駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『小林公平没後1周年チャリティスペシャル 愛の旋律~夢の記憶』

2011年05月31日 | 観劇記/タイトルか行
 宝塚大劇場、2011年5月30日ソワレ。

 第Ⅰ部は主に作詞家としての公平氏の業績をたどる構成でした。
 オケはオケピット、舞台は大階段と吊り物飾り。
 プロローグは白燕尾の各組トップスター揃い踏み。横一列に並んで笑いかけてスタート。
 並びは組順でも学年順でも就任順でもないようで、センターはなんと大空さんでした。心臓止まるかと思いました。
 燕尾は色飾りがあるタイプで、組カラーではなく、大空さんのものは水色の飾り模様。
 その後、順番は忘れましたが、各組トップ娘役、二番手男役(ただし星組は別格扱いのトヨコ)、コーラス他を務める宙組メンバーたちの階段降り登場。基本的に白のお衣装だったかな。華やかでした。
 それからイシちゃん理事。
 曲は「愛の旋律」「逸翁讃歌」「五組そろって」「レビュー記念日賛歌」「夢の記憶」「タカラヅカ行進曲」。

 MCはほぼ台本どおりの感じで粛々と進みました。

 初期作品集の場面では、キムの紹介MCのあと、各組二番手がメドレー。
 まさおが「スター・ザ・サンシャイン!」(鮮やかだった!)、チギが「Harbour Light Memories」(アイドルチックだった!)、テルが「ON THE 5th」(モテオーラ全開だった!)、えりたんが「とこしえの花園」(緊張気味だった?)、トヨコが「タカラヅカ・グローリー!」(なんかすごい粘っこい歌い方だった!)でした。

 後期作品集の場面ではブルーの衣装のまゆたんがMCからそのまま「レビュー・明日への希望」。銀橋渡り。
 薄いピンクかゴールドにも見えた衣装のキムが「愛のカレードスコープ」今までタイトルしか知らなかったのですが、いい歌だったなあ。スクリーンの歌詞に見入ってしまいました。
 真っ赤な衣装のチエちゃんが「青い星の上で」。感動的でした。
 きりやんはピンクの衣装で「花の舞」を朗々と聞かせてくれましたが、最後の最後で歌詞が飛んで作詞していました…公平氏の詞をスクリーンにわざわざ出していたので、あれは…放送とかは、でもそのままするしかないよね(^^;)。思えば昨夜が東京公演千秋楽で、お稽古はあったんだろうけれど、朝移動して夜本番だったんだもんね、大変だよね。
 ユウヒは新調の衣装でしょうか、白に左袖と半身ほどが紫の変わり燕尾で「愛のプラハ」。縁のない歌なのでハラハラ聴きました(^^;)。

 そのあとユヒチエのMCで「夜明けの序曲」へのオマージュの場面となり、公平氏の指揮映像のあと、黒燕尾のトップ五人がV字になって登場、またまたセンターが大空さんで、今度こそ心臓が止まったよ…!
 ソロはみっちゃん。トップ娘役とカゲコーラス以外の現役生徒揃い踏みでした。

 続いて「コインブラ物語」の場面。
 ペドロに扮したイシちゃんが「あ イネス」「虹の歌」を歌い、イネスに扮したまりもが踊りました。
 MCもあり。

 ラストは「ベルサイユのばら」メドレー。
 きりやんのMCのあと、花組蘭蘭コンビが紫の総スパンで「ばらベルサイユ」。まゆたん節炸裂で濃くてよかった!
 雪組キムミミはピンクの総スパンで「愛の巡礼」。ミミちゃん、ちょっとお化粧が変わった?
 月組きりまりはブルーの総スパンで「愛の怯え」。これまで男役が盆回しセリ上がりで歌い、娘役は袖から出てきて踊り、ふたりしてセリ下がり、だったのが、ふたりでセリ上がってきててデュエットで歌いました。
 さらに星組は濃いピンクの総スパンで、ネネちゃんは上手スッポンからセリ上がり、こちらも歌ありで「ばらのスーベニール」。
 宙組ユヒスミは濃いブルーの総スパン、また基本パターンに戻って「白ばらの人」。これはオスカルを思ってアンドレが歌う歌だと思うので、オスカル役者だったユウヒにはおかしいのでは…と思ったけれど、他の組もいろいろキャラとしてはアレだったから見逃すか。
 ここのスミカの髪型がとっても素敵で可愛らしくて、ロザリー、いやお姫様だよね!と思いました。
 そのあと5カップル揃って「愛あればこそ」。スモークの中、美しいことこの上ない!
 大感激のうちに幕は下りたのでした。


 第Ⅱ幕前半は海外公演中心。
 プロローグは黒タキシードに組カラーのベストの各組二番手男役による「OVERSEA」。去年暮れのタカスペがもはや懐かしいですね。

 司会はダンちゃん。銀というかグレーというかの地に白の大きな花柄の大振袖。

 ゲストコーナーのトップバッターはツレちゃん。ひまわり色の飾り燕尾で「スキャット」と「愛の宝石」。
 そこへ永遠のプリマドンナ・初風さまがピンクのドレスで加わって、ハモったりなんかしてなんて贅沢!
 そしてここからのMCは大変なことになっていくのでした…

 第3回ヨーロッパ公演の思い出は、ソ連が寒くてみんなしてミンクの帽子をかぶっていたこと(初風さまはまだ家宝としてお持ちだと笑っておられました(^^;))、大晦日が舞台稽古で、ホテルに帰るバスの中で新年を迎え、街のパリジャンパリジェンヌが誰彼かまわずお祝いのキスをし合っているのを見て
「混ざりたい!」
 とバスを降りたかったのに、公平氏が出入り口に立ちふさがったこと…などなど。

 続いてK音楽賞を受賞した「ひとかけらの勇気」を白ブラウスに黒パンツのトウコが歌い、韓国公演から「ソウル・オブ・シバ」をナポレオンジャケットにニーハイブーツのワタルが歌い、香港公演から「星空伝説」を白のロングコートに黒パンツのズンコが歌いました。
 韓国の観客はノリが良くて熱狂的だったこと、大きな会場で客席降りの距離が遠くて大変だったこと、てっぺんの席からトウコが見てみたら舞台のワタルが豆粒みたいだったこと、のちの宙組の母体となる香港公演選抜メンバーのお稽古は今から考えると笑えるくらいつらかったこと…などなど。
 このあたりからダンちゃんの合いの手が絶妙なことになってきて、笑いが絶えないMCコーナーになっていきました。

 続いてベルリン公演から「Welcome to Takarazuka」をリカ。ポニーテールで黒のタキシードでウエストは絞っていて銀のパンプスで、「男装の麗人!」って感じで素敵でした。
 第2回中国公演から「燃え尽きるとも」を花柄チャイナスーツのたぁたんが優しく歌います。
 第1回中国公演から「ブラボー・タカラヅカ!」を白のコートに黒インナー黒ショートパンツ黒ニーハイブーツのマミが、毎度のマミ音階で歌ってくれました(^^;)。
 そしてロンドン公演から「ミリオン・ドリームス」を黒のドレスにスパッツ風パンツのヤンさんがしっとりと歌います。私にとってはユリちゃんの歌で、このあたりからの観劇歴なので、懐かしいことこの上もありません。

 MCはさらにカオスで…とにかくマミちゃんが何もかも覚えてなさすぎる(^^;)。
 ロンドンは猛暑で、でも劇場にはクーラーの設備がなく、チョンパで灯りがついたら観客が全員プログラムでバタバタ扇いでいるのがよく見えたこと。プレス発表で先発したとき公平氏がヤンさんとミツエさんをファーストクラスに呼んでくれてカレーライスを食べさせてくれたこと。ロンドン公演には後のトップがたくさん参加していたこと。中国の観客は座席番号とか無視でおおらかだったこと。タンリー人気が本当にすごくて、新聞の写真なんかマミリカはピンぼけでダンちゃんにしかピントが合っていなかったこと…
 ベルリンに最下級生で参加していたチエちゃんが、観光で行った蝋人形館か何かで展示してるお皿を落として割ったこと(^^;)。そんなだったチエ、キム、まゆたん、そして月組でずっと一緒だったきりやんやユウヒが立派になって…て語るリカちゃんがホントおかしかったです。
 まゆたんの名前がなかなか出なかったときに、さっとフォローしたヤンさんもさすがでした。

 現役生徒と絡んだらもっとカオスでもっとおもしろかったろうなー(^^)。マミリカダンにいじられる大空さんが見たかったよ。

 その後はゲスト全員で銀橋にズラリ並んで「愛の宝石」を再度歌い、圧巻だったのでした。

 続いてあゆみ姉さん以下コーラスによる「飛翔歌」と、ミエコ先生による「朝顔の人」の献舞、初風さまの「宝塚我が心の故郷」の献歌。

 そしてフィナーレは再び「夜明けの序曲」で、イシちゃんから始まって全員の登場。
 「この愛よ永遠に-TAKARAZUKA FOREVER」と「すみれの花咲く頃」を歌って閉幕となりました。私も熱唱したよ!
 ツレちゃんは黒燕尾に、マミちゃんは赤いスーツコートに着替えていました。

 銀橋を移動するタイミングがわからなかったのかトウコがとまどっていて、ユウヒが目でうながしていたり、ツレちゃんが客席もご一緒にと歌詞を先行して伝えるのが滞ったときに、トウユヒチエで顔を見合わせて笑っていたりして、なんだかすっごいいろいろラブリーでした。

 一回限りの、五組のトップコンビが久々に揃った、贅沢なイベント。リハーサルなど大変な進行だったでしょうが、とてもほっこりさせてもらいましたし、贅沢な時間を過ごさせてもらいました。
 ツレちゃん、初風さん以外は現役時代を見ているゲストだったのも個人的には思い出深かったです。
 140分の予定が押しに押して丸三時間だったのはご愛敬…というかサービスってことで(^^;)。

 そして何より、大空さんがトップ・オブ・トップとして遇してもらえる日なんてものがこようとは…!と、本当に感慨深かったです。
 行けてよかった…!

 みなさま、お疲れさまでした。
 ずっとずっと、清く正しく美しい観客であり続けたいと思っています。いつもイロイロ言っていますが(^^;)。

 おしまい。
 
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宝塚歌劇月組『バラの国の王子/ONE』

2011年05月28日 | 観劇記/タイトルは行
 東京宝塚劇場、2011年5月17日ソワレ、24日マチネ。

 バラの花咲く王国--ここでは王(龍真咲)と心の清い妃(花瀬みずか)、そして王子が穏やかに暮らしていた。だが王は妃の妹君(彩星りおん)の魔力によって暴君となってしまい、妃を追い出して妹君をその座に迎えた。やがて王と妹君の間にもうひとりの息子が生まれ、妹君は先に生まれた王子を野獣(霧矢大夢)に変えてしまう…
 脚本・演出/木村信司、作曲・編曲/長谷川雄大、原作はボーモン夫人の『美女と野獣』。

 ザッツ・キムシンワールドで、初見ではあまりに平板に思えて退屈しましたが、二度目はまあまあ楽しめたかな…
 まあ、こういう演目もあってもいいと思うし、初心者にも観やすくわかりやすい舞台だと思うし、一家総出で楽しめるファミリー・ミュージカルになっていると思いますが、だったらもっとバンバン一般に宣伝して始めて宝塚を観る人を増やす作戦に出ないともったいなかったかもねえ。
 リピーターにはぶっちゃけ物足りなかったのではないかと思います。そして生徒にとっても。
 御伽噺だから仕方ないんだけれど、芝居としてはしどころがなさすぎただろうし、主だったスターにも役らしい役がついていないくらいで下級生たちは完全に群舞の一部になってしまっています。
 あまりにももったいなかったかもね…
 宝塚の脚本家は、自分の作品に合わせて演者を集めて公演を立ち上げる外部の脚本家と違って、まずスターがいるところに脚本を書くんだから、あまりにもマイペースで自分が作りたい作品だけを作るんじゃ、ダメなんじゃないかなあ…
 私がもっとディープな組ファンだったら、もっと騒ぎ立てていたと思うよ…

 でもまあ生徒さんたちはきっちりかっちり任務を果たしていて、それはあっぱれきわまりないのです。
 上品で優しくて紳士的でマイナス思考すぎるくらいの王子は、ハートフルで温かい演技をするきりやんなくしては成立しなかったでしょう。歌も圧巻でした。
 ベル(蒼乃夕妃)がただのカマトトにも無個性の女の子にも見えず、きちんとヒロインとして成立していたのも、まりもの凛々しさ美しさ真面目さがあったからゆえでしょう。
 王や妃や妹君や家臣(明日海りお)は…ハイ、きっちりやっていたと思います。
 個人的にはベルの父(越乃リュウ)の情けない感じがツボでした。でもコレはただの贔屓。
 ベルのふたりの姉(星条海斗、憧花ゆりの)もコメディリリーフとしてきっちり働いていました。

 これで卒業のルイスンやソノカに、もう少しだけスポットを…とは、思いました。

 グラン・ファンタジー『ONE』は作・演出/草野旦。
 私が愛したものは、とサブタイトルにあり、さまざまな「ONE」を見せるのですが、一場一場がやや冗長に感じました。
 「ONE SILVER DOLLAR」の場面は、まさおとみりおをセットで使うのはもうもったいなくて、ふたりにそれぞれの場面を当ててほしかった。
 「ピアノコンチェルトNo.1」の場面では、まりものドレスを白か黒か金か紺か何かにしてほしかった。赤いドレスは芝居でベルが着たじゃん。
 「奇妙な世界一」はよくわからなかったよ…泥棒世界一のまりものハートジャックはすばらしかったけど。
 「一角獣」はカゲシンガーがすばらしかったし、のびのび踊りまくるまりもが素敵だったけれど、これまた長かったよ…
 そして「ONLY ONE」として結局は世界で唯一のもの・宝塚歌劇団、へ話は戻ってくるのだけれど…
 どなたかがブログで語っていらっしゃいましたが、イベントとしての宝塚賛歌は私も大好きなんだけれど、通常のショーでこういう形で「宝塚」という言葉が出てくるのには私も違和感を感じました。
 それは違うもののように感じたな…

 エトワールがソノカなのは退団配慮で涙。
 群舞ではやはりトシちゃん、ゆりやくん、たまきちは目を引くなあ、と思いました。

 ざっくりした感想ですみません…
 良くも悪くもこだわりがあれば長くなるのにねえ、としみじみ…
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NHK交響楽団第64回定期演奏会

2011年05月26日 | 観劇記/クラシック・コンサート
 オーチャードホール、2011年5月22日ソワレ。

 指揮はアレクサンドル・ヴェデルニコフ。
 演目はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、ピアノはアルクサンドル・メルニコフ。
 アンコールはラフマニノフの13の前奏曲より第5曲。
 キラキラピカピカと美しかったです。

 続いてプロコフィエフの『ロメオとジュリエット』ヴェデルニコフによる抜粋版。
 「ティボルトの死」で終わるドラマチックな構成でした。
 初めて『白鳥の湖』組曲を聴いたときにも思いましたが、バレエ音楽をオケで聴くのってなんかとても楽しい。
 ちゃんと踊りが見えるんです。バレリーナがいかに音を踊っているかがよくわかる。
 逆に言うと、バレエを観ているときはあまり音楽の細かいことを意識していないのだなあ、とも感じたりします。
 ああまた久々にバレエが観たいよ。イヤ行くんだけどさ。
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宝塚歌劇宙組『美しき生涯/ルナロッサ』初日感想・完全ネタばれ&思い込み日記

2011年05月22日 | 日記
 行ってきました初日&二日目マチネ。
 例によってものすごーく長いです。そして辛口スタートです。
 しかし、散々ぶちかましておいてなんですが、最終的な結論は「私は通う」です。
 いや、そこにはいろいろな理由がありますけれどね。

 とりあえず、ご覧になった方、かつ大絶賛でない方、ちょっとモニョったなという方に読んでいただきたいです。
 それか、未見の方でも、事前に賛否両論双方の意見を収集しておきたいタイプの方に。
 まだご覧になっていなくて、とりあえず楽しみにしているの、という方には不向きな文章になっていると思います。
 「ル・サンク」が出ているわけでもないしうろ覚えのところもありますし、全部わかるようには書いていないので。
 あと、まずは生の舞台をなるべくフラットな気分で楽しんでいただきたいので。

 だけど自分では書かずにはいられない&誰かに読んではいただきたいのです。
 業の者ですみません…


***



 宝塚大劇場、2011年5月20日ソワレ(初日)。

 大坂城では豊臣秀吉(未沙のえる)が大勢の武将やその奥方たちを集めて盛大な花見を催していた。秀吉を囲む七本槍の面々による剣舞に続き、石田三成(大空祐飛)による舞が始まる。そのとき、秀吉の側室・茶々(野々すみ花)が男の子を産んだという知らせが入る。秀吉は狂喜し、三成は複雑な思いで立ちすくむ…
 作/大石静、演出/石田昌也、主題歌作曲/大島ミチル、作曲・編曲/手島恭子、中尾太郎。

 …一言で言えば、大石先生に期待しすぎた私がいけないのかもしれません。
 物語は、前半は楽しく観たんだ、前半は。キャラクターや関係性が新鮮だったし。
 しかし舞台構成がどうにも古典的というかステロタイプというかいっそ古いというか、で…
 で、中盤以降は失速してもにょもにょとしたまま…ううーむ…

 舞台構成については、大石先生ご自身が宝塚ファンだということが悪い方に出たのかもしれない、と思います。
 あまりにも普通すぎた。新鮮味がなかった。
 次はこんなふうに展開されそう…と予想がつくそのままに進みすぎていた。カーテン前の使い方、スッポンの使い方、盆回し、女童コーラス、銀橋、スモーク…
 もっと、外部の方ならではの、
「こんな見せ方もあったんだ!」
 みたいな、新鮮な驚きを期待していたんだけどなあ…
 どのあたりまでが脚本で、どのあたりからが演出なのかは、舞台の作り方にくわしくないのでよくわからないのですが…
 全部が全部、石田先生のせい、ともさすがに思えませんし…

 ただ、ファンはよく、
「こんなんだったら私に書かせろ」
 みたいなことを言いがちですが、少なくとも私はしょっちゅう言っている気がしますが、実際に書いたらこうなっちゃうんだろうな、とも思います。
 とりあえずセオリーどおりに構成してしまうと思う。役者の着替える時間を作るとか、いろいろ制約があったりするんだろうし。
 だから、まあ、このへんはあんまりアレコレ言っても仕方がないのかな、とは思います。

 しかし、しかしだよ…

 いやまずとりあえず、よかった方からいこうかな。というか順にいこう。

 私はミーハーおたくなので、戦国時代と幕末の歴史にはある程度通じている、みたいなところがあります。
 大河ドラマで〈江〉をやっていることもあるし、石田三成と茶々のだいたいのところはわかっているつもりでいました。
 それでも、スカステニュースの稽古場映像で初めて芝居を見たとき、なんかすごく驚きました。
 わあ、大空さんが丁寧語でスミカに仕えてるよ、腰が低いよ、とか。
 なんか押されておたおたしてるっぽいよ、とか。
 忠義者と、その主君の想われ人。その関係性のあり方はわかっていはずなのに、大空さんとスミカで見るとなんかすごく新鮮だったのです。
 『ヴァレンチノ』があったけれどやはりあれはレアケースで、それ以外の作品では、あくまで大空さんは大人の男性を演じることが多く、スミカはそれに付き従うタイプの年下の女性を演じてきたからです。まあ『シャングリラ』では美雨が引っ張っていたかもしれないけれど。でも完全なる女性上位関係はなかったかと。
 でも茶々は身分も気位も高い女性で、三成は身分と腰が低い男性でした。これは萌える。というか個人的にツボなんです。
 ツボの関係性を好きなふたりが演じてくれている…それはゾクゾクさせられたのでした。
 で、目新しい、新鮮だ、というだけでなく、ふたりとも演技はやっぱり達者なので、そんな関係性がなおさらおもしろく、ドラマチックに見えて、ワクワクさせられたのでした。

 それは、実際の舞台でもそうでした。ことに序盤は。

 清洲城下でのふたりの出会いのとき、茶々はいくつなのかな。大河で言うと子役がやっていていい頃でしょうね(^^;)。
 でもここのスミカがホントによかった。勝ち気でおてんばでわがままなお姫様。
 それを優しく諭すようにたしなめる三成も、ものすごくソフトで、なんかすごく素敵でした。
 私はクールビューティーなユウヒも好きですが、キャラクターとしては優男が実は大好きなので、マジでちょっときゅんとしたんですよね。娘の髪に花を刺してやる大空さんなんてあんまり見ないわ、これはいいわ!と。

 ふたりは自然に惹かれ合い、茶々を常に物陰から見守ってきた疾風(凰稀かなめ)はそれを見ている。上々の滑り出しに思えました。

 一方、長浜城では、七本槍の面々が、秀吉が三成ばかり重用することをおね(美穂圭子)にぼやいています。
 このあたりからのちの関ヶ原に続く対立が一応描かれているのですが、ちょっと弱かったかな。
 三成は生真面目で不器用で、仕事は有能だし一生懸命やるしだから秀吉に可愛がられるんだけど、愛想がなかったり融通が利かなかったり人当たりが悪かったりして、だから同僚たちに煙たがられたりしていたのでしょう。
 というか、そういうことにしたかったんだと思うんだけれど、台詞では説明されるんだけど、でもそういうエピソードとか描写が具体的にはないわけ。だからこれはかなり補完した見方なんですよ。
 それに、ユウヒはニンとしてもっとクレバーなタイプに見えるから、そういうシーンをきちんと作って見せないと、この人の演じる三成は同僚への気遣いや根回しもおさおさ怠りなく、スマートにやってのけているはずなんじゃないの?というふうに思えてしまうワケ。
 ここにキャラのブレが見られると思うのですよ。
 私は、しつこいですが優男が大好き。真面目すぎていつも貧乏くじを引かされているような、優等生タイプのキャラクターというものがどうにも好きなんですね。だからそういうユウヒを見てみたかった。そういうふうにもっともっと演出して芝居させてほしかった。
 このブレと周囲との亀裂の描かれ方の問題は後々引っ張ります。

 さて、北ノ庄落城寸前に茶々は三成に助け出され、死にたいと泣くところをまたまた諭されます。
 ちょっと言葉足らずではあるんだけれど、死は生きて生きて生きたその先にあるもの、愛があれば生きていける、生きることが愛、生かすことが愛、みたいな形で盛り上がる。いいですよね。

 琵琶湖のシーンは『TRAFALGAR』で世紀をまたぐキスをやったときのデジャブ感がある装置で、ちょっと鼻白みました。
 ここの弁財天たちもいかにもだったなー、なんかもっと工夫が欲しかったなー。あとなんで弁財天って髪が青いの???
 でもここでも茶々が押せ押せでいい感じでした。

 大坂城が落成し、移される茶々。三成を生きる支えにしていたのに、仕事が忙しい三成とは顔を合わす機会が減り、寂しさを募らせます。
 そうこうしているうちに、秀吉が茶々を側室にしたいと言い出します。
 またまた言葉足らずなんだけれど、死んだ方がマシだと泣く茶々を三成がかきくどき、愛のために生きよう、堪え忍ぼう、となります。ここもちょっと言葉足らずに感じました。
 茶々がその前に三成に、その名前から、
「三つ成すこととは何か」
 と聞いていて、三成がまず秀吉の天下、そして民の安寧、三つ目に
「姫様を生かすこと」
 と答えているのが伏線になっています。
 それを踏まえて、三成は、秀吉の天下のために、民の安寧のために、秀吉の側室になってくれ、と茶々に言うのですが、つまり大義のために愛を捨てろ、身を売れと好きな女に強要しているわけです。
 もちろん男の方も苦しいには違いないけれど、その選択をして女に押しつけているのは男の方なワケで、そしてその男が主人公なワケで、だから彼がひどい男に見えないよう、このくだりの会話にはもっと慎重さが必要だと思うのです。
 茶々は三成の意を汲んで納得して自ら承諾するし、むしろ進んでその代償を三成に要求するくらいの強さがあるので、観ていてつらすぎる展開にはなっていませんが、私はけっこうハラハラしました。綱渡りの会話だったな、もう少し足したいな。
 だって天下も国家も知ったこっちゃないよ、私にとって大事なのは私の心と体と愛と貞操だよ、それが守られないならむしろ死にたいよ、って言えるのは女性の権利だと思うもん。そしてある種の真理だと思うもん。大義がすべてに優先されるべきだなんて男の幻想だもん。

 で、秀吉の元に行く代わりに、ただ一度だけ…といわゆる「今宵一夜」に至るワケですが…茶々が隣室に三成を引っ張り込む芝居だったのは、なんかちょっと品がなかったかもね。
 茶々の方が積極的でも全然いいんですが、なんか妙な間があったのが気になりました。別にするりと打掛を脱ぐ、暗転、くらいでもよかったんじゃないかな? わざわざ隣に移動してシルエットでふたりが抱き合うところを見せる必要はないように感じたんですよねえ…
 何より、三成がきちんと決意して隣室に移る感じが私は嫌だった。考えて選択したんだったら、踏みとどまる方を選べよ、と思ってしまう。
 愛と義の狭間で悩んで悩んで、義を取ろうとしたんだけれど、どうしても情熱に流されてアタマ真っ白になっちゃってただ一度だけ…という方が私は納得しやすく感じたのです。
 なので、あそこはむしろ三成が茶々に押し倒されるくらいでもよかったのかもしれません。それはそれで品がないかもしれないけれと、その方が萌えたかも、ってことです(^^;)。

 で、時間はプロローグに戻り、鶴松の誕生、となります。つまり茶々が産んだ子は三成の子、ということになっているわけですね、このお話では。
 冒頭で三成が複雑な表情をしていたのは、愛する人が自分のために泣く泣く嫁いだ主君の子供を産んだからではなく、主君に嫁ぎながらも自分と通じて自分の子供を産んだことに対するものだった、ということです。
 うーん、まあ、それはそれでせつないししんどいし、ドラマチックでいいんだけれど…秀吉がかわいそうすぎるかもね、とも思う。またまた主役カップルが悪く見えてしまう臭いを感じる。
 ま、史実を知っている私としては、どうせこの子は夭折するんだからまあ罪は軽いか、とかひどいことを考えました。

 秀吉はマヤさんの好演もあって、特に悪役としては描かれていないんですよね。
 実はこれもやや問題で、三成が秀吉の恩顧を受けたり取り立てられたりする場面も具体的にはなく、台詞で説明されるだけなので、三成の秀吉への忠義、というものが実は観客にはよく見えないんですね。
 三成は秀吉への忠義と茶々への愛との狭間で悩む、ということになっているんだけれど、秀吉は三成が義を貫くにふさわしい人間なのか、とかいうこともわりとあいまいなワケですよ。
 そうすると、なんかよくわかんない男に義理立てしてその男に好きな女を差し出す男ってどーなの、しかも愛より義を取るとか言いつつやることやっといて自分の子供を産ませちゃうんでしょ、あんまりじゃない?と三成が観客に悪く見える危険性があるワケです。これは問題。

 宝塚歌劇の観客の大半はロマンチック・ラブ・イデオロギーの信奉者だと思うんですね。ベルばら主題歌じゃないけれど愛あればこそ、愛こそはすべて、と思っているわけ。
 愛と貞節、あるいは心と体、不倫ぶっちゃけセックスの問題はもちろんデリケートだし、まして時代が違えばルールもメンタリティもかなり変わるのでなかなか難しいのですが、だからこそここはもっと気を使ってやってほしかったです。

 まして、一度成らず二度までも、ですよ。私はこれはかなり容認しがたく感じました。
 しかもこれで生まれた拾はのちの秀頼、跡取り息子になるわけですよ。
 これは立派な裏切りだよね。
 のちの関ヶ原の対立が、家康方の裏切りというよりは、これはおねチームと茶々チームの仲間割れだよな、とか私には思えてしまい、もちろん小早川の寝返りとかいう裏切りも確かにあったんだけれど、そんなことよりその前に当の本人が主君を裏切っとるやんけ、というつっこみがどうにも沸いてきて仕方がなかったんですよ…

 で、同じ不倫モチーフを扱った『TRAFALGAR』のときに一部で拒否反応があったことを、歌劇団はまったく把握していないし修正するよう学習していないんだな、とちょっと悲しくなってしまいました。
 あれもダブル不倫の形だった(三成も秀吉に勧められて妻帯しています)。そしてふたりの間に子供が産まれてしまっていた。しかしそのことそのものは問題ではない。史実だし。
 あれは、みっちゃん演じるハミルトン卿を意外にいい人に描いてしまったことが問題だったのです。
 ハミルトン卿は借金のカタにエマを買い取ったようなことをうそぶいてますが、実はけっこうちゃんとエマを愛していて、だから彼女の不倫も見過ごせなかったのだ、という演出になっていました。
 でもそうすると、そんな優しい夫をないがしろにするわがまま女、になってしまうんですよヒロインが。
 それにハミルトン卿はホレイショの盟友でもありました。三成と秀吉のような主従関係とは違いますが、ふたりは理解ある良き仕事仲間、友人だったのです。だからホレイショは友人を裏切ったことになっていたわけです。
 あそこは、主役カップルの恋に正当性を持たせるためにも、三番手の演じる役に花を持たせるのはあきらめて、ハミルトン卿を冷酷で嫌な男に描くべきでした(そしてホレイショの妻ファニーももっと悪妻にするべきだった)。
 そうすれば、不倫も仕方ないなと少しは思えたはずなのです。

 逆に今回は、秀吉が本当にいい人で三成を大事にしてくれていて、だから三成はどうしても秀吉への忠義を捨てられなくて、茶々に自分との愛を犠牲にして秀吉の側室になってくれと言うしかなくて、だけどやっぱり愛を捨てきれなくて、あるいは茶々に押されてしまって(^^;)仕方なく、一度きり…としてほしかったのですよ!
 私は。あくまで私は、ですが。

 しつこいですがその直前の疾風の台詞も気に障りました。
 鶴松が死んで茶々が泣いている、だからまた抱いてやって子供を産ませてやれ、ってヤツ。
 ちょっと疾風、アンタ心ない忍びだかなんだか知んないけど、茶々の幸せをなんだと思ってんの?と。代わりの子供がいりゃいいってもんじゃないだろう、と。
 というか、作中人物にこんなことを言わせる女性作家が私は嫌なの。女には子供がいればいいってことなんですか?と。負け犬ならぬ石女の遠吠えと言われてもいいですが、ここはちょっと問いただしたい。

 そしてこんなこと言われてホイホイやってはらませちゃうマヌケな男に描かないでくださいよ私の大空三成を…
 と私のテンションはかなり下がったんですけれど。
 それとも何か? さすが一発必中の律儀者よのお、とかそういうこと? そんなのいりませんから!!

 鶴松に毒薬を飲ませたさぎり(純矢ちとせ)を疾風が捕らえて一悶着あるわけですが、ここから銀橋に至る三成と疾風の一連のやりとりが一番間がもってなくて問題に感じました。
 そもそも、三成はとにかく秀吉様大事だからおねのことも敬愛している、というのはわかる。しかしおねの侍女すべてを知っていて信頼しているわけでもあるまいし、何故あんなにも疾風の行為に騒ぎ立てるのか。
 それまでにも疾風に対してはある種の信頼をおいてはいたはずで、彼の行動には理由があるはずだし、ゆっくり話を聞いてみればわかる、と彼なら考えそうなものです。
 なんだってふたりが急に白刃を交わさなければならないのか。唐突すぎて呆然です。
 しかも「信じろ」って言って信じられるもんじゃないじゃん、なのになんなのあの小学生のような台詞の応酬は。
 百歩譲って疾風が冷酷すぎて人の命をなんとも思ってなくて誰でもホイホイあっさり殺しちゃうもんだから真面目な三成が激昂した、ってんならまだわかるんだけど、三成も仮にも乱世に生きていて裏方が多かったとはいえ戦場で人のひとりも斬っているはずでしょう。ちょっと苦しいよね。
 茶々を守って光と影表裏一体でがんばろう、みたいなことを歌うんだけど、いやあんたたちどっちもホゲホゲでルドルドでどちらかというと影影で月月で表裏と言うよりそっくり同じ絵柄ですから!というつっこみは別にしても、とにかくその前段の会話がなんか納得しづらいので、モニョるんですよねえ…
 でもここがせっかくの組替えでできた男12のがっしり絡みでもあり、見せ場のひとつなはずなんだけれどねえ…
 ちなみに関が原直前にもう一度あるふたりの銀橋渡りはよかった。
 卑怯なことなんかできないしたくない、という馬鹿正直を貫く三成と、とにかく勝つことが大事なんだから後ろから斬ってでも勝てと言う疾風との平行線…

 話戻って、この前後のおねの描き方も微妙に感じました。
 銀橋のソロがあるのは美穂お姉さまが歌上手さんだから、というのももちろんあるけれでしょう。しかしそれ以上に歌詞の内容がよかった。
 長年連れ添った夫に裏切られ愛の移ろいと男の不実さを嘆く歌は女性観客の心を打つでしょうし、おねを茶々に対するただの恋敵の悪役にしない、いい視点だとは思いました。
 ただしそんな素敵な人間なら、鶴松の毒殺なんか命じるかなあ…と思ったんですね。
 秀吉以上に豊臣家大事になっているおねには、世継ぎが絶対に必要でした。
 自分が産んだ子でなくても、そして秀吉の本当の子でなくても、豊臣家の世継ぎとして認知される者であれば彼女はむしろ大事にしたのではなかろうか、と私には思えたのですが…
 だから作者がこの女性を素敵な女性として描こうとしていたのか、それともやっぱり冷酷で心の狭い女性として描こうとしようとしていたのか、ちょっと見えませんでした。
 のちに徳川方につくことを福島正則(北翔海莉)たちに命じるところも、なんであんなお笑いになっちゃってるのか、よくわからなかったしね…まあアレは石田演出っぽいけどね…

 朝鮮遠征をいさめるくだりの会話の道筋がおかしかったのは、秀吉の老衰を表したものだったのでしょうか…単に台詞の不備にも見え、ここらへんも手を入れてもらいたい。
 やがて秀吉が亡くなり、おねは家康(寿つかさ。少ない出番ながらすばらしかった! 老練な狸親父っぷりを見せつけてくれました)に接近していき、茶々&三成と対立を深めていきます。

 家康との戦に際し、三成は旗印として秀頼(花咲あいり)の出征を茶々に請います。
 ここも言葉足らずだったなー。三成にも主君の跡継ぎかつ仮にも自分の子を矢面に立たせるんだからもうちょっと苦悩が見えてもいいし。茶々もただただヤダヤダ言ってるだけだとただのわがまま女に見えちゃうから、ちゃんとまだこんな幼い子供を、とか戦に我が子を利用するなんて、とか危ないことはさせられない死なせたくない、ときちんと言わなきゃダメなんですよ。

 で、結局秀頼の出征はかなわず、西軍は支柱を欠き、身内の寝返りもあって、関ヶ原の合戦に敗れます。
 ここの合戦ダンスシーン、期待してたんだけどな…もっと素敵にかっこよくパワフルに、できなかったのかな…(ToT)

 このあと福島正則に、これでよかったのかなあ、本当の勝者は誰だったのかなあ、みたいな、自らの裏切りを悔いるような台詞を言わせているのですが、前述したように私にはそもそもこの対立が裏切りによるものというよりは単なる仲間割れに見えたので、この効果はなかったですね…
 みっちゃんがいい芝居をしていただけに、残念です。

 で、裏切りにあいつつも自らは忠義を貫き通した、ということになっている(^^;)三成は自刃もせずおめおめと捕らえられます。再起を期しているから。まだまだ負ける気がしていないからです。
 だけど茶々が会いに来るとなんか気がすんじゃって、おとなしく首を差し出しちゃうんだよね。というかそう見えちゃったんですよ。それじゃダメじゃん、さっき言ってたこととちがうじゃん、ってなっちゃったよ。
 しかも牢に残る三成と、泣きすがる茶々を引っ張り出す疾風…って、ファンなら誰でも
「ロベルトーーーッ!!!」
 っていうあの『誰がために鐘は鳴る』のラストの絶叫を思い出しますって。あれが絶品だっただけに。
 ここの無精髭三成か素敵だったとか、でもプガチョフチックだったよねとかは百歩譲って目をつぶってもいいけれど、あれはさあ…
 いかん、いかんよ。
 泣けないよ。
 なんか違う演出、芝居をつけようよ。

 さらにフィナーレがもう典型的な宝塚の天上復活場面で、盆にスモーク、せり上がり、もう何十回も見てるこういう演出…ってヤツでさー。
 外部の人が書いたからこそのなんか素敵なラストシーンって、ないの?
 期待しすぎ?
 このデジャブ感は何?
 わー、つらーい………
 って見終わらなくちゃなんないのって、きついですよ…
 死んで終わりなのはわかってんだから、そもそもこのあたりの歴史上の人物はみんなもう死んでるんだしそれは仕方ないんだけれど、なんかそれでも気持ちよく泣きたいんですよ観客は…
 イヤ泣いてる方たくさんいましたけどね…
 でも私が泣けなかったのは私が心の冷たい人間だからだけじゃ思うんですよね…
 あああ…もったいない…

 ただし、翌日マチネを観たときには、牢獄のシーンはだいぶ印象が変わって見えました。
 あの世に行って、茶々と夫婦にならせてくれと秀吉に頼む、と三成は言いました。
 あそこで初めて、三成は義ではなく愛を取ったんですね。
 だから、再起をあきらめ、愛だけ残して、心平らかに死んでいけた。この先茶々を生かすのは疾風に託して。
 だから、オシドリのフィナーレに続くのです。それは、泣けます。イヤやっぱり泣かなかったんだけどね。
(それで思い出した呼称フェチによるつっこみ。最後の最後で三成が「茶々」って呼び捨てにするところが泣かせどころなんだから、歌詞でも「お前」でなく「あなた」「そなた」にしてほしかった!)

 ところでいいところで幕が下りるんだから、そのタイミングを見計らって、残首人はきちんと刃を降りおろすべきだと思いますよ。
 よもや中断して三成が生き延びて…と思う人はいないと思うけれどさ。

 戻りますけど、疾風もとっても美味しい役だし、だからこそなんかもうちょっとどうにかなんなかったのかなーと思います。
 ちなみに彼のラストは私はとても好き。やるやると思っていたしやってくれて嬉しかった。忍びに姉妹愛とかあるのかよというつっこみはさておき。
 ちょっと原作『ベルサイユのばら』を想起させました。あのニヒルさが嫌だという人も多いけれど、あれも私は好きなラストなんですよねえ。宝塚版にはまったく登場しないけれどさ。

 それはともかく、ユヒテルという絵柄の同じな二大スターをどう使うんだというテーマも今回はあったわけで、疾風のポジションは成功しかけていた何かがあったとは思うんですよね。
 私はもっと対立路線でいくのかなと思っていたんだけれど、疾風は三成と茶々が出会うのも見守っていてとがめ立てはしないし、北ノ庄城脱出のときもむしろ三成が救出に来るのを当てにしていて、三成が来るとすぐに茶々を預けて殿を引き受けたりする。
 なんか最初っから信頼関係というか共闘関係がけっこうできあがっちゃってて、ちょっとおもしろかったのです。
 茶々に対して、三成は表の助けを、疾風は裏の助けを、という役割分担ができているわけですね。
 だからなおさらさぎりの件で三成があんなに暴れるのはおかしくないかなあ…
 
 そのあとも生真面目に茶々との距離を取り続ける三成に対して疾風がずけずけ言って三成がおたおたする、なんて構図は新鮮だったしキャラクターの関係性としておもしろかったです。

 だからこそさぎりの扱いがこれまた許せない…
 何がやりたかったんだいったい…
 主人の命を守るため、その周りに巡らされた陰謀を突き止めるため、利用できるものはなんでも利用する、ってのはいいですよ。
 でも疾風がどんだけすごい技の持ち主でさぎりがどんだけおぼこかったら、たかが首筋に唇つけられたくらいでさぎりが疾風のいうこときくことになるの?
 なんで男は心を動かしもしていないのに女は簡単に心が揺らぐってことになってんの? イージーですよね。さぎりを、女を、そんな安いものにしてほしくないんですけど。
 私は見ていられなかったなあ…
 そのあとさぎりも一応逆襲するんだけれどさあ、結局は命を落とす訳じゃない。悲しすぎるよなあ、やだなあ。

 二回目以降は、補完して観られるところは観るでしょう。
 多少の手直しも入るでしょう。
 でも大直しはどうかな…
 先生にお手紙書いたら変わるのかな…
 いやー…うーん…

 こんなことケンケン言ってんの、私だけかもしれません、すみません。
 でも全然ダメだコレもうどうにでもしてあはははー、って作品ではなかったの(それは私にとってはたとえば近年では『CODE HERO』)。
 だからこそいろいろいろいろ言いたくなるの。
 そして何よりファンだから言いたくなるの。
 宝塚歌劇の、宙組の、大空祐飛の、大石静の、ファンだから。
 愛が、あるから。愛こそがすべて、だから。

 というわけで二日目のマチネは、後方下手だった席からまあまあ前のほぼセンターという良席に移ったこともあり、また音響と証明のピントが合って初日より格段に見やすくなったこともあり、かなりおちついて観られました。
 そして早くも、コレはコレでアリなのかと甘い点になりました(^^;)。
 まあトラファンのときも、
「何コレ、ジョサイアがヒロイン?」
「あのひまわりどうしたらいいの???」
 だったのが、翌日には楽しかったもんね。
 ファンって、リピーターって、甘いですね…私だけですかね、すみません…

 しかしもちろん、キャラクター立てと芝居は演技が深まっていくと濃く肉付けされていくから、そこは大丈夫、と早くも思えたというだけで、脚本と構成の不備は相変わらず感じます。
 それはもう生徒にどうこうできる問題ではない。そして東上の際に手を入れる、レベルではすまないだろうなあ。
 となるとこの作品はおおむねはこのまま、ということなんだろうなあ…ううーむ…
 しかしさすがに泣かなかったしな…
 泣けるまでになるのかなあ…

 これが好評だったら次は洋物をやりたい、と大石先生は言っているらしいですね。
 だったらやっぱりこれは伝えようかな。劇団付けで送ったら届くかな。
 だってまたやってほしいもの。そして良くなっていってほしいもの。
 メンタリティの面は個人差もあるし変わらないかもしれないけれど、たとえば下級生にももっと役を、出番を、とかは強く要求していくべきですよね。
 これは普通の演劇とは違うの、宝塚歌劇なんだから。
 それはファンである大石先生ご自身がわかっているはずのことなのだから。


 レヴュー・ロマン『ルナロッサ』は…テルのお披露目ショーみたいでした。
 少なくともテルの宙組デビューショーではあった。だってほぼ出ずっぱりだもんね。女役も含めてなんでもやってるもんね。
 イヤいいんだ。まゆたんという貴重なショースターを失って、歌手のみっちゃん以外に何がどうできるよって体の組に新戦力は必要なんだから。
 それに、色が当たり前のように全然違うんだけれど、私個人はユヒスミマユよりユヒスミテルの並びの方が好みなんだ、とプロローグのトップトリオのポーズを見て思いました。
 なのでこの先が楽しみです。このショーが、というよりこの組が。
 ショー自体も、流れがわかって何を見て何を追えばいいのかがわかって観ると、とても楽しめました。私はバラエティ・ショーよりもくくりや縛りがある方が好きなので、その点でも好みです。

 しかしプロローグの衣装替えはもうちょっと劇的に変えて欲しかったなとか、バザール場面のお衣装の使い回しとか、意外に低予算感が漂っていたのがなんとも…ねえ…
 エツ姉の踊る女大商人がノリノリニコニコでよかったこと、テルは「ただのバックパッカーです」とか歌いながらリュック抱きしめてるのが可愛かったこと、そのあとの変身?してスターになるルフバンド(笑)のチャラっぷりが負けてない大ちゃん・ちーちゃんともどもよかったこと、月下美人ではもっさんもよかったけどすっしーさんの現役感がたまらなかったこと、詰め物入れてない?ってくらい胸があったこと、意外に大空さんの祈りの歌に泣かされたこと(失礼…)、などが印象的でしたかね。

 砂漠の豹の場面は、大空さんが椅子に大股開きでがっつり座ってガンつけてるだけで私はごはん三杯いけますが、あそこが『ファンキー・サンシャイン』でいうところのプラズマ場面くらいの大ダンスナンバーになっていたら、かなりショーとしての密度やテンションが上がったでしょうね。
 しかしあれはまゆたんセンターのダンサーオンリー場面だったからねえ…同じようには残念ながらユウヒには踊れません。
 ただ、振り付けがもうちょっとカッコよかったらいいのにな、とは思います。ミツエ先生、ロケットも凡庸だったし、ちょっとちゃんと仕事しようよ!(><)

 中詰めは私は好きです。ターバンいいよね。
 しかしそういえばツインタワーシンメトリーは常にまさこが上手でもっさんが下手でしたね。パレードも…(しかもセンター降りから外れていた…)学年的には逆なのでは…
 スターが歌い継ぐあたりはもうワンフレーズずつでも長くしてほしかったですけれどね。ちょっと慌ただしすぎました。

 エピローグではなんといっても神殿でしょうか。てかアレは神殿だったのか、プログラム見て今気づいたよ。そこに現れる現代的なスーツの男…
 ユウヒは赤いスーツに黒いベルトをローライズで締めて、色っぽいというかホント男っぽいというか…あんなのあの人にしか許されません。
 周りの男たちは黒スーツ、開襟白シャツ、赤いポケットチーフ。気に障ると書いてキザと読む、正しい!

 デュエダンに現れるスミカはエキゾチックな衣装で、そのギャップがまたなかなか。
 リフトはなくてもいいけど最後は銀橋に出てきてほしかったかな、とは思いました。

 エトワールはこの公演で退団のりりこ。いつもより長いフレーズを朗々と聴かせてくれました。ああもったいない…

 主題歌は変わった音調でぶっちゃけ覚えづらいのですが、台詞のようにユウヒが歌う
「紅い月燃える夜あなたも一緒に旅してみませんか」がキザで笑っちゃっていっそツボです。
 羽扇も素敵。
 結果的には満足して毎度楽しく観てしまいそうです。


 この週前半は雪組と月組を観ていたため、宙組のすがすがしいまでの背高男子っぷりが本当に素晴らしく感じました。
 私はもうこの頭身に慣れてしまって、これくらいないとダメだなー。
 みんなホントにスタイルいいよなー。
 眼福でした。また来週末になんないと観られないなんて今や信じられないくらいです。
 私は通う。
 ファンだから、好きだから、愛してるから。ははは。

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デジタルリマスター・エディション『赤い靴』試写を観ました

2011年05月22日 | 日記
 1950年に日本で公開され、空前のクラシック・バレエ・ブームを巻き起こした不朽の名作を、マーティン・スコセッシ監修でネガ修復。

 プリマを夢見るヴィッキー(モイラ・シアラー)はバレエ団主宰者レルモントフ(アントン・ウォルブルック)に見出され、新作『赤い靴』の主役に抜擢される。公演は成功し、作曲家クラスター(マリウス・ゴーリング)との恋も実らせ結婚を誓う。だがレルモントフは彼女に踊り続けることを強いる。両立は不可能だ、不確かな人間の愛に頼るダンサーは決して芸術家にはなれない、と…悩むヴィッキーは…
 制作・脚本・監督/マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー、振付/ロバート・ヘルプマン、レオニード・マシーン。

 確か5年か10年ほど前にもリバイバル上演されて、そのとき観た記憶があるので、ストーリーはうっすら覚えていました。
 が、宝塚歌劇雪組『ニジンスキー』のマチネを観た夜に試写に行ったので、なかなか考えさせられました。

 もともとのアンデルセンの童話は、白とか黒とかが求められるような教会などの厳粛な場に赤い靴で出かけてしまうような、少女の虚栄心をとがめる趣旨の物語なんだそうです。
 しかし、この映画のモチーフとなったことが原因なのか、今では「踊り続ける呪いの靴」「庶民的な、普通の小さな幸せに背を向け、芸術の世界に生き続ける宿命」みたいなものの象徴とされています。
 この映画は、ヒロインが「人生か芸術か」の選択を強いられる物語です。
 ここでいう人生とは、平凡な、世間的な幸せ、ということです。そして芸術とは、万人に賞賛され歴史に名を残すが現世の暮らしは孤独で過酷で寂しくて…というようなことです。

 レルモントフのモデルは明らかにバレエ・リュス(ロシアバレエ団)のディアギレフです。
 もうキタさんにしか見えなくてたまりませんでした。素敵なお髭の紳士です。
 『ニジンスキー』ではディアギレフは興業のために新しいパトロンを捜すことに熱心で、パーティーを厭いませんでしたが、レルモントフはそういうことは面倒くさがって嫌っています。本当に舞台のことだけ考えていたいタイプ。あまり描写されていませんが、代わりに金銭面や運営面を考えてくれるいいスタッフに恵まれている、ということなのかもしれません。
 ヒロインのヴィッキーは、お金持ちの夫人の姪っ子で社交界の令嬢として登場します。夫人はバレエ団を援助する代わりに、彼女を入団させようとします。まるっきりロモラてすね。
 しかしダメバレリーナっぷりが可愛かったロモラと違って、ヴィッキーには才能がありました。ちょうどプリマのボロンスカヤが結婚して団を抜けたこともあり、新作の主役に抜擢されます。
 ボロンスカヤは突然のろけ話を始めてリハーサルを中断させてレルモントフの逆鱗に触れ、解雇されます。確かに愛に舞い上がった彼女は舞台に対する集中力を失いかけていたのかもしれない。生真面目で芸術至上主義者のレルモントフにはそれが我慢ならなかったということなのでしょう。
 レルモントフの私生活はほとんど描かれていず、妻子がいるのかラブライフがあるのかはまったく見えません。ボロンスカヤに対しても恋愛関係ではなかったようです。
 それはヴィッキーに対しても同様だったのでしょう。そういう、男と女としての嫉妬とか裏切りとかいうことではない。自分の舞台を、芸術を作り上げるための大切な駒として、独占しておきたかったのに、一緒に舞台に身を捧げてほしかったのに、離反した…というのが許せなかったのでしょう。そうベタに表現されてはいませんが。

 それでいうと、ベタに表現されていずに意外とわかりづらい点はまだまだいろいろとあります。もうちょっとステロタイプに展開してもいいかもしれないけどな、とも思ったりしました。

 「赤い靴」の公演が成功し、次回作も次々と当たり、何もかもが順調で、そんな中でクラスターと恋に落ち、結婚することになったヴィッキー。バレエ団のツアーはヴィッキーをおいて出発します。
 指揮台のクラスターと目配せしあったりなんかして、舞台に集中していないところをレルモントフに目撃されてしまったから。それがレルモントフの逆鱗に触れたから。
 ただ、観客は相変わらず彼女の舞台を楽しんでいましたし、スタッフや周囲の人間も2人の恋を祝福し優しく見守っていたのに、レルモントフだけが気づかず、人に言われて気づいてすぐのこの反応のエピソードなので、ただのやっかみにも見えるところが難点かもしれません。
 ともあれ「赤い靴」の権利はバレエ団にあり、レルモントフはヴィッキーによそでこれを踊ることを許しません。それでもヴィッキーはクラスターとの生活を選びます。

 このあとがやや甘い。
 クラスターは順調に仕事を続けている。新作が認められ、バレエの指揮者だった頃より大きな場所を与えられるようになっていく。
 ヴィッキーも小さなバレエ団で踊り続けている。しかし一度味わった大きな栄光に比べられるべくもなく、彼女のフラストレーションはたまっていく…ということなのだと思うのですが、実はそういうきちんとした描写がない。これは作劇としてはちょっとよくないですよね。

 クラスターが自作のコンサートのためにロンドンに行っている間、叔母とモンテカルロに保養に来ていたヴィッキーは、興行できていたレルモントフと再会します。そしてレルモントフに誘われ、もう一度彼の舞台に立つことになる。夫に内緒で。
 けれど開演直前、夫はコンサートを放り出して彼女の楽屋に現れます。
 彼女は選択を迫られる。
 プリマとしての成功、芸術の高みを目指し続けることにするか。
 ほどほどの成功で満足し、夫を支える妻として平穏な暮らしを続けることにするか。

 クラスターは「ロンドンに帰る」と言って立ち去り、レルモントフに慰められて、泣きじゃくりながらヴィッキーは赤い靴を履きます。そして…

 そういう話だから仕方ないんだけれど。
 何故クラスターは、何故男というものは、あそこで、
「客席で観ているよ」
 とか
「楽屋で待っているよ」
 とか言えないのか。
 何故自分は何ひとつ譲ることなく失うことなく、相手が、女が、譲歩して犠牲になって当然だと考えるのか。
 ヴィッキーがロンドンに戻らなければ確かに彼は彼女を失うのかもしれませんが、実は実質的には彼は何も失っていないのですよ。そもそも彼は彼女を手に入れたことなどなかったのだから。
 それに対してヴィッキーは、人生を、最終的には生命を失うのです。
 男のために。
 と言っていいでしょう。彼女は性格には芸術のために死んだのではない。
 芸術に生きているレルモントフは孤独で愛を知らないかもしれないが、生きてはいるわけですから。
 引き裂かれるのは、犠牲になるのは、死にすら追い込まれるのは、いつも女、なのです。

 …イヤこれは別にそんなフェミニズム観点からあれこれしなくてもいい、もっとメロドラマチックに観ていい話ではあるんですけれどね。
 しかしヴィッキーは確かにレルモントフを敬愛しレルモントフもヴィッキーを秘蔵っ子として可愛がってはいたでしょうが、明らかにそこにラブはなかったので、メロドラマとしては『ニジンスキー』に比べると物足りないよね(^^;)。
 あれは明らかに三角関係メロドラマだからね。男2女1のメナージェ・ド・トロワ、メロドラマの基本。センターにおかれるのが男か女かという違いはあれど(^^;)。
 そして私はラブの話が好きなのですよ。
 『赤い靴』にはラブが足りなかったし、『ニジンスキー』には芸術が足りなかったかな。セルゲイはただの興行師ではなかったはずなので、彼が求める芸術とヴァーツラフが求めるそれとの違い、という側面ももっと欲しかった。単にあの当時あの世界でそれでもまだまだマイノリティだったであろう同性愛関係ということだけにのみ悩んでいたわけではなかっただろうと思うので。

 愛と芸術(仕事、あるいは生き方)の相克、というのはやはり物語の永遠のモチーフのひとつなのかもしれません。

 ちなみにモイラ・シアラーは結局この映画の好評につぶされ、家庭に入ってバレエをやめて、物語を地でいった、というのは有名な話です。
 そして私はもちろん凡俗の一般市民なので、自殺なんかして名を残すより野に下って平穏に生きてくれる方がうれしいです。
 もちろん、真の天才にはその方が苦しい、ということもわかっている。そして死ねなかったヴァーツラフが狂気に追いやられたことも知っている。
 でもそれは本当に一握りの、本当に希有な人の生き方だから。
 それは美しいけれどやはり悲しいものだと思いたい。むやみに賞賛したりあこがれたりするべきではないのだと思うのです。
 人はついそういう方に心動かされがちだから。
 でも破滅したからって天才になれるものではないからね。

 映画は7月2日公開です。
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