駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇花組『Ernest in Love』

2016年02月26日 | 観劇記/タイトルあ行
 梅田芸術劇場、2015年2月13日マチネ。
 中日劇場、2月25日ソワレ。

 19世紀末のロンドン。ハートフォードシャー育ちの貴族、アーネスト・ワージング(明日海りお)はかねてから想いを寄せるフェアファックス家の令嬢グウェンドレン(花乃まりあ)にどのようにプロポーズすべきか思案していた。グウェンドレンが母親のブラックネル夫人(悠真倫)と共に、彼女の従兄弟であるアルジャノン・モンクリーフ(芹香斗亜、鳳月杏の役替わり)の屋敷を訪れる予定であることを知ったアーネストは、早速彼の屋敷を訪ねるが…
 原作/オスカー・ワイルド、脚本・作詞/アン・クロズウエル、作曲/リー・ボクリス、日本語脚本・歌詞・演出/木村信司。全2幕。

 去年の国際フォーラム公演の感想はこちら
 梅芸で去年と同じキキジャノンにしろきみセシリイ(城妃美伶、音くり寿の役替わり)のAパターンを、中日でちなジャノンとくりすセシリイのDパターンを観てきました。クロス配役のものは観られず残念でしたが、それぞれ違う芝居になっていたことでしょう。
 執事のレイン(芹香斗亜、鳳月杏の役替わり)がスター格になってちょっと気づいてしまったのですが、この作品ってそもそもは、庶民の視点から貴族を見てちょっと冷笑するような空気が、もう少しあるものなのではないでしょうか。レインに導入される形で、請求書を持って群がる労働階級の人々と共に芝居が始まるので、そしてそのレインがとてもはっきりスターで注目しやすいので、前回よりずっとそういう視点を強く感じました。
 だから貴族が名前ばかりで払いに渋くて困るとか、求婚もきっぱりすっぱりできなくてまどろっこしくて情けないとか、そういうことにもっと皮肉や風刺を感じて笑うべき芝居なんだろうけれど、でも宝塚歌劇として上演されるに当たってはそういう面はほとんど重要視されていず、ただの明るく楽しいラブコメに変換されてしまっているんだなあ、と改めて思ったのです。
 いや、宝塚歌劇で上演するんだから宝塚歌劇らしくあるべきで、シフトチェンジそのものはまったく否定しないんだけど、原作のこういうけっこう本質的な部分の持ち味をほぼ完全に抹殺するようなことをするくらいなら、最初からオリジナルで作品を立ち上げたら?とはちょっと思いました。ワイルドが草葉の陰で泣いているかもしれないぞ。
 西欧のような階級社会がない現代日本において感覚的にわかりづらい、とか、そもそも日本人って自分を笑うことに不慣れというか笑われることに慣れていないというかだから難しい、とか、いろいろ問題があることもわかっていますが、もうちょっと乗り越える努力をしてくれてもいいんじゃないのかなー、とは思ったのです。
 原作へのリスペクトとしてもそうだし、わからないだろうからって切り捨てていくばっかりだったらスカスカになっちゃうんだから無理してでも新しい要素を見せていくべきなのではないかと、私は考えているので。低きに流れるのって容易いからさ。
 まあでも二幕になってグウェンドレンとセシリイがいちゃいちゃしたりしてラブコメ度の加速がついてくるあたりから、楽しくなりすぎちゃって私もそういうことはどうでも良くなってきちゃうんですけれどね。
 というワケで、楽しく観ました。クラシックでレトロだなとは思いますが、チャーミングなミュージカルだなとも思っています。

 みりかのは確かに前回よりぐっと余裕が出て親密度も上がっていて、信頼の仕上がり。
 アルジャノンは、しょっちゅう物を食べたがるようなのんきさなんかはキキちゃんにピッタリかなーと思いましたが、「都会の貴族」たるべきチャラさ、遊び人感はちなつの方に出ていて、おもしろかったです。
 レインは私はちなつの方が鮮やかに見えて感心したなー。私はキキちゃんにノー興味ですが(達者だし、なんでもできるスターさんでいいなとは思うのですが、積極的にファンではナイ)、ちなつのこともフツーにしか好きじゃないと自分では思っていので、こんなにちなつレインにときめくとは自分でも意外でした。とにかく鮮やかで、生き生きとしていて、こういう、主人を食ってそうな使用人っているよね、と思わせられてニヤニヤしまくりました。
 キキレインは…使用人っぽくなかったということもないんだけれど、あまりおもしろく思えなかったんですよね。すごく地味になっちゃっている気がしました。そういう演技プランだったのかもしれませんが。
 しかしちなつは声がいいよねホント、これは武器だなー。
 セシリイは、しろきみちゃんって上手いなと改めて思いました。「ちっちゃな」セシリイであるために小柄であること、18歳に見えるような幼さがあることが必要とされる役で、くりすちゃんは素で有利なわけだし、実際にとても達者でキュートでしたが、でも私にはやはりまだまだ力任せでやっているだけというか、持っているものでやっているだけで鍛錬された技術ではないように見えました。ここからもう一段階、宝塚の娘役には必要なんですよね。それはまどかにも感じることです。若いし、これからこれから。
 でもくりすセシリイが引き出すアルジャノンやグウェンドレンの反応はしろきみちゃんへのものとは全然違っていて、それもおもしろかったです。
 くりすもまたいい声してますよねえ! 歌えることは知っていましたが、台詞の声が意外に低くてとても好み。これはみちるとかにも通じるかな。楽しみな娘役さんです。もっと綺麗になれると思うしね!
 たそのブラックネルも見たかったよね。じゅりあのミス・プリズムがまたくみちゃんとは全然違って、いかにもロマンス小説書いてそうだし赤ん坊を駅に置き忘れそうだしで、ラブリーでした。
 あとはうららちゃん、あかちゃんに目がいくなあ、と眺めてはうっとりしていました。
 役が少ないことには変わりがなく、私はこの演目はもっと小さいハコで、たとえばバウホールで下級メイン公演にするとちょうどいいのではないかと思っていますし、『ミーマイ』と時期的に並べて上演するとかホント馬鹿とちゃうか花P、くらいまで思っていますが、役替わりもあって組ファン、組子ファンは楽しく通えるのではないでしょうか。
 ただ、主演ふたりが同じままだから、映像化はされないのかな…残念です。


 





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『同じ夢』

2016年02月23日 | 観劇記/タイトルあ行
 シアタートラム、2016年2月18日ソワレ。

 千葉県船橋市郊外。賑わっているとはどう間違っても言えない商店街の一角にその精肉店はあった。主の松田昭雄(光石研)は二代目。初代である彼の父は奥の和室に寝たきりになって久しい。この家に住むのは昭雄の娘・靖子(木下あかり)との三人。店には先代から勤めるうさんさくさい見てくれの従業員・稲葉(赤堀雅秋)がいる他、ヘルパーの高橋(麻生久美子)が通ってくる。近所の文房具屋で飲み友達の佐野(田中哲司)も、たいした用事もないのにこの家に入り浸っている。真冬のある日、常にない客(大森南朋)が松田家を訪れる…
 作・演出/赤堀雅秋、美術/杉山至。全一幕。

 「THE SHAMPOO HAT」の名前は聞いたことがあったのですが観たことはなく、縁あっていそいそと出かけてきました。
 小さな劇場で、最後列の後ろに立ち見用のバーみたいなのがあるのは知っていましたが、壁沿いにまで立ち見があふれているのは初めて見ました。人気なのですね。
 昭和の香り漂う家の中での、でも厳然と現代の、家族や友人やそれ以外の人たち同士の、ごく日常的な、よくある、ミニマムなやりとりのドラマと、ある種のいたたまれなさや不穏さを見せつけるような舞台でした。わりと綺麗にまとまって終わったことには私はホッとしましたが、どちらかというと途中のその不穏当さ、ざらりとした感触を味わわせる舞台なのだろうな、そこが人気なのだろうな、と思いました。
 それはそれですごくおもしろかったし、こういうナチュラルなやりとり、台詞って書くの難しいんだろうなと思いましたし、こういうナチュラルな演技もとても難しいんだろうな、と感心しました。
 でも私はどちらかというと舞台には、こういうリアリティよりももっとオーバーでドラマチックなドラマを求めているんだな、と改めて再確認することになりました。
 ノンフィクションとかを読んだりテレビのドキュメンタリー番組を見たりもするので、フィクションでないとダメ、ということではないのだけれど、舞台って実際にその場で現実の肉体を持った俳優がリアルタイムで演技をするそれこそザッツ・ナマモノで、だからこそより虚構の世界を構築してくれないと、私はその生々しさに押されて負けてしまうのだな、と思ったのです。
 そういう生々しさ、ざらりとした感触、いたたまれなさなどは現実世界に十分にあって普通に自分が経験しているものなので、わざわざ舞台で再追認させられなくても間に合ってます、という気持ちに私はなってしまう、というか…
 これは単に私の好みの問題です。舞台なんてそもそも虚構のもののはずだからこそ、どこまでリアルに表現できるかが大事なんだ、という評価の仕方もあるはずですし、その評価軸ではとても素晴らしいと思いました。ただ単に私はそちらの方には興味がないんだな、とわかった、というだけのことです。
 そういう意味でも、おもしろい観劇体験でした。
 タイトルは後付だったそうですが、「いつでも夢を」が挿入歌として効果的に歌われ、でもテーマとしてはむしろ「同床異夢」とでもいうような、おもしろい仕上がりになっていたと思います。

 役者さんはみんな達者で恐ろしいくらいで、それからすると確かに新公学年みたいな木下さんは大変だったことでしょうね。でもすごく今どきの女子っぽくてよかったです。
 一番の怪演はやはり赤堀さんご自身でしょうか。すごかったなあ。
 それからテレビでよく見る俳優さんはみんな、実際の舞台で観ると思っていたよりけっこう大柄でびっくりするなあ、みたいなことをとても強く感じました。テレビで見ているとみんなもっと小柄に思えます…不思議。
 でも全員、舞台役者としてもとても素晴らしかったです。いいものを見させていただきました。






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宝塚歌劇花組『For the people』

2016年02月16日 | 観劇記/タイトルは行
 シアタードラマシティ、2015年2月14日ソワレ。

 1841年、アメリカ合衆国イリノイ州スプリングフィールド。弁護士で州下院議員のエイブラハム・リンカーン(轟悠)は無実の罪で訴えられている黒人を助けるべく、今日も法廷に立っていた。無罪を勝ち取ったものの、エイブは釈然としない気持ちでいた。人種に優劣などあるはずがない。黒人というだけで不利な立場を強いられる現状を見るにつけ、奴隷制をなくす以外に解決策はないとエイブは考える。ある日エイブは地元社交界のパーティで、トッド家の令嬢メアリー(仙名彩世)と知り合う。メアリーには奴隷制を容認する民主党の気鋭スティーブン・ダグラス(瀬戸かずや)がかねてより妻にしようと言い寄っていたが、メアリーはパーティで黒人の召使いの窮地を救ったエイブに心惹かれるようになる。一方マサチューセッツでは、黒人奴隷解放運動家フレデリック・ダグラス(柚香光)が演説を行っていたが、無許可で集会した罪で連行され…
 作・演出/原田諒、作曲・編曲/玉麻尚一、振付/麻咲梨乃、AYAKO、装置/松井るみ。全2幕。

 まず、ポスターがあまりにあまりで…リンカーン本人の肖像画ですよね?って感じの出来なんですけど、そんなムサくてゴツいおじさんのリアルを追求しても宝塚歌劇を観に行くるんるん気分になれないよ、とか、そもそも花組子を誰ひとり出さないんだ?とか、つっこみたいことは多々ありすぎました。でもまあ私には「観ない」という選択肢はナイので一応おとなしくしていました(あれで?というつっこみはナシでお願いします)。(あと脱線しますが、たとえば最近だと博多座の配役とか、観に行く予定がない人ほどガタガタ言うよねってことに最近私はやっと気づきました。観に行く人はガタガタ言っても仕方ないので言わないんですね、あと否応なく行かざるをえないくらいファンなのでいろいろ言えないんですね。ホントやっとわかったわ…行けない事情は人それぞれだし観たくなきゃ観なくて全然かまわないんだけど、「ま、行かないけど」とか簡単に言いつつガタガタ言う人とはおそらくお友達になれないしそういう人の言動は気にしても仕方がないんだとやっとわかってきたのです…何かあったのだと察してください。あ、でも私も、必要以上にリピートする価値が私にはないと判断した演目についてはけっこうガタガタ言うか。すみません…あくまで自分に甘い。こんな私とお友達でいてくださる方々、ありがとう…)
 しかし「歌劇」の座談会がホントーにおもしろくなくて(個人の感想です)、さんざん口を酸っぱくして言ってきた「観客は偉人伝が観たくて劇場に出向くんじゃないんだからね? わかってるんだろうねダーハラ?」というような呪詛(笑)を年明けからずっとつぶやいていました。
 初日に好評レポツイが流れてきても、正直言って半信半疑でした。暴れる気満々で、しかしなるべくフラットな気持ちで観よう…と、友会が当ててくれたバレンタイン最前列におとなしく座ってきました。
 まさか、まさかうっかり泣くことになろうとは…!
 幕間に動揺し、終演後にさらに激しく動揺したことはツイッターでもつぶやき済みでご存じの方も多いかもしれませんが、ホントにちゃんとしていたと思いました。よくできていた、よかった、おもしろかった。どうしたんだダーハラ!と失礼な叫びが止まらない程度には動揺しました、ええマジで。
 よくよく考えると、ごく基本的なことをしっかり抑えて作られている、まったく平均的で及第点的な作品であり、佳作でも傑作でも全然ナイとも思うのですが、『るろ剣』『アーネスト』と観た遠征でこれが一番ストレスがなかったことは確かでしたし、『華日々』といい『白夜』といい『アル・カポネ』といい最近のダーハラ作品には煮え湯を飲まされまくってきて、ハードルを下げた分もあったとはいえやればできるときもあるんじゃん!とホントに感心したので、そこは素直に評価し褒めておきたいと思います。毎度エラそうですみません。しかし宝塚歌劇150周年観劇を目指すファンとしては、脚本家育てもがんばらないとなりませんからね。こういう無駄な義務感がウザいのかもしれませんが、これが私です、すみません。
 以下つらつらと語ります。

 
 さて、リンカーンといっても、私ははるか昔に学校で勉強したような、「人民の人民による人民のための政治」という演説をした大統領で奴隷解放宣言をした人、という程度の知識しか持っていませんでした。彼を主人公にした映画なども近年いくつかありましたが、まったく観たことがなく、彼がどんな生まれでどんな育ちでどんな人でどんな恋をしどんな生き方をしたのか、まったく知りませんでした。
 彼がどんな政治家で何を成し遂げたのか…そんなことだけを見せられるような舞台になることを心底恐れていたのですが、杞憂でした。ちゃんと彼の人となりが描かれ、恋と青春、理想と現実との葛藤、挫折や成功といった生き様、ドラマが描かれていました。
 理想に燃え、進歩的な考えを持ち、その一方で信心深く、熱く血気に逸る青二才…前半の髭ナシのイシちゃんは、そんな青年像をキラキラと演じてくれていました。さおたさんがまたよくて、彼が勤める弁護士事務所の上司なんだけれど、彼を慈しむ視線が優しくて、エイブが「スチュアートさん!」と懐く様子がまたいじらしくて。こういう関係性をきちんと描いて登場人物たちの人となりを表現し、特に主人公を魅力的に見せる手腕がまさか原田先生にあるなんて…!というレベルで驚愕しました。本当のことを言えばこんなこと劇作の基本中の基本なんですけれど、今までそれができていないものばかり見せられてきたわけですからね…!
 また、ゆきちゃんメアリーのヒロイン力が素晴らしいわけですよ。スカーレットもかくやという白いドレスで現れる、名家の令嬢、そのあたりを払うばかりの美貌! そして黒人の召使いが飲み物を落としたときに、彼女を糾弾するのではなく彼女のエプロンに付いた汚れをぬぐってあげる優しさを見せたエイブに、メアリーは好印象を持つのでした。彼が汚れをぬぐったままポケットに戻したチーフを外させ、代わりに自分の髪飾りから花を抜いて彼のポケットに差してあげるメアリー。しばらくして洗ったチーフを事務所まで届けに行っちゃうメアリー。可愛い、カワイイよ! お嬢さま育ちで周りの男性たちからちやほやされ慣れていてちょっと気が強くて、でも実は父親が黒人奴隷を働かせてプランテーションで財をなしたことに心を痛めていて、黒人の使用人を使役することに疑念を感じている、聡明で優しい乙女。そんな彼女が、やっと志を同じくできそうな男性と出会ったときのときめき、恋の始まりを、こんなエピソードで素敵に表現する力量がまさか原田先生にあるなんて…と以下同文。
 彼女に言い寄っていた恋敵にして、のちにエイブの政敵となるあきらスティーブンがまたよくて、こんなにちゃんとした三角関係を構築できる力がまさか原田先生にあるなんて…と以下同文。
 エイブとメアリーは駆け落ち同然に結ばれ、エイブは国政に打って出て奴隷解放を訴えるも、なかなか支持は得られず苦戦する。黒人の解放運動家であるれいちゃんフレデリックと知り合うも、一度は故郷に帰って出直して…
 何故最初のうちはダメだったのに共和党を立ち上げたら急に支持が集まったのかは謎でしたが(^^;)、まあ主人公には風が吹くものだからいいとしよう。スティーブンとのディベートに勝ち大統領の座を射止め、息子ボビー(少年時代は聖乃あすか、二幕は亜蓮冬馬)が勧める髭を蓄えたエイブは人種差別撤廃に向けて邁進する。だが南北戦争が勃発し…というところで幕、続く。ちゃんとしてます!
 スティーブンの論戦が一本調子なのは、いつもなら「ダーハラめ!」とイラつくところなのですが、今回に関しては話の流れから言っても現代の視点から見ても、スティーブンの論拠がそもそも曖昧なのだと思えるから、問題ありませんでした。
 二幕になってからも、政敵だったスティーブンがエイブの真摯さに徐々に打たれて考えに賛同するようになったり、国を分断する内戦である南北戦争をなんとか終結させようとする緊迫のドラマがありました。劣勢だった北軍があっさり勝利に転じるのもやや謎でしたが(^^;)、戦闘を表す定番のダンスシーンも力強く華々しく、よかったです。
 弁護士時代からの後輩のエルマー(水美舞斗)が参戦して戦死したり、父と折り合いの悪かったボビーが父に反抗するかのように入隊したり、それを止めないエイブを詰るメアリーとのドラマがあったりと、ストーリー展開も秀逸でした。また、このあたりは今なお戦争というものがなくなっていない現代でも考えさせられる問題でした。
 メアリーを慰め、エイブと和解するよう勧めるスティーブンがもう完全に二番手で、それが病魔に倒れちゃったりするもんだからもう爆泣きでした。ナニこのおいしい役! これこそ王子様よ、みんながこの人の嫁にこそなりたがるわよ…!
 主人公はヒロインのもの、これは鉄則。だからこそ観客が恋人になりたがる二番手ヒーローを上手く作れるかが勝負だったりもするのです。まさか原田先生に以下同文。さらに言えば、史実として不仲説があろうが悪妻説があろうが、宝塚歌劇として上演し妻をヒロインとする以上、ふたりのロマンスをきっちり描かなきゃダメですし、途中イロイロあろうが最後はラブいゴールを迎えなくちゃダメです。『Shakespeare』同様、それがきちんと抑えられていたのは素晴らしい。まさか原田先生に以下同文。
 スティーブンが祖国を想って歌う歌がまた、あきらが花組に対して歌っているようにも聞こえて、もう泣くしかありませんでした。
 さて、「アメリカ合衆国」とはよく言ったもので、アメリカは当時はまだまだ「ひとつの国」という意識が少なく、人々は生まれ故郷である州にこだわりこそすれ、国としては分裂したり脱退したりとまだまだおちつかなかったのでしょう。一幕では無駄遣いに思えたリー将軍(英真なおき)も二幕ではいいドラマを展開し、エイブは山越え谷越え南北戦争をなんとか終戦に持ち込み、奴隷解放宣言もし、家族とも和解し、未来に向けて再び歩き出そうとして…そして凶弾に倒れたのでした。
 エイブがフレデリックに「いつか黒人の大統領が」と言ったその人は、今現在その国の大統領です。そして世界は今なおテロの脅威にさらされている。人種差別はないとされているけれど実際にはまだまだ根強く、世界は困惑に充ちています。すべて現代につながる問題で、でもかつてこうして戦った人がいて、だから私たちも戦っていかなくてはならない、理想と平和の未来のために…という、とてもシンプルなテーマが、定番である白いお衣装で再登場した主人公とともに歌われ、特に押しつけがましくなく表現され、素直に感動できました。

 原田先生はいつもわりとセンスのいいセットを展開しますが、今回の木の階段もとても素敵でした。ラストに階段を星条旗にするアイディアは、思いついたときはしてやったり、だったでしょうね。最前列からはやや見づらくはありましたが、美しく、効果的でした。
 開幕したばかりだからか芝居の密度はまだまだ薄く感じられるところもあり、これから花組子が埋めていくのでしょうが、いっそ巻いて5分でも10分でも尺を捻出してフィナーレをつけてほしかった、とも思いました。
 というのも、れいちゃんとべーちゃんが完全に役不足だったからです。
 ふたりは冒頭で黒人奴隷として手錠のダンスを激しく踊りますし、それぞれ目立つソロ歌ももらっていますが、役としてはまったくしどころのない役であり、ストーリーにも絡めていません。これはスター生徒の扱いとしてかなり問題があると思われます。せめてフィナーレで黒燕尾でも着せてビシバシ踊らせてほしかった。理事特出を引き受ける組のファンへのフォローだってしてほしいです。
 ゆきちゃんのヒロイン、あきらの二番手は素晴らしいけれど、プロローグやパレードで二番手扱いしているれいちゃんのこの扱いはひどいし、好演していたPちゃんやマイティーもホントはこのくらいはお手のもので役不足なんです。まして下級生たちにおいておや。生徒の起用に関してはもう少し考えてほしかったです。
 それにそもそもリンカーンを主人公にして作品を作るのだから、人種差別に関する作家の見識が問われるというか、作家の主張が作品に表れるはずだと思うのですよね。そこに一番関係するはずのこのフレデリックという役が、ほとんど何も書かれていないことが一番の大問題です。そして私が思うに、原田先生はそこにおそらくなんの考えも持ってないのではあるまいか…でなきゃこんなことにならないもん。
 人種に優劣なんてないことは科学的にも証明されているしある種自明のことであり、人種差別イコール狭量であり愚劣であり悪である、という教育を受けて育ってきている現代日本の我々にとって、過去の時代の黒人差別という問題が微妙に遠くかつむず痒い題材であることはわかります。でもあえて取り上げるんだから、そこは考えようよ。考えがないなら、考えられないなら、安易に触るべき問題ではなかったと私は思う。
 ま、これは宝塚歌劇であり、必要以上に社会派の問題作に仕立てる必要はないので、いいっちゃいいですけれどね。でもこのあたりが、クリエイターとしての原田先生を完全に見直せない点でもあります。全体にもう少しより夢々しくロマンチックにタカラヅカらしく仕上げられていれば、そっちに振ってあえてそこには踏み込まないことを選択したのだな、と目をつぶることもできたのですけれどね…
 そんなわけで、全体にやや無骨すぎて真面目すぎた芸のない作りになってしまってはいますが、及第点はクリアしている作品になっているのではあるまいか、と私は感じました。演目発表時に「もう観た気になった、つまんなかった」とか嘯きましたすみません。やっぱり観ないといろいろ語れないよね! なので私は今後も万難を排して観続けていこうと思っています。

 …神奈川公演ではフィナーレが追加されてたり、すればいいのにな…!



 

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『Shakespeare』/「ル・サンク」脚本つっこみ

2016年02月08日 | 観劇記/タイトルさ行
 東京公演で改善されることを祈って…! お稽古期間も気持ち長いようだし!!


●第1場A プロローグA・ロンドン市内

 ベン「シェイクスピア夫人?」
 アン「ええ」
 ベン「あなたをお迎えに参りました」

 ここでアンに「ええ。あなたは?」と言わせて、ベンの名乗りを引き出したい。そして「ベンです。ウィルの劇団で劇作家見習いをしています」とかなんとか言わせたい。でないとこのあとずーっと「モンチの役の人、なんだったの?」ってなっちゃいます。名前も出てないし、劇中劇に出ていないから役者じゃないってことなの? なんなの?みたいな。かけるジェームズはたたずまいから劇団の座長っぽい感じがするからいいとしても(でも過去パートにいるし『ロミジュリ』大公としてカーテンコールに出ちゃってるし、微妙…)、ベンは扱いとしてもちょっとかわいそうすぎると思います。。
 主要キャラクターには呼びかけるか名乗らせるかして早めにその名前を提示しましょう。名前が変わっても薔薇は薔薇、というのは詩だけでの話であり、名前がつかないと観客は登場人物をキャラクターとしてきちんと捉えられないのです。生田くん、ここ試験に出ますよ。
 そのあとのアンの「結婚してすぐロンドンへ出ましたの」にも「彼は」と足したい。ウィルはロンドンにいる、彼女たちは今ロンドンに出てきた、だから迎えがこうして来ていて「彼とは久しぶりですか」なんだから。「彼が」がないと誰がロンドンへ出たのかわかりづらいじゃないですか。ささいなことですが、こういう親切さは大事だと思いますよ。


●第1場B プロローグB・劇場、ロミオとジュリエット

 ウィリアム「いいな、台詞は僕が聞かせたように、自然な口調ですらすらと」

 ここでもウィルに「いいなリチャード、」と言わせて、コマの役の人の名前を提示しましょう。彼は物語の鍵を握るキャラクターなのに、ずっと後まで名前が出てこないのは問題です。
 そのあとのポープがコンデルを脅かして声を出させるくだりで、ポープの名前も出しておきたい。でないと彼はずっと「あっきーがやっていたパリスの人」になってしまいます。ストラットフォードでアンに求婚していた男と『ロミオとジュリエット』のジュリエットの求婚者をどちらも同じパリスという名前にするという無用なこだわりは、それを同じ生徒が演じていてそれが本当はトマス・ポープという役者の演じている役なのである、ということが伝わって初めておもしろさが出せるものなのですよ生田くん? 「パリスがストラットフォードから出てきてロンドンで役者になったの? なんで? ”ポープ”って誰?」とか思わせちゃ駄目なんですよ。
 あと、この場ではまた帽子をかぶらせず、五月祭になってからかぶらせると、より舞台衣装感が出てパリスと素のポープとは違う役、という演出ができるのかもしれません。


● 第2場 6年前、ストラットフォード・アポン・エイヴォン(シェイクスピア家)

 ジョン「何が書いてある」
 ウィリアム「…台詞だよ」

 芝居の台詞だよ、とした方がわかりやすいかもしれません。
 そのあとのジェントルマン云々はジェントリとした方がいいんじゃなかろうか、というのは初日雑感に書いたとおり。


●第3場 6年前、ストラットフォード郊外、ウォリクシャーの森

 ウィリアム「大丈夫? 怪我は?」
 アン「痛い…けど、なんとか」

 この「なんとか」は「なんとか大丈夫」とかの省略なんだろうけれど、怪我の有り無しを聞かれてるんだからありかなしかで答えるべきでは? それかウィルに「大丈夫?」と聞かせるかですよ。ねじれていて気持ち悪い。その前の木から落ちるときのアンの悲鳴の表記が「はわわ!」なのには目をつぶってやってもいいが(みりおんは最初の本読みでこのとおり発音したのかしら…)、こういうのはひっかかります。
 そのあとのアンの「死んだ父さんの仕事を手伝っているうちに」も、「覚えたの」と続けたい。不必要な省略だな、と私はいつも耳障りに感じます。逆に「死んだ」はなくてもいいかも。


●第6場 6年前、ハサウェイ家の前空ハサウェイ家の中

 パリス「こっちへ来るんだ」

 アタマに「アン、」という呼びかけを足したい。その前の場面で読者は主人公であるウィルに感情移入しています。だからそこにこの台詞をぶつけられるとウィルに呼びかけているように聞こえるのです。でも違うでしょ? パリスはアンしか見ていなくて、アンに言っている。その視点の切り替えを観客に要求するためにも、こういう細やかな配慮が必要なのです。試験に出るよ。


●第9場 ロンドンでの生活・シェイクスピアとアン

 ウィリアム「嫉妬してるんだ、父さんは!」

 個人差があるかと思いますが、一般に「嫉妬」というと男女の色恋における意味合いがまず一番に想起されてしまうと思います。「僕の成功を妬んでいるんだ、父さんは!」とかにしてはいかがか。


●第17場 宮内大臣一座

 ジョージ「お前…”アイアンメメイデン”されたいのか?」

 何度も連呼させたり謎の動詞活用させても笑いは取れるかもしれませんが、台詞として意味がありません。アイアンメイデンが何かは一般常識ではありません。それが何か説明する台詞にしなきゃ意味ないです。


●第18場 酒場の外

 リチャード「パトロン、役者、劇作家…確かに揃った」

 その前に劇場は王宮、客は女王、と台詞にありますが、ここでも再度「劇場、観客」と足したいです。それでこそ確かにすべて揃った感が出るのですから。それでも足りない、ウィルにものを書かせるインスピレーション、ミューズ、愛の源であるアンがいないと駄目なんだ…ということになるのですから。

***

 これだけですむなんて、やはりわりとよくできている作品なんだと思うなー!
 ちなみにこの脚本つっこみはマイブーム第二期とっぱしの花『太王』からやっていると思うのですが、他に『TRAFALGAR』、『誰鐘』、『美生涯』、『華日々』なんかでも記事にしています。『華日々』は台詞をどうこうしてどうにかなるレベルの作品ではなかったと思っていますが、愛ゆえに書いたよね…(ToT)(『白夜』はどうにもならなさすぎて書けなかったよね…)
 ブラッシュアップしての東上を心待ちにしています。









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シャルロッテ・リンク『沈黙の果て』(創元推理文庫)全2巻

2016年02月07日 | 乱読記/書名た行
 ヨークシャーの古い屋敷で春の休暇を過ごしていた、夫婦三組と子供が三人のドイツ人グループ。夫たちの濃密な友人関係の下、時は流れていたが、ある日子供を含めた五人が惨殺したいとなって発見された。屋敷の相続権を主張し続けていた男が犯人なのか? ドイツの国民的作家が人間心理の闇を描いたベストセラー。

 あまり訳出された作品がないようで、初めて読んだ作家でしたが、おもしろかったです。流行の言葉でいえばいわゆる「いやミス」なんだろうけれど、屈託した人間関係をねちねち描いた描写がたまらなくスリリングで、ぐいぐい読ませました。
 文学性と大衆性のちょうどいいところにあるエンターテインメント文芸だなと思いました。ラストもいい。あと犬がいい。印象的でした。


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