駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『少女都市からの呼び声』

2023年07月31日 | 観劇記/タイトルさ行
 THEATER MILANO-Za、2023年7月29日14時。

 手術台に寝かされているひとりの男、田口(安田章大)。付き添っている親友の有沢(細川岳)とその婚約者ビンコ(小野ゆり子)は、看護婦(桑原裕子)から田口の身体の一部を取り除くかと迫られる。その一部とは、誰のものかもわからぬ一握りの髪の毛だった。有沢が答えに窮する中、田口は妹の雪子(咲妃みゆ)を探しに夢の世界へと旅に出た…
 作/唐十郎、演出/金守珍、音楽/大貫誉、美術/大塚聡。1985年劇団状況劇場初演、1994年には新宿梁山泊が上演し、フランス、韓国、アメリカ、オーストラリアでも上演されてきた傑作戯曲。全1幕。

 Bunkamura×唐十郎×金守珍公演は4度目だそうで、前作『泥人魚』は私も観ていて感想はこちら。
 というかプログラムがコクーン仕様で、そうだ東急歌舞伎町タワーなるものにできたこの新しい劇場は同じ系列に当たるのか、と今さらに思いました。確かにハコの作りはやや似ているかな。
 ただビルの六階なのにエレベーターが止まらず、エスカレーターでしか上がれない、という導線のひどさが本当にひどいです。改札前も味気ないし、劇場内もロビーやホワイエみたいなものが全然ない、ほぼ通路みたいな無味乾燥な作りでホントどうかと思いました(線路やビル群が眺められる大きな窓のあるバーも、端っこには作られていましたが)。お洒落で無機質に仕立てているんじゃなくて、単にお金をかけてもらっていない感じがうら寂しすぎました。
 客席も、今回私が座った二階サイド席は見切れを防ぐために椅子を高くしているようで、足が床から浮いて落ち着かないこと甚だしかったです。男性身体基準で作るな、床ごと上げろ。というかこういう見えない席を作るな。舞台に向かってまっすぐコの字型になっている客席のサイド席なんて観づらいに決まってるじゃん、舞台を半円形に囲むような客席を作れないのなら潔く正面席だけにしていただきたいです。一階席の床も歩いてみたら安普請の音がするし、椅子の座面も薄く平たく、あまりいいものでない感触でした。でもコクーン改修中はあそこでやりそうだった演目はみんなここでやるということなのか、はあ…つら……
 あと、これはハコのせいではないけれど街の周りの治安が悪すぎて、夜公演なんて絶対に行きたくありません…今回は週末のマチネで目の前の広場もイベントなどやっていてにぎやかでいい感じでしたが、普段は酔いつぶれた人が座り込んでいたり寝そべったりしているそうです。歌舞伎町って、言うても少し前までは言われているほどでもないというか、素人さん手出し無用、みたいな空気がちゃんとあって、映画に行くのも普通に安心安全だったのにな…もうダメですねホントこの国は。なので行くなら西武新宿駅からさっと最短距離で行くことをオススメします。新宿的から街を突っ切って来るのはもはや無謀です。
 出演者たちが安全に移動できていることを祈ります…それともちゃんと事務所の車の送迎とかがビルの下まで来ているのかなあ? ゆうみちゃん、気をつけて通ってね…(><)

 さてそんなわけで、ハコは残念だし上手奥が見切れ上手の手前端は手摺りが邪魔で見えないお席でホントしょんぼりでしたが、舞台そのものはわからないなりにすごくおもしろく観ました。それはもうとにもかくにもゆうみちゃん雪子が素晴らしかったからです。
 雪子は、ピノコです。双子として一緒に生まれるはずだったのに、何かの拍子にもう一方の体内に入ったまま生まれてしまって、そのまま育たずただそこにい続ける「妹」。田口はずっとその存在を感じていて、嬉しいときにはお腹の中の妹にもその喜びを味わわせるかのように、お腹を抱えて身体を弓なりに反らす癖があった…という設定です。
 アングラって、というかすべての創作はその作家の願望のイマジネーションを描くものだと思うのですが、要するにこれって、イマジナリー兄弟とか、むしろ自分が生まれなかった兄弟の方だったら生きなくてすんで楽だったのにとか、自分が双子の女の方だったら親友とも添えて生きるのがもっと楽だったかもしれないとか、なんかそういういたって都合のいい男性の願望、妄想みたいなものの物語なんだな…と、観ていて感じました。
 田口は夢の中で雪子に会いに行くのだけれど、双子というわりには雪子は田口より十ほどは若く見え、まさしく少女のようです。この、少女のようだけれど成人女性であり、天真爛漫なようでそれを通り越して野性的でもあるような、神秘的な美しさを持ったキャラクターを、まんま体現するゆうみちゃんが実に素晴らしいのでした。
 ゆうみちゃんはこれが初ストプレということですが、実はこの作品はミュージカルではないけれど歌もダンスもあり、歌い踊るゆうみちゃんがこれまた実に艶やかなのです。唐十郎が観たかった雪子ってまさしくコレなのでは!?とホントちょっとコーフンしてしまいました。
 雪子は身体をだんだんガラスにしていく手術を受けていて、ヴァギナはもうガラスでひんやり冷たくてツルツルなの、みたいな台詞を言うんですけれど、それすらも清らかで禍々しくて素晴らしい。てか男ってどんだけ女体にファンタジーを抱いているんだろうね、と頭のもう一方の隅では激しく呆れ冷めている自分もいたのですが、とにかくいろいろあって田口は雪子と約束の指の交換というかなんというか…をするんだけれど、要するに田口は実は有沢のことが好きでビンコのことを妬んでいて、自分が雪子になって有沢と沿いたかった、ということなんじゃないのかなあ、と私は思いました。ただ、田口の手術はなされてしまい、雪子の存在はなかったものとされてしまい、少女も少女都市も少女都市からの呼び声も田口にはもう聞こえない、と否定されてしまったけれど、本当はあるんだよ…と雪子は昇天していき、そして子宮の涙とされる輝くビー玉が何千何万と舞台の床を転がって、幕は降りたのでした。
 ワケわかりませんね? でもそれでいいんだと思います、とにかくゆうみ雪子が素敵だったので。

 もちろんフランケ醜態博士役の三宅弘城も、連隊長役の風間杜夫も達者でした。でも満州へのこだわりとかは、もうお若い観客には全然わからないんじゃないかな、てか私もコレだとよくわからん…とか思いました。主演の安田くんはジャニーズらしからぬとんがった指向の持ち主だそうで、だからファンも慣れていて彼目当てで初めて演劇を観に来たような若い女性がワケわからなくてどん退く…みたいな事態にはなっていないと聞きましたが、ならよかったです。
 風間杜夫は『泥人魚』もよかったけれど、「経験してないのはアングラと歌舞伎くらい」とプログラムで語っていて、前回で七十すぎてのアングラデビューになったそうですが、歌舞伎もスーパー歌舞伎なら浅野和之といい勝負の仕事をするのではないかと思います。テレビドラマの印象も強いけれど、もともとそういう舞台畑の役者さんですもんねえ。
 6月に新宿梁山泊がテント版公演をしていたそうで、その田口は六平直政、今回は老人A役。肥後克広の老人B役とともに、本編にはほぼ関わらないと言っていい客席いじりの、場面転換の間のつなぎのコントみたいなのをやっているんですけど、そのメタさはだいぶ謎でしたね…ここでしか笑いが起きないってのは、要するに本編の意味が伝わっていないのでは、という気がしました。
 あと、ポスターやプログラムのビジュアルが、雪子以外はほぼそんなイメージのお衣装で舞台に出ていましたが、雪子は全然ちがうものだったので、雪子も最初の青いワンピース姿でポスターに出してもよかったのでは、とは思いました。
 大阪公演は知らないハコだなあ…公演のご安全をお祈りしています。




 
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祝・新生宙組! 『エクスカリバー』初日雑感

2023年07月23日 | 日記
 宝塚歌劇宙組東京建物Brillia HALL公演『Xcalibur エクスカリバー』初日を観てきました。
 つーかなんなんだこの表記…私はここではルビやサブタイトルっぽいものはタイトルとしては無視することにしているのですが、この作品のロゴはカタカナが大きくてスペルがルビみたいな扱いなんですよ。でもそんなワケはないわけであってさ…写植で打つときはスペルが先、カタカナがあとで並列しているようなので、ここでも一応こう表記しますが、はっきり言ってダサいというか潔くない、としか言いようがありません。スペルだけでは読めないだろう、と思うならあくまでスペルを大きくしてカタカナはルビとして添えるだけにするべきだし、カタカナで行く!と決めたならスペルのロゴをお洒落にあしらうような真似は諦めて潔くやめろ、と言いたいです。つーかそもそも演劇って全体にタイトルにこだわりがなさすぎるでしょう、まあ主に英語に関してですが(たまにフランス語とかもありますが)、プログラムとポスターと緞帳とチケットとで大文字と小文字が入り交じっていて表記に統一がされていないのとか、ホントなめとんのか!と私は毎度キレたいです。細かい? 神は細部に宿るんだよ!!! 作品に対する愛、言語に対するリスペクトががちゃんとあれば、こんなことにはならないよフツー…
 …とのっけからうだうだ言ってしまいましたが、しかし作品はまあまあよかったんですよ奥さん!(誰?) 今夜はそんな話です。

 というかどうしてみんなアーサー王がそんなに好きなの? みんな、っていうか主に男子、ってことですけど?? イヤ学級会口調ですみませんが、でも演劇のプロデュースとか作家とかやる人ってみんな男性じゃないですか。そういえば今回も「ちょっとー、みんな掃除ちゃんとやってよね男子ー!」みたいな台詞/場面がありましたよね…(笑)
 プレお披露目でアーサー王、といえば珠城さんがやりましたし、それは最近外部でも上演されましたけれど、でも、ぶっちゃけ微妙じゃないですか、このネタ。誰も抜けなかった伝説の剣エクスカリバーを難なく引き抜いて、運命の王となった青年…ってのはいいよ? でも暴君の庶子であり、自身の妻には配下の男と浮気される寝取られ男…って設定でもありますよね。世の男性が最も怖れていることって自分の女が寝取られることなんだろうな、と女の身ながら勝手に類推している私なのですが、それからするとこの設定のこのキャラクターがこうまで男性陣に愛され何度も何度も作品化されることが本当に不思議なのです…これをヒーローとして主人公としてカッコよく描くことなんて、できるワケないじゃんぶっちゃけ、と思ってしまうのですよ、単純に。
 まあ所詮は伝承だし、円卓の騎士とか聖杯まで含めると、個々のエピソードの整合性を取るべく取捨選択するのはもはや至難の業、というネタではあります。でも少なくともアーサーに関しては、この2点の設定は取捨選択もできませんよね。
 百歩譲って、彼が暴君の庶子である、という点は彼の非でもなんでもないのでスルーしてもいいのでは、と思うのですが、これまたたいてい扱うんですよねどんな作品でも…なんなの、男性特有の自傷行為とかなの? そして王妃グィネヴィア(春乃さくら)と騎士ランスロット(桜木みなと)の恋、というエピソードはまず絶対にスルーできない。これもまた、こんな偉大な王ですら妻を寝取られるんだから俺の人生がショボいのも仕方ないんだ…という男性陣の言い訳のために必要なネタなのかもしれませんがそれはともかく、ここをどう描きどう見せるのかがエンタメ作品としての勝負だぞ、とは私は考えていました。なのでそこをお手並み拝見、という思いで席についたのでした。毎度めんどくさい客ですみません。
 以下、完全ネタバレが語ります。また初日を観ただけで記憶違いも多々あるかもしれない個人の感想です、お含みおきください。

 まっぷーの語りで始めるのはいいとして、そういえばウルフスタン(悠真倫。『燈影』とはまた全然違う働かされっぷりで…正直まりんさんでなくてもいい気もしくもなかったけれど…でも誰かと言われると宙組もおじさん役者が少なくなっているので微妙なんだけれど、でもたとえば大路くんにやらせてみるとかもアリだったのでは…)率いる赤チームがサクソンでこっちの青チームはイングランド、みたいなことはもっと何度も言ってもいいのではないか、と思いました。というか全体にキャラクターの名前を呼ぶことが少ないのは気になったよ稲葉くん! 誰かを登場させたら必ずそこにいる人にその名前を呼ばせましょう、芝居のキホンのキです。観客みんながみんなわかっているはず、と甘えてはいけません。
 で、キキちゃんアーサー(芹香斗亜)登場!ですが、まあロミオかな?みたいなさわやかさ、キラキラっぷり、素晴らしかったですね…! 初日から、つまり全員が初見の状態でも、ハイ来ますね、とわからせてハイ来た拍手!とできる流れだったのはさすがでした。つーかあたりまえに全演出家がやってくれ頼む。
 まあ、なんてことない歌を朗々と歌うわけですが、歌詞がちゃんと聞こえて、かつ彼が戦時下で苦労させられている一市民だということがちゃんと伝わり、物語に入っていける、というのはポイント高いです。てかキキちゃんはホントなんでも達者だなー! トップスター就任、改めておめでとうございました。
 欲を言えば、戦争はつらい、奪われるばかりだ、取り戻したい、という現状からもうちょっと先の、やがて王になる未来へ通じるような、より大きな希望や理想も歌う歌詞だといいかな、とは思ったかな…だってコレ、上手くすればいつか来る退団時にサヨナラショーで歌う曲になるわけですからね。
 というか全体に歌詞がちょっとヌルかったのは気になりました。歌は確かに多いんだけれど、ちゃんと芝居(台詞)も書かれていて、脚本はまあまあしっかりしていてそこはいいなと思っただけに、ね…心情を歌うものでも会話が歌になるものでも、もう一押し吟味して、より多い情報量を乗せてほしかったです。二番まであるならより具体的に、あるいは詩的にがんばるとかしないと、どんなに上手くても人は飽きるし「それより話を進めてくれ」って思っちゃうものだから…少なくとも私はそうなので。がんばれ稲葉先生!
 エクター(松風輝)が出てきてマーリン(若翔りつ)が出てきて、説明の間にまあ何曲歌うんだって感じでしたが、ウーサー(雪輝れんや)の非道が語られ(てか俺たちの沙羅ちゃんがキキママとは…!)…でもこのくだりの村人たちの出し方なんかも、とても上手いと感心しました。
 で、ランスロットはもういるんだ?もうエクターの家にいて、アーサーの兄貴分なんだ?ってのがまたよかったです。円卓ができてから現れる、ちょっと浮き世離れした美形の、半妖精の湖の騎士…ではない。上手い。うなりました。
 その次の場面の修道院、プログラムを読むとモーガン(真白悠希)って改宗を迫られてたの? そんなんだったっけ!? ともあれここはちょっと説明が足りなかったかもね…観客みんながこれがましろっちでモーガン役だ、って把握して観ているわけではないのよ甘えないで説明・描写してね? しかしヒロインより先に登場するさすがの裏ヒロインっぷり、素晴らしかったよましろっち…!
 で、アーサーがみんなの前でデモンストレーションとしてもエクスカリバーを抜いて見せて、みんながこれぞ伝説の王だ!とアーサーを認めます。しかしそこに現れてアーサーの軍に加わりたいとはりきる女戦士グィネヴィアはそのくだりを目撃していなくて、誰が王かわからないままにアーサーとランスロットに話しかける…ここ、めっちゃよかったですね! はるさくの艶やかさ、華やかさが場面の色を変えた、というのもあるし、ここまで歌が多かったお話がやっとここでまとまった芝居の尺が取れた、というのもある。新生トップトリオが揃って、もちろんこの作品でもドラマの中心となる3人がやっと揃って、わちゃわちゃきゃいきゃいする、実に良き!
 そしてこのグィネヴィアのキャラクターが! ヒロインとして! ホントーに素晴らしい! 私は『カジロワ』初日でもデルフィーヌの新しい、素晴らしいヒロイン像としての魅力に感動し語りまくりましたが、今回も熱く語りたい! さすが韓国ミュージカル! イヤこのアイディアがどこから出ているものかは知りませんが(EMKミュージカルはプロデューサーは韓国人でも、作詞作曲脚本なんかのスタッフは欧米から招聘しているので)、王妃グィネヴィアを弓の使い手、女戦士として置く発想はなかなかナイと思うのですよ…!
 王が立つなら、この国に押し寄せてくる敵がいるなら、女だって国民としてできることをして戦いたい、戦えるんだ!というのはある意味で当然でしょう。もちろん私は『ネバセイ』でラ・パッショナリアや少年兵たち、つまり女子供が銃器を取って立ち上がるのを痛ましく感じながら観ましたが、あれは近現代のお話だから…というのもあります。六世紀って何世紀?ってくらいピンとこない時代ではありますが、とにかく昔はもっとランボーでワイルドで、女性だって守られているばかりではすまなかったろう、というか守ってもらえる存在として認知されていなさそう、自分でなんとかしないと家畜以下の扱いでひどい目に遭わされていそう…という過酷さは感じてしまいます。だから、男性以上とか男並みとかは言わないけれど、得意な技能で身を守り仲間を助ける、くらいは女だってやりますよ、というグィネヴィアはいたって正しいし、でもとても輝いていて美しかったのです。凜としてハキハキしたはるさくちゃんが演じるからなおさらです。もうもう目が覚めるようでした。
 キキアーサーとずんスロットがそれぞれに「おもしれー女…」とときめいているのがわかるのも、もうもうとても良きでした。てか左腕にキキ、右腕にずんちゃん抱いて両方の肩抱いて真ん中で笑う男前ヒロインなんて、はるさくにしかできなくない!? 名場面だったわー!
 なので、ちょっと残念だったのは、ここで彼女が歌う歌の歌詞がまた漠然としていてあいまいだったことです。原詞の内容はわからないけれど、ここは彼女の主張をもっときちんと言葉にしてほしかったし、それは今の私たち女性観客の想いにも通じるものになるとなおベストだったと思うのです。愛や平和を祈ることと、そのために戦う必要があるなら戦うこととは両立するし、戦いにおいて体力的に男より劣っても女にもできることはあること、なので同じ人間として尊重してもらいたいこと、男女お互い協力し合って良き国良き世界を作っていこう…というようなことをもっと歌うべきで、「♪耳元囁く」ばかりが連呼されるとソレって結局色仕掛けで誘惑して言うことをきかせるってこと?ってなっちゃうじゃん、それじゃダメなんだよもったいないなー!
 あと、そのあとも、女性たちに弓を教えていて、それはまだ彼女たちが素人だからいいんだけれど、そこに敵に踏み込まれたら彼女たちとともにグィネヴィアも一緒になって逃げちゃうんですよね。そこは彼女たちを逃がすために自分は矢面に立って戦うところだろう! そのあとも、グィネヴィアが食事の用意ができたと兵士たちに告げるくだりがあって、結局おさんどんが女の仕事ってことなのか!?ってなるので、このあたりはもっと考えて作ってください稲葉先生! 韓国版がそうなら変更すべき。手癖でこう作ったなら再考すべきです。
 ところで話が前後しますが、今回のモーガンはウーサーの別の庶子ではなく、正嫡の王女という設定なのですね。これはもっと早くにきちんと説明すべきだったと思います。で、彼女はアーサーが生まれる前は王女としてペンドラゴン城で何不自由なく育てられ、マーリンは家庭教師みたいな感じで魔術の他にもいろいろな勉強の面倒を見ていた、ということなのでしょうか? 説明が足りてないぞー。そしてそこでこのふたりは何か、血の契約みたいな、なんか昔の日本の念者と念弟が(オイ)互いの腕か何かの同じ場所に傷を作ってその傷口を合わせて血を混ざらせて誓いとするような、なんかをしたらしくて、それで一心同体少女隊(古い)ならぬ一蓮托生というか、最近も星組の『柳生』であったな、なんかあんなことになったようなんですけれど、ここももっと説明が要りませんか? モーガンはマーリンを愛していたような言い方ですが、そんな歳だったのか?とか、アーサーが生まれてモーガンを邪険にし出したウーサーのフォローのためにマーリンは憐れみでモーガンにつきあっただけなのか?とか、なんか…こっちで勝手に埋めるにしてはいろいろ足りていない気がしました。しかもクライマックスのギミックに使われる設定なんだから…要再考。
 それにしても、ウーサーは男児だというだけでたかが庶子にもかかわらずアーサーに執着し娘のモーガンをネグレクトしたということなのですから、これはモーガンとしては怒っていい案件ですし、彼女がアーサーを憎く思うのも当然ですし(憎むべきはウーサーでありアーサーに罪はない、というのはここではおきます)、我々現代女性観客も彼女に感情移入しようというものです。モーガンもアーサーの実姉だったり異母姉だったり異父姉だったりと、作品によって扱われ方がかなりいろいろと違うものですが、今回の置かれ方はこれまたとてもよかったなと思いました。
 てかスーパーましろっちタイム、すごかったよお見それしましたよ…!(なんか似てないこともないしもう美穂圭子姐さま要らないのでは、と思ってしまったことはナイショです)
 サクソンの襲撃で負傷したアーサーをマーリンが魔術で救い、そのあとをグィネヴィアに託すくだりは、魔法でできることはやったからあとの現実的な、医療的な手当てや看病は任せた…ということなのかなと思いましたが、なんか台詞がわかりにくかったぞ? で、このあたりの、アーサーはまだまだ小僧だしグィネヴィアとランスロットの方が歳相応にあっさりカップルになりそうなところを、こうした流れで…というのがなかなかデリケートでニクかったです。この裏で、想いを秘めようとせつせつと歌うずんスロットがまた良くてねえ…
 円卓ができて、モーガンがやってきて…1幕がちょっと盛りだくさんで長いので、このあたりで不穏な四重奏ないし五重奏、とかで1幕を締めることにしてもよかったかもしれません。でも戴冠、結婚式、エクターの死まで盛り盛りにやって、幕。 

 アーサーはエクターの死のショックで闇堕ちしてしまい、グィネヴィアも遠ざけて…という展開は上手い。ランスロットや仲間たちの話も聞かず、暴走するアーサー。彼は、そもそもキキちゃんもスカステニュースの稽古場トークで言っていたように「ピュアボーイ」なのかもしれませんが、幼くて天真爛漫で単細胞でぶっちゃけおバカ…という役作りではなく、わりとフツーにまっとうに歳相応な青年、くらいなのがとてもいいなと思っていたんですけれど、本当は暴君の庶子でもあるせいなのかはたまた王になどなる者にはみんなそんな傾向があるものなのか、ちょっと極端で凶暴で乱心気味なところがある…というならそれはそれでまた深い設定な気がしました。
 そんな中でランスロットとグィネヴィアが接近し…というのと、モーガンがマーリンに魔術の継承を迫るくだりが交互に描かれるのですが、このあたりはちょっと歌、暗転、歌、暗転というのが続いてしまって、芝居場面がなく、なんだかなーだったのでちょっと脚本、演出とも整理、工夫してほしいです。ランスロットとグィネヴィアが結ばれる(というかチュー程度ですが)のは結局はモーガンの魔法のせいということになっていますが、ここはまあ好みかな…何もなくてもこの状況ならちょっと心が揺れても仕方なくない?とも思うので。ホラ宝塚歌劇は恋愛至上主義だしさ…ともあれアーサーに発覚して修羅場、今回は追放案が取れられたのでした(^^;)。よかったよちゃぴのようにお披露目なのに発狂させられなくて…
 てかこの前かな? ずんスロットがグィネヴィアを思って歌う歌(似たものが何度もあるので、絞っては…全部やれ、って契約なのかもしれないけど、重いと思う)の歌詞がまたアレでさー…彼女を太陽になぞらえるのはいいのよ、なのに「だけど触れられない」みたいに続けるのは、「うん、太陽だから熱いし遠いし触るのは無理だね」としかならないじゃん。触れられないのは彼女が太陽だからじゃなくて、王妃だから、弟みたいに仲良しの男の妻だから、でしょ? もっとよく考えた上で、詩的なフレーズを並べてくれよ稲葉くん…
 さて、そんなわけですべてはモーガンのせい、というかつまりはマーリンのせいじゃね?となって、ついにマーリンも決着をつけるために動き出すのですが…ここ、マーリンがアーサーに化けてモーガンに向かうんですよ! モーガンがグィネヴィアに化けてアーサーと寝る問題エピソードは今回はやらないのかな、と思っていたらまさかこの形で!?と私は一瞬たぎってすっかりおもしろくなっちゃったんですけど、マーリンはアーサーに化けた自分をモーガンに殺させることで、自分と一蓮托生のモーガンを滅ぼそうとしたのでした。てかココ、なんか掘るともっとビッグ・ラブな気配、しますね…!?!? 
 そんなわけで、父も兄も姉も妻も師もなくしたアーサーですが、守るべき民がいて国があり、ついに真の王たるべく覚悟をして、立ち上がりサクソンに立ち向かうのでした…完!フィナーレ!!…かと思ったのですが意外に(笑)まだあって、戻ってきたランスロットがアーサーと背中合わせに戦い(ここはエモいのでもっと長くやるべき)、アーサーをかばって死んでいくのでした…た、正しい二番手仕草だよ……!!! しかしなればこそキキの腕の中で死ぬべきだったろう、ずんちゃんよ…! ちょっとでっかかったか?
 そして混戦の最中、やはり戻ってきていたグィネヴィアが遠くから矢を射てアーサーを助けていたのですが…私はここは宝塚歌劇なのだから、アーサーも許すと言っているしモーガンの魔法のせいもあったのだから、グィネヴィアは戻ってきてともに良き国を率いていきましょうねエンドでもいいのでは、と思ったのですが…あくまで凜々しいグィネヴィアは、アーサーが許すと言ってくれても自分で自分が許せないので、と去っていくのでした…カッコ良すぎるよ新しすぎるよ、あんまりやりすぎると異性愛至上主義の宝塚歌劇が根幹から崩壊するので気をつけてな、と思うよ…(><)
 ともあれアーサーは雄々しく立ち上がり、兵士たちも市民たちも支えてくれる中、再びエクスカリバーを振るってキメるのでした。幕。

 フィナーレはなく、ラインナップのみ。ちょっと尺が余り気味で拍手が変になるか間が保たないので、そこはなんとかしてほしいなと思いました。明日からでも何かアクションを足すなどの調整が入るといいですね。
 というわけで、物語としてはとても整合性が取れていてキャラクターの感情など無理がなく、アーサー王ものでこんなにスッキリ楽しく観られたのは私は初めて…!と感動に打ち震えました。
 確かに楽曲の数は多く、さすがの宙組子がコーラス含めてしっかり歌いこなしているのですが、それでも満腹感がありすぎるというか、何曲か削ってその分もっと芝居をするか、ダンスに当てるか、休憩込み3時間という上演時間を減らすのに使ってもいいかなとは感じました。てかミュージカルとしてはやはりダンスがもっと欲しかったですね。村人や兵士のダンスは多少はあるんだけれど、たとえば主役ふたりが恋に落ちるときのやわやわしたダンスとか、そういうタカラヅカっぽい幻想のダンスみたいなのは全然なかったので…その硬派さ、無骨さがザッツ・韓国なのかもしれませんが。
 私はケイ(真名瀬みら)が今回はどんな感じになるのかなー、などと期待していたのですが、パーシヴァル(琉稀みうさ)やトリスタン(泉堂成)やガラハード(大路りせ)やガウェイン(輝星成)同様、名前だけの円卓の騎士メンバーという感じで、仕方ないんだけれどちょっと残念だったかな…大路くんはサクソンのアスガルと二役で、おかゆくん同様売り出し中かなとも思うし、これからより個性を出してくるのかもしれません。
 でも構造としては新生トップトリオががっちり見せて、新組長まっぷーが締めて、りっつ大活躍で、ましろっちがMVPで…という印象でしたね。モーガンは花宮沙羅ちゃんでも…いやぁそういう起用はしないよね劇団は……
 そうそう娘役といえば、これまたグィネヴィアがあんなにがんばっていても円卓の騎士って全員男性なんだなとか(イヤそういう原作なんだけれども)、キャメロットの女たちはこの騎士たちの裏で家事とかばかりやらされてそうだなー…と思う一方で、サクソン方には、戦場までついてくる娼婦なのかもしれないし魔女っぽい武器があるとされているのかもしれないけれど「サクソン(女)」という役があって、有愛きいちゃん以下強いメイクでバリバリ踊っていて、とても良きでした。みんながんばっていて可愛いですよね、このあたりも識別できるようになっていきたいです。
 私は次はもう楽近くに観てそれでおしまい、なので、これからはみなさまのレポを読んで楽しく変化を追いたいです。
 とにかく、良き作品に恵まれてよかったです。暑い中、どうぞ全員体調に気をつけて、喉も万全にケアして、千秋楽まで無事に公演していってほしいなと思います。
 そして宝塚歌劇も、日本のミュージカルも、この作品、企画を見習って、スタッフは欧米から招聘しているにしてもオリジナルの作品を作り、海外に乗り出していけるくらいのことを目指していってくれよ、と思います。もう韓国にはとっくに追い抜かれていて、追いつくことなどもはやできないのでしょうが、せめていいものを取り入れ、学んでいってほしいです。
 初日、カテコでオリジナルのクリエイティブ・スタッフと韓国プロデューサー、そしてタカコのご紹介、客席からの一礼がありました。ワイルドホーンさまさまですね。退場の際も拍手でした。『ネバセイ』で卒業なんだから初舞台だったまっぷーしか被っていない、ということか…でもキキちゃん始め、みんな嬉しくも緊張し、楽しかったことでしょう。宙組第九代トップスター、改めておめでとうございます…!!!








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劇団四季『ノートルダムの鐘』

2023年07月22日 | 観劇記/タイトルな行
 四季劇場 秋、2023年7月19日18時半。

 1482年1月6日の朝、パリ・ノートルダム大聖堂の鐘が街に鳴り響く中、人々は大聖堂に集まり、厳かにラテン語の聖歌を歌い始める。会衆に語りかけ始めたのはノートルダムの大助祭、クロード・フロロー(この日は芝清道)。今では権力を持ち、人々に恐れられる彼だが、子供のころに孤児として弟ジェアンとともに大聖堂に引き取られた過去があった。真面目にカトリックの教えを学ぶ兄と違って弟は遊び好きで、やがて大聖堂を追放されてしまう。数年後、突然届いた手紙を読んで駆けつけたフロローを迎えたのは、重病で死を迎えようとする弟だった。ジェアンの赤ん坊を託されたフロローは、怪物のように思える顔をしたその赤ん坊を、人目から隠して大聖堂で育てることにし、「出来そこない」という意味の「カジモド」(この日は田中彰孝)と名付けるが…
 作曲/アラン・メンケン、作詞/スティーヴン・シュワルツ、台本/ピーター・パーネル、振付/チェイス・ブロック、演出/スコット・シュワルツ。日本語台本・訳詞/高橋知伽江。ヴィクトル・ユゴーの小説とディズニー映画の楽曲に基づくミュージカルで、2014年サンディエゴ初演、16年日本初演。全二幕。

 この日はエスメラルダ/山崎遥香、フィーバス/加藤迪、クロパン/白石拓也。
 思えば私はアニメ映画版は観たことがなく、なんとなーくのお話は知っているつもりで行ったのですが、こういう設定のこういう物語だったのか…と改めて知る、といった観劇となりました。そういえば海と自由劇場は行ったことがあるけれど、春、秋に行くのも初めてだったような…
 そして「僕の願い」は知っていたのですが、これはアニメ版の曲なのかな? 今回はタイトルも歌詞も違っていましたね。そして何度も変奏される、メインテーマ曲なんですね。なるほどなるほど。
 タイトルといえば、『ノートルダムの鐘突き男』とか『ノートルダムのせむし男』とされることもあるお話だと思うので、主人公はカジモドなのかなと思うのですが、実質的にはフロローの物語のようでもあるんですね。というかカジモドってフロローの甥なのか、そしてそもそもカジモドの父である弟にフロローはなんかこう…執着というか過剰な愛情というか、を抱いていた設定なんですね。それはもう、なんかこう…濃いわ。ハナから歪んだ、濃い、重い想いが絡んで立ち上がった物語だったんですねえ…
 異形の者が人目から遠ざけられて育つ、という意味では『ファントム』(『オペラ座の怪人』というよりはむしろ)や『美女と野獣』っぽくもあり、まあこういう要素ってお話の種になりやすいんだな、とも感じました。それでいうとフィーバスは、でも全然ガストンみたいなキャラじゃなくて、よかったです。ただ、わかりやすい二枚目ヒーローだったり王子さまキャラ、ってことでもないんですね、そこがいいですね。戦場勤めに倦み疲れた兵士で、街の教会でガードマンめいたところに再就職してちょっと骨休め、みたいな…マッチョでも単純でもあるようですが、その分竹を割ったようにさわやかで素直でもあり、意外と心が広く屈託がない。エスメラルダもイケメンにコロッとまいるような形ではなく、対等な男女として双方アグレッシブにくっつく展開なのがいいし、カジモドとも凸凹コンビみたいな友情がちゃんと成立するのもいい。
 カジモドももちろんエスメラルダのことが好きで、それは純粋な友情よりは一歩恋愛に踏み出したものだったろうけれど、恋愛はひとりでできるものではないし、エスメラルダの方はカジモドにそういう感情は抱いてなくて、だから三角関係としてこじれるとか煮詰まるとかいうことはなくて、そのまま時間があれば奇妙なバランスのよき友情が三人で築けたようにも思えるんだけれど、そんなふうになる前にもっと面倒臭い感情を抱えたフロローがつっこんできての四角関係になるので、そういう意味ではもうこの関係は破綻するしかなかったのでした。
 だからエスメラルダは、死にます。これもまた物語都合で殺される女性キャラクターのひとり、と言っていいでしょう。フロローもまた殺されますが、それはこの報いだからいいでしょう。カジモドの死が告げられてこの物語は終わります。彼はエスメラルダの亡骸をひとり守り、抱きしめたまま、おそらくは飲まず食わずで日々を過ごし、やがて果てて白骨化して発見されたのでしょう。
 そういう意味で、サバイバーはフィーバスだけであり、逃げ延びたとも言えるしドラマの中核に絡めなかった部外者にすぎなかったのだ、とも言えます。書き手は男性でこのあたりに都合良く自分を置いているんだろうしな、とも思ったりします。いやフィーバスは本当にナイスガイだったので、このあとは平凡でいいから幸福な人生を送ってくれよ、と願わずにはいられないのですけれどね…
 アニメでは、孤独なカジモドは大聖堂のガーゴイルたちとおしゃべりして過ごす、みたいな描写があったようですね。舞台では、グレーのマントを羽織ったコロスたちがガーゴイルとなり、マントを脱げばパリ市民となり、さらには聖歌隊にもなって、アンサンブル大活躍舞台でもありました。セット(装置デザイン/アレクサンダー・ドッジ)もとてもお洒落で、舞台の魔法に満ちた作品でした。
 確かに暗いというか重いというか、でまったく子供向けでもファミリー向けでもない作品だとは思いますが、愛されるに足る作品だということはわかりました。そして四季なのであたりまえにみんな上手い、耳福でした。
 ジプシー差別、障害者差別、マジョリティの狂信や暴力が描かれていて、それは本当に今日的でもありました。最後の最後に、バリ市民を演じていたアンサンブルたちが顔を汚して四肢を歪めて固まり、カジモドを演じていた男性が肩につけた瘤を外してのびやかにまっすぐに立ち顔を拭い、世界が逆転する様子が怖ろしいほどに鮮やかで残酷で、ぞっとさせられました。どうして人は、「でもおんなじだよ、何も変わらないよ、友達になろうよ、なれるよ」となれないのか。何を恐れ、何に怯えて他者を拒むのか…人は神から本当に何かを学べているのか、絶望しそうになりますね。
 そういうことを訴えた、世界がもっと完全に良くなるまでは決して廃れない、物語のひとつなんだな、と思いました。




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新作歌舞伎『刀剣乱舞 月刀剣縁桐(つきのつるぎえにしのきりのは)』

2023年07月17日 | 観劇記/タイトルた行
 新橋演舞場、2023年7月16日16時半。

 西暦2205年。過去の歴史を改変しようとする人々は、時間遡行軍を編成して過去の時代に送り込み、歴史を変えようとしていた。これに対抗する審神者のもとに寄せられたのは、時間遡行軍が室町時代の永禄年間に出撃したという報告。時間遡行軍は将軍暗殺の首謀者とされる松永弾正(中村梅玉)を生きながらえさせて、戦国時代の到来を遅らせることを画策していたのだ。そこで審神者は、三日月宗近(尾上松也)、小烏丸(河合雪之丞)、髭切(中村莟玉)、膝丸(上村吉太朗)、同田貫正国(中村鷹之資)、子狐丸(尾上右近)を呼び出し、この陰謀を阻止するために永禄年間に向かわせる。ときは応仁の乱後、足利家の権威は失墜し、次期将軍の足利菊幢丸(右近の二役)は志賀の荒れ寺を仮御所として、妹の紅梅姫(莟玉の二役)とともにわびしい日々を送っていた…
 原案/「刀剣乱舞ONLINE」、脚本/松岡亮、演出・振付/尾上菊之丞、演出/尾上松也。刀剣に宿る付喪神が戦士の姿となった刀剣男士を率い、歴史改変を目論む時間遡行軍から本来の歴史を守る人気ゲームを、「永禄の変」を題材に古典歌舞伎の技法や演出を存分に取り入れて歌舞伎化。全二幕。

 ゲームなるものをいっさいやらず、いわゆる刀ステは『禺伝』を観ただけ、歌舞伎は『ナウシカ歌舞伎』以降ミーハーに勉強中ですが未だに初心者、そして室町年間の史実も『太平記』程度の知識しかない…という私ですが、チケットがダブったというお友達からありがたくお譲りいただき、いそいそと出かけてきました。
 お席は1階上手サブセン後方、このハコは1階の床の傾斜があまりなくてそこは観づらく感じましたが、前列に座高の高い男性に座られることもなく斜めに舞台センター方向が抜けて、花道も観やすく、良き1等席でした。なんかチケット発売のときに先行で買っても配席が良くないのなんのと炎上したのを見聞きしていましたが、私も自分で買うなら席を選びたかったのでチケットweb松竹であとからゆっくり買おう…とかは考えていましたよ? というかFC先行で買うのはそこへの貢献に意味があるんだから、席についてガタガタ言うべきじゃないんじゃないの?と私なんかは思ってしまうのですが…宝塚歌劇の生徒席ともまた違う、このジャンルの何か別ルールがあるのでしょうか。でもまあ、幕が開いたらおおむねとうらぶファンには好評…なのかな? よかったです。歌舞伎ファンにはどうなんでしょうか? 新作なんて観ない、というお年寄りたちからは完スルーなのかなあ、それはもったいないような気もするけどなあ…こうしたいわゆる花形歌舞伎の扱いがこのジャンルでどうなのかも私はよくわかっていなくて、おバカ発言があったらすみません。これまた宝塚歌劇の新公とは違うノリを感じますしね…
 で、ともあれ私は楽しく観て、そして泣いちゃいました…
 前説もあって、歌舞伎とは、刀剣乱舞とは、という解説が入るのも毎度ありがたいですし、プロローグが刀鍛冶の場面(やや長く感じないこともなかったけれど、歌舞伎と刀剣って切っても切れない関係でしょうし、ここにも私にはわからない何かのオマージュないし本歌取りみたいなものが込められていたのでしょう)から始まって、刀剣から男士たちが具現化し、ずらり並んでカッコいい名乗りを上げる!ズギャ~ン!!(心理的効果音)みたいなところから始まるので、つかみはオッケー!なワケです。
 で、そこからは、いくつか観てきた原作ものの新作歌舞伎からすると、すごく古典に寄せているな、松也と菊之助の作劇、演出の違いなのかな、とかがまず感じられて、それもおもしろかったです。座組の問題もあるんだろうけど、『禺伝』は六振りをなるべく対等に扱い見せ場もそれぞれ等分に作ろうと気を遣ってくれていたんだなあ…とかね。なんせ意外に刀剣男士たちの登場シーンは主役含めて少ないし、ドラマはむしろ弾正とその息子久直(鷹之資の二役)、義輝とが担っていて、はっきり言ってむしろ右近様々なんじゃないのこの演目?という気もしたので…
 でも、それで十分成立していて、ちゃんとおもしろいのがすごいです。歌舞伎の醍醐味が感じられる、というかちゃんと歌舞伎になっている。歌舞伎役者が「刀剣乱舞」をやる、というだけのものにしたくない、「刀剣乱舞」を歌舞伎でやるとこうなる、というものをきちんと見せたい、という矜持がビンビンに伝わりました。松也自身がゲームのファンで、でもあくまで歌舞伎にとっていいこと、必要なことをやろう、としているのがいいんですよね。原作へのリスペクトがちゃんとある上で、再演され続け古典になっていく演目を作ろうとしている、その意気や良し、なんです。そういうのがなーんもないままに人気漫画をただテレビドラマ化しただけ、みたいなものを散々見せられている身からすると、ホント沁みました…
 紅梅姫が宗近に想いを寄せちゃうくだりも良くて、また宗近は男性じゃないどころか人間でもないのでそこはクールにスルーなんだけれど、でもそういう視点をそもそもとうらぶに持ち込んでもいいんだ?そういう視点を初めて持ち込んできたのが基本的に男性ばかりで作っている歌舞伎からなんだ??ということにも仰天し、かつときめきました。私はこれまた最近やっと「赤姫」というものを理解するようになってきたのですけれど、歌舞伎にはそういうお若く美しいお姫さまキャラクターのジャンルがあるんですよ、というのをただ見せるためだけであったとしても、やっぱりこのくだりにはものすごく意味があったと思うし、まるる(と知ったかぶりして愛称など使ってみる)が兄者とこの姫、立ち役と女形の二役をやっているというのがまた本当にザッツ・歌舞伎で、早替わり含めてそこも素晴らしいと思うのです。で、メタつっこみギャグ、これも歌舞伎がまたよくやるよねー、というニヤリもあり、ホント楽しかったです。あとこの二幕二場の広庭のセットは盆で回って景色が変わるのも素敵で(美術/前田剛)、イケコか!って一幕ラストがカッコよくてもう大満足でした(プロローグと序幕、第二幕が前半、いわゆる一幕でここで休憩が入り、第三幕と大詰めが休憩後の二幕です)。
 史実の解釈には定説があって、物語としても弾正は悪役扱いされることが多いようですが、今回は義輝が異界の翁(澤村國矢)、媼(市川蔦之助。このふたりがまた声が良くて上手いんだ…!)に騙され操られている、ということになっているので、むしろ将軍を討たざるをえない家臣の苦悩…みたいなものが描かれているし、そこからの息子とのあれこれなどもいかにも歌舞伎な見どころで、おもしろかったです。男士が出てない場面がまあまあ長く続き、しかしおもしろく進むというとうかぶの奇跡…
 で、闇堕ちした義輝が大立廻りをやってみせて、それがもう日々の鍛錬と確かな段取りと信頼と様式美の権化みたいな大アクションシーンなんですけれど本当に白眉で、そこからさらに、今回は義輝の愛刀とされている宗近と義輝の無音の一騎打ちになるという、ね…! てかそうやって落ちるだろうと思っていた右近の崖落ち、もちろん奥にマットか何かが置かれているんだろうけど、なんの音もしないってどういうことなの!? そして残された刀がサスに当たって浮かび上がり、立ち尽くす宗近にもライト…泣くでしょうこんなの!!!
 そして最後の最後はまた刀に戻るところまで見せて、終わる。歌舞伎本丸これにて終了、というのもあるし、男士たちは顕現するたびにリセットされるような設定もあるんだそうじゃないですか。虚しいようなせつないような非情なような、クールなような…痺れました。
そしてバレード、さらには撮影アリのカーテンコール。楽しく華々しくにぎやかに終われて、送り出しアナウンスは日替わりだとか。サービスいいですねー!
 あ、よくある大詰直前のロック三味線タイム(と私は勝手に呼んでいるのですが正式にはアレはなんというのでしょう…)が今回は琵琶で演者が女性で、これも本当にエモーショナルで素敵でした。
 近習役の人だけが声ができていなくて、カテコでも姿勢が悪くて立ち姿が美しくなく、悪目立ちしていたのが残念だったかな…宮司役の方の長男さんだそうで、6年ぶりの本興行出演だそうで、若いしこれからってことなんでしょうけれど、歌舞伎のそーいうとこがアレなんじゃ…ってのもあるので、ちょっと引っかかりました。
 ポスターもロゴも幕もプログラムのデザインも素敵で、印象的でした。こういうの、大事! ハコを替え役者を替えても再演していけるといいですね。ブラッシュアップできる部分もあるだろうし。でも、今回の松也の座長っぷりは、だからこそ語り継がれていくべきものだと思います。ホント偉いよ、よくやったよ、カッコいいよ…! 右近といい、みんなが歌舞伎以外の舞台も映像のお仕事もしている若い世代だけれど、いろいろ吸収し、顔を売り、そして歌舞伎に還元していって、伝統を滅ぼさない、つないでいく、より豊かにしていく…ってのが大事なんでしょうね。松竹もちゃんとわかっていてしっかりお金を出してくれているなら、安心です。こちらもできるだけ応援していきたい、と思いました。まあパトロンとかは無理なんで、楽しく観させていただく、楽しかったよと口コミで宣伝する…くらいしかできないのですが。
 9月には初めて南座で観劇予定です。楽しみにしています!






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劇団チョコレートケーキ『ブラウン管より愛をこめて』

2023年07月16日 | 観劇記/タイトルは行
 シアタートラム、2023年7月14日19時。

 1990年、バブル景気に沸く日本。特撮ヒーローものを制作する会社の企画室。若手クリエイターを中心に番組の脚本会議が行われている。少年時代、特撮巨大ヒーローのシリーズに熱中した経験のある彼らは、自分たちの仕事が所詮は過去の名作の焼き直しにすぎないことに忸怩たるものを感じながらも、先行の名作の後追いになるのは仕方ないとなかば諦めている。そこには、本来は大人向けの番組を作りたいという屈折した思いもある。そんな覇気のない会議の中で、ひとりの脚本家があるシリーズで放送された異色エピソードを話題にする…
 脚本/古川健、演出/日澤雄介。全1幕。

 劇チョコは最近やっと観るようになっていて、これまで観たものはこちらこちら
 今回も、世代なようなちょっと違うような…という題材に、期待というよりとまどいながら出かけました。
 というのも、私は69年生まれで、弟がいたので『ゴレンジャー』とかの戦隊ものも『仮面ライダー』も『ウルトラマン』シリーズもひととおり見て育ちましたが、あくまで子供としてまた子供向け番組として見ていただけなので、今でも主題歌は歌えますが内容はほぼ覚えておらず、マニアックにハマった(主に男性の)世代からはひとつかふたつ遅れているのだろうな、と認識しているからです(私が、子供向けと思いきや…!とハマり自分でもそこから子供ではなくなったと考えている作品はやはり『機動戦士ガンダム』なのです)。だからそのあたりを熱く語られるような内容だと、ついていけないだろうしおもしろく思えないかもしれないな…と案じていたのでした。
 しかし舞台は、こうしたあらすじ(劇団公式サイトから書き写しました)から想像されるものとは、ちょっと違っていたんですよね…まずなんか、全然バブル感がなかった(笑)。わざとかなあ、こういう業界や制作会社や末端スタッフはこんな感じで別にバブリーじゃなかったよ、ってことかもしれませんが、92年から社会人をしてきた私としてはイヤどうだろうどこもかしこもやっぱりバブリーだったよね…?というのが実感ですし、むしろわざと昭和チックに、第一次ブームのころの制作風景とダブらせるように作っているのかな?とも感じました。どうなんでしょうね?
 だってバブルのころにも、制作費削減のために怪獣が出てこない安上がりな回を作ろう、なんて事態があったんかいな?という気もしたのです。でも、ともあれそんな状況で、テレビ局の担当者(緒方晋)や番組プロデューサー(林竜三)や監督(岡本篤)や助監督(清水緑)や主演俳優(浅井伸治)やゲスト女優(橋本マナミ)やそのバーターで連れてこられた新人俳優(足立英)やがそれぞれ勝手なことを言い…という状況は、想像がつきます。そんな中に、学生時代の先輩である監督に呼ばれて、駆け出しの脚本家(伊藤白馬)が巻き込まれていく…というような展開でした。
 私は全然くわしくないのだけれど、実際の特撮シリーズに、差別の告発や社会批判、政治批判、文明批判めいたメッセージがある、子供向け番組らしからぬエピソードの回があった、ということは知識として知っています。そのあたりのオマージュ(パクリではなく)も込めた今回の舞台なのでしょう。最初のうちはやや紙芝居チックな演劇だなー、などと感じていたのですが、やはり実際の撮影というか稽古というか演技というか、が劇中劇のように始まったりし出すと、俄然舞台の魔法を感じて私にはおもしろく見え出したのでした。というか鮮やかすぎたし怖かった…これは子供向けに放送するのは無理があるだろう、というざらざらのざらりぶり、ぐさぐさのぐさりっぷりでした。結局は大人の問題であり、大人がどういう社会を作っているかという問題であり、でもそれを改善していきたいという想いがあるなら、やはり子供向けにメッセージを発信していくことも大事なのではなかろうか、などとも考えました。
 大人ななあなあ着地も、ほっとしたようななんだかなあなような、でもあるあるだなとも思いました。そして監督もまた差別される側だった、ないし今もなおそうなのだろう、とは早くから感じられていて、私は彼は脚本家のことを好きなのかなとか思っていたのですが、ちょっと違う設定でしたね。でも、そういうことでした。彼はカミングアウトしないし、周りは気づかないままに無神経な扱いをし続け、差別はなくならない。バブル期どころか今もなお事態はほとんど改善されていず、後退している部分すらある。SOGI差別、性差別、国籍や人種や出身地による差別などなどはまったく撤廃されていず、理解もまだまだ進んでいない。むしろバックラッシュの嵐で、今また似たようなアジが飛び暴動が起きかねない状況になっている。バスカフェの器物破損は立派な犯罪でれっきとした暴力ですし、たとえばそういう例に最近でも枚挙に暇がありません。私たちは全然学習していない、前進していないのです。
 でも、訴え続けるしかない、発信し続け作り続けるしかないのだ…という、クリエイターの意地のようなものも感じました。良き舞台でした。
 ちょっとおもしろく感じたのが、役者役の三人が、役者のときとこの特撮ドラマの中で演じる役とが男性ふたりはけっこう乖離があって、女性はそうでもなかったことです。ゲストといえどアイドルみたいなタイプの女優さんではなく、また役もベタなマドンナ役ではなかったからかもしれませんが、なんとなく劇作家のそういう視線を感じなくもなかったです。渋い異星人役を演じる新人くんがホントもの知らずでお行儀もなっていなくて、でも真面目で向学心もあり…という描かれ方をしているのもおもしろかったし、希望を見た気がしました。
 タイトルは、もっと何かいいものがありそうな気もしなくもないですが…
 でも、次回公演も楽しみです。新作が来年6月上演予定とのこと。次はどんなことをしてくるのかな…

 


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