駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『グレート・ギャツビー』

2017年05月28日 | 観劇記/タイトルか行
 日生劇場、2017年5月26日18時。

 1920年代、アメリカ。ニック・キャラウェイ(田代万里生)は証券会社に就職し、中西部からニューヨーク・ロングアイランドにある新興住宅地・ウェストエッグに引っ越してきたばかり。隣はギャツビー(井上芳雄)という謎の紳士の大邸宅で、夜ごと豪華絢爛なパーティーが開かれていた。招待状をもらったニックはパーティーに足を踏み入れてみるが…
 原作/F・スコット・フィッツジェラルド、音楽/リチャード・オベラッカー、脚本・演出/小池修一郎、音楽監督/太田健、振付/桜木涼介、美術・映像/松井るみ。1991年に宝塚歌劇雪組で上演、2008年月組では二幕ものに改変、そこから作曲家を変えての上演。全二幕。

 私はカリンチョさんには間に合っていなくて、アサコのときの感想はこちら、去年の内くん主演のものの感想はこちら
 原作小説は大昔に読んだ記憶がある…けれど、この過去記事を読むと挫折したままなのかもしれません、あやふやですみません。ディカプリオの映画はまあまあ楽しく観た記憶があります。総じて、私はお話としてわりと好きなんですよね。というかとても通俗的なメロドラマだと思っています。
 だから、今考えると、やはり宝塚歌劇でやるとジェイがカッコよくなりすぎちゃって、別物になってしまうのではないかなあ、と思いました。そういう意味で、外部で男優が普通にやった方がいい話なんじゃないかと思いました。今回、初手から芳雄くんのジェイは胡散臭いし万里生くんニックもそう感じていることを隠していない芝居をちゃんとしているので、あ、正しいなと思いました。
 正しくないのは、芳雄くんは男優さんであって宝塚歌劇のトップスターさんじゃないのにただカッコいいだけのナンバーを歌わせたり、今回は宝塚歌劇じゃないのに別格スターのために書いたようなナンバーやほぼモブの若手組子のアピール&サービスのために書かれたようなナンバーをいちいちやることです。それは作品として意味がない、と私は思いました。
 そもそもある種の教養のうちみたいによく知られた話なんだから、もっとさっさとストーリーを進めるか、少なくともせめてもっと芝居をしてもらいたい、と私は思いました。でもこのあたりはどうなんでしょう? 例えば宝塚歌劇をまったく観ない、普通のミュージカル・ファンに方にとっては、普通の作品に見えるのかなあ? あるいはこれくらいたくさん歌が聞きたいと思うものなのかなあ? でも、間延びしてません? 冗長じゃありません?
 特にラストの一曲がいらない気がした、というか演出として激しく間違っている気がしました。つまりイケコはこのジェイという男をもしかしてカッコいいと思ってこの作品をずっとずっとやっているのか?という素朴な疑問が湧いちゃったんですよね…
 違うよ、カッコ悪い勘違い男だよ、今で言ったらストーカーだよ、これは愛ではなくて偏執だよ狂気なんだよ、でもそれも含めてせつないし、普遍的だし、そういう意味でいいお話なんだよね…って視点があるべきなのではないの?
 デイジーにしても、ある意味中途半端にお金持ちの家に生まれただけの、そしてとんでもない美人に生まれただけの、中身はすごく賢くもすごくお馬鹿さんにもなれなかったごく普通の女の子で、結婚して妊娠して出産して娘の母になってしまったごく普通の女で、女神でも聖女でもないし魔女でも悪女でもない。そのありきたりさ、でもそこにはまってしまう男がいる…というだけの話なワケでさ。
 そういう視点がないまま、ただ酔ったように、主役男優が朗々と歌い上げるのを男性脚本家が嬉々として演出してうっとりしてるんだとしたら、それを想像するだけで女は引くよね、という気はしました。
 だからそろそろこの話、女性演出家で観たいなー。あともっといいデイジーで観たいなー。イヤねねちゃんはそりゃ可愛かったですよ、でももっとゴージャス美女タイプの女優で観てみたい気がするし、もうちょっとだけ知性もあってずるさも弱さもあるところが芝居でできる演技力のある女優さんで観てみたいワケですよ。
 その意味で、私はまた違う座組でこの作品がかかればまた観にいくんだろうな、そして「ケッ」とか言い続けるんだろうな…(笑)
 芳雄くんファンはまた違う見方をしているのかもしれませんし、ねねちゃんにもっとファム・ファタールのイメージが見られる方もまた違う感じ方をしているのかもしれません。ここはいつも私の一方的な感想の場ですみません(^^;)。
 あきちゃん、りりこがさすがに印象的でした。コロちゃんもいいスパイスでした。まりもはちょっと物足りなかったかな…
 そうそう、観に行った回の客席が星組祭りで、私は来月に宝塚ファン歴24周年を迎えるとかなんですけど、記憶にある限り初めて(何しろ私は忘れっぽいので)生徒さんのお隣に座りましたよ…! 平静を保ち知らんぷりするのが大変でした(笑)。イヤ私はこういうとき必ずスカすタイプなんですけれどね。そもそも近すぎるからジロジロなんて見られないってのもありますが、気配だけでも感じられる頭の小ささと、脚が長すぎて窮屈そうな感じが激ラブリーでした(*^o^*)。いい経験になりました…!









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宝塚歌劇星組『スカーレットピンパーネル』

2017年05月28日 | 観劇記/タイトルさ行
 宝塚大劇場、2017年3月19日11時。
 東京宝塚劇場、5月23日18時半、25日18時半。

 18世紀末のフランス。民衆がバスティーユの牢獄を占領した1789年以降、王政は廃止され、パリには革命の嵐が激しく吹き荒れていた。ロベスピエール(七海ひろき)を指導者とするジャコバン党によって貴族たちが次々と捕らえられ死刑宣告される中、革命政府の恐怖政治に反感を抱くイギリス貴族パーシヴァル・ブレイクニー(紅ゆずる)は誰にもその正体を知られることなく、無実の罪で捕らわれていく貴族たちを密かに救い出し、フランス国外へ逃がすという大胆な行動で街中を騒がせていた…
 原作/バロネス・オルツィ、脚本/ナン・ナイトン、作曲/フランク・ワイルドホーン、潤色・演出/小池修一郎。1997年ブロードウェイ初演、2008年宝塚歌劇星組により日本初演、2010年に月組により再演されたミュージカルの三演。新生星組お披露目公演。全二幕。

 初演星組の感想はこちら、再演月組の感想はこちら、最近トウコさんがマルグリットを演じた外部版の感想はこちら
 大劇場で観たときには、聞いてはいましたがベニーとあいーりの歌がともにほぼほぼ問題なく仕上がっていることに感動しました。本当にがんばってレッスンしたんだろうねえ、本当に歌が良くなったよねえ。どちらも椅子から転げ落ちそうになったりまったくメロディがわからない歌があったりしたところから知っているだけに感慨深かったです。が、東京ではあいーりはちょっと調子を落としていたのか声量が足りていなかったような気が…? そしてベニーは、開演アナウンスからなんであんなヘンなの? まさおよりひどい抑揚付けてて、また椅子から転げ落ちそうになりました…
 申し訳ありませんが、愛があまりないせいもあるかと思いますが、芝居としてはあまり感心しませんでした。妻に疑惑を感じているため、という理由はあるにせよ、パーシーのマルグリットへの態度はけっこうひどいものに私には見えましたし(観客にはマルグリット側の事情も見えているんだから、彼女が夫からあそこまで冷たくあしらわれるのは理不尽に思えるだろうし、結果パーシーの男を下げていると私は思うのだけれど…)、正体を隠すため、という理由があるにせよ、パーシーの道化っぷりは私には目に余りました。あいーりもがんばって大人っぽい女優っぽいヒロインを演じていたけれど、ちょっとがんばってる感が見えちゃっていたかな、と…
 ま、これからの新トップコンビなので、ニンに合う役に当たればまた違うと思いますし、華はあって素敵なので期待しています。
 変わらず上手いのがまこっちゃんショーヴランで、まあこれは私がまこっちゃんが好きだからというのもあるんでしょうけれど、キュンキュン楽しく観ました。チエちゃんの完コピだという人も多いそうだけれど、私はそこまで記憶がなく…少なくとも歌は圧倒的にまこっちゃんの方が上手いやろ、と思うのですが(^^;)。
 ショーヴランは二番手が演じる役の中でもかなり大きい方だと思うし大曲もいっぱいあるし、それを自信満々に朗々と歌ってみせてやりすぎなくらいのまこっちゃんが、私には愛しいです。芝居としても、やや迷惑な元カレなんだけど、そういう情熱とか空回りっぷりとかってとてもいじらしくて微笑ましくて、役回りとしてもおいしいと思うんです。ストーリーとしてはけっこう単純だし、パーシーがピンパーネルだと気づくとかグラパンがパーシーだと気づくとか公安委員がスカピン団だと気づくとかのくだりはけっこう間抜けでドリフチックなんだけれど、それを保たせる愛嬌がまこっちゃんショーヴランにはあったと思うんですよね。なので私は楽しく観ました。
 そしてくらっちのマリー(有沙瞳)が可愛くて、恋人ちゃんsのはるこが可愛くて、スカピン団ではハル(綾凰華)一択で、にまにま観ていたら終わってしまいました…
 あ、新曲が増えたかいちゃん、素敵でしたね。いい異次元でした。
 あと本当に楽曲が良くて、民衆たちのコーラスも素晴らしく、ナンバー終わりに自然に拍手できたのが気持ちよかったです。
 あとはロケットのあやぴーな…いい持ち味の違いだよねえ。あとは次こそあやなに新公主演をさせてやってくれたまえ…!
 あ、でもパレードの階段真ん中降りについてはちょっとぉ…!と思いましたよね。怖いわぁ…





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はるかなる『ポーの一族』によせて――

2017年05月24日 | 日記
 2018年1~3月、宝塚大劇場・東京宝塚劇場の花組公演にて、宝塚歌劇団が『ポーの一族』を上演…!!!

 私は、どこで知ったのかは覚えていませんが、イケコがずっとやりたがっていて、萩尾先生にも申し出ていて先生もそれを了承していて、だから先生がよそからの企画を断り続けているらしい…というようなことは知っていたので、そういう意味では驚きませんでしたが、イケコはともかく(オイ)モー様が何しろお若くてコンスタントに新作をバリバリ描いてて現役感ハンパないので、そういう意味でなんとなく実現はまだまだ先になるんじゃないかと漠然と考えていたので、やっぱり驚きました。でも今やるなら確かにみりおだよね。てかイケコってホントみりおが好きなんだね…
 私はなーこたんがやった『アメリカン・パイ』も生で観ていてうっかり泣いたりもしたのですが、でも当時はまだなかった言葉だけれどなんとも言いようのない「コレジャナイ」感も味わったものでした。私はモー様の『この娘うります!』や『フラワー・フェスティバル』みたいな、わりと単純なラブ・ストーリーも大好きなんだけれど、モー様はその真髄としては意外と宝塚歌劇とは軸足を置く位置というか求めるものというかが違うんじゃないのかな、という懸念もあります。あと、スタジオライフ『11人いる!』を観たときにも舞台としての良さを私は今ひとつ感じられなかった記憶があるので、そういうもろもろもあって、『ポー』の舞台化は実現しないまま夢物語で終わってしまえばいい…と思っていた、というところはあるかもしれません。
 が、決まってしまったからには仕方がない。応援しますし、期待しますし、もちろん観にいきますよ初日から。三年連続ムラ年越しですよ笑っちゃいますねー、人生楽しいなー!(ヤケクソ)

 で、まず、では私がいつどのようにしてモー様作品に出会ったのか、ちょっと遡ってみることにしました。
 引っ越ししたりなんだりのたびにコミックスを処分して減らし、でもまた豪華版や文庫版を買いなおしてしまう…といったことは多くの方に経験があることだと思いますが、私は最初に読んだときの『ポーの一族』のコミックスを未だに持っています。小学館の少女漫画のコミックス、いわゆるフラワーコミックスは、『ポーの一族』第1巻がFCナンバー1です。ここからレーベルが創刊されたのです。1974年、昭和49年のことです。
 ただし私が持っている第1巻は1981年の第25刷のものです。そして2巻と3巻は初版を持っています。つまり私はこの2冊を偶然町の古本屋さんで買って読み、前後の巻は見つけられなかったので新刊書店で購入して揃えたのでした。小学校6年生のときでした。『トーマの心臓』はすべて初版で持っていて、これは『ポー』ののちに古本屋で揃えたんだったと記憶しています。
 弟と共に週刊少年漫画誌4誌を読み、自分のお小遣いでは「りぼん」を買っていた子供でしたが、このころから買う雑誌は「LaLa」(1976年創刊)に移っていったように記憶しています。そして徐々に、花とゆめコミックスと、主に「別冊少女コミック」(今は「ベツコミ」)系のフラワーコミックスを買い揃えるコミックス派になっていったんじゃないかなと思います。成田美名子や清水玲子、渡辺多恵子や吉田秋生です。
 雑誌の「プチフラワー」を買うことはまったくなかったので、モー様でリアタイしているのはずっと大人になってから、『残酷な神が支配する』あたりからだと思います。でもたとえば、赤い背表紙の萩尾望都作品集(第1期)や七色グラデの作品集(第2期)は愛蔵していて、『マージナル』もプチコミックスで持っていますし、一連のバレエもののコミックスもちゃんと買っていました。ずっと読み続けてはいたんですね。
 『ポー』に関して言えば(これは『トーマ』でも同じですか)、萩尾望都Perfect Selectionが出たときの衝撃は忘れがたいですね。これは連載当時のカラー扉などもそのまま収録した豪華版だったのですが、これで読むと「連載としての切れ目はここだったのか!」と全然テンポが違って感じられましたし、カラー扉の裏の1ページが、ストーリーとは直接関係がないアバンみたいな、ポエジーなネームだけのページだったりすると、今までは省いてしまって収録しないですませてきたということがわかった、とかの新たな発見がありすぎたのでした。
 さらに去年、復刻版が出たので、特典ポスカ付きの限定BOXを買いましたが、謎の誤植を見つけたりもしましたね…(^^;)あと、ポスカのうちの1枚が『11月のギムナジウム』の扉絵だったのは本当に謎です。これは『トーマ』に紐づく作品で『ポー』とは関係ないのですから。この2作は初期の二大傑作と言っていい作品だと思いますが(モー様は今でも精力的に作品を発表し続けているし他にも傑作はたくさんあるので、萩尾望都といえばこの2作、としていつまでも語られることには違和感しかありません。他を読んでないことを白状してるだけですやん)、そこで描いていることはけっこう違っていて、どっちが好きかとかどっちがどうとかという議論は根深いものがあってマゼルナキケンだと私は思っているのですよ…
 ともあれ私は『ポー』に出会い、そこからたくさんのことを学びたくさん影響されて育ちました。個人的に『ランプトンは語る』のラストの年表が大好きだったんですよね、ホントおたくですよね…
 40年ぶりの新作『春の夢』も、当初は世間の騒ぎに比して内容がアレレ…とか思っていましたが、連載になってからはさすがにおもしろく、単なる過去の名作の焼き直しなどに落ちていないところは安心しました。『王妃マルゴ』の新巻も楽しみにしています。
 リアル世代としては私より10か15歳くらい上の人がドンピシャなのかもしれません。お若い方の中には、名前は知っているけれど実は読んだことがなくて…とか、実は全然存在を知らなくて…とか言う方も多いでしょうね。それは別に恥ずかしいことではありません。でもこれを機会に、読んでみていただけたら嬉しいな。新書版コミックスでたったの5巻、文庫版で3巻ですからね。電子版も配信されています。
 そしてゼヒ感想を聞かせていただきたい、感想を語り合いたいです。簡単に言うと、14歳のときの姿のまま吸血鬼として生き続けている少年、エドガーを主人公にした、一連の連作短編シリーズです。
 ただ、今どきの、「Sho-Comi」や「別マ」で連載されている学園もののような、コミックス1冊が下手したら15分で読めてしまうような構造の漫画ではありません。古いというのとは違うけれど、もっと複雑で多重的なコードで描かれている物語…とでも言うのかな。
 発表順、収録順のどちらで読んでも物語の中の時間が行ったり来たりしてわかりづらく感じられるかもしれないし、でももちろんそれがいいというところも多分にあります。一番大きいのはモノローグで、今なら書体を変えるところが普通の台詞と同じアンチになっていますよね。フキダシに入れられない、宙に浮いた、あるいはシッポが小さないくつかの丸でつなげられるタイプのフキダシに入れられた、ナールで打たれた文字はモノローグであり、ストーリーの主人公にしか基本的には許されていない…のが最近の漫画の基本的なルールのひとつでしょう。視点人物が揺らぐのはあまり良くないとされているのです。でも『ポー』ではいろいろななキャラクターのモノローグが入り乱れることが多く、またどのキャラクターのものともつかないある種のポエムのようなネームが宙に漂っていることも多く、それがまた作品全体のムードを統率していたりするのです。そういった味わいは、今でも通じるものと私は信じているけれど…なんせ私は暗誦できるくらいに魂に刻み込まれてしまっているので、もはや私には正確な判断がつけられません。これから初めて読むという方々にも楽しんでいただけることを祈るのみです。

 さてしかし、実際に宝塚歌劇でやるとなると、どうするんだろうねえ…一本ものだけれど、一幕と二幕で違うエピソードをやって、みりおエドガー以外はみんな二役、とかたとえばどうかしらん?
 一幕が『メリーベルと銀のばら』なら、みりおエドガー、ゆきちゃんメリーベル、キキがオズワルドでカレーちゃんがユーシス。二幕は『エディス』で、みりおエドガー、ゆきちゃんエディス、キキはロジャーでカレーちゃんアラン、みたいな。
 あるいはオリジナルのエピソードでやるにせよなんにせよ(だが『るろ剣』のオリジナルエピソードっぷりは下の下だったと私は思っているのですが…)、主人公のエドガーが14歳の姿のまま生き続けている吸血鬼である、という点は外してもらいたくないのですが…
 心配なのは、別にみりおは14歳を演じられるだろうし舞台のいろんな魔法もあって14歳に見えるだろうと私は信じているのだけれど、イケコや劇団がそう判断するかどうか、ってことですよね。あと、なのでエドガーはあくまで少年であって男性未満であって、通常の意味での恋愛はしないキャラクターなんだけれど、宝塚歌劇はどうしても色恋を描こうとしてしまうものなので、そこがどう合致するのかな?という点ですよ。恋愛は他のキャラクターにさせればよくて、たとえば同じ14歳の吸血鬼でもアランは恋愛するタイプなんだけれど、とにかくエドガーは違うので、彼を主役にするなら主役がする恋愛は描くなよなってことです(彼がヒロインから惚れられてしまう、とかはかまわないけれど)。そのあたり、どうなんだろう…
 22歳、とか26歳、とか中途半端に年齢設定を上げてきたりすることもありえるのかなー…でもそれはエドガーではないし『ポー』ではないんだけどなー…それはただの別の吸血鬼ものですよ…だって彼はリデルに言ったんですよ? 「ぼくたちは……大きくならない」って。そこは押さえてくれるよねイケコ?
 でもとにかく心配なので、おそらく現時点では何も決まっていないんだろうし(オイ)、とりあえず早速イケコにお手紙を書いてみた私だったのでした…頼みます、本当に…

 とりあえず『All for One』が楽しみです!!!(ヤケクソ)
 あ、その前に話題の(笑)『ギャツビー』も拝見します、暴れたらすみません!!!








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『あさひなぐ』

2017年05月23日 | 観劇記/タイトルあ行
 六本木EXシアター、2017年5月20日18時(初日)。

 二ツ坂高校一年、東島旭(齋藤飛鳥)は中学まで美術部だったため、「薙刀は高校部活界のアメリカンドリーム!」という言葉に感動して薙刀部に入部する。だがこれまでスポーツに縁のなかった旭は、稽古にもついていけずにおちこぼれていき…
 原作/こざき亜衣、脚本・演出/板垣恭一。全2幕。

 原作は「週刊ビッグコミックスピリッツ」に連載中の薙刀の部活動漫画です。漫画家さんがプログラムに寄せたコメントのとおり、確かに部活動に励む少女たちは、お互いにライバルでもあり仲間でもあり、アイドルグループの活動に似ているところがあるのかもしれません。その意味で素晴らしい企画だと思いました。最近では漫画を原作にした舞台も多く、2.5次元なんちゃらといったものは出来がピンキリで、この企画もどう転ぶかなとやや心配してはいましたが、さすが東宝、そしてさすがトップアイドルの乃木坂46を据えただけあり、映画化企画も同時進行しているとあって、素晴らしい出来栄えの舞台でした。というかダメ出し要素がまったくなかった。こんなの、私にしては珍しいことです。
 幕開きこそ、とても通学電車の車内には見えない簡素な舞台装置にやや驚きましたが、それはそこだけで、あとは舞台は変幻自在にコートになり街になり合宿所になり、必要十分で転換もあざやかで、素晴らしかったです。
 ミュージカルではないのでナンバー終わりに拍手を入れる、とかがないので、どこにも拍手を入れるタイミングがなかったことだけが不満かもしれません。一幕ラストは暗転ではなく幕を下ろしてくれれば、拍手ができたのにな。あとはキャストが勢ぞろいして決めるプロローグ、あそこでバックに映像でロゴをバンと出して一度みんなでキメ、場内拍手!としてからまた散り散りになった方が、気持ちよかったかもしれません。でもホント不満はそれくらいでした。
 基本的には原作漫画に忠実で、でも非常に明快で過不足ない台詞、キャラクター立て、スムーズな場面転換、省略もうまいストーリー展開でした。そんな手堅い脚本・演出を、トップアイドルたちが素人くささなんかを売り物にすることもなく、全身全霊で女優として役になりきってやってみせていました。多少まだ硬いかなとか、呼吸が合っていないかなとかはありましたが、すぐ解消されるだろうと思えました。
 私はキャストにはまったくくわしくありませんが、ファンには、「あの子がこんな役をやるなんて」という見方、楽しみ方もあるんだろうなと思います。私には本当にそれぞれキャラクターにぴったりに見えました。でもパンフレットなどの写真を見るとアイドルとしての素顔はもっと全然タイプが違うキャストもいて、おそるべし…!と感心しました。
 ミュージカルではないのだけれど、試合や稽古がダンスのような振りでイメージ演出される場面はあり、そういうときの揃い方やフォーメーションの美しさ、体の動きの切れなどは、さすが日々のライブやテレビのステージで鍛えられているだけのものがあるなと感動的でした。
 何より感動的だったのが、実際に薙刀が振り回されるのを見られたことかもしれません。原作漫画はもちろん熱く激しいスポーツ漫画であり、試合の様子なども十分に想像はできるのですけれど、でも私は実際の薙刀の試合をたとえテレビででも見たことがありませんでした。だから実際の長さとか、振り回すときの重さ、しなり、相手のものとぶつかったときの音、衝撃などは、この舞台で観てみるまでまったくわかっていないかったのです。キャストはかなり薙刀のお稽古をしたようで(新人王と目されるような役も出てくるのですから当然なのですが)、ごまかすことなくかなり激しく打ち合っており、そのときしばしば効果音でない本当の打突の音が舞台から響いたのでした。私はそれにシビれました。生ってすごい。
 そしてもうひとつ。原作は女性漫画家の手による青年漫画ですが、だからなのかなんなのか、不思議と百合臭があまり感じられないと私は思っていたのですが、どうしてどうしてこの舞台にはもっと全然ありましたね。生身のお若いお嬢さんたちが先輩にあこがれて仲間と競い合ってライバルと戦う役を演じながら、泣いたり笑っていたして舞台を転げまわるので、得も言われぬ清純な色香が放出されてしまっていましたよ…これはおもしろい発見でした。
 それから、原作は男性漫画家による少年漫画ではないので、そういうものにありがちなキャラクターの類型化がわりに少なく、それは一方でパターンとしての弱さ、あいまいさにも通じてしまっているところがあると私は思っていたのですが、舞台ではちょうどよく感じられたのもおもしろかったです。極端すぎるとまた悪い意味での2.5次元臭がしそうだし、でもこれはあくまで現代日本が舞台の女子高生たちのごく普通の青春ものなのだから、これくらいのナチュラルさでちょうどいいのかな、とか思いました。
 個人的には私はえり(生駒里奈)というのはかなり特異なキャラクターだと思っていて、普通の漫画だともっと極端にしっかり者の部長タイプにしちゃいそうなところを、ずるかったり弱かったりするところもあるわりと普通の女の子に仕立てているところをとても興味深いと思っていました。だから実は一番演じにくいタイプのキャラクターなのではあるまいか…と思っていましたが、生駒さん、すっごくよかった。あと綺麗。好みでした。
 男の子たちがいいスパイスになっていて、もちろん絶妙に上手いのも好印象でした。小林先生役の石井一彰もね。
 それからAKBだの乃木坂だのの(ひとくくりにしてはファンに怒られるのでしょうが)大先輩に当たる宝塚歌劇団から、マミちゃんあみちゃんという絶妙に上手いふたりによる助演という、万全の布陣がまた素晴らしかった! なんてったってマミちゃんの登場場面はそこだけミュージカルでしたよ。イヤ歌っていません踊っていません、ただ音楽に乗って薙刀の演舞を見せるだけのような登場シーンなんだけれど、もう完全にひとり舞台でオーラが違うし空間の埋め方が全然違う。圧巻でした。まだ男役の声なの!?と思ったけどそもそも声が低いんだった、この人…(笑)でも薙刀の師匠役としてピッタリ、そして確実に舞台を締めていました。
 そしてあみちゃんが、まずバイトの審判役が凛々しくて素晴らしくて…本役(笑)も抜群に上手くていい笑いを取っていました。とても正しい。現役時代も娘役としてはわりと大きい方だった印象だけれど、乃木坂の子たちと並ぶとヒールがあるにしてもすごく背が高く見えたのも驚きでした。でもいい女優さんになりましたよね、私は好きです。
 原作は連載中ですし、お話は刊行中のコミックスの半分も行ってないくらいのところでとりあえず上手くまとめていて、トータルでものすごいメッセージとかテーマがあるとかではないかもしれませんが、私は何度も泣きました。「彼女は何故強いのか? 彼女が一番、強くありたいと願っているからだ」とか、「強さ」に関する印象的なセリフが多くて、そこが作品の肝だったのかもしれません。本当にいいガールズパワー作品でした。いや、主人公たちの性別はたまたまで、いい青春もの、ということでいいのかな。
 おそらく乃木坂ファンだけでチケットは瞬殺した舞台でしょうが、原作ファンや一般の舞台ファンにも広く観てもらえたらうれしいなあ。外連味のない、まっすぐすがすがしい、でも舞台としてもとてもよく工夫された、いい作品でした。
 客席は演劇を見慣れていない、そしてなんなら原作漫画も読んでいない乃木坂ファンが多いのか、主に笑いに関して反応が微妙でしたが、そのあとりも温まっていくのでしょう。いい原作と舞台と役者とファンの出会いになったのではないでしょうか。映画も楽しみです。



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鈴木信平『男であれず、女になれない』(小学館)

2017年05月21日 | 乱読記/書名あ行
 自身の性別に疑問を覚え、同性愛、性同一障害など既存のセクシャルマイノリティに居場所を求めるも、適応には至らなかった著者が、ホルモン摂取や豊胸、造膣などいずれの女性化も求めることなく、男性器を摘出することに至った手記。

 帯に「小学館ノンフィクション大賞選考会を紛糾させた問題作」とありますが、自分自身を取材したものはノンフィクションと言えるのか、ということが問題だったようですね。ともあれおもしろさは認められて刊行されて、よかったです。しかしあまり話題になっていないようなのは何故なのでしょう、もったいない…とはいえ私も店頭で偶然見つけて興味を持ってふらりと買ったにすぎないのですが、引き込まれてぐいぐい読みました。
 流行り廃りでこういう話題を扱うのはいいことではありませんが、それでも今、セクシュアリティ云々というのは注目を浴びている分野だと思うんですよね。あまりにもそういう言い方で取り上げられてしまうのはこの作品の本質をゆがめることになりかねないけれど、せめて注目はされないと埋もれてしまうので、もったいないなと思いました。
 でも帯のその他のキャッチからして微妙だからな…ちゃんとした販売戦略が取れているのでしよぅかね? 少なくともこれは「日本『性文学』史上最大の問題作」なんかではないと私は思ったのですけれど。特に「性文学」なんかではない。むしろごく普通の、あたりまえの、とある青年の、まあ性別を避けて表現するなら青少年の(手術時の年齢に関しては当人はざっくり「中年」と表現してしまっているけれど)とある手記にすぎません。「体を変えたいと思った理由は女性に近づくためじゃない。男性から遠ざかるため。むしろ、自分に近づくため」という本文からの抜粋も帯にあるように、自分らしく生きようとしているごく普通の人間の、軽妙でユーモラスなところも多々ある、エッセイですよ。
 その点、三浦しをんの推薦文はさすがにちゃんとしていました。「正直かつ誠実に考え実践して生きる、著者の姿勢に激しく胸打たれた」。そう、著者はユーモアを交えつつも、まっすぐ、真摯に、自分の心と体と人生に向き合って生きている、真面目でまっとうで素敵な人間です。だから私も泣き笑いしながら読みました。
 特に文体がいいですよね。プロの作家じゃない筆致、ナチュラルさがいい。ちょうどこうしたブログなんかによく見られるもののような。若い世代でSNSに慣れているのかもしれないし、逆にそういうところでは明かすところがなかったことからこそ、こういう形の原稿として出版社に持ち込んだのかもしれません。そういう視線、姿勢、筆力は頼もしい。その意味では立派に文学だし、文学界まだまだ死んでいないのだなと思いました。
 「生きづらさ」という言葉にはそろそろ手垢がつきすぎてきた気がします。みんなそりゃ自分の悩みが一番に決まっているけれど、もっとしんどくて、でももっと真剣にいろいろ考えて、ちゃんと実行している人がいる、ということに目を向けるためにも、広く読まれていい作品だなと思いました。
 あと、家族と人生と友達と社会と世界に対して愛があふれているところがとにかくいいです。それこそが男性性からの解放なのかもしれません。てらいなくこういうことを言える男性って全然いないので。ラブ&ハッピー、大事です。量産、大事です。幸せになって、世界に幸せを返していく、世界を幸せにしていく。大事! 私は著者が愛する劇団のお芝居を観たことが残念ながらないけれど、私もその主宰の方と同じで、「物語で世界を変える」と言い続けてきています。著者もまたこれを書くことで自分の生き様をひとつの物語にして、そしてまたこの先もまっすぐ生きていくのでしょう。ハッピーを量産しながら、周りに大好きと言いながら。
 素晴らしいことですね。いい読書になりました。



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