駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

スタジオライフ『はみだしっ子』

2017年10月29日 | 観劇記/タイトルは行
 東京芸術劇場シアターウェスト、2017年10月25日19時(TBCチーム)。

 いつの間にか寄り添い、旅をするようになった個性のまったく違う四人の仲間、グレアム(仲原裕之)、アンジー(松本慎也)、サーニン(千葉健玖)、マックス(伊藤清之)。親に見捨てられた子供たちの早すぎる孤独は、彼らをこの世のはみだしっ子にしていたが…
 原作/三原順、脚本・演出/倉田淳。1975~82年に断続的に連載された傑作少女漫画の舞台化。全1幕。

 ほぼすべての台詞が諳んじられるであろうくらい読み込んでいる、私の魂に染みついている漫画のひとつの舞台版です。おっかなびっくり出かけました。私はスタジオライフはあまり観たことがないのですが、以前もやはり漫画原作舞台を観に出かけて(『11人いる!』だったかな…?)あまり感心しなかった記憶があったので。
 今回扱われているエピソードは初期のみっつで、『動物園のオリの中』『だから旗ふるの』『階段のむこうには…』です。どれもファンにはタイトルからすぐ内容が思い浮かべられるでしょうが、レディ・ローズ(曽世海司)のお話と、アンジーがキャプテン・グレアムにグレて密航(笑)しちゃう話、エイダ(宇佐見輝)が来て四人がホテルに泊まるお話です。
 舞台には階段と街灯があるだけ。そこが通りになりアパートの部屋になり埠頭になりホテルの非常階段になります。そこに四人が出てきて台詞を言って上手か下手にハケて場面転換…ということが繰り返されるので、最初は単調に感じましたし、基本的に漫画のままなので、なんというかコマ漫画を実演している動く活人画みたいなものかな…とか思えてしまいました。
 が、四人がちゃんとそれぞれそのキャラクターっぽい言動をちゃんとしてみせてくれるし、出てくる大人の男女や少年たち少女たちもとても自然でそれっぽいので、いつしか舞台に引き込まれたのでした。哲学的ですらある数々の名台詞も、舞台の上に実在している役者たちが熱を込めて発声すると改めて強いパワーでこちらの胸に響いてくるのでした。逆に、原作漫画では情熱的なモノローグをリアルに発声されると妙に気恥しくてテレる、みたいなこともありましたが…
 以前の観劇での記憶にあったような学芸会臭さはまるでなくて、台詞が明晰で演技も的確で、単なる2.5次元みたいなものにはなっていなかったと思います。けっこううっかりほろりとさせられてしまいました。
 ただ、アンジーに「びっこ」という言葉を使わないことにしたのなら、レディ・ローズの「年増」もやめるべきだったでしょう。マックスへのデコっぱちとかギョロ目みたいな言葉も変更されていましたね。でもすべてイキママでよかったと思います。舞台作品なんだし、当時悪口として使われていた言葉だったということは現代の観客にも十分理解できると思うので。
 個人的にはマックス役の人が本当にいい感じに子供を、マックスを演じていて上手いなあと思いました。逆にエイダは、望みすぎかもしれないけれどもっと硬質な美しさが欲しかったかな。
 役替わりは3パターンあり、それぞれ持ち味がかなり違うそうですね。劇団ファンには通うのが楽しい公演かもしれません。原作漫画がまた広く読まれることになればうれしいし、私もこの劇団をもう少し観てみたくなりました。



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『危険な関係』

2017年10月27日 | 観劇記/タイトルか行
 シアターコクーン、2017年10月23日19時。

 パリ社交界に君臨する妖艶な未亡人メルトゥイユ侯爵夫人(鈴木京香)は、かつての愛人ジェルクールへの恨みから、その婚約者セシル・ヴォランジュ(青山美郷)の純潔を踏みにじろうと画策する。助力を求めたのは稀代のプレイボーイで、メルトゥイユとは長きにわたりあらゆる悪だくみを共有しているヴァルモン子爵(玉木宏)だ。だがヴァルモンは、伯母ロズモンド夫人(新橋耐子)の屋敷に滞在している貞節の誉れ高きトゥルヴェル法院長夫人(野々すみ花)を誘惑しようとしているところで…
 作/クリストファー・ハンプトン、翻訳/広田敦郎、演出/リチャード・トワイマン、美術・衣裳/ジョン・ボウサー。ピエール・ショデルロ・ド・ラクロの書簡体で展開される恋愛心理小説を原作に、1985年初演。原作の書かれた18世紀末と戯曲の書かれた1980年代、そして2017年の日本を結ぶ形で再演。全2幕。

 原作小説も大好きですが、宝塚歌劇版『仮面のロマネスク』であれば、花組再演版の感想はこちら、花組版はこちら、宙組版はこちら
 というわけで宙組版でメルトゥイユ侯爵夫人を演じたスミカのトゥールベル夫人役(今回の表記はトゥルヴェル法院長夫人)が観たくて出かけてきましたが、とてもおもしろく観ました。前日に「帝劇のカテコは長いのが嫌なんだよなー」と、席が通路際なのをいいことに二回目のラインナップでは席を立って劇場を出てきてしまったのと裏腹に、二階席最前列で立つのは怖かった&後ろの迷惑になるかもしれないなと思いながらも素でマジでさっさとスタオベしましたよ私…
 ペ・ヨンジュン主演の韓国映画『スキャンダル』のトゥールベル役に当たるチョン・ドヨンにもそういう雰囲気はありましたが、確かにトゥルヴェルというキャラクターは「ただ内向的で地味で貞淑」な女性であるはずがなく、純粋さや自らの貞淑さを狂信するあまりの一周回ったエキセントリックさ、情熱を持っている人だと思うのです。スミカがプログラムで語る、「夫を愛する貞淑な妻であり、信仰心も篤い"幸せな自分"は、ほかの女性たちとは違うという自惚れ」を身にまとう、「慎ましやかだけどとても激しい女性」であり「無意識に男の人を誘惑してしまう」ところすらある、言うなればちょっとトンデモな人間、という分析は至極正しいと思いました。そしてそれをスミカがあますところなく体現してくれるのでした。そのチャーミングさ、磁場に引き寄せられないはずはない!
 この作品ではセシルの若さは愚かさや、醜さ…と言うのが乱暴なら洗練されなさ、とイコールです。登場からミニ丈のドレスを着ていてもほっそり美しいという印象は与えず、武骨で鈍重だと感じさせます。そういう体型の女優を選択しているのだろうし、そういう態度を取らせ演技をさせているのです。
 対してメルトゥイユは膝丈のドレスですっきりとお洒落、でも明らかに中年だし話すこともふてぶてしく憎々しいほどの内容で、あまり美しくもなく魅力的でもない…と私には思えました。
 だから、丈の長いドレスを着て、でも腕は剥き出しというトゥルヴェルの様子がいかにも衝撃的だし、そのエキセントリックさ、ヒステリックなまでの激しさが痛々しくも愛しくもあり、すこぶるチャーミングに映るのでした。これはヴァルモンが取り込まれてしまっても仕方がないでょう。その情熱は彼が、そしてメルトゥイユがとうに失い、また否定し続けてきたものなのです。彼女はその渦中にある。それが彼を惹きつける。
 ヴァルモンはトゥルヴェルに吸引されて結局はともに滅するのであり、メルトゥイユはロズモンドやヴォランジュ(高橋惠子)とともに残り、目隠しでする危険なゲームを続けていきます。恋人同士のふたりには広く愛の褥にもなったソファが、中年女三人で腰かけるとなんと窮屈なことか…! まざまざと見せつけてくれる最終場でした。

 時代設定や歴史考証どおりのお衣装を着せる気がないのだとすれば、セットというか装置についても考えざるをえず、なので今回の上演場所である日本ふうに…というセットというか装置は、でも私は全然嫌ではありませんでした。こんな日本あるかい!みたいななんちゃって日本、似非ジャポネスクではなくて、畳や襖からイメージされているんだろうけれどもっと抽象的な舞台空間になりえるセット、というようなものに上手く昇華されているようで、私は美しいなと感じたのです。そのうえで日本的な抑圧、みたいなものは十分感じられましたしね。
 そんな中で、獲物のはずの女に引っ張られて破滅する男と、その男を利用するだけでなく真の魂の友として求め続けていたのに裏切られ残るしかない女…の物語として、私は今回の舞台に激しく心揺さぶられ、ものすごく楽しく観たのでした。だからラインナップは鈴木京香がラストの方がふさわしいのにな、と思いましたよ…
 白靴下を履いてザッツ・童貞なダンスニー役の千葉雄大くんもいいパピーっぷりでしたし、法院長やベルロッシュは出てこないことに意味があるし、セシルとどう違うのかわからないくらいの娼婦エミリー(土井ケイト)も素晴らしかったです。あとアゾラン(佐藤永典)や家令(冨岡弘)の在り方も、おもしろかったしよかったです。
 『仮面ロマ』はやはり激しく宝塚ナイズされているのだなと改めて理解できましたし、その上でこのある種不毛な原作小説を私は愛しているので、また機会があればいろいろなものを観てみたいなと思いました。

 プログラムでスミカがしているネックレスは、小道具なのかしら自作なのかしら…アシンメトリーがキャラクターを如実に表現していて素晴らしいです。いつかスミカのヴォランジュそしてロズモンドが観たいものです。さぞ素晴らしかろうよ…!
 イヤまずは大空さんのメルトゥイユにスミカのトゥルヴェルなんでのもいいのにな…と、結局は宝塚脳ですみません。でも久しぶりに複数回観たい! あと翻訳がとてもよかったので戯曲として読みたい!と思った舞台でした。







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『レディ・ベス』

2017年10月24日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 帝国劇場、2017年10月22日13時。

 2014年の世界初演から、2年半ぶりの再演。
 初演の感想はこちら
 この日の役替わりはベス/花總まり、ロビン/山崎育三郎、メアリー/未来優希、フェリペ/平方元基。
 前回も今回も1回ずつの観劇で通い詰めているわけではないので、どんな変更があったかとかは語れないのですが、個人的には前回より「もっとおもしろくなるはずなのに!」と思う度合いは減ったかな、という印象でした。おもしろく観ました。
 でも、まだまだ圧倒的に台詞が、言葉が、説明が、芝居が足りていないと思いました。たとえば、同じ歌ばかりのミュージカルである『エリザベート』は、もう何度も上演されていて観客も内容をほぼ周知で勝手に話の流れやキャラを補完できるから…という部分ももちろんあるかもしれませんが、やはり必要十分なことは歌や台詞でみんなきっちり語られているのです。各登場人物がどういう立場、どういう状況、どういう性格、どういう考えの人で、どういう想いを抱いての行動なのか…歌詞だけでなく台詞でもきちんと語られ説明されていて、そこに各キャストの演技や歌唱力が加わって、楽曲がキャラクターとドラマをくっきり立ち上げていて、それで感動を呼べているんだと思うのです。
 この作品は、たとえば冒頭が大きく変わってわかりやすくなっているそうですが、そういう状況説明はわりにできていると思うんですけれど、まだまだキャラが弱いしその感情が見えてこないから、ただパラパラと歌で紡ぐだけの、壮大ではあるけれど心理的に親近感を持ちづらい、単なる叙事詩みたいになってしまっていると思うのです。装置もお衣装もとても素敵、もちろん役者も実力十分で魅力的。そして題材にもとてもいいものがあると思うのです、だからとてもとてももったいない。もっと演出家が、脚本レベルで手をかけてあげて掘り下げてあげないと、キャラとドラマが観客に伝わりづらいと思います。そこは改善の余地があると思うなー、逆に言えばそれができればとても現代的な、今後も再演されていくに足る名作たりえると思うんだけどなー。
 私が一番いいなと思うのはタイトルで、それはこれが、ヒロインがクイーン・エリザベス一世になる前の、単なるレディ・ベスにすぎなかった頃の物語だからです。王の娘であり王位継承者ではあってもあくまで一貴婦人程度にすぎなかった少女が、女王に即位するまでの物語である、ということがタイトルに如実に表れている。そこが素晴らしい。そしてわかりやすい。
 だからこそ、「エリザベス一世」と言われて一般に人が思い起こすようなイメージとは違う、この作品ならではのベスの姿を、冒頭でもっとくっきりと描き出して、観客のハートをガッチリつかみ、このお話の世界に引き込まなければなりません。それにはただハナちゃんが変わらず若くて可愛らしいわね、だけではダメなんです。そのハナちゃんが扮しているベスというヒロインが、どういう性格のどういうキャラクターなのかをもっと提示しなければなりません。役者が演技だけでできることには限界があります。現状、圧倒的に台詞が、芝居が足りていないと私は思う。
 冒頭の場面で、彼女がどんな経緯で生まれ、父王の死去により姉メアリーが女王として即位したかはわかった。で、その後ベスにしっかりした家庭教師のアスカムとよく気がつく優しい侍女のキャット(涼風真世)がつけられたのもわかって、子役からハナちゃんに変わって田舎の屋敷の庭で本を読んでいる姿を見せるのはいいとして、でもそれだけでは彼女が今どんな少女に成長したのか、どんな人間になりそうなのか、わからないじゃないですか。暴君と評判の父を愛し敬い、その娘であることに誇りを抱いていて、淫売と呼ばれ処刑された母のことは疎んじ嫌っていることは描かれているけれど、そういうこととは別に、もっと単純に、性格として、彼女の人間性を、特徴を示してほしいのです。
 私だったら、田舎で淋しい環境だけれど周りの愛情たっぷりに育ち、賢くて才気煥発で茶目っ気があって愛嬌があって、みんなに愛されまたみんなにも愛情深く、その愛を向ける先をさらに探しているような娘にします。近隣の村へ行くことは止められているけれど、行ってみたい、人々と交わってみたい、広い世界を知りたいと、冒険心を押さえかねている。姉には遠ざけられているけれど、同じ父を持つ姉妹としてもっと親しくなりたいし、女王としてがんばる姉の役に立ちたい、いつか首都に呼んでもらいたいとも思っている、未来を信じる明るい娘。
 もちろん、信心深くて引っ込み思案でおとなしくて、周りの言うことを聞いて敷地の外に出るなんてとんでもないと信じている、おしとやかなタイプにするのもいいでしょう。首都の宮廷に呼んでくれない姉に恨みがましい想いを抱いていて、今に見ていろいつか私が女王になってやる…と思っているようなキャラにする手もあるのかもしれません。それは好みの問題です。とにかくどれかに絞ってその特徴をガツンと示し、観客に「この子はそういう子なのね」と納得させ、そして彼女の魅力で話を引っ張っていかなければならないのです。そこが弱い。
 彼女がどんな子かわかって、親近感を持ち魅力的に感じ彼女を応援してあげたいなと観客が思えれば、彼女に感情移入して、ロビンとの冒険にももっとときめけるし、メアリーの仕打ちにもっと怯え嘆き怒れると思うのです。そうやって感情が揺さぶられないと、ただ起きる事件を傍観者のように眺めているだけではおもしろく思えないのです。そこが残念。

 プリンセスに生まれるなんていいじゃない、富と権力が手にできるなんてうらやましいわ、ちょっとしきたりが大変とか不自由があるとかいっても我慢できるでしょう、代わりたいくらいだわ…と思う人はけっこう多いと思うのですよね。そしてだからこそ首切り役人の扱い方はとてもおもしろいと思います。高貴な身分に生まれ王冠に手が届くかもしれない立場になるということは、常にライバルから命を狙われ殺される危険があるということなのです。一般庶民はそんな富や権力を手にできない代わりに暗殺の心配で夜も眠れないということはない。でもベスは常に首切り役人の悪夢を見る。これは象徴的ですよね。
 それが、ロビンと愛し合い一夜を共に過ごすことで、初めて夢も見ずにぐっすり眠る幸せを手に入れる、というのも素晴らしい。それがごく普通の幸せ、あたりまえの生活なのです。だが彼女の生まれはあたりまえのものではなく、それは一時のものにすぎなかったのだ…これはそんなお話です。
 一幕ラストがザッツ・イケコの、ヒロインが絶唱し全キャストがコーラスして盛り上がるものなのだけれど、ここの歌詞というかこの歌の意味も今ひとつわかりづらくて残念なんですよね。私はここで、ベスはこれまでメアリーにどんなに冷たくあしらわれても姉を愛し敬い親しもうとし愛されようと努めてきたけれど、ことここに至ってはもう駄目だ戦うしかない、彼女を廃しいつか自分が王になってやる、と決心し、それでこの歌を歌うのだ、とした方がいいと思いました。姉は狭量だ、世間でも人気がない、私だって勉強してきたし私の方がいい王になれる自信がある、そんなにひどいことをやってくるならこっちだってやり返してやる、ついに反旗を翻すことを決意した、でもそんな私の心の中をあなたは見抜けない、捕らえようと閉じ込めようと心は自由で他人には見えない、私は戦う…!というのは、好戦的かもしれないけれどドラマチックで感動的だと思うんだけれどなあ。今、ベスが「あなたは私の心の中は見られない」みたいなことを歌っていても、メアリーにどころか観客にも見えていないんだからそれじゃダメだと思うんですよね…
 『エリザベート』は自由を求めて皇后としての責務から逃げ出し、家族も国も捨てようとした女性の物語ですが、『レディ・ベス』は自由に生きようと誘う恋人と別れて国家に嫁ぎ女王になるベスの物語です。それは愛を捨てたとか幸せを犠牲にしたということとはちょっと違っていて、どちらがより自分らしいか、自分が自分を肯定できる生き方か…という選択にすぎないのだと思うのですよね。彼女は王の娘として生まれ、そのことに誇りを持ち、それにふさわしい人間であろうとして学識も教養も深めてきた。アイデンティティがそこにあるのです。だから確かに愛も普通の暮らしも大事だけれど、犠牲にするとかそういうこととは別に、国のため、国民のためもあるけれど、何より自分自身のために王冠を受ける、王として生きることを選び取る。そこが潔くて、感動的だし、素敵なんだと思うのです。だから現代に生きるキャリアウーマンにも響く…というのはあまりに安っぽい言い方ですが、でも意外にこうしたヒロインの生き方を描いた物語ってないので、そこがいいんだと思うんですよね。
 ヒロインの相手役であるロビンが、いつまでもあまり女々しくなく、それこそ「仕事と私とどっちが大事?」みたいなことをねちねち言うことなく、わりと素直に跪き、女王陛下に対する礼を取ることに私は感動しました。『翼ある人びと』で、才能に恵まれた主人公をヒロインは「あなたは自由になるのよ!」と叫んで手放し行かせますが、その逆とでもいうのかな。自由になろう、普通の暮らしをしよう…と一度は誘ったけれど、彼女が自分らしい生き方をすべく過酷な宮廷にあえて行くと言うのであれば、それを応援して送り出し、自分は身を引こう…そんな大きな愛が、見えました。
 そして黄金の王冠をかぶり玉座につくヒロインは確かに雄々しく凛々しく神々しいのだけれど、それでもやはり王冠は大きすぎ重すぎるように見えるし、周囲は跪いて仕えてくれていてこの先支えてくれもするのだろうけれど、やはり彼女がひとり孤独に重荷に耐えていくように見えることは間違いない。試練も多いことだろうし、これを物語としてのハッピーエンドとしては捉えづらいかもしれない。なのでそれこそイケコなら、『ロミジュリ』天国展開というか、すなわちベスがロビンに、「いつか王を必要としない国が築けたら、そんな時代が来たら、そのときもう一度生まれ変わり巡り合いましょう」と言うくらいしもよかったのになー、と思いました。♪誰が誰を愛しても許される世界、ですよ。残念ながら今なおそういう世界は訪れていませんが、かつてこうした人々が誠心誠意努力し働き国を動かし世界を変えてきたのだ、今はその途上なのだ…というメッセージで締め、というのはたとえばどうかしらん?
 あと、話は戻りますがメアリーはハマコではなくカナメさんにするというのはどうだろう…つまりあまり意地悪おばさんに仕立てるのではなく、同じ王の娘として生まれ良き女王たろうとして、でも上手くできずに病に敗れ去る姉と、対立したし憎みもしたけれど今はその遺志を継いで新たに立つ妹…みたいな美しい姉妹の話にしてもいい気がしたんですよね。シスターフッドの物語というか、女性同士の先輩後輩みたいな関係の側面を出してもよかったのではないかと。
 そんな要素がいろいろあるおもしろい作品で、もうちょっと手を入れたらなお良くなるのに、それでやっと完成なのに…という気が私はしましたが、すでにもう定番の人気演目として根付いているのでしたらすみません…
 
 ところでハナちゃんは、私は歌手としていいと思ったことは一度としてなく、当人比ですごく上達していると思いましたがやはりミュージカル女優という柄ではないのではないか…と今回も思いました。ストレートプレイで実際の歳に近い役とかはやらないのかなあ? いつまでもお姫様をやるには確かにミュージカルの魔法が必要なんだと思うのだけれど、それって役者として狭すぎる活動なんじゃないのかなあ? というかもっと他にミュージカル・ヒロイン女優っていると思うんですけれとねえ、たとえトップ娘役OGに絞ったとしても…不思議です。不満ということではなくて、単に不思議…







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宝塚歌劇花組『ハンナのお花屋さん』

2017年10月22日 | 観劇記/タイトルは行
 赤坂ACTシアター、2017年10月20日13時。

 花咲き乱れる6月、ロンドンは最も美しい季節を迎えていた。閑静な高級住宅地ハムステッド・ヒースの一角にある「Hanna’s Florist」はデンマーク人のフラワーアーティスト、クリス・ヨハンソン(明日海りお)が営む花屋で、そこで働く従業員たちには活気があふれていた。ある時、クリスが栄誉あるヴィクトリアンフラワーショーに入賞し…
 作・演出/植田景子、作曲・編曲/斎藤恒芳、瓜生明希葉、協力/認定NPO法人難民を助ける会、葉祥明美術館。全2幕。

 演目、というかタイトルが発表になったときの周囲のさざめき具合が印象的でした。絵本のような、童話のような、牧歌的なタイトルそのままの、ハートフルなちょっといい話…みたいなものを展開するつもりなんだろうか、たとえば私は生では観てないけれど映像で見てまあまあいいかなと思った『プチ・ジャルダン』みたいな群像人情劇に仕上がるならまあいいかもな…みたいに考えて、評価を保留していました。
 配役発表があって、キャラクターの国籍・人種設定にきな臭いものを感じ、現代劇でもあるようだし、今なお解決に至っていないデリケートな問題である民族紛争とかを付け焼刃の勉強で得た生半可な知識でこれ見よがしに展開するつもりじゃないでしょうね、国籍とか国境とか国家とか人種とか民族とか母語とかに関しては日本は特殊な環境にあるんだから、そんなところから見ただけの浅薄な知識だけでよそのことに口出しするのは絶対にやめた方がいいよ、と激しく心配になりました。
 初日が開いて、やはりそういう方面で違和感を感じる感想や、逆に人生や仕事などについて考えさせられたいい作品だった、感動したといった感想も聞こえてきて、さてでは自分はどう感じるかな…と、あくまでフラットに観ようと、楽しみに出かけました。
 が、意外なことに…怒るのでもなく、また感動するのでもなく、単純につまらなくて退屈してしまいました、私は。その稚拙さに怒り震えた『邪馬台国の風』よりも、壊れた宗教のようで怖さに震えた『CAPTAIN NEMO』よりも、ある意味でつらかったです。まさか自分が景子作品で退屈するとは思っていなかったんですけれどね…しかしこの三連コンボはつらかったなー。なのに同時期に『All for One』が生まれ『神々の土地』が生まれ、『琥珀色の雨にぬれて』が再演されるんだからホント宝塚歌劇の振り幅って広いですね…

 それにしても私は何にそんなに退屈したんでしょうね? 景子作品らしくセットというか装置は綺麗で、新しい作曲家さんの音楽は新鮮で、生徒もタレント揃いで、でもなんか話が全然始まらない印象だったのが大きいかな。というかみりおクリスの、設定はわかったけれどキャラクターが私には上手くつかまえられませんでした。
 二幕の送別会で、従業員たちからけっこう雑に扱われている様子はとてもチャーミングだなと思ったんですよね。みりおが演じるキャラクターの在り方として新鮮な気がしたし、でもみりおの素に近い感じもあってすごくよかったです。あれをもっとアタマにおいてくれればもっとわかりやすかったのに、と思います。
 というかもっと全体にベタに作ってほしかったです。コツコツがんばってきたら認められて、大きなチャンスもやって来て、でも本当にこれでいいのかな…とちょっと立ち止まり中の青年。モテるんだけどフラれがちで、それは捨て猫をやたらと拾ってきちゃったりメールがやたら頻繁でウザかったりといった、ちょっと残念なところもある男だからで、そんな主人公がある日、事情を抱えた女性と出会って…っていう、ベタな流れでいいと思うんですよ。ふたりが惹かれ合ったり反発し合ったりする中で、主人公が抱えていた父親への屈託が解消されて本当にやりたかった新事業の姿が見えてきたり、ヒロインの方も弟を死なせてしまった罪悪感から逃れられて、幸せになることへの怯えを捨てられる…みたいな話をきっちり見せてくれれば十分だったのではないでしょうか。で、実は彼女も猫を拾っちゃうタイプだしメールがウザいタイプだったんですよお似合いだねちゃんちゃん、というお話でよかったと思うのです。
 だからミア(仙名彩世)の出身国も別に架空の国でかまわなかったと思いますし、舞台がロンドンなのはともかくクリスの母国がデンマークであることも別にどうでもよかったかもね…
 この作品で扱われている人種問題に関しては、私は予想していたほどざらりとすることはなくて、せいぜいが、クロアチア人であるミアをいじめるのがセルビア人、みたいな展開が乱暴だなと鼻白んだくらいでした。そういういじめというか衝突があったのだとしてもその理由が人種や民族のせいだとは限らないし、経緯や真相は全然説明されないし、百歩譲ってそうだったのだとしてもだとしたら職場のそんな揉め事を正すのは経営者の役目のはずで、エマ(花野じゅりあ)はそれもせずただ愚痴ってるだけみたいなのってどーなの?と引っかかったくらいでした。
 ライアン(綺城ひか理)が野心的なのはアイルランド人だからではなくて彼個人がそういう性格だからだろうし、ヤニス(飛龍つかさ)が色男なのも彼がギリシャ人だからでなくてもいいでしょう。アナベル(音くり寿)が生真面目なのも同様です。ここに人種や国籍を持ち込む意味がわかりません。でもまあ流せました。
 でも、チェンリン(美花梨乃)だけがワーキングビザがどうのこうので帰る帰るって話が何度も出てくるのはなんなの? 台湾籍で中国籍でないことについてはスルーなの? 彼女自身は今ロンドンにいたくているの? そうじゃないの? トーマス(優波慧)とどんな恋愛をしていることになっているの? 今どきそれこそネットでつながる手段はいろいろあるはずだけれど、そのあたりもスルーなの? グローバル時代の新しい恋愛・つきあい方の形を描くとかでないなら何故こんなエピソードがあるの?
 あと、そういった問題とはまた種類が違うけれど、クリスがアナベルに「踊ってみせてよ」みたいなことを言うのってものすごく乱暴だし無神経じゃないですかね? 仮にもプロを目指していたダンサーが、怪我で断念して、今はレッスンもしていなくて、当然今だってウォーミングアップも何もしていなくて、それでたとえたかだか1分だろうとソロの踊りができるわけないじゃん。景子先生は自分が「あんた、芝居書いてんだ? へえ、何かちょっと書いてみてよ」とか言われたらどんな気がすると思ってるんですかね?
 なんか、そういういろんなことが私にはとにかく雑に感じられて、怒る以前にちょっとあきれてしまったのかもしれません。

 みりおにお花屋さんなんてピッタリっぽそう、というのはいい。花は綺麗だよね、癒されるよね、花を愛でる小さな喜びみたいなものが人生には必要だよね、そういうものを生み出すような仕事ができたら幸せだよね…というテーマ、メッセージも、いい。
 でも、それがドラマとして、ストーリーとして、舞台作品として、具現化できていない気がしました。具体的なエピソードや事件がないままに、キャラクターもなく、ただ漠然と設定だけがあるような登場人物たちがそれっぽいことを直接台詞で言ってしまっているだけに、私には見えました。だからつまらなかった、退屈したのです。私はお芝居を観たかったから、ドラマを楽しみたかったからです。いろんな楽曲やダンスナンバーがあってミュージカルっぽくはなっていたけれど、肝心のストーリーがありませんでしたよね…
 大きな事件ゃドラマチックな出来事はなくても、日常を丁寧にまた淡々と描きながら、世界や人生の哲学を描き出して見せるようなタイプの物語ももちろん存在しますけれど、これはその域にはとても達していない作品だったと私は思います。手抜きというか、アイディア不足というか…それが嫌で、楽しめませんでした。
 クリスたち現代のロンドンと対比させるつもりだったのかもしれない過去のデンマークのアベル(芹香斗亜)パートも、そこまで効果的だったようにも思えず、『人魚姫』からのモチーフも効いていなかった気がします。舞空瞳ちゃんのヒロイン力、娘役力みたいなものは十分感じられたんですけれどねえ…
 クリスとジェフ(瀬戸かずや)の相棒ソングみたいなものももっとアタマにあった方がいい気がしましたし、とにかくすべてが大味というか焦点がない感じというか雑で中途半端な感じがして、私はダメだったのでした。すみません。

 それでも一応ハッピーエンドで終わるのだし、だとしたらフィナーレは余計だったのではないかしら…お衣装はともかく、すごくおもしろい振りでも場面でもなかった気がするし、せめて休憩込み2時間半でまとめてくれたらまだ傷が少ない感じがしました。
 ヒロイン・ゆきちゃんの扱い以上に、図書館職員の扱いが気に障りましたし、エディントン(羽立光来)にもまったく笑えませんでした。というか笑わせようとする意味がありますかね? 彼が提案するものがものすごく魅力的なビジネスチャンスに見えた方が、クリスが結果的にそれを選ばないという展開が効いてくるんじゃないですかね? あんな間抜けの言いなりになるわけないでしょ?って出オチさせちゃダメじゃん。てかホント笑えないんですけどね単に。
 生徒は力量ある人ばかりで、ファンも多いだろうに、どういう思いで通っているのかなあ…と思うと、大きなお世話かもしれませんが気の毒に感じました。とてももったいないと思いました。
 イヤいいんです、みなさんが、感動した、生きる勇気をもらった、仕事や人生について考えさせられた、がんばろうと思った…となっているのなら、それはそれで。贔屓が素敵で魅力的でカッコよくて最高だ、と思えているなら、何よりです。
 ただ、「地雷より花をください」は正論だしそのとおりだからそれはいいんですけれど、それは別の人が作ったものなのだから安易にまるっと取り入れてどーする、と思いましたし、「♪マトカ~」とか歌って家族の尊さみたいなものを押しつけていた『ネモ』とやっていることは精神的に同じだよね?って感じがざらりとして嫌でした。あまりに現実的な、決着がついていないような題材はやはり「清く、正しく、美しく(そして朗らかに)」の宝塚歌劇にはやはり不向きなのではないのかなあ…チャレンジ精神は買わないこともないんだけれどなあ…と思うのでした。
 
 キキちゃんが組替えで役と作品に恵まれることを、切に切に願っています。
 




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マーゴット・リー・シェタリー『ドリーム』(ハーパーBOOKS)

2017年10月20日 | 乱読記/書名た行
 1943年、人種隔離政策下のアメリカ。数学教師ドロシー・ヴォーンは「黒人女性計算手」としてNASAの前身組織に採用される。コンピューターの誕生前夜、複雑な計算は人の手に委ねられ、彼らは「計算手(コンピューター)」と呼ばれていた。やがて彼らは宇宙開発の礎となり、アポロ計画の扉を開く…差別を乗り越え道を切り開いた人々の姿を描く感動の実話。

 先に映画を観てしまっていたため、つまらなく感じちゃうかなと心配していたのですが、そんなことはありませんでした。
 映画はとてもシンプルにストレートにてらいなく変な誇張もなく、実に質実剛健に作られている印象でしたが、やはり省略されてしまった部分はあるもので、この原作のドキュメンタリー小説というかルポルタージュはより複雑で繊細で、特に戦争など、さまざまな要因が絡み合った結果のこの歴史、史実、現実だったのだなと痛感させられました。
 事態の一進一退ぶりとか本当に手に汗握りましたし、不当さへの悔しさや理不尽への怒りに震えたり、それらも負けずに正義や理想や志がゆっくり報われる様子に胸が熱くなったり涙したり、忙しい読書となりました。
 そしてこれはわりと最近の話なのであり、今なお完全な差別撤廃はなされていないのであり、現在を生きる我々にも課されている課題なのだなと改めて感じました。そしてその後、いつかは火星や木星にも…と言われていた宇宙に今、目がいかなくなっていることに対しても、とても思うところがあります。
 私は人類は銀河宇宙などそんなに遠くまでは達せないうちに、あと3世紀くらいで滅亡してしまうのではないかと思ってはいますが、だからといって今をおろそかに生きていいということにはなりませんし、理想の実現に向けて日々たゆまぬ努力を続けるべきなのだ、希望は持ち続けるべきなのだ、と改めて考えさせられたのでした。
 …しかしあれだけモメた映画の邦題やキャッチについてあまりにも無関心なのか、カバー表4のあらすじ説明でなおマーキュリー計画ではなくアポロ計画を持ち出す見識のなさについては激しく問いたいです。だからダメなんじゃねーのこの世の中…


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