駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『てなもんや三文オペラ』

2022年06月18日 | 観劇記/タイトルた行
 PARCO劇場、2022年6月17日18時。

 1956年(昭和31年)秋。猫間側沿いの川岸にはトタン屋根のバラック小屋が肩を寄せ合っている。川向こうには大阪砲兵工廠ルト・ブレヒト、音楽/クルト・ヴァイル、音楽監督/久米大作。『三文オペラ』を戦後の大阪に舞台を移して改訂した「てなもんや」版、全2幕。

 コクーンで蜷川演出の音楽劇『三文オペラ』を観たときに記事はこちら
 もちろんさっぱり覚えておらず、ざっと再読して「あまり感心しなかったんだな」ということは自分でもわかりましたが、メンツがいいのでいそいそとチケットを取りました。ちなみに『てなもんや三度笠』についてはタイトルとなんとなくのイメージしか持っていなくて、検索したらさすがに生まれる前に放送終了していた番組でした。まあ単なる駄洒落なのと、時代ものですよ、関西ものですよ、ってだけのことなのかな?
 そして私は『焼肉ドラゴン』を観られていないので、また映画『月はどっちに出ている』や『愛を乞うひと』も未見なので、初鄭作品でしたが、いやぁよかったよかったおもしろかった! 痛快でした爽快でしたラストはほろりと泣きました!!
 なんてったって生田斗真が素晴らしい座長っぷり、いやトップスターっぷりでした。白タキシードの新郎姿から始まって、ハットにスーツだわ甘いバラード歌うわタンゴ踊るわ、もちろん大立ち回りもこなして八面六臂。歌も芝居も上手い、そしてとにかくいい男!
 いやマック・ザ・ナイフってろくでもない男ですよ、男も女も転がし抱き毟る(笑)悪党です。でも愛嬌があって本当に魅力的。そして時代を移した意味があって、彼はかつて太平洋戦争に狩り出されたことがある元兵士という設定になっています。ポールはまだ徴兵年齢に達していなかったのかもしれませんね。兵隊にちゃんとした装備も持たせず軍略も作戦もあったもんじゃなく、ただ戦地に送り込み、ほとんどを餓死させて終わった世紀の負け戦です。生田斗真がプログラムで語るとおり、マックの人生はある意味そこで終わってしまったのでしょう。だからあとは余禄で余生で、だからこそちゃらんぽらんに生きられるわけです。いつ死んでもいい、なんなら誰か俺を死なせてくれとすら思っている、その悲壮感が見えるから、ただのナンパなプレイボーイだとか単なるチンピラなクズとかには見えない。観客含めてみんなが彼を好きになってしまうんです。こういう主人公がいることって作品にとって本当に大事です。これだけで勝ったも同然だと思います。
 さらに彼は、自分たちをそうした死地に追いやった国を、政府を激しく糾弾します。「もはや戦後ではない」とか言っちゃって、すっかりなかったことにしようとしているけれど、その実まだ戦争の精算を俺たちはつけてもらっていない、という思いがある。だから国の施設から屑鉄を盗むのだって正義なんです、だって国の方が悪いんだから。これを犯罪だと取り締まろうというのなら、自らの大犯罪を償ってから出直してこい、と彼は言うわけです。彼は正しい。そして無策で無責任な国や政府への怒りは現代を生きる我々観客にも通じるものがあり、それはもうビンビンに響くのでした。
 さて、『三文オペラ』ではピーチャムとシーリアの子供はポリーという娘だけれど、今回は何故か男性のポールに変わっています。というかこの作品、シーリアとルーシー(平田敦子)しか女優さんが出ていないんですね。1950年代の日本の話だし、別にこれはダイバーシティとか多様性がどうとかで変えられた設定ではないんだと思いますが、ヘンにBLめくこともなくフツーに展開していてすがすがしかったです。ウエンツの塩梅がまた上手くて、必要以上にはなよなよしたりしないし、でもこの界隈には染まらない、染まれない、まっすぐ生真面目な青年っぷりで、マックに心酔していて本当に愛していて、アパッチたちの大騒ぎにはちょっとついていけなくて腰が退けてる感じとか、でも理解しよう仲良くなろうとがんばる姿勢とか、本当にこれまたチャーミングでした。
 ポールとルーシーのいがみ合いもラブリーだったし(「オカマなのに煮え切らない!」って揶揄、すんごいおもろいなと吹いちゃいましたよ…そらそうだ、釜が煮えなきゃ米が炊けなくて一大事だ!)、ラスト近くの場面もめちゃくちゃよかった。これはルーシー役者が素晴らしかったことにも勝因があるとも思いました。
 正直、太った女優さんです。でもそこがイイの、すっごくキュートでチャーミングで。ルーシーってホントにいい子なんだと思うし、だからマックもちゃんと彼女を好きになったんだと思うんですよね。あくまで彼女といるときは、ですけれど。要するにマックはただの器量好みのしょーもない助平男なんかではなくて、誰にでも好かれて誰をも好きになっちゃう、心が広いというか節操がないというか、まあそういう意味ではホント駄目なヤツなんだけれど、とにかくそんな懐が大きい男なんだと思います。
 それはジェニー(福井晶一)を男性にやらせていることもそうで、私はこれはある種のゲイバーのママなのであって大柄な女性を演じているのではないのだろうなと解釈したのだけれど、なんにせよそんなことはマックのハードルにはならないわけで、やっぱりマックとジェニーはかつてとても深い愛欲の日々を送ったのでしょう、と自然と思えるのでした。てかベスト・オブ・福井晶一ってのは言いすぎだとは思いますが、しかしホントめちゃめちゃよかったです!
 マックに惚れていると言えばブラウン(福田転球)もそうで、彼はマックに対して恩人であるということ以上に、無自覚だけれど同性愛的な愛情をはっきり持っているんだと思います。だから娘のルーシーがマックと深い仲だと知って、二重三重に驚き混乱するんですよね。これまたとてもチャーミングな役でした。
 あと渡辺いっけいがよかったなあ、なんかいちいち動きがヘンでオーバーで、ピーチャムのエキセントリックさをすごく上手く表していると思いました。あと声がデカいのがいい(笑)。ご本人は歌に苦手意識があるそうですが、全然良かったです上手かったです!
 そしてその妻シーリアの根岸季衣がまた、いつ何時でも上手い人ではありますが、鬼婆から真に母性あふれる面を見せるまで、まあ上手いこと巧みなこと! そしてこの人が40年以上前にはルーシーを演じたことがある、ってのがまた素晴らしいですよね。そのときのマックは平幹二朗、シビれます!
 演奏の朴勝哲が楽器持ちつつちょいちょい舞台に出るのも、こまつ座の芝居なんかでよくありますが、いいアクセントでした。
 確か原作のラストは都合よくトートツな大団円になるんだったかと思いますが、こちらはマックはちゃんと絞首刑になります。その上でのこのラストは、ある意味ウェットだとも思うけれど、これがこの作家の持ち味でもあるようですね。天国に「ただいま」と帰る、というのはこれまたコスモゾーン、『火の鳥』、すなわち『バイオーム』…!とか思っちゃいました。
 暗転の中役者がみんな一度ハケてくれて、カテコになったらそれぞれ出てきてラインナップ、というのも本当によかったです。ラストはマックがポールの手を取って一緒にハケ、先にポールが袖に引っ込んでマックがひとりで深々お辞儀、というのもとてもよかった。
 福岡、大阪、新潟、長野と約二か月の公演ですが、どうぞ怪我なく、ご安全に。今こそ上演されるべき理由のある、とてもいい作品で、誰でも楽しめる、たくさんの人に観てもらいたい舞台だなと思いました。












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宝塚歌劇宙組『FLY WITH ME』

2022年06月16日 | 観劇記/タイトルは行
 東京ガーデンシアター、2022年6月11日16時。

 2020年に有明ガーデン内にできた国内最大の劇場型ホールで、TEAM GENESISによるプロデュースで開催されるSUZUHO MAKAZE SPECIAL RECITAL。構成・演出/野口幸作、作曲・編曲/青木朝子、太田健、多田里紗長谷川雄大。メインテーマ作曲/白濱亜嵐。LDH JAPANと宝塚歌劇の初のコラボレーションによるステージ。

 私の都民生活もだいぶ長いのですが、それでもなかなか来ない方面で、久々のゆりかもめや有明駅からの景色にアウェイ感満点でした。とはいえそれらしき人々がゾロゾロと歩いているのでついていったらちゃんと会場に着いたし、会場のガードマンさんみたいな方も丁寧に誘導してくれていて、そういう意味では安心感はありました。
 しかしアリーナ席は、ステージに近いといえば近いのでしょうが床に傾斜がまったくなく、席を千鳥配置にしているのがまったく無駄なくらい前の列の方の頭でステージが見えない部分がありました。しかも基本的にはずっと見上げている形になるので、非常に疲れましたね…近いので左右のモニターは視界に入らず、ステージ後方のモニターに映る映像はオペラグラスを使っていないときは見えるかな、という感じ。私はセンターブロックの上手寄りだったのでセンター寄りの下手がほぼ見えず、主にセンターと上手に来た生徒、そして下手端っこの生徒をひとりずつオペラで追って楽しむ形になりました。もちろんノーペンラ、ノータオル、ノーフラッグです、ノリが悪い客ですみません。でもちゃんと手拍子で参加する気ではいたんですけれど、こういう会場って客席の手拍子なんか全然聞こえないので、途中から手拍子は放棄してオペラ三昧でしたすみません。
 もちろん知っている曲の方が少ないくらいでしたが、一応宙担だしこの20人ならみんな識別できるので、生徒を追っているだけで楽しめました。あとはステージングがてもよかったです。これはやはりLDH力なのかな? 梅芸のメインホールあたりでやるコンサートならともかく、武道館とか横浜アリーナとかこんな大きなハコのときはモニター使いももちろんですが、生徒のフォーメーションなど上手く考えないとスカスカで豆粒で、客席すべてからの見え方を満足させるのは至難の業だと思うんですよね。それがすごくよくできていると思いました。また男役だけ、とか娘役だけ、とか上級生チーム、とかの出し方も上手く、MCはトップトリオに絞ったのもとてもわかりやすくて、良かったと思いました。
 しかしかのちゃんが百億点で優勝でしたね! プロローグのCA姿の脚の美しいことよ! スカートの端を摘まむ振りのラブリーなことよ! 軍服イメージというか鼓笛隊みたいな(笑)お衣装のときの金髪ショートも絶品で、ガンダムのキャラとかにいそう!とマジで思いました。もちろんふわふわドレス姿も美しいです。全身に小さなお花がついてる紫のドレスは、かつてゆきちゃんが着ていましたよね…MCの笑いも絶好調で、ホントに人を元気にするパワーにあふれた、宙組が誇るトップ娘役さんかと思います。好き!!
 あとはこのところポジションが上がっているひろこですよ! 正直『ネバセイ』の芝居は棒だったと私は思っているんだけれど、いいの彼女はショースターだから! 黒髪の内巻きおかっぱみたいなヘアスタイルがあの美貌を超絶引き立てていて、もう夢中でオペラで追いました。赤毛のさらちゃんと一緒に出てくることが多くて目が足りない!と始終悲鳴を上げていましたよ…
 もちろんじゅっちゃんがちゃんとソロもあって、実にいい仕事をしてくれていました。ラインナップでもちゃんと別格で扱われていて良きでしたね。はっちゃけていて素晴らしかったなあ。
 おさよちゃんが大人ムードをビシバシ出して娘役陣を率いていたのもよかったし、ちょっと美貌にエキセントリックすぎるきらいがあるかな?と密かに心配していたひばりちゃんがメイクか髪型のせいかすごくナチュラルになっていたのもよかった! そこにキュートなかんちゃんとファニーなすずこちゃん、そしてド美人のサラちゃん、完璧でしたね! 苺美瑠狂の「STRAWBERRYサディスティック」の舞台写真はゼヒお願いいたします!!
 男役陣はキョロ押しを感じましたが、しどりゅーこってぃキョロと並ぶとやっぱりしどりゅーが圧倒的に垢抜けていて見せ方が上手いな、と思いました。がっつり盗んで学んでいけよ! あきも、りっつ、キヨ、マナが締めて、なるりせはヤングパワーで絶賛勉強中。良き布陣でした。
 もちろん盤石なゆりかちゃん、そしてなんでも上手いキキちゃんのスターオーラはさすがでした。『ハイロー』については未だミリも信用していませんが、まあ観ないという選択肢はないので、上手く転がってくれることを祈ります…! イントロダクションとしては成功していたのではないでしょうか。ハイローファンで配信を見た方にもおおむね好評なようでしたしね。
「リサイタル」と聞いたときにははて…?ととまどったものでしたが、新しいチャレンジとして良きものになったのではないでしょうか。三日間五回という公演でしたが、通える人には全通しやすく(笑)これまたよかったかと思います。ずんちゃんチームの公演はこれからだから、こちらのチームはだいぶゆっくりできるのかな? それもまた良きですね。そして満を持しての『ハイロー』に、おっかなびっくり期待しています。




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『スワンキング』

2022年06月13日 | 観劇記/タイトルさ行
 東京国際フォーラム、2022年6月10日18時。

 作曲家・ワーグナー(別所哲也)は絶望していた。借金は膨らみ、構想中のオペラは上演に4日もかかるためどの劇場も相手にしてくれない。そんな彼に救いの手を差し伸べたのが、若きバイエルン国王ルートヴィヒ二世(橋本良亮)。彼はワーグナーの音楽を深く愛し、芸術の力でドイツ民族をひとつにする夢を抱いていた。だが、莫大な国費を一作曲家に注ぐ翁に周囲の目は冷ややかで…
 脚本・詞・演出/G2、音楽/荻野清子。GQコンビがゼロから立ち上げたオリジナル・ミュージカル、全2幕。

 ねねたんシシィだし、興味あるモチーフだしというんでチケット取りましたが、そういえばビューロー(渡辺大輔。すごーくよかった、大ちゃんはいつでも信頼できる!)と別れてワーグナーと結婚するコージマ(梅田彩佳)はフランツ・リストとマリー・ダグーの間に生まれた娘なんですよね、花組『巡礼の年』を観てきたばかりなのでタイムリーではありました。その他、『エリザベート』でおなじみエリザベート(夢咲ねね)姉妹の母ルドヴィカ(河合篤子)も出てきました。この時代のバイエルンだのプロイセンだのオーストリアだのドイツ連邦云々だの、はなんとなくあれこれの作品を通して、また世界史の授業でうっすらと、聞き馴染みがありますよね。
 でも作品としては、うーん…でした。G2って私には当たり外れある印象なのですが、何よりそこまでの個性を感じ取れていない作家さんで、今回はむしろ演出だけした方がいい人なのかな?と思ったくらいなのですが、この題材は本人肝煎りのもののようなので…うーんんん…
 私は日本のオリジナルミュージカルは歌入り芝居でも全然良くて、要するに芝居パートがちゃんとしていないと成立しづらいんじゃないのかなと考えているんですけれど(もちろん題材、内容にもよりますが)、これはナンバーが多いタイプのミュージカルでしたよね。なのでキャラが、特に主人公のキャラが序盤から不鮮明な感じなのが尾を引いた気がしました。でもこれは演技でカバーできるのかもしれません。この人は『ネクスト・トゥ・ノーマル』でヘンリー役で本格ミュージカル・デビュー、これが初主演ということですが、トウコさんチームの方のヘンリーだったってことかな? まあ歌は過不足なかったとは思うんですが、あまり役の感情が見えない歌い方だったかなとは感じました。歌うのに一生懸命になってしまっている感じ、というか…うーん。
 ルートヴィッヒ二世という人をどう捉えるかは難しいところだけれど、それこそ作者の切り口でどうとでもなるところでもあって、芸術、特に音楽でドイツ民族をひとつに統一しようとする、夢見がちな、理想家肌の、戦争や争いごとが嫌いな、繊細な青年…とするのはアリだと思いはしたのです。現代の視点から見ても、主役としてアリの在り方だと思う。それが、愛した芸術家も一筋縄ではいかなくて(同じ人間なんだから思うとおりに動いてくれなくてあたりまえなんだけど)、周りの親戚や官僚たちも口うるさくて煩わしくて、緊迫してくる国際情勢はシビアすぎて直視できなくて、同じく理想家肌なところに親近感を感じている憧れの従姉にだけは心を開いていて、でも惹かれるのは同性で、でもそれは駄目だと自分を縛めでもそのことに苛まれ、頼りの弟が心を病んでいくのを見て自分もそうなるのかと怯え、迷い悩み流されだんだん疲れていっちゃって…みたいに描くことはできたと思うし、それなら観客の共感や理解も得られたと思うのです。
 でも今、わりと棒なんですよね…芝居でも歌詞でもそこまで彼の感情が書かれていないというのもあるし、演じている役者も技量として感情的に、感情を乗せて歌うことができていないので、なんか何も伝わってこないんですよ…
 また、ルートヴィッヒとワーグナー、の話にはなっていません。コージマは自分とワーグナーとビューローとルートヴィッヒで良きカルテットみたいなことを歌うのですが、良きチームとして働けていたのは一瞬だし、コージマを巡る三角関係に主人公は関係ありません。もっと、ルートヴィッヒは色恋ではないにせよコージマに対しては女性には珍しく人として好感を持っていたのに、その不倫とかは神経質で潔癖な彼には許せなくて…みたいなドラマを作ってもよかったのかもしれません。要するにワーグナー周りのことは主人公とあまり関係ないままに話が進むので、お話が分断、分裂されているような気がするのです。でもこれ、別に群像劇を目指してませんよね? タイトルロールはルートヴィッヒですよね、あくまで彼の物語であるべきなんですよね、なのに何故こうも主人公が埋没し、孤立する構造になっているの…?
 ヒロイン格のキャラクターとしてコージマとシシィのふたりがいるわけですが、シシィもあくまで憧れの従姉、そして美や芸術や理想の象徴みたいな形でしか登場しないので、主人公の感情面にあまり機能していないんですよね。ワーグナーとのBLみたいに作らないんだったら、誰かルートヴィッヒの恋人の青年を架空の人物でもいいので立てて(ルッツの牧田哲也が声がイイしメガネだしでときめいたんですけど、たとえばどうよ?)、そこを感情のドラマのキモにした方がよかったのかもしれません。その意味では「幻」という役を作ってミドリに当てた景子先生の方が上手かったと思います。

 セットは素敵だったけれど(美術/乘峯雅寛)、『巡礼』もたいがいでしたが装置を動かしている黒衣のスタッフさんがちょいちょい丸見えで、もうちょっとなんとかしてほしかったです。アンサンブルがやっているところはよかったと思うんですけど。
 別所さんはきっちり役目を果たしている感じ。この物語の中で別にワーグナーは好かれたり共感されたりする必要はないんだと思うので、脚本にある、わがままな天才音楽家のおっさん、を楽しげにやっていて、でも作品や主人公を支えようとしている感じはまったくないなと思いました。それは自分の仕事ではない、とこの脚本に対して割り切ってしまっているのではなかろうか、と思えました。
 梅田彩佳は私は以前も何かで観たことはあったと思うのですが、アイドル出身だろうと今はちゃんとミュージカル女優ができる人だと思うのでそれはいいんだけれど、もともと首が短いのかドレス姿が女優さんの中で一番美しくなく、しょんぼりでした(衣裳/前田文子)。もっと肩を落としてデコルテを綺麗に見せて立つ勉強をするか、首が長く見えるデザインのドレスにしてもらってほしかった…あと、これまた歌えるだけに力任せに、本人だけが気持ちよく歌っている印象で、コージマのキャラは全然伝わってこず、なんかあまり感心しませんでした。ワーグナーの最初の妻ミンナ(彩橋みゆ)やテレーゼ(藤田奈那)なんかの方が断然よかったなあ。あとルドヴィカも声がとても良くてちゃんと芝居をしていて、安心できました。
 ルートヴィッヒの弟オットー(今江大地)もジャニーズ枠でしたが、あまり感心せず…てかタッパがなくて見栄えが悪いのがなんとも…何度かリプライズされる重臣たちの三重唱みたいなのが一番良かったかな、上手くて安定してたからな…
 ねねたんはそら綺麗なので、よかったです。歌は本人比で上手くなっていると思うし、声量があまりないんだけどずいぶんな高音も綺麗に出せていて、なかなか健闘していると思いました。ずっと黒いドレスでいくのかなーと思っていたらいわゆる鏡の間ドレスも披露してくれて、その次の旅装みたいな黒ドレスは(馬上の写真なんかで残っているものに似せたのかな?)めっちゃウェストが絞れていて惚れ惚れと美しく、大正解でした。

 こういう作品って仕込まれているのか特に好評でなくても二年後くらいにひょいっと再演されたりしますが、脚本がブラッシュアップされ、一部キャストが変更になったりすればより良いものになることもあるのかもしれない、と思いました。世界に羽ばたく作品を目指すならまず、そのあたりから、かな…
 まずは7月の福岡まで、大阪、愛知とご安全に。完走をお祈りしています。







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『バイオーム』

2022年06月13日 | 観劇記/タイトルは行
 東京建物ブリリアホール、2022年6月9日18時。

 その家の男の子ルイ(中村勘九郎)はいつも夜の庭に抜け出し、フクロウの声を聴くために大きなクロマツ(麻実れい)の下で待っていた。父・学(成河)に家族を顧みるいとまはなく、心のバランスを欠いた母・怜子(花總まり)は怪しげなセラピスト・ともえ(安藤聖)に逃避していて、息子の問題行動の奥深くにある何かには気づかない。政治家一族の家長としてルイを抑圧する祖父・克人(野添義弘)、いわくありげな家政婦・ふき(麻実れいの二役)、その息子の庭師・野口(古川雄大)たちのさまざまな思惑がうずまく庭に、人間たちを見下ろす木々や花の声が響くが…
 作/上田久美子、演出/一色隆司。宝塚歌劇団を退団した上田久美子の退団後初の書き下ろし作品を、スペクタクルリーディングとして上演。全二幕。

 くーみん卒業に関する記事はこちら。当時は、宝塚歌劇の制約された枠の中でのくーみん作品が好きだったので、外部まで追っかけるかは微妙かなー、と思っていました。すぐにこの作品が発表されましたが、結局梅芸やOGと仕事するんじゃん、ケッと思ったこともあり、キャストは魅力的だなと思いはしたものの自分ではチケットを取りませんでした。が、当てすぎたというお友達からお声がけいただき、まあせっかくなので一応観るか…みたいな感じで出かけてきました。
 朗読劇という範疇には収まっていない作品、みたいな評判は聞いていたのですが、役者は尺のほぼ半分以上は台本を手放して動いていて、普通に芝居しているように見えました。セットらしいものは特になく、ギリシアの円形劇場を思わせるような円形のエプロンステージに並んだり、その中央部分で芝居したりで、簾状の幕に庭や夜景や夜空の映像が映って(美術/杉山至、照明/中山奈美、映像/松澤延拓)情景を表現するような形でした。が、要するにほぼ庭が舞台の物語です。別にこのまますべて台本を手放せば、そういう芝居ですと言える形になっていると思いました。
 役者たちはみんな、その庭を持つお屋敷に暮らす人々と(ともえはここの家族ではないけれど)、その庭に生きる植物の二役を演じています。おハナさまはクロマツの芽、ゆんゆんはその傍らに咲く一重の薔薇、真ん中にターコさんの樹齢二百年近いクロマツがそびえていて、成河の若き大木セコイアがその隣に立ち、クロマツの根元に咲く竜胆が安藤聖で、野添さんは克人によってクロマツから抜き取られた盆栽に扮しています。
 勘九郎さんだけは人間の、八歳のルイとケイの二役を演じています。ただしふきの孫、野口の娘とされているケイは、実はルイのイマジナリー・フレンドであることが観ているとだんだんわかってきます。そして彼はいわゆる自閉症というかなんというのか、「施設」に入れた方がいい「普通でない」「特殊な」子供、だとされています。だからこそ彼は植物との二役を演じない存在なのです。ただしルイにも植物たちの声が聞こえているわけではない。そこがミソです。
 お話としては、わりとベタだと思います。植物たちが見守る庭で、政治家一家の愛憎のドラマが展開される。世には羨まれている一家なのかもしれませんが、そして経済的には確かに恵まれているのでしょうが、克人も学も婿養子で、国だの選挙だの遊説だのといった政治活動を第一に考えている。タイプは違いますがふたりともある種のマッチョの権化です。そして当然のように愛人を抱えている。怜子はそんな家族と家業を嫌って身を引いていますが、そのことに苛まれてもいます。プログラムの人物相関図では「病んでいてエキセントリックな美人」とされています。まさしくズバリのキャラクターをおハナさまが演じていました。ふきは怜子を気遣いますが、それも怜子には負担で、「素直でヘルシーな雰囲気」の花療法士ともえに依存している。野口はかつて怜子と幼なじみのようにして遊んだ仲のようですが、今は分をわきまえて控えています。そして…という物語です。
 怜子はもう立派に鬱で、こういうセラピーよりもっと本格的な心療内科にかかる必要があるのでしょう。でも今の日本では(本当を言うとここが現代の日本かどうかは注意深く明言されていないようでもある、と私は感じました。ふきの空港ではなく「飛行場」など、古風な言い回しがあちこちでされていたりとか…まあそれはキャラによるものなのかもしれませんが)残念ながらそれはかなりハードルが高い。怜子はそれでますます病状を悪化させていて、ほとんど自傷に近く、最終的には自殺するに至ってしまうのでした。怜子がそうなってしまったのはもともとは出生の秘密があったからで、それは克人とふきの罪なわけです。そしてルイはもともとちょっと繊細だったり風変わりだったりするところがあったのかもしれませんが、両親をはじめとする家族から十分なケアを受けて養育されておらず、学校その他いわゆる普通の社会になじめない子供に育ってしまっている。血の濃さが病を生む以上に、心の病がさらなる病を生んでしまっている一族なわけです。
 植物たちは、庭に来るそんな一族の人間たちをただ見守っています。踏まれて痛いとか樹皮を剥がされてつらいとかは言うんだけれど、その言葉は人間に届くものでもないことを彼らはわかっているし、人間にものすごく批判的だとか冷笑的だということもありません。ただ人間とはそういうものだと思って(彼らは人間を「けもの」と呼んでいますが)、ただ眺めている。彼らには彼らの暮らし、生き様(?)があるからです。
 簡単に言うと、怜子がクロマツを切らせ(チェーンソーの音のまがまがしさよ! てかプログラムでこのチェーンソーとルイの吹くリコーダーを対にしているの、ヒドい…)、フクロウがクロマツに来なくなり、ルイはフクロウを求めてセコイアのより高い枝に登り、そして落ちて死んで物語は終わります。ふきはその経緯を語り、ルイの魂らしきものがそのふきに、つまり切られたクロマツの魂らしきものに迎えられ、ルイが枝の上から眺めた夜景はやがて星空になり、さらに高みに上がって地球を丸ごと眺めるようになります。その後、庭は更地にされたので、薔薇も竜胆もセコイアも死んだのでしょう。けれどみんな巡り巡って、地球を取り巻くひとつの、手塚治虫『火の鳥』でいうところのコスモゾーンみたいなものになったのだ…というような余韻を残して、舞台は暗転し、幕が降ります。
 別にフィナーレが欲しくなるような暗い話だとも、重いともブラックだともシニカルだとも思いませんでした。一族の物語はベタだし、植物と人間云々という点はSFとしてとてもよくあるものと言っていいでしょう。でもその中で語られる政治批判や文明批判には鋭いものがありました。何より現代日本を生きる生活者の視点があったと思います。スーパーの物の値段の上がり方を知らない日銀総裁なんかとは違う、暮らしに根差した、ちゃんとした市民感覚を持った人からの訴えが盛り込まれていました。でもユーモアも散りばめられたりして、ごりごりの「青年の主張」みたいにはなっていない。でも『The Parlor』をザッツ・小林香だなと感じた程度にはザッツ・くーみんだなと感じました。まあそれが作家の個性というものです。その意気や良し。
 そして役者がみんなべらぼうに上手い。贅沢でした。最初のうちは、OG起用はやめればいいのに、とも思ったのですが、それはやはり観るこちら側にある種のバイアスがかかるからそれは作品に対して邪魔なのではと考えたからですが、ふきと怜子がOGでともえは違う、というのは実はおもしろい要素になっているのかもしれないな、と思いました。そして私は成河が好きだというのもあるのですが、怜子にはあまり同情的になれず、学はいいキャラだなと思ってしまったりしたので、この庭と屋敷を離れて、ともえが子供と、学が秘書の恋人と、そして野口も新しい恋人と健やかに生きていっていければいいな、とか思いました。学はスキャンダルはそりゃ引き受けざるをえないでしょう、でもまずは命あっての物種です。後悔ももちろんあるでしょうが、生きてさえいれば未来は変えられる。怜子は自らその可能性を手放してしまった。そして克人やふきたち老人には、残念ながらその時間的余裕はあまりないかもしれませんが、それはそれこそ報いというものなのでしょう。
 怜子が家族を糾弾する台詞には考えさせられました。「あの」おハナさまがそんな言葉を…みたいな面もあるのかもしれませんが、作品としてはあえて、わざと、露悪的にやっている部分なんだからそんな忖度は要らないワケです。ただ、私たち女性には性を語る言葉がそもそもないんだな、と思いました。だから台詞になったときも変な引っかかり方をするんです。「セックス」と言うことはある、でも「セックスする」って動詞は口語ではほとんど使われないのではないでしょうか。でも代わりのいい言葉がないわけです。台詞では「やる」という表現もあって、その方がよほどナチュラルだなとも感じました。いい歳をした大人は「エッチする」なんて言わないわけで、でもいい歳をした大人が性交することに関して言葉を持たないでいるこの現況こそが恐ろしい、と思いました。多くの人がごく自然に、あたりまえにすることで、それナシでは次の命は生まれない行為だというのに、こんなにも隠され、忌避され、正当に評価されない行為…ここを直視しないことこそが原罪であり、人類の限界なのでは…とすら思いました。
 この女系家族に百年ぶりに生まれた男の子であるルイは、確かに希望の星だったのでしょう。でもそういう期待のされ方がそもそも問題です。そしてルイは、性別以上に、いろいろと違った子供だった、あるいはそういう子供に育ってしまった…
 もちろんルイをかわいそうだと思います。子供にはなんの罪もない。こういう子供は死んだ方が幸せだなんて、口が裂けても言いません。でも結果的に物語は彼を死なせて終わりました。私は映画『チョコレートドーナツ』を見たときにも似たせつなさ、ほろ苦さを感じました。
 弱い者ほど不利を被るこの世のしんどさを、憎みつつも私たちはこの世に生きていかざるをえません。そして生きている者の義務として、少しずつでもこの世を良くしていくことを誓わざるをえないのでした。




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『恭しき娼婦』

2022年06月09日 | 観劇記/タイトルあ行
 紀伊國屋ホール、2022年6月8日18時半。

 一昨日、ニューヨークからアメリカ南部の街にやってきた娼婦のリズィー(奈緒)は、ここでの初めての客としてフレッド(風間俊介)と一夜を共にする。明くる朝、突然ドアのベルが鳴る。ためらいながらドアを開けると、背の高い黒人青年(野坂弘)が立っていた。彼はリズィーがこの街へやってくる列車の中で一緒になった黒人青年ふたり組のうちのひとりで、白人グループたちが起こしたゴタゴタに巻き込まれ、ひとりが銃で撃たれ、もうひとりは列車を飛び降りて逃走していたのだ。その逃げた青年が住人たちの目をかいくぐり、リズィーの家を探して現れ、真実を話してほしいと懇願するのだったが…
 作/ジャン=ポール・サルトル、翻訳/岩切正一郎、演出/栗山民也。1946年パリ初演、サルトルがシナリオに参加して映画化もされている作品。全1幕。

 前季の朝ドラ『カムカムエヴリバディ』で株を下げる役どころだった風間くんですが、私はわりと好きで、いそいそと出かけてきました。が、またも株が下がるお役でした(笑)。イヤそういう作品だしそういうお役だし、上手かったしいい作品だったし、大満足なんですけれどもね。
 サルトルは1944年に十数人のジャーナリストたちとともに招待されてアメリカを訪問していて、黒人差別を目の当たりにし、黒人作家リチャード・ライトにも出会って、この作品が生まれたんだそうです。1931年にスコッツボロ事件と呼ばれる冤罪事件があったことも背景にあったのだろう、とのこと。
「無実の黒人がいる。彼に罪を着せようとする白人の支配者集団がいる。そこに巻き込まれた白人の弱者がいる。リズィーは女性であることによって、そして社会の底辺におり、さらには娼婦という反社会的存在であることで、白人男性の抑圧と搾取の対象となっている」…という構造の物語です。その中で、殺人や性にまつわる嘘と真実が取引される物語です。
 リズィーには「嘘をつきたくない、真実を言いたい」というごくまっとうな正義感がありますが、一方でちょっとばかりお人好しというか流されやすいところもあり、残念ながらちょっと愚鈍なところもある女性です。それは要するに人間らしい人間だということです。自分とアメリカを同化して語っちゃう上院議員(金子由之)なんかより断然マシな人間だってことです。自分が性的に溺れ惹かれただけなのにリズィーを「悪魔」「魔女」とか呼んで相手のせいにするフレッドなんかよりも、さらに断然マシな人間です。彼女は正直で、すべてを自分の責任で引き受けて、自分の足で立って生きている。ワシントンと俺おまえだった祖先とか、この街を築き上げた祖父とか、そういうものは要らない人です。もちろん娼婦で、身体を売って食べているんだけれど、彼女の身体は彼女のものなんだし、感じのいい相手にはちゃんと恋心も感じて快楽を享受することもできる、健全で健康的な女性です。やるだけやっておいてなんだかよくわからない罪の意識に苛まれているゲスな小心男のフレッドとは、人間のレベルが違うと言ってもいいでしょう。
 もちろん彼もこういう家に生まれてこういう父親のもとで育って、抑圧されているんだろうし、それで偏向した人間になってしまっていることはもしかしたら彼の罪ではないのかもしれません。でももういい大人なんだし、もっと視野を広げることだってできたはずでしょう。でも彼はたとえば一族のリーダーのトーマスしか見ていないのです。残念な生き物なのです。
 女は子宮で考える、とかよく言いますよね。男こそ脳味噌が精巣にしかないんだろう、と本当に思わせられます。その自覚があるからこそ、男は女に対してこんなことを言うんですよね。サルトルは男性ですが、そのことがよくわかっていて、男性を批評的に描ける作家なんだと思いました。
 もちろんトーマスの母親を思って涙し、黒人青年の母親のことは思いもつかないリズィーは、逆に浅薄で愚かでウェットで感情的な「ザッツ女性」なのでしょう。その駄目さもちゃんと描かれている。でも彼女にそう考えさせる上院議員の邪悪さの方がより際立つ構造だったのでした。
 映画版ではラスト、リズィーは「フレッドを置いてきぼりにして、黒人と二人で警察車輌に乗り込み、群衆へ向かって」黒人の無実を叫ぶんだそうです。まあ映画だとそうかもね。戯曲のようなラストは格好がつかないんじゃないかなと思います。でも戯曲の方が断然いいと私は思います。
 フレッドは逃げた黒人青年を撃ちますが、弾は外れ、部屋に戻るとリズィーを囲うために用意する屋敷の話をとうとうと語り、やっと名前を名乗ります。リズィーは放心して彼の足もとに座り、彼の腿に手を置いてもたれかかる。それは不思議な形のピエタ像のよう…
 結局リズィーは流されて偽の証言に署名してしまったのだし、お金は受け取った形になってしまっているのだし、フレッドに対してある種の愛がないわけでもないわけで、そうした愛人生活も悪くないものなのかもしれないのです。そして黒人青年に対してしてあげられることは、おそらくもう何もない。だから仕方ない、これで手打ちとするのは、いいことなのかもしれない…
 だがそこに、彼女の心におそらく最初に火を灯した「恭しい感じ」はあるのでしょうか? 相手に尊重され、大事にされ、敬意を払われ、対等に扱われ、愛されているという感じ…それはフレッドの単なる照れ隠しや、罪悪感の裏返しによる優しさにすぎなかったのかもしれないけれど、少なくともリズィーは恭しいと感じ、それが嬉しくて、心も体も開いたのでしょう。それは人間同士がつながるのには、本当は絶対に必要なものなのです。ただ、それが失われても関係だけが続いていってしまうことはある。そんな末路を思わせるラストこそが、この作品のキモなのではないかしらん。それが男と女、それが人間、ザッツ・ライフ、セ・ラ・ヴィ…みたいな。 
 良き作品でした。初演から70年、人種差別も女性蔑視も階級格差もなくなっていない現代において、まったく古びていない作品でした。

 一点だけ言うとすれば、ラストは幕を下ろしてほしかった…またしても私の大嫌いなパターンでした。暗転で終わるなら、役者には暗転している間に立ち上がってお辞儀する位置に移っていてほしいのです。それで明るくなってカーテンコール、ラインナップとなってほしいのです。まだ芝居が終わったままのポーズ、表情で灯りをつけるのを本当にやめていただきたい…!
 兵庫、愛知まで、どうぞご安全に。




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