駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『あわれ彼女は娼婦』

2016年06月27日 | 観劇記/タイトルあ行
 新国立劇場、2016年6月24日18時半。

 中世のイタリア、パルマ。勉学に優れ人格的にも非の打ちどころがないと将来を嘱望されるジョヴァンニ(浦井健治)は、尊敬する老修道士(大鷹明良)に、類まれな美貌の妹アナベラ(蒼井優)を女性として愛していると告白し、修道士の忠告も聞かずにアナベラに気持ちを伝えてしまう。愛するがゆえに道ならぬ恋に身をゆだねるふたりの運命は…
 作/ジョン・フォード、翻訳/小田島雄志、演出/栗山民也、美術/松井るみ。マリンバ/中村友子。1632年初演の、いわゆるエリザベス朝演劇の一作。全2幕。

 タイトルは聞いたことがあって、興味はあったのですがチケット入手まで動かないでいたところ、お友達にお誘いいただいたので出かけてきました。舞台を横切る大きな十字がこちらの方にまっすぐ伸びる下手奥の席で、たいそう観やすかったです。お世話になりました。
 私は弟がいるので、実感的にもまた妄想的にも、近親相姦なるものは全然ありえるだろうけれどそれは恋愛なんかとはまた全然違うもっと別の何かであって、家族として小さいころからともに育っていたら「美しいから好きになりました」なんてことはありえない、と考えています。離れて育って他人として再会して恋に落ちる、とかならまだしもね。
 なのでそのあたりの設定はどうなっているのかと思っていたら、のっけからあっさり恋心を告白し合ってまとまってから始まる話なので、なんかリアリティないなあ、とちょっと心が離れかけました。やたら詩的で冗長にすら感じられる台詞も、主人公たちに感情移入できれば耐えられるだろうけれど、これでは…と気が遠くなりかけたのです。
 けれども、私はこの話を単なる近親相姦の話かと思っていたのですが、意外に他にも登場人物が多く、そのキャラクターやドラマで回していくけっこうベタで下世話な話で昼ドラチックで、それがわかってからはすっかり楽しく観ました。当時も今も、これは別に「近親相姦が許されるのか否か」みたいな辛気臭く説教臭い話ではなくて、欲にまみれた人間たちの悲喜劇、みたいに受け取られるべき作品なのでしょう。滑稽で、皮肉や風刺にあふれていて、おもしろかったです。
 アナベラの求婚者のソランゾ(伊礼彼方)とその元カノ・ヒポリタ(宮菜穂子)、その夫リチャーデット(浅野雅博)と姪フィロティス(デシルバ安奈)、ソランゾの従者ヴァスケス(横田栄司)と、この筋だけでもこんなにキャラクターがいて、ドラマがてんこ盛り。
 求婚者は他にグリマルディ(前田一世)とバーゲット(野坂弘)、そこにバーケットの叔父ドナード(春海四方)と召使ポジオ(佐藤誓)、兄妹の父フローリオ(石田圭祐)にアナベラの乳母プターナ(西尾まり)と、他の筋にも多士済々。そしてみんな癖のある、聖人なんかじゃない人間たちです。
 だからといって、では禁断の恋に身悶えている兄妹が純粋で美しく見えるかというと、意外にそうでもないところがまたよかったと私は思いました。特別醜いとか愚かということはないけれど、普通の男女の恋人同士のように浮かれていて愚かで浅ましく視野が狭く、打算的で弱い。そういう人間臭い人間たちが織りなす、人間臭い物語でした。
 だから、冒頭で私が教条的だわ事なかれ主義で役立たないわですぐ嫌いになることに決めた老修道士しかり、ラストにタイトルを台詞として言う枢機卿(中嶋しゅう)しかり、聖職者たちの人間臭さというか宗教家にあるまじきダメっぷりには、わかっていても怒りたくなりましたけれどね。こんな坊主に断罪されたくない、と心底思いました。
 タイトルの「娼婦」というのは適切な訳語とは言えず、けれどこの時代には女性の区分として娘(処女)と、妻ないし未亡人(母)と、それ以外、しかなくて、この三番目のところに未婚で身ごもった女や子供がなく離縁された女、プロの売春婦といった女性が入れられていて、そこにあえて日本語をはめるとすればこの言葉しかないのだ、とかなんとかいった解説を読んだことがあった気がします。要するに一般的(とされている)な婚姻関係から逸脱し疎外された女、ということですね。今となってはちゃんちゃらおかしい区分であり、当時ですらそういう視線はもちろんあったことでしょう。女の本質なんて娘であることと妻であること以外のところにこそあるようなものなのですから。誰から産んでもらった気でいるんだろうね世の男どもは?
 だからこれは、兄弟だけど純愛、みたいなことに涙するような作品ではなくて、人の世の哀れさ、悲しい愚かさに薄笑いしつつやがてしょんぼりして観るような、しみじみと悲しくおかしい作品なのではないかな、と私は思いました。おもしろかったです。

 ウラケンは毎度、ちょっと朴訥で生真面目な好青年を演じている気がしますが、今回もニンで好演でした。
 蒼井優ちゃんは声がホントいいよね、そして立ち姿や身のこなしなど佇まいが音楽的で美しい。すっごい美貌の美人女優さん、とかではないと思うのだけれど、少女らしさといい舞台でのあり方といい、美しさが十分に表現できる女優さんだと思います。
 伊礼くんはまたいい感じの恋敵役でよかったです。しかしトータルで物語の主役かつ勝者だったのはその従者ヴァスケスでしたよねホント! いい暑苦しさだったわー、鮮やかだったわー!! してやったり、って感じだったろうな、と思いました。
 みんなさすが芸達者揃いで、美術も照明も音楽も美しく効果的で、いい舞台になっていたと思いました。さすが時代を超える作品は違うなあ、と底力を感じました。



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宝塚歌劇雪組『ドン・ジュアン』

2016年06月26日 | 観劇記/タイトルた行
 神奈川芸術劇場、2016年6月22日13時。

 アンダルシア地方、セビリア。スペイン貴族ドン・ルイ・テノリオ(英真なおき)の跡取り息子でありながら、酒と女に溺れ、悪徳の限りを尽くす放蕩息子として悪名をはせるドン・ジュアン(望海風斗)は、夜毎、女たちとの情事に耽っていた。今宵の相手は誇り高き騎士団長(香綾しずる)の一人娘。事態を知った騎士団長は逢瀬の場に踏み込み、ドン・ジュアンに決闘を申し込む。戦いの果て、剣の腕にも優れるドン・ジュアンに敗れた騎士団長は「おまえはいずれ愛によって死ぬ、愛が呪いとなる」という予言を残して凄絶な最期を遂げるが…
 作詞・作曲/Felix Dray,潤色・演出/生田大和、音楽監督・編曲/太田健。2004年にカナダで初演された、フラメンコをベースに「ドン・ジュアン伝説」を舞台化したフランス産ミュージカルの日本初演。全2幕。

 だいもんの歌唱力あったればこそのザッツ・フレンチ・ミュージカルで、それはそれは豊かな楽曲とすばらしい歌唱に酔いしれました。KAATがまた耳にちょっとうるさく感じるくらい(音量的な意味ではなく)音響がいいもんだから、ホントに圧倒されました。
 ただ、毎度毎度の一言居士で本当に申し訳ありませんが、これでも芝居パートを大幅に足したのでしょうがそれでも私にはもの足りなかったです。スターの歌やダンス、舞台のイメージだけで酔える観客ももちろんたくさんいるとは思うのですが、私は「物語」を求めるタイプなので、音楽の豊かさに比べて芝居の台詞が痩せていること、そもそも芝居のしどころが少ないことやストーリーとして整合性に欠ける印象だったのが、とにかくもったいなく感じたのでした。
 何より、気持ちよく泣きたかったのに、泣けなかったのが残念なんですよね。たとえば輸入フレンチ・ミュージカルの嚆矢となった『ロミジュリ』では初見時の私は一幕ラストですでにダダ泣きでした。それはお話を知っていて、こんなに美しいふたりがこのあと死ぬハメになるなんて、という悲しさに泣いたので、ストーリーを知らずに観た今回とはまた条件が違うかもしれませんが、ぶっちゃけ私には終盤で主人公が何と戦っているのかよくわからず、何が争われているのかもよく追えなくなってしまって、結果彼が死を迎えてもそれが彼にとってどういう意味をなすものなのか捉えきれず、かわいそうにと泣くこともよかったねと泣くこともできなくて、それが残念だったのです。
 何故なら私は彼のために泣きたかったからです。喜劇なら主人公のためによかったねと泣き笑いし、悲劇なら主人公のためにかわいそうにともらい泣きしたい。それが私が舞台に、物語に求めるものなのです。
 ホント、毎度「自分が観たかったのに観られなかったもの」の話ですみませんが、以後、「こうだったらもっとよかったんじゃないの?」という話を長々書きます。もちろんあくまで私にとって、なんだけれど、少しは汎用性もあるんじゃないのかしらん?とも思ったりもしています。でも一度しか観ていないので私がきちんと把握できていないことも多いでしょう、すみません。いや、今の段階でかなりのハイ・クオリティな舞台であることも、すでに今の形で十分感動している観客が多いことも承知なのですが、それでも。だからこそ。
 生田先生も考えてみていただければ幸いです(読んでる前提かよ、怖!)。

 プロローグはすばらしい。というか今回、装置や照明が本当にいいですよね。ちょっと長く感じないこともないんだけれど、騎士団長に愛の呪いをかけられる(?)顛末がしごく上手く語られます。ここまでは、まあアバンみたいなものかな。
 さて、呪いをかけられてもそんなことには頓着せず、あいかわらずな日々を送っているドン・ジュアンですが、そこに「妻」を名乗るエルヴィラ(有沙瞳)が現われます。まずこのあたりが説明不足で、観客に補完を強いるようなのが気に食わない。そもそも設定や状況を説明する台詞は、少ないよりむしろ過剰なくらいの方が良くはないですかね? ちゃんと語られてたって聞き逃したりするもんなんだからさ。だけどハナからなくて、「???」とこちらが考えさせられるのは負担なんですよ、言い方がアレかもしれませんが私はもっと舞台をラクに観たいのよ。だいもんの色っぽさとか女たちのしどけなさとか、見なくちゃいけないものが他にたくさんあるんだからさ。
 で、そのエルヴィラですが、どうやら修道院育ちの貴族の娘で、でもどこかでドン・ジュアンと出会って、彼が興味を持って引っ掛けたんですよね? でもエルヴィラはお堅い娘だから結婚すると約束されないと修道院を出てこないし身を任せもしなかった、だからドン・ジュアンは結婚すると嘘をついて、彼女を抱き、そして飽きて捨てた、ということですよね? その経緯をもっと上手くかつクリアに表してもらいたいものです。今の状態ではエルヴィラの言う「結婚」が単なる口約束の戯言なのか、はたまたふたりが実際に教会できちんと式を挙げたということなのか、よくわかりません。
 もちろんエルヴィラはウブだから、「やることやったんだから私はもう彼の妻よ」という意味で言っている部分もあるんだけれど、そしてそれに対してヒメたちが「やることやってるってだけならここにいる女みんながそうだよ、プークス」ってなってるんだけど、それとドン・ジュアンが本当に彼女と「結婚」したのか、エルヴィラは本当に彼の正当な妻なのか、というのは別問題だし、ここはもっとクリアにしておかないとダメなのだと思うのですよ。ドン・ジュアンに夫として彼女に向き合う義務があるのか、それとも単にエルヴィラがだまされているだけなのかきちんとわからないと、続くストーリーが進むべき道わ観客も想定しづらいでしょ? スタート地点が肝心なのです。
 たいした台詞の数じゃないしそんなに尺は取りませんよ、こういうところの脚本力を生田先生にはぜひもっと身につけていただきたいです。

 一方で、若者たちが兵士として戦場に赴くことになり、恋人たちと別れのときを惜しんでいます。ここのマリア(彩みちる)とラファエル(永久輝せあ)の関係の説明も足りなかったなー。
 おそらくふたりは幼なじみで遊び仲間で、仲間内ではカップルというかコンビ扱いされていて、もちろんラファエルの方はマリアが好きでマリアも自分のことを好きでいてくれていると思っていて、将来自分たちは結婚するものだと思っている。だから出征を機にプロポーズする。
 でもマリアの方では、そりゃラファエルのことは嫌いじゃないしみんなが自分たちをカップル扱いすることを意識もしていたけれど、自分が本当に彼を好きで彼と結婚したいと思っているかというと今ひとつ自信がなくて気持ちは宙ぶらりんで、そんなことより興味があるのは彫刻で、女が彫刻なんて外聞が悪いかもしれないけれど好きでやめられなくてやっとちょっと認められてきて…ってことなんじゃないの?
 繰り返しますが、こういうことをもっと上手くかつクリアに台詞や芝居で説明してほしいのです。これはすべて私の想像で、今は不確定なことが多くて想像や補完を強いられている気がするのです。ヒロインのスタート地点の立ち位置の解説はものすごく重要ですよ、それを踏まえて主人公とのラブが始まるのですから! ここ、試験に出るからね生田くん!!
 未だ真の意味での愛や恋を知らない少女であるマリアは、「愛してくれる人に応えるのが愛」という周りの助言を受け入れて、ラファエルのプロポーズを受け入れます。でもそこに疑問やとまどいがないわけではない。さらにそこに待ち望んでいた大仕事の依頼が来て舞い上がり、けれどラファエルにとがめられて、結婚までの最後の仕事にするからと言って引き受ける。
 このあたりも、そもそもこの時代のこの国において女性が職業彫刻家として生きることの意味を説明してくれないと、単にマリアがワガママなのかそれともラファエルが女を縛るドメ男なのか、わからないじゃないですか。ちゃんと説明してください。ここ、わりとマジで大事ですよ生田くん!

 さてドン・カルロ(彩風咲奈)はドン・ジュアンの「妻」エルヴィラをドン・ジュアンの父ドン・ルイに引き合わせ、助言を乞うよう勧めますが、これは脚本の問題とはちょっと違うんですけど、このドン・カルロってキャラクターはなんなんでしょうかね?
 プログラムに「ドン・ジュアンの数少ない理解者」とあるのは、正しくありませんよね? だって彼はドン・ジュアンのことを何ひとつ理解していませんからね?
 ただ、学友か幼なじみではあったのだろうし、少なくともドン・カルロの方は自分をドン・ジュアンの友人だと思っていて、彼の不品行を正そうと無駄な骨折りをしているわけですが、いつしかエルヴィラに対して「他言する事の出来ぬ淡い想いを募らせていく事になる」そうなのですが、ホントかな?
 なんかそんなような歌詞の歌も歌っているんだけれど、咲ちゃんの芝居からはそんなニュアンスは私には感じられず、もっと抽象的な何かを歌っているのかと私は思ってしまいました。というか、ドン・カルロがエルヴィラを好きになる必要性ってあります? 自分が正しくない恋をするようになってドン・カルロのことをより理解できるようになった、みたいな流れがあるならともかく、そんなんじゃないじゃないですか。彼はずーっと首尾一貫してドン・ジュアンに「悪いことはやめろ」と言っているだけのただのつまらない男ですよね? ならこの恋、いらなくない?
 むしろより自然なのは、ドン・カルロって要するにドン・ジュアンが好きなんでしょ?って方向のラブ矢印なんじゃないのかな? 潜在的、精神的ホモセクシュアルですよね。優等生がグレた友人を心配し正そうとする、彼の周りから悪い女たちを追い払おうとする、それはすなわち自分が、自分だけが彼の相手に、もっと言えば彼の「女」になりたいからですよね? 無意識かもしれないけれど、すごくわかりやすい心理だと思います。
 ドン・カルロがドン・ジュアンに押し倒されるような振り付けもあるんだから、もっとそっちで作るべきだったんじゃないの? そこにも萌えの泉はあったんじゃないの? でもそんなふうには演出されていないようだったし、咲ちゃんの芝居からもだいもんラブ(語弊があるな)が見えない気がして、私はすごくもったいなく感じました。
 主人公の親友(形としては、一応)で物語の狂言回し的存在、というのは絶好の二番手ポジションだと思うのだけれど、それでも咲ちゃんとひとこの配役を逆にした方が、ひとこドン・カルロならだいもんに抱かれたいオーラが出てそうで(ますます語弊あるな)よかったんじゃないの?という気がしました。主人公の恋仇であり決闘相手、というラファエルもかなり大きな役ですし、咲ちゃんにやらせてこちらがちゃんとした二番手に見えるようにすることはできたでしょうしね。
 というか今回、私が咲ちゃんにあまり感心しなかったのが大きかったのかもしれません…斉藤一はカッコよかったのになー。あのときのままの低い声で台詞をしゃべるのも、ドン・カルロにはふさわしくない気がしました。もっと弟キャラに作った方がよかったのではないかしらん? このあたり、生田先生はどんな演出プランで、どんな演技指導をしたのでしょう…
 なんかちょっとハマってなく見えて、残念だったのでした。

 で、実家に呼ばれても父親の忠告なんか聞くわきゃないドン・ジュアンなのですが、では何故そんななのかと言えば、ということで展開される回想場面というかそのイメージシーンですが…私はちょっとびっくりでした。
 一度しか観ていないのでそもそもよくわかっていないのかもしれませんが、結局アレはどういうことだったの? 少年ドン・ジュアン(野々花ひまり)が母親(白峰ゆり)を誘惑したってこと? それとも母親が息子を誘ったってこと? それとも襲ったってこと? 未遂なのなんなの? 母親は自責の念にかられて自殺したってこと? それをドン・ルイは知ってるの? この母子は実の親子なの? 血のつながった母親がいくら美貌でも息子に手を出すとかありえるの?
 近親相姦への嫌悪感とかスミレコードとかよりも、宝塚歌劇の観客の大半は妙齢女性で息子の母って人も多かろうに、そういう人々に不快感や不安感を与えるような設定にするのはエンタメとして得策じゃないんじゃないの? イメージ処理であっさり最低限やるだけにしても、傷はけっこうデカくないですかね? 私は驚いたし理解できなかったしリアリティも感じられなかったので、けっこう引きずりました。繰り返しますが私はもっとラクに舞台を観たいんですよ、無駄にザラついたことしなくてもよくない?
 もちろんドン・ジュアンがグレグレ放蕩息子になる原因のエピソードなので、大事だし強烈でないといけないんだけれど、最大限のデリカシーが発揮されるべき場所だとも思うのですよ…私は、ザワついて、疲れました。

 そんな過去もあって、ドン・ジュアンはやっぱり今日も今日とて酒場にいて女たちと戯れ、つきまとうエルヴィラのことなんか鼻も引っ掛けず、アンダルシアの美女(煌羽レオ)を抱いたりしている。細かいところですがここでエルヴィラが言う「そんな裸みたいな格好の女と抱き合うことがそんなに楽しい?」みたいな台詞は、あんたはやることやるとき服も脱がなかったの?とちょっと引っかかりました。自分との行為を否定するように聞こえかねないじゃないですか。違う形の悪態、揶揄を口にさせるべきだったんじゃないかしらん。それとも以前のエルヴィラはやることやるときも服を脱がず、でも今なら私だって脱げるわよ悪いことができるのよ、とつなげたいなら、そう流れるように整えてほしいです。
 で、騎士団長の亡霊が現われて、愛の呪いをかけるというか、考えようによってはほとんどキューピッドのように、ドン・ジュアンをマリアの工房に引き寄せます。ここのだいもんはすばらしいですね! というかとにかくがおりは全編すばらしいよね!! 今回のMVPだよね、なかなかこうまで演じられる人はいませんよね。
 ここのみちるちゃんもすばらしい。ちゃんとドン・ジュアンに惚れられるのが納得のマリアになれていました。好きなことに一心不乱に打ち込むマリアの姿は美しく、でも「美しい」と言われたら笑い出しちゃうような自分への無頓着さと、明るい朗らかさにあふれています。そういう清純なものにドン・ジュアンは初めて出会ったのでしょう。だから彼は恋に落ちたのです。
 普通のラブストーリーなら主人公がヒロインに出会うまでが起承転結の起であるべきなので、ここまでの展開はややスローなのだけれど、これはだいもんありきの公演で一幕はだいもんの下衆っぷりを楽しく鑑賞するためにあるのでしょうから、まあいいのでしょう。
 でもこの時点ではマリアはまだドン・ジュアンのことはなんとも思っていませんよね? だから続く戦場の場面は飛ばして除幕式の場面ですが、ここの展開の唐突さはなんとかしていただきたかったです。
 決闘で相手を殺してもそれで殺人の罪に問われることはないようですが、外聞が悪いことではあるのでしょうし、そのためにドン・ジュアンは街の人々から歓迎されないでいるのでしょうが、確かにそれは考えようによっては不当なことです。純粋で公正で正義感あふれる少女であるマリアは、そこに怒り、ドン・ジュアンを遠ざけようとする街の人々に抗い、人間より彫像の方が大事だということなどあってはならないという信念のもと、自分の最後にして最高傑作の彫像を打ち壊してみせたのではないでしょうか? その姿にドン・ジュアンは改めて打たれ、そのとき初めてマリアの心にも彼への愛が芽生えたのではないのかしらん?
 でもそういうふうには流れていませんでしたよね? マリアはなんだか急にドン・ジュアンのことを好きになっていて、いきなり彫像を打ち壊しましたよね? 婚約者に反抗してまで得た大仕事、最後の作品だったというのにあっさりと、ねえ? おかしいじゃん。もったいなさすぎですよ…

 二幕。ラファエルは戦場で仲間を大勢失って帰還します。でも出迎えの中にマリアはいません。マリアはドン・ジュアンとの愛の巣ですっかりしっぽり(笑)していたのでした…
 なんなのここのラブラブの拾われた子猫モードの甘えん坊だいもんは! グレて街を彷徨っていた捨て猫姿は仮のものだったのね!! いやぁベタですばらしい、まっ白いお衣装になっちゃうところとかもすばらしい。ドン・ジュアンはやっと愛を知ったのでした。
 海が見える家で云々、のくだりで、ドン・ジュアンが家に工房を作ろう、きみはそこで好きなだけ彫像を彫ればいい、みたいなことを言ってもいいかな、とも思ったのですが、マリアの中での仕事への情熱がどういうものなのか、この時代の男性がそれを認めることがありえることなのかどうか、よくわからないので、まあここはスルーでもいいですかね。
 ともあれこのままでは問屋が卸さない、エルヴィラとラファエルがやってきて、ドン・ジュアンとラファエルは決闘することになります。
 ここからが実は私が一番ネックだったところでした。マリアにラファエルという婚約者がいたことを知って、ドン・ジュアンが逆上する、それはわかります。でも本当のところ彼は何に怒っていたのでしょうか? 私にはそれがよくわかりませんでした。
 婚約や結婚が口約束にすぎないということがありえる、ということは彼自身が身をもって知っているじゃないですか。あるいは自分のことは棚に上げて、相手にはまっさらの貞潔を求める、というのはわかる。でもだとしたら、そういう台詞を彼に言わせてほしかった。よくある陳腐なやつでいいんですよ、「俺に向けたあの笑顔を、あいつにも向けたのか? 俺に抱かれて見せた姿態を、あいつにも見せたというのか?」みたいなヤツ。
 もちろんマリアがラファエルをドン・ジュアンを愛したように愛したことなどなかっただろうし、おそらく彼女はまっさらの処女だったのでしょう。でもそういうことじゃないんだよね、ドン・ジュアンにとっては彼女の全部が完全に自分のものでないことがダメだったんだよね。でもそんなことはありえないのです。どんなに愛し合っていても、所詮相手は他人なのだから。他者だからこそ愛し合えるのだから。自分が所有できない部分も含めてすべて愛せてこそ真の愛なのだから。たとえ過去に何かがあったのだとしても、それも許せてこそ真の愛なのだから。
 でも愛初心者のドン・ジュアンにはそんなことは理解できない、だから猛り狂い決闘に突っ走るんですよね? でもそうは流れていない、それがもどかしい。
 彼の苦悩がそこにあるときちんと表現されていないと、決闘の行方に興味が持てないのです。主人公だから当然勝つんじゃない?とか、貴族の子弟で剣の腕もたつというからまあ彼が勝つんじゃない?としか思えない。親身になって心配できない。ドン・カルロたちは彼の勝利は疑わず、しかし彼が人殺しになることを案じて決闘を止めようとしますが、騎士団長のときと同様に決闘による殺人は公式の罪には問われないのだろうし、ドン・ジュアンは人を殺すことなんかなんとも思っちゃいません。そんな心配は必要ないのです。
 でも観客はここで心配しなきゃダメでしょ? 決闘に突っ走るドン・ジュアンのことを、決闘なんてやめて、そんなことをしてもなんの解決にもならないわ、誰も幸せになれないのよ、って思って心配して身悶えしないと、観ていて盛り上がらないでしょ? 演出家としてそう誘導すべきでしょ生田くん?
 彼は愛を疑ってしまった、マリアの愛を疑い信じられなくなってしまった、そもそも自分なんかが愛されるはずがないとすら思い至ってしまったのかもしれません。決闘でラファエルに勝って彼を殺しても、その疑いは解消されない。彼は幸せにはなれない、だからこの決闘は無意味だし、彼が勝つとも限らなくてラファエルに殺されてしまうかもしれないのだからやめた方がいい、だって私たちは彼を愛しているから、ドン・ジュアンに生きていてほしいと思っているから…!と観客は思って、ドキドキしながら物語の行く末を見守る、ここはそうなるべきくだりじゃないですか。でもそうなっていない、ここが最大に引っかかりました。
 ドン・ジュアンが決闘に何を求めているのか、私には見えませんでした。だからどうなることが彼にとっていいことなのか悪いことなのかも判断ができず、結果私の心は動かずに固まったままただ舞台を眺めるだけになってしまいました。
 ラファエルの方はいいの、脇役だから。彼がマリアの心変わりをどう思っていたのかとか、決闘で本当に彼女を取り戻せる気でいたのかとか、単に男のプライドを賭けただけのくだらない決闘だったんじゃないのかとか、だから彼にとってもこの決闘はいろんな意味で最初から不毛な負け戦だったんじゃないかとか、そういうことはすべて不明瞭ですが、脇筋だからいいのです。でも主人公の心理は追えなきゃダメでしょ、観客を主人公に寄り添わせて物語を追わせなきゃ、そういうふうに誘導できなきゃダメでしょう演出としては。
 だから、実際の舞台で、何が起きてドン・ジュアンの方が死ぬことになったのか、それが彼にとって何を意味していたのか、すみませんが観ていて私には上手く理解できなかったのでした。
 話の流れとしては、やはりドン・ジュアンは死ぬべきだったでしょう。でも彼の方がラファエルより剣の腕が立つということだったし、実際に途中までは彼の方が優勢でした。だからなんらかのアクシデントがあって、彼の気が逸れた隙に、瀕死のラファエルの起死回生のひと突きが彼の心臓を捕らえて、彼を死に至らしめたのだ、とするべきだったのでしょう。
 そのアクシデントとはなんであるべきか? キモはマリアですよね。私だったら、彼女に彫刻刀を自分の胸に向けて打ち付けさせます。彼女は決闘を止めようとして、ドン・ジュアンに自らの潔白を、愛を信じてもらおうと必死なはずだから。彼に信じてもらえないなら死んだ方がマシだと考えるはずだから。だから身の証しとして、また決闘を中断させるために、自分の命を犠牲にしようとするのではないでしょうか。
 それにあわてたドン・ジュアンの気が一瞬逸れて、そこにラファエルの刃が突き刺さった…ドン・ジュアンがマリアの愛を真の意味で信じられるようになったときにはもう遅く、彼の命の火は消えた。愛の呪いは成就した。
 …これはそういう物語であるべきだったのではないの?
 やっと真実の愛を知り、しかしそれと同時に息絶えたドン・ジュアンのために、人々が薔薇を手向ける。ドン・ジュアンが歌う「シャンジェ」、人は変われる、愛を知って人生を立て直すことができる、命ある限りは…そんなメッセージが観客の心に刺さり、観客は涙する。私たちに愛を教えて逝ったドン・ジュアンのために涙する…これはそんな舞台になるべきだったのではないかしらん?
 そこまで綺麗に組み上がっていたら、主演を選びこそすれ『ロミジュリ』同様に再演され続けていくに足りる名作たりえた、と私は思いました。いい素材だと思っただけに、もったいなくて悔しく感じたのでした。
 通って何度も観ていればまた違うのかもしれませんが…あくまで私の考えにすぎませんが、それでも。

 フィナーレはなくても十分でしたね。
 でもパレードは不可解でした。何故ヒロインであるみちるがくらっちとともに、二番手の咲ちゃんの前に出てくるの? ちゃんとヒロインとして扱ってくださいよ、プログラムだってナウオンだってそういう扱いだったじゃん。あくまでくらっちとダブルヒロインでバウヒロカウントしないということなら、プログラムもナウオンもそういう扱いにしなきゅおかしいじゃん。整合性がない。こういうことが私は本当に大嫌いなのです。
 そりゃくらっちには一日の長があり、難しい歌はみんな彼女が歌って、難しい役どころをこなしていました。上手すぎるきらいがあるから白いヒロインが回ってきづらそうで気の毒だなと思いますが、大事にしてほしい娘役さんだと思っています。
 でもそれはそれとして、今回はドン・ジュアンの相手役であるマリアにみちるを配したのだから、彼女こそが純然たるヒロインでしょう。何故だいもんの直前に出さないの? 意味がわかりません。不当です。許しがたい。
 DCでは変更があることを切に願っています。スターピラミッドや番手制度が厳然とある宝塚歌劇において、こんなことしても誰のためにもなりません。本当にやめていただきたいです。プンスカ。

 どなたかがつぶやいていましたが、宝塚歌劇はオリジナルあてがき新作を作っていく一方で、海外ミュージカルの輸入翻案もしていくべきで、西洋文化圏での男女のドラマを宝塚コードに変換して上演していくことには意義がある、というのには賛成です。
 そしてゼロから作るより足したり引いたりいじったりして整えるほうがまだラクなはずなんだからもっとがんばってくれ!とも言いたい。毎度うるさいファンでホントすみません。でもいい作品に出会えてよかったです。








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シス・カンパニー『コペンハーゲン』

2016年06月24日 | 観劇記/タイトルか行
 シアタートラム、2016年6月19日13時半。

 1941年、秋のある日。ヨーロッパは第二次世界大戦の只中にあった。ドイツの物理学者ハイゼンベルク(段田安則)は、かつて師と仰ぎ、ともに研究に従事したデンマーク人の物理学者ボーア(浅野和之)とその妻マルグレーテ(宮沢りえ)に会うために、デンマークの首都コペンハーゲンを訪れる。コペンハーゲンはナチス・ドイツの支配下にあり、ユダヤ系であるボーアはナチスの監視下にあった。ハイゼンベルクにしても自由な行動は許されていない。そんな中で、何故ハイゼンベルクはリスクを冒してボーアの元を訪ねたのか…
 作/マイケル・フレイン、翻訳/小田島恒志、上演台本・演出/小川絵梨子。1998年イギリス初演、2000年ブロードウェイ上演(トニー賞受賞)、2001年日本初演、2007年再演。2013年にはベネディクト・カンバーバッチのハイゼンベルクでラジオドラマ化もされた、スリリングな人間ドラマ。全2幕。

 私は段田さんと浅野さんの大ファンなのでほとんどキャストだけで手配したチケットで、どんな話かまったく知らなかったのですが、このタイトルはデンマークの首都名というより「コペンハーゲン解釈」のコペンハーゲンだったのか…!と着席してプログラムをざっと眺めて初めて知って、驚愕しました。そんな体たらくですみません。
 実は私の大学での専攻は素粒子物理学だったので(超劣等生でしたが…私の学力のピークは共通一次受験時点でした)、ボーアもハイゼンベルクもパウリもフェルミもシュレディンガーもアインシュタインも、その定理や方程式や仮説や理論や発見やを確かに勉強しましたし、魅了され感動した記憶があります。でも彼らがいつの時代のどこの国の人で、どう生きたかといったことについては、科学史みたいなものは勉強したかもしませんが、今現在の世界、社会につながるものとして意識することがなかったように思います。先日オバマ大統領が広島を訪問したばかりであり、「空から死が降ってきた」というような表現に留めましたが要するにそれは原爆のことでオッペンハイマーが作ったものでそれを落としたのはアメリカというか連合国で…といったことに私も思いをはせたりはしましたが、この物語がよもやそこにつながるものだとは考えもしなかったのです。
 彼らはあの時代のヨーロッパに生き、ナチス・ドイツ支配下の国に暮らし、ボーアはユダヤ系デンマーク人でありマルグレーテはユダヤ人だったのでした。そのことが何を意味するかは、さすがに私でもわかります。まさしく胸とどろかせながら観劇しました。恐怖と、不安と、舞台のおもしろさへの高揚、畏怖、ときめきとで。
 暗く、シンプルで、抽象的とすら言える装置が形作る舞台空間に現れた三人は、すでに死んでいるのだと言います。おそらくこれは現在で、彼らはすでに鬼籍に入っていて、しかし死してなお、亡霊となっても、未だに検証がやめられないのです。1941年の秋、コペンハーゲンでのあの一日に、何が起き、何が語られたのかを再現し、確認しないではいられないようなのでした。
 彼らには当時自分に見えたこと、自分が感じたことしかわからない。真実は、真意は、違ったところにあったのかもしれない。結果は違うものにできたのかもしれない。だから再度、再現してみようとする、検証し確認しようとする。
 再現は、舞台でなら無限にできます。同じことでも違ったように見える、というようなことも表現できます。でも、歴史は変わらないのです。それは現代に生きる私たちが身をもって知っていることです。彼らがあの日何を話しどうしたのだとしても、現実に連合国が原爆を作り、広島と長崎に落としたのです。それは変わらない。
 それでも検証が止められない人間の心理があること、それが端正で緻密で美しい舞台として目の前で上演されていること、それをオバマが広島に来たほとんど直後の現代日本に生きる日本人である自分が観劇していること、不確定性理論からこういう演劇を創作してしまう劇作家が存在することに、私は震えました。
 事象は観測されて初めて確定され、その瞬間にそれ以外のすべての可能性が消え、ありえた未来も宇宙も消失する。その残酷さの文学的な意味を見せつけられた気がしました。勉強したときには、それは科学的な大発見でありまたしごく哲学的な洞察であると思えて、その美しさとロマンチックさに感動したのですが。
 また別の言い方をすれば、観測者は観測してその事象を確定させるけれど、それはその観測者にとってのみのその事象にしかすぎず、別の観測者は同じ事象を観測しても別の事象として捉えていて、事象そのものの真実、みたいなものは存在しません。そういう意味で不確定なのです。すごく文学的な、科学上の真理。そして観測者自身には自分が観測できないという矛盾。日々の暮らしにおいて文理の区別を無意味に思うことは多々ありますが、この演劇、観劇体験はその最たるもののひとつだな、と感じました。

 この戯曲を書いたフレインはこの作品について「あまりに抽象的すぎるから実際に上演されるとは思ってなかった」と言ったということですが、まあ冗談だったのでしょうね。もちろん元の戯曲を読んだわけではないので本当を言えば私には判断できないのですが、作品はこうして世界中で何度も上演されています。聞いた話によれば日本初演のものと今回のものとはけっこう印象が違うようでもあるし、イギリスで制作されたドラマ版はオール・ロケによるその具体性がかえって作品を限定的にしていた、と今回の演出家がプログラムで語っています。この作品はいろいろな表現で語られ続け、観る者に人間や世界について何かを考えさせ続けるのでしょう。
 役者もみな台詞が明晰で、演技は時空を軽々と飛び越え、素敵な舞台に仕上がっていました。観られてよかったです。

 ひとつだけ言うなら、段田さんと浅野さんは父子のような師弟、というような年齢差があるようには見えなかったので、私だったらハイゼンベルクはもっと若い役者に演じさせて、ふたりの間にプロマンスっぽい空気が見えなくもない、くらいに仕立てるかもしれないな、とは思いました。女で、ユダヤ人で、科学者ではなかったマルグレーテから観測されるユダヤ系の科学者の夫とそのドイツ人高弟、というものは、そんなふうにも見えた面があったのではないかしらん、とも思ったりしたのでした。別に萌え舞台にしたいわけではないけれど、それこそ現代で上演されるならそういう要素が顕在化されるべきなのではないか?とか思ったり、したので。なんか言い訳がましい言い方ですみません…



 
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クリスティン・ハナ『ナイチンゲール』(小学館文庫)上下巻

2016年06月22日 | 乱読記/書名な行
 第一次大戦に従軍し心に傷を負った父親は、妻の死後、ふたりの娘に背を向けた。姉のヴィアンヌは当時14歳、妹のイザベルは4歳だった。やがて第二次大戦が勃発、フランスはナチに屈服する。出征した夫を待つヴィアンヌ家にはドイツ軍大尉が住み始め、一方イザベルはパリで対独抵抗運動に参加し、連合軍航空兵の逃亡を助ける秘密活動を始める。暗号名はナイチンゲールだった…

 ちょっとさくさく進みすぎかなあ、と思いつつスイスイ読み進めたのですが、下巻に入り戦況が厳しくなってから俄然おもしろくなった気がしました。要するに平時では単に気が合わないわがままな姉妹の話、という感じでどうにも興味が持ちづらかったのが、しんどい状況の中で必死にベターを求めたがんばる女たちの話になって、やっとおもしろく思えるようなったのだと思います。
 もっと重厚な表現で書いた方がいいような気もするし、現代パートの女性が姉妹のどちらなのかで興味を引こうとする試みも成功しているとは言いがたい気がしましたが、最後までおもしろく読みましたし、ラストは号泣しました。
 女は男にいちいち何もかもを言わない。息子の父親が誰かも言わない。言わないのは彼のためでもあるし自分たちのためでもある。言わなくてもなかったことにはならない。傷は癒えるけれど真実は存在し続け、愛もまた続く。感動的でしたが、だからこそ、やはり再びこんな思いをする者たちを生まないよう、戦争はなくさなくては、とも思いました。





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英国ロイヤル・バレエ団『ロミオとジュリエット』

2016年06月21日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 東京文化会館、2016年6月18日13時。

 ジュリエット/サラ・ラム、ロミオ/ワディム・ムンタギロフ、マキューシオ/アグリ瑠嘉、ティボルト/トーマス・ホワイトヘッド、ベンヴォーリオ/ジェームズ・ヘイ、パリス/平野亮一。
 音楽/セルゲイ・プロコフィエフ、振付/ケネス・マクミラン、全3幕。

 Kバレエで観たロミジュリの感想はこちら、チューリヒバレエのロミジュリ感想はこちら
 ロイヤルだと最近では『マノン』など、こちら
 
 キャピュレット・チームは赤を着てるけどモンタギュー・チームは特に青を着ていないんだな、とかついつい考えつつ、楽しく観ました。やはり美しい。バレエはいい。
 1幕がいわゆるバルコニー場面まで、2幕がティボルトの死までで、3幕はあっという間でした。マントヴァの場面がないので脳内で「どうやって伝えよう」を歌う暇がなかった…バレエではロミオはどこから毒薬をもらってくることになっているのだ(^^;)。
 ラストの霊廟ではロミオがパリスを刺しちゃってて(シェイクスピアの原作戯曲どおりだそうですが)、その死体がずっと舞台の端にあるので、なんかものすごく滑稽かつ哀れでした。
 ロミオが死ぬのは寝台の足下で、ジュリエットは寝台の上で息絶えるので、ふたりが美しく抱き合って倒れ伏すということもなく、もちろん天国場面もないので、全体としてものすごく、愚かな恋の哀れな結末、という仕上がりになっていた印象です。そのドライさが、またいいのかもしれません。『ノートルダム~』同様、今回もヒロインの死体っぷりが素晴らしかったなあ…
 パリスとの結婚を拒むジュリエットが、ふいっとトウで立って現実から顔を背け遊離しようとする振り付けが、とても印象に残りました。


コメント (2)
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