駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『CHESS IN CONCERT』

2012年01月28日 | 観劇記/タイトルた行
 青山劇場、2012年1月27日マチネ。

 イタリアのメラーノでチェスの世界選手権が開催される。時の世界チャンピオンはアメリカ合衆国のフレディ(中川晃教)、傍らにはセコンドを務めるフローレンス(安蘭けい)がいる。対戦相手はソビエト連邦のアナトリー(石井一孝)。自由奔放なフレディはフローレンスの忠告にもかかわらず記者会見でアナトリーを罵り、記者たちから非難される。フレディは天才の栄光と孤独に苦しみ、アナトリーは国家を背負ってプレイする重圧に苦しんでいたが…
 作曲/ベニー・アンダーソンネビョルン・ウルヴァース、原案・作詞/ティム・ライス、演出・訳詞・上演台本/荻田浩一、音楽監督・Piano/島健。1986年のウエスト・エンド初演に先駆けて84年にリリースしたコンセプト・アルバムが大ヒットした作品『CHESS』のコンサート版上演。

 私はオペラでもコンサート版はあまり好きではなく、できれば全部観たい派でして…これも、ちゃんとした舞台でまた観てみたいなと思いました。
 複雑な楽曲を歌いこなすプリンシパルたちは素晴らしいし、セットも素敵だし、6人で支えるコーラスも出番が多く見どころは多いです(特に役名が振られていないのですが、チェスの精霊のような、白と黒の道化ふうのお衣装のダンサー・大野幸人が出色。アナトリーの妻スヴェトラーナにも扮したAKANE LIVは2プリンシパルたちに比するとさすがに分が悪くパンチが足りなく感じたかなー)。
 でも、台詞や状況説明がわずかしかなく、ドラマ部分というか芝居部分は省かれて歌の羅列で進むので(もちろんいかにもミュージカルというダンスナンバーもない)、歌詞をきちんと聴いてキャラクターやエピソードやストーリーを類推しなくてはならない、というのがけっこうしんどいわけですよ。周りではけっこう舟漕いでいる人もいましたしね(^^;)。
 それに、二幕になると話が俄然おもしろくなったと感じたし、ラストにいたってはいろいろと思うところがあったので、ぜひきちんとした物語を把握したい、全幕版(とは言わないのかな?)が上演されるならまた観たい、と思ったのでした。

 ヒロインを巡る男性ふたりはチェスの新旧世界チャンピオンですが、これはチェスの話ではなくて、あくまで戦争とか対決とか人生とかゲームとかの比喩としてチェスは用いられているのですね。
 「この世はすべてゲーム、ルールの乱れたゲーム」という歌詞はなかなかに厳しい。ルールあってこそのゲームですが、確かに人生はルールのないゲームのように思えることもあるものです。
 「Nobody’s on nobody’s side」というのはいかにも英語的な表現ですが、どう訳すといいのだろう、「誰も誰の味方ではない」という感じ? これも怖い。人は誰かを愛し誰かのために何かを取捨選択したりしながらも、それでも自分自身の人生をひとりで生きていかなければならないものなのでしょう。

 以下、ネタバレ。
 というワケで細かい設定がよくわからなかったのですが…
 てかそもそもチェス・プレイヤーのセコンドって何するんでしょうかね? ボクサーにセコンドがつくのは知っていたけどチェスにもあるなんて知りませんでした。囲碁や将棋にはそんなものはありませんよね。どんな役目なんだろう?(ググるほどの興味はない)
 そしてフレディとフローレンスが恋仲でもあるということが記者たちに詮索されるということは、そういう関係になるのはよくないとされるようなパートナーであるということ? たとえばタレントとマネージャーのような? でも普通はそれだけ近くにいて一緒に仕事していたらそらデキるよね(^^;)。
 何がいけないこととされていて、何故ふたりの関係がオープンにできないのかがよくわからなくて、そういう意味ではつまづきました。
 アッキーはやっぱりロックテイストの歌は絶品だし素晴らしいんだけれど、上背がないのもあってやはりいつも少年のように見えてしまいます。栄光と孤独に苛まれる天才少年、という役どころで、実際にフローレンスよりも年下なのか、それがネックになっているのか、それともたまたまそう見えるだけで本当はそうではないのか…そういう点がよくわかりませんでした。
 家庭的にも恵まれた育ちをしていないようで、フローレンスの愛情はやや母性的に過ぎたものもあったようにも見え(どうしてもトウコさんがお姉さんに見えるし)、それもまた屈託の種だったのかもしれませんが。
 でもフローレンスだって幼いころハンバリー動乱で両親を失って亡命してきたりしている身の上なわけで、家族には恵まれていないはずだし、後に明らかになるように彼女は明らかに「父の娘」だったのであって、そうそう母性なんか発揮できそうにないキャラクターにも思えます。
 それからすると彼女がアナトリーに惹かれるのは、彼が年長者だったからでもあったのでしょうか。もちろん今フレディとの関係に悩んでいるので、彼とは対照的なおちつきのあるところに惹かれて、ということなのかもしれませんが…
 そしてアナトリーにはソビエトに妻子がいた。しかしフローレンスのためにそれらをすべて捨てて、亡命してしまう…
 国家を背負って戦うことの重圧も、その国家や故郷や家族すべてを捨ててまったく見知らぬ土地に移ることの重大さも、現代の我々にはぴんときづらい部分もあり、そういうところも具体的な台詞劇で観たかったかなと思いました。
 一幕はここまでですが、要するに誰にも感情移入しづらいまま、一応お話を追っていた…という感じだったわけですね、少なくとも私は。

 二幕はその一年後、今度はタイのバンコクで世界選手権が開かれる。
 世界チャンピオンはアナトリー、セコンドはフローレンス。対戦相手はソビエトのプレイヤー。そしてフレディはテレビ業界に転進していて、インタビューやリポートをする…
 アナトリーの妻スヴェトラーナも現れる。アナトリーのもとをKGBが訪れ、フローレンスの父親は生きていてシベリアにいると告げる。アナトリーが試合に負けるかソビエトに帰国すれば解放してやると言う…
 アナトリーは試合に勝ち、そしてスヴェトラーナとともにソビエトに帰ります。フローレンスを残して。
 それはフローレンスのために、フローレンスに父親を返すためにした行為かもしれません。しかし条件は、「負けるか、帰るか」でした。つまり彼は試合にわざと負けることもできたはずなのです。試合か以上に現れないという不戦敗でも、手を抜くという負け方でも、なんでも。
 でも彼はそうはしなかった。チェスに対して真剣だったのでしょう。でも何故? それは愛よりも人生よりも大切なものなの? たかがボードゲームなのに?
 ここに来て初めて、タイトルにある「チェス」には、チェスというこのゲーム、競技には大きな魅力と魔力があるのだろう、と思わせられるのですが、それがどういうものなのか何故そんなにも夢中になるものなのか、といった説明はまったくないので、形としては捨てられたことになるヒロインがかわいそうに見えてぽかんとする…というところがなくもなかったです、私は。
 フローレンスがアナトリーに父性を見ていたのだとしたら、アナトリーに去られても父親は帰ってきたわけで、それでいいということなのかもしれません。アナトリーとの恋は本物の愛ではなかったのだ、と。フレディとの恋もそうだったように。
 本物の愛はこれから訪れるのかもしれない、訪れないのかもしれない…
 ラストシーンは個々がそれぞれ立ち尽くすような、特にハッピーエンドともバッドエンドとも言えないもので、それはそれで私は嫌いではないのですが、やはり気持ちよく納得するにはもう少しキャラクターとストーリーを理解したかった。その要素が歌だけ並べられたコンサート版では私には足りなかった…ということかな、と思いました。

 もうひとりのプリンシパルは浦井健治のアービター。試合の審判でもあり、狂言回しのような役どころでもある。これも素敵でした。
 トウコさんは、二幕の白いドレスは素敵だったんだけれど、一幕の黒のパンツスーツがなんか妙にバランスが悪く見えて残念でした。
 石井さんはこういう優男が絶品だと思います(^^)。堪能しました。
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『ボニー&クライド』

2012年01月21日 | 観劇記/タイトルは行
 青山劇場、2012年2月20日マチネ。

 1930年代、大恐慌時代のアメリカ・テキサス州の田舎町。ボニー・パーカー(濱田めぐみ)はカフェで働きながらハリウッドの映画スターになることを夢見ている。そこへやってきたのが脱獄したばかりのイカした男クライド・バロウ(田代万里生)。ふたりは互いに一目見て恋に落ち、クライドはボニーに輝く未来を手に入れるプランを打ち明ける…
 作/アイヴァン・メンチェル、作曲/フランク・ワイルドホーン、作詞/ドン・ブラック、上演台本・演出/田尾下哲、訳詞/小林香。
 2011年ブロードウェイ初演の日本初演。ほぼ同時に進行したため、BW版とはかなり異なっている。

 劇団四季退団後第一作となる濱田めぐみがさすがに絶品で超キュート。パンチのある歌声も健在でのびのびと歌い聞かせ、耳福でした。
 ただ、『GOLD』でも思ったけれど、ワイルドホーン作品って結局ミュージカルというよりオペラに近い。ダンスナンバーはほとんどないしリプライズもまずないし、楽曲が多彩なのはいいんだけれど結局馴染みなくて耳滑りするものがただ並べられているように感じてしまうのです。
 そしてその楽曲が多い分話はなかなか展開しないので、冗長に感じるときがあるんですよね…オペラだとわりきって観劇すればまた違うのかも、ですが。
 ピカレスク・ロマンというよりは、まだまだただのティーンエイジャーだったふたりが、偶発的に犯罪を犯すようになった…というふうに描かれてはいますが、だからといって決して明るい話でもラブとドリームとハッピーがつまった作品でもなく、まあ観ていてなかなかしんどかったです。
 それから考えると『凍てついた明日』はがんばっていましたよね…

 クライドの兄嫁ブランチ役の白羽ゆりが美しすぎてスタイルが良すぎて震撼。歌も演技もよかったです。信仰厚い貞女、というイメージなのかもしれませんが、ごくごく普通の良識的な女性ってことですよね。そのナチュラルさが良かった。
 逆にクライドの兄バロウ(岡田浩暉)にはイライラさせられたわー。イヤそれだけキャラが立っているということなのですが。弟の金魚の糞で、自分では何もできないくせに弟にくっついて回るしょうもない甘ったれの長男坊…母親(明星真由美)が泣くよそりゃ…

 他には牧師役でゴスペルを朗々と聴かせたつのだ☆ひろがさすがでした。
 テッドはダブルキャストでこの日は藤岡正明。泣かせるバラードを聞かせてくれました。

 しかしこの「有名になりたい」という病理はなんなのでしょう。
 有名になった人はみんな、何かを成し遂げて、結果的に否応なく有名になってしまったにすぎないのに、そういうことをみんなすっ飛ばしてただ「有名になりたい」と言う若者は多いものですが…
 それで思ったのが、脱線かもしれませんが、「ザ・インタビューズ」というネットサービス?みたいなもの。
 登録すると、登録している人に匿名で質問ができる。自分のところにも、誰からされているのかはわからないけれど質問が来る。それに回答したり、自分がした質問に回答がもらえたりする、というシステムなのですが…
 見ていて、最近どうも、みんながみんなインタビュー待ちでインタビューしないらしく、回らないので、スタッフ側がごく漠然とした質問を機械的にするようになっているようなのですね。
 だって初期はプロフィールに関連した、明らかにその人に興味があってしている質問がちゃんと来ていたのに、最近来るのは誰にしてもいいような質問なんですもん。絶対おかしい。
 でも、「有名になりたい」「みんなからちやほやされたい」「インタビューされたい」って、根っこは同じなのかもしれない、とか思いました。だからインタビューしない。ただされたいだけ。
 でも「有名税」という素晴らしい造語もあるわけだし、いいことばかりじゃないし望んでなれるものでもないと思うよ…なんてことはこういう若者に言っても野暮の極みなんでしょうね…

 そうだタイトルですが、私は対等なカップルはレディファーストの精神で女性名を先に出すのが普通なのかと思っていました。フィギュアスケートとか、パートナーが先、リーダーが後だし。
 でもこのふたりは生前は、ボニーがあくまで従犯と考えられていたこともあり、「クライド&ボニー」だったんだそうですね。へえ…
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『ラ・カージュ・オ・フォール』

2012年01月21日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 日生劇場、2012年2月19日マチネ。
 南フランスのサントロペ。今宵もゲイクラブ「ラ・カージュ・オ・フォール」のネオンがともる。オーナーのジョルジュ(鹿賀丈史)とクラブの看板スター「ザザ」ことアルバン(市村正親)はこの20年間、事実上の夫婦として生活してきた。ジョルジュには24年前にたった一度の過ち(?)から生まれた最愛の息子ジャン・ミッシェル(原田優一)がいて、アルバンが母親代わりとなって育ててきたが、ある日突然結婚を宣言し…!?
 原作/ジャン・ポワレ、脚本/ハーヴェイ・ファイアスティン、作詞・作曲/ジェリー・ハーマン、翻訳/丹野郁弓、訳詞/岩谷時子・滝弘太郎・青井陽治、演出/山田和也、オリジナル振付/スコット・サーモン、振付/真島茂樹。
 原作は1973年にフランスで上演された舞台劇。1978年映画化(日本公開時のタイトルは『Mr.レディ Mr.マダム』)、1983年にミュージカル化されてトニー賞受賞。1985年日本初演。

 タイトルは「狂人の檻」の意。今で言うドラァグ・クイーンたち「カジェル」が歌い踊るショークラブの店名です。
 未見だったのですが、アンヌ役(愛原実花)のミナコ目当てで観てみることにしました。有名なミュージカルでしたしね。
 いやあ、楽しかったです。
 私には当初アルバンの演技はオーバーアクトに見えて、これは別にいつの時代の話ってこともないんだからもっと現代的にナチュラルにやるって手もあるんじゃないの?とか思ったのですが、いやいやアルバンは、というかザザはと言ってもいいけれど、性格的にこういう人というか、こういう身振り言い振りが身に染み付いてしまっている人なんだな、とわかってきました。そこが可愛くもあり、彼女(と言っておこう)らしくもあるわけですね。
 まろやかな楽曲とこなれた歌詞、リプライズが多くてすぐ覚えられて口ずさめるところ、派手で楽しいレビューシーン、どれもとてもよかったです。

 話の流れはすぐ読めるし、おちつくしころにおちつくに決まってるんだけれど、でも私には最初ジャン・ミッシェルには結婚する資格はないと思えて仕方がなく、憤ってしまいましたよ。
 その場だけのこととはいえ、のちの一生をともにしようという相手とその家族に正直になれないなんて、そんな結婚は絶対に上手くいかないし、そんな覚悟ができていない状態で結婚しようなんててんで子供のすることでとんでもない!とか、おまえはどこのおばちゃんだという感じでカリカリしてしまいましたよ。だってアルバンがあまりにかわいそうだもん。
 もちろんこの顛末を乗り越えてジャン・ミッシェルが真に結婚するに足る人間に成長する話だと見えていてもね、怒りましたよ私。
 まあそれは翻って、そもそも話を持ち出されたときに「冗談じゃない、そんなことは駄目だ」と叱り飛ばせないジョルジュに怒りの矛先がいくわけですが、これはまあイヤ男って父親ってそんなもんだよね、という情けない妥協と諦観と甘さが私にはあるのですよハハハ。
 ところでプログラムによればジョルジュとアルバンは倦怠期ということでしたが、舞台だけ観ていると私にはそんなふうに感じられなかったなあ。普通にラブラブに上手くいっているカップルだって、男は常にヘラヘラフラフラしていて女は常にイライラカリカリしているものじゃないですか? それでまあまあ上手くいっている夫婦のように私には見えて、特に危機に瀕しているようには思えませんでした。
 でもジョルジュの「砂に刻む歌」にはきゅんときました。20年も連れ添っていてお互いくたびれてきていて、でも20年積み重ねてきた時間があるからこそ、ふとしたときに出会ったときと同じコロン、同じ色のストールに気がついて、出会ったばかりの頃、恋に落ちたころの想いをすぐよみがえらせることができて、刷新してまた恋を語れる感じに、泣かされそうになってしまったのです。このふたりは確かに今も愛し合っている…
 そして一幕ラストの「ありのままの私」では流れがベタすぎて泣けなかった私の涙腺が決壊したのは、二幕の「今この時」。楽しい歌や踊りはどんな頑なな人の心も溶かす、みんなでひとつになって歌い踊れば必ず心は通じ合える…そんなことをビンビン伝えてくる場面になっていて、また粋な商売人のジャクリーヌ(香寿たつき)がダンドン議員(今井清隆)を誘い出す上手さがとても良くて…楽しい場面なのに爆泣きしました。

 そしてこの場面のオチが予測がついた私…もちろん伏線が事前に張られているのですが。
 しかしこの鬘の重用ってなんなんでしょうね? 女でも髪は短くできるし男でも長髪にできるのに、それでもやっぱり短い髪は男性性の象徴なんでしょうか? 綺麗な鬘とお衣装で歌い踊るカルジェたちは、決まってショーの最後で鬘を取り、ポマードべったりでわざとマッチョにした地毛の短髪を見せ付ける。彼らが、女性になりたいのではなく男性のまま男性を愛すゲイでいたいのだ、そういう自分を誇りに思っているのだ、ということを表しているのかもしれないし、美しすぎる女装に対するテレ隠しや本当に女性だと思い込んじゃう人相手への種明かしなのかもしれないけれど…妙に露悪的な行為でもあり、ナゾです。
 でもそれでいうとフィナーレというかカーテンコールというかパレードというか、要するにラストのキャスト紹介のところで、豪華な鬘と衣装の後ろ姿で登場したカルジェたちが、それらを脱ぎ捨てて振り向くと短髪でシャツにスラックスのおじさん・お兄さん姿、というのが、またなんとも鮮やかで爽やかで良かったです。

 ラストシーンがまた素晴らしかったです。
 星空と海。佇む恋人。若い男女のカップルならキスでもハグでもがっつりいくのかもしれません。
 でもただ寄り添って、ゆっくり歩き出すふたりの後ろ姿の、なんと愛に満ちて、美しかったことか…!
 アルバンはザザとしてドレスアップしているところももちろん素敵だけれど、普段の、まあ言ってみれば奇妙な、男性の服を着ているんだけれど仕草がフェミニン、みたいな状態も自然で素敵です。
 そしてそんなぶっちゃけて言えばオカマの中年男にちゃんと見えていた市村正親が、カーテンコールではなんかすごく若く見えてゲイの美青年に見えたことには驚きました…!

 さて、目当てのミナコは…実は私は現役時代の彼女が好きでも嫌いでもなかったので、だからこそ観てみたかったのですが…かつてユウコやミハルも演じたことがある役だとも知っていただけに、物足りなく感じてしまいました。
 まず、なんといってももっとウエストを絞ってほしかった。女装の男体にウエストがないのに比べて、女体の特徴は砂時計型であることですよ。だから、それこそ宝塚歌劇のトップ娘役のような、「どこに内臓入ってんの?」と言いたくなるような極端にほっそりしたウエストがアンヌには欲しかった。ミナコのウエスト、普通だったもん。
 それから、アンヌにはほとんど歌も台詞もなくて、ただクルクルと回って現れる、キラキラした夢のような美しい少女、というのがすべての役どころなのですよ。そのキラキラ感が足りなかったと思う。メイクも地味だったし。だからぶっちゃけミスキャストだったんじゃないかなー、ミナコはストレート・プレイの方が向くんじゃないかなー。

 そして原田くんも『タイタニック』が印象的で好感を持っている役者さんなのですが…もっとスタイル良く見せられないものかな? いっそ新人類!(古い)って感じに見えるくらいすらりと細く高い現代っ子ふうに見せてくれると、私が当初ジャン・ミッシェルに感じた怒りも「仕方ない」と収まりやすかったと思うのよ。なんかこれまたフツーで、というか脚とか短くてダサいのギリギリで要するにただの子供でカレッジボーイの殻をまだお尻につけている小僧で…うーんもったいない。ビジュアルは大事だよ。

 宝塚枠?ってくらい歴代キャストにOGが並ぶジャクリーヌは、なんかホントはしっこそうでズルいところもちゃんとあってしたたかそうな、でもチャーミングで愛嬌抜群で、有能な経営者であり人気者のレストランのマダム、って感じがとてもよかった。白と黒のタイトなドレス姿が、デザインのせいかちょっとだけお腹が出て見えて、それがいかにもアラサーアラフォーの脂の乗った女のいい感じの脂肪に見えて、すごく色っぽくて素敵でした。

 初演から変わらないのがダンドン夫人の森公美子とハンナの真島茂樹、さすがでした。
 そしてシャンタルの新納慎也が本当に美人でしたよ!

 バレエもオペラもミュージカルも、基本的にはプリマドンナありきというか、どうしてもラブストーリーを扱う以上女性主体のものになりがちなので、こんなにも男性が活躍できる舞台はなかなかなさそうですよね。
 みんなが生き生きと楽しそうで、そうだ指揮の塩田先生なんかも本当にノリノリで、また日生劇場が本当にいい劇場なので、ハッピーな空間が生まれてとてもとても良かったです。

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三木笙子『人魚は空に還る』(創元推理文庫)

2012年01月20日 | 乱読記/書名な行
 富豪の夫人の元に売られていくことが決まった浅草の見世物小屋の人魚が、最後に望んだのは観覧車に乗ることだった。だが客車が頂上に着いたときね人魚は泡となって消えてしまい…!? 心優しき雑誌記者と超絶美形の天才絵師、ふたりの青年による帝都探偵絵図シリーズ第一弾。

 一風変わったホームズとワトソンが明治の世に織りなす探偵物語オムニバス。
 今のところ魅力的な女性キャラクターがいないので、どうしてもBL臭が漂うよね…
 高広が優しくて気弱で薄給の雑誌記者で、でも意外に武道に秀でていて、実は司法大臣の養子で、なんてのもよくできている。
 かたや、美形で売れっ子だけど偏屈で気難しい礼が、高広には懐いている、と。
 決してあからさまな描写はなく、むしろ淡々と話は進み、いつも小さな事件を解決しつつ、基本的には人情話とこの時代の風俗を楽しむ作りにはなっているのですが…文体に芸がないところがネックかなあ。
 まあでも映像化とかされちゃうと売れちゃうんだろうなあ…
 という読書感想でした。

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楊逸『獅子頭』(朝日新聞出版)

2012年01月20日 | 乱読記/書名さ行
 巨大な肉団子「獅子頭」が評判で、貧農の子・二順は日本の中華料理店へ。食・言葉・恋愛など中日文化差の狭間で中国人青年が送る波乱万丈の日々を描く成長小説。

 新聞小説ですが、なんの話なのか皆目わからず、イライラしながら読みました。
 次第に料理の話でも文化摩擦の話でもなく、ただ主人公の人生を淡々と描いている作品なのだな…とわかってはきましたが…
 私は小説にはテーマとかメッセージとかがあった方が好みなので、最後まで漠然としたまま終わるこの物語にはなんとも複雑な思いがしました…
 そりゃ実際の人生ってこんなものかもしれませんけれど。そして死ぬまで続くんだからどこかで切り上げるしかなかったのかもしれませんけれど。
 みんながみんな主体的に生きているわけはないし、主体的に生きていたって思うとおりにならないのが人生だということもわかりますが、しかしこの主人公はひどすぎる。
 田舎者だとかお人よしだとかいうレベルを超えているのでは? みんなこんなものだよとか、教育を受けていないんだからこんなものだよということなのかもしれませんが、主人公キャラクターとしての魅力にあまりにも欠けていませんか?
 そして帯には「成長小説」とか書かれていますが、彼は別に成長なんざしていないじゃないですか。何も変わっていない。ただ流されているだけ。
 周りも、そんな彼の優柔不断さに迷惑受けてばっかり、とは言いませんよ。ちゃっかり利用している部分もあると思いますし。
 でも、そういう全部含めて、別に何かがよくなっているとか変化しているとかいうことがない話なんですよね。じゃ、なんなの?って気がしてしまう…
 しいて言えば大事なことは「大事にしてくれる人を大事にすることだよ」みたいな台詞に集約されるのかもしれませんが、この主人公、それも別にできるようになっていませんもんね。
 自分を大事にしてくれている人って誰なのかわかっていないし、その人を大事にすることもできていない。ただ日々を送っているだけじゃん…
 そんな普通の、もしかしたら自分そのものみたいな人間の日常なんか、人はわざわざ小説で読みたいと思っていないと思うんだけどなあ…

 芥川賞作家ですが、初めて読みました。
 同じ時期に在学していたんだわと思うとなかなかに感慨深くはありますが…
 でもやっぱり日本語がネイティブじゃない。不思議ですね。こんなにきちんと書けているのに、間違いはまったくないのに、でも普通こういう言葉は選ばないよな、というのが散見される。
 でもそれと小説としてのあり方はまた別問題だからなあ…ううーむ。
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