駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『風と木の詩』再読

2021年04月30日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名た行
 萩尾望都『一度きりの大泉の話』(河出書房新社)を発売日に買って読み、2016年刊行時に買って読んでいた竹宮惠子『少年の名はジルベール』を再読し、今年3月に出ていたことを知らなった竹宮惠子『扉は開くいくたびも-時代の証言者-』(中央公論新社)も買って読みました。
 この時代の少女漫画読者として(私は両先生の20歳ほど歳下なので、彼女たちが25歳のころ描いたものをその10年後に15歳で読んだ勘定です)、いわゆる「大泉サロン」のことはもちろん知っていて、でも個人的には、あくまでたまたまのエピソードにすぎないのではないか、とずっと思っていました。世間で言われているほどには当人たちがあまり言及しない気がするのは、それこそたまたま上京や引っ越しの都合で同居していた時期があり、そしてまたたまたま別れた、というだけのことであって、もちろんみんなの溜まり場になったりして切磋琢磨かつ和気藹々とした青春の1ページだったんだろうけれど、それだけのことでことさらなことではなかったのではないか、と思っていたのです。竹宮先生はともかく、萩尾先生の方はその後そもそも一切言及していない、ということに私は気づかなかったくらいでした。当時の作品の端の近況欄やエッセイ漫画にちょいちょい描かれていて、それが収録されたコミックスを私が未だに何度も再読しているからかもしれません。
 今回の刊行情報などから、何か「事件」があったということなのだな、とは察せられました。で、これまた個人的には、盗作騒ぎか、色恋のもつれか、パワハラ騒ぎだろうな、と思っていました。最後のものは、その後もこのあたりの漫画家さんはみんな同じ版元の似た界隈の漫画誌編集部で仕事をしていることを考えると、いかに当時口の悪い傲慢な男性編集が多かった業界でなんらかの問題はあったにせよ、今さら告発するようなことはないのかもしれないな、と思うようになりました。同様に、アシスタントさんだったり漫画家仲間だったりで男性の出入りも多少はあったように聞いていますが、恋愛だの惚れた腫れたのというのはちょっとイメージできなかったので(失礼…なのか?)、これもないなと思いました。
 で、事実は…お読みいただいたとおりのものだったようです。
『一度きりの~』はとてもモーさまっぽい文章で、『少年の名は~』はとてもケーコたんっぽい文章ですよね。おそらくゴーストライターを入れずに、当人たちがきちんと執筆したものなのではないでしょうか。とても性格というか、人となりが出ています。そして要するに、両者とも同じことを書いているな、と思いました。それぞれからすると、そうなるよね、という感じがした、ということです。
 ただ、竹宮先生の本の方には、『扉は~』もそうですが、萩尾先生に「なぜ、男子寄宿舎ものを描いたのか?」と尋ねたことはまったく書かれていません。ただつらくて距離を置くようにした、というだけになっています。忘れてしまったのか、なかったことにしたいから触れないことにしているのか、今は疑問が解消されているからもう言及しないことにしたのか、は、わかりません。
 私は『ポーの一族』も『トーマの心臓』も『風と木の詩』もリアルタイム読者ではなく、少し遅れてコミックスでまとめて読んだ世代ですが、当時も今も、モチーフは同じっちゃ同じだけれど全然違う作品だし、それぞれに傑作だとずっと思ってきました。それで言えばたとえば『地球へ…』と『スター・レッド』あたりも迫害されるESPみたいなモチーフは同じなんだけれど、それこそ彼女たちがインスパイアされたのだろう50年代アメリカ黄金期SFを私も読んで育ったので、当時の作品はそんなんばっかだったことを知っていますし、そこから触発されたののだろうからネタが似るというか同じなのは当然で、でもそれぞれ全然違う作品に仕上がっていて、だからこそその個性や才能が素晴らしいんじゃん、とずっと考えてきていたので、気になったことがありませんでした。
 寄宿舎という設定自体はむしろノンたんが提示したものなのでしょう。アイディアには著作権はないのだけれど、カブリが心情的に承服しかねる、というのは人の心の動きとしてはもちろん理解できます。ただ、そこからできあがったものが全然別物でそれぞれに傑作なんだから、いいじゃんねえ…とか、一読者一ファンとしては気楽に考えていたわけです。でももちろん作家側はそんな気楽なものではないのだろうし、当時は先生方も若くて、いろいろ悩みもがき苦しみながら執筆していただろうので(それは今もかもしれませんが)、気になる、気にする、気に障る、ということはあったのだろうな、とも思います。田舎から出てきて、やっと出会えた同好の士と仲良くやれていたつもりだっただけに、それはショックだったことでしょう、とも思います。
 ともあれ、なのでもうこれはこれで、ということで、以後外野が口を出したり触ったりすべきものではない、ということだなとは思います。
 ただ私が気になったのは、『一度きりの~』の書評というか感想などを読んでいくとたいてい、『少年の名は~』の方も読みたいが、竹宮作品をそもそも読んだことがないので…みたいなことが言われていることでした。確かに竹宮先生は直近20年は大学で漫画を教える仕事に就いていて、いわゆる第一線の漫画家さんとは言えないでしょう。一方で萩尾先生はずっと作品を発表し続けていて、近年は『ポーの一族』の新章スタートや舞台化なんかもあったりして話題にもなったので、若い、新しい読者が増える余地があったのでしょう。でも当時は竹宮先生の方が人気…とか評価が高い…というのもちょっと違うかもしれませんが、やはり『風と木の詩』のセンセーショナルさとか衝撃って大きくて、こういう話題のときに先に名前を挙げられがちだったと思うのです。なので、今はあまり読まれていないのか…と思うと、とても残念に感じました。まあ今や紙コミックスは文庫しか動いていないでしょうしね…電子化はされていると思うのですが、近作に合わせてキャンペーンが組まれたりするから、現役でないと露出されづらい、というのもあるのでしょう。私も未だ愛蔵しているのは『ファラオの墓』と『風と木の詩』『変奏曲』だけなのですが、一時は選集も持っていましたし、『地球へ…』も『私を月まで連れって!』も持っていました。『イズァローン伝説』も『天馬の血族』も読みました。
 そんなわけで久々に『風木』を読んでみました。多分小学校高学年のときに途中まで古本屋でまとめて買って、最後の数巻はリアルタイムで新刊で買っているんだと思います。手持ちのコミックスは8巻以前のカバーがPP貼りされていなくて、背とかが分解しそうに傷んでいるので、怖くて大事にしていてあまり触りたくないくらいなのでした。まあ暗記しているくらい読み込んでいて、すでに私の血肉になっていますしね。
 でも、今回久々に読んでみて、安心しました。やっぱり名作だと思えたので。
 モーさまが『ヴィレンツ物語』と言っている『変奏曲』は(なので本当に読んでいなくて、このタイトルでシリーズ化されコミックス化されていることも知らないのだと思います)、今読むとページ数の問題なのか漫画としてはかなり稚拙というか、構成が良くなくて読みづらく、またお話が中断されている形になっているのでもったいない出来の作品なのですが、『風木』は週刊連載ということもあってある程度ゆっくりたっぷり描けているのか、そういう窮屈さはまったくありません。
 そして、読めばわかります。寄宿舎が舞台というのは同じでも、『小鳥の巣』や『トーマの心臓』とは全然違う作品だ、ということが。描線の方向性も、イメージの描かれ方も、ポエムめいたネームの置かれ方も全然違う。愛や、神や、社会の描かれ方も違う、女性キャラクターの描かれ方も。あたりまえなんです、作家としての個性が全然違う。そしてふたりとも天才なんですから。
 愛蔵コミックスとして以前書いたものはこちら
 ちなみに『扉は~』は聞き書きなので文体は当人のものではないですが、幼少期から現在に至るまでの包括的な半生記としてとてもおもしろく読めました。そして両先生は、性格の違いもあるけれど、家庭環境も似て非なる…という感じだったんだろうな、とも改めて思いました。ともに戦後の昭和の、田舎の、堅めの家庭の育ちで、女の子が大学なんて、とか東京で働くなんて、漫画なんて、と言われて育ったようですが、抑圧具合がだいぶ違う印象を受けました。それが『紅にほふ』を描くか『残酷な神が支配する』を描くか、にも表れていたと思います。
 竹宮先生は2020年4月に大学を退職したとのことですが、まだまだお元気そうだしデジタルにもチャレンジしていて好奇心旺盛、血気盛んといった感じですし、こういう人が政府のクールジャパンの仕事とかをするといいのではないかしらん、とも思ったりしました。お話を描きたい感じはなさそうかな、とも思ったので…でもわかりませんね、まだまだお若いですものね。
 とりあえず選集を復刊させたりは、できないものかなあ…ホント、読まれなくなってしまうのはもったいないです。人の死のひとつに忘れられることがあるのだとすれば、作品が読まれなくなることは作家の死のひとつなのでしょうから。

 というわけで、『風木』ですが、改めて、BL漫画では全然ないな、と思いましたね。
 当時まだそういう言葉ががなかったから、というのももちろんあります。でもなんか、精神性というか、在り方、スタンスがそもそも全然違う気がしました。
 この作品のあとに出てきたBL作品って、今はまたちょっと違うものもあるかもしれませんが、でも基本的には女子の女子による女子のためのもので、その女子ってのは要するにシスヘテロ女性のことであって、だけど描き手にも読者にも自分の女性性にある種の忌避感があったりして、それで男女のセックスの代替として男性キャラクター同士の性愛描写がされる…のがほとんどなのではないか、と私は思っています。それは体位とか体勢とか身体の描かれ方に表れている。だから読むと濡れる。そういうふうに愛されたい、という思いが反映されていて、それに感じるからです。
 でもこの作品は違う。そしてあえて言おう、やはり少年愛漫画である、と。BLのようにほとんど様式化される以前のものだから、というのもあるかもしれませんが、絡み方とか、身体の描き方とかが、そういう狙いで描かれたものではないと感じるのです。何より、みんなほとんど子供みたいな身体なんですよね…だから痛々しさの方が勝つ気がする。その意味でも萌えない。
 でも、そういう時期の人間、つまりそういう「少年」を描く作品なのです。そしてこういうふうに育てられてしまったジルベールに、こういう人間であるセルジュが出会って、惹かれてしまったときに、性愛は開かれざるをえない扉だったのでした。だから当然、意味のある描写です。
 人間には心も、頭脳も、魂もあるけれど、同時に身体もあって、それから逃れることはできなくて、恋をすれば胸が高鳴るけれどお腹は空くし喧嘩すれば血も流すし、そして社会に出れば働いて稼がないと食べていけない。そういう人間の真実を描いている作品です。漫画を評価するときに「文学的」みたいな言葉を使うのってどうなのよ、とは思いますが、『トーマ』の文学性とはまた違ったそれを、この作品にも感じます。だってひどい話だもん。全然女子供の甘くロマンチックなラブストーリーなんかじゃない。とてもシビアなお話です。青春の蹉跌、なんて言葉ではすまされない展開、結末を辿るお話です。でもだからこそ真実です。そして確かにそこに愛はあり、ジルベールは生きていたのです。
 ものすごくよくできたお話だと思います。一晩でできたようなことを竹宮先生は言っていましたが、それはどこまでのことだったのでしょうね。最後はけっこう巻いて描いたみたいなことも言っていましたが、そんなこともないかなあ。とても綺麗に完結していると思います。その後の構想もあるようなことも言っていましたが、セルジュのその後なんてそれはもう別のお話だから、これはこのままでいいのでは…と私は思います。『変奏曲』とは違うのですから。強いて言えば、私はロスマリネとジュールは好きだったので、掘るなら彼らのその後あたりとか? オーギュのその後とかもどーでもいいよね(笑)。
 やはり時代を画す名作、金字塔だと思います。今はあまり読まれていない、というのはいかにも惜しい。未だ決して古びていない作品だと思いますし、『ポー』が読みにくかったという層にもこの作品は漫画としてはいたって読みやすいものだと思います。児童虐待描写がしんどい、というのはあるかもしれませんが…古典として、教養として、そして今なお解決されてない問題を描いた作品として、読み継がれていってほしいなと思います。なので私もことあるごとに言及していこうかな、と改めて思ったのでした。





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宝塚歌劇宙組『夢千鳥』

2021年04月27日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 宝塚バウホール、2021年4月25日15時(サプライズ千秋楽)。

 日本を代表する映画監督・白澤優二郎(和希そら)は、女優の赤羽礼奈(天彩峰里)と事実上の婚姻関係にありながら、新作を撮るたびに主演女優と浮き名を流し世間を騒がせていた。そんな白澤の次回作は、大正浪漫を代表する画家・竹久夢二(和希そらの二役)の人生を描いた物語。幼い頃から運命の女性を探し続けた夢二もまた、醜聞の絶えない男であった。唯一の正妻・他万喜(天彩峰里の二役)、病弱な箱入り娘・彦乃(山吹ひばり)、理想のモデル・お葉(水音志保)。白澤は、夢二と彼の人生を彩った三人の女性の物語を紡ぎ始めるが…
 作・演出/栗田優香、作曲・編曲/手島恭子、振付/原田薫、百花沙里。栗田優香のデビュー作となる大正浪漫叙情劇、全2幕。

 これまた久々に入手の難しいレアチケットで、なんとか手配できていたのがこの回だけだったので、この日までの上演・残りは中止、の発表があったときには本当になんとも言えない気持ちになりました…ここ数年は宝塚歌劇全演目観劇を達成できているので、観られそうでよかった助かったつながった!という思いと、完売しているんだから、初日が開いている公演なんだから、千秋楽までやっちゃいなよ、という思い、でも本当に大丈夫?みんな無理していない?命と健康と安全が一番だよ、という思いと、でも文化芸術が不要不急だなんて簡単に言われたくないよ人はパンのみにて生くるにあらずだよ、という思いと…いずれもわがまま勝手な思いだとはわかっています。心千々に乱れながらも、同行のみりお担でそらファンの親友とほぼ言葉を交わさずに、シュッと日帰りしてきました。本当ならタカホに泊まって翌日の花組大劇場公演も観てくる予定でした。彼女は初めて、私は二度目の新タカホ泊、楽しみにしていました。彼女は未見、私は初日開いてすぐの一度しか観ていなかったので、進化していると聞く花組子のパフォーマンスを観るのを楽しみにしていました。本当に残念です…
 でも、何よりつらいのは公演を途中でやめざるを得ない出演者とスタッフであろうと思うと、ガン見するぞハートに焼き付けるぞ!という思いで席についたのでした。

 公演序盤はファンが観るものなので、というのもあるかと思いますが、絶賛ベースの感想しか聞こえてこない…わりに、どこがどういいのか具体的なこともあまり聞こえてこないような…?という気もしていて、さて実際はどんなものなのかな、とフラットに観たつもりです。が、なんせ自分が組ファンでまあまあ下級生まで生徒がわかるだけに、でも席はかなり後方で遠かったために、「あの女中は誰? あの鳥は? あの記者は? あの学生は?」とけっこう目移りしてしまい、忙しくて集中しきれなかったかもしれません。もっとおちついて、できれば複数回観たかった…精進が足りてなくてすみません。でも『HSH』同様、下級生にも丁寧に仕事が振られている作品で、とてもよかったと思いました。
 私は遡ればなーこたんのデビュー作も観ていますし、最近だとくーみんの『月雲』以降とかは、新人(当時)演出家のデビュー作を生でわりと観てきていると思います。あ、生田先生の『BUND NEON/上海』と田渕先生の『ヴィクジャズ』は観ていないんですが、それくらいかな? で、その中で言うと、とてもハイレベルな出来の作品だったのではないかな、と思いました。キャラブレしてるじゃん、とかストーリーが破綻してるじゃん、とかシュミに走りすぎでは、とか、逆に個性も何もなくて空っぽすぎでは、とかがない。大正パートがわりと愛をロマンというよりは情念として描いていてどろりざらりとしているように感じられたので、おっと宝塚歌劇の範疇に収まるかな?とややひやりとしたのですが、結果的にはとても美しく収まりましたし、いろんな舞台をたくさん観てたくさん作ってきた人なんだろうな、という厚みを感じました。その上でこういうものをやりたい、こういう世界を作りたい、という美意識や確固たる意志も感じられて、でもそれが暴走して宝塚歌劇の枠組から外れている、というようなことも最終的にはなく、かつちゃんと生徒たちへの愛情や配慮、期待や挑戦も感じらる舞台でした。主演の番手都合なのかそもそも配信予定もないような扱いでしたが、全日程やりきってより芝居が深まり、作品の出来が仕上がって好評が響けば再演、東上もあったかもしれないし、もちろんそこまでは届かなかったかもしれないけれど、相応のポテンシャルはある作品にも思えました。出演者には次の本公演でのさらなる奮起を、また栗田先生には次回作でのさらなる飛躍を期待しています。
 1幕はちょっと単調に思えたかもしれません。どんな話になるのかわからないからこちらも集中して観るんだけれど、ちょっと同じペースの場面展開が多かった気もしました。また、昭和と大正を行ったり来たりする構造で、そのスライドはとても見事だったのですが、舞台の一部を使って芝居をして残りは暗くしていることが多く、それはスペース都合もあるしその闇が表現しているものももちろんあるんですけれど、それでも全体として暗い(ハリー作品あるあるの照明が暗いのとはまた違う意味で)し小さい印象になるのは気になりました。だからこそ舞台全体を使った場面が引き立つ、という効果は認めるにしても、です。あと、フィナーレが20分もあるのはサービスとしていいのかもしれませんが、尺の計算としてはおかしい気もしました。芝居に何が足りない、というほどではなかったかとは思うのですが、でもじゃあもう少し何か場面を足してもよかったのかもしれないな、とも思いました。
 でもまあ、以上はすべて、強いて難点を上げれば、という感じのもので、ものすごく問題だとか全然なってないとかいうことはまったくなかったと思います。二役や二重の入れ子構造なんかはよくあることですが、非常に上手く作られていて、演劇的にもとても鮮やかでスリリングで、おもしろかったです。歌の入れ方は自然で、ダンスの入れ方にもアイディアがありました。てかプロローグ、着流しでバレエ踊っちゃうそらすげえ。鳥籠のモチーフなど、セット(装置/新宮有紀)も素敵でした。
 ひとつ思ったのは、配役を、そらは「白澤優二郎/竹久夢二」、じゅっちゃんは「赤羽礼奈/他万喜」にすべきだったのではないかな、ということです。プログラムの「主な配役」の説明ではその順になっていますよね。でもスチールに添えられた役名は「竹久夢二/白澤優二郎」、「他万喜/赤羽礼奈」となっている。要するに、二役のうちの比重をどちらに置くか、という話です。ポスターもプログラムもすべてこのままでかまわない、夢二推しでいいんだと思うのです。でもこの物語は、夢二と他万喜の物語ではなく白澤と礼奈の物語だったと私は思いました。大正パートを観ている限り、お葉はともかく彦乃の比重はかなり大きくて、他万喜がヒロインにはちょっと見えませんでした。ぶっちゃけ夢二は三人の女にも、あるいは菊子(花宮沙羅。鳥役もいいけどこの芸妓役が絶品! 立派に第四のヒロインだったと思いました。夢二にはこの三人のヒロイン以外にも女がたくさんいたのだ、ということを示すために入れられたエピソードだと思うのだけれど、なんせ声が良くて芝居ができていて、ちょっと他を凌駕しかねないくらいの出来だったと私は思いました。印象的すぎたとも言える。ファンの欲目だったらすみません、でも彼女にももっと新公ヒロインやバウヒロインをぜひ…!)始め他の数多の女たちの中にも「幸せの青い鳥」を見つけられずに終わったのでしょう? 彼女たちと別れて、さらに晩年の夢二がどう生きたかはこの作品では語られませんし、キレた女に刺されて死んだか孫や曾孫に囲まれて布団の上で大往生したのか私も史実を知らないのですが、ぶっちゃけろくでもなかったんだろうしぶっちゃけそれはどうでもいいわけじゃないですか。だって白澤は夢二の映画を撮ることで、青い鳥の意味を知ったからです。
 青い鳥探し、というモチーフは物語にはわりとよくあるし、そもそものオチは家で飼っていた小鳥こそが青かったのだ、幸せは見つけようと思えばすぐに見つかるものだよ…みたいなものなワケですが、この物語では、数多の中からひとつ卵をそれと決めて選んで、温めて孵して、愛情こめて育てて、雛からやがて青い鳥に「する」のだ、とされていました。これはかなり斬新で画期的な考え方だと思います。かつとても正論だと思いました。
 男は、女たちが「ありのままで」なんて歌い出すはるか以前から、ありのままの自分をすべて受け入れて愛し敬い仕え支え盛り立ててくれる「運命の女」を探し続けてきたし、そう放言し続けてきました。それが許されてきた。厚顔この上ないですね。
 でもそんなこと、産んだ母親ですらできないにきまっているのです。少なくともそれは「愛」ではない。愛は、幸せは、そんなふうに探しても、あるいはただ待っていても得られるものではない。自分でそれと決めて、選んで、育てて、責任と自覚を持って「それ」にしないと「幸せ」にはならないのです。なんて真理!
 だからそれは、決めて、選んで、育てて、たとえ「そう」ならなかったとしてもそこで捨てたり投げ出したりしていいものではありません。一生手をかけ続けなければならないものなのです。だって命があるものなのですから。愛って、幸せって、相手あってのものなのですから。生きているものは変わります。お互いそれぞれ変わるものなのですから、常に完璧で完全なんてありえない。手をかけ続け愛し続けて初めて、幸せが得られるのです。それが青い鳥です。それに気づいて白澤は礼奈の手を取って、抱きしめて、この物語は終わったのでした。だからこれはこのふたりの物語です。夢二のことは知らん。
 夢二というモチーフに青い鳥探しを重ねてくるところ、そしてこの結論に持っていったところにこの作家の才能を感じます。新しい。少なくともなかなかない。
 そしてまた白澤が礼奈にプロポーズして終わる、とかじゃなかったところもいい。それは宝塚歌劇としてはアリだったかもしれないけれど(たとえば『HSH』のラストにはそのベタさの良さがあったわけですが)、そうしなかったところがそれこそ新世代作家的なのではないでしょうか。婚姻と愛と幸せって全然イコールじゃない、ということをごく普通に持ち出せるのが、実にいい。その代わりのバックハグと「…あたためてるんだ」ですよ、キャー!新しい!!
 ちょっと話がズレるようですが、婚姻に関する男女の不平等がすべて撤廃されて選択的夫婦別姓も同性婚も認められるようになるなら、私もタカラジェンヌの未婚女子限定既約を再考しないこともないもかなー…もちろん私にはなんの権限もありませんが。でも芸名の、理想の自分になろうと日々自分を磨き精進している女性が、現実にはどこかの男性に隷属させられて自らの生まれながらの姓すら奪われているのだ、という状態なら私はそこに夢なんか見られません。その意味で私は現在のこの既約(いや実際には不文律というかなんとなくのルールなのでしょうが)を支持しているのです。
 閑話休題。ともあれ他万喜には彦乃やお葉や菊子たちライバルがいることが描写されますが、礼奈のライバルである「最新作の主演女優タカナシユキ(小鳥遊雪、と書くのかなと思います。ポスターの羽にあるとおり、礼奈/他万喜は赤い鳥なのに対して彦乃は白い鳥、お葉は黄色い鳥を当てられているだろうからです。だからユキも鳥で、白)」は名前が出るだけで舞台には登場しません。だから礼奈はこの作品の唯一無二のヒロインなのです。その相手たる白澤がこの作品の主人公なのです。それとは別に、いくらひろこやブキちゃんが下級生だからってプログラムにスチールくらい撮って載せてよ、そういうお話だろう、とは言いたいですけれどね。
 なのでフィナーレの尺を削って芝居を足して深めるなら、昭和パートかなあ。2幕アタマの撮影場面とかもすごくよかったんだけれど(ここで今まで主に夢二イメージの鳥を演じてきたあきもが「夢二役」を二役でやっているのがまたいいんだよね!)、1幕のどこかにもう一場面足して、昭和パートの外枠の方が夢二の大正パートよりメインなんですよ、と改めて念押ししておくとなおよかったのかもしれません。あるいは礼奈側の事情みたいなものもちょっと描くとか、ね。歳上だとか先に売れたのは彼女だったとか子供を産んだり家庭に入る気がないとか、いろいろあるのかもしれませんしね。
 昭和パートで個人的にツボだったのは、バーでくだを巻く白澤とマスター(凛城きら。てかここの白タキシード姿が絶品すぎました)のりんきらとの会話でした。
「甘えてるんだね」
「もっと可愛く甘えてくれればなあ」
「じろちゃんが礼奈さんに、だよ」
 みたいなヤツ。私は最初からそっちのことだと思ったので、白澤が逆に捉えたのに、というか栗田先生が白澤に逆に捉えさせたのにニヤリとしたし、すかさずマスターにこう返させて白澤が黙り込む、とさせたのにさらにニヤニヤとしたのでした。上手い、ニクい! ツボりました。
 こういう滋味ある台詞や会話が多かったし、逆にソコ受け答えがねじれててイミフなんですけど?みたいな台詞は一切ありませんでした。その意味でも期待の演出家さんです。次回作が今から本当に楽しみです。違う引き出しも観てみたい。今回の上演中断は本当にショックなことだったかと思いますが、バネにしてがんばっていっていただきたいです。応援しています。

 では、以下生徒さんに関する感想を。
 まずはそら。ダンス推しの『ハッスルメイツ!』ももちろんよかったけれど、今回もとてもよかった! 当たり役と言っていいかと思いました。
 そらって小柄で、歌も芝居もダンスもなんでもできるので、前回の『アナスタシア』のリリーといい、女役とかちょっと前なら少年役とか(まあ『オーシャンズ11』はそんなに前ではなかったところがまたアレだったわけですが)がよく回ってきちゃうわけですが、声は低くて男臭い芝居もできるタイプなので(こっちゃんと同じタイプですよね)本当はそれだともったいない役者さんなんですよね。今回は、夢二をちゃんと大人の男性の役にして、ちょっと手がかかる小悪魔美少年…みたいにしなかったのがまずよかったと思うし、その上で、芸術家だからってなんでも許されると思うなよ、ってなろくでもない男、でもやっぱり優男…みたいな役どころを、実に上手くかつ色っぽく演じていて、これぞソラカズキの面目躍如!って感じがしました。だってDVからのチューですよギャー!!! 実際、女役もこなす色気が奏功していて、マッチョの対極にあるような夢二の魅力や個性に結実していたと思いました。だからって夢二が中性的だってことじゃなくて、ちゃんと男臭いんです。着流しで無造作に歩く、走る、寝転ぶ、脚が覗く、そのエロスたるや…! そら客席全員「抱いてください!」って身を投げ出すよな、ってなもんでした。素晴らしかったです。
 夢二の卑屈でいじましい部分は、今やリアル男性に演じられたら引くところだと思います。いや、このキャラクター像って男性にも人気があって、だから今までもたくさんの映画やドラマなどがおそらく男性監督の手で作られてきたし演じてきたのは男優なんだけれど、いずれも見ていないのに言うのはなんですがおそらく「ケッ」てなもんでしょう。女性にだって自己顕示欲も承認欲求もあるんだけれど、どうしても「男に愛されたい」という方向で発露しがちです。異性愛女性が大半ですし、女性の社会活動がその方向のみに制限されているせいでもあります。対して男性はずっとホモソーシャルな生き物だから、「同じ男、そしてより強い雄に認められたい」という方向に出る。なのに上手く素直になれなくて、こうしてこじれるんですね。夢二は女性ファンに人気があるだけでは満たされなくて、男性評論家に認めてもらいたくて、褒めてもらいたくて仕方がないんです。そんなしょうもない男、タカラジェンヌの男役が演じる男性キャラクターでなければ今やチャーミングには成立しませんよ…れいこラッチマンの『ダル・レークの恋』でも感じましたが、男のしょーもなさと男女の恋愛のどうしようもなさを描くのに宝塚歌劇は最適だ、という真理を私は改めて痛感しました。それを、権威からの評価になんか背を向けた大衆演劇であることを標榜する劇団の、新進女性作家が、おそらく自覚的に描いてみせていることに私は大きな希望を持ちます。
 白澤は時代がいってる分、夢二よりちょっと賢しらになってるけれど、賞に天狗になっていたりと基本的に夢二とおんなじなところがまたツボの役だし、そらはそれをまた実に上手く体現していたと思いました。
 あとホントええ声。開演アナウンスはヤバい、あれだけで孕みます。
 フィナーレももちろんバリバリだし、「ミ・アモーレ」の歌詞違いの「赤い鳥逃げた」が似合うこと上手いこと! そうよこういうふうにやるアイドルソングなら松田聖子じゃなくて中森明菜だよ!と膝を打ちました。ま、リフトはさすがにちょっとアレだったかな…じゅっちゃんもそんなにちっちゃかないからな、とは思いました。
 そのじゅっちゃん。まどかもそうなんだけど、童顔でロリっぽく見られがちだけど持ち味はむしろ女っぽいところの方がハマるのよ、ってタイプの娘役さんで、これまたいいお役を書いていただきましたね!と大コーフンでした。歌もとてもいい。同期のまどかがいるところに組替えしてきて、さらに下級生のかのちゃんが来ちゃいましたが、がんばっていっていただきたいです。
SAPA』で衝撃のデビュー(ほぼ、という意味で)を飾ったブキちゃんですが、ナウオンでもしっかりしゃべれているなーと感心しましたが芝居もやっぱりしっかりしていて、驚きでした。彼女も声がいいですよね、歌えるのも強い。宙組って今ホント層厚いな!?と仰天しますよね…まだ怖いもの知らずなだけかもしれないけれど、さらなる活躍に期待しています。このあたりの在り方が『春の雪』当時のゆうみちゃんをちょっと想起させたりもしました。
 ひろこは可愛くてダンサーで、でもこれまで新公含めてそれまで止まりの起用だったと思うのですが、こんなにたくさん台詞がついて、そしてちゃんとこなせていて、ファンは感動しましたよ…欲を言えばもうちょっと大人の権高さみたいなものが出せたらベストだったかもしれません。お葉は職業モデルであることのプライドとかが、他の女性たちとはまた違ったんだろうと思ったので。でも難しい役だよー、それにとにかく綺麗に出ていることがまず偉いと思いました。こちらも今後にさらに期待、もっと使ってください劇団さん…!
 さて、2番手格はあーちゃんだったわけですが、私はラインナップでそれにちょっと驚くぐらい、役がちょっと弱かった気がしました。あーちゃん自身は一時の暑苦しすぎる癖が抜けてきて、そうなるとあたたかさが残って友人役としてすごくよかったんだけれど、狂言回しに徹するのか、女たち以上に夢二に執着するような立ち位置の友にするのか、ちょっと中途半端だったように思えました。こちらもフィナーレのダンスはバリバリで、観ていて楽しかったです。
 3番手格はなんとびっくりキョロちゃんでしたが、私はこの学年のあたりはなつ、次にナニーロを買っているので(なつは買って「いた」ですが…ううぅ)うぅーん…西条湊(亜音有星)はめっちゃよかったと思ったんですよね、ヘアメイクのしぐれちゃん込みであの場面はすっごくよかった。でも東郷青児は棒に見えたなー…でも超絶スタイルの期待株ですから、見守っていきたいと思います。
 長らく宙組の副組長を務めて、この公演を最後に花組に異動するあおいちゃん、珍しく出過ぎず(オイ)よかったです。フィナーレのデュエダンの歌手の餞けっぷりと引っ込みへの客席からの拍手に爆泣きしました。本当に美声でしたよねえぇ…花組の立て直し、がんばっていただきたいです。
 役どころとしては被ってしまっている歌手のきゃのんでしたが、こちらも出過ぎず、バランスがとてもよかったと思いました。下級生の多い座組だったので、お稽古場番長として必要とされたのだろうなとも思います。そういうの、大事。
 あーちゃん同様に昭和と大正で二役をやっているりんきらは先述したようにバーのマスター役が絶品で、芝居を締めるしひと味足すよねーと感動しました。フィナーレの黒燕尾が端正でザッツお手本!なのもたまりませんでした。大事。
 冒頭で夢二パパを演じて芝居を決めるりおくんがまた頼れる! そこにナベさん、ほまちゃんがめちゃめちゃ上手くおじさんをやるし、りっつがいいとこ持ってくし、となるとまなちゃんが軽く明るいところをこれまた鮮やかにきっちり務めてくれるので、盤石感がすごかったです。なのであきもの起用も立ってくる…
 アラレもこうなるとお姉さんなのですが、女学生チームをとても上手くコントロールして見えました。朝木ちゃんとかももっと使われていくといいよね、ここさくちゃんとか花城ちゃんとかも。夢二姉の有愛きいちゃんもいい声で、真白くんにもスポット当てようとしていて、宙組の層って今ホント…ああ、鳥もタンゴダンサーももっとゆっくり見たかったです。

 カテコのご挨拶であおいちゃんが「本日は宙組バウホール公演『夢千鳥』の…公演をご覧いただきまして…」と言いよどみ、その後も「今回が最後の公演になってしまい…」と、決して「千秋楽」という言葉を使おうとしないのに、胸が詰まりました。ちょうど1年前、月組の『赤と黒』や『出島』が最後の数回を残して公演中止となったときのカテコでも、座長や主演スターがこの言葉を使わない挨拶をしていたんじゃないかと記憶しています。突然中断させられただけで、本来の、おめでたい、やりきるはずの千秋楽ではない、という気持ちが強かったんだと思います。
 それが今回は、挨拶のバトンタッチを受けたそらが、笑いながらもあっさりと「今日が思いがけず、サプライズみたいに千秋楽になってしまい…」と言い出したので、こちらもちょっと笑っちゃって、肩の力が抜けました。でもそこからは、そらもちょっと涙声になりました。それでも、「この四日間に後悔はまったくありません」「初日の幕が本当に開けられるのかと不安なままに過ごしていたお稽古の日々よりは、こうしてみなさんにご覧いただけて、幸せでした」みたいなことも力強く言っていました。最後には何度も、「みなさんも笑顔でいてください」「ハッピーにお過ごしください」と言ってくれました。その心遣いが嬉しかったです。
 スヌーピー(何故か伏せ字にする気遣いを見せ、「スヌ○ピー(すぬまるぴー、と発音していました)」と言っていましたが)の言葉に、「人生に訪れるサプライズを楽観するか悲観するかはその人次第だ」というものがあるそうで、それを引いてのコメントもありました。生徒たちはそうやって自分たちの心を強く保っているのかもしれません。外食せず、お買い物やレッスンなどの外出も最低限にして、お稽古場でもマスクして距離を保って、何度も検査を受けて、懸命な感染対策をして舞台に臨んでいるんだと思います。私たちも改めて気を引き締めて、引き続きうがい手洗い引きこもりをしないとな、と思いました。

 5月11日までの緊急事態宣言発出で、私のチケットは5枚が幻となりました。花組大劇場公演(あきら会の知人にお取り次ぎいただいていました。あきらのチケット封筒が欲しかった…てか千秋楽とサヨナラショーの無観客上演、配信ってつらすぎる…)、エリザガラコン宙組バージョン(あきルドとの再会、かなわず…)、東京文化会館の『カルメン』(これは6月に延期)と新国立劇場の『コッペリア』、星組東京公演『ロミジュリ』Aパターン初日です。
 花組と星組は去年に続いて公演が中断されました。今となっては雪組が逃げ切れてよかった…月組が無事に開幕できることを祈るばかりです。宙組は梅田『HSH』がこちらも無観客上演、配信とのこと…ブリリアでは「景子先生、書きすぎだって」とやや揶揄しましたが、配信では「Lives in the theater」は刺さりまくることでしょう。つらすぎる…
 選挙に行って、無能で愚鈍な政府にNOを突きつけましょう。そしてみんなで生き抜いて、世界にアップデートして、明るく幸せな未来をつかみましょう。そのためにも、文化芸術は必要です。人の心を生かし魂を生かすものです。みなさま、どうか引き続きご安全に。
 観劇がないのでここの更新もしばらく止まるかもしれませんが、読書三昧の日々になるでしょうからそのあたりでいい出会いがあれば、また書きつけたいと思います。よければまた遊びにいらしてくださいませ。コメント大歓迎でございます!





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『エリザベート TAKARAZUKA25周年スペシャル・ガラ・コンサート』

2021年04月26日 | 観劇記/タイトルあ行
 シアターオーブ、2021年4月17日12時(初日)、19時12時。

 前回の20周年ガラコンの記事はこちら、その前のガラコンの記事はこちら
 梅田公演は仕事で行けませんでしたが、東京ではまずは初日のアニヴァーサリーバージョンから観られました。
 トートがマリコ、ズンコ、サエちゃん、オサ、ミズ。シシィがアヤカ、ミドリ、蘭ちゃん、ちゃぴ、みりおん。フランツがノル、タカコ、ガイチ、ユミコ、きりやんにみっちゃん。ルドルフはブンちゃん、大空さん、ユミコ。子ルドはグンちゃん、トウコとトップスター格だけでも大判振る舞い。ルキーニは1幕トシちゃん、2幕きりやん。ゾフィーは1幕がせーこ、2幕はタキさん。リヒテンシュタインは1幕るいるい、2幕くみちゃん。マックスはまりんさんのあと越リュウ、マダム・ヴォルフはえりちゃんでした。
 大空さんなんて「ママ鏡」だけだったから実働5分では!?って感じでしたが、まあお祭りだからいいのです。
 みりおんがあいかわらず上手くて「パパみたいに」を可愛く演じ、結婚式ではそれまでの白いドレスに肩ショールだけ加えて上手くドレスアップ感を出してきて感心しましたし、翌朝場面からのちゃぴの「私だけに」は本当に力強くて、すごーく上手くなっていて大感動。逆に蘭ちゃんは裏声に逃げていて、私はあまり感心ませんでした。大空さん相手のシシィはミドリで、なかなか新鮮な組み合わせ。ルドルフの葬儀からはアヤカで、さすがに歌がつらかったかな…まあOG公演以外ほぼ芸能活動をしていないので仕方ないんでしょうけど、もうちょっと仕上げてきてほしかったです。でもラストの昇天が再演星組コンビのマリコアヤカだったのには胸アツでした。ここは従来のコンビが揃えば必ずそうすることにしているのかしらん…思えばこの再演の成功が、その後の各組続演に決定的につながっていったんだと思います。役者が違っても作品が良ければ大丈夫、こんなに歌えないトートでも大丈夫なときは大丈夫(オイ)という確信につながったからだと思います。
 ズンコのハスキーな「愛と死の輪舞」には独特の色気が香り、オサの「最後のダンス」がわりと端正で感心し、サエちゃんの「ミルク」は熱く、ミズの「私が踊る時」はねっとりしていて良き、でした。
 ユミコフランツの「嵐も怖くない」のあたたかさや、タカコフランツのホントに役に立たなさそうな感じとか、ノルフランツのすぐさま扉を開けたくなる感じとかもよかったなあ。そしてトウコが今あえてやる子ルドがまた絶品でした。本当に技であり芸ですよよねえ。新公でしかやっていないはずのトシちゃんルキーニも、さすが達者で立派なものでした。るいるいはずいぶん老けてたな…
 カテコにはイケコとなーこたんもご登壇。初演メンバーをねぎらったり、二役やったユミコやきりやんをねぎらったり、あまたの上級生を息子にしたみっちゃんをねぎらったりと、コメントもアットホームでとてもほっこりしました。
 そういえば冒頭にイチロさんとハナちゃんからのビデオメッセージが流れましたが、あれはアニヴァ版だけのスペシャルだったのかな?
 そしてプログラムの各コメントが本当に読み応えがあって、当時の代役稽古の話とかも多く、未だに新発見があるのが印象的でした。

 2度目は09年月組バージョン。アサコトートにきりやんフランツ、トシちゃんルキーニ、大空ルドルフ、タキさんゾフィー。シシィはミドリ。
 プロローグ、黒天使かよ!とトートがズラリと並ぶアニヴァ版もいいですが、やはりただひとりの黄泉の帝王のために出演者みんなが跪くのは圧巻ですよね。さらにそこに降りてくるのがオレ様アサコ様ですからね、ゾクゾクしました。
 ていうかその前に、あっきーガン見だったポジションに立つ大空さんを見て心臓が跳ね上がりましたよね…アニヴァ版のプロローグのルドルフはブンちゃんだったので。いやぁ時空を越えるよねぇ…私は大空さんの本公演ルドルフは1、2回しか観ていないので、宙組あきルドのときには「ああ、大空さんの場所にあっきーが…!」とは感じなかったんですよ。おもしろいものだなあ…
 出番の短いルドルフはともかくフランツもシシィもそれなりに着替えるのに、アサコトートが着た切り雀で通す潔さもさすがでした。もちろんルキーニも着替えないんだけどさ。
 そうそう、アサコの歌って、男役歌唱ってこうだった!という懐かしさにも震えましたが、「最後のダンス」のノリノリの踊りがホントさすがすぎました。惚れ直してしまうやろー! それからするともしかして花と月の芝居の差なのか、ミドリのシシィはだいぶおとなしいというか芝居っ気がなくて、私はちょっともの足りなかったかな…歌もフツー。でも鏡の間のドレスはよかった。カテコもこれで出てきましたね、さすがです。てかレマン湖から昇天の早替わり、すごすぎなかった!?
 大空さんは入魂でしたよ、カテコ前半もちょっと引っ張られた顔してましたもん。「ママ鏡」でシシィの手が離れたときのショック顔といったら…! トートとのキスがなく暗転になってしまうのが、ガラコン仕様とはいえ残念でしたね。私はガラコンでは大空さんは「ママ鏡」しか観たことがなかったので、やっと「闇広」が観られたのにも感動しました。アサコの歌声と美しく響いて声部が上になり下になり…そして明らかにトートとルドルフで、本当に素晴らしかったです。ハンガリー動乱もとてもよかった。
 花組ではオサアサミドリ時代というものが確かにあって、そのときのミドリシシィの相手はオサトートでアサコはルキーニだったんだけれど、今回はアサコトートとミドリシシィで昇天…というときの、ミドリのなんとも言えない表情がたまりませんでした。ここはどの版でも中の人が出てきても許される場面だと思うんですよね。観客もファンしかいないんだし、お互い感無量なことでしょう…
 「キッチュ」ではノリノリで手拍子したり金管振ったりしてくれたオケですが、その間を、オケに会釈しながらにこやかに降りてくるカテコのアサコはもうトートなんかでは全然なくて、ただの悪戯好きのやんちゃアサコでした。ラインナップに居並ぶメンバーを見て思わず「まるで『パリの空の下』が始まっちゃいそうな…」と笑うのがもうこちらも大爆笑すぎましたし、そこからきりやんに「エッフェルさん、出世して…」と振ったり大空さんに「ねっ、ジョルジュ!」と振ったり、大空さんも「ちょっとやっていい? ♪ボンボンボボン」と返すし、アサコは「じゃ、次は『パリ空』ガラコンで! 15分くらいで終わっちゃうかもしれないけど! みんな、歌はすぐ覚えられるから! 配信もやりますから!」とノリノリになるし、ホントおもろすぎました。アサコは他の舞台のお稽古もあってかなり断続的なお稽古参加だったようで、大空さんが「昨日『闇広』合わせたら、振りを全然覚えてなくて…」と暴露すると「そんな…15歳で出会ってもう3…じゅう…年の仲なのに…いや、もうやめとこう」とへどもどするしでこれまた大爆笑でした。全公演参加のアンサンブルメンバーが細かく立ち位置など教えてくれたそうで、お稽古全回に参加した彼女たちにも拍手を、とアサコが客席を促すくだりもありました。これも胸アツでしたね。「ついでに大鳥さん」と雑にミドリに振るのもよかったです(笑)。仲の良さが窺えますよね。
 下手したらただのOGカラオケ同窓会になりそうなところを、みんな芸を深めていて磨き上げていて、新たな境地を見せてくれて、かつ現役時代にはありえなかった組み合わせでさらなる化学反応を見せてくれる…すごいガラコン、すごいイベントに育ちましたね。そもそも『エリザベート』自体が、本当に大きなタイトルになりました。ガラコンが成立するのは楽曲の良さもあるし、ここまで多彩なスターとファンがいろいろな物語を築いてきたことが共有され継承されているからでもあると思いますが、なかなかに奇跡的なことだと思います。生徒はOGになっても、男役でなくなっても、芸を深めていてそれを発揮する場所が与えられる、というのも素敵なことですし、新公や代役でしかやっていない役でもチャレンジで参加できるとなるとさらに幅が広がって、本当におもしろいパフォーマンス・イベントになってきたなと痛感しました。たまのお祭りだからいい、というのももちろんありますが、30周年も今から楽しみです。

 本当は、30日12時の16年宙組バージョンも観劇予定でした。そこであきルドとやっと再会できるはずでした。
 3度目の緊急事態宣言の発出で、それは幻となりました。本当につらいです、悲しいです。愚鈍で無能な政府には怒りしかありません。チケットを売ってしまった、公演が始まってしまった舞台は、感染対策を徹底した上で上演続行してしまう…という英断があってもよかったのではないか、とも思います。でも、生徒や出演者、スタッフなどすべての関係者の生命と健康、安全が一番、というのももちろんわかります。致し方ない決断だとは思っています。無念ではありますが…
 なので引き続き、できることをやっていこうと思います。うがい手洗い引きこもりの感染対策と、劇団や役者に応援メッセージを送ったりグッズ通販をしたりし続けます。配信も見られるものは見たいと思います。
 そして次の選挙で今の政府にNOを突きつけること、それに尽きるだろうと思っています。
 みなさまもどうぞ引き続き、ご安全に…



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『My friend Jekyll』

2021年04月23日 | 観劇記/タイトルま行
 シアタートラム、2021年4月22日19時。

 19世紀末、ロンドン。弁護士のアタスン(この日は小栗基裕)は医学博士で法学博士のヘンリー・ジキル(この日は持田将史)と出会う。誰もが羨む経歴を持ちながら人格者であるジキルに、アタスンは憧れと尊敬の念を抱いていた。やがてふたりは日曜になると公園を散歩しながら様々な話をするようになる。しかしある日、ジキルが公園に現れなかった…
 上演台本・演出/瀬戸山美咲、音楽/Masahiro Tobita、Jin Tanaka。2019年に初演した公演の再演。全1幕。

 アタスン役者が朗読をし、ジキル/ハイド役者がダンスで物語を進め、キャストを公演ごとに入れ替えるという趣向のパフォーマンスです。ふたりはものすごく有名な4人組のダンスユニットのメンバー…なのかな? さすがの身体能力でした。
 要するに『ジキル博士とハイド氏』なわけですが、ジキル博士の内心の葛藤ももちろん描かれるけれどアタスンとのブロマンスめいたドラマが見どころなので、この趣向はとてもふさわしいと思いました。ジキル/ハイドの死でお話が終わったあとの、フィナーレめいた、楽しかったころの青春のきらめきを踊るようなふたりのダンスが素敵でした。
 おもしろい舞台を観ました。
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『モーツァルト!』

2021年04月21日 | 観劇記/タイトルま行
 帝国劇場、2021年4月19日17時45分。

 1768年ウィーン。ザルツブルクの宮廷楽士であるレオポルド・モーツァルト(市村正親)は、錚々たる名士が集まる貴族の館で幼い息子がピアノを弾くのを目の当たりにしている。5歳にして作曲の才が花開いたその子は「奇跡の子」と呼ばれていた。やがて歳月は流れ、息子ヴォルフガング(この日は古川雄大)はザルツブルクで音楽活動を続けている。傍らにはいつも、奇跡のこと呼ばれたころのままの分身アマデ(この日は深町ようこ)が寄り添い、作曲に勤しんでいる。しかし青年ヴォルフガングは、領主であるコロレド大司教(山口祐一郞)の支配下で作曲せねばならないことに嫌気がさしていた…
 脚本・歌詞/ミヒャエル・クンツェ、音楽・編曲/シルヴェスター・リーヴァイ、演出・訳詞/小池修一郎、音楽監督/甲斐正人、振付/前田清実、美術・映像監修/松井るみ。1999年ウィーン初演、2002年日本初演、7度目の上演。全2幕。

 アッキーで観たときはこちら、芳雄と育三郎で観たときはこちら
 2018年から新演出になったそうで、キャストは今回とほぼ同じ、なのかな? ゆんゆんが観たくて、そしてしーちゃんがアロイジア(彩花まり)をやるというのでいそいそと出かけてきました。ピアノのセットは「おお、ロクモ!」とか思っちゃいましたよね…そして鍵盤が階段に見立てられているのですが、そこをキャストが上り下りするのが、個人的には鍵盤に足で乗るなんて…とお行儀の悪さに辟易しました。
 さてゆんゆんは、顔が小さすぎて首が太く長過ぎなくらいに見えるという、そしてゆうに十頭身はありそうな長身で超絶スタイルで、タカラジェンヌもかくやという感じでした。歌唱も素晴らしかったです。
 コンスタンツェは木下晴香、ナンネールは和音美桜。ヴァルトシュテッテン男爵夫人はたぁたん回を選びました。いずれも上手い。シカネーダーの遠山裕介もよかったなあ。
 しかしヴォルフもコンスもナンネールも何人も代替わりしているのに、どうしてレオポルドとコロレドは20年経っても同じなんだろう…ここも変えていけばいいのに。そして和音美桜はぼちぼち「星金」を歌えば? たぁたんとかカナメさんもだいぶ長いよね? こういうところもリフレッシュ、リニューアルしていけばいいのにな、と思いました。
 でも、まあ、いいです。何度か新演出になりながらも基本的に作品としてこのままなら、私はもう観なくてもいいかな…と今回思ってしまいました。チケットを取っておきながら、そして過去にも観たことは覚えていながらも、どんな内容のなんの話でどう感じたのかをまったく思い出せないでいたのですが、観てわかった&そして自分の過去記事を読み返してわかりました、私はこの作品が別に好きじゃないんでした。というかよくわからないのでした。今回もよくわからなかった…やたらと再演されるし人気があるんだろうけれど、これこそNOT FOR MEなのだな、とやっとわかりました。
 なんか、ナンバーの羅列でつなぎの芝居みたいなものがあまりないので、そりゃ歌は上手いから歌詞は聞き取れて意味もわかるんだけれど、それでもそこで歌われていることをどう解釈したらいいのか、ということが観ていて私にはよくわからなかったのです。そもそものウィーン版はもっとオペラチックなもので、これでもイケコがだいぶ芝居を足したとということですけれど…それこそ『ロクモ』も観たし史実とかうっすらした知識、イメージは持っているつもりですが、それでもこの舞台の中ではどういうこととしていて、そしてどんな物語を展開しようとしているのか?ってことをつかみたいじゃないですか。
 大司教が子飼いの芸術家に働かせて自分の名誉を高めようとしている、というのはわかる。レオポルドがリーマン根性で雇い主にへこへこして、息子のことは束縛しようとしている、というのもわかる。ヴォルフがそれを嫌って逃げ出そうとする、のもわかる。
 でも、で?って感じじゃないですか? この父親はなんでこんなに口うるさいの? こんなに息子を抑圧して何がしたいの? 同じ芸術家として嫉妬があるってことなの? でもそんな説明ありませんよね? そしてヴォルフはなんでせっかく出ていったのに戻ってきたりまた出ていったりするの? あたたかな家庭みたいなものに対する渇望があったってこと? でもそんなキャラか? 父親に認められたい、という思いはわかるけど、こんなに話が通じないのになんで捨てちゃわないの? 全然説明も描写もないですよね?
 そして悪妻と名高いコンスも、別にこの物語のヒロインじゃないよね…ヴォルフのどこが好きでどこが好かれて結婚したのか全然わからないし、なんでその後上手くいかなくなってダンスはやめられないになるのか全然わからない…あとアバンとか2幕アタマの墓掘りシーン、何?
 アマデが才能とか芸術家としてのモーツァルト、みたいなものだということはわかります。対して青年ヴォルフは普通の人間っぽい部分ってことなのかもしれないけれど…でもなんか、ふたりがそんなに愛憎まみれるとか相反するとか、あんまなくない? 「影を逃れて」って、何?
 全体として、抑圧する親からの自立とか、芸術か世俗の幸福か、みたいな、何か明確なテーマやメッセージがありそうでない作品じゃないですかね、コレ…? ストーリーとしては結局単なる半生記なわけだし…ううーん、なので私は基本的には退屈しました。耳は楽しいんだけど、物語が、ドラマがないので心が動かなかったのです。
 この作品が大好き、大ファン!という方には申し訳ない…私はもしかしたらなんかすごく解釈違いをしているのかもしれません、すみません。








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