宝塚バウホール、20年1月12日14時半。
19世紀後半ロシア。母(五峰亜季)の出迎えのためにモスクワ駅にやってきた青年将校アレクセイ・ヴィロンスキー(美弥えりか)は、美貌の貴婦人アンナ・カレーニナ(海乃美月)と出会い、一瞬で心奪われる。アンナもまた、魅力的で洗練されたヴィロンスキーに惹かれていくのを抑えることができなかった。社交界の華と謳われ、政府高官であるアレクセイ・カレーニン(月城かなと)の貞淑な妻として平穏に生きてきたアンナは、ヴィロンスキーの激しく真摯な求愛を受け、内に秘めていた情熱的な自我が目覚めていくのを感じるが…
原作/レフ・トルイトイ、脚本・演出/植田景子、作曲・編曲/吉田優子、甲斐正人。2001年雪組初演、2008年星組WSで再演されたミュージカルの三演。
外部だとたとえば
こちらとか
こちらを観ているのですが、実は宝塚版は映像でしか観たことがありません。でも大好きな作品です。景子先生の傑作のひとつだと思っています。『舞姫』(これも生では観ていないのですが)なんかもそうですが、古典に近いような近代小説の舞台化、ミュージカル化がとても上手いですよね。このあたりの文芸作品の美意識や恋愛観、人生観なんかに景子先生は共感しているのでしょう。時代とともにだんだんとウケなくなっていってしまう価値観なのかもしれませんが、私も好きです。恋や情熱を美しいものと見る感性、恋こそ正義、けれど幸福に直結するとは限らない、むしろ悲劇に終わることが多い…そんな物語を私は愛しているのです。自分が恋愛体質ではないから、破滅体質ではないからなおさら、なのかなあ。憧れるというか、人間たるものあれるのであればそうありたい、と願う叶わない思いというか。でもなかなかそうはできない、と歯噛みするところまでセットで、ドラマを味わい尽くせる気がしています。
今回も、美しさに泣きました。お話としては、もちろん筋はわかっているし、かわいそうにと思ってはらはら泣くというタイプの作品とはちょっと違うかなと思っていたので(たとえば私はヴィロンスキーとかホント卑怯でしょうもない、ザッツ「男」なキャラクターだぜ、ケッ胸くそ悪い、とか思っていますしね。それに引きずられて破滅するアンナを哀れんで、ヴィロンスキーへの怒りに震えて泣く、ならありえます)、自分でも意外でした。でもそれは、ああ、これがみやちゃんとくらげちゃんの集大成なのかもしれないな、次の本公演で卒業しちゃうのかもしれないな…と思ってしまうほどの壮絶な美しさ、緊密な芝居、集中具合に胸打たれた部分が大きかったのでした。そして残念ながらそうなった方がもろもろ美しいのではないか、とかも考えてしまいました。ファンの方々にはすみません。もちろん全然そうならないことも普通にありえると思ってはいます…
みやちゃんが再演時にカレーニンがやりたくてオーディションに挑んで…というのはわりと有名なエピソードかと思います。当時、かなり背伸びして演じていたのかもしれませんが、映像で見てもちゃんとしていましたよね。
美貌で、小柄だけれど低い声の持ち主で、男役としての資質にとても恵まれたスターさんだと思います。私個人はこういうタイプの美形にはあまり興味がないので、好きでも嫌いでもないのですが、珠城さんのトップ就任に関して、上級生二番手スターという微妙な立場にもかかわらず、とても優しく気を遣いトップだけでなく組全体のサポートをしているであろう様子に、本当に性格がいいんだろうな人間的に素敵な人なんだろうなと思わせられました。
どこか場所が空くなら、トップスターにさせてあげたい。またなんの問題もなく務まるでしょう。けれどではどこが空く?というだけの問題で、そしてそういう運に恵まれずにトップにならずに辞めていく番手スターももちろん過去にもたくさんいたわけで…でもトップスターの歴史に残らなくても、代表作や当たり役があってファンの記憶に今も残るスターという方もたくさんいますし、逆にトップになっても作品運が悪くてなんだったの?なスターもいたわけで…こればかりはなんとも、ですよねえ。
ともあれ、みやちゃんの今回のヴィロンスキーは当たり役のひとつになったと言って問題ないと思います。発表当時は、一度は若手のWS演目になったこともあってもう少し若い役者の方が…と思わなくもありませんでしたが、言い方がアレですがちょっとトウが立ったヴィロンスキーというものもまた正しいな、と思わされたのです。ヴィロンスキーは愚かな男ですが、それは若さゆえのものではなく、大人なのになお愚かな、まさしくただの男なのである、とした方が、物語として正しいのではないかなとも思わせられたからです。
美貌で、伯爵の地位を持ち、軍人としても優秀で、財産も潤沢にあるのでしょう。そしてスティーバ(光月るう。こういう役がまた絶妙に上手い!)とアンナが似ているように彼と母親も実はよく似ていて、母の言うような貴族社会での生き方を彼は決してできないわけではないんですよ。その程度の器用さも酷薄さも彼は充分に持っている。ただ、それだけじゃつまんないな、なんかないかなとか思っている。それを愚かと言うのです。そこに、アンナが居合わせてしまった…
ヴィロンスキーが、ただ愛のために何もかも捨てて生きたい、僕にはそれができるとかぬかすのは、彼がなんでも持っているからです。でもアンナは違う。名字も、息子も、家屋敷も家財道具も衣服も財産も、みんな夫のものなのです。美人で貞淑だという評判も周りが勝手にもたらすもので、彼女自身の持つものとは言いがたい。彼女は本当に身ひとつの、なんの所有もさせてもらえない存在なのです。当時のこの社会の女性には、父親か夫の庇護のもとにしか居場所がなかったのです。
そういう相手にそうでない者が一方的に求愛するなんて全然対等じゃないし本当に乱暴なことで、それこそ死刑宣告に等しく、許されざることなんですよ。優しさも配慮も何もない。
でも、舞踏会でマズルカを誘うために跪いてアンナの手を取るヴィロンスキーの美しさに、というかそれを満を持して美しく色っぽくいやらしく傲慢にしかし真摯に情熱的にやってみせる美弥るりかに、「あかん許すしかない。てかコレ孕むマジあかん」と白旗上げました私。
ヴィロンスキーという男の愚かさ、鼻持ちならなさ、卑怯さは、タカラジェンヌが美しく演じることでしか購われません。『
春の雪』の清さまと一緒で、美しくなければ許されない、成立しない役です。それを痛感した一瞬でした。オールバックを踏襲せず、やや現代的に揺らしたウェービーな前髪も罪深い。みやちゃんが出会うべくして出会った役でした。
だから、たとえば、次の本公演でご卒業となったとしても、それはそれで悔いはないのではあるまいか…とまで考えてしまった、ということです。もちろんファンにとっては悔いがないなんてことはない、というのも承知してはいるのですが…
さて、そんな美しくも強引で情熱的な男、これに堕ちなきゃ女じゃない。これはそんな物語です。
それでもアンナは、カレーニンに追及されて、夫と愛の話をしようとしました。アンナは夫を愛していたからです。もっときちんと愛させてほしかったし、愛してもらいたかったのです。それがたとえめくるめくような情熱的なものではなかったとしても。
でもカレーニンは、ヴィロンスキーとはまた違う意味で卑怯な男だから、自信のない分野からは逃げるわけです。彼はあんなにまっすぐ応えません。世間体とか体裁とか道徳の話ばかりする。もちろんそこには彼が孤児の育ちであり、愛を知らずに育ったのであろうことや、そこから勉学だけはがんばって政府高官の地位を得て、ずっと人に誹られぬよう侮られぬよう自分を律して必死に正しく生きてきたのであろうことなどの理由がのちに語られるのだけれど、とにかくこの夫婦はあまりにもコミュニケーションを怠ってきたので、もはや話が通じないわけです。だからアンナは、走り出したら何もかも失うまで止められないとわかっていても、走り出してしまうしかなかった。そしてこの何もかも、の中には、生命そのものも入っていたのです。
産後の肥立ちの悪さに心痛が重なって…という状態は一度はカレーニンの理解と許しで回復したけれど、二度はなかった。彼女は自殺します。でもヴィロンスキーの自殺は未遂に終わる。職業軍人が自殺をミスるとか笑えます。ホント臆病で卑怯。死にたくなかったからに決まっていますよね。しかもアンナのためを思って会わずに去ることもできない、しない。ホント潔くなさすぎて怒りに震えます。会ったら火が点いちゃうのはわかっているのに。しかもイタリアで新生活を打ち立てることもできない、しない。腑抜けすぎます。戻れるはずなんかないのに、戻っても居場所なんかないに決まっているのに。失うものが多すぎるのはアンナの方だけだとわかっているはずなのに。
オペラハウスにアンナが着て行った気合いの赤のドレスは、誰が選んだものなのでしょうね…
アンナが死んで、ヴィロンスキーがすべきはセビリア戦線に死にに行くことなんかではなく、なんちゃらのお嬢さんと結婚してアーニャを引き取り育て、彼女やセリョージャ(蘭世惠翔)や、コスチャ(夢奈瑠音)とキティ(きよら羽龍)に生まれる子供たちがより望むように、幸せに生きられる新しい世の中を作ることですよ。それがアンナの供養ですよ。でなければむしろ、母親やベッツィ(美穂圭子)やナスターシャ(夏風季々)が望むように、この貴族社会に殉じて生きて、世の変わらなさに奉じることですよ。
でもヴィロンスキーはどちらもできない、しない。自決すらできずに戦地に死にに行く。戦争の方がいい迷惑ですよそんな利用のされ方しちゃあ。どんだけ卑怯なんだヴィロンスキー!
でも最後に彼の前に現れる、やっと「裸足のアンナ」になったアンナのくらげちゃんのダンスがまたまた凄絶に美しいので、許すしかないか…と私は泣いたのでした。これしかなかったか、これでいいんだと当のアンナが言っているのだから…とただただ、泣けたのでした。
くらげちゃんは私にはやっぱり地味に見えたし、まひるとかまりもとかの明るくまっすぐでややウェットでとにかく情熱的なアンナ像が好みだったので、ちょっと辛気くさく見えるなーとか自分に酔ってるように見えるなーとかカマトトっぽく見えるなーとかいろいろ引っかかりはしたのですが、なんせダンスが素晴らしくて、このアンナもありだなと思わせられました。
で、やはり美しすぎるように見えたので、ああ、次で一緒に辞めちゃうのかしら、と思ってしまったわけです。新公ヒロインも別箱ヒロインもこれくらいの回数やって、それでトップにならなかった娘役スターさんなんてそれこそたくさんいますからね。トップスター以上にタイミングの問題があるし、そこに相手役さんとの相性も関わってくるんだから、それはもう誰のせいというものではありません。ご本人が満足して卒業できることを祈っています。トップになろうとなるまいと、みんないつかは卒業するのですから…
フィナーレのデュエダンのアンナのお衣装が赤で、オペラハウスの場面のドレスを思い起こさせ、また情熱的な真実の姿のアンナ、みたいなものも思わせてそれはそれは美しく、とてもよかったです。けれどラインナップがまた黒のドレス、というのもいい。この黒は決して地味ではないのです。ドリィ(楓ゆき)に赤を譲って自分は黒を着たけれど、凝った装飾があってとてもシックでエレガントなドレスで、ちゃんと勝負服なんですよね。だってアンナはヴィロンスキーも舞踏会に来ることを知っていたのですから、そこは自分が一番綺麗に見えるものを着ていきますよ、それが女ってものですよ。その最初のドレス(最初の出会いはコート姿でしたからね)こそが一番、それをラインナップでまた着るくらげちゃん…まぶしかったです。
というか景子先生の美意識が全体に冴え渡り、実に素晴らしい舞台でした。
ドラマシティくらいまでならこの緊密さは保てたと思いますが、バウがベストサイズと言えば言えるかな。せめてもう倍くらい公演期間があればねえ…観られて幸いでした。
れいこちゃんカレーニンには私はもっと背伸び感を感じるかなとか心配していたのですが、『
ラスパ』も経てさらに芝居が上手くなりましたよね。完全に杞憂でした。私がこのキャラクターを大好きすぎるというのもあるけれど、本当にキュンキュンしたし、アンナとの話の通じ合わなさには「そういう言い方じゃ伝わらないんだってアリョーシャ!」と心の中で叫び続けでした。ヴィロンスキーもカレーニンも同じアレクセイなのに、アンナは夫を愛称では呼ばないんですもん、私が代わりにナンボでも呼んであげますがな!てなもんです。
フィナーレの男役群舞のセンターの色っぽさもたまりませんでした。ホント、スターとしての風格が出てきたと思います。
もしみやちゃんが卒業して、ちなつが再び組替えして来ても、普通にれいこちゃんが正二番手に昇格するものだと思うんだけどなあ…同期のれいちゃんもまこっちゃんもすでに立派に務めているわけですし、劇団はこの期を揃えて上げたいんでしょうからね。でもちなっちゃんはれいちゃんの時代になっても別格スターとして花組にいてくれた方がいいのではと思うのですが、どうなんでししょう…最近ではきぃちゃんとかキキちゃんとか、組替えは基本的には栄転ですが二度目となると特にトップ直結人事であることが多いものだしそうであるべきだと私は考えているのですが(キキちゃんには未だ確約はありませんが)、はたして今回の人事の意図はどのあたりにあるのでしょうね…???
コスチャも私は大好きなキャラクターであたりまえですがキーパーソンのひとりなのですが、るねっこにはもう一押し、前に出て欲しかったかなー。なんかもえことかに近いものを感じるというか、あまり私が私がってタイプじゃないんだろうけどスターとしてはちょっともどかしい弱さを感じたので。歌ももう一押しパンチが欲しい!
キティの話題の研1おはねちゃん、お化粧はまだまだでしたが確かに普通に芝居ができて歌は上手い! 怖いもの知らずなだけかもしれませんがクソ舞台度胸だけではなかなかこれはできないと思いますよ、期待のニューフェイスです! 首とデコルテが美しいのも素晴らしい。月組にはホントいい娘役ちゃんが配属されるなあ…!
圭子姉さんはあまり変わらないしこういうお役はお手のものなんだけど(というか同じ役だし)、マユミさんがいい感じに口角が下がって貫禄が出てきていかにもな中年女性になっていて、お役にぴったりでした。
ひびきちのキティパパも素晴らしく、キティママの清華蘭ちゃんがまた、この役も良かったんだけどサロンの嫌味な夫人が絶妙に上手くて、こういう派手顔美人の正しい起用法…!と奮えました。
意外な出世役と言われる(笑)セルプホフスコイ(英かおと)も、もう少しパンチが欲しかったかなー。でもその恋人のナスターシャはとても良かった! こんな役あったっけ?というくらいの印象だったんですけれど、コスチャとキティのカップルがヴィロンスキーとアンナのカップルと対照的なように、セルプホフスコイとナスターシャのカップルもまたその位置にあるんですよね。私はラストのベッツィのシメ台詞をナスターシャに言わせるアップデートもありなのかもしれない、とかもちょっと考えました。ベッツィが言うのと、次の世代を担うナスターシャが言うのとでは意味が違って聞こえてくると思うのです。結局はその後滅んで今はないロシア貴族社会なのだけれど、中の人たちはそのことにどれだけ自覚的だったのだろうか…というのは、今上演して今に生きる人間が観るからこそ、ちょっと考えていい視点なのかもしれません。
たんちゃんやアンヌシカ(香咲蘭)は手堅い。ぎりぎりや蘭尚樹くんもさすが目を惹きました。せれんくんの医者が美形だったなあ。
個人的に気になったのは、こういういわゆる「不倫もの」のときはわりとたいていそうなのだけれど、主要人物に共感できないとか、恋に夢中になりすぎて周りが見えなさすぎではとかの、わりと否定的な、ちょっとピューリタン的にも思える感想を意外に多く聞くことです。なんか世の中の全体的な空気として、世知辛くなっているというかしょっぱくなっているというかロマンがなくなっているというか生真面目すぎるというかつまんなくなっているというか、なのかなあ? でもお話なんだからいいじゃん、とか私は思ってしまうし、現実に自分ではなかなかこうはできないからこそ、でも憧れないではない生き方だからこそ、舞台や映画や小説や漫画で見られると楽しい…ってのがあるんじゃないのかなあ?とか思うんですけれどね。それともみんなホントに「こんな生き方、1ミリたりとも憧れたりしません」とか言うのかなあ?
恋こそすべて、恋こそ正義…みたいなのってある意味正しいし、動物的なパッション含めとても自然であたりまえなことだと思うんだけどなあ。もっと明るく肯定されていいと思うんですよね。
そしてこの物語はそんな色恋以上に、「世間や社会に抑圧されて人が自由に生きられない、まっとうに幸せになれない不合理、つらさ」を描いているものだと思うので、それで古びないんじゃないかと思うんですよね。
もちろん人が完全に自由気ままに生きようとしたら無人島へでも行くしかないわけで、でもおそらく人間は群れて暮らさないと生きていけない非力な生き物で、だから社会も形成されるしそこにはルールも生まれるわけですが、社会の成熟がすぎるとちょっと無意味にも思えるルールが増えすぎちゃったりするし、お互い抑圧しすぎがんじがらめになりすぎて誰のためにもなっていなかったりする。そのしわ寄せは特に女に来ます。本来男女は対等で平等に扱われるべきなのに、古今東西たいていの社会でそうはなってこなかったからです。
この時代のロシア貴族社会でも、男に許されることと女に許されることは違っていました。男に望まれることと女に望まれることも。ただ愛し愛されたいという、人として生き物としてごく根源的なシンプルな望みを、女だけが叶えさせてもらえなかったりする。
今もなお状況は大きく変わっていないと言えます。この物語が神話のような寓話のような、本当にこんなことがありえたのかねと思われるような、平等で公平で差別のない世の中はいつか訪れるのでしょうか…多分、ない。だからこそこの物語は不朽で、永遠なのだと思います。