東京宝塚劇場、2001年4月10日マチネ。
池田理代子の同名の漫画を原作に、‘74~’76の初演、‘89~’91の再演に続いて三度目の上演。脚本・演出 植田紳爾、作曲 吉田優子。私にとっては初めての宝塚生ベルばらでした。
パンフレットに田辺聖子と林真理子がまったく同じことを書いています。『ベルサイユのばら』と宝塚歌劇は幸福な結婚をした、と…私が舞台を観て感じたのは、役者と観客の“幸福な結婚”でした。
だって、脚本がひどいんですよ。
そりゃ、長大な原作漫画を二時間半の舞台に収めるのが大変なことはわかります。しかし、百歩譲ってこの構成でいくにしても、原作の台詞をもっと上手く使ってよりわかりやすく情感あふれる脚本にすることは絶対に可能です。様式美と、古風で大時代的な台詞回しとは決してイコールではありません。漫画の台詞は目で読むものだから、そのまま台詞で言われて耳で聞いてもわかりづらい部分はあるでしょう。そこだけ変えればいいんですよ。なんだってあんな、誰も使わないような漢語の台詞を書くんでしょう。平安時代の文章博士じゃあるまいし。もっといいホン書いてやる、と息巻く人が何千人といると思います。なんせ観客動員数300万人突破なんですから。
私は今回、原作もアニメも多分知らない、フランス革命がなんなのかもよくわかっていないかもしれない普通のおばさんであるうちの母親を連れて行きましたが、この人には誰と誰が戦っているのかがこの展開でわかるんだろうか、と気になって仕方ありませんでした。
つまり、そんなくらいの出来のホンなんです。手を加えないのが伝統だと思っているところが恐ろしい。
しかし役者にとっては伝統というものは確かにあって、「宝塚歌劇と言えば『ベルばら』」という大作に自分が出られるなんて、というんで、いい意味で実に力が入っていました。そして観客の大半も、原作かアニメか過去の舞台か、「宝塚歌劇と言えば『ベルばら』」という風評かは知っているので、自分はすごいものを観るんだ、というんで力が入っている訳です。その両者の意気込みが、つたない脚本も演出も飲み込んで、その向こうにある神髄に向かって突き進んでいました。実際にそこにあるものよりも120パーセント増どころか、280パーセント増くらいのものを感じていたでしょう。
ラストシーンに至ったときに、確かに、
「ああ、もう終わっちゃう…」
というため息が劇場を埋め尽くしました。
こんなに豊かになった世の中においても、まだまだここ、宝塚歌劇の舞台の上だけにしかないものが確かにあって、女たちはまだまだ全然飢えているのだ、と思い知りました。どんな時代でも、どんな境遇でも、自分として、自分らしく、自然に生きたい。できれば理解ある友や恋人を得て…こんな単純なことが、どうしてまだまだ遠いのでしょう…
今回のストーリーは、サブタイトルどおり、オスカルを主人公にしたバージョンです。男役トップスターが男装の麗人オスカルを演じます。男役トップが演じる男性と娘役トップが演じる女性との恋愛を描くのが定番の宝塚歌劇にとって、男役トップが女性の役をやる点、ために娘役トップが演じる女性の役(マリー・アントワネット)との間に恋愛が成立しない点は、実は非常に奇異なことなのです。
特に今回はこれがトップスターコンビの退団公演だったため、「最後はちゃんとした男役が見たい」「コンビの絡みが見たい」というファンの声がかなりありました。ノルさん(星組男役トップスター稔幸の愛称)自身もあまり中性的なタイプではなく、バリバリの男役で、かなり役作りには悩んだようでした。
でも、すっごくよかったです。私はもともとノルさんが好きなんですが、
「目がハート♪」
というファンではなく、いつも
「ああ、こういう役も上手いじゃん、いいねいいね」
という感じで応援してきました。しかし今回は本当にオスカルそのものに見えました。280パーセント効果と言われてしまえばそれまでなのですがね。
「この戦いが終わったら結婚式だ」
というところは原作よりよかった。アンドレの死に泣く悲痛な叫びもすっごくよかった。
だから、やっぱり、構成上仕方がないとはいえ、ユリちゃん(星組娘役トップ星奈優里)との絡みが少なかったのは悲しかったです。
というか、オスカルとアントワネットの友情と、生き方・考え方・物の見方の違いというところを、もっとちゃんとやってほしかったですね。
舞台の場面としては二度あるんです。オスカルがフェルゼンを遠ざけるようアントワネットに進言するシーンと、パリ出撃前日に暇乞いをしに来るシーン。
どうして原作のニュアンスをきちんと汲まないんでしょう。前者では、アントワネットが
「あなたに女の気持ちをわかれというのは無理なのかしら」
と言い、彼女の孤独を見抜けなかったオスカルがショックを受ける、とするべきだし、後者では、アントワネットが
「あなたが民衆に同情するのはわかりますよ」
と言い、オスカルがそういうんじゃないんだがと思う、とするべきでしょう。それなのに舞台は、
「フェルゼンとは別れません」
とか言っちゃうし、
「命だけは大事にね」
とさっさと送り出しちゃうしで、全然違ってしまってるんです。
でもここで、アントワネットが差し出す手を両手で包んで手の甲にキスするオスカルはいい。
オスカルを、時代に先駆けた現代的なヒロインと見るのに否やはありませんが、アントワネットの生き方もすばらしいものなんですよ。彼女は時代や民衆を理解できない、前時代の愚かなお姫様だったかもしれません。でも自分の生き方を貫き、誇りを持って死にました。自分の死が時代に要求されていることだけは理解していた節があります。だから自分の首を差し出したのです。その潔さは美しく立派なものです。この姿をもっと描いてあげる必要があると思います。
アントワネットのアリアがないことに今回初めて気づいて急いで新曲が書かれたくらい、彼女の理解はあまりにされていません。少なくともエンディングだけは、天国でペガサスが曳く馬車に乗るオスカルとアンドレなんて気恥ずかしいことをやってないで(ふたりが天国で結ばれた、というのはパレードのエトワールをこのふたりにやらせれば十分表現できると思うのです)、断頭台に登るアントワネットをやるべきでしょう。ヴァレンヌもコンシェルジュリもすっ飛ばしていいから、ギロチンだけは出すべきです。これはフランス革命のお話なんですから。
欲を言えばプロローグは、オスカルとアントワネットとフェルゼンが初めて出会った仮面舞踏会に見立てて、三人で踊ってほしかったなー。まあ、言い出したらキリがありません。宙組の『フェルゼンとアントワネット編』はさて、どうなのかな?
池田理代子の同名の漫画を原作に、‘74~’76の初演、‘89~’91の再演に続いて三度目の上演。脚本・演出 植田紳爾、作曲 吉田優子。私にとっては初めての宝塚生ベルばらでした。
パンフレットに田辺聖子と林真理子がまったく同じことを書いています。『ベルサイユのばら』と宝塚歌劇は幸福な結婚をした、と…私が舞台を観て感じたのは、役者と観客の“幸福な結婚”でした。
だって、脚本がひどいんですよ。
そりゃ、長大な原作漫画を二時間半の舞台に収めるのが大変なことはわかります。しかし、百歩譲ってこの構成でいくにしても、原作の台詞をもっと上手く使ってよりわかりやすく情感あふれる脚本にすることは絶対に可能です。様式美と、古風で大時代的な台詞回しとは決してイコールではありません。漫画の台詞は目で読むものだから、そのまま台詞で言われて耳で聞いてもわかりづらい部分はあるでしょう。そこだけ変えればいいんですよ。なんだってあんな、誰も使わないような漢語の台詞を書くんでしょう。平安時代の文章博士じゃあるまいし。もっといいホン書いてやる、と息巻く人が何千人といると思います。なんせ観客動員数300万人突破なんですから。
私は今回、原作もアニメも多分知らない、フランス革命がなんなのかもよくわかっていないかもしれない普通のおばさんであるうちの母親を連れて行きましたが、この人には誰と誰が戦っているのかがこの展開でわかるんだろうか、と気になって仕方ありませんでした。
つまり、そんなくらいの出来のホンなんです。手を加えないのが伝統だと思っているところが恐ろしい。
しかし役者にとっては伝統というものは確かにあって、「宝塚歌劇と言えば『ベルばら』」という大作に自分が出られるなんて、というんで、いい意味で実に力が入っていました。そして観客の大半も、原作かアニメか過去の舞台か、「宝塚歌劇と言えば『ベルばら』」という風評かは知っているので、自分はすごいものを観るんだ、というんで力が入っている訳です。その両者の意気込みが、つたない脚本も演出も飲み込んで、その向こうにある神髄に向かって突き進んでいました。実際にそこにあるものよりも120パーセント増どころか、280パーセント増くらいのものを感じていたでしょう。
ラストシーンに至ったときに、確かに、
「ああ、もう終わっちゃう…」
というため息が劇場を埋め尽くしました。
こんなに豊かになった世の中においても、まだまだここ、宝塚歌劇の舞台の上だけにしかないものが確かにあって、女たちはまだまだ全然飢えているのだ、と思い知りました。どんな時代でも、どんな境遇でも、自分として、自分らしく、自然に生きたい。できれば理解ある友や恋人を得て…こんな単純なことが、どうしてまだまだ遠いのでしょう…
今回のストーリーは、サブタイトルどおり、オスカルを主人公にしたバージョンです。男役トップスターが男装の麗人オスカルを演じます。男役トップが演じる男性と娘役トップが演じる女性との恋愛を描くのが定番の宝塚歌劇にとって、男役トップが女性の役をやる点、ために娘役トップが演じる女性の役(マリー・アントワネット)との間に恋愛が成立しない点は、実は非常に奇異なことなのです。
特に今回はこれがトップスターコンビの退団公演だったため、「最後はちゃんとした男役が見たい」「コンビの絡みが見たい」というファンの声がかなりありました。ノルさん(星組男役トップスター稔幸の愛称)自身もあまり中性的なタイプではなく、バリバリの男役で、かなり役作りには悩んだようでした。
でも、すっごくよかったです。私はもともとノルさんが好きなんですが、
「目がハート♪」
というファンではなく、いつも
「ああ、こういう役も上手いじゃん、いいねいいね」
という感じで応援してきました。しかし今回は本当にオスカルそのものに見えました。280パーセント効果と言われてしまえばそれまでなのですがね。
「この戦いが終わったら結婚式だ」
というところは原作よりよかった。アンドレの死に泣く悲痛な叫びもすっごくよかった。
だから、やっぱり、構成上仕方がないとはいえ、ユリちゃん(星組娘役トップ星奈優里)との絡みが少なかったのは悲しかったです。
というか、オスカルとアントワネットの友情と、生き方・考え方・物の見方の違いというところを、もっとちゃんとやってほしかったですね。
舞台の場面としては二度あるんです。オスカルがフェルゼンを遠ざけるようアントワネットに進言するシーンと、パリ出撃前日に暇乞いをしに来るシーン。
どうして原作のニュアンスをきちんと汲まないんでしょう。前者では、アントワネットが
「あなたに女の気持ちをわかれというのは無理なのかしら」
と言い、彼女の孤独を見抜けなかったオスカルがショックを受ける、とするべきだし、後者では、アントワネットが
「あなたが民衆に同情するのはわかりますよ」
と言い、オスカルがそういうんじゃないんだがと思う、とするべきでしょう。それなのに舞台は、
「フェルゼンとは別れません」
とか言っちゃうし、
「命だけは大事にね」
とさっさと送り出しちゃうしで、全然違ってしまってるんです。
でもここで、アントワネットが差し出す手を両手で包んで手の甲にキスするオスカルはいい。
オスカルを、時代に先駆けた現代的なヒロインと見るのに否やはありませんが、アントワネットの生き方もすばらしいものなんですよ。彼女は時代や民衆を理解できない、前時代の愚かなお姫様だったかもしれません。でも自分の生き方を貫き、誇りを持って死にました。自分の死が時代に要求されていることだけは理解していた節があります。だから自分の首を差し出したのです。その潔さは美しく立派なものです。この姿をもっと描いてあげる必要があると思います。
アントワネットのアリアがないことに今回初めて気づいて急いで新曲が書かれたくらい、彼女の理解はあまりにされていません。少なくともエンディングだけは、天国でペガサスが曳く馬車に乗るオスカルとアンドレなんて気恥ずかしいことをやってないで(ふたりが天国で結ばれた、というのはパレードのエトワールをこのふたりにやらせれば十分表現できると思うのです)、断頭台に登るアントワネットをやるべきでしょう。ヴァレンヌもコンシェルジュリもすっ飛ばしていいから、ギロチンだけは出すべきです。これはフランス革命のお話なんですから。
欲を言えばプロローグは、オスカルとアントワネットとフェルゼンが初めて出会った仮面舞踏会に見立てて、三人で踊ってほしかったなー。まあ、言い出したらキリがありません。宙組の『フェルゼンとアントワネット編』はさて、どうなのかな?