ならしょうがない、と降参しましたよ私。
 もちろん彼の演技は絶品です。てか出演者みんな上手い。でも芝居のタイプがけっこう違っていて、それがオール日本人で上演されてもこの作品に必要なある種の多国籍感を醸し出しているようでした。本来ならジョーは白人男性が、ヂァン・リンはアジア人男性が演じるべきで、それぞれなまった英語でしゃべったりする舞台なのでしょう。日本人が日本語でやる舞台でそれに近いことをしようとすれば、たとえばこういうことなのかもしれません。そしてその中で、とにかく普通の男を演じさせたら今田中圭に勝る存在はない、ということなのだと思います。
 倉科カナはイギリス人女性に見えました。あのしゃべり方、素晴らしいですよね! 脚本家もまたイギリス人女性であることを考えると、テスはその要素もある存在なのでしょう。すごーくよかった。今のボーイフレンドとでもあるいはひとりででも、彼女は子供をしっかり育てていくことでしょう。ジョーに連絡を取ろうとしたことは未練とか復縁希望とかでは全然なくて、単に子供は自分だけのものではないから、認知したいならさせてあげるくらいのことはすべきだと考えたからにすぎないに違いありません。女は今と未来に生きる強さがある、男はいつも過去にとらわれている。
 妻を亡くしたヂァン・リンもまた過去にとらわれている。彼は世界への抗議を続けているけれど、それは何にもなっていないしこの先も何かになることはないのでしょう。
 戦車男が手に提げているものが買い物袋だなんて発想は確かに欧米的すぎました。そんなものがこの中国にあるわけがない。ああした風呂敷、包み、そして中身が確かにふさわしい。
 そして彼は特に抗議のために戦車の前に立ちはだかったのではなく、むしろ人生を終わらせに、轢いてもらうために戦車の前に立った、のかもしれない。それはあの状況ならものすごく自然なことに思える。その後の彼の行方が結局は追えていないことを考えても。
 これはまったくのフィクションだけれど、事件はここから始まったのではなく、ここで終わっただけなのかもしれないのです。その鮮やかな転換よ! その瞬間を切り取っただけにすぎない写真に、それを見るだけの我々に、はたして本当には何ができるというのでしょう…?
 そんなことを突きつける作品だったように、思いました。
 中国とアメリカの共依存、という意味のタイトルから来るような二国間のあれこれは、これまたごく最近のことにすぎない2012年のアメリカ大統領選のことを私がこれまたうっすらとしてしか記憶していないこともあって、まったくわからないことはないけれどやはりあまりピンとくることはないままに観た気がします。でもこれがオバマ政権時代だからこそ書かれた戯曲で、今のトランプ政権下では書かれなかったろう、というのはすごくわかる気がしました。そしてそれはとても恐ろしいことです。
 日本はアメリカが大好きだけれど、アメリカは日本なんか素通りして中国しか見ていない。そして日本はアメリカを目指すはずがどんどん中国のようになっている…そんなことも考えさせられました。それもとても恐ろしいことです。
 男と女、報道と真実、とかのモチーフの他に、国と国というモチーフが確かにあるように感じる作品でした。このふたつの国はとても大きい。その間にあるごくちっぽけな島国に暮らす私たちは、その独特さ特異さをうまく生かしていかないと、いずれ吸収されるか滅びるしかない気が私はするのだけれど…私たちの未来は、どこにあるのでしょう。


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