駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『Shakespeare’s R&J』

2018年01月28日 | 観劇記/タイトルさ行
 シアタートラム、2017年1月26日19時。

 鐘の音に24時間を支配されている、厳格なカトリックの全寮制男子校でクラス4人の学生たちは、抑圧された環境の下、夜中にこっそりベッドを抜け出し、読むことを禁じられているシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』のリーディングを始める。見つかってしまう不安に怯えながら夢中になっていく学生たちは、ロミオ、ジュリエット、修道士ロレンス、乳母たちさまざまな登場人物を演じていくうちに…
 原作/W・シェイクスピア、脚色/ジョー・カラルコ、翻訳/松岡和子、演出/田中麻衣子。日本初演は2005年、全1幕。

 パルコ劇場での初演も観ていて、そのときの感想はこちら
 当時は、おもしろい企画だなと思ったものの戯曲や舞台の真価を私が完全には捕らえきれなかったような、そんな印象が残っていました。その後私もいろいろな舞台を観てきて、ちょっとは進歩したんじゃない?と思えたのが今回の観劇でした。
 まず、前回は役者の個性というかぶっちゃけ顔形がうまく見分けられなかったせいで、誰が誰だか今ひとつ捕らえきれず、学生たちが素の自分として『ロミジュリ』の台詞を言っているのかそれとも『ロミジュリ』のお話の世界に入り込んでしまってそのキャラクターとして台詞を言っているのか、が区別できずもったいない気がしたものですが、今回はそんなことはなかったのです。
 まず学生1の矢崎広はアカレンジャー・タイプというか、いかにも主人公というかヒーローというかクラスの人気者というか、要するに「主にロミオを担当」する生徒にちゃんとハナから見えたのです。丸顔で目鼻立ちもはっきりわかりやすくて、上背もある、というような。
 そして学生2の柳下大はその双子のような背格好に見えて、でもよく見るとこちらの方が顔の造作が中央に集まっていてより精細に、なんなら女性的に見える。だからジュリエット役者に見えるのです。
 続く学生3の小川ゲンが、眼鏡をかけていたこともあるのですが、ふたりより小柄で細面で、だからちょっと神経質そうな優等生っぽそうなキャラクターに見えました。学生4の佐野岳は彼と同じくらいの背でやはり小柄で細面で、こちらはなんとなくマッチョな顔立ちに見えました。そしてその立ち居振る舞いから、道化役というかグループの中で賑やかし役を進んでやりそうな生徒に自然と見えたのです。学生3がキャピュレット夫人やマーキューシオを、学生4が乳母やティボルトを演じる役回りになるのはとても自然なことに思えました。
 この作品にはオリジナルの台詞がなくて、すべてがシェイクスピアの、『ロミジュリ』でなければ『夏の夜の夢』などの台詞から取られています。学生たちはあくまで最初は単なる朗読のようにして読み始め、やがて興が乗って感情的になっていき、お芝居ごっこを始めるようにして役になり出し台詞を語り始めます。でもロミオ役の学生1とジュリエット役の学生2が、お芝居としてなんだけれどキスしたときに、嫉妬のようなヒステリーのようなものが仲間たちの中に渦巻いて、読んでいた『ロミジュリ』の本のページが数ページ引き裂かれてしまうくだりがあります。
 台詞がわからなくなったロミオ役の学生1はそこで「君を夏の一日にたとえようか?」というシェイクスピアのソネット集からの一説を暗唱することで芝居をつなぐのですが、今の私がそれがわかってこの舞台にニヤリとできるのは、宝塚歌劇宙組の『Shakespeare』を観ているからです。あの作品の中でウィルがアンに言ってみせるくだりがあったからです。こういうことがあるから、観劇は楽しいし、知識や教養は多い方がいろいろな物事を楽しめるのですよね。
 学生たちは同性愛者ではないけれど、思春期にいる男子たちであり、そのエネルギーがあちこちにぶつかり爆発して、それがこのお芝居ごっこを盛り上げます。
 ラストは、学生1の夢オチ…ということではないとは思いますが、私は初演観劇時の印象よりも、寂しく感じました。3人の学生たちが学生1をおいて現実に戻っていってしまったことを暗示しているようで…確か『ナルニア国物語』では、四兄弟のうちひとりだけが早く大人になってしまって、洋服ダンスの奥に別世界なんかない、私は行かない、と言い出すのではなかったでしたっけ。そんなことも思い起こして、ちょっとほろ苦く感じたのでした。
 でも本当におもしろい作品だと思います。そしてこうやっていろいろな翻案作品が生まれるシェイクスピア戯曲というものは本当にものすごいものなんだろうなあ、と改めて思いました。でもやっぱり大元の戯曲を今まんま上演されても観るのは絶対につらすぎる…とも改めて思いましたけれどね。それは学生たちが読み上げる台詞があまりに詩的でかつ長々しく、とても現実の人間が現実の生活の中で話す言葉とは思われなかったからです。もちろんそれはあたりまえで、シェイクスピアはこれをリアルなお芝居ではなく、あくまで詩の朗読に近いようなものとして書いたのだろうなとはわかっているのですけれどね。
 簡素な美術や音楽も美しく、このごくシンプルな台詞劇をしっかり支えていたと思いました。いい舞台でした。役者さんたちはみな若く、映像なんかでも露出がある人たちなので、若いファンが劇場に来るきっかけになるといいな、とも思いました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宝塚歌劇宙組『WEST SIDE STORY』

2018年01月28日 | 観劇記/タイトルあ行
 東京国際フォーラム、2018年1月19日11時、15時、21日11時。

 1950年代、アメリカ。ニューヨークのウエストサイドでは、若者たちがジェッツとシャークスに分かれて戦いを繰り広げている。リフ(桜木みなと)をリーダーとし、この地域を支配しているジェッツはヨーロッパ移民の親を持つアメリカ生まれの白人の青年たち。一方ベルナルド(芹香斗亜)を中心に置くシャークスは、アメリカに移住してきたプエルト・リコ人の青年たちだ。縄張り争いが続く中、リフは決着をつけるために親友トニー(真風涼帆)の助けを求める。トニーはかつてリフとともにジェッツを作ったが、今は仲間から離れてドク(英真なおき)が経営するドラッグストアで働いていた…
 原案/ジェローム・ロビンス、脚本/アーサー・ロレンツ、音楽/レナード・バーンスタイン、作詞/スティーブン・ソンドハイム、オリジナルプロダクション演出・振付/ジェローム・ロビンス、演出・振付/ジョシュア・ベルガッセ、演出補・訳詞/稲葉太地、翻訳/薛 珠麗。1957年ブロードウェイ初演、1961年には映画化もされた傑作ミュージカルで、宝塚歌劇では1968年に月組、98年月組、99年星組で上演。レナード・バーンスタイン生誕100周年にあたる今年、再度上演。全二幕。

 映画はもちろん観ていて(映画館ではなく、テレビやビデオでですが)、宝塚版は初演はさすがに生まれていませんでしたが1000days劇場公演は観ています。ただしこのブログでの観劇記録が2001年分からしかなくて、自分でも記録がないと細かいことは残念ながら思い出せません…プログラムとチケットは取っておいてあるんだけど。今回の演目発表に「やっと歌えるマリアがキタ!」と思った記憶があるので、ユウコもユリちゃんもダンサーだったよね…ということでしょうか。そのあとだと、たとえばこちらなどを観ています。
 映画は古典的名作であり、観ているのは教養のうち…という考えはもう古くて、残念ながら作品の存在すら知らないお若い層も増えているのでしょう。劇団四季でもしばらく上演がないのかな? なのでこういう形で宝塚歌劇で再演され、新たに知られていくことは良いことなのでしょう。ミュージカルとして素晴らしく、まったく古びていないことはもちろん、内包する問題が今なお未解決の現代的なものであるからです。
 それにしてもこれを無邪気に「アメリカの『ロミジュリ』みたいな話なんですね」とか「『ロミジュリ』のパクリじゃん」とか言っちゃう人がいるのはさすがになあ、と鼻白みましたよ…盗作は犯罪です。このレベルでやっていて取り締まられていないならそこには何かあるはずだ、くらい考えてものを言っていただきたいものです。これはそもそも『ロミジュリ』に着想を得て、1950年代のアメリカに舞台を移して翻案されミュージカル化された作品なのです。そういうことを知識としてすら知らない人がいるんだなあ、ということに驚かされましたが、これが正しい知識を得るいいきっかけになることを祈ります。こちらなどでも簡潔に説明されています。毎度素晴らしい劇評です。
 そして今観ると、フレンチ・ミュージカルのプレスギュルヴィック版『ロミジュリ』も『WSS』をかなり意識しているのだろうか、と思わせられました。シェイクスピアの元々の戯曲からどこをどうミュージカル・ナンバー化しショー・アップするか、というのはいろいろなやり方があるはずですが、今回観ていて、「ああ、これは『ヴェローナ』だ、ああここは『いつか』だ、ああ『天使の歌が聞こえる』だ…」といちいち符合するようでおもしろかったからです。もちろん「クール」が「世界の王」か? 「アメリカ」が「結婚のすすめ」か? と言われれば微妙なんですが。ともあれこの『ロミジュリ』星組初演も爆泣きしたものでしたが、今回もその思い出もフラッシュバックして、もうずーっとずーっと泣いていました。
 確かに、宝塚歌劇でやると、まして宙組でやると、スタイリッシュすぎるとかスマートすぎるとか荒々しさに欠けて見える…という点はあるのかもしれません。でもそこを含めて、私はリアル男女役者で観るにはつらい演目だと思うのでこれでよかったなと思っています。また、組ファンとしてはみんなが当人比でものすごくがんばって不良少年をやっているのがわかるので、胸アツでしたしそれだけで感動的でした。

 幕が開くと、上手にジェッツのメンツがたむろしていて、音楽のアクセントとともにひとりずつ動き出す…もうそれだけでゾクゾクしました。りく茶レポによれば、このプロローグはジェッツの縄張りにシャークスが進出してきて抗争が激化していって…というここ数年の出来事を見せている態になっているそうなのですが、そういうことより、人数が劣勢だと小さくなっていて優勢になると攻勢に転じる男子のアタマの悪さと卑怯さ、凶暴さが早くも露呈している場面でもある点に、すでに胸塞がれます。
 そんな中で、早くもいいなと思わせられたのがモンチのビッグディール(星吹彩翔)のキャラクターです。眼鏡をかけているけれどいわゆるメガネくん、つまりオタクだったりおとなしいいじめられっ子だったり逆に優等生で秀才でグループの頭脳派で…なんてキャラではなくて、単なる近視なのでありみんなと変わらずやんちゃなごんたくれなんですよ。それがいい。
 それとりりこのエイラブ(潤奈すばる)ね! てか新公含めてりりこがこんなに台詞をもらって芝居をさせてもらえてるのって初めてでは? そしてめっちゃできるやん超鮮やかじゃん! 目が覚めるようでした。アントンのAをもらってニックネームにしちゃうような子なんだよね。あきものベイビージョン(秋音光)とともにリフたちよりちょっと下の世代なんだろうけれど、その感じがよく出ていていじらしくて可愛くておもろくて、素晴らしかったです。もちろんあきももいい、でもこれはできるの知ってたから!(笑)
 そして、お互い無視して通り過ぎればいいのに最後の最後にちょっかい出すことにするのがかなこのスノウボーイ(春瀬央季)なんですよ、ホントわかってるわあ…!って感じですよね(どんな感じだ)。美貌でさすがに不良感が一番なかったかもしれません。そこもまたかなこだよね。
 シャークスはさすがキキちゃん、赤いシャツにブラックデニムで脚の長いこと、まさに宙スタイル! 無言で立っていても存在感がありましたね。ジュリエットの従兄だったティボルトがマリアの兄のベルナルドになって、映画では確か「アメリカ」のナンバーにもいるんだけれどミュージカル版には実は歌やナンバーがない役です。それでも二番手の役にちゃんと見えました、たいしたものです。ようこそ宙組へ!
 そして『WSS』と言えば、というあの脚上げシルエットのダンスはキキちゃんにりくにさお。りくの軽々ひょいっと上げる脚の高さが絶品でしたね。チノ(蒼羽りく)はこれまた意外に踊らない役なんだけれど、台詞がなくてもダンスがなくてもちゃんと芝居をしているりくから滲み出るものが素晴らしかったです。
 大公にあたるシュランク警部補(寿つかさ。絶品の嫌みったらしさよ!)が出てくると仲良さげな振りをする彼らは、自分たちをギャングと呼んでいるけれどギャングでもましてマフィアでも全然ない、単に大人たちに反抗しイキがっているだけの不良非行少年グループにすぎない、ということがよくわかります。
 それにしてもこのあたりで交わされる移民差別の言葉の応酬のひどさときたら…アメリカは移民の国であり、真の意味での「アメリカ人」と言えばそれはむしろネイティブ・アメリカンのことになるはずです。シャークスの少年たちはプエルト・リコからやってきていて、人種的にはヒスパニックですがプエルト・リコはアメリカ領なので彼らだって「アメリカ人」なはずなのです。なのにジェッツの少年たちは彼らを「スペイン野郎」と呼んで罵る。シャークス側も自分たちが外国人扱いされていることはわかっていて、ジェッツを「アメリカ野郎」と呼んで蔑む。ポーランド野郎、イタリア野郎、アイルランド野郎とも呼ぶ。ジェッツの両親世代はそれぞれそれらの国から来た移民で、しかし彼ら自身はもうアメリカ生まれなのでした。日本には移民問題はないとされていますし、人種と国籍と国土と国家がほぼほぼイコールであるごくごくまれな国です。そんな国に暮らす我々にとってこうした問題はほとんど知識でのみ知るものですが、しかしこうした差別がもっと他のいろいろなものに及ぶ悲劇は他人事ではなく、ヒリヒリさせられます。
 彼らの怒りやいらだちは思春期特有のものでもあるし、親世代同士のいがみ合いを見て学んでしまったものでもあるのでしょう。てもそこから、違う大人を知り違う社会を知り違う未来を夢見て仲間の輪から外れつつある、青年になりかけているひとりの少年がいました。トニーです。トニーの家がとりわけ裕福だとか、彼だけがとりわけ勉強ができたとか、そういうことではないのでしょう。ただ偶然ドクと知り合い、目が開かされただけなのでしょう。ちょっとだけ地に―の心が柔らかく、その出会いを受け入れられたということだったのかもしれません。そして今は恋の予感に胸ときめかせている…男臭いのが身上みたいなゆりかちゃんがまた、上手くキラキラとした若い青年を演じていて微笑ましくて、もうそれだけで泣けました。歌もがんばっているよねえ…! この作品は古いだけあってかなりオペラチックで、トニーはダンスよりむしろテノールがやるような花形スター歌手役なんですよね。でも大健闘だったと思います。トニーの前ではリフが弟キャラになる感じもまた微笑ましかったです。
 一方のマリアは、アメリカに来て一か月、家と職場の往復に飽き飽きしています。彼女が白人に対して思うところが特にないのは、両親が大事に育ててきたからであり(彼らはスペイン語しか話せないようでもあります)、アメリカに来てからも兄ベルナルドにがっちり保護されていてまだ怖い思いをしたことがないからです。まだ汚れていないだけで、この先はわからない、でもその前に、彼女はトニーに出会ってしまったのでした。
 マリアの姉貴分でありベルナルドの恋人アニータ(和希そら)は大役ですしどんぴしゃ配役でしたが、本当に素晴らしかったです。大人ぶりだがるマリアをいさめる一方で、マリアをあまりに過保護にするベルナルドを牽制したりもできる、そして恋人と対等であろうとし相手にもそれを認めさせようとする、広く新しい見識を持った大人の女性を、賢く色っぽく強く美しく演じてくれていました。
 「感じるのは、見たときじゃないねえ」より私は、マリアのドレス姿を褒めるベルナルドに対して仕事着のスモッグをすぐさま脱ぎながら「聞こえないなあ」と言ってのけるのがいいなとシビれました。こういうときに綺麗に着飾るのはもちろんまずは自分のためなんですけれど、自分をエスコートする彼氏をよりカッコよく見せるためでもあるわけで、ならば彼にはそれをありがたがりこちらを褒め評価する義務があり、だからこちらとしてはそれを要求する権利がある、「俺の権利を行使する!」ってなワケですよ(作品が違います)。その考え方が素晴らしいし、そしてこう言われたベルナルドがテレるでもなくまた嫌がるでもなく、ちゃんと「すごく綺麗だ」と言う男であることがまた素晴らしい。欧米文化ですよねえ。それをこの短いやりとりで見せる脚本がまた素晴らしい。
 ふたりのディーブであろうキスに目を背ける初心なマリアと、そもそも店に入るのにすらおたおたしているチノも愛らしい。「女の人の店だろう?」だなんて、またいい台詞だよなあ。別に結婚式は女性のためだけのイベントではないのだし、両性のものだろう…というフェミ的野暮つっこみはここでは置きます。というかチノにとってはここは単に「お洋服屋さん」「ドレス屋さん」で、それは女性の領域である、という程度のことなんでしょうからね。
 体育館のマンボではジェッツの女のエビちゃんヴェルマ(綾瀬あきな)とゆいちゃんグラツィエーラ(結乃かなり)が素晴らしいですよね! ちっちゃくて青いエビちゃん、おっきくて黄色いゆいちゃんが美人オーラをガンガン飛ばしてキレッキレでバリバリに踊るのがホントたまらん!! そしてグラツィエーラとスノウボーイがカップルなのがまたたまらん、この器量好みめ!
 パーティー司会者のほまちゃんグラッドハンド(穂稀せり)がまたいいキャラクターだし、上手いのです。彼が、男女に分かれて二重の円を作ってパートナーチェンジをしましょう、と言うのに対して「あんたはどっち?」みたいな揶揄が飛ぶんだけど、彼は別にオネエっぽくもなんともないんですよ。ごく普通にきちんと丁寧な言葉でしゃべっているだけなの。でもそれがジェッツにしたら男らしくないってことになっちゃうんですよね。マッチョじゃなければ男じゃない、オカマだ、みたいなその愚かさ、幼稚さ、病がこれまた短くもきちんと表現されているのです。
 ベルナルドにダンスの輪に混ざることを禁じられて、端っこで踊るマリアとチノがまた愛らしい。そこへトニーがやって来て…こんな混沌の中で、トニーとマリアは出会ってしまうのでした。
 この雷が落ちたような一目惚れは…まあ、お話の中のことなのでしょう。でも、お話だからここまで純化されて表現されているだけで、一目で好印象を抱き恋心が芽生えてしまうことは現実に全然あるわけで、リアリティはあるのでした。周りが見えなくなって、お互いの声しか聞こえなくなって、でも何もしゃべれなくなって…
 そしていわゆるバルコニー場面へ、そしてかの有名な「トゥナイト」へ。まどかの歌唱が本当に素晴らしくてまたダダ泣きでした。ジュリエットはロミオに名を捨てるように言ったけれど、マリアはトニーの本当の名前を聞きます。トニーは「アントン」と答える。ここでマリアが両親とスペイン語で会話するのを聞いて、トニーもなけなしのスペイン語の知識を引っ張り出して来て、やっと言うのがまず「Si」なのがまたとても良い。はいとかいいえとかこんにちは、ありがとうくらいの挨拶の外国語なら知っているじゃないですか。始めるのはまずそこからじゃないですか。でもそうやって自然に相手に歩み寄ろうとする、相手の言葉で話そうとするトニーが、いい。もちろん恋ゆえではあるのだけれど、そうやって人はつながれるはず、わかりあえるはずって思えるじゃないですか。名を明かし、愛していると伝え合い、今は別れるふたりはそれでも輝いていて美しい。涙せずにはいられません…
 ベルナルドやアニータたちも帰宅して…かの有名な「アメリカ」へ。プエルト・リコも、サン・ファンもいいところだったよ、と歌う純朴なロザリア(花音舞)がきゃのんなのがまたよかったですよね。しっかりしたお姉さん役に回されることが多いのだけれど、こういう役も抜群に上手い。そしてそらメインの圧巻のダンス! 唯一名前がついていなかったけれど花宮沙羅ちゃんもとってもよかったです。
 シャークスの女たちが新天地を謳歌しようと踊る一方で、男たちはドクのドラッグストアに集って戦争会議を始めます。「戦争」「会議」! その愚かさに驚きますし心が冷えます。ここでアクション(瑠風輝。あのもえこがこんなイカイカした役を!というだけで泣けました)がドクに言う「あんたが俺たちの歳だったことがあるのかよ!」みたいな台詞は、あったんだからちょっとアタマ悪すぎでこれは訳が悪い。今回は全体に翻訳も歌詞も自然でいいなという印象だったのですが、ここは引っかかりました。そういう時もあったのかもしれないがそれは今じゃない、今あんたは俺たちの歳じゃない、だから黙っていろ、というような文脈なはずなので、ここは工夫していただきたかったです。
 翌日のブライダル・ショップ、マリアに会いに来たトニーがアニータに会ってしまうくだりでの、マリアの口調をアニータが口真似するところ、ホント最高でしたね。乳母もジュリエットの口真似をしましたもんね。そして「15分だけよ」と釘は刺すけれどふたりだけにしてあげて去れるアニータの素晴らしさよ…! ベルナルドを挑発するために「トニーは可愛いわ」と言ってみせたりもしたアニータですが、マリアの相手として白人のトニーがまったくナシではないと考えられる彼女はすごいものです。もちろん恋が他人に止められるものではないと知っているからこそ、なのかもしれませんが…
 そして始まる結婚式ごっこで、わりとトニーがヘタレでマリアが意外にちゃっかりしていたりしっかりしている感じなのがまたいいですよね。実年齢はともかく、精神年齢で言えば女の方が男よりはるかに上なワケです。それをまたトニーがナチュラルに受け入れているのも良くて、ここでマッチョぶらないのがトニーのいいところでありトニーがトニーである所以なのでしょう。もちろんこれもただ恋ゆえに、というのはもちろんあると思うのですが。
 続く「トゥナイト」クインテットで一幕終わりかと思った、という意見が少なからずあったのは、みんなイケコの一本立ての一幕ラストに影響されすぎだと思います(^^;)。まあベルナルドとリフの出番が二幕にほとんどなくなってしまうことを考えれば、決闘場面は二幕に回した方が、という意見もアリなのでしょうが、でも今回に関してはこの一幕ラストがいいんだと思うんですよね。私は拍手もしたくないくらいでした。どよんとしたまま幕間に突入したい、幕間もどよんと過ごしたい、それくらい物語に没入したい、そんな作品でした。
 でもやっぱり、マーキューシオが殺されたからといってロミオがティボルトを刺し殺してしまうことに納得ができなかったのと同様に、トニーがベルナルドを刺してしまうような人間には私にはやっぱり思えず、その困惑は残るのでした。リフは弟のような家族のような我が身のような大事な存在だったから、ついカッとして逆上してやり返してしまった、それが男というものだ男の友情だ…というのはわかるけれどもしかし、というもやもやがどうしても私にはあるのです。この問題については最後にまた語りたいと思います。

 二幕、マリアの家での女子会の「I feel pretty」、もうめっかわ! ロザリアの「アメリカでは初夜の前に結婚するんだって!」というのはちょっとわかりにくいけれど仕方がないかな。そしてチノが知らせを持って駆け込んでくる…
 マリアがベッドのそばのマリア像に祈る「本当じゃなくしてください」という言い回しの幼さに爆泣きしました。なんでもできるアメリカ、どんなやり直しもできる世界にも、取り返しがつかないことというものはあるのです。ここではないどこかなら…「サムウェア」の美しさこそこの作品の真骨頂ではないでしょうか。どうにかして、いつか、どこかで、愛にあふれた平和な世界を築きたい…女たちは白人もプエルトリカンもすでに同じ白いドレス姿です。男たちは同じ白いシャツだけれど、ジェッツはブルーデニムでシャークスはブラックデニムという違いがまだある。男たちは常に遅く、女たちの方が常に先を行く。でも社会を先導しているのは男たちなのでした。だからベルナルドがリフを殺しトニーがベルナルドを殺したことは覆らない…
 スケルツォ・メンバーの若手ダンサー、デュエットの男女のダンサーの選出の確かさに震えます。さよちゃんのカゲソロの素晴らしさにも震えました。
 「クラプキ巡査」のナンバーなんかも、長い、古いと簡単に言ってしまうことはできるのでしょうが、ここで揶揄されている少年裁判や精神科医、カウンセリングやソーシャルワーカーなどのケアが、機能していないと皮肉られようと当時のアメリカにすでに制度としてきちんとあったこと、翻って現代日本ではまだまだ形だけですら整っているとは言えないお寒さであることに思い至れば、聞き入ってしまって長いなんて言って簡単に切って捨てられません。そしてジェッツの少年たちの小芝居がもちろんうまく、見ていて飽きません。名無しのきよもこってぃもいい仕事してるんだ、これがまた。あ、バリバリ踊っているわけではないけれど、まっぶーの完全復帰も嬉しいことでした。
 寝入ってしまったトニーとマリアはアニータの来訪に目覚めます。マリアとアニータの叫び合うような二重唱がせつない…そして『ロミジュリ』の仮死状態になる薬なんてものの代わりに、アニータが遣わされることになるのでした。
 ドクのドラッグストアは、ロレンス神父が薬草も扱うような人だったところからきているのでしょうが、マツキヨみたいな薬屋ではなくて、煙草や酒や馬券を売り主に男性が集うようなパブ…みたいなものなのでしょう。警察がトニーを探していることに怯えたジェッツの男たちが集まり、そこにマリアのトニーへの伝言を持ってアニータが飛び込んでくる…
 ここでアニータに浴びせられる言葉の汚さといったら! そして問題のレイプのくだり、もっと言ってしまえば輪姦のくだりは、私は心配していたよりはだいぶうまくダンスに模されているなと思いました。それでもそらの悲鳴はつらい。いつも男たちに混ざりたがり、将来の夢はコールガールなんて言っちゃうエニボディーズ(夢白あや。すごくがんばっていましたね!)が、徐々に輪を外れてジュークボックスの陰に隠れてしまうのが哀れでたまりません。同じようにベイビージョンも、仲間たちの行為に背を向けて、膝を抱えて小さくなる。でも男たちはそれを許さないのです。彼を抱えてアニータに跨らせる。この暴力も見過ごせません。なんて残酷で凶暴で醜悪なことでしょう。確かに演じる側にもなんらかのケアをしてほしいものです、でも残念ながらそんなことしてないんだろうけどね。それはどこの演劇の現場でもそうなんだろうけれどね。それはともかく、私たち観客は目を背けることを許されません。それは現実にあることだから。そして私たちが愛するタカラジェンヌがまさに身を挺して演じて見せていることなのだから。真摯に受け止めるしかないのです。
 ここでアニータがついたこの嘘を誰が咎められるというのでしょう。それにアニータが言いたかったこと、したかったことは、マリアを死んだことにするというよりはむしろ、こんなんだったら今後もう二度と女は男と関わらない、私たち女はすべて死んだものだと思ってくれ、というか男が女を殺したのだ、というようなことですよね。だからそれは嘘なんかではなくて、単なる事実なのです。
 ドクからアニータの言葉を聞いて、トニーはチノを探して街に飛び出します。マリアを撃ったというチノを撃ち殺してやりたいから、ではありません、自分もチノに撃たれて死にたいからです。マリアのあとを追いたいからです。その惰弱さに泣けるし、だったらどうしてベルナルドに向けてリフのナイフを手にしたときにたとえ一瞬だけでもそうしたことに思い至れなかったの?と思うとさらに泣けます。
 マリアが現れ、しかしトニーはチノに撃たれて死にます。「もっと信じればよかった」「愛するだけでいいのよ」。憎悪に顔をこわばらせているチノが痛々しくてまた泣けます。本当は優しい青年なのに、今はトニーどころかマリアをも憎んでいる。ざまをみろと思っている。かくも愛は憎しみに転じやすい。マリアもまた…
 「触らないで!」と叫ぶマリアの咆哮はまさしく傷ついた野獣のものであり、我が子を守ろうとする母親のものでもありました。幼い少女はわずか二日で女になり妻になり、そして大人に、聖母にすらなったのです。マリアはチノに拳銃を要求し、ジェッツにもシャークスにも自分にも銃口を向けるけれど、結局は撃ちません。女だから、弱いから、怖いから、怯えているからではありません。愛しているからです。愛する者を奪われても、愛はそこに残るからです。

 救いのないラストだ、と言う人もいるようです。『ロミジュリ』のようにふたりとも死んで、そして天国で幸せに踊るのでした…みたいな方がいい、と言う人もいるでしょう。でもこの作品ではマリアに死ぬ義理はない。トニーはベルナルドを殺した罪に殉じて死んだのであり、当然の報いとすら言えます。やり返してしまった者はまたやり返される。でもマリアはやり返さないことを選ぶことができたのです。だから生き残れたのです。暴力や憎悪の連鎖は誰かが止めなければ止まらないのです。愛する者を奪われても、自分自身も死んだようになったとしてもそれでも、自分のところで止められるだけの強さが彼女には、女には、あるのです。男には、ない。それをこの物語は描いているのです。だからこういうラストなのです。
 絶望的と言えるかもしれません。トニーを運ぶジェッツの男たちの列にペペ(美月悠)だけが加わりますが、それが融和と言えるかどうかは甚だ怪しい。そういう終わり方でもあります。でも現状、これなのです。そして60年たっても残念ながら世界はあまり良くなっていない…
 そして私は今回改めて、エニボディーズってなんなのかな?と思いました。こういう、男たちに混ざりたがる女の子のキャラクターってわりとパターンとしてあると思うのだけれど、それは何を意味しているのだろうかとか、そもそもそんなにいるものだろうか?とかね。トニーもリフも彼女を仲間だと認めなかったけれど、アクションは最後に彼女に役目を与え言葉をかけることで彼女を認めます。でもそれは進歩でしょうか? 男が女を認めたということでしょうか? それでエニボディーズは本当に幸せでしょうか? それが彼女のためになるでしょうか? 私にはそうは思えません。ここは上手く解釈できませんでした。
 そうしたことも含めて、だからこそ、繰り返し上演され意味を問われる意義がある作品なのでしょうが、でももしかしたら、単に各ナンバーがやや尺が長いとかそういうこと以上に、もしこの作品が「古い」と言えるとしたらそれは、ロミオがティボルトを殺しトニーがベルナルドを殺すことに立脚している物語であること、にあるのかもしれません。だってこれって、やられたらやり返しちゃうでしょ? そういうことってあるでしょ? ということを前提にしたお話じゃないですか。結果的に悲劇に終わるので、それはいけないことですよダメなことですよと言っている態でもあるけれど、でもそもそもそういうことがありえること、あることは肯定しちゃっているワケじゃないですか。そこからスタートする話なんだから。
 でももはや、それじゃダメなのかもしれません。そういうことがもう古いのかもしれません。そうじゃない物語を作ってそうじゃない世の中にしていくべきなのかもしれません、特に女たちの手によって。ロミオがティボルトに仕返ししなかったら話が始まらない、そこで復讐の手を納めたらドラマチックじゃない、というのは浅薄で、そこから始まる別の物語を構築すべきだと思うのです。それが何かは私にはまだはっきりとはわからないけれど。
 要するにこういう、仕方ないよね、ということに立脚した悲劇を涙しながら消費してきたことで、仕方がないということに慣れさせられ、肯定させられ、結果的に病んできて、ゆっくりゆっくり破滅に向かって突き進んでいる…というところが我々人類にはもしかしたらあるのではないでしょうか。それはもしかしたら、そこまでの知能は持たずただ健全に健康に生き蔓延りだからこそ滅亡などしない動物たちと人間との違いなのかもしれません。でも知性があるからこそ滅びるのだ、ということに与したくないと思う私はロマンティストすぎますか? その知性を生かし、無理やりにでも未来を明るくいい方に捻じ曲げたい、それは努力すればできることな気がする、というのは甘すぎますか?
 まあ、社会主義にせよ非暴力主義にせよ、学校で勉強したときには若き日の私は「立派な思想だけれどそれが実現できるほど人類は賢くないのではなかろうか…」とか思ったものですけれどね。でもそうやってあきらめちゃってきたから、今こういうやや残念な世界ができちゃっているのかもしれないわけじゃないですか。やはり心を強く持って、理想に向かって纐纈に邁進する覚悟…といったものは必要なのではないかしらん。
 いつまでもこういう物語に泣いていることは害悪なのではないか…とすら思い至らせてくれたこの作品に、それを成し遂げた組子に、私は感謝したいです。
 私たちには、未来のために、世界のために、まだ、もっと、できることがあるはずだと思う。やり返さないことを選択すること、それを是としその行為が報われ幸せに帰結する物語を作り流布し、それを観たり読んだりして受け取る人の心を育てること…はできるはずだと思うのです。いやむしろ、しなければならないことなのではないでしょうか。ホント、それってどんな話だよって感じなんですが。上げて下げる、下げて上げるのが物語の基本だから、たとえばトニーがベルナルドを殺さないことで一時はディーゼル(風馬翔。そもそもタイマンをそのまま彼にやらせておけばあっという間にキキナルドに勝って落着したんだよね…という説得力がすごい)たちとかにボコボコにされるんだけど、やがてはペペやチノが手を差し出してくる…とか、ありえるじゃないですか。そういうことですよ。そういう物語を描くべきだということですよ。
 そんなことをも私は強く考えさせられたのでした。

 フィナーレというか、ごく短いラインナップに至るダンスがあるのがいいですね。私が観たときにはアニータとトニーにしか拍手が入らなかったけれど、リフにもベルナルドにもマリアにもしてあげてほしいなと思いました。それはファンクラブが切っちゃえばいいと思うんですよねー。改めて、そらはもちろん、ずんちゃんもキキちゃんもまどかもゆりかもとても素敵でした。
 そして、夏の梅田公演にも思いをはせないではいられません…もちろん裏のバウ主演が野望なんですけれど、普通に考えればハコを変えてキキ主演でしょう。そこでがっつり悪役の二番手をやる…というのももちろん望ましいけれど、でも『WSS』にも出させてあげたいところだよなー、という問題です。
 その場合、ベルナルドは愛ちゃんとして、リフを任せてほしいのです。アクションでもいい。そういう役が観たい。チノではなく。それはもう観た、知ってる。贅沢で何様だよという言い方なのは承知で、それでもそう言いたいのです。お願いしますよ…!

 ともあれ、素晴らしい公演でした。チケ難でしたが、キャンセル待ちなど含めてなんとか観られた幸運に感謝、お友達に感謝です。チケットは天下の回りもの…とはいえ私もお友達のためにできることはがんばりたいです。みんなで観て、しっかり受け止めて、語り伝え、生徒さんたちを応援し続け、より良い世界を築いていきたいものです…!


 


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宝塚歌劇雪組『ひかりふる路/SUPER VOYAGER!』

2018年01月21日 | 観劇記/タイトルは行
 宝塚大劇場、2017年11月21日11時、28日13時、18時(新公)。
 東京宝塚劇場、2018年1月6日11時、16日18時半。

 フランスの片田舎アルトワ州アラスに生まれたマクシミリアン・ロベスピエール(望海風斗)は幼くして母親を亡くし、その後弁護士であった父も失踪、パリのルイ・ルグラン学院に預けられる。同じ道を歩めばいつか父と再会できるかもしれないと、勉学に励み弁護士となった彼は、故郷の政治家に転身し、やがてパリの街で革命に身を投じることになる。一方、貴族に生まれたというだけで人生を狂わされた革命の犠牲者のひとり、マリー=アンヌ(真彩希帆)は、革命への復讐心ゆえに、革命そのものであるロベスピエールを暗殺しようとパリの街で機会を窺っていた…
 作・演出/生田大和、作曲/フランク・ワイルドホーン、音楽監督・編曲/太田健、振付/御織ゆみ乃、桜木涼介。新生雪組トップコンビのお披露目公演。

 非常に良くできていると思いました。毎度エラそうな物言いですみません。でも私は感心しましたし感動しましたし、好きです。もちろんいろいろアレなところはまだまだあるとも思うのですが、ついに、やっと、新時代の作家による新時代が来つつあるのではないかとまで私は評価したいのです。それをネチネチ語ります。

 タレーラン(夏美よう)とロラン夫人(彩凪翔)のアバンから始めて、国王(叶ゆうり)の裁判場面へ。サン=ジュスト(朝美絢)の『ベルばら』なんかでも有名な弾劾演説により死刑が確定し、国王は階段を上がってギロチン台へ…
 緞帳が上がったときからあった斜めに走る線はギロチンの刃をイメージしたもので、映像でも出てきますが実際の装置や大道具としてはギロチンが出てこない舞台になっていることがひとつのミソですね。生田先生らしいこだわりを感じます。いいんだけど、でもちょっと行きすぎた男子の稚気みたいなものも感じて微笑ましいです。それはともかく映像のギロチンはデフォルメされすぎて、私は最初のうちは単なる血しぶきのイメージなのかと思ったくらいでした。
 国王がいなくなり(すでに退位はしていたので殺さなくともよかったはずだ、という意見はもう彼らには届きません)真の共和国が生まれた、さらに自由と平等と友愛の世界をみんなで目指そう、主導者となってくれる彼の演説をみんなで聞こう…となって主人公がセリ上がってきます。カンペキな流れですね。ライト、拍手、主題歌。勇壮なワイルドホーン楽曲を楽々と歌いこなすだいもんの歌唱力があったればこその演出でもあるかもしれませんが、つかみはバッチリです。
 そしてこの歌が素晴らしいのは、メロディはもちろん、歌詞が作品の主題歌として自由や未来を歌い上げる輝かしいものになっていて新しい国と組への希望を感じさせるのと同時に、マクシムの演説の内容にもなっていることであり、そして演説として考えた場合には理想的だけれど空疎で非現実的な言葉ばかりが並んでいることに気づかざるをえないところです。初見のファンにはトップスターお披露目や組の新生を祝福する歌に聞こえて感動に胸震えさせ、何度もリピート観劇するようなファンにとってはもうこの時点からその後の最終的な破滅と悲劇を予感させて涙させる、素晴らしい構造になっていると思いました。
 銀橋を渡って、仲間たちの輪に笑顔で駆け込むマクシム。それと同時に輪から外れるひとつの影…このヒロインの登場の仕方も素晴らしい。そこからの展開、演出もこれまたきぃちゃんの見事な歌唱力があったればこそですが、鮮やかすぎて唸らされました。
 貴族の娘として何不自由なく育ったこと、革命が起きてその幸せが無惨に奪われたこと、逆恨みだとわかってはいるけれど革命のシンボルとしてのマクシムを殺したいと思ってパリに出てきたこと、が歌い語られます。そしてパリの街の暗闇に消えていく…ここまで、実に完璧なイントロだと思いました。
 ヒロインのキャラは確かにちょっと強すぎるんじゃないかと思わなくもないけれど、貴族の令嬢ったってみんながみんな泣いて嘆いて気絶しているだけの娘ばかりじゃないはずだし、剣のたしなみくらいあることにしてもおかしくないのかもしれないし、これくらいの精神的な強さを発揮してくれないと多くの現代日本女性の観客に今や共感してもらえないと思うんですよね。こういう現代化は私はいいと思います。そしてもちろんきぃちゃんのキャラクターにも合っていて、生徒の魅力を発揮させることにもなっていると思うのです。
 ちなみにこのキャラクターは架空のもので、名前はフランス国家の暗喩なのではないか、彼女はロベスピエールが愛しすぎ破壊してしまったフランスの化身、象徴みたいなものなのではないか…というなかなかうがった意見がありましたが、生田先生どうなんでしょう? ベタだけどありえるのかな。
 続く場面はジャコバン倶楽部。政敵ジロンド党を追い落として若者たちは意気軒昂、でもまなはるとかカリとかの反乱分子ももういて、一枚岩ではないことも見せている。そんな中で、豪放磊落な人気者のダントン(彩風咲奈)とそのしっかり者の妻のガブリエル(朝月希和)、気が使えてすべてのバランスを取るようなデムーラン(沙央くらま)とその妻リュシル(彩みちる)ら、マクシムの仲間たちが描かれます。デムーラン夫妻はラブラブだけれどダントンは恐妻家で、マクシムだけがまだ独り身だからそろそろ身を固めろよ、なんて冷やかされているところにマリー=アンヌが現れる…素晴らしくベタな流れで大変よろしい。ちなみにここで下宿先の娘としてマクシムに気がありげな様子が描かれるエレオノール(星南のぞみ)が、史実ではロベスピエールのほぼほぼ内縁の妻状態だった女性だそうですよね。でも結局彼は生涯独身だったのでした。
 この場面のラストにマクシムに絡むサン=ジュストがまた妖しくていいですね。ふたりはここで初対面ということなのでしょうか。サン=ジュストの、今にもストーカーに変わりそうな熱烈ファンっぷりがよく表現できていると思いました。あーさが組替えでこんなに大きな扱いをされるとは実は私には意外でしたが、まずはよかったよかった。ニンにも合っていたし、あの美しさはハマっているし、武器だし。何故か私はノー興味なんですけれどね…
 マリー=アンヌを送っていくことになるマクシム。荷車に轢かれそうになる彼女をかばって抱き合って…みたいなベタな流れはあるものの、ここでころっとマリー=アンヌがマクシムと恋に落ちちゃって復讐を捨てる、とはすぐならないところがいい。もう1ステップ踏むことが大事だと思うからです。とりあえず復讐は保留…
 一方でジロンド党員たちはダントンの失脚を狙い、不正送金の証拠をジャコバン派に流して内部分裂を企てていく。その場を立ち去ったダントンがまた上手に出てくるとき、引っ込んだ袖より手前には出てくるのですが、舞台真ん中でまだ前の場面の芝居をやっているので、その場に戻ってきたようにちょっと見えてしまっていました。ここは工夫が必要だったかも。ただそのあとのダントンとガブリエルのやりとりの秀逸さに私は本当に感動しました。
 ダントンは喧嘩っ早い、喧嘩好きみたいなキャラで通っているけれど、本当は別に喧嘩が好きなわけではなくて、ただ売られた喧嘩はきちんと買うべきだと思っているし買った以上きちんと戦って勝って納めるべきだと考えているだけで、そしてそうした喧嘩も最終的には喧嘩そのものがない、すべての人が戦わずにすむ世の中を築くためにしているためのものなのである、本当はダントンは実に優しい、いい男なのである…と理屈にすると長いところをこの夫婦の情愛あふれたごく短いやりとりに昇華しているところが素晴らしいし(総じて生田先生の脚本は理屈が通っている点は素晴らしいもののわりと直截でそのままで理屈っぼすぎるくらいなので、ここまでうまくこなれている場面は残念ながら他にそうないと思うのですよ…)、この夫婦の情愛の在り方も素晴らしいと思うのです。ちょっと口やかましい妻と恐妻家の夫、ってある種のステロタイプなんだけれど、本当にそのまんまにつまらなく描く男性作家ってたっくさんいると思うんですよ。というか私は今までそういうのしか見たことがない。
 でも今回のこのふたりは、一見そういうポーズを取っているけれどそれはあくまでポーズなのであり、本当はちゃんと理解し合っていてラブラブの夫婦なんだ、ということがきちんと描かれているじゃないですか。そこが素晴らしい。夫婦っていうとなんかワケありにしないと特に夫のキャラがカッコよく見えない気がする、みたいな病に罹っている男性作家って本当にたくさんいると私は思っているけれど、そしてそれは単にそう考えるおまえがカッコ悪いってだけのことなんだよと私は言ってやりたいところなのだけれど、生田先生は大丈夫な、若くて心が柔らかくて、新時代の男性作家なのでしょう。
 さてしかし、革命が広まるのを恐れた近隣諸国はフランスに戦争を仕掛けてきます。そう、私たちの半端な知識ではフランス革命とはバスチーユ陥落でありパンを求めた女たちのベルサイユへの行進であり国王夫妻の処刑であり、そしてそのあたりで止まってしまっているのですけれど、それで革命は完遂されたというものではなくて、その後も歴史は続くし問題は山積なのでした。
 外国に攻め込まれたら困るんだから一般市民を兵士に仕立てて立ち向かわせなければ、という現実的な意見のダントンと、一般市民を戦争に巻き込んではいけない、人々を苦しめてはならない、みたいな理想は語るけれどでは代案は?と言えばそれがないマクシムとの対立。わかりやすい。そして戦端は開かれ、さらに王党派が内乱を仕掛けて、フランス国内は大混乱に陥っていく。
 マクシムは壁にぶち当たった気分でポン・ヌフに佇み、それまで議会をずっと傍聴してはいたけれどマクシムに声をかけることはなかったマリー=アンヌと、やっとふたりで語らう時を持つ…
 このくだりが、それこそやや理屈っぽいのだけれど、前段で述べたように彼らが一足飛びに恋に落ちかつ相思相愛になるのではないという流れも含めて、素晴らしい展開だと私は思いました。マクシムの過去と理想が語られ、マリー=アンヌにさらに彼への理解と共感が生まれ、復讐を捨てて彼と共に生きよう、共に平和な世の中を目指して働こうと決意する…美しい。家族観察云々ってところは私にはちょっと筋違いに見えて、ジョークとしてもよくわからなかったし不必要な気がしてしまったのですけれどね。
 その後のルノー夫妻や町の女たちが革命の精神を語るくだりも素晴らしい。つなぎの場面として何か必要だったというだけかもしれないけれど、わざわざこうした場面が作られたということは本当に革新的なことだと思います。そもそもこういう発想すら持たない男性作家しか今までいなかったと思うからです。女性参政権を語る女性たちを普通に、かつ肯定的に描く男性作家がやっと現れたのです。
 一方、政治的な画策は進み、ダントンの辞任とマクシムの孤立、恐怖政治の確立へと、事態は転がり落ちるかのように悪化していきます。このあたりは確かにやや急で雑で、サン=ジュストが単なる独占欲のためにダントンを追い落とそうとしたのかとか、ル・バ(永久輝せあ)以下のマクシムのある種の側近たちの描かれ方がやや平板で手が回っていない感じがあるのではないかとか、いろいろ駆け足で問題ではあるのですが、なんとか納得も理解もできるし、まあがんばっている脚本だよな、と思います。
 恐怖政治に至る流れは東京公演で台詞が足され、よりフォローされるようになりましたがより理屈っぽくなったとも感じられ、そして結局「ホンマかいな」って気持ちはより強くなってしまったかもしれません。政争を上手く表現することはとても難しいのだと思うし、でも後付けの解釈って確かに後付けでしかなくて「ホントにそうだったの?」って気がどうしてもしちゃうんだと思うのです。彼らは最初からこんなふうに意識的に「恐怖」を利用しようとなんてしてなかったんじゃないかなあ、政敵をガンガン粛清していったら結果的に周りが怯えて口をつぐみ味方するようになっただけでそれを後年の人が恐怖政治と呼んだだけなのではないの?とかね。人ってこんなふうに意識的に暴力的になるとかはしないと思うんですよ、だからもっと「単にフラれた腹いせにカッとなって悪徳政治家に転落した、とかの方がわかりやすかったのでは?」と言ってのけたお友達の意見は正しいなと私は思いました。でもこれまた生田先生のロベスピエール・ドリームで、先生は彼をこういう人間だと描きたかったということなのでしょう。つまり悪徳政治家のように言われる彼にも何か事情があったはずだ、というところからこの企画は始まりそこに萌えがありそこに立脚した作品なのでしょうから、それはもう観客としては支持するしかないワケです。
 マクシムの暴走は自分でもどうにもコントロールできないものになっていき、そばで心を痛めていたデムーランは、というかその心優しくしかし強く賢い妻リュシルは、ダントンを呼び戻そうと言う。親友の言葉なら届くかもしれない、と期待して。言い出す役回りをリュシルに与える生田先生がまたすごいと私は思う。マクシムに「こっちへ来い」と言われて「嫌よ」と答えるマリー=アンヌを描けるところもすごい。男性主人公がヒロインに拒否されるシチュエーションなんか思いもつなかい、という男性作家も多いと思うのですよ。でも生田先生は描けるし、なんならそんな男性主人公に萌えているんだよね(笑)。なので性差別主義者ではないというより単なる性癖の問題なのかもしれないけれど(オイ)でも認めたい、評価したいです。
 性癖と言えばマクシムのスカートめくり場面もそうで、あんなのホント普通なかなか思いつかないと思うのですよ。すごいな生田クン。からのダントンとの一騎討ち展開、せつないよね…そして咲ちゃんは本当にがんばっていましたよね。もう一段階低い声が出せるといいんだろうけどなあ、だいぶ無理して作っている感じだったけれどでもあれが限界だよねえ。本質的にはニンではないと思う、でもすごくちゃんとやっていて、だいもんマクシム姫の相手役としてまた組の二番手スターとして、すごく毅然と立って見せていて感心しました。
 ダントン邸の食事の場面もいいですよね、まあ実際には食事はしていないのだけれど。でも美味しいもの食べてお酒もちょっと飲んであったまったところで腹割って話そうぜ、というのはコミュニケーションの基本なんだと思うんですよ。でもマクシムにはそれができない。そのかたくなさ、幼さ、幼稚な潔癖さが悲しい。そんな人だったっけ?というやや唐突な感じはあるんだけれど、だいもんが追い込まれ狭量になり神経質にかつヒステリックになっているマクシムをまたうまく演じて見せています。
 マクシムの理論は正しそうに聞こえるけれど、喜びを知らない者が人に喜びを与えることなんできない、というダントンの言葉もまた正しい。平行なままの論争、いい仕事をする柱時計の音、「こっちへ来いよ」のBL展開が今ひとつハマらないのもまたたまらん。すぐさま踏み込んでくるサン=ジュストと「アデュー、モナミ」までの美しい流れ、名場面です。
「次はどうします?」なんてキラキラした目で聞かれて、マクシムはますます追い込まれていきます。そして至高の存在の祭典、そのショーアップ化がまた素晴らしい。アンヌ=マリーが逮捕され、下手端にへたりこむ情けなくも哀れなマクシムの姿に、生田クンの性癖ここに極まれり…!と私は震撼しましたね。例えば『王家に捧ぐ歌』でヒロインが「アイーダの信念」を歌い出すときのポジションやポーズがこれですよ、これは絶望したヒロインがやる所作なんですよ。それをここでだいもんにやらせるそのドリームね…! もしかしてカッコいいトップスターが見たい!というタイプのファンには拒否反応を起こされても仕方がないのではなかろうかと心配になるくらい私は震撼しました。でもだいもんはもちろん悲愴さを上手く演じ歌い盛り上げ泣かせ、哀れだねかわいそうだねという観客の同情を呼び込めていたと思います。すごい。
 テルミトールの議会でついにマクシムが告発され、投獄され、収監されていたマリー=アンヌと再会し…ここのやりとりも素晴らしい。家族を、恋人を二度奪ったロベスピエールが憎いと訴えるマリー=アンヌも、あなたを愛してしまったことは真実だと言うマリー=アンヌも。そして革命などなかったら出会ってすらいなかったと言えるマリー=アンヌも。それを認められるマクシムも…これが書ける生田先生がすごい。
 そして『愛革』の悪夢を払拭するラストの展開が素晴らしい。そうよ、心中なんて意味ないよ、マリー=アンヌは釈放されるべきですよ、無罪なんだから。マクシムは彼女を抱きしめ、キスし、そして彼女の背中を押して牢を出し、光あふれる未来に向けて歩ませる。そして自分はゆっくり、断頭台に向かう。その先が明るいのは、何故だろう? 「ひかりふる路」とはなんだったのだろう…?
 お披露目なのに、白い服着てセリ上がってスモークの中天国ダンス…なんてことは一切せずに、幕。そのしょっぱさが、潔さが素晴らしい。だってこれが描きたかったんだもんね? このロベスピエールの生きざまは存分に描けたもんね? これ以上の甘さや感傷は不必要なんだもんね? その意気やよし、です。
 私は好きです。イケコによく学んだグランド・ミュージカルをきちんとものにし踏襲し、著名な作曲家の素晴らしい楽曲にも恵まれ、何より実力と華と個性ある生徒たちに恵まれ、きちんと活用してひとつの立派な結果を出したと思います。
 緩急がなかったり、笑えるところや肩の力が抜けるところがなかったり、展開が急だったり雑で乱暴だったりするところももちろんあるとは思います。それでも私は近年のオリジナル作品(もととなる史実があるとはいえ)の中ではかなり高レベルの作品だと思いました。くーみんの『神土地』とかは、ちゃんとしてるのがあたりまえとか思っちゃうかですよね、だってくーみんですからね。というかとの男性社会で活躍できている女性はそりゃそもそもレベルが高いに決まっています。でも男性でこれだけできたってことが失礼ながら意外だったし、でも嬉しい驚きでしたよ。『Shakespeare』もよかったけれど、そこからもまたひとつ進化できていると思いました。まあ生田先生の場合はマッチョでないとか性差別的でないとかより単に萌えポイントが観客のそれと大きく外れていないのかもしれない、というところが大きいのかもしれないけれど、とにかくやりたいことがあってそれを作品として成立させるためにキャラクターやストーリーをある程度の整合性を持たせて組めて歌や踊りを適正に入れられてミュージカルとして仕上げられるだけの技量やセンスや良識がちゃんとあるってことですよ。それが素晴らしいってことですよ。「ナチス台頭下のベルリン映画界の群像劇」みたいなお題目以上の何かなんかまるでなかった『ベルリン、わが愛』と同じ90分とか信じられない密度の差でしたよね…甘いかもしれないがここは褒めて伸ばしていきたいです。ホント何様だよですみません。

 脚本がいいのはもちろん音楽の良さもとうてい見過ごせないもので、作曲家の育成も早急になんとかしていただきたいものですけれどね。宝塚歌劇の、というか日本のミュージカルの大きな弱点のひとつが楽曲の貧困さだと私は思っているのです。海外の作曲家に頼らなきゃいけないうちは、海外ミュージカルの輸入翻案の方がいいねっていうのと同じです。オリジナルでがんばろうよ、そして輸出していく意気込みでいこうよ。てか『眠らない男』の営業してるの劇団? やんなきゃダメだよ? ここから海外へ、ってぶちかましたじゃん!
 それはともかく、だいもん、きぃちゃん、改めてトップお披露目おめでとうございました。咲ちゃんの健闘が嬉しいしあーさの加入は大きいし、今は割を食って見えてもここからどうにかするのがひとこだと思っているし、ナギショは別格として仕事をしていけばいいと思うしまなはるあすくんカリもいい仕事をしていくだろうし、あやなは芝居はまあしどころなかったかもしれないけれどこれまた楽しみしかありません。
 そうそう、大劇場新公も観られたのですが、初主演コンビが大健闘だったのが印象的でした。あやなの舞台映え、素直さ、伸びやかさ、明るく温かなオーラはスターの証。そして潤花ちゃんが歌も芝居もすごくがんばっていてできていてよかった。すわっちやサウザンくんも伸び盛りですよね、光あふれる未来しか見えません。楽しみです。

 レヴュー・スペクタキュラ―の作・演出は野口幸作。
 お友達が「スターにはゴンドラが似合うタイプとそうでないタイプがいるので、前回のベニーはいいが今回のだいもんはあかん」みたいなことを言っていたのが至言だなと思ったのですが(笑)まあお披露目だしお祝いだし似合わないことでも堂々やってのけるしかないのがトップスターというものです。痒い歌詞もやたら上手く朗々と歌われると一周回ってなんかおもしろくなっちゃうし、ずっと奥歯を噛み締めつつもニヤニヤしちゃうという楽しい観劇になりました。
 とはいえ男役の女装祭りが多くて、トップ娘役をちゃんと使っているならそれでもいいけど(中堅や若手の娘役は銀橋に出したり少人数口で起用したり、ちゃんと活躍させられているのになー)そうでないならテティスくらいはきぃちゃんでよかったと思うぞ。あとあーさの相手もナギショでよかったのでは? つまりだいもんの相手は常にきぃちゃんってのが基本なはずでしょうトップコンビなんだからましてお披露目公演なんだから、何年もたって目先変えてみましたっていうときまでこういう企画は待てよと言いたい、ってことです。
 あとデュエダンが短くてほとんど踊っていないのが残念でした。あと日記場面の映像はいらない気がしました。サヨナラ公演っぽさはそんなには感じませんでしたし、なんならサヨナラ公演でまた同じことやるのもおもしろいかもねと思いましたが。
 マスゲームは昔のMGM映画にあるイメージで特に目新しくありませんでしたが、今の日本の舞台で生で大人数でこんなふうにやるところは他にはないだろうからその意味では斬新だったかもしれません。ただ全体に帽子の場面が多くて下級生ファンは識別に苦労するとも聞いたので、シルクハットに燕尾にケーンという様式美はもちろんわかりますが、それにしても工夫が欲しかったところかもしれません。
 それと、ここで大階段を出したからにはここからがフィナーレだと思います。つまり暴風雪の位置がおかしいと思う。場面そのものも私はこういうノリのものはテレちゃってダメなんですが(単にイキった若いだけのオラオラした男が見たいならよそに行きます、外に腐るほどいます。私が男役に求めているのはそういうものではないのです)、好きな人は好きだろうし新機軸だと楽しむ人も多いだろうのでそれは文句は言いません。でも口パクは止めてくれ。歌っているのかもしれないけれど録音にかぶせているでしょう? それにあんなにエフェクトかけていたらそれはもはや生歌とは言えないでしょう。生でがんばってきたのが宝塚歌劇なんだから、安易にやっちゃだめだと思いますよ? ホントに…
 それにしてもララランド場面(そんな名前ではありませんが)は素晴らしかったですね、団体賞候補ですよね。ひらめのスカートさばきの美しいこと、肩と背中の柔らかさの美しいこと! ここのひとこはチギちゃんそっくりに見えたなあ、ちょっと痩せすぎが心配なくらいシャープになって、上手い! そしてサウザンくんも本当に垢抜けてきました。しかし咲奈だよ咲奈ホント素晴らしかったよ惚れるよ!!! 振り付けは三井聡。
 そしてどこでもここでも「こんな位置で踊らせてもらっていていいの!?」というあやなの上げっぷりな…! イヤできる子だしいいんですよ、そのための組替えですからね。それにちゃんと応えているとも思いましたしね。でも震撼しましたよね、ラインナップでは全然外だもんねー。でも期待しています、好きです(告白)。

 考えれば考えるほど次の『凱旋門』の主人公はだいもんとイシちゃんの役替わりにしてくださいよとしか思えませんが…とりあえず今は、新生雪組の素晴らしい船出を祝って終わりとしておきます。しかし手漕ぎボートはないやろ、豪華客船でいこう!(笑)








コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西尾雄太『アフターアワーズ』(小学館ヒバナコミックス全3巻)

2018年01月18日 | 乱読記/書名あ行
 気乗りしないままやってきた渋谷のクラブで、不思議なお姉さん・ケイと出会ったエミ。ミラーボールの下でしゃべって、呑んで、気づけばケイの部屋のベッドで一緒に寝ていて、しかも「VJをやってもらいます」って、VJって何!? キラキラとトキメキのガールミーツガ―ル青春譜。

 理想の…とまではいかないまでも、好みの、萌える百合を探す旅は地味に続けていて、それで読んでいたのですが…期待していたのですが…うーん、題材は揃っている気がしたのに、もったいない。
 出会ってしゃべって気が合って、飲み直そうって言われて外に出て、そのまま家に上げてもらって泊めてもらうことになって、しちゃって…というのはアリな流れだと思うのですよ。で、翌朝、相手がものすごく自然で何事もなかったかのようだし、自分もテレるのでとりあえずなかったこととしてまずは単なる友達としてのおつきあいからすることにして…ってのもわかる。
 でもそのあとどこかで、エミが自分のセクシュアリティの揺らぎに不安を感じたりケイのセクシュアリティに疑問を感じたり、って展開が普通あるべきでは? 立ち止まって悩むくだりがあるはずでは? だって今までエミは異性としかつきあったことがなくて、今も男子の恋人と半同棲みたいな状態なんでしょう? 自分にそのケがあるなんて考えたこともなかったんじゃないの? それともそうではないということなの? そこがあいまいで、なので読者はエミに感情移入しきれないのだと思うのです。だって流されてしちゃうことはあるにしても、そのあと立ち止まって慌てるような描写がなく、ただただそのまま流されていっているので、この子にとってはこれって普通のことなの? なら私とは違うな…と読者は混乱しちゃうんだと思うのです。
 読者は異性愛者で、というか自分を異性愛者だと思っていて、疑ったことすらないくらいで、でもこんなふうに素敵な同棲と出会ってコトに及んじゃったらそのときどうなっちゃうんだろう?って夢想し期待しながらこの話を読んでいるんだと思うんですよ。少なくとも私はそうです。あ、この作品は掲載誌からして想定される読者は男性なのかもしれませんが、ヒロインが女性なんだから女性になったつもりで読むものじゃないですか。というか女性ってこうなのかな?と思いながら読んだり、自分と同じ男性同士での話に変換して読んだり、とにかく「同性同士」ということにある種のこだわりを持って読むはずなんですよね。
 でもこのヒロインはそこにはとんど戸惑いもせずに進んでいくので、そんなのおかしいじゃん、そんなはずないじゃん、そこには葛藤とか悩みとかがもっとあるはずで、そこをどう乗り越えていくかってドラマが見たいんじゃん…と、私は思ってしまったのでした。
 ケイに関しても、レズビアンなのかはたまた今回の恋愛がたまたまなのかとか、異性との交際経験はあるのかとか、全然説明がされません。でもそういうことをクリアにしてからでないと私は先に進めない。だって普通気になるじゃん? 好きになった人の過去とか、なんで自分を好きになってくれたのか、とか問い質したりしちゃうものじゃん。そういうくだりがほとんどないというのはおかしいと思うんですよね…結局自分たちとは感覚が違う真性レズビアン(というものがあるとして)の話ってことなの?ってなっちゃうもん。でもそうじゃないはずなんですよね、そこがもったいない。
 また、ふたりには年齢差や社会経験差がある設定になっていて、そこがつきあう際にいい方に出たり逆にネックになったりというドラマがもっとあるはずなんだけれど、そんな展開が特になく、せっかくの設定が生かされていない気がしました。オトナで余裕ありげに見えるケイの方が実は引け目を感じていて…とか、ベタだけど、なんかイロイロあるはずじゃないですか。そういう展開は全然ない。ないなら別のドラマを仕立ててくればいいんだけど、それもないので肩すかしなのです。
 クラブを仕切る、レイヴを開催する、というイベントもの、青春もの、音楽ものとしての側面はまあまあがんばっている気がするのだけれど、歴代の音楽を扱った傑作漫画の足下には残念ながら及べていないかな、という印象です。そういう漫画は音や色を本当に感じさせられるものなんですけれどねー。でもこれは私がそもそも音楽とかクラブシーンに疎いからかもしれません。クラブ通いを常としている若い読者には響く表現とかがちゃんとされているのかもしれない、だとしたら読み取れずすみませんでした。
 後半で急転直下、ケイが実家に帰らざるをえなくなって…なんて展開は、みんながみんないつまでも若くないし都会で暮らしていくのも大変だし人生考えなきゃいけないし、というとても深くて重大でリアリティのあるおもしろいテーマなので、もっともっと掘り下げて描いてほしかったです。
 あーん、ホントいろいろもったいない作品だったなー。絵は可愛いしネームもちゃんとしてるのになー。連載していた雑誌が途中で休刊しちゃったこととは別に、人気なかったのかなー。もったいないなー。
 また旅は続けます…



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

澄輝日記8.75~『不滅の棘』初日雑感

2018年01月09日 | 澄輝日記
 ドラマシティ初日から三回連続観劇して帰京しました。
 初演は生では観ていなくて(私はオサがやや苦手で、この時期のものを一番観ていないかもしれません。仕事が忙しかったのか、全体に離れ気味でした…)、以前スカステで放送していたのを録画して見たときには
「変わった話だなあ、私は嫌いではないけれど…」
 という印象を持ったように記憶しています。でもどこがどう変わっていたと感じられてどこがどう好みだったのか細かいことは記憶になく、再演が発表されたときにもけっこう驚いたものでした。再演希望の呼び声高い名作、みたいな印象はまるでなかったので。結局、再度録画を見るなどの予習はできないままに臨みました。

 プログラムのキムシンのコメントが
「おまえは何を言っているの?」(byアレクサンドラ)
 な感じでものすごく不安になり、初日の一幕目が終わったときにはあまりの話の始まらなさに私はこれをあと何回観るの?と絶望的な気持ちになりましたが、二幕はものすごくおもしろく感じました。
 で、二回目はわかって観ると一幕目からちゃんとおもしろく観られて萌え萌えになれ、観終えたときにはこの作品の見方がすっかりわかった気がしました。一幕をタイトにして二幕の一部を移したらフィナーレの尺が出るのでは、と思いましたが、三回目には、いい幕切れだな、これはフィナーレはなくていいなと思いました。
 おもしろいです、私は好きです。通える自信ができました。
 でもまだ全体にもう一押し出演者のがんばりが欲しいところかもしれないし、やはり初演は原作戯曲があるとはいえあまりにオサありきのものになっていたのではないかと思うので、今ほぼまんま再演しているのはややしんどくて、もう少し手を入れてあげてもよかったのではないかとも思うので、今回はそのあたりをねちねちと語りたいと思います。まだ初演を見直して答え合わせをすることはできていません&毎度のことですが現時点でのごく個人的な感想と覚え書きです。ご覧になっていない方にはややわかりづらい文章になっているかと思います、ご容赦ください。

 ところで原作戯曲では主人公は女性だそうですが、どの程度改変されているのでしょうね? 主人公が愛した相手との間の子供を自分で産んだのなら(不死の体でも出産はできるものなのかな? あ、あと「出産証明書」じゃなくて「出生証明書」とかの方が一般的な用語じゃないですかね…?)、その後手放すことになる経緯とか感覚とか、けっこう違ってきちゃう気もしますが…
 というかエリイが圧倒的な歌の上手さとオレ様パワーと人への取り入りの上手さとでその時々の権力者の庇護を受けたりアイドルスターになったりして身過ぎ世過ぎしている、というのはいかにもオサあっての原作からの改変だったのではなかろうか…原作の主人公は本当に歌手なの? それをまんま愛ちゃんにやらせようというのはさすがに冒険が過ぎる気はしますよね。愛ちゃんの持ち味はまた別のところにあるわけだからさ…人に取り入る、というのは聞こえが悪いけど、懐くのが上手いとか愛されるのが上手い、魅力がある、というのは当てはまるかなとは思うのですが、決して歌手じゃないと思うし、あんなに宝塚オタクなのに性格的には照れ屋でキザるのが苦手で全然オレ様じゃない、というのもよく知られたことだと思います。
 でもそういうスターありきというよりは、もしかしたらキムシンありきの作品だったのでしょうか…キムシンはプログラムでこの作品を「もっとも私的な作品」と表していますが、何か個人的に感じるところがあってインスパイアされ、宝塚歌劇としての翻案に着手したのでしょうね。装置といいお衣装といい非常に斬新で実験的で、なんというかマイナーと言ってもいいくらいで、まあ外部の舞台なら別に目新しくもないのかもしれませんが、あえて全体的にもそういうふうに、つまり一般的な舞台のような、あえてあまり宝塚歌劇っぽくない作りにしているのかもしれません。
 たとえば宝塚歌劇においてはどんな役も少なからずファンがいるスターたる生徒が演じるものなのだから、悪役であれ情けないキャラクターであれ、ある程度フォローが入るというか、観客の共感や納得がある程度されるよう説明が丁寧に足されるものだと思うのですよ。でも今回の舞台はわりとそういうことをしていません。そのノリに慣れるまで、私はけっこうとまどいました。
 ヒエロニムスが不死の薬を作った経緯や息子に飲ませた理由は、まあ特になくてもまあそういうところから始まる物語なのだと思いねえ、って感じだということで受け入れられたのですが、エリイは別に自分の意志に反してタイムスリップしちゃう業を背負っているということでもないの思うのにあの時間が飛ぶ演出はなんなんだとか、そんなエリイが子をなすほどに愛したフリーダ・プルス(遙羽ららの二役。見事でした! 歌も本当に上手くなったよねえ…!!)との出会いや恋愛の経緯は描かれなくていいのかとかそもそもどんな女性だったのかなんかあんまよくわかんないんですけどそれはいいのかとか、まあいちいち引っかかったわけです。
 フリーダ・ムハの方も、親を早くに亡くしていて親の愛を知らずに育って、ややエキセントリックに成長してしまったということなのかもしれないけれど、そんなフォローも特にないまま、弁護士のおじさま相手にいくら自分が依頼人とはいえとにかくやたらと高圧的で攻撃的で鼻持ちならない態度を取るので、なんなのこの女?と当惑します。まして贔屓がそんな彼女の幼なじみで、かつ求婚してフラれてでもまだ想っているらしいとなれば、ね…
 原作タイトルでもあり話の軸となるらしい裁判についても、まあ百年も係争するなんてことは現実にはありえない気もするのでこれもまたおとぎ話みたいなものなのかなとも思うのですが、エロール・マックスウェル(愛月ひかるの三役、これまた見事でした。エリイ・マック・グレゴルのときの温かさや揺れ、よかったなあ!)が持ち込むネタもマッハとマックの読み間違い、みたいなものでそんなんでいいの?って気がしましたし。
 プルス男爵一家に関しても、未亡人のタチアナ(純矢ちとせ。すごーくよかった! 色っぽくて素晴らしかった!!)がお金に惹かれて来る遊び相手に困らない有閑マダムで…ってのはいいとして、長男のハンス(留依蒔世。セーターの丈はもう少し短くした方が素敵に見えるのではないか? あと個人的には歌はともかくりくとかさおで観てみたい役だったかも…)はそんな母親に対して拗ねてグレているのかもしれないけれど自殺レベルの飲酒というのはまたずいぶん情けなく見えました。兄を心配し母に従うクリスティーナ(華妃まいあ。よかった! 歌えるのは知っていましたが全ツ『バレンシア』とかでは正直芝居がちょっと物足りなかった印象だったのですが、今回は素晴らしい!)はハマっていましたね。実は単なる清楚な裏ヒロイン、なんかではなくこれまた意外にエキセントリックな女性でだからこそあの顛末になる、というのも納得でとてもよかったです。
 でもそういうことを全部、あえて、わざと、説明しすぎないでグイグイ力任せに進めてしまう構造にこの作品はなっていて、その原動力はエロールの歌唱力とかスターオーラ…なんだけど、現時点では愛ちゃんは歌はとても上手くなっていると思うしキザりもドヤりも大健闘していると思うのですけれどそれでも、そりゃオサと同じにはできないだろうと思うし、でもそれが求められている、ブレイクし時だと判断されているというのもわかるし、まだまだできるはずだからがんばれ!と思いつつ演出としてもうちょっとフォローできないものかなとも思い、私はモヤモヤしたのでした。まあ簡単に言えば歌を減らして芝居を増やしても成立する話なのでは?というかその方がいいのでは?ということなんですが、まあそれは安易な逃げに見えてキムシンは良しとしていないんだろうなあ。というかキムシン自身がとにかくこの作品を愛しているのだろうなあ…
 ただ、逆にオサとまんま同じにはできないだけに、そのオサにはなかった人間らしさとか温かさとかが透けて見えるのが愛ちゃんのエロールのいいところだとも思うので、この先さらに進化して深化して上手く作っていけば、ちゃんと初演とは違うものでかつとてもいいもの、ができあがってくる気がするんですよね…それを望みたいです。

 折しも大劇場では花組がバンパネラが主役の作品『ポーの一族』を上演しているわけですが、『不滅の棘』はロマンチスト・キムシンが、限りある生命を生きる人間ども(「人間ども」というのはみりおのポー初日カテコ挨拶の至言でした)とその人生への愛の賛歌を物語に反映したものであり、だからショルダータイトルが「ロマンス」なんですよね多分。このロマンスとは、よくある男女のラブストーリーみたいなものを意味していないのです。
 その人間代表がアルベルトという役なのだと思います。主人公に「ロマンに欠けた人間だな」みたいに言われてしまうアルベルト、ですよ…! 『神土地』コンスタンチンに引き続きキーパーソンとなるお役をいただきましたよね。というか配役発表時にアサコよりユミコの役(ハンスのことです)の方が目立ついい役なのに、みたいな意見をけっこう目にしましたが、ぶっちゃけ贔屓目でしょうが全然そんなことはなかったと思いました。アルベルトでよかったと思うし、アルベルトの方がおいしい役だと思います。意義があるというか。年末の某特番で天海のユリちゃんは役がおいしいとかおいしくないとかいう表現が嫌いだ、と蒼井優と盛り上がっていたしそれはとてもよくわかるのだけれど、わかりやすい表現なのでここではあえてこう書きます。
 あっきーのアルベルトは、いい。困惑顔とか眉間の皺がいいとか白のスリーピーススーツがとにかく似合うとか椅子再びとか脚立に上がる足取りは危なっかしくて可愛いとかまあいろいろあるんですけれど、何がいいって要するに普通の人間代表、みたいな存在にきっちりなれているところです。中の人のまっとうさ、まっすぐさ、すこやかさ、あるいは単純さという言葉を選んでもいいけれど、そういうもので裏打ちされた役作りができていて、人外のエロールと対峙する存在にきちんとなっている。それが素晴らしいと私は思ったのでした。
 ただもしかしたらこの先、愛ちゃんのエロールがより人間らしさを漂わせつつもやっぱり人外だ、というところまで表現できるようになるのなら、合わせてアルベルトも、ある意味でより悪い方に人間くさく、ちょっと愚かだったり駄目だったりする感じを出していくべきなのかもしれません。それはけっこうハードルが高いことのように私には思えて、ちょっと不安ではありますけれどね…さてどうなりますことやら。
 現状、アルベルトは、エロールが現れたときこそコーラスガールズ(四人とも絶品! 中堅娘役の正しい使い方かと。ところで彼女たちはエリイの眷属みたいな人外ではなく、あくまで人間の、グルーピーめいた存在なのかしらん…?)に誘われて一緒にルンルン踊っちゃってるんだけれど、エロールに喧嘩を売られてからはカチンときたかはたまたフリーダを守らなくてはと奮い立ったか、すぐにエロールに対し「♪とても危険だ」と歌えるような、彼の危険性を察知できる鋭敏な感覚を持った人間として描かれていると思います。ちょうど『ポーの一族』で人間代表のクリフォードがバンパネラを見抜くのと同じです。普通で素朴でまっとうな人間だからこそ人外のものを感知できるのです。惹かれてしまい惑わされてしまうほど繊細だったり弱かったりしない、アルベルトの強さや単純さはまさしく私が中の人の特質のひとつだと思っているものなのでした。
 ずいぶん低い音まできっちり出せる端正な歌がまた素晴らしいし、二幕のラブソングのソロの甘さ、優しさときたら! 主役の歌のリプライズにすぎませんけれどでも、絶品でした! というか私はこの人は歌手としてもっと起用されていいと思っているんだけでなあ…! ちなみに上手後方の会席に視線飛ばして「♪君を守りたい」みたいに歌うの、ホント反則だから! キャー!!
 このアルベルトだからこそ、ラストのフリーダを「受け取るな」と止められるのだと思うのです。台詞は「駄目だ」とかもっと短いものにしてもいいかもしれないな、とは思いましたが、初日はその構造の見事さに本当に鳥肌が立ちました。
 もちろんアルベルトが止めなくてもフリーダは封筒を火に投じたかもしれません。でも観客にとっては、人間どもにすぎない観客にとってはアルベルト視線のあの台詞があることのわかりやすさはとても重大なポイントだと思います。あと、エリイなきあとのフリーダにアルベルトが残されている、と思えることもとても大事だと思うのです。彼らのロマンスはこの物語のあとにこそ始まるのですよ、きっと…! がんばれアルベルト!!(笑)
 というかこの物語はそもそも、エリイとフリーダのラブストーリー、みたいな単純なものにはなっていないので、それでもフリーダを物語のヒロインたらしめているのは実はアルベルトのこの片想いがあったればこそだと思うのです。そういう意味でもとてもキーパーソンだと思いますし、そこにまたきれいにハマるあっきーの持ち味、ポジションよ…!と思わないではいられません。イヤ幸せになる役も見てみたいし本人念願の悪役とかはたまた非情な殺人鬼とかサイコパスの役も見てみたいんですよ? でもとりあえずこういう役が抜群に上手いしハマる、というのはそれはそれでひとつの立派な資質なのだと思うのです。上手く起用していただけたら嬉しいし、その上で先生方にはさらに変わった役をこの生徒に書いてみていただきたいものです。
 というか当人が作家におもしろい役を書かせる役者にならなきゃならないんだけどね。がんばるよ、がんばらせるよ! 一ファンにすぎない者がこんなところで何言ってんだって話ですが、そんなことをまたしみじみ考えた遠征だったので、今回はそんな日記です。

 このあとナウオンを見ます。そして明日からの仕事始め、がんばります…がんばれるかな…アタマがコレナティ家妄想とかから帰ってこられない気もします。どんなママなのかなとか(笑)。
 新年三作(雪組も観たので)、早くもどれも楽しくて嬉しいです。今年も良い一年となりそうです!










コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする