駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

黒娜さかき『青春♂ソバット』(小学館IKKICOMIX全4巻)

2011年09月24日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名か行
 子供じゃない、大人でもない生き物…男子高校生! 清く正しい童貞・有田青年と深くこゆ~いゲイ・白洲くんの嬉し恥ずかし青春譜。

 私は端正な絵柄が好きなのですが、デッサンが確かでかつざかざかした絵、というのも嫌いじゃない。
 それで惹かれてジャケ買いしたんじゃないかな。メガネだし。

 ただ、構成というか構造はわかりづらいというか行き当たりばったりっぽいというかで不満は残りました。
 鳥羽さんが墓参りに行っているのは結局誰なの? 白洲の縁者なの? とかスルーだし。
 白洲の父親に関しても、結局どういう人間だったのかとかどういう真意だったのかとかスルーだし。白洲の感情にしてもわかりづらいし。
 私は理屈っぽい人間なので、そこらへんはクリアにしてもらいたかったかなあ。
 テーマというかオチというかも、結局ナニ?というのはある。

 ゲイの人間が同性すべてを恋愛対象にするわけじゃないんだし、だから白洲の有田とは友達でいたいという感情もわかるなと思うし、逆にノンケの有田がそれだと寂しいなと思うのもわかるのです。それがドラマだしね。
 そこが結局どうなったのか、というのがわかりづらかったのがなんとも、なあ…
 ぶっちゃけやったのかどうなのか、とかね。てかやったって何を、とかね。挿入なんて簡単にできないんだから、コキ合っただけ(失礼!)ならそんなの自慰の延長にすぎないとも言えるわけで、それでは今まで間に立ててきたハードルを越えたことになんかならないんじゃないのかなあ、とかね…
 そんな不満もありつつ、10年たっても20年たってもなんか変わらずつるんでいるらしいふたり、という最終回と番外編がほのぼのしていてニヤニヤできてつい、ま、いいかと思えてしまうのでした。

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秋山はる『オクターヴ』(講談社アフタヌーンKC全6巻)

2011年09月23日 | 乱読記/書名あ行
 「売れなかったアイドル」という過去から、好奇の目と中傷にさらされ、高校生活に自らピリオドを打った宮下雪乃。ひとりの女としてみてほしい、誰かにもとめられたい、そう願いながら孤独な日々を送る彼女の前に現れたのは、かつてミュージシャンとして活躍していたという女性、岩井節子。ふたりは距離を縮め、肌に触れ合い、恋に落ちる…

 ヒロインがイヤな女のところがいいなと思いました。
 迷っていて、悩んでいて、卑屈で、フラフラしている。
 可愛く生まれて、芸能人を目指して、それが思うような結果に進まなかったということで自信をなくしてあがいているんだろうけれど、そのウザさ、身勝手さが本当に生っぽいし、リアルで、そして色っぽい。
 ジャンルとしては百合ものなのでしょうが、どちらかと言うと青春もの、と区分けしたくなるのは、雪乃も節子もそんなに主体的にレズビアンなわけではなくて、たまたま好きになった相手が同性だった、というようにも見えるところです。
 節子には男性経験もあって、その上で女性の方が好きだな、と認識しているのですが、雪乃の関してはかなり怪しいと思う。彼女にとってはまず自分探しがあるわけで、自分に近い体の持ち主にもたれかかるほうが楽だった、ように見えるからです。
 でも別にそれが悪いことだとも思いません。異性の体ってやっぱりものすごく別物だし、だったら同性の体の方がわかりやすいですもんね。
 雪乃もそして節子も意外に悩んでいて迷っていて、泣いたり喧嘩したり、そういう意味ではごく普通の恋愛をしていきます。だからこれは決して真実の純粋なな本物の恋の物語!とかではなくて、ただのよくあるごくごく普通の恋のお話なのです。
 その当たり前さ、気負いのなさがいいな、と思います。掲載されたのも青年誌で、百合誌じゃないし。
 ごく普通の恋の話として、こういう形もあるよね、という感じが、現代的でいいなと思うのでした。


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小谷野敦『名前とは何かなぜ羽柴筑前守は筑前と関係がないのか』(青土社)

2011年09月23日 | 乱読記/書名な行
 秀吉が「羽柴筑前守」とされるのはなぜか、西郷隆盛が「隆盛」と呼ばれなかった理由、夫婦別姓問題の本当の論点とは、なぜ匿名は非難されるのか、外国人の名前の秘密…稀代の論客が名前の不思議を徹底研究。

 呼称フェチなので楽しみに読んだのですが…
 エッセイふうというか、例の羅列になってしまっていて、ルールに関する解説がないから、わかりづらく納得しづらかったかな…というのが残念でした。
 結局のところ、日本には歴史的に、家族以外では直接的に名前を呼ぶのが失礼に当たるという発想があるので、官位名を始め別名をいろいろとつけてそちらで呼んだ…ということだろうと思うのだけれど、そういう前提の説明がないので、何故名前がそんなにたくさんあるのか、ということにぴんとこないんですよね…
 まあでもいろいろと用例が知れて勉強にはなりました。
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『ロミオ&ジュリエット』

2011年09月21日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 赤坂ACTシアター、2011年9月21日マチネ。

 時代が交錯するような不可思議な空気に包まれた街ヴェローナでは、史跡を中心に街の再開発計画が進められている。だが街を治める大公(中山昇)の頭を悩ませるのは長く互いを憎むふたつの家、モンタギューとキャピュレットの争いだった。モンタギュー家のひとり息子ロミオ(この日は山崎育三郎、城田優とのダブルキャスト)は友情に厚いが孤独を好み、ひとりでいることが多い青年。キャピュレット家のひとり娘ジュリエット(昆夏美、フランク莉奈とのダブルキャスト)は複雑な家庭に育ちながら無垢で純粋な心を持つ乙女。互いの存在をふたりはまだ知らない…
 原作/ウィリアム・シェイクスピア、作/ジェラール・プレスギュルヴィック、潤色・演出/小池修一郎、振付/TETSUHARU(増田哲治)。2001年フランス初演、日本では2010年に宝塚歌劇団星組で初演、11年に雪組で続演。

 歌えるキャストが歌を朗々と聞かせてくれて、音楽劇としてとても楽しく観ました。やはり楽曲がすばらしいと改めて感じ入りました。
 逆に言うと、80人とかのキャストを使って広い舞台で踊って見せてくれた宝塚版のダンスの豪華さはなかった。
 そして、贔屓目かもしれませんが、どちらかと言うとキャストがみんな自分の歌を聞かせることに熱心になってしまっているようで、お芝居としてはブツ切りな感じがあるというか、役やキャラクターというものが確立されては見えませんでした。
 先にこちらのバージョンを観た人が宝塚版を観たら、みんなして歌がいっぱいいっぱいなのも含めて、でももっとずっと熱く深く役になりきって役として生きている熱気と一生懸命さが見えて、いじらしく思うし感動するんじゃないかなあ…と思ったりしました。
 もちろん、こちらの方が、そもそもダンサーと歌手が別だったりするオリジナルのスペクタキュルに近いのかもしれませんが…

 ダブルキャストがいくつかあるので、全キャスト見るためには何回か観ないとならないのですが、私の観劇は今回限り。
 タンポポの綿毛をフッと吹くいっくんロミオが観たくてこの回を取ったのに…宝塚の男役ではない、リアル男子がこれをやって許されるとしたら一訓だけだと思っていたのに…
 なんとタンポポを持っていなかった! 手にしていたのはスマホだったよ!!
 スマホについては後述しますが、しかし改めて、このタンポポってロミオのキャラクターを表すとてもいいアイテムだったと思うんですよね。普通の好青年なんだけれど、ちょっとメランコリーでロマンテロィストで孤独癖があるような、浮世離れしたような…
 それがないロミオは、ただの本当に普通の青年に見えて、留守電にメッセージを残す少女たちとどんな関係をつむいできたのか、何故彼女たちではダメなのか、どうも見えない気がしました…
 ああ、もったいない…

 ジュリエットはオーディションによる新人さん。昆さんは小柄でしたがとても達者でした。
 ただ歌だけ聞かせるようなキャストが多い中で、一番芝居歌を歌っているように見えました。そしてだからこそ、かもしれないけれど、その芝居は宝塚版をなぞっているだけのようにも見えた。仕草とか表情とかがすっごいでジャブでした。これももったいなかったなあ、もうひとりはどうだったのかなあ。

 ベンヴォーリオは浦井健治、まったく危なげなく堅実。でもまっつが聞かせた「狂気~服毒」のシャウトがなかった! トヨコが見せたロミオへの過剰でほとんど恋心に見えた気遣いがなかった! えええ比べすぎ?

 ティボルトは平方元基と上原理生のダブルキャスト。平方さんは上背があってキタさんティボルトより押し出しが良くて(比べすぎ?)よかったののに、歌声が明るくて拍子抜けしました…持ち味がそういう役者さんなのかもしれないけれど、ティボルトの屈託や苦悩が見えなかったよ…?

 マーキューシオは良知真次と石井一彰。石井さんが好きなのでそちらを観たかった…なんかオーラのないマーキューシオで残念。もっととんがった芝居をすべきだったのでは?

 パリスは岡田亮輔、とても軽快でよかったです。
 キャピュレット卿は石川禅、いかにも若い女に目がなさそうでよかったです。
 ロレンス神父は安崎求。なんかいつもうつむいていて、ロミオを見つめる慈愛あふれる瞳…なんてものが全然なくて、なんなのこの人?という印象だったのが残念。
 モンタギュー夫人は大鳥れい。もっと歌わせたかったなー、よくわからなかった。残念。
 モンタギュー卿はひのあらた。すらりとスマートで、キャピュレット家と違ってこちらは家庭的に円満そうな感じが出ていてよかったです。
 乳母は未来優希、期待していたわりには…かな? やはりあまりジュリエットを可愛がっているように思えず、調子のいい大人のように見えたので、「あの子はあなたを愛してる」が唐突に聞こえました。残念…

 キャピュレット夫人は涼風真世。フランス版にあって宝塚版では取り入れなかった設定として、ジュリエットは夫人の不義の子、というのがあるそうで、早々にジュリエットにそれを明かすので、娘に女として嫉妬する女、という面がより濃くなっていました。
 『あずみ』の淀君もとてもよかったけれど、カナメさんはこういう、悪女というか濃い強い意志のはっきりした女性の役の方が上手いと思います。イヤ現役時代を生で観ていないのですがね。
 子供にとっては両親の愛の元で生まれた、というのが大きなアイデンティティになるのでしょうが、実際にはどちらがいいのかなあ…不義の子とはいえ夫人は相手を愛していたとははっきり言っているわけで、そういう意味ではジュリエットは愛の下に生まれているわけですよ。ただキャピュレット卿は自分の子でないと気づきつつもジュリエットを愛して育てたようだし、ジュリエットも父親を愛し父親に懐き従って生きてきたのだろうから、ジュリエットはやはり両親が愛し合っているという幻想を欲していたのでしょうねえ…
 親の言うとおりに愛のない結婚をして、夫の浮気に悩まされ、自らもあてつけるように恋人を持ち、不義の子までなし、頼もしく育った甥に入れ上げ、美しく育った娘には金持ち男との結婚を強いる、キャピュレット夫人(彼女に名前はないのでしょうか? ガートルートのような?)。ジュリエットの実の父とは愛し合っていたようなことを言っていたけれど、なんらかの理由でその愛も終わったようであり、愛というものを知らないか信じていない、女。
 それが、最後の最後に、霊廟で並んで横たわり、手をつないだままなのに離されようとするふたりを見て、叫ぶ。
「やめて! ふたりは本当に愛し合っていたのよ!」
 …涙腺が決壊しましたよ…
 それまでは、芝居としては浅い、と思っていたのに…

 死のダンサーは中島周と大貫勇輔。中島さんは東京バレエ団のプリンシパルで、舞台に置いてその異質さ、違和感がたいそう効果的だったと思います。
 舞台役者はもちろん鍛え上げられた見られるべき体をしていますが、バレエダンサーというものの体はさらに研ぎ澄まされ作り上げられています。そのスタイル、フォルムは明らかに周囲の人間たちから浮いていて、素晴らしい。
 宝塚版にあった「愛」はいませんが、この死のダンサーはただの「死」とも言い切れない存在なのかもしれません。
 ロミオとジュリエットの初夜を空中から見つめる姿は、まがまがしくはありましたが、それでも天使のようにも見えました。
 そして最後に霊廟でふたつの家族が「エメ」を歌うとき、再び空中に舞った彼が最後に取るポーズは、十字架にかけられたイエスと同じものです。人間の贖罪を負って十字架に架けられ、愛と祈りに殉じたイエス。死もまた、和解を祝福するでもなくただ宙にあって永遠の祈りを捧げているようにも見えました…
 泣けました…

 カーテンコール、最後はロミオとジュリエットがふたりで出てきてほしかったな。ふたりともタイトルロールなんだから。男役トップスターが最後に出てくる様式美がある宝塚とは違うんだから。ま、ジュリエット役者が新人だから仕方がないのかもしれませんけれど。

 いろいろ比べて語ってしまいましたが、観ているときはそんなに気にならず楽しめました。やはりよくできた舞台だと思います。
 再演されていってもいいと思う。でも日本初演はこれじゃないよ、星組版だよ。初代ロミオはしろたんといっくんじゃないよ、チエちゃんだよ。カテコ挨拶でも言っていたしプログラムにもそんなこと書いてありましたが、そこは絶対につっこませていただきます。

 あ、スマホやフェイスブック云々はやはり不必要だったと思いました。おしまい。

***

 9月29日マチネ。

 追加で知人に誘っていただけたので、しろたんロミオと上原ティボルトが観られました。

 しろたんは長身で、ジュリエットに対してものすごくかがむのが腰悪くしそうで気の毒でしたが、びっくりするくらい幼くて可愛らしくていじらしくて、ロミオっぽくてよかったです!
 ただ、この長身は本当にデメリットの場合もあるんだなあ…モンタギューの若者チームに混じってもやっぱりひとり大きいので、そら王様扱いされるよな、って思えてしまって…
 しかし初夜のシーンで観客がみんなオペラグラスを上げるのには笑ったわ!(^^)

 ティボルトも全然よかったです、悪人声で(^^;)。
 もうひとりのジュリエットと石井マーキュが観たかったなあ…残念。
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OSK日本歌劇団『桜NIPPON踊るOSK!』

2011年09月21日 | 観劇記/タイトルさ行
 三越劇場、2011年9月16日マチネ。

 日本橋架橋100周年記念ということで、8年ぶりの東京公演。
 第一部は日舞レビュー、第二部は洋物レビュー。14名の選抜メンバーによる上演。

 三越劇場も初めてだったのですが、天井の低い、かなりクラシカルな舞台で、レビューにはちょっとアレだったかもしれませんね。
 二階席は千鳥になっていなくてちょっと観どらかったです。隣が空席だったので移ってしまった…

 OSKを観るのは初めてで、どうしても宝塚歌劇と比べて観てしまうのですが、開演アナウンスがまったく同じでちょっと笑ってしまいました。
 舞台は狭いし音楽は録音だし、装置もセットもあったものじゃないし、照明もそんなに凝れるわけではなかったでしょうが、しかし楽しんでしまいました。
 やっていることは同じなので、知らない組の小公演を観ているような感じ?
 主演の高世麻央さんは甘く優しげなムードで、歌声がもう少し男役っぽいほうが私は好みなのですが、でもこんなヤングスター宝塚にもいるよね、という感じ。
 二番手格の桐生麻耶さんは濃いタイプで、でもこういう人もいるよなーという感じ。背が高くて素敵でした。
 娘役の牧名ことりさんは娘役芸がハンパなかった。単に綺麗とか可愛いとかいうことではなく、いつでもニコニコキラキラしたオーラを放っていて、男役さんと組むときにはそれがとりわけ輝く。素晴らしい!
 続く若手枠では悠浦あやとさんがスタイルが良くて目立って見えました。
 歌手をやっていた娘役さんも良かったなあ。

 トップコンビのデュエットダンス、に当たるものがなかったのは残念。
 ラインダンスのフォーメーションの多彩さは素晴らしかったです。
 
 劇場は、関西から駆けつけたファンも多いのか、熱心な拍手が熱く、なかなか感動させられました。
 宝塚歌劇との差別化ができていないのだとすると、興行的にはなかなか難しいのではないかと思いますが、今度はぜひ関西でも観てみたいなと思いました。
 プログラムにあった公演案内やポスターもなかなか良かった。
 観にいってみてよかったです。
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