というワケで節目でもあるので、一応語らせていただきます。
タイトルは、プッチーニ『ジャンニ・スキッキ』の「私のお父さん」のモジリとでも思ってください。
すっかり精神的に依存しているツイッターですが、始めてよかったと一番思っていることは、もしかしたらこの「大空さん」という呼称を得たことかもしれない、と思っているくらいなのです。後述します。
25日に千秋楽。
26日には卒業を発表。
27日には退団発表記者会見。
28日には中日公演のお稽古開始…
ファンを下手にやきもきさせたまま年越しさせたりしないようにという優しさなのか、はたまたただのドSなのか、いっそ潔いと言っていいくらいの事態の進み方が本当に「らしい」です。
集合日もお稽古入り待ちは大変な人出だったそうですが、安心の通常営業だったそうで…あああ、あまりにもらしすぎるわ。
27日に期日指定配達できちんと届けられる白封筒も素晴らしい。
記者会見ラストの笑顔があまりに可愛すぎて、萌え笑いにちょっと涙がにじんだりしましたが、それくらいで、私、本当に全然泣いていません。
思えば10か月前、『誰鐘』千秋楽のあと『ヴァレンチノ』集合日までの数日間の方が、全然怖かった。
『美しきルナ』で卒業なら、発表はこのタイミングなんだ、と気づいてしまった瞬間から、肝が冷えるとは本当にこのことかというくらい体温下がって感じられたし、末端冷え性でいつも冷たい手先がさらに冷たくなりました。
全然覚悟ができなかった。まだまだ足りない、観ていない、やめないでずっといて、としか思えなかった。本当に動揺しました。
それから考えると、『クライマックス』もまたフェイントだったね、と笑うことを脳の片隅で期待していながらも、でも今回は全然おちついて迎えられました。会からのメールに心臓がちょっと跳ねたくらい?
やっぱり、『クラナイ』がとてもよかったから。バランスが美しかったから。
そういうのは長続きしない。長く続いたら駄目になる。
禅譲すべき時は満ちた。早すぎるよとかなんでなのとかも、まだやめないのもういいんじゃないのとかも言われることなく、必然のように旅立てる、今なら…そう思えたのです。
肩の荷が下りた、というのとも違う。ゴールが見えて安心した、なんてのは全然ないな。
新しい作品が楽しみなことに変わりはないし、今まで同様通いまくるし、普通に応援し続けたい。
本当にそんなふうにしか思えない。特別なことのように思えないし、喪失感も感じられない。なんなんだろう?
長く愛しすぎていて、いろいろ麻痺しているのでしょうか?
でもやまない雨はないし死なない人間はいないし、卒業しないジェンヌはいないですしね。イヤいろいろアレなたとえですみませんが。
専科に移って残るようなことがなくてよかったな、とは思いました。個人的に、きちんと卒業はしてもらいたかったので。
主演作に本当に恵まれたと思うから、特出で組の主演に割を食わせるような形の作品は観たくなかった。
男役姿をずっと見続けていたいからなんとしても残ってほしい、みたいな考えもなかった。女優さんになってくれてもいいし、違った形の芸能活動をしてくれてもいいし、結婚しても一般人になってもとにかく全然かまわなかった。人が指図できることではないしね。
本人が幸せでいてくれればいい。好きな人が幸せなら自分も幸せ、というのはこういう形の愛でないとなかなか成立しないものだと思うし、そういう関係が持ててよかったとしみじみ思うので。
観られることが少なくなれば去るものは日々に疎しということはあるかもしれないけれど、それでも漠然とでも愛し続けられると思うから。
卒業の日を境に自分が燃え尽きてしまうんじゃないかとか、ライトファンになるであろう自分の観劇ライフを心配したりとか、逆に次の恋は訪れるのかしらとかいつかしらとかそのとき罪悪感を感じたりするのかしらとかの心配も、とりあえずない。
頭が回らない、思考停止しているのとは違うと思うし、単に問題を棚上げしているわけでもないんだけれど…その先の自分に無関心ということではなく、でもなんかとにかくそんな変わらないよ大丈夫、というよくわからない信頼感だけがある。
自分の今のこの心理が自分で本当によくわかりません…
私は事前に最低最悪ラインのシミュレーションだけは済ませておいて心の準備をしておいて、実際の現実に対してはごく粛々と場当たり的にこなしていく…みたいな生き方を主にしているのですが、この件に関しては特にそういうことをしていなくて、そしてそれで平気で済んでいる…
本当に我ながら不思議です。
でも、向こう半年も楽しみだな、その先も楽しみだな、としか思えないのです。うーむ。
また都合よく日程的にいろいろなことがなんとかなりそうだから、強気でいられる、というのはあるかもしれません。
しかし私は観劇歴は長いがメイト歴は短くて、知らないこと、初めてのことが実はいっぱいあります。粗相をしでかさないよう、みなさんいろいろ教えてください!とは思っています…
私の初恋はヤンさんでしたが、それは初めて観た演目の主役だったから、という部分も大きいと思う。宝塚歌劇そのもののファンになるのと同時進行の恋みたいなものだったから、卒業に関しても「そういうものがあるんだ」というくらいの感覚で受け止めていたと思うし、会にも入っていなかったし、サヨナラ公演もいつもの公演と同じく2,3回観て終わり、程度だった。まあ震災の問題もありましたけれどね。
だからパレードとかフェアウェルとかの作法や様式をまったく理解していません。そういう意味では不安だわ。会でも新参者ですしね。
がんばります。
大空さんとの出会いというか恋の始まりについては、こちらなど。
そのあともわりと紆余曲折はあったので、それはまたどこかでまとめて語りたいなと思っています。
そんなわけで観劇つぶやきをし始めてからつながり出して俄然おもしろくなったツイッターですが、私は当初しばらく大空さんの呼び方に対し戸惑っていたのですね。語るときにどう書くか決められなかったのです。
昔の自分の観劇ブログ記事なんかを読むと、自分でも混乱しているというか統一されていなくて笑えるのですが、「ユウヒ」「ユウヒくん」「ユウヒちゃん」とか書いているわけです。
でも基本的には私はただ「ユウヒ」と呼び捨てしてきたと思うんですね。下級生のころから観ているし、年下だし。
ただ私には周りに宝塚友達があまりいなくて、だから実際に名前を口に出して発することがあまりなく、そうすると脳内でも呼称が意外ときちんと固まらないというか、言葉として呼び名として確立されないままに、ただ漠然と好きだという感情だけが育まれていた、という期間が本当に長くあったんですよ…毎度理屈っぽい話ですみませんが!
あと、当人が名乗る際のイントネーションが私にはどうにも理解不能だった、というのもある(^^;)。それを踏まえて「さん」付けするにしても、やっぱり私にはイントネーションが謎としか思えず、抵抗がありました。「ユ」にアクセントを置くのか、一本調子で発音するのかということですが。
でもこのままいったらサヨナラショーとかで呼び捨てで怒号しそう、そしてそれはたとえ愛情故と伝わったとしても本人もいい気はしないだろうな、ましてや周りからは睨まれそうだよな、みたいなつまらない心配をずっとしていたんですよね。文字で書くにも気に障って感じる人は多いだろうしな、と…
そんなわけで、特別ひらめいた!というわけでもありませんが、あるときから「大空さん」呼称が確定できたのですね、自分的に。
苗字に「さん」を付けて呼ぶというのはもっとも一般的というか普通というか、むしろ他人行儀なものでしょうが、だからこれはそういったニュアンスのものではなくて、「大空さん」一語で愛称というか、そういう形のニックネームというか、なのです。
この私が「さん」なんか付けちゃって呼んじゃってるよナニそれ笑える、みたいなテレやナゾの自分からかいつっこみも含めた、「愛称」なんですね。自分なりの。まったく伝わってないし人にはどうでもいいことでしょうが。
とにかくそうやって気楽に発せられる言葉を得られたことが私には大きかったのです。少なくとも文字ではそうです。脳内ではどうかな、やっぱりまだ「ユウヒ」かな、あいかわらずただ好きな人というイメージだけで処理しているかな…
最近になってやっとできた何人かの宝塚友達はみんな心が広くて優しいので(^^;)、私がぞんざいに呼び捨てしていても目くじら立てたりしないので、それには甘えさせてもらっていると思います。
でもなあ、卒業当日、どんな呼びかけで叫んでいるかなあ私…それはやっぱり想像できないわ…
あと、私、ホントにいつ泣くんでしょうか…
タイトルは、プッチーニ『ジャンニ・スキッキ』の「私のお父さん」のモジリとでも思ってください。
すっかり精神的に依存しているツイッターですが、始めてよかったと一番思っていることは、もしかしたらこの「大空さん」という呼称を得たことかもしれない、と思っているくらいなのです。後述します。
25日に千秋楽。
26日には卒業を発表。
27日には退団発表記者会見。
28日には中日公演のお稽古開始…
ファンを下手にやきもきさせたまま年越しさせたりしないようにという優しさなのか、はたまたただのドSなのか、いっそ潔いと言っていいくらいの事態の進み方が本当に「らしい」です。
集合日もお稽古入り待ちは大変な人出だったそうですが、安心の通常営業だったそうで…あああ、あまりにもらしすぎるわ。
27日に期日指定配達できちんと届けられる白封筒も素晴らしい。
記者会見ラストの笑顔があまりに可愛すぎて、萌え笑いにちょっと涙がにじんだりしましたが、それくらいで、私、本当に全然泣いていません。
思えば10か月前、『誰鐘』千秋楽のあと『ヴァレンチノ』集合日までの数日間の方が、全然怖かった。
『美しきルナ』で卒業なら、発表はこのタイミングなんだ、と気づいてしまった瞬間から、肝が冷えるとは本当にこのことかというくらい体温下がって感じられたし、末端冷え性でいつも冷たい手先がさらに冷たくなりました。
全然覚悟ができなかった。まだまだ足りない、観ていない、やめないでずっといて、としか思えなかった。本当に動揺しました。
それから考えると、『クライマックス』もまたフェイントだったね、と笑うことを脳の片隅で期待していながらも、でも今回は全然おちついて迎えられました。会からのメールに心臓がちょっと跳ねたくらい?
やっぱり、『クラナイ』がとてもよかったから。バランスが美しかったから。
そういうのは長続きしない。長く続いたら駄目になる。
禅譲すべき時は満ちた。早すぎるよとかなんでなのとかも、まだやめないのもういいんじゃないのとかも言われることなく、必然のように旅立てる、今なら…そう思えたのです。
肩の荷が下りた、というのとも違う。ゴールが見えて安心した、なんてのは全然ないな。
新しい作品が楽しみなことに変わりはないし、今まで同様通いまくるし、普通に応援し続けたい。
本当にそんなふうにしか思えない。特別なことのように思えないし、喪失感も感じられない。なんなんだろう?
長く愛しすぎていて、いろいろ麻痺しているのでしょうか?
でもやまない雨はないし死なない人間はいないし、卒業しないジェンヌはいないですしね。イヤいろいろアレなたとえですみませんが。
専科に移って残るようなことがなくてよかったな、とは思いました。個人的に、きちんと卒業はしてもらいたかったので。
主演作に本当に恵まれたと思うから、特出で組の主演に割を食わせるような形の作品は観たくなかった。
男役姿をずっと見続けていたいからなんとしても残ってほしい、みたいな考えもなかった。女優さんになってくれてもいいし、違った形の芸能活動をしてくれてもいいし、結婚しても一般人になってもとにかく全然かまわなかった。人が指図できることではないしね。
本人が幸せでいてくれればいい。好きな人が幸せなら自分も幸せ、というのはこういう形の愛でないとなかなか成立しないものだと思うし、そういう関係が持ててよかったとしみじみ思うので。
観られることが少なくなれば去るものは日々に疎しということはあるかもしれないけれど、それでも漠然とでも愛し続けられると思うから。
卒業の日を境に自分が燃え尽きてしまうんじゃないかとか、ライトファンになるであろう自分の観劇ライフを心配したりとか、逆に次の恋は訪れるのかしらとかいつかしらとかそのとき罪悪感を感じたりするのかしらとかの心配も、とりあえずない。
頭が回らない、思考停止しているのとは違うと思うし、単に問題を棚上げしているわけでもないんだけれど…その先の自分に無関心ということではなく、でもなんかとにかくそんな変わらないよ大丈夫、というよくわからない信頼感だけがある。
自分の今のこの心理が自分で本当によくわかりません…
私は事前に最低最悪ラインのシミュレーションだけは済ませておいて心の準備をしておいて、実際の現実に対してはごく粛々と場当たり的にこなしていく…みたいな生き方を主にしているのですが、この件に関しては特にそういうことをしていなくて、そしてそれで平気で済んでいる…
本当に我ながら不思議です。
でも、向こう半年も楽しみだな、その先も楽しみだな、としか思えないのです。うーむ。
また都合よく日程的にいろいろなことがなんとかなりそうだから、強気でいられる、というのはあるかもしれません。
しかし私は観劇歴は長いがメイト歴は短くて、知らないこと、初めてのことが実はいっぱいあります。粗相をしでかさないよう、みなさんいろいろ教えてください!とは思っています…
私の初恋はヤンさんでしたが、それは初めて観た演目の主役だったから、という部分も大きいと思う。宝塚歌劇そのもののファンになるのと同時進行の恋みたいなものだったから、卒業に関しても「そういうものがあるんだ」というくらいの感覚で受け止めていたと思うし、会にも入っていなかったし、サヨナラ公演もいつもの公演と同じく2,3回観て終わり、程度だった。まあ震災の問題もありましたけれどね。
だからパレードとかフェアウェルとかの作法や様式をまったく理解していません。そういう意味では不安だわ。会でも新参者ですしね。
がんばります。
大空さんとの出会いというか恋の始まりについては、こちらなど。
そのあともわりと紆余曲折はあったので、それはまたどこかでまとめて語りたいなと思っています。
そんなわけで観劇つぶやきをし始めてからつながり出して俄然おもしろくなったツイッターですが、私は当初しばらく大空さんの呼び方に対し戸惑っていたのですね。語るときにどう書くか決められなかったのです。
昔の自分の観劇ブログ記事なんかを読むと、自分でも混乱しているというか統一されていなくて笑えるのですが、「ユウヒ」「ユウヒくん」「ユウヒちゃん」とか書いているわけです。
でも基本的には私はただ「ユウヒ」と呼び捨てしてきたと思うんですね。下級生のころから観ているし、年下だし。
ただ私には周りに宝塚友達があまりいなくて、だから実際に名前を口に出して発することがあまりなく、そうすると脳内でも呼称が意外ときちんと固まらないというか、言葉として呼び名として確立されないままに、ただ漠然と好きだという感情だけが育まれていた、という期間が本当に長くあったんですよ…毎度理屈っぽい話ですみませんが!
あと、当人が名乗る際のイントネーションが私にはどうにも理解不能だった、というのもある(^^;)。それを踏まえて「さん」付けするにしても、やっぱり私にはイントネーションが謎としか思えず、抵抗がありました。「ユ」にアクセントを置くのか、一本調子で発音するのかということですが。
でもこのままいったらサヨナラショーとかで呼び捨てで怒号しそう、そしてそれはたとえ愛情故と伝わったとしても本人もいい気はしないだろうな、ましてや周りからは睨まれそうだよな、みたいなつまらない心配をずっとしていたんですよね。文字で書くにも気に障って感じる人は多いだろうしな、と…
そんなわけで、特別ひらめいた!というわけでもありませんが、あるときから「大空さん」呼称が確定できたのですね、自分的に。
苗字に「さん」を付けて呼ぶというのはもっとも一般的というか普通というか、むしろ他人行儀なものでしょうが、だからこれはそういったニュアンスのものではなくて、「大空さん」一語で愛称というか、そういう形のニックネームというか、なのです。
この私が「さん」なんか付けちゃって呼んじゃってるよナニそれ笑える、みたいなテレやナゾの自分からかいつっこみも含めた、「愛称」なんですね。自分なりの。まったく伝わってないし人にはどうでもいいことでしょうが。
とにかくそうやって気楽に発せられる言葉を得られたことが私には大きかったのです。少なくとも文字ではそうです。脳内ではどうかな、やっぱりまだ「ユウヒ」かな、あいかわらずただ好きな人というイメージだけで処理しているかな…
最近になってやっとできた何人かの宝塚友達はみんな心が広くて優しいので(^^;)、私がぞんざいに呼び捨てしていても目くじら立てたりしないので、それには甘えさせてもらっていると思います。
でもなあ、卒業当日、どんな呼びかけで叫んでいるかなあ私…それはやっぱり想像できないわ…
あと、私、ホントにいつ泣くんでしょうか…