駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

楊双子『台湾漫遊鉄道のふたり』(中央公論新社)

2024年04月28日 | 乱読記/書名た行
 結婚から逃げる日本人作家・千鶴子は、台湾人通訳・千鶴と“心の傷”を連れて、1938年、台湾縦貫鉄道の旅に出る…台湾グルメ×百合×鉄道旅小説。

 日本人女性作家の手記、のていを取った台湾人女性作家の小説…というギミック自体はよくあるものな気がしましたが、ともあれ楽しく読みました。しかし著者は台湾で歴史百合小説なるジャンルを起こしたとして注目されている人物なんだそうですね。本の帯といい訳者あとがきといい、「百合」に関してなんの説明もないままに進められているんですが、そんなに周知で当然の用語なんでしたっけね…?
「日本統治時代の台湾を舞台とし、綿密な資料考察に基づいて創作された百合小説」ということだそうですが、歴史とか百合とかよりはグルメもの、というか美味しいごはんものとして、おもしろく読めました。逆に言えば、歴史小説としても百合としても中途半端には感じました。尻切れトンボ感があるというか、隔靴掻痒感があったというか…
 もちろんそれこそ「日本統治時代の台湾が舞台」だったからで、日本人の千鶴子と台湾人の千鶴との間に真の意味での友愛なんて存在しえなかったのだ…ということこそが「歴史」の物語ではあったのでしょう。でも小説としては、たとえば千鶴は千鶴で何か覚え書きみたいなものを残していたことにするとかして、彼女側から見た物語についても足すなどしないと、やはり上手く成立しない気がしました。
 ただ、この時代のこの問題に関して、私を含めて現代日本人の多くはほとんど知らないし考えたこともないと思うので、でもそれはやはり駄目なことだと思うので、こういう小説がきっかけでも、まず知り、考え、未来に生かすことは必要だな、と改めて感じました。謝罪するとか、責任を取るとかいうことではなくて、未来に向けてきちんと考えることが大事なのだと思うので。それが千鶴の傷を癒やすことになると思うので…
 そんなことを考えた読書になりました。



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フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星[新訳版]』(ハヤカワ文庫全3巻)

2021年12月24日 | 乱読記/書名た行
 アトレイデス公爵は皇帝の命を受け、惑星アラキスに移封されることになる。過酷な砂漠の惑星アラキスは、抗老化作用を持つ香料メランジの宇宙唯一の産地である。宿敵ハルコンネン家に代わりそこを支配することは、表面的には公爵家に富と名誉を約束する。皇帝やハルコンネン男爵の罠だと知りつつ、公爵は息子ポールの未来のためにアラキスに乗り込むが…ヒューゴー、ネビュラ両受賞の壮大な未来叙事詩。

 映画化されたこととは無関係に、先に新訳版が発売されていた…のかな? その後、映画ビジュアルの広帯(というかほぼカバーと同じサイズだけれど)が巻かれて再度店頭に並んだようですね。それを秋くらいに買って、やっと読む順番が回ってきました。映画は未見。でももちろん小説自体は遠き若き日に読んだことがあります。それこそ中二くらいのころに(旧訳の刊行は72年とのこと)…巻末に膨大な用語解説があったことは今でもよく覚えていて、下巻の巻末にやっと出てきたときには「これコレ!」と大喜びしてしまいました。懐かしいなあ…
 ローカスのオールタイム・ベスト不動の1位、というのは正直よくわからないけれど、今読んでもとてもおもしろい、SFらしいSFだなあ、というのは本当に感じました。初読当時の私も、こんなふうに現代社会批判を込めて新世界が設定できるんだ、人間の新たな次元を考察していけて、その上でベタなエンタメが作れるものなんだ…ということにとてもときめいた記憶があります。
 ただ、今読むと、特にフェミニズム的視点について、というかそのなさについて、やはり限界を感じますね。どんなに進んでいるように思えても所詮は男性作家ですね(わざと言っています、あしからず)。すぐ言えるのは、なんでこんな今から何世紀も先の何光年も先の世界で一夫多妻みたいな婚姻制度で長男相続なんだ、ってことですよね。主人公の母親は公爵の愛妾、だが公爵には正妻がいないので主人公は嫡男であり正統な跡継ぎとされている、公爵夫妻は愛し合っていたが、彼女に公爵と結婚する資格がなかったのと、公爵が政略結婚を餌に皇帝や貴族たちに対して権謀術数を駆使する必要があったので彼女と結婚しなかっただけであって…みたいな、なんだそのメロドラマ設定、と「ケッ」ってなりましたよね。そして主人公もそれを繰り返す。アラキスの現地人フレメンの女と恋に落ち息子を持ち、でも息子を戦闘で失い、けれど女とは愛し合い続け、一方で皇帝の長女と政略結婚して皇位継承権を得たところでこの第一部が終わるのです。全編、このプリンセスが書いた主人公の伝記からの一説をエピグラフにする構成にしているというのに…! ホント大声で「ケーーーーッ」と言いたかったです。
 血をつなごうとすることは動物としての本能だから仕方ないんだ…と男性作家は言うのかもしれませんが(しかし言われなければそもそも気づきもしないんだろうな…)、そんなに動物としてしか生きられず本能が捨てられず理性が持てないというのなら宇宙進出なんかやめておけ、としか言えませんよね。その判断ができないのが人類の不幸ですよ…なのにメランジによる高速演算とか未来予想ができるようになる新人類、みたいな夢を描いている…はっきり言って不毛です。未来にも新世界にも婚姻制度はあってもいいでしょうが、家父長制から脱却しないのなら無意味だし、財産はともかく業務や役職や地位を子供に、しかも長男だけに引き継がせるシステムは百害あって一利なしと何故何万年もかけて学習しないのか…民主的な選挙という発明を何故生かさないの? そもそもあんたの妻の息子はあんたの子供とは限らないんだよ…? いちいちつっこむのにもう疲れました。
 あとは、こういうヒーローの孤独というか、「選ばれてあることの恍惚と不安のふたつ我にあり」みたいなことを描きたがるのも男性作家特有なのかもしれないな、と今回感じました。男は一応選ばれる可能性があるから、でも大多数は選ばれないからこそ、「選ばれたらどうしよう」みたいに悩む話が書けるんですよね。女は自分が選ばれる可能性がミリもないことを知っている。だからこそこういう男を描くときに「選ばれたら応える一択だろ」となるし、でもそれが苦しいことも、望んだわけではない場合がありえるのもわかっていて、そこにドラマを描こうとする気がします。たとえば『BANANA FISH』ってそういう物語だと私は思う。アッシュと英二の物語なんじゃなくて、あくまでアッシュが主人公の話なのではないかと私は考えているので。女性がヒーローを描くとき、その孤高は織り込み済みで、だからこそ周りとの関係性の物語を描こうとするんじゃないかなと思うのです。でも男はそうじゃないんだよね、もっと自分とヒーローを同一視してただ酔って描くんだよね…スフィル・ハワトもガーニー・ハレックもダンカン・アイダホもスティルガーも、ポールの親友にも右腕にも腹心の部下にもなれない、ならないんだもん。寒いよなー…
 もちろん女が女だけを産み教育するベネ・ゲセリットという組織というか団体というか…も描かれているんだけれど、そこにはこの男性作家の女性嫌悪というか女性恐怖を感じます。女を賢い女とそうでない女に勝手に分けていて、賢い女は恐怖しそうでない女は嫌悪している。チェイニーですら教母となるような存在として描かれていて、そうでない女はキャラクターとしてほぼ出てこない始末ですからね…女を人として認めていないのです。
 別に全部アリアに任せればいいだけのことだと思うんですよね、それで宇宙は救われるはずなんですよ。でもそうならないんでしょ? それもこれも男たちが愚かな政争と戦闘に明け暮れているからですよ…そこにはもちろん主人公ポールも含まれます。
 いくら優れたSFでも、そこからは脱却できていなかったのだなあ…ということがよくわかる、おもしろい再読となりました。
 ところで続きは新訳になっていないのかなあ? 旧版は重版され続けているのかな、もう普通の書店では買えないのかな。なかなかおもしろかった記憶もあるしなんせ物語としてはまだ序盤なので、もう少し読みたいけどな…惑星改造の話は科学的にもなかなかワクワクしますよね。ちょっと探してみたいと思います。











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窪美澄『たおやかに輪を描いて』(中央公論新社)

2020年05月29日 | 乱読記/書名た行
 結婚20年、主夫・絵里子の人生は穏やかに収束するはずだった。だが次々つきつけられる思いがけない家族の「真実」。大きな虚無を抱えた絵里子に再び命を吹き込むのは、整形した親友、乳癌を患った老婦、美しい風俗嬢…?

 読み始めたときにはしょっぱい話だなーという印象しかなかったのですが、意外や最後にはおもしろく読み終えてしまいました。ドリームともファンタジーとも言えてしまうかもしれませんが、連載されたのは「婦人公論」だし、勇気づけられた読者も多いのではないかなあ。ていねいな描写でリアリティを積み重ねていて、安易にご都合主義だとは言い切れない力強さがある作品になっていたと思いました。
 何作か読んだことがある作家さんだと記憶しているのですが、また気になったら作品を手にしてみたいと思います。

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樹林伸『東京ワイン会ピープル』(文春文庫)

2019年11月30日 | 乱読記/書名た行
 不動産会社に勤める桜木紫野は、同僚に誘われてワイン会に参加する。口慣れないワインと人間関係に意気消沈する紫野だったが、織田一志というベンチャーの若手旗手と出会う。紫野のワインに対する鋭敏な感覚に興味を持った彼は、新たなワイン会に紫野を誘うが…『神の雫』の原作者が描くワイン小説。

 漫画原作者として名前は知っていましたが、小説を読むのは初めてでした。ザッツ通俗的かつスノッブで、大変楽しく読みました(笑)。同じモチーフでも女性作家ならこうは描かないだろう、という男性作家のミソジニーをバリバリ感じましたが、そう書きたかったんだろうし連載の掲載誌は「別冊文藝春秋」だったようなので、いいところなのでしょう。単行本になったのは一昨年で、早くもやや古い感じがまたたまりませんでした。
 しかしこれはこの秋に映画になったそうなんですが、どんなだったのやら…ただでさえワインなんて呑まなきゃわからないもので、文章でいろいろ表現されるのはそこからの想像をまだ味わえるものですが、そのイメージをそのまま映像化しちゃうと途端に陳腐になるんですけどねえ…味わっているヒロインを色っぽく描写するだけなら、エロティックでいいのかも。まあ観る気もないし、言っても詮ないことですが…
 と、つっこみながらの読書が大変楽しかったです(笑)。

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さいとうちほ『とりかえ・ばや』(小学館flowersフラワーコミックスアルファ全13巻)

2018年04月30日 | 乱読記/書名た行
 時は平安。男らしい姉・沙羅双樹と女らしい弟・睡蓮は入れ替わった性のまま運命に翻弄されていき…衝撃のトランスセクシャル・ストーリー。

 雑誌でもパラパラと読んではいましたが、連載が完結しコミックス最終巻も出たので一気読みしてみました。原作は未読。平安時代末期に書かれたと言われる、作者不詳の物語だそうですね。確かに『源氏物語』の影響は色濃く感じられますが、そこに自分なりの萌えを投下してオリジナルなものを作っているのが見事です。それが今で言う男装女子とか男の娘とかBLとかに通じている、というのもすごい。てか日本人のDNAすごい、1000年前からやってること一緒(笑)。そしてそれを現代視点からある程度整理し、理解しやすく読み替えて描かれたのがこの漫画なのでしょう。
 何度か言っていますが私は月二回刊の少女漫画雑誌「少女コミック」(現「Sho-Comi」)をまったく通ってこなかった漫画読みなので、さいとうちほ作品もある程度大人になってから勉強しました。好きだったのは『花冠のマドンナ』や『花音』とかかなあ。愛蔵しているのは『銀の狼』と『子爵ヴァルモン』だけです。前者は宝塚歌劇の作品をコミカライズして「宝塚グラフ」に掲載していたものをまとめたコミックスですし、後者は『仮面のロマネスク』の原作『危険な関係』のコミカライズ作品ですから、どちらも宝塚関連作品としての所蔵ですね。
 つまり、端整で丁寧で繊細な絵柄でデッサン的にもしっかりしているのだけれど、私にはやや整いすぎていて味気なく思え、またキャラクターの心理描写やキャラクター同士の関係性に重きを置くことが多い少女漫画にしては珍しく、むしろストーリーテリングの方に興味があるタイプの作家で、結果的にキャラクターが類型的にまた大味になることが多く、簡単に言うと「萌えない」…というのが、今までの私のこの作家への評価だったのでした。
 でも、この作品は、金脈を当てた気がします。先日始まった新連載も同じ系統のお話のようですし、そちらも当たるといいなと思っています。なんと言っても性別逆転というギミックそのものが萌えなので、それを体現するキャラクター自体が多少記号的すぎようと十分に萌えられるのです。これは大きい。
 美麗な絵柄なのでキャラクターがそもそも中性的であり、その性別の描き分け方もまたそもそもかなり記号的です。私が漫画の描き方を覚えた教則本では、まあ素人はたいてい一種類の顔しか描けないものなのだけれど、それでも眉を太く首を太くすれば男顔になるし下まつげまできちんと描けば女顔になる、みたいなことを教えていましたが、この作家の画風にもちょっとそんなところがあります。加えてもちろん上手すぎるくらい上手いので、表情とかでも性別や性格が表せられる。だから主人公の男女ふたりがまず絵としてきちんと描き分けられていて、この入れ替わりで混乱する物語をしっかり成立させているのです。これはすごい。
 そう、物語の主人公はふたり、権大納言のふたりの妻に同時期にそれぞれ生まれた、活発で凜々しい姉の沙羅双樹姫と、引っ込み思案で泣き虫の弟の睡蓮の若君です。顔はそっくり、性格は正反対。家族は見分けがつくけれど、周りはどっちが姉だか弟だか姫だか若君だか混乱してしょっちゅう取り違えている。やがてその評判は帝にまで届き、出仕させるよう言われて…女の沙羅双樹の方が男装し元服し帝の侍従となって男性として働いていくことになり、男の睡蓮は女装して裳着をすませ、のちに立った女東宮の内侍となって女性として生きていくことになります。
 このふたりを、同じ童禿のときから異性装をするようになってもどっちがどっちかちゃんとわかるように描けているのがまず見事。そしてこの話がおもしろいのは、そうやって性を逆転させて働き始めたふたりだけれど、実はトランスセクシャルではなくてむしろトランスジェンダーであり、性指向としてはヘテロセクシャルだったことが恋と性愛の訪れによって明らかになっていくところです。これは私にはけっこうリアルに思えました。
 本当は、自分をどっちの性だと思うか、ということと、どっちの性の相手を好きになるかということはあまり関係ないことなのかもしれません。でも世間的にはシスジェンダー・ヘテロセクシャルがマジョリティだから、そういうふうに組み込まれていってしまう、というところもあるのでしょう。ふたりは自分や世界というものがまだ曖昧模糊としていた子供の世界から、とりあえずおちつく性で世間に出て周りと交わっていくうちに、自分の真の性や恋や人生を見つけていくことになるのでした。
 沙羅双樹は侍従として楽しく凜々しく働き、宮廷の女房たちからは可愛らしい美しいと大モテだけれど、自身は女房たちにそうした興味はまったく持てなくて、誰がいいの誰とどうしたのと騒ぐ同僚男性たちの話にもうまくまざれない。そこへ右大臣家の四の姫との縁談が持ち上がり、いろいろあって受け入れざるをえなくなったものの、結婚しても姫とは手をつないで眠るだけです。ペニスがないから性交できない、というより、男として生きていても男として女を好きになることはないとわかった、と言いましょうか。そうこうするうちにこれまたいろいろあって、同僚の石蕗に女と見抜かれ、なかばレイプされてあまつさえ妊娠させられてしまい、行方知れずになるという形で宮廷を去らざるをえなくなる…
 これらの事態と平行して、沙羅双樹の恋心はお仕えする東宮のち帝に敬愛のような形から発動を始めるのですが、それはまさしく「平行して」であって、性交や妊娠を通して体が無理矢理変えられるのとほとんど同時に、という感じに進みます。それまで初潮は迎えていても心は童で性もほぼ未分化だったものが、体が変えられてしまうことで心が育つということなのか…沙羅双樹は女にさせられ、女として生きざるをえなくさせられてしまうのです。
 それを悲しい、虚しい、不当だ、かわいそうだ、と見る向きもあるかもしれません。でもこの物語では主人公はあくまで前向きです。妊娠が死産に終わったのち、いろいろあって、沙羅双樹は弟の睡蓮と入れ替わり、今度は女装して、というかそもそも女性なのだから表現としては本来の性となって、という方が正しいのかもしれませんが、とにかく睡蓮の内侍として再び出仕を始めます。
 一方の睡蓮の方は、そもそもが男性だからか、外部から力尽くで何かをなされ変化を強いられる、ということはありませんでした。けれど女東宮の近くで懸命に働くうちに、けなげでいじらしい女東宮を愛しく思うようになり、抱きしめ、キスをしてしまう…やがて帝から入内を求められ、そもそもが男なので断らざるをえず、となると宮廷にいられない。そしていろいろあって姉の沙羅双樹と入れ替わり、今度は男装し本来の性となって、右大将として再び出仕することになるのです。姉弟ふたりで帝と東宮を守り、ともに仕えるために。
 一連の展開に際し、石蕗というザッツ・男なキャラクターの存在がまた効いています。彼は同僚の沙羅双樹をまず好もしく思い、そっくりだという姉の睡蓮を紹介してくれとねだり、でもいざ睡蓮に近づくと、異性センサーが働かないということなのか心がときめかない。むしろセンサーは沙羅双樹の方に反応し、自分に男色の気があるのかと悩み、悩んだあげくに沙羅双樹の妻である四の姫を寝取ってみたりする。あげく沙羅双樹の胸を触って女とわかると安心して襲う…もうホントーにサイテーのザッツ・男だと思います。これをまたこの作家がさらりと描くからまたちょうどいいと思うのです。愚かだし非道いんだけれど、憎めなくもありしょーもないとも思える、絶妙な匙加減の描写だと思いました。オチも見事。
 しかしこれまた本当に不思議なのだけれど、性指向というものは何故これほど強固なのでしょうね? 異性愛者は同性の友人とどんなに仲良くなってもその相手と性愛関係を持つ発想はまったく抱かないじゃないですか。なんで?と思う。同性愛者も、相手が同性愛者だとなんとなくわかってそれから好きになる、とかいいますよね? 同性でも異性愛者のことは好きにならない、と。でもどうしてなんでしょう? 恋は心のもので性愛は体のものの気がするのに(では脳はどこに?)何故こうも不可分なのでしょうね? やはり何か動物的なセンサーみたいなものが働いているということなのでしょうか…ドリームなんかとしては、性別とは関係なくただその相手だから好きになったんだ、とかいうシチュエーションを支持したいわけですが、実際には相手をまず性別で識別しているところが絶対にあるわけです。そりゃ性別も個性のうちだけれど、それにしても本当に不思議です。
 それはともかく、立場を入れ替えて本来の性で働き始めたふたりはそれでも、沙羅双樹は歩くのは早いわ箏は下手だわ、片や睡蓮は未だ臆病で赤面症で乗馬も弓も下手と、お互いに苦労します。それでも帝のために、女東宮のためにと働き、一身に仕え、帝位を巡る陰謀と戦い、いろいろあって、ついに沙羅双樹は帝の女御となって男の子を産み、睡蓮は東宮を辞した女一の宮と結ばれるハッピーエンドと相成ります。めでたい。本当によくできたお話でした。
 沙羅双樹の娘は活発で、睡蓮の息子を泣かせちゃったりします。でも老関白はもう彼らをとりかえようとはしません。「あれで良い/あのままで」「なりたいようになってゆくもの」…沙羅双樹も睡蓮も、男を愛し女を愛したから、また母になり父となったから、女であり男であるよう強要された、ということではないのでした。未だ沙羅双樹は凜々しく睡蓮は優しい、けれど凜々しい女も優しい男もそれはそれでと認められた、だから彼らはふたりとも無理せず、息苦しさを感じることなく、自然にそのままの姿で生きていけるのでした。
 だからこの物語は厳密に言うと、キャッチ・コピーにあるようなトランスセクシャル・ストーリーではありません。睡蓮より沙羅双樹の方が比重が大きいし、あくまで少女漫画だなとも思います。でもとてもおもしろい一作だったな、と思ったのでした。


 最後に脱線。みりおエドガーにれいちゃんアランでこそ『ポーの一族』の宝塚歌劇化がなったのだと考えると、この作品も今の花組でならできるんじゃないの…?
 みりおの沙羅双樹にれいちゃんの睡蓮、ちなつの帝にマイティーの石蕗。ゆきちゃんは四の姫と三の姫の二役ができるし、吉野の宮はあきらで女東宮は華ちゃんかな。どうよ!?(どうよと言われても)



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