駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

2014年観劇総括その2/宝塚編

2014年12月29日 | 日記
 宝塚観劇歴22年にして初めて、全演目を生で観ました。今まで東上しないバウホール公演はけっこう見送ってきたのですが、『ヴィクジャズ』も『ガーシュイン』も観ておけばよかったという思いがのちのちどんどん募り、今年はせっせと遠征したのでした。役替わりがあるものも全パターン観られたかな?
『New Wave!-月-』でうちわ振るところから始まって、『翼ある人びと』に感動し、『シトラスの風Ⅱ』にうっとりし、まゆたんを見送り、『かもめ』に奮え、月組3本立てにハマり、宙『ベルばら』1幕にげんなりし、『THE KINGDOM』に萌え、えりあゆを見送り、『SANCTUARY』を堪能し、『PUCK/クリタカ』に通い、『伯爵令嬢』にのぼせあがり、『エリザベート』にちょっと飽き、『アルカサル』に怒りまくりました。
 今は『New Wave!-宙-』がとにかく楽しみで仕方ありません。自分がどうなってしまうか怖くもあります(笑)。

 宝塚OGということで大空さんの公演では、『La Vie』がとにかく好みどんぴしゃで嬉しかったこと、逆に『familia』に感心せず残念だったことが印象深いです。
 ノマドの第二回目に行けなかったことが残念で、年明けの『Love Letters』も都合がつけず行けないので寂しいです。でも『死と乙女』は好みな気がするし、戯曲を入手したので読むのが楽しみです。
 卒業から三年、ずっと大空さんが好きで、宝塚歌劇を観続けていても大空さんを自分の一番としていたい思いがずっとあって、でもやっぱり現役生徒の輝きって特別だしそこから受けるときめきに抗えないなと思ってしまい、個人的に宝塚ファン的に第三期に突入してしまいました。
 でも暮れのフェスタで会った大空さんはやっぱりクレバーでチャーミングで素敵な人で、やっぱり好きだな、見守り続けたいなと思いましたし、新たに別フェーズに移ったんだなとも思えました。
 何度も何度もリピートするような観方はさすがに演目によってはもうしなくなるかもしれませんが、やはりずっと好きでい続けると思います。
 そしてその大空さんの故郷である宝塚歌劇も、101周年に突入してもさらに熱く見守りたいです。失速なんか許さないんだからね!


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2014年観劇総括その1/外部編

2014年12月29日 | 日記
 2013年の総括はこちらこちら

 2014年、濃い一年になりました。いろいろとエポックメイキングな年でもありました。
 観劇回数としては、きちんと数えているここ4年で最多観劇回数を記録した2013年を、あっさり更新してしまいました。
 それくらい、熱く楽しい一年でした。

 ミュージカルでは『フル・モンティ』が意外に(失礼!)楽しかったこと、『ダディ・ロング・レッグズ』再演がやっぱり素晴らしかったこと、『BROTHER MOON』が素敵だったこと、『蒼の乱』でユリちゃんのすごさにやっぱり感服したこと、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』がお洒落だったこと、『ブラック メリーポピンズ』がすごかったこと、『タイニー・ブーン』がよくできていたこと、『シェルブールの雨傘』がやっぱり美しかったこと…などが印象に残りました。
 お芝居は今年も世田谷パブリックシアターやシアタートラム、新国立劇場、東京芸術劇場あたりによく行きました。『ガラスの仮面』のスリリングさ、『HISTORY BOYS』の静けさ、『炎 アンサンディ』の熱さ、『皆既食』の鮮やかさ、『汽水域』の深さ…しみました。
 バレエはあまり行けなかったなー、『白鳥の湖』くらい? クラシック・コンサートもあまり行けませんでした。サントリーホールに全然行っていない気がします、また通うのを再開したい!
 お金も時間も有限なので厳選したいと思いつつ、世の中には素敵舞台が多すぎて、来年も誘惑に負けること必定な気がします。新しい出会いが楽しみです!

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宝塚歌劇月組『PUCK/CRYSTAL TAKARAZUKA』

2014年12月28日 | 観劇記/タイトルは行
 宝塚大劇場、2014年9月26日ソワレ(初日)、27日マチネ、10月21日マチネ、ソワレ(新人公演)。
 東京宝塚劇場、11月26日ソワレ、30日ソワレ、12月2日ソワレ、9日ソワレ、11日ソワレ、27日マチネ(前楽)、ソワレ(千秋楽)。

 イギリス南部のコーンウォール地方。15代続く貴族グレイヴィル家の領地の森では夏至の前の晩、ミッドサマー・イヴに恒例になっている音楽祭が行われようとしていた。当主サー・グレイヴィル(飛鳥裕)にはハーミア(愛希れいか)とヘレン(沙央くらま)というふたりの孫娘がいた。ホテル王の息子ダニー(美弥るりか)と貴族の御曹司ラリー(凪七瑠海)はハーミアに夢中。悪ガキ仲間を引き連れた森番の息子ボビー(珠城りょう)の乱入によって音楽祭の準備が中断になり、大人たちが森をあとにし始めたそのとき、ハーミアはストーン・ステージの周りに集まる妖精たちを目にする…
 作・演出/小池修一郎、作曲・編曲/吉崎憲治、甲斐正人、作曲/松任谷由美。1992年初演のファンタジックなミュージカル、待望の再演。

 初日に遠征までしてしまった感想はこちら
 初演は生では間に合っていなくて、NHKの放送を観たのみでしたが、当時はやはりトップスターがカッコいいバリバリの男役を演じないなんて、とやや不満に思ったのと、いいお話なんだけどちょっと子供だましなんじゃない?みたく思ったことを記憶しています。
 それからすると年を取ったのかセカンドサイトが覚醒したのか、よくできてるじゃん!と思うようになった今回でした。てかショーがよかったのもあったけどこんなに通ったのか私…

 それはともかく、だからこそよりブラッシュアップして、再演を重ねていってほしいなとも思いました。それだけの価値がある財産ともいえる演目だと思うのですが、例によって私がうるさいだけかもしれませんが引っかかる点がいくつかだけあったので。

 まずひとつは、ダニーの計画について。フロッピーディスクってどうなのとかラジオからヒットチャートが流れてくるのってどうなの、とかは、DVD(CD-ROM?)になったりスマホのワンセグ?になったりしたワケですが、そういうこととは別に世相に合わせる必要があるな、と思える点があって。
 たとえば『エリザベート』なんかでも、初演時と今とではヒロインに対する風当たりの違いを私は感じるのです。初演当時はシシィの「自由でありたい」という想いに観客はもっとシンパシーを寄せていたように感じられました。でも今、シシィをわがままだと思う人が確実に増えている気がします。覚悟して嫁いだくせに甘いこと言ってるんじゃないよ、と糾弾する空気を感じる。わかっていたけどでもつらいの、やっぱり自由でありたいの、という叫びは届きにくくなっている。それくらい世知辛い生き苦しい世の中になっているっていうことなんだろうな、と私なんかは思うのでした。
 同様に、グレイヴィル家のあり方に対する目も厳しくなっていると思うのです。森を大事にし音楽を愛するのもけっこうだけれど、なんら有益なことをしていない、遊んで暮らしていて借金が増えるばかりの道楽貴族なんでしょ? だったら遅かれ早かれなんらかの手を入れる必要が出てくるのは当然で、レイチェル(萌花ゆりあ)たちが領地をホテルチェーンに売ろうとしたことはハーミアに「仕方ないわ、人間だもの」と言われるほど非人間的な措置ではないと思うのです。
 でもそれじゃダメでしょ? 話としては森を売ろうとした彼ら、買おうとしたダニーが悪者に見えなきゃダメでしょ? だからダニーのアースフレンダリーなホテル経営とやらがもっと、一見まともでいいことをやっているように見えて実は環境破壊をより進めていて経営者だけが儲けるような悪辣な事業計画である、という明確な説明と描写がもっと必要だと思うのです。でも現時点では、ストーン・ステージの下にプールを作ったからって何がどうそんなに変わるのかぴんとこないし、ダメダメ言っているサー・グレイヴィルがただの困った老人にしか見えないと思うのです(ヘレンに対する理不尽さといい、このキャラクターの扱いの雑さがこの印象に輪をかけていると私は思う)。
 それじゃダメでしょ? 確かに浮世離れした浪費を続けているかもしれない、現実的な対処が上手くできていないかもしれない、でも志は、理は彼らの方にある、自然破壊を進めてはいけない、妖精が棲み子供たちが遊び育った森を残さなくてはいけない、功利主義や拝金主義、享楽主義に流れてはいけない…というふうにするべきでしょ? それが足りないと思うのです。
 これは、そんな悪に手を染めてまでハーミアを欲したダニーのせつなさに通じる大事なポイントだと思うので、今のままだと甘いと思うのでした。

 同様に、妖精っていいな、妖精として生きられたら楽しいだろうな、という夢想を抱く力も初演当時より今の観客には失われていると思うのです。 だからパック(龍真咲)がハーミアを愛し真実のキスをしたからと言って、その罰として一番大事な声を奪われ、一年間を人間界で過ごさなくてはいけない、さもないと記憶が奪われただの人間になる、と脅されても、みんなすぐ「いいじゃん人間になってハーミアとくっつけば」となってしまうと思うのです。
 でもそれじゃダメでしょ? パックのアイデンティティーは妖精であることにある、対してハーミアは大人になっても美しい心と姿を持ち続けている稀な人間だけれど、でもあくまで人間であり、ふたりの住む世界は違う。でもふたりは愛し合ってしまった、さあどうなるの?って固唾を呑んで物語の成り行きを負わせなくちゃダメでしょ?
 だからここの罰とその後の説明が今のままでは甘いと思うのです。まずこの時点でハーミアのパックに関する記憶がすべて失われることは明示しておいた方がいいと思いますし(それか、プックとして再会したときにハーミアがパックを忘れていてプックが誰かわからない、という場面が欲しい)、掟を破った罰をパックが償わない限りハーミアには一生思い出してもらえない、とした方がいいと思うのです。パックは自分がただの人間に堕ちることはもちろん嫌だけれど、なんといってもハーミアに忘れ去られたくないから、彼女と愛し合い続けたいから、罰を受け入れるのだ、とした方がいいと思います。
 あと、ボビーが倒れ、衛星中継が中止になりそうになり、DVDを手にしたときに、パックがテレビカメラなり聴衆なりに向けて何かを言おうとする、という振りがあってからオベロン(星条海斗)の「駄目だパック、声を使うな!」という台詞が被さるべきだと思います。今はむしろこの台詞でパックが自分で発言することを思いついちゃったようにすら見えると思う。それじゃダメです。
 ハーミアに忘れ去られたくない、思い出してほしい。だって忘れられるのは自分の存在が消えるのと同じことです。思い出してほしいから一年がんばってきた。でも今、自分がダニーの計画を告発しないと、ハーミアが愛し自分が生まれたこの森が失われてしまう。だから声を上げた。これを最後に忘れ去られることを覚悟して。自分は忘れられてもいい、それでも愛するハーミアにこの美しい森を残したいから、それが自分の愛だから。だから歌うのです、「LOVER’S GREEN」を。覚えていてほしい、と叶わぬ希望を歌うのです。
 その結果、パックは雷に打たれ妖精としては死に、ただの人間に生まれ変わります。ハーミアはパックを思い出したけれど、今度はパックの方が記憶を失っている。森は守れたけれど、違う形でパックはやっぱり自分のアイデンティティーを失ってしまったのです。「君、誰?」という声の冷たさが胸に刺さるのはだからです。ふたりは赤の他人になってしまったのです。
 でも、ハーミアが指し示したストーン・ステージに登ったパックは、森の美しさを全身に浴びて何かを思い出し、寄り添って座ったハーミアの笑顔を見てさらに何かを思い出したようになり、おでこをくっつけて微笑み合うふたりを残して幕が下りる…そういう流れじゃないですか。妖精と人間、違う世界に住む決してひとつになれない存在だったふたりが、愛の奇跡でひとつになれることになった、これはそう暗示して終わる物語じゃないですか。アイデンティティーの根幹である記憶が愛によって復活するところが奇跡であり感動的なのであり、だからこそこの「記憶」の重要性をもっと打ち出しておくべきだと思うのです。

 その二点は常に補完しながら観ていました。でも、それでものすごく普遍的な、妖精の話だからって子供だましなんかじゃない、美しい物語になっているのだと思います。また時を得て再演されていくことを望みます。
 まさおは文句なしにハマり役、独特の癖のある台詞回しも妖精台詞では影を潜めて聞きやすく、カナメさんほどではないかもしれないけれど当代屈指の歌の妖精っぷりで素晴らしかったと思います。あの耳はけっこう音が聞こえづらいらしく、大変だったろうなと思いますが、本当にいいパックでした。
 ちゃぴもこれまたヨシコに通じるピュアな文学少女っぷりが素晴らしかったです。初めてパックと出会ったときのキラキラした輝き、のちにパックの記憶を日記に封じ込めると歌うせつなさには、毎回泣かされました。
 みやちゃんのダニーとカチャのラリーもこれまたハマり役でしたねー。そしてコマのヘレンもキュートで素晴らしかった。ダニーとハーミアの結婚式を邪魔しようと計画する中でラリーとヘレンの手が触れて意識し合っちゃうところ、両親のしたことがショックで逃げ出しちゃうヘレンを追うラリー、そのあとのハッピーエンドが本当に微笑ましくてきゅんきゅんしました。
 たまきちのボビーは最初は私は本当につらくて、ニンじゃないよユリちゃんのあのノリは無理だよとずっとずっと思っていたのですが、東京新公後にまず子供時代が格段に良くなり、終盤は「ちょっと抜けてるけどすごくいいヤツ」なボビー像を作れたかな、と思いました。でもトレイシー(早乙女わかば)との芝居は、主に台詞というか演出というか演技の意図が不明瞭で最後まで不満でした。ただの幼なじみなのかガールフレンドなのか恋人なのか私にはよくわからなかった。ウッドペッカーズは売れたようだけれどそれって本当にボビーに音楽の才能があったということなのかとか、どうもキャラの甘さの元にもなっていた気がして気になりました。雑役呼ばわりされても森番の仕事に誇りを持っているボビーが、あきらめずに夢を叶えて大金を稼ぎ、金カネ言っていた愚かな女の子であるトレイシーを見返す…ということならもっとはっきり打ち出してほしかったし、そこに色恋は不要なので貞操観念云々って台詞はヘンじゃない?とか、ね。
 他はマギーやすーちゃん始め適材適所で楽しかったです。男子生徒たちもはっちゃけててよかったなあ。
 アドリブについてはハラハラさせられすぎるのも私は苦手で、いつもやりすぎないでまさお!と念じながら観てましたが、まあたまにはいいのかな。

 大劇場では新公も観られました。
 あーさは歌も大健闘でビジュアル的にもフェアリーだったし良かったと思いました。くらげちゃんは本役を踏襲していたかな。
 まゆぽんもパンチがあってよかった。れんこんは上手すぎて私にはもっと濃い役の方がハマるのかなと思えましたがこれもよかった。
 ありちゃんにはあまり感心せず、やっぱりボビーって難しいんだなと思いました。
 あとはたまきちのユニコーンに萌えまくりましたね。
 月組らしい、芝居心とチャレンジ精神のある、でもとてもよくまとまったクオリティの高い新公だったと思いました。94期新公卒業、おめでとうございます。


 ショー・ファンタジーは作・演出/中村暁。「イメージの結晶」とか銘打っていますがまあどこかで見たような場面の羅列…と初見は思えたのですが、すぐに楽しみ方を見つけてしまうのがファンの性。
 プロローグは楽しく手拍子して盛り上がり、Mr.シンデレラ(ダニーという役名に必然性はないので変更すべきだったと思う)の場面にほっこりし、ドール・オペラのちなつ自動人形の美しさに惚れ惚れし、ちゃぴオランピアのせつないラストにしんみりしているともうクリスタルズ!なわけですが。
 私は元々こういうアイドルスター場面!みたいなのがわりとダメで、かつ似非韓流みたいなのが本当にダメなので、初見は気障る珠城さんへの気恥ずかしさもあり(オイ)「くりすたるず!」にしか見えないよ!とか思っていたのですが、どんどん洗練され気迫が増し釣りがヒドくなり(笑)、東京では珠城さんの伸びた前髪からこぼれる色気もヤバくついにクリスタルズ!からCRYSTALS!に進化してフィニッシュした、と思いました。赤と紫の絡みチェックも毎回大変だったので、申し訳ありませんが他のメンバーのシャツの色を未だに全員言えません…
 中詰めも当初は単調かなと思いましたがすぐ慣れました。がっつり踊るまさちゃぴもいい、がしかしまさお頼むからちゃぴの手をもっとしっかり握ってくれサポートしてやってくれ冷たいよ!
 珠城さんのもう片目も薄く閉じちゃうウィンクは最後までそのままでしたが、もうそれでいい気がしてきました。
 ロケットのセンターはありちゃん時ちゃんくらげちゃんですが、意外にくらげちゃんが良かったなー。
 雫は二階席から観ると本当に美しかったです。なんとも言えないお衣装も味わい深い。前楽からゆーみんに入った拍手にもう縛泣きでした。
 そのあとの珠城さんの銀橋ソロがおでこのクリスタルな汗もセットで素晴らしかった。決して歌自慢なタイプではないけれど、本当に上手くなったし何もしなくても銀橋を渡って保つようになったし劇場をオーラで埋められるようになったと思います。
 その歌のアレンジ違いでちゃぴを筆頭にきびきび踊るフィナーレの女たちがまた素晴らしかったです。花娘は可愛い子ばっかり!みたいなのと同様に今の月娘は本当に綺麗で美しい。
 シャープな黒燕尾もロマンティックなデュエダンも素晴らしい。パレードのラストの終わり方も楽しい。
 オーソドックスだけれど楽しいショーでした。みやカチャの完全ニコイチ扱いが気の毒でしたけれどね…
 いい100周年のシメになりました。101周年も変わらず観続けたいです。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『familia』

2014年12月21日 | 観劇記/タイトルは行
 兵庫県立芸術文化センター、2014年11月29日マチネ(初日)、ソワレ。
 東京芸術劇場、12月5日ソワレ、7日マチネ、16日マチネ。
 まつもと市民芸術館、12月20日マチネ(千秋楽)。

 1973年、ポルトガル。独裁政権から続く圧政により、アフリカでの植民地戦争は凄惨を極め、人々は自由な思想や言論を奪われ続けていた。そんな民衆の苦しみが、親の顔も知らず孤児として生きてきたエヴァ(大空祐飛)の目には、まるで悲しみを抱えながらも黙って耐える子供たちのように映る。置き去りにしたままの過去から目を背けて生きていくことは、反発を忘れた民衆と同じだと思ったエヴァは、不安な気持ちを奮い立たせ、自分を捨てた両親を捜すために首都リスボンへ向かうが…
 演出・振付/謝珠栄、脚本/斎藤栄作、音楽/玉麻尚一、ミュージカル台本・作詞/謝珠栄。全2幕。

 TSミュージカル自体は『天翔ける風に』くらいしか観たことがなく、でも宝塚歌劇における謝先生の演出はスタイリッシュで素敵だなと思っていたので、期待して出かけました。
 セット(美術/大田創)はとても素敵で、アンサンブルのダンスや男声コーラスもとてもとても素敵でシビれました。日本のオリジナル・ミュージカルは楽曲が弱いなといつも思うのですが、今回はなかなか良かったです。歌唱は公演前半は苦戦していたようにも聞こえましたが、どんどん仕上がっていって詩情が漂うようにすらなっていました。
 ただ…お話がいただけなかった。初日幕間は一幕のあまりの中身のなさに「これを私はあと何回もリピートしなくてはならないのか…」とかなりブルーになりました。
 二幕になると逆に話は盛りだくさん気味になり、おもしろいけれどご都合主義も見え、これまた出来がいいとは言いにくいところでした。
 次の回ではすぐ、自分なりの見方をできるようになってしまうので、まあ結局は楽しいっちゃ楽しかったんですけれどね。大空さんの膝小僧とか衣装が細身なのでぱつんぱつんな胸元とかたどたどしいギターとか味のある歌声とかガタイのいい男たちに囲まれてるのに姫というよりやっぱり姉貴な空気とかを愛でていればいい、と言えば言えてしまえるので。
 でもやっぱり作品として、物語としてもの足りなかったし、納得がいかなかったのでした。謝先生が国家や民衆といったテーマにこだわって作品を作るのはわかりますし、現代日本でもそれは今やかなり切実な問題です。でもだからこそうまくやらないとハマらないと思う。私にはこの作品は、歴史的な事実、かつかなり近現代に起きたカーネーション革命というモチーフを扱いながらも、とてもウソっぽい、アタマと理屈で作っただけのお話に見えました。この理屈っぽい私が言うんだから間違いありません。例えて言えば(「あなたに捧ぐ」の歌詞の「たとえ」の漢字表記を「例え」とするのは間違いです)いかにも私が書いちゃいそうな話だと私は思いました。でもそれじゃダメでしょ? だって私はプロの劇作家ではありません。素人が書いちゃいそうなものを舞台に上げてしまってはいけないと思うのです。
 国と民衆の関係は親と子の関係に似ている。国の動乱期に孤児であるヒロインが家族を捜し始め、それを見つける物語。そして国は無血革命によって生まれ変わる…わーウソくさ。出来すぎ。いかにもアタマで作った感じ。
 そもそも私にはエヴァという人がよくわかりませんでした。国が荒れて、民衆が押さえつけられていて、それは親に抑圧される(「抑制」という言葉の使い方には違和感を覚えました)子供のようで、だから反発して、自分も親探しを始める…なんてこと、あるのかなあ? 30年もなかったことにしてきたのに、今さら?
 私はありがたいことに二親に恵まれて育ったので、孤児の気持ちがわからないと言われればそれまでですが、こんなに大人になった今ですらたとえば「おまえはもらわれっ子なんだよ」と言われたらある程度のショックは受けるだろうと想像はできるくらい、出自というものがその人のアイデンティティの根幹に大きくあることは理解しているつもりです。幼いエヴァが、いつか両親が迎えにきてくれるはずだと夢見たり、迎えにきてくれない両親を恨んだりして育ってきたことは十分に想像できます。でも人はずっと過去に捕らわれて生きていくことはできないものです。現実というものはもっとずっと忙しい。だからエヴァもどこかであきらめたにせよ忘れることにしたにせよ、一応はふっきったことにしたはずなんですよ。そしてきちんと大人になり、働いて自活し、なんなら自分が親になってもいい歳にまでなった。そうやって自分を確立してきた大人の女性が、政治情勢に親子の暗喩を見て、やっぱり自分も親を捜そう、なんて思うかな?と私には疑問なのです。それは今までの自分の生き方を否定することになりはしませんか? 少なくとも私だったら意地でもしない。それでも会いたいのが親なのよ、というほどの説得力は私には感じられませんでした。
 一方でエヴァの親探しの理由として、孤児院で親を知らない子供たちの世話を長くしてきたけれど、最近は戦争で親を失って孤児院にやってくる子供たちも多く、そういう子供たちの扱いが親を知らない自分ではできない…みたいなことも語られるんだけど、それもなんかとってつけたような感じがするんですよね。そして基本的にこのあたりはすべて台詞で説明され、具体的なエピソードとかがあるわけではないので、ますます作り物の設定くさい感じがしてしまうのでした。「こういうキャラだと思ってくれたまえ」って出されてもさあ…って感じで鼻白んでしまうんですよね。これは大空さんの演技力がどうとかいう問題ではないと思います。擁護ではなく。だって芝居のしようがないものね。まあミュージカルであってストレート・プレイではないからキャラクターはある程度記号的でいいのだ…ということなのかもしれませんが。
 でも大空さんのエヴァは私にはごく普通のありきたりな女性に見えて、大きな欠落を抱えているとか不幸だったり偏ったりしている女性には見えませんでした。だからなおさら、彼女が今さら親を捜すような行動に出ることに納得がいかなかったのかもしれません。たとえば彼女は幼なじみのアリソン(柳下大)を弟のように愛し気遣っています。彼女は愛を知っているし、すでに家族を持っているのです、無自覚かもしれないけれど。だからこの物語は、フェルナンド小佐(岸祐二)の里親モラレス(福井貴一)が実はエヴァの父親であり、エヴァの幼なじみのアリソンがフェルナンドの生き別れの弟だった、なんて途中で見えちゃういかにもの筋とは別に、エヴァはそもそも最初から家族を持ってたじゃん、という出オチ感が甚だしいのです。わかっていることをただ見せられるから、退屈するんですよね…
 それからもう一点、エヴァがアリソンの入隊経緯を知って「すばらしいわ!」と発言することが私には本当に耐えがたかったです。
 実際のこの時代のこの国に生きる女性としてはリアルな発言なのかもしれません。でも観客の多くは現代日本に生きる女性で、この時代のこの国も戦争に向けて大きな問題を抱えていますが、おそらく決して学生デモが立ち上がることも兵士や民衆が革命を起こすこともないでしょう。そういう国に生きる私たちには、どんなにすばらしい大義のためであろうとその手段として軍隊に入る家族のことをすばらしいとほめるメンタリティはありえません。少なくとも私にはない。「すばらしいことをしようとしているのはわかるわ、でも危ないからやめて」と多くの人が絶対に言うはずです。私はエヴァの発言に初見時にはあまりにびっくりしてこのくだりの流れがまったく追えなくなりましたからね。何言ってんのこの人、って思っちゃいましたからね。ヒロインと観客を断絶させるような台詞を書いちゃダメだと思うんだけれど、謝先生にはこれがリアルなんだろうとも思うのです。でもだったらやっぱり私たちの、現代日本のリアルとは違いすぎて、今の日本の国家と国民の問題とをこの物語に被せて観せることは難しいと思います。そういう意味でもこの作品は問題を抱えている、と私は思いました。

 アリソンを死なせなかったのはよかったと思うし、ラストは私は夢オチなんかではなく、ちゃんと現実のことだと思いました。モラレスは保守派の代表格として、また政府の要人として一度は革命派に捕らわれたものの、もう退役しているんだし思想的にはむしろ進歩派だったんだし、略式裁判でもしてすぐ釈放されて帰ってきたのだと思うのです。ジルベルト(渡辺大輔)の怪我もたいしたことはなく、リカルド(照井裕隆)もちゃんと戻ってきて、家族のような仲間たちと自由に歌い呑み語れる日々が来た…という、美しいラストシーン。
 その一方で、降ってきて突き刺さるカーネーションの怖さもまた、いくら無血革命とは言ったってクーデター、争乱であることには変わりはなく、そういう激しさ、恐ろしさを表していたのだと私は思っていて、いい演出だなと感じました。犠牲を払うからこそ得られるものもあるのでしょう。そして今のこの国に生きる私たちには犠牲を払う覚悟ができていないのだ、だから国に言いようにされていくのだ…というようなことすら考えました。
 ただ家族を、仲間を愛し、つつましく幸せに生きていきたいだけです。どこの国とも争いたくないし、よその国に奪ってまで欲しいものなんかありません。戦うくらいなら差し出します。そういう憲法を選んで戦争を放棄した国に生まれて育ってきました。そんな国でなくなるのは嫌です。でもそんな思いは選挙でもどこにも届かなかったようでした。私たちの国はどこに行くのでしょう? 演劇を、物語を楽しめないような国になったらそれこそ未来はないと思いますけれどね…
 ということを考えるくらいにはいろいろ重ねて観ていましたが、でもそれはやっぱり私が理屈っぽいからで、かつ観劇に退屈していたからこそ考えてしまったことでもあり、やっぱりちょっと今回の舞台は大空さんが選んで出たにしては私としてはちょっと…なのでした、残念。
 もちろん単なる好みの問題かもしれません。それと、私はそろそろがっつりラブとかメロドラマをやる大空さんが観てみたいので、次回作はドロドロ愛憎してそうだし、楽しみです。また新しい顔が見られるのなら嬉しいです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『星ノ数ホド』

2014年12月21日 | 観劇記/タイトルは行
 新国立劇場、2014年12月15日マチネ。

 物理学者のマリアン(鈴木杏)と養蜂家のローランド(浦井健治)が出会ったのは晴れた日のバーベキュー場。そのとき彼には妻がいた。あるいは雨の日のバーベキュー場、そしてふたりは恋に落ちた。いつしか別れてしまったふたりが再会するとき、ローランドは別の誰かと婚約していた、あるいはマリアンが別の誰かと婚約していた。星の数ほどありえる可能性の中でふたりが迎える運命のときとは…
 作/ニック・ペイン、翻訳/浦辺千鶴、演出/小川絵梨子、美術/松岡泉。全1幕。

 多元宇宙をモチーフにしているふたり芝居で、ふたりが出会ってもそのときどちらかにパートナーがいるルートに進んでしまったら、それは捨てて元に戻って、何度でも戻って、フリーのふたりが恋に落ちつきあい始めるルートに進めたらそれを進めていって、でも別れて…みたいな、時を行ったり来たりするというかいろんな可能性のある分岐点のうちのひとつを選んで進んでいく物語というか、そんな不思議な構造の舞台でした。
 私は大学では一応、素粒子物理学を専攻していたので(きれいサッパリ忘れましたが)、不確定性原理なども勉強しましたし、SFファンとしてパラレルワールドは心躍るモチーフのひとつなので、楽しく観ました。
 ただ、途中のルートで、マリアンが脳に腫瘍か何かを患って言語障害を発症したり、尊厳死を検討したりするようなターンがあるのですが、それは結局どうなったのかな…という思いは残りました。
 物語はふたりの再会のとき、お互いにそのときどちらもフリーで、再会を嬉しく思う気持ちがあり、なんとなく誘い合って再びつきあいが始まりそうで、なんてことない話をしながら舞台の中心に据えられた木の周りを囲むように組まれた階段状の小道を一周して終わります。円環は閉じられた、という印象も残るし、永遠の輪廻みたいなことも思わせます。それはいいんだけれどでも、あそこまでマリアンの闘病を見せておいて、「健康なルートもあるからいいよね」というオチではちょっと納得しづらいというか…だってどんな未来を選び紡いでいこうと、ゴールが死であることは絶対の真実なんですからね。
 そういう意味ではちょっともの足りなかったかなー。でもとても美しいセットと、大変な台詞量とかなり変わった芝居をきちんとこなしていたふたりの若い役者が印象的で、スリリングな、おもしろい演目でした。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする