駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『ワーニャ伯父さん』

2017年08月29日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 新国立劇場、2017年8月28日18時半。

 大学教授を引退したセレブリャーコフ(山崎一)は都会暮らしに別れを告げ、若い後妻のエレーナ(宮沢りえ)を伴って、亡き先妻の実家である田舎屋敷に戻ってきた。先妻の兄ワーニャ(段田安則)は彼を崇拝し、四半世紀にわたって領地を切り盛りしながら彼ら仕送りを続けていた。屋敷では先妻の娘ソーニャ(黒木華)、ワーニャの母ヴォイニーツカヤ夫人(立石涼子)、隣人だった没落貴族のテレーギン(小野武彦)がワーニャとつましく暮らしていた。ソーニャは医師アーストロフ(横田栄司)に長年恋心を抱いていたが…
 作/アントン・チェーホフ、上演台本・演出/ケラリーノ・サンドロヴィッチ、美術/伊藤雅子。1899年初演、全二幕。シス・カンパニーがケラリーノ・サンドロヴィッチ演出でチェーホフの四大戯曲を上演する「KERA meets CHEKHOV」第三弾。

 第一弾の『かもめ』は観ていて、そのときの感想はこちら(ちなみに宝塚歌劇星組でのバウホール公演版の感想はこちら)。
 今回も、とてもチェーホフ作品のイメージどおりっぽい、田舎の鬱屈した家族の、みんながみんな愚痴っぽくてただただうだうだしていて、ちょっとした事件もあるけど基本的には何もなくて、そして誰もどこへも行けないというお話…なのですが、おもしろく観ました。人生ってそんなものよね、みたいな結論なんだけれど、シニカルではなくてユーモアとペーソスが漂っていて、静かで温かなあきらめという名の愛にあふれている…みたいな世界で。
 一幕はただただ日常の様子を積み重ね、二幕でちょっと波風が立ち、でもやっぱりまた何もなかった日常に戻って終わる…そんな構成でした。
 セリフが現代的というかいい感じにポップでライトで、場面転換などに挿入されるギター演奏(伏見蛍)の曲も軽やかなので、深刻で陰陰滅滅のどシリアス…みたいになっていないのがいいのかな、と思いました。
 確かにもっと漠然としたタイトルにすれば、もっとイメージが広がりそうなものなのに、不思議と地味すぎる印象を与えてしまっている作品ですよね。そしてワーニャはタイトルロールなのかもしれませんが、主人公は彼を「ワーニャ伯父さん」と呼ぶ姪のソーニャなのかもしれません。お芝居は彼女のセリフで締めくくられます。
 器量の悪い娘は父や後妻とともに都会へ出ていくことができず、田舎で領地と家族に縛られてただ年老いていくのだ…とまとめてしまうとあまりにあまりなのだけれど、でもたとえば自分がこの時代のこの国に生まれていたらそりゃエレーナにはなれずソーニャだったろうよとも思いますし、それで不幸だったとは必ずしも言えないのではあるまいかとも思うので、やっぱりなんとなく温かくしみじみとさせられる作品だよな、と思うのでした。
 最近では『エレクトラ』を観た横田さんの声がそりゃ良くて、山崎さんは上手いんだけどなんかいつもこんなような役をやっているなという気がして、それは小野さんもそうかもしれないんだけれど、そしてわざと小男に作っている段田さんがいじらしくて愛しく思えました。宮沢りえはこの役にしてはちょっと色気の蛇口を絞っちゃっているように見えてもったいなかったけれど、黒木華ちゃんと恋バナで盛り上がっていちゃいちゃし出したときにはテンションが上がりました(笑)。
 私は役者が役を降りる瞬間を目撃することがあまり好きではなくて、だから幕が下りて芝居が終わるタイプの舞台ではない場合、暗転の間に板付きの役者には一度ソデにハケてもらって、ラインナップがあるならライトが再び点いたときに袖からもう役を降りた顔で出てきてもらって挨拶、とかになるのが好きです。でも実はこのパターンはあまりなくて、暗転してお芝居が終わったあと再びライトが点くと、役者は暗転のときの位置のまま板にいて、そこで役を降りてラインナップになることが多いですよね。
 でも今回は、ソーニャが灯していた蝋燭の明かりを最後まで残して、残りの照明がゆっくりゆっくり絞られ、でもまだ小さな蝋燭の火は残っているからそこに残ったままの役者の姿形も顔もうっすらわかるんだけれど、でも「はい、終了」って声が聞こえるような瞬間が確かにあって空気が切り替わって、そこからまたゆっくり舞台が明転して、役者はその位置から立ち上がり、あるいはハケていた人たちは再び現れ、ラインナップになったのでした。その切り替わりが、ちょっとおもしろかったです。
 始まったばかりの公演ですが、淡々と深められていくことでしょう。企画のラストは『桜の園』だそうです。以前何かで観たことがあるとは思いますが、機会があればまた観てみたいです。


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宝塚歌劇雪組『琥珀色の雨にぬれて/“D”ramatic S!』

2017年08月28日 | 観劇記/タイトルか行
 梅田芸術劇場、2017年8月27日16時半。

 1922年、秋のある朝。パリ郊外にあるフォンテンブローの森を散策していたクロード・ドゥ・ベルナール公爵(望海風斗)は、神秘的な美しさを湛え大勢の紳士淑女を相手に自由に振る舞うひとりの女性と出会い、一瞬にして惹きつけられる。森の妖精のように軽やかな足取りで去っていく彼女をうっとり見送るクロードに、ジゴロのルイ・バランタン(彩凪翔)が声をかけ、女性の正体を明かす。シャロン・カザティ(真彩希帆)、絵や写真のモデルをしたりドレスの広告塔を務めるマヌカンである。ルイもまた密かにシャロンに想いを寄せていて、公爵であるクロードと彼女とでは生きる世界が違うとクロードに忠告する。だがクロードは反論し…
 作/柴田侑宏、演出/正塚晴彦、作曲・編曲/高橋城、吉田優子、寺田瀧雄。1984年の初演以来、何度も再演を重ねた四人の男女が織りなす恋愛心理劇。新生雪組のプレお披露目公演。

 ペイさんには間に合っていなくて、チャーリーのときはオサ代役版を観ています。そのときの感想はこちら、星組全ツ版の感想はこちら
 宝塚歌劇オリジナル作品として五指に入る好きな作品、高く評価している作品です。身分は高いが純朴な男と、身分はないが社交界の高嶺の女の悲劇のメロドラマ…どパターンですよ、でも大好き。そして素晴らしい四角関係構造、大好き。
 レトロだし感傷的だとも思いますが、特に全ツに向いている演目だとも思います。現代的な持ち味の生徒が多くなるとハマる役者が少なくなるかもしれませんが、技量として無理矢理育ててでも再演を続けていってほしい作品です。型があると言ってもいいくらい、ある種様式的なキャラクターと台詞が全部脚本にあるので、きっちり演じればいいだけの気もしますしね。もちろんそれでも出てしまうのが演じる生徒の個性であり特徴なのでしょうか…最近ならまぁ様で観たいと思っていた作品でした。もちろんだいもんにも似合うと思っていました。
 二番手時代は濃いギラギラした役で輝いてみせていましたが、トップスターとなると白い役ばかり回ってきがちなものです。でも似合うし十分やりこなせると思っていたんですよね。その期待どおりの、生真面目で優しくて穏やかでまっすぐで、でも困った坊やなクロードでした。
 プロローグはイメージのタンゴみたいなものだから別として、お話が始まってすぐ、本筋の何年後かのお店の場面で、思い出深い雨に会ってお店の女の子相手に似合わぬ軽口を叩くその様子が、ちょっと歳を取っておちついていて、なのにふいにはしゃいでしまったその感じがもう素晴らしくクロードで、キタコレ!ときゅんとなりました。そして歌われる主題歌の甘さ、せつなさ、奥深さよ…! だいもんのこの歌声は本当に武器ですよねえ、聴き入りました。
 そこからの、フォンテンブローでのほややんとした若造っぷりからルイに対するフェアな態度が素晴らしくクロードでしたし、ことにいいなと思ったのがその次の場面で、姉ソフィー(早花まこ)と婚約者フランソワーズ(星南のぞみ)とその兄ミッシェル(真那春人)が出てきて観客にいろいろと状況が提示されていく中で、クロードのほややんっぷりにさざ波のような笑いが客席から沸いたこと。そう、そういうちょっとしたユーモラスさもこの作品の大事なエッセンスだと思うんですよね。だいもんが生真面目で不器用で、でも優しくて温かな人柄のクロードをきっちり演じてみせたから、それが伝わったんだと思います。
 そのまま、最後まで、まっすぐで馬鹿正直で、お子さまなままで…それで、どうにもならずに、恋は終わるのでした。そういう物語なのだから、本当に正解です。
 一方のヒロインのきーちゃん、これまた私はぜんぜん心配していませんでした。初演の若葉ひろみの素晴らしさは語り継がれていますし、ミドリも素晴らしかった。でもきーちゃんもできると思っていました。学年は若いかもしれないけれど、いい声をしているし芝居心があるし、可愛いだけの娘役さんではないと私は思っているので(むしろちょっと天然なところがあるので可愛いだけの役はかえって危ないと思っている)、むしろこういうきっちり作り込まれたキャラクターにハマってみせてくれるだろうと期待していたのです。その期待に応え、でもちょっと予想を裏切られるような、おもしろいシャロンだったと私は思いました。
 なんといっても歌が上手すぎて、すごくリリカルで本当に妖精のようで、そういう意味ではシャロンの一面であるはずの毒婦の面がほとんどなさそうな女性になっているんですけれど、でもやっぱりちゃんとシャロンだったと思いました。生まれ育ちや重ねてしまった人生経験のせいで冷めていたり皮肉っぽくなっていたりどうかするとちょっとくたびれているときもある…のがもしかしたら本来のシャロン像なのかもしれませんが、きーちゃんのシャロンは、もっと軽やかに手に入らないものはあきらめつつ今できることを楽しんでいるような、ちょっと浮き世離れして見える女性で、そしてそれはそれでクロードにとって魅力的かつ難物で、そりゃうまくいかないだろうという不穏な空気が最初からうっすらちゃんと醸し出されるような、そんなふうに見えました。おもしろかったなあ。
 青列車の展望台場面で、クロードがオリエント急行で一緒にマジョレ湖に行こうと言ってくれたとき、シャロンは本当に嬉しかったと思うけれど、でもまだただそれだけで、だからといってクロードに本気で恋したわけではないのではないかしらん…と、私には思えました。それくらい浮いていた。エヴァ(沙月愛奈)はシャロンは公爵に惚れた、みたいなことをその前にすでに言ってはいますが…ニースのホテルでフランソワーズに喧嘩売られてカチンときてやり返したときも、プライドとか自尊心のためであってクロードとの恋のためではないように見えました。だから、実は私にはナギショーのルイには崩れた色気みたいなものが足りなくてちょっと弱いかなと思ったのですが、ここでシャロンがそんなルイに流されるようにして駆け落ちしてしまうのがわりと納得できたのです。ちょうどよかった、というか。
 そんなルイとマジョレ湖に行かなかったのは、単にお金がなかっただけではあるまいか(笑)。クロードと再会したときも驚いたし動揺しはしただろうけれど、クロードのように「忘れたことなどなかった」ということはないように思えたし、それでも訪ねられれば受け入れてしまう、盛り上がってしまう…というふうに見えました。
 シャロンが本気じゃないのにクロードかわいそう、って見てる、という意味ではなくて、盛り上がっているふたりにもそういう温度差みたいなものはあるものだしそれでも成立するのが恋愛だったりするし、そういうこととその恋が実るかどうかは別問題なので、お話の展開には支障がなかったし、シャロンが変にかわいそうにもまたひどい女にも見えなくて最終的にはちょっと救われるかな、と思ったのです。だってクロードには、もしかしたらフランソワーズとの家庭もミッシェルとの仕事もなくすのかもしれないけれど、でも家柄とか財産とか人脈とか、人柄とか技能とかは変わらず持っていられるわけじゃないですか。でもシャロンにはそういったものはまったくない、若さと美貌しか持っていないわけですよ。それはもちろん彼女自身のせいなのかもしれないけれど、要するに彼女の方が今後厳しい人生を送るのであろうことは想像に難くないわけです。だからこの物語は、クロードが主人公だしクロードかわいそうねシャロンってひどい女ねって終わりがちだけれど、そうじゃなくて、それでもたまたまうまくいかないこともあるよ、それでも愛し合っていたときの想いは本物だったんだよ…という話であるべきだと思うので、必要以上にシャロンが悪女である必要はないのかな、と今回思えて、個人的にとても新鮮に、おもしろく観たのでした。
 ルイと同様、ちょっと心配していたフランソワーズは、登場場面こそオイオイだいぶ若いな少女っぽいな幼いな、そういう役作りなの?それとも芝居がアレレなの?と不安になりましたが、クロードにエヴァの伝言を伝えに行く場面では屈託のある感じがなかなかよく出ていて印象として持ち直し、ニースのホテルでシャロンとやり合う場面がとてもよかったので、おおいいじゃん、となりました。でもリヨン駅の待合室に追っかけてくるくだりの芝居は、もの足りなかったかな…ううーむ、大事な役だと思うので、配役にはもう一考あってもよかったのかもしれません。美人だし踊れるし新公ヒロインもさせているし劇団が押したい娘役さんなのもわかるし場数が必要なのもわかりますけれど、全ツだとこのあたりは「えっ!?」って意外な配役がくるときもありますよね? 番手より実力、みたいな。たとえばちょっと上級生すぎるかもしれないけれどあゆみちゃんだって、やってやれないことはなかったのではなかろうか…このフランソワーズがもうちょっと強い、いい芝居ができると、全体のドラマがより濃く深くなったかもしれないので、さらに深く満足できたかもしれません。あと、歌は手に汗握りすぎました…ま、それはあゆみちゃんエヴァのソロもだけどね。ここも誰か他にいなかったの!? きゃびぃかカレンちゃんは!? これは歌の役で、あゆみちゃんはダンスの人なのでは…?
 まなはるミッシェルは、ちょっと伯爵には見えない、庶民的な気のいいあんちゃんになっていた気はしましたが、こののんきさや心の広さも貴族ゆえなのかもしれないし、ラストの「ちょっと、残念だったな」みたいな台詞に味があって、とてもよかったです。個人的に好きなキャラなんですよね、ミッシェル。
 にわにわボーモン伯爵がいい感じに胡散臭いおっさんでよかったです。クロード姉のきゃびいも手堅い。ノアーユ子爵の桜路くんもホント上手い。りーしゃのポワレがアクが強くて印象を残し、麻斗くんのコルベールは…まあ悪さを出すのはこれからかな。あとカリちゃんのフレデリークも居方がさりげなくてよかったです。
 ジゴロの中では星加くん、令嬢がたでは妃華ゆきのちゃんのキュートさにシビれました。少ない人数で、みんながんばっていましたね。
 シンプルなセット、平易ででもしっとりと含蓄のある台詞、歌謡曲めいた挿入歌、古風かもしれないけれどわかりやすく普遍的でもあるメロドラマで、全国ツアーには最適の作品なのではないでしょうか。いい旅をしてきていただきたいです。ファンを増やして、元気に帰ってくるんだよー!

 ショー・スピリットは作・演出/中村一徳。前トップコンビのサヨナラ公演のショーでしたが、新生雪組のプレお披露目公演にふさわしく船出版に上手くリメイクされ、個人的には本公演版より好きかも!?という仕上がりでした。これはファンは嬉しかったろうなあ、だいもんもきーちゃんも組子みんなも輝いていて、素晴らしかったです。
 初日のカテコのご挨拶がハクハクしていたというだいもんですが、どうしてどうして立派なトップスターっぷりでした! 歌えるし踊れることは本当に武器ですが、真ん中力、ショースター力がありますよね。花組育ちであること、雪組二番手時代に溜め込んだパワーを惜しげもなく放出している感じでした。何より楽しそうで、本当にキラッキラしていました。改めて就任おめでとうございます!
 そしてきーちゃんもパーンとしてて本当によかった! たとえばゆうみちゃんは就任当初はショーが弱かったのなとか感じたものでしたが、これまた花組生まれの星組育ちで培われたショースター力がありますね。歌は絶品、男前なウィンクも素晴らしい!
 そしてふたりの映りが本当にいい。顔の感じや体格、表情の作り方や動きのトメやキレのポイント…本当にお似合いです。デュエダンが影ソロいらずなのもおもしろいくらいでした。決して大きくないだいもんだけど、リストも素敵でした。
 舞台を降りたらどんなコンビになっていくのかな? だいもんは意外に優しくて中学生男子感があるタイプだけれど、きーちゃんにデレるのかしら? それとも飄々とスカしちゃうタイプ? きーちゃんも以前は天然でルリルリ力がないのではと危惧していましたが、最近はどうかな? サバサバ男前に立っちゃってもおもしろいかもしれないけどなー。期待しています。
 ちぎちゃんが申し子のようだったブライアント先生振り付けの場面はばっさりナギショーの場面になっていて、ホッタイ新調お衣装をもう使うんかーい!というところはありましたが、バリッとアイドルオーラを放っていてよかったです。
 サプールの場面は私は以前からちょっと楽しみ方がよくわからないでいるのですが、ちょっとブツ切れに見えていた中詰めはまなはるの場面、カリの場面、とビシッとキメるためのようにも思えてくるから不思議。たわしがロケットボーイをがんばっていて、りさちゃんロケットガールであのアクロバティックだったロケットが人数は減ってもコンセプトは踏襲していて圧巻で、でもきーちゃんセンターの娘役場面が歌を変えてまだあって、なのにまだコーヒールンバもあって、黒燕尾とデュエダンがあってもう本当に大満足でした。
 エトワールのはおりんはちょっとおへちゃなところがまたキュート。歌上手さんも上手く育てていってほしいものですね。
 これでまだ咲ちゃんがいてひとこがいてみちるちゃんがいて、まちくんがいてすわっちがいてセンアガタがいて、あーさが来てあやなが加わる…ヤダ雪組も楽しそう!とニマニマしながら帰京しました。これからも良い作品に恵まれることを祈っています。

 私が観た回ではショーからみやちゃん、れいこがいました。いい刺激になったろうなあ。だいもんの客席下りに奥ゆかしく手を振るだけのれいこちゃん、可愛かったわ…だいもんにガバッと迫られ、みやちゃんに大爆笑されてましたけど。
 月組五分割も楽しみだし、身が保ちませんね。ありがたい悲鳴が上がります…私も観るだけですが、がんばります(笑)。






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『神土地』に風は吹いているか

2017年08月22日 | 観劇記/タイトルか行
 宝塚歌劇宙組『神々の土地/クラシカル ビジュー』宝塚大劇場公演初日と、4日目13時の二回を観てきました。
 毎度のごとく、ごく個人的な感想です。ネタバレしているというか、観た方でないとわかりづらい表現になっているかと思います。あと、総じてそんなにほめていないかもしれません、すみません。ダメな方はご遠慮ください。

 初日の私の感想は、
「くーみんも人の子だったか…!」
 でした。クリーンヒット続きだった天才くーみんがついに凡打を放ってしまったか、という印象だったのです。登板間隔がいかにも短くなっていたし、初めてのサヨナラ公演担当で力んでしまったのだろうか、着想がこなれていないままに舞台にしてしまった…と感じたのでした。
 話に破綻はないし、くーみんが描きたいことはわかる気がするし、簡単に「つまらなかった」と言えばいいような作品ではないとは思うのだけれど、わかりづらいし、盛り上がらないし、萌えない、と私は感じたのです。
 というか、普通の観客は寝るだろうコレ、と私は思った(私は寝ないけど、とか私はわかるけど、というこういう物言いがホント気に障ると思いますすみません)。アバンはわかって観ないとワケわかんないだろうし、まああえて紗幕の向こうでやってるんだからわからなくてもいいと思ってやってるのかもしれないけれど、次の場面のわりと延々続く説明台詞もわかって聞いてないとついていきづらいだろうし、そのあとのゆうりイリナとゆりかフェリックスの思わせぶりすぎる応酬もワケわからなさすぎる気がしたし、てかいつまでたってもまぁ様出てこないし…ここまででもう脱落する人はかなりいるだろう、とヒヤヒヤしたのです。いつ始まるのいつおもしろくなるのいつなんの話かわかるのこの話?と思いながら観てしまいました。
 だって生徒のファンや組ファンやくーみんファンは物語を読み取ろうとして集中して観るだろうけれど、観客ってそんな熱心な人ばかりじゃないじゃないですか。特に宝塚歌劇って、なんの演目か誰が主演かどこの組か全然知らないけれどとにかく毎公演必ず数回観に来る、みたいなおばさまファンが一定数いる気がするんですよね。で、偏見かもしれませんがそういう方々は深いことや難しいことはいちいち考えないし予習なんかももちろんしなくて、ただただ華やかなもの豊かなものを観に来ているだけで、だから今回は冒頭がまったりしていて話が始まらないのですぐ寝ちゃって、ときどき起きてもなんかあんまドラマチックなことやってないしなんの話かわかんないし歌もダンスも全然ないのでまた寝ちゃって、幕切れの拍手で起きて「なんだかよくわからなかったわね、つまらなかったわ」とか言いそうじゃないですか。もしかしたらくーみんはそういうお客は相手にしていません、って言うのかもしれないけれど、でもそれじゃダメだと私は思う。『AfO』みたいな形で万人を喜ばせることはできないにしても(もちろんあの作品だって私はダメだったと言う人はいることでしょうが)、なるべくたくさんの人を楽しませ喜ばせるべきでしょうエンタメなんだから。別にそれはハッピーエンドのラブコメに限らなくて、悲劇で涙、涙でもシリアスで重くてしんどくてどーんとさせる、でもいい。とにかくお客の心を動かしてなんぼでしょう。伝わらなかったら、届かなかったら、意味ないと思う。風を吹かせないと、さ。
 でも今回は、再三言いますがくーみんが描きたかったものはわかる気はするのですが、わかりづらいし感動しづらい。風吹いてなくない?と私は初日、思ったのでした。
 ちなみに勝手にわかった気で語っていますが、私が感じた「くーみんが描きたかったこと」ってのはつまり、主人公たちの「ロマノフとしての生き方」みたいなもののことです。プログラムによればドミトリーの姉の自叙伝にインスパイアされたようで、ラスプーチン暗殺事件にも以前から興味があり、それでドミトリーを主人公にして物語を仕立てたのでしょう。彼らはこの時代のこの階級に生まれた人たちなので、好きな人とただ惚れた腫れたでくっついて自由に生きるようなことはできず、でもそういうある種の制約や義務の中で個人の成功や幸福よりも国や民や世界の平和、安寧のために身を捧げて生きた姿勢の気高さや美しさ、悲しさ…を描きたかったのだろうと私は思いました。でもやはりそのロマノフの在り方が、まあ昔の日本で言えばたとえば藤原一族とかそんなものなのかもしれないけれど(ちょっと違うか)、現代日本に生きる我々一般庶民からはちょっと遠くて理解や共感しづらい部分がかなり大きいと感じたんですね。彼らの特殊な状況に対する説明が足りていないし、こちらにもそれらを想像するエネルギーをものすごく使うことを強いている、というか。でも説明ばっかり重ねても仕方ないしお客にアタマばっかり使わせてしんどい思いさせるのもエンタメとしてホントどうなのよって感じなので、こんなに史実に真面目に引っ張られずに、たとえばイリナというキャラクターを創作してしまったように、もうちょっとシンプルでわかりやすい、架空のドラマを作っちゃってもいいんじゃないのかなー、と私は思っちゃったんですね。
 そもそもフランス革命ほど我々はロシア革命について知らないので、ちょっとくらい史実と違うことを出されてもわからないくらいだと思いますしね。いっそラスプーチンだって、もっと架空の、そしてイケメンのカルト宗教家に設定しちゃったってよかったのかもしれません。わかる人が観ればこれは皇帝ニコライ二世一家がモデルの家族だなとか、ラスプーチン事件のことだなとかわかればいい…くらいの、架空の国の架空のキャラクターのお話でもよかったのではないか、と。その上で、ドミトリーとイリナのせつないラブロマンスを仕立てればよかったのに…と思ったのです。題材がちょっと遠すぎるというか、国とか皇室とか革命とか共産思想とか世界とか戦争とかちょっと大きすぎて重すぎてピンときづらい。ないしは世の中がちょっとキナ臭くなっている今、そういうものを優先すべき大義とか理想とか志だと考えたくない、というのも私にはあります。
 でもそういうことをもうちょっとうまくボカしてくれていれば、愛とか恋とかより優先されるべきものが世の中にはあって、無理やりでもやせ我慢でもカッコつけでもそっちを取る主人公たちがいて、そんな生き様もわかるけどでもつらいよね悲しいよね、って観客が代わりに泣いてあげる、そういうカタルシスがある構造が作れたと思うのです。
 サヨナラ公演でもあるし、そういうものを私が無意識的に期待していたのかもしれません、だから勝手に裏切られた気になっているだけなのかもしれません。
 多分くーみんはそういうことも一応全部考えて、それでも今の形にしたのかもしれません。そしてそれだけのものは、必要十分なものは全部舞台の上にあった、と二度目に観終えたときは私もそう思えました。それでもやっぱり引っかかる、コレじゃないんじゃないか…という、今回はそういう記事です。ここまで前振りです、すみません。
 
 スケールがデカいだけの痴話喧嘩、とか嫁姑の争いが世界規模の戦争に発展して…というのが大国の王室という名の家族のドラマだったりしますが、今回のロシア帝国皇室もソレですね。だから国とか革命とか大義とかいろいろ出てもくるけれど、ミニマムなホームドラマでもある。
 足りないなと思ったのはまず、マリア皇太后と皇帝ニコライ二世一家が本当に疎遠で対立していて、オリガがマリアを訪ねたというだけであれほど驚かれるくらいの状況だ、ということの描写かな。そこまで深刻には描かれていないので、コンスタンチンの「驚いたな」みたいな台詞が今、よくわからなくなっちゃってます。
 おそらく酒場の場面で、オリガはドミトリーから背を向けずに勇気を出して相手と向き合うことを学び、その後コンスタンチンたちの助けも借りて、祖母に歩み寄ってみたのでしょう。そうやってゆっくり大人になり、世界を広げ、そしてそういうものの見方を教えてくれたドミトリーを恋するようになったのでしょう。そしてドミトリーもそういう形でこの家族の二派を和解させ安定させようとしているのですから、そもそもの状況説明はもっとあっていい、かな。
 しかしホームドラマに関してはホントに、マリアすっしぃさんもニコライまっぷーもアレクサンドラりんきらもいい仕事をしています。ららタチアナも存在感あるしね、いいよね。
 あとは、ドミトリーがオリガとの結婚を打診されたくだりもあった方がいいと思います。そのとき彼自身がどう反応したかを観客は見たいと思うよ。今あんなふうにドミトリーがイリナに言うのはちょっと卑怯だと思います。
 ちなみにここでイリナは動揺するということになっているようだけれど、彼女がこの縁組をまったく想定していなかったとはちょっと思えないのですが…それに彼女のドミトリーへの想いは結婚なんてものをすでに超越しているものであって、ここで今さら動揺したり嫉妬したりするのってヘンなんじゃないのかな?
 そう、私はまどかちゃんが好きなこともあって、キャラクターとしてオリガが好きなんですね。この手の四角関係の第二ヒロイン、たとえば『バレンシアの熱い花』のマルガリータや『琥珀色の雨にぬれて』のフランソワーズ、『哀しみのコルドバ』のアンフェリータ(みんな柴田作品ですが)、要するに主人公の正当な婚約者でありながらフラれたり本当には愛されてはいなかったりするキャラクターが私は大好きで、というかここが好感が持てる人物になっていないとドラマとして弱くなると思っていて、そしてコルドバは主人公が死んじゃうからアレだけどあとは意外とお話が終わったあとは彼女たちは主人公とちゃんとくっついて幸せになっているんじゃないかと私は思いたい派で、何故なら彼女たち自身にはまったく非がないのだから報われてしかるべきだと私が考えているからで、つまりだから今回も実はオリガをヒロイン、つまり主人公ドミトリーの相手役とした方が据わりがいい物語になったのではないかしらん?とか思っちゃうのでした。オリガがドミトリーと幸せになる物語だってありえたんじゃないの?というか、そういうお話を私が観たかったというか。
 つまり私には実はイリナがよくわからないのかもしれません。キャラブレして見える…というのともまた違うんだろうとは思うのですが。ちなみにゆうりちゃん自身はすごくいいお芝居をしていると思っているのですが、それでも。

 イリナは、架空の人物だからということもあるかもしれませんが、余白が多いというか、描かれていない部分が多いキャラクターではあります。皇后アレクサンドラの妹で、ドイツからお嫁に来て、名前もロシアふうに変えた、今や立派なロシア人、ロマノフの一員。
 ドミトリーは結婚前の彼女の名前、イレーネと呼んでみたかったと最後に語るけれど、それは知識として知っていただけで、実際に結婚前に彼女と親交があったわけではないのかなあ? つまりふたりは、伯父の妻と甥として出会ったのかなあ? ドミトリーの伯父セルゲイ大公はイリナとは親子ほど歳が離れていたというから、イリナとドミトリーの方が歳の釣り合いなら取れていたのでしょうし、何か感じるものがあったのかもしれないけれど、そしてそれがお互いの初恋のようなものだったのかもしれないけれど、とにかくそれは描かれていません。
 未亡人になってからもイリナは実家に帰らずロシアにい続け、大公妃として公式の活動を続けていたようです。そして社交界では、亡き夫への貞節の証なのか、決してダンスをしないことで有名な美女として生きてきた。ドミトリーはかつてはイリナとダンスを楽しんでいたようだけれど、それは大公が存命の頃ということなのかな。だからやはりその頃の方が恋の火遊びめいたことがあって、けれどイリナの方が夫をテロで失ってからストイックになってしまって(もちろんドミトリーにだってショックな出来事ではあっただろうけれど)、結果的にふたりの互いへの想いは埋み火のように密かに燃え続ける恋のような、そんなものになっていたのかもしれません。でもそれはかなりがんばって読み取らないと読み取れない、ように見える。もちろん大半のお客はまぁうららロマンスを期待して観に来るのだろうから、勝手に読み取るのかもしれないけれど、それでも私にはかなり曖昧模糊としていた気がします。
 終生ロシアを好きになれなかった姉アレクサンドラと違って、イリナはドミトリーの導きもあってロシアを愛するようになりました。夫亡きあともロシア人として、ロマノフとして生きることを選びました。今、皇帝一家が国民の支持を失っていることを心配していて、だからドミトリーが支えになってくれることを願っている。姉の家族のため、皇室のため、国のため、民のため。このとき、ドミトリー自身のこともちょっとくらい考えてあげてもよかったのにね。でもイリナはドミトリー側の感傷や戯れかけとはすでに決別していて、従軍看護士として働こうとするくらいすでに国と世界のために生きようとしていたのですよね。でもそれくらいふっきってたなら、分別臭い年上の女じみたことをしてみせたのならなおさら、ドミトリーとオリガとの結婚話に動揺なんかするかな? 彼女が提案したっていいくらいの話ではない? ちなみに『翼』で観たけどねそういうの、というのが散見されるのはまた別の意味で問題だと思っていますけれどね私はね。
 一方のドミトリーですが、私は彼は分裂し対立する家族の架け橋になるために、また政治的にもよかれと思って、オリガとの結婚を決意したのだと思うし、結婚する以上はオリガを愛する努力をしようと決意していたはずだと思いたいんですよ。愛って努力するものではないかもしけないけれど、そういう誠意は見せようとする人だと思いたい、というかそういう人が好き、という押し付け、勝手な願望ですけれどね。そしてイリナへの想いとは別に、そういう政略結婚みたいな現実をきちんと迎え入れようとする気骨ある人物であってほしいというか。でもラスプーチンにオリガを愛してはいないんだろうと図星を刺されて動揺して、ってのはまあ仕方ないかなとは思います。人間だもの。でもニコライにああまで言われてきちんと応えられなかったのは、私は寂しく感じました。あそこでニコライは、嘘でも言いからオリガを愛していると言ってくれ、という意味でああ言ったんだと思うんですよ。それに対してドミトリーも、嘘でもいいから、オリガを愛していますと応えるべきだったと私は思う。オリガだって今は十全には愛されていないことは感じていて、でも自分はドミトリーを愛しているんだし結婚したいし、この結婚が皇室のため国のために必要なんだともわかっている。だから傷ついたかもしれないけれど受け入れたと思うんですよね。だから私はドミトリーにも自分がした選択に対して潔くあってほしかった。やせ我慢でもなんでも、貫いてほしかった。今さら覆すとか口ごもるとかやめてほしかった。だからちょっと、ここのドミトリーが情けなく見えて、それで萌えなかったんだよなー…でも嘘がつけないからこそのドミトリー、と萌える人も多いのでしょう。その差はあるのかもしれません。
 もちろんドミトリーがきちんとした返答をする前に、うちのコンスタンチンくんがやらかしたせいでボロボロのイリナが運ばれてきちゃって、事態はそれどころじゃなくなっちゃったんですけれどね。

 しかし考えれば考えるほど実はあっきーコンスタンチンってめっちゃ話のキーパーソンになっていて、最初は主人公カップルと対比させるためだけの、身分違いというある種似た障害を抱えながらも愚直に愛を貫こうとするカップル…程度の扱いなのかと思っていたのだけれど、コンスタンチンがラッダに行き先を告げたことでゾバールにバレてイリナに対するテロが起きて、そこから酒場のガサ入れがあって銃撃戦があって、ついにはドミトリーにテロやむなし暴力やむなし暗殺やむなしと決意させちゃう流れなわけですよ。超重大。ホントすみません。
 でもはたして、ではイリナはドミトリーが結果的に選択したこのラスプーチン暗殺事件を、そしてクーデター計画をどう思っていたのでしょうか。そしてクーデターが頓挫し姉がドミトリーを逮捕し流刑に追いやることを、どう捉えていたのでしょうか。それが描かれていません。私はこれが引っかかる。
 こんな暴力沙汰はなんとしてもやめてほしかったと思っているのか? 致し方なかったと考えているのか? ドミトリーがほぼ確実に死ぬと目されている前線に送られることをどう考えているのか? たとえばフェリックスのように、脱走してでも生き伸びてほしいとは思わないのか? それが愛ではないのか? それとも、犯した罪の償いは甘んじて受けたいというドミトリーの考えを尊重しているということなのか? それが彼女の愛なのか?
 このあたりが見えないままにあの一夜があるので、私は上手く感動できませんでした。このふたりにとっておそらく最初で最後のこと、なんですよね? だからもっと、感じ入りたかったんですけれどね…
 あとそもそも、ドミトリーがラスプーチンを殺すこと自体も、たとえば嫉妬のあまり恋敵を殺したとか心が離れた恋人を殺しちゃったとか、そういうんじゃないじゃないですか。もちろん殺人にいいも悪いもないんだけれど、でもロマンチックじゃないというか妥当性が薄いというか、そりゃ皇室のため国のため世界のためなんだろうけれどでも、要するに本当に暴力であり犯罪でありテロであり、私は宝塚歌劇の主人公に取らせる行動としてはいかがなものか、とかなりざらっとしました。たとえば内戦なんかをよく扱うハリー作品でも、主人公が手を汚すことに関してはけっこう慎重に考慮されていることが多いのではなかったかな? どうだったかな、ぱっと例が思いつきませんが…
 初日はフェリックスが言う「あいつを殺そう」の唐突さがとても効いていたと思ったのですが、二度目に観たときには普通に聞こえて、私はちょっと「あれっ?」となったので、それもあるのかもしれません。この殺人はけっこう衝撃だと思うんだけれどなあ…そしてもちろんそれも含めてすべてくーみんの描きたかったことなんだろうな、と思うのですが、つまりそうなると、宝塚歌劇に求めるものが私とくーみんとでは違っていて、それで私はごちゃごちゃ言っているのだろうか…とも思うのです。
 
 私はくーみんは宝塚歌劇を愛してもいるし尊重もしていると思っているし、ある種のお約束とか決まり事みたいなものも踏襲してくれようとしていると思っています。たとえばラストシーンなんかがそうで、トップスターのサヨナラ公演だから最後に組子全員を出してくれるんですね、と単純に嬉しかったし、そのサービスにちょっと微笑ましくなりました。最近のサヨナラ公演だと『前田慶次』パターンですね。
 でももちろんそのあとの、ドミトリーとイリナだけが盆の端と端に残ってお互いに見つめ合って回って終わる、そこがキモなんだとも思うし、この公演で卒業するこのふたりに対しても、また主人公の相手役を務めながらもトップ娘役と呼ばれることなく去るゆうりちゃんに対しても最大の餞であり、かつ物語のラストシーンとしても最高に素晴らしいと思いました。ただ、やはりその前の、特にイリナの心が私には見えなかったので、全然気持ちよく泣けなかったのが残念なのですが。
 やっぱり、もうちょっと、わかりやすいメロドラマにしてもよかったのではなかろうか…と思わないではいられないのです。宝塚歌劇なんだから、ましてサヨナラ公演なんだから。
 サヨナラ云々はナシにしても、たとえば二番手ゆりかのフェリックスってあまりおいしくない役だと思うのです。というかしどころがない気がします。軍人ではないし皇族でもない、大貴族の大富豪で、この政治ドラマに対する関わり方がそもそも難しいキャラクターではあるのだけれど、それにしてももうちょっとなんとかならないのだろうか…と思ってしまいました。ぶっちゃけこの人いなくても話進まない?みたいに思えちゃうのって、よくないです。だったらほぼほぼ取っ払っちゃった、若い頃は女装癖もあったバイセクシュアルでドミトリーとも恋仲で…みたいな設定をぷっこんだってよかったのかもしれません。宝塚歌劇なんだから、二番手スターにもっと主題にがっつり絡む役を与えるべきではなかろうか。
 三番手の愛ちゃんも、怪演というのが誉め言葉なのかどうか微妙なんだけれど、素晴らしいことは確かなんですが、こういう役でいいのか、もっと二枚目役をやらせるべきなのではないか、みたいな問題があるわけじゃないですか。普通の演劇ではないのですから、宝塚歌劇なんですから、ファンにスターを見せるものでもあるのですから。
 くーみんはそこにも挑戦したいのかもしれないけれど、それでも。
 そこがどうも、相容れないかもしれないのだとしたら、私は怖いし、悲しいし、恐ろしいのでした。私の勝手な意見ですが…

 この先観劇を重ねて、また見えてくるものも違ってくるかもしれないし、現段階でもお友達同士でも意見や感想が割れていたりして、語り合ったりすればまた違った感想を持つことになるのかもしれず、そういう意味ではやっぱり無風ではないのかもしれません。くーみんとしては風が吹いちゃうと吹雪になっちゃうから、ただ静かに雪を降らせたかったんだからこれでいいの、ってことなのかもしれません。そういうのももろもろ含めておもしろいことではあるのですが、とりあえず今の私の感触としては、なんとなく、こんなところなのでした。
 初日、もちろんみんなわからないで観ているんだからあたりまえなんだけれど、ばっちりハマった、キタコレ、みたいな空気には、正直ならなかったんじゃないかと私は記憶しています。二度目に観たときにいくつかの笑いが収まっていたのが印象的で、それは初日はちょっとヒステリックにどっかんウケすぎていた印象があって、それはつまり前後があまりに話としてまったりしていたりどう捉えていいかわかりづらかったからで、笑っていいとなったところに必要以上に反応しちゃったんだと私は感じました。そしてその笑いはやはり結果的に場面を壊していましたし、だからそういう笑いではなくなって、よかったなあ。コンスタンチンたちの三段落ちのところと、教科書のところですけれどね。


 というわけで、最後に澄輝日記7.5を。
 コンスタンチン・スモレンスキー、近衛騎兵将校でドミトリーの同僚。
 何人か似た設定のキャラクターがいたので、まあまぁ様の友人役のグループ芝居ね、と想定していました。この時代の近衛軍人ってことは宮廷貴族でもあるのかな、とかね。で、お稽古入り待ちなんかでは、恋人はいますか?みたいなことを聞いたりしていたのです。ほら、ケペルとかいなかったし(笑)。
 そうしたら「片想いしている相手はいて、でも誰かは言えません」みたいなことがこぼれてきたんですよね。もともと口は堅い方なんだけれど(^^;)。で、単なる友人モブではない、何かエピソードを背負わせてもらえるキャラクターなのかな、と期待していました。
 そうしたら人物相関図でありさラッダへの矢印が公表されちゃって、「せっかく隠していたのに」って本人は不満そうだったのがまた可愛らしかったんですけれど、さてジプシー酒場の歌手との関係ってさあどんなものなんだろうね、と本当に楽しみにしていました。
 で、もえこロマンとりくウラジーミルのあとのオチがアレで、ああ、これってあっきーの公式イメージまんまの役なんだな、とまず思いました。ロイヤルで優しくて、っていうアレです。会活動なんかで接していると、もちろんものすごく優しい、優しすぎる人ではあるんですが、お高く留まるというような意味でのロイヤルさはまったくないし、けっこう頑固なところも負けず嫌いなところもあって、優しいだけの人ではないことがすぐわかるんですけれどね。でも「公式イメージ」はコレですよね。
 くーみんは『クライタ』新公を担当していますし、『翼』もあるのであっきーのニンとか技量とかはある程度わかっていて、その上でのこの配役だとも思いますし、実は本当にお話のキーパーソンなのでありがたくもあるのですが、でもたとえば、こういうあっきーだけれどゾバールみたいな役をやらせてみたい、と演出家に思ってもらえるようになるとまたおもしろいんだろうけどなあ、とかファンとしては考えてしまうのでした。
 役の大きさとかではなくて、タイプとして、ね。そしてもちろんずんちゃんは素晴らしかったと思います。また一皮むけたと思うし、テロに走る狂気じみた熱い若者をがっつり演じきっていたと思います。でもあっきーにだってできたかもしれないじゃん。同じにはならないよ? 同じになる必要もないし。違うゾバールになったかもしれない、でもとにかくこういうタイプの役だってやらせればできると思うんですよ。まあ役者なんだからやれてあたりまえなんだけれど。でも回ってこないんだよね、そこに残念ながら現状の限界があるのかもしれないんだよね…とか、ちょっと思ってしまったのでした。
 この先、トップスターのゆりかちゃんより上級生の別格スターとして、ある程度のポジションがきちんともらえるのか(あるいはきちんと務められるのか)がけっこうキモだと思うので、がんばっていただきたいですし、先生方もお願いですから仕事ください…とか思ってしまいましたホントこんなファンですみません。

 で、それはそれとして、コンスタンチンくんに萌え萌えなんですけれどね!(笑)
 コンスタンチンとラッダがどんな出会いをしたのかわかりませんが、おそらくいい金ヅルだと踏んだラッダが振りまいたお愛想にコンスタンチンがコロッと引っかかっただけなのではないかしらん(笑)。第4場では、歌うラッダに視線もらってテレて笑ってるコンスタンチンくんは完全に単なるファンレベルです。少し前から熱心にお花を差し入れてるんだけど、振り向いてもらえない一ファン。それはそのはずで、確かにラッダからしたらたとえ綺麗な赤い薔薇でも花なんかもらったって腹は膨れないし一銭にもならないのです。ただ、そもそも花なんかもらったことがないから、ちょっと嬉しくはあったと思うんですよね。飢えは満たされないけれど、心はちょっと潤ったはずなのです。だからラッダもちょっとまんざらではなかったはずなのです。なんてったってハンサムだしな!(笑)
 貴族のボンボンと酒場の女というだけなら『バレンシア』のロドリーゴとイサベルなのに…ロドリーゴはラモンに頬張られたりやり返してたのに…(^^;)
 なのにコンスタンチンくんはゾバールにズバリ言われちゃって(シスコンなんだよねゾバールくん、うんうん。姉弟萌え、大好物です私)、ホントそのとおりだし情けないしでしおしお引き下がるんですよホントもう哀れで愛しくてもうたまりません。ここをちゃんとしょっぱく演じているあっきーはちゃんとしていると私は思う。けど私は盲目なのでアテにしないでください(^^;)。
 そんで結局第8場までの9か月に何があったのかって話なんですよ、物語の筋にはまったく関係ない話ですけれどね。この時点でふたりはちゃんとした恋人同士になっています。コンスタンチンに至っては結婚すら考えている。何があったの! ナニかあったのよねもちろん!! あのあとどこかでコンスタンチンが未練がましく(笑)謝りに行ったんですよね、またまたお花持ってね。だって彼にはやっぱり食料とか貴金属とかお金とかを彼女に渡す発想はないんだと思うんですよたとえああまで言われても。で、ほだされたラッダが押し倒したんだと私は思う(笑)。でないとコンスタンチンからは手は出さなさそうだし、でもやることやっちゃったんだから妻に迎えたいって発想になるのがコンスタンチンだと思う。はー萌えるわ。
 でもラッダにはもうちょっと現実が見えています。だから夢を語るコンスタンチンを黙らせるためにキスで口をふさぐしかない。たまちゃびでこんなの最近見たな男女逆だけどな!? てか初日ホント声出そうになりましたよありさががっとあっきーにチューして! あっぎーが目をつぶってて!!
 そしてくーみんがニクいのはきよミーチャの置き方だと思いますよホント。アレクセイとのギターのくだりもよかったけれど、このラッダとゾバールの末の弟が、まだ子供の扱いでふたりから大事にされているこの少年が最後にたどる顛末が、本当に悲しい、苦しい、ひどい。くーみんは悪魔です。上手い。
 初日、私はコンスタンチンが死んじゃわないか、あるいは自分で命を絶っちゃわないかヒヤヒヤしました。だってやっぱり彼には生きていてほしかったから。
 生き延びて、でも、コンスタンチンの心はボロボロでしょうね。それでも軍人としてその後も革命を戦ったのでしょうね。生きていてくれるといいなと本当に思います。人は生きてさえいればなんとでもなる、いつかまた幸せになれる、と信じていたいから。死んだ方がましだと思えることもあるかもしれない、生きていることの方がつらいこともあるかもしれない、それでも私は彼に生きていてほしい、彼を愛しているのです…
 死を告げられるだけのもえこロマンはちょっと残念だったけれど、そこまでエピソードや台詞がなくても常に居場所で仕事をしているりくウラジーミルも素敵でした。でもやはりコンスタンチン役をあっきーに振ってもらえて嬉しいです。もっと望みたいことはもちろんあるけれど、今回はここには萌えられる。だから私は取り次ぎがある限り、結局は楽しく通うでしょう。
 なのに毎度毎度ごちゃごちゃ言っていて、本当に本当にすみません…


 あ、ショーは一言、「休んで稲葉くん」です。『ルナロッサ』デジャビュ、ヤバい。同じ組で同じコンセプトで同じ曲、禁止。
 本日は以上です。




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『AfO』に吹く風

2017年08月13日 | 観劇記/タイトルあ行
 宝塚歌劇月組『All for One』大劇場公演初日と二日目11時、千秋楽近くの8月12日にダブルの観劇をしてきました。
 楽しい! よくできてる!! この良さについては理屈でくだくだ言いたくない、おもしろいからみんな早く観てー!とだけつぶやいてきましたが(ウソ。いろいろあれこれわあわあ語りはした)、やっぱりこの場所で理屈でくだくだ語りたくなってしまったので、書きつけてみました。毎度ワガママ勝手ですんません。
 本当は、比べて語るのってあまり良くないことだとはわかってはいるのです。でも大劇場の活気を見るにつけ、客入りはいいようですが日比谷の沈痛な空気のことを私は思い起こさないではいられないのです。
 邪馬台国には吹かなかった風が、こちらでは確かに吹いていました。それは何故か、風って結局なんなのか、それをここでは語りたいのです。

 『AfO』については、いい意味でも悪い意味でも、中身ないじゃんカラッポじゃん、という意見があることも知っています。でも、本当にそうかな? あるいは、ほめている意味でそう表現されていてもほめているように聞こえないことが多いし言う方もそう感じていたりするんだけれど、でも本当に中身がないことってほめられないことかな? あるいは本当に中身がないかな? そんなことないんじゃないかな、実はすごく難しくて大切なことを今回イケコは(まあもしかしたら生田先生かもしれないけど)やりとげているんじゃないのかな?
 日本人って、小難しくて理屈っぽくて深そうで渋そうなものを高尚っぽいってありがたがりすぎるところがあると思うんですよね。まして宝塚歌劇ファンなんて、他の趣味や娯楽よりこっちの方が独特である種文学的だとか思ってそうじゃないですか。偏見だったらすみません、あるいは単に自分がズバリそういうタイプだってことがはからずもバレているだけかもしれない書きっぷりですみません。
 そう、私自身は、暗くて深くて渋い、もっといえばしんねりして辛気臭い、悲劇の方が好みなんですよ。想いは通じた、愛は成就した、志は通された、しかし命は失われた…みたいな終わり方のドラマの方が好きなんです。報われない人生のむなしさや世の中の理不尽さに絶望して泣き、だから今の社会は駄目なんだと怒り呪い悔しくて泣き、その中で志を貫きしかし道なかばで倒れたキャラクターたちのせつなさ気高さ美しさに泣いて、そして泣くことでスッキリした気になりたいタイプの人間なんです。自分でもヤラしいなとは思っています。
 難しいテーマだけれど、たとえば一番好きな宝塚歌劇の作品って何?ってなったときに、悩んで悩んで、とりあえず『琥珀』とか『バレンシア』とか『コルドバ』とかを挙げてしまうと思うんですよね私って(結論は未だ出ていません。理想の、究極の一作を求めて観劇し続けているのかもしれません)。柴田スキーだし、こういうタイプのロマンス、悲劇が好みなんです。『金色』を挙げないのは、あれはふたりとも死んで終わるのでそこで世界が終わってしまってあとはどうでもよくなってしまっているからです。でも世界は続いているでしょ? 私たちは残されて、未だその世界で生きているでしょ? もちろんこの作品だってたとえばジャーとかは生き残っているんだけれど、やはり主役ふたりのうちのどちらかは残っていて、私たちと同じでいてくれないとダメなように私は感じます。だからくーみんなら『月雲』が一番好きかな。あれも主役ふたりは死んで終わるけれど同時に死んでいるわけではないし、残されたキャラクターの重さとして穴穂はジャーより断然勝っていると思うのです。残された者がちゃんといるという意味では『星逢』もそうだけれど、まああくまで好みの問題としてあれは私にはちょっとしょっぱすぎたかな…そしてそれで言うと『』は大好きなんだけどややヌルいとも感じるので…って、いやまあちょっと脱線しました。
 とにかく私はこういうタイプの作品の方が好みなんだけれど、でもたとえば卑近な例で言えば(卑近言うな)『王妃の館』でもいいけれど、真の悪人が出てこない、誰も死なない、ハッピーミュージカルっていいね!みたいな感覚って一方であるじゃないですか。まあミーマイとか。老若男女万人が楽しめて笑顔になれておおらかになれて、世界って明るいと信じられるような、希望と幸福しかない未来をあっさり信じさせてくれるような…そういう作品が与えてくれる幸せな感情にもっと素直になりたいし、なるべきなんじゃないかなってことを言いたいんです。
 だから中身ないけどおもしろいなんて奥歯にものの挟まったような言い方じゃなくて、もっと開けっぴろげに真っ正面からオープンマインドで全方向に認めたっていいんじゃないの? これはいいよ、素晴らしいよ、これこそエンタメが目指すべき形だよ!って。だってエンタメって人を幸せにするために作られるべきものですもんね? 
 『AfO』はおもしろい。原作というか元ネタはあるにしても、日本のオリジナル・ミュージカルとして、ひとつの頂点を極めたのではあるまいか、くらい言ってしまってもいいのではあるまいか、ってことです、つまり。
 私は日本のミュージカルには楽曲の弱さを感じることが多いのだけれど、これは、たとえばすごく高度な五重唱とかがあるワケではないにしろ、ある程度幅のあるいろいろな曲があったことやわりとキャッチーな曲が多かったことなど、なかなかに健闘していて評価していいとも思うのですよ。その点でもちゃんとしている。

 イケコって、デビュー作が『ヴァレンチノ』だったんだからホント天才だなとは思いますし、海外ミュージカルの翻案の腕は本当に素晴らしいです。でも一方でオリジナルではいろいろやらかしていますし、原作や史実、元ネタがあるものでもその出来はぶっちゃけさまざまです。『カサブランカ』は私はよくできていたと思うけれど役が少なすぎたかなーという宝塚歌劇としてはけっこう致命的な弱点があったと思っていますし、『眠らない男』も私はわりと好きだったんだけれどロマンスの在り方がやっぱり宝塚歌劇としてはしょっぱすぎましたよね。『銀英伝』もよくできていたと思うのだけれどラブは弱かったし、ああいうジャンルは意外と観る人を選ぶという難点もあったと思っています。『PUCK』は再演もされたし、いい作品ですよね。『オーシャンズ11』も再演されましたし、これもわりとちゃんとしていたと言っていいかな?(でもイリュージョンというか奇術というものを誤解しているとは思う) 『太王四神記』もよくできていたと思います。『るろ剣』はオリキャラのジェラ山さんの造形に問題があったため物語としては崩壊していたと私は考えていて、その他のキャラの再現性の素晴らしさは生徒に帰すものだし、作品としての私の評価はかなり低いです。
 でもイケコはそういう数々の経験や失敗から学習し弱点を克服し改造しチューニングしブラッシュアップして、最新作はきっちり仕上げてきたわけですよ。どうにも脚本の上がりが遅かったらしいのでたまたまなんじゃないのとか実のところは演出補の生田先生の手腕なんじゃないのとか邪推もいろいろありますが、製作発表のときのコンセプトからストーリーを大きく変えてきたらしいことは確かで、そんなことはやはりイケコ当人にしか決断できないことでしょう。一番違っていたのはモンパンシェ公爵夫人のキャラクターだから、いわゆるミレディー・ポジションにあったこのキャラとそれに絡むおそらく陰謀の筋をばっさりカットして今のものを残したんだと思うんですよね。何を残し何を生かすかの取捨選択は大事です、そしてイケコはその勝負に勝ちました。残されたものは、シンプルなラブコメとチャンバラ。すなわち大・正・解、です!
 芸術とか創作って、もちろん天才が今までと全然違うレベルのものを突然生み出してしまうことももちろんあるけれど、結局ある程度はテクニックとセンスできっちり仕上げられるひとつの技能でもあって、イケコは天才でもある一方でそのあたりも断然ちゃんとしているんだと思うんですよ。ちゃんと勉強している、ちゃんと学習している、基本が押さえられている。そこはもっと認めたい。だって基本すらできていない作家があまりに多すぎる…!
 みんな浅いなわかりやすすぎるなイージーだな中身ないなとか、これくらいなら誰でもすぐ作れるなとか思うんだろうけど、実はそんなことって全然なくて、これってすごく難しくて大変なことで、そしてこれだけちゃんとしてるって本当に奇跡みたいなものなので、みんなもっとちゃんとありがたがった方がいいよ、ってことを私は訴えたいのです。毎度エラそうでホントすみませんが。みなさん表立って言わないだけでちゃんとわかってるっつーの、って思ってたらホントすみませんが。
 芸術ぶって辛気臭いこと言って自爆したものなんかより、きっちり技で仕上げてシンプルだけど大事な真実をきちんと伝えてみんなに喜ばれているものを、まっとうにまっすぐに、素晴らしいと評価したい。上出来だとほめたたえたい。明るく正しいことを支持したい、享受したい。テレて韜晦してそんなのダサいよとか恥ずかしいよ逃げたり単なるおとぎ話じゃんとか茶番じゃんとか言ってごまかそうとするって卑怯だと思うしの、度胸がないと思う。幸せになることを恐れてはいけない、善いことを信じる強さを持ちたい。
 だから私は声を大にして言いたい、『AfO』はいい、と。

 お友達が言っていましたが、もう毎夏、大劇場公演はその時期に当たった組がこの演目を上演する、ってことにしてもいいくらい、当たり役ならぬ当たり作だと思います。
 そうなんだよね、当て書きのようで実はある程度どこの組でもできるゆるいキャラクター布陣なんですよ実は。というか設定はちゃんとあるんだけれど、役者のニンに寄せられる部分が大きいというか。『エリザベート』なんかより全然役者を選ばないと思う。たとえば『ロミジュリ』があれだけ頻繁な再演に耐えられる理由に近い。楽曲がいいっていうのももちろん大きいけれど、あまり役者を選ばないタイプの作品ですよねロミジュリって。そしてたとえば『金色』なんかも再演がけっこう困難だと思うんですよね、あんなキャラにはまるトップコンビって普通なかなかないですからね。
 でもこの作品は、五組で順番にやってもきっと大丈夫。どこにでもある程度ハマります。一巡したらトップは変わっているからまたやってもいいだろうし、他のメンツが同じすぎるっていうなら次の五年かそこらは封印して、またその次の世代で上演する…とかね。それでも普通にお客は入ると思いますね。リピーターは少なくても、初めてのお客さんが増えそうだし、それってものすごくいいことだと思うのです。今のチケットの取れなささは客を狭めるし未来に響きます。
 あと、私は宝塚と言えばベルばら、みたいに世間で語られることが大嫌いで、それは宝塚歌劇の『ベルサイユのばら』は初演はともかく以降は脚本的にはてしなく駄作だからで、かつオリジナルの漫画の素晴らしさを越えられるワケはないと思っているからです。だからずっと、宝塚歌劇と言えばこれ、という代表作が欲しいと思っていました。そしてそれはエリザとかスカピンとかミーマイとかロミジュリとかではダメだと思うのです。だってそれは海外ミュージカルの翻案輸入版にすぎないから。仮にもオリジナル新作主義の劇団で、100年かけても代表作にオリジナルを挙げられないってどうなのよ、とずっと歯がゆく思ってきました。それが今、コレなんじゃない!?という気持ちになっているのですよ!
 三銃士は元ネタがあるし太陽王は史実だし、でも中身はオリジナルですよね。というかオリジナルというのも口幅ったいくらい、昔からある定番のネタしか入っていない、と言ってもいいくらいです。でもそこがいいのだしそれが大事、定番をきっちりやることが大事。そしてそういう定番って長い時間をかけて「定番」に磨きあげられてきたものだから、みんなが好きだし全方向に強いんです。
 どこに出しても恥ずかしくない、エンタメとしてちゃんとしたものが、やっと、やっと、できた。そして一見イージーに見えてその実、愛と勇気、信頼、誠意、忠義、親子の情愛や立場に伴う責任などなど、まっとうなことをきちんと伝え訴えている。それはものすごくすごいことなのである、ということを私はここで訴えたいのでした。
 きちんとしたテクニックやセオリーに裏打ちされてまっとうなテーマを伝えること、それこそが「風」なのです。
 
 さて、創作においてというか物語において、大事なのはまずはキャラクターです。宝塚歌劇で言うならトップコンビが演じる主人公とヒロインに魅力と個性があること。そして彼らの抱える事情や彼らの望み、生き方を巡ってドラマが展開され、起承転結あるストーリーがつづられること。さらに、多彩なスターにしどころある役を与えるべく、主役ふたりの他にもさまざまなキャラクターがいてドラマに関わり、ストーリーを盛り上げること。そしてミュージカルらしいソング&ダンスがあること。
 大事なこと、必要なことは意外にそんなに数多くないのです。基本がしっかりしていれば、少々のご都合主義やうまくいきすぎな偶然展開なんかには目をつぶれるのです。でもキャラがブレていたりその感情や生き方がコロコロ変わって見えたり、唐突すぎたり意味不明だったりするダンス場面をたびたびつっこまれると客は引くのです。お話についていけなくなるのです。そのお話がヤマはどこ? オチはそれ!? みたいなものならなおさらです。それが『邪馬台国の風』でした。残念ながら風は吹いていませんでした。
 翻って『AfO』はどうだったか? 以下、ネタバレ全開で語ります。というかまあもうそろそろネタバレも何もないよね、そんなにたいしたことやってるワケじゃないしね(^^;)。
 演目が発表されたときにほぼほぼストーリーを言い当てていた豪の者もいましたもんね。サブタイトルが「ダルタニアンと太陽王」なんだから、そりゃ珠城さんがダルタニアンでちゃぴが太陽王ルイ14世なんでしょう、と予想はつきました。もちろん二番手ないしその他の男役スターがルイになりちゃぴがヒロイン役、ということもありえるとは思うのですが(この時点では主な配役は出ていませんでしたよね?)、何しろちゃぴは元・男役ですからね。そしてルイ14世といえば双子説、鉄仮面伝説のネタはそれこそ定番です(宝塚歌劇で言えば『ブルボンの封印』や『仮面の男』です)。だからそれを男女の双子にするなりなんなりして、ちゃぴは二役なのか、男装している女子なんだよね、それを知らずに珠城さんダルタニアンが恋しちゃって動揺しちゃってみたいなラブコメ展開がきっとあるんだよね…みたいな予想は、この時点でツイッターでは私はかなり見ました。
 そんなベタな、と当時は笑ったりもしていたわけですが、はたしてその予想は結局全然大きくはずれていなかったわけです。てかほぼまんまだったワケです。ベタ大事!

 では主役ふたりのキャラクーから見ていきましょう。
 主人公のダルタニアンは田舎出身の無骨者、礼儀作法には疎い世慣れない若者ですが、まっすぐな好青年。わかりやすい設定ですね、大事なことです。
 彼は銃士隊一の使い手でもあり、国王の剣術の師範に抜擢されるところから物語は始まります。出自や現在の立ち位置と人となりが冒頭できちんと明示され、必要十分に立ったキャラクターで、在り方としては完璧ですね。そして珠城さんにぴったりですが、演じる役者を選ばないタイプの、わかりやすい、シンプルなヒーロー像でもあります。
 対するヒロインは、私は新公は観られなかったのでわからないのですが、でも普通の娘役が扮してもちゃんと成立させられるくらいしっかり作られたキャラクターだと思います。元・男役の娘役でないと演じられないヒロイン、ではないと思う。そこもちゃんとしています。
 彼女はルイ13世とアンヌ王妃の間に生まれた双子の片割れで(兄妹なのか姉弟なのか明示せず「兄弟」「姉妹」という表現で通していましたが、どちらが上の子か決めてもよかったのではと個人的には思いました)、不吉だということで捨てられそうになっていたところ、間違えて残されてしまった女の子で、男の子として育てられ今やルイ14世になってしまった少女、です。摂政である母親とマザランの助けを借りて政治のこともがんばってきた、でも貴族の男性のたしなみとして必要な剣術にはあまり熱心になれず、バレエが大好き。年頃になり、政略結婚でスペイン王女を妻に迎えることになるかもしれないとあって、自分は一生このままなのかといよいよ焦り出した、ある意味ではごく普通の女の子です。お洒落してみたい、男子にウインクしてみたい、とか妄想しちゃうような、ごく普通の娘さん。
 そんなに強い個性や特徴はないけれど、ヒロインが類型的になりがちなのはよくあることですし、可愛いから大丈夫です(笑)。
 銃士隊一の使い手ダルタニアンを剣術師範に選んだのはマザランで、そこにはある深謀遠慮がはかられていたのですが、それはそれとしてふたりは出会います。そして相手が王だからわざと負けてみせる…なんてことができないダルタニアンは王を怒らせてしまい、クビになるどころか銃士隊まで解散させられてしまう…うまい立ち上がりですよね。銃士として王を守りたいと思っているのに、そのまっすぐな性格故に王を怒らせてしまう主人公、そのトラブルから転がり始める物語。起承転結の起として完璧です。
 一方で、マザランの甥でありマザランが作った護衛隊の隊長であるベルナルドは、ダルタニアンなんぼのもんじゃいと思っているし、イタリア出身ということをフランス人から差別されたりしていますがそれは田舎であるということではなくむしろ往年の都で豪奢で洗練された暮らしを送ってきたのだろうし、だからダルタニアンを田舎者、礼儀知らず、垢抜けない間抜けだと侮蔑する。ヒーローとは正反対に位置するライバル、この布陣もとても正しい。教科書どおりってなもんです。宝塚歌劇はトップトリオの役がちゃんとしていればほぼほぼできたも同然なのです(ベルナルドは今回は三番手スターが演じていますが、構造としてはそういうことです)。
 女装して街に出たルイが酒場でダルタニアンと会って…というのはイージー展開ですが、いいんですお話なんだから。そしてここで三銃士たちのキャラクターもきっちり見せている、これまた大事なことです。お話として全体を見たときにはどうしてもライバル役のベルナルドの比重が大きくなり、三銃士は主人公の大事な仲間役とはいえ少々ワリを食う形になっています。なんならいなくても話はつながるくらいでもある。でも宝塚歌劇だから必要なの、そしてそれぞれ役に扮した生徒がそのちゃんとキャラになってちゃんといい仕事をしているの。大事。
 正直、ポルトスのありちゃんだけはもの足りないかもしれないけれど、さすがにおじさんには見えないというだけであとは健闘していたと思います。豪放磊落というかおおらかでおおざっぱな、力持ちの明るい大酒飲みを楽しそうに演じていました。話が脱線しますが、れいこちゃんの組替えはありちゃんが一息つけてよかったと思うんですよね。劇団はずっとありちゃん推しで珠城さん以上に上げてきましたが、抜擢に応えきれていないように見える部分もありましたし、一方で当て馬のように使われてきたあーさの方の人気が意外と出ちゃうという劇団にとっての誤算もあって、そのあたりもあってのれいことのチェンジだと思います(雪はひとこのものにしたかったのでしょう)。でもれいこがきれいに新生月組の新三番手に収まって、ありちゃんはダブル三番手の下席ないし四番手、のポジションで十分だしそれくらいでこそのびのびやれる部分もあると思うし、その方が結局のちのち大きく育つってこともあると思います。そしてれいこは、送り出すときの餞の反対で迎え入れるときのそういうサービスというのはなんていうんだろう? とにかくそういうこともあってのおいしいベルナルド役だったのかもしれませんが、でも正二番手であるみやちゃんもちゃんと気を使ってもらっていて懺悔のソロなど大きなナンバーももらっているし、これまたいいバランスを保てていると思うんですよね。さらに別格上級生スターのトシゆりがまたちゃんと場所を得ているのも素晴らしい。このあたりの布陣は本当にたいしたものです。でも他組でやっていいスターがいないならもっと小さく見える役にしてもいい、それくらいの自由度もあるのがまた素晴らしい。
 というわけで話を戻して、再会するふたり(ダルタニアンは気づいてないけれど)は恋に落ちます。イージーだけどいいの。珠城さんはお茶会でまあ一目惚れなんでしょうね、初めての恋だったんでしょうねみたいなことをあっさり言っちゃってましたけど、要するに恋に落ちるに足る具体的なエピソードがないということは確かで、弱点ではあります。でも鄙には稀なというか、こんな下町の安酒場では見ない身なりのご令嬢に見えて最初は気を使ったんだろうし、なんかちょっと変なこと言うな変な仕草するなおもしろいな可愛いなよくよく見たらすごく可愛いな美人だなもっと親しくなりたいな…って思っちゃったんですよねいいのよわかるわうんうん。
 そしてルイの方では、実はダルタニアンが語る父との思い出話が意外と刺さったんじゃないかなと私は思うのでした。
 これまた先述のお友達が、フィナーレにちゃぴがバリバリ踊る場面が欲しかった、デュエダンだけではもの足りない、どこかで尺が捻出できないか、みたいなことを言っていて私もちょっと候補を考えてみたのですが、つまむとしたらここの「♪おおガスコン」みたいな歌とか、銃士隊の解散ソング、アラミス神父の懺悔ソング、ヘイヤーって歌う歌のくだり(笑)あたりかなとは思いました。でも二番手スターみやちゃんのためのショーアップ場面は削れないし、といって父とのこの回想場面もあまりあっさりにしちゃうとルイの心に響ききらないんじゃないかと思ったのです。
 幼くして即位したルイに、父親の記憶はほとんどないのではないでしょうか。だからダルタニアンが父の熱い薫陶を受けたことを誇りに思い、田舎と言われようと生まれた故郷を誇りに思い同じ出身の王とその子孫である現国王を愛し敬い、真摯に仕えようとしている姿勢に心打たれ、そして熱く語るそのキラキラさに異性として惹かれたのではないでしょうか。
 なのでイージーだろうとなんだろうと一応の理由はちゃんとあってふたりは惹かれ合い、ラブコメ展開にもつれ込みます。
 いわゆる「壁ドン」も素晴らしかったけれど、私は『阿弖流為』にもあった「私では不足ですか」にハートを鷲掴みされましたね。「俺では不足か」もつまりは反語であって修辞疑問なんだけれど、それでも疑問文ってところがいいのだと思うのです。つまり一応こちらに聞いてきてくれているわけでしょう? まずこちらの価値を認め、しかも高いものだとしてくれて、かつ、自分の方を謙遜含めて貶めて見せて、不釣り合いでしょうかって尋ねてきてくれる、こちらの回答を待っていてくれる。そういうふうにこちらを尊重してくれるのがいいんです、頭ごなしに言ってこないところがいいの。女が望んでいることは女が何を望んでいるのか尋ねてくれることだ、みたいな有名な言葉が確かあったはずですが、たいていの男は女に意志や要望があるということに気づいていなかったり想像すらしてしなかったりするものなんですよ。そういう中において、こういうことを言ってくれる男性キャラクターって本当に輝いて見えます。そういう理屈がちゃんとわかってるのかは別にしてちゃんと書いてくれるイケコや大野先生を私は高く評価したいです。
 さて、というわけで無事に恋に落ちたふたりは三度目の再会で想いを通わせ合い、お話はここからはふたりが無事結ばれるかどうか、すなわちルイの生き別れた兄弟を捜し出して王位を譲りルイを女に戻し結ばれたいという望みを叶えることに焦点が移ります。それはマザランによって解散させられた銃士隊を復活させたいというダルタニアンの望みや、国政へのマザランの影響力を下げさせたいという民衆の望みとも相まっていきます。そこに三銃士たちのそれぞれの活躍も絡んでいく。上手い。そして女性としてのルイに興味を持ち出したベルナルドは恋敵としても立ってくる。上手い。
 ジョルジュの存り方とか、そりゃイージーですよ。でも何度でも言いますがお話ってそういうものです(そしてそれはヒミコの予知がノー・ルールで発動するご都合主義とはまったく違うのです)。そして彼に関しても、血筋さえあればいいんじゃなくて、彼が愛情豊かに育てられたいい若者で、かつそれでもボーフォール公爵の教育を受ける必要があるとされていることが素晴らしいし、マリア・テレサの好みのタイプとされていることも素晴らしい。国王には義務があるということと、国のために政略結婚せざるをえないとしてもそこに愛が生まれる方が望ましい、ということをきっちり見せています。
 クライマックスの大チャンバラはある種のダンスであり見せ場です。そしてマザランが単なる私利私欲の塊の極悪非道な悪役ではなく、アンヌもまた単なる弱く愚かな母で摂政の王太后ではなく、それぞれ国のため民のため王のためよかれと思い手を尽くしてきた大人であり、だから今また憎しみではなく感謝と誠意を持ってお互い別れるのだ…という流れも本当に素晴らしい。
 唐突な関白宣言もまた微笑ましいし、もちろんルイーズがダルタニアンに負けていないのも素晴らしい。彼らは剣の腕とバレエの才があるだけの、若く貧しい何者でもない若者で、しかしこの愛があれば、そして今まで築いてきた仲間や家族と支え合えれば、なんだってできるしなんにだってなれる、未来には希望しかないと信じられる…素晴らしい結末だと思います。てか泣く。
 これが風です。観客の心が動くってことです。
 観客が主人公たちに感情移入し、その心情と言動に寄り添ってストーリーを追い、ハッピーエンドのラストシーンによかったねと喜ぶ。物語に感動し、自分たちが生きる世界の未来も信じられるようになる。エンタメが起こす風って、そういうことだと思うのです。
 たわいのないお話でも、基本的なこと、大事なことは全部ある。愛し愛される者同士が結ばれる幸福、努力や勇気が報われる幸福、仲間や家族と助け合い支え合う幸福、悪を正しあるべきものをあるべきところに納める幸福…
 そこに、風は起きるのだと思うのです。


 なので『邪馬台国の風』に風を吹かせようと思ったら、暗転の多さをどうにかしようとかセリや盆を活用しようなんてレベルの話ではなく、もっとシンプルに、キャラクターとストーリーを確立させるだけで全然違ったはずなのです。
 私だったら…タケヒコは、最初は両親の復讐がしたくて師匠に棒術を習い始めるんだけど、実は泣き虫で優しい少年…というふうにキャラ付けするけれどな。みりおのイメージで。
 長じて、棒術では師匠をしのぎ剣の腕も立つ、立派な武人になるのは、いい。ヒーローですからね。でも、ちょっと山の麓の村人との触れ合いエピソードでも入れて、本質的には優しくて争いを好まず、師匠が生まれた外つ国へいつか行ってみたいと夢見るような、理想家肌のキャラクターにします。その巻き込まれ型のドラマに仕上げる。
 で、狗奴兵に襲われているマナを助け、不思議な縁を感じ、いつか外つ国へ旅立つという予言を受け、母の形見の首飾りをもらって別れる。本当は師匠を弔ったらそのまま外つ国へ渡ろうと思っていたけれど、マナのことが気にかかっていたこともありアシラのスカウトもあったので、邪馬台の兵になることにする、とする。
 仲間を得て、女王ヒミコの予言どおり築かれていた狗奴の砦を襲い、狗奴を退け邪馬台国に平和をもたらしたいと願うようになるタケヒコ。そして祭りの日にヒミコを遠目で見て、マナだと気づき動揺する。あのとき確かに縁を感じたのに、今は女王と一介の兵士…とマナへの想いを押さえ込もうとするけれど、アケヒにそそのかされて、最後に一度だけ…と会いに行ってしまう。こういう心の動きを丁寧に描写したい。
 一方のマナは、予言の才を買われて巫女になる気で来たもののまさかの女王にまで祭り上げられ、諸国の王たちの手前キリッとしていたものの、実は責任の重さにちょっと疲れてもいる、とする。ハナヒたち、祭りを楽しみ好きな男と酒を呑む娘たちを見て、うらやましく思うような描写を入れたり。自分にはもう許されない、普通の娘としての暮らし…そこへ、遠目にタケヒコを見てしまい、動揺はさらに激しくなる。こんなに心が定まらないようでは、神の声も聞けなくなってしまうかもしれない、と自分を抑えようとするが、女装して宮に忍んできたタケヒコと再会し、懐かしさと愛しさに思わず抱きついてしまう。タケヒコも応えてマナを抱きしめてしまう。これはヒミコではない、マナだ、俺のマナだ…と。なんならやることやってもいいと思う。で、気が済んだのか(オイ)、やっぱりこれっていけないわ、国のため民のため、女王と兵士に戻りましょう、共に協力して争いのない世界を作りましょう、となる。別れを決意し、次の世でこそ結ばれようと誓い、万感の想いで最後の抱擁をした…ところをヨリヒクたちに目撃されてしまう、とする。
 神に身を捧げたはずのヒミコが不義密通だなんて、と騒ぎ立てる王たちに対して、タケヒコは女王は不義など侵していない、自分たちは無実だ、神の審判として盟神探湯に応じよう、と言い出す。やることやってんだったらそういう意味では有罪なんだけど(^^;)愛故なんだし、想いを断って別れることにしたんだから今さら外野からゴタゴタ言われたくない。だからタケヒコは強く出る。実は彼には師匠直伝の秘策があり、勝算があったワケですよ。沸騰する熱湯に手を突っ込んでも無実なら神のご加護で無傷なはず、なんてナンセンスだ、くらいの合理的で現代的な感覚の持ち主にしてしまってもいいと思うんですよね。その方が最後に外つ国に旅立つ理由のひとつにもなるし。そしてやることはやっちゃったかもしれないけれど自分たちは別れると決めたのだし、私利私欲に駆られている王たちよりもマナの方がこの国の王にふさわしい、彼女は女王としてこの国に必要な存在だ、だからハッタリかましたる!くらいな方がヒーローっぽいとも思うのです。
 でもマナは秘策のことなんか知らないし、一度は神も国も民も捨ててただのマナに戻ってタケヒコと逃げたい、と考えた罪悪感もあって気が気ではない。タケヒコが無事で、なんらかのカラクリがあったらしいことは気づくものの、自分を守るために彼が無理をしたことに動揺してしまうマナは、一度は引っ込んだ王たちが雨乞いの祈りを依頼してきたときに集中しきれず、神の声が聞けなくなってしまう…
 マナが女王の座を降ろされ、処刑されてしまうかもしれないとなって、タケヒコは再び宮に忍び込み、だったら逃げよう、ただのマナに戻ろう、ふたりで生きていこうと彼女を連れ出そうとする。そのとき、狗奴の襲来をイヨが予言することにしてもいいと思うのです。このままでは邪馬台の里が荒らされる、それは見過ごせない、とヒミコは残ることにし、タケヒコは戦いに赴く…
 マナが王たちに処刑されそうになるまさにそのとき、日食が起き、怯えた王たちは処刑を取りやめる。タケヒコの報告を受けたアシラが狗奴の襲来を告げ、王たちは迎え撃とうと一致団結する。決戦の中で、タケヒコとクコチヒコの一騎打ちがあり、タケヒコが勝つ。
 イヨが新しい女王に立ち、ヒミコでなくなったマナはタケヒコと外つ国へ旅立つのでした…おしまい。
 …ってのはたとえば、いかがでしょうかね? フルドリたちのことまではちょっと手が回っていませんが、とりあえずメインどころだけでもこれならだいぶ風が吹くと思うんですよねえ…A先生いかがですかね?
 親友(みりお担)は「AIが書いたんじゃない? でなきゃあんなに支離滅裂にならないでしょ」となかなか大胆なことを言っていましたが(^^;)、先述とは別のお友達は「酔って5分で書いたのでは」説を唱えていました。どちらもありえそうですが、まあフツーに、いろいろやりたくていろいろ書けているつもりで削ったり足したりいろいろいじっているうちにワケわからなくなっちゃったんだろうなと思っています。
 でもとにかく、大事なのはまずはキャラクター、そしてその生き様から立ち上がるストーリー。基本はそれだけなのです。訴えたい何か壮大なテーマがあるのだとしても物語の形で表現するというのなら基本はそこなのです。それを押さえてほしい。
 そんなにたいそうなことは求めません。でもそれすらできないのだったら、もう二度と登板しないでいただきたいですマジで…(ToT)

 今週末にはいよいよ『神土地』です。くーみんはさすがちゃんとしてくると思いますよ、こちらも心して挑んできますよ…
 毎度毎度、ホント勝手な私見をランボーな書きようで綴るブログですみません。読みに来てくださる方に本当に感謝しています。
 本日めでたくまたひとつ歳を取りまして、ムラで楽しく幸せに過ごしてきましたありがたや。去年のルドルフ初日から一年ですよ、早いなあ濃いなあ…
 今後ともよろしくお願いいたします、おそらく来週の今ごろ、またアレコレ書いて上げてますきっと。よかったらおつきあいくださいませ。



 
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柚木麻子『私にふさわしいホテル』(新潮文庫)

2017年08月11日 | 乱読記/書名や・ら・わ行
 文学新人賞を受賞した加代子は憧れの「小説家」になれる…はずだったが、同時受賞者は元・人気アイドルで、すべての人気をかっさらわれる。それから二年半、依頼もないのに「山之上ホテル」に自腹でカンヅメになる加代子を、大学時代の先輩・遠藤が訪ねてくる。大手出版社に勤める遠藤から、上の階で大御所作家・東十条宗典が執筆中と聞いて、加代子は…文学史上最も不遇な新人作家の激闘!

 確か単行本でも読んだような記憶がうっすらとあるのですが…ここでの記載はないですね。そして私は読んだ本の内容をわりと綺麗さっぱり忘れられるというなさけない特技があるので(なのでミステリーでも「意外な犯人」に何度でも驚けます。なので本当に備忘録としてとしてここを展開しているのですが…)、文庫でも楽しく読んでしまいました。単行本読了当時、特に感想を上げなかったのは、感想を書きようがなかったのかもしれません。
 小説家小説…というのもなかなか難しいもので、きちんとエンタメに仕上げるのは意外と大変なことだと思うのです。この作品も露悪的だったり戯画化されていたりの、かなりデフォルメされたファンタジーではありますが、それでもリアルな部分も感じられるし、作者本人の自意識や理想や怨恨や怨念があちこちに発露されているのでしょう。その上でちゃんとエンタメになっているところがすごい、と私は思いました。最近、そのあたりが中途半端に思える漫画家漫画を読んだところだったので、それより断然ちゃんとしているな、と比べちゃったりしました。
 思えば加代子は不遇だけれど、筆力も演技力もある、才能あふれる女性なんですよね。もっと違う生き方ができれば、もっと楽に幸せになれそうなんですけれどねえ。両脇を固める男性ふたりと安易にラブが生まれないところも、またなんとも味わい深いです。楽しくぐいぐい読んでしまいました。
 しかしおもしろい作家さんだなあ、作品によってテイストがだいぶ違う気がします。まだまだ奥が、底が、あるのかも…そのあたりも、興味深いです。




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