駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『お勢登場』

2017年02月26日 | 観劇記/タイトルあ行
 シアタートラム、2017年2月24日19時。

 原作/江戸川乱歩『二銭銅貨』『二癈人』『D坂の殺人事件』『お勢登場』『押絵と旅する男』『木馬は廻る』『赤い部屋』『一人ニ役』、作・演出/倉持裕、美術/二村周作。休憩なしの三幕仕立て。

 大正から昭和にかけて活躍した異才の小説家の八つの短編をつないで編み上げられたような舞台で、おもしろく観ました。とはいえ私は乱歩には不案内で、学童保育で通っていたこども図書館で読んだポプラ社あたりの子供向け怪人二十面相シリーズ、くらいしか知らないので、知っている方が観たらもっともっとおもしろい舞台だったのかもしれません。
 でも、自在な舞台の使い方や、時間が行きつ戻りつしつつ物語がお勢(黒木華)というひとりヒロインに収斂していく様子などをたいそうスリリングに観ているうちに、時間があっという間に経った印象でした。舞台って本当に無限で夢幻ですよね。だからこその、ラストの「おおげさねえ」というセリフが、なんとも沁みました。
 ただ、ある程度そこが起用意図だったんだろうとは思いますが、私には、黒木華にはこの作品の確たるヒロインとしてのインパクト、存在感がないのではないか、と思えました。片桐はいりや梶原善を向こうに回して主役を務めるのはそりゃなまなかなことではないと思うし、だからむしら茫洋としたそれこそ夢のような幻のようなありかたを求めていたのかもしれませんが…ううーむ。
 キャストでは他に、川口覚が素敵だなあと思いました。




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塩田武士『罪の声』(講談社)

2017年02月26日 | 観劇記/タイトルた行
 京都でテーラーを営む曽根俊也は、ある日父の遺品の中からカセットテープと黒革のノートを見つける。ノートには英文に混じって製菓メーカーの「ギンガ」「萬堂」の文字。テープを再生すると、自分の幼いころの声が聞こえてくる。それは31年前に発生して未解決のままの「ギン萬事件」で恐喝に使われた録音テープの音声とまったく同じものだった…
 第7回山田風太郎賞受賞作。

 おもしろく読みましたし、ちょっとするする進みすぎかなとも思いましたが、実際の事件もたとえばこういう要素もあったのかもしれない、とは思わせられました。
 ただ、これが宮部みゆきだったらなー、とかちょっと思いました。アイディアやギミックが先行していて、人間や社会が描けていない気がしたのです。俊也はともかく、英士の描き方は特に弱い。彼でなければならなかった理由、彼の人生もまた変わる様子などがもっと描かれなければならなかったのではないでしょうか。そこでこそ読ませないと、結局はすべて絵空事…となってしまう気がしました。そこが残念でした。


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宝塚歌劇雪組『New Wave!-雪-』

2017年02月18日 | 観劇記/タイトルな行
 宝塚バウホール、2017年2月14日11時。

 雪組によってこれまでに上演された作品の名場面を再現するとともに、古今東西の名曲をエネルギッシュに届けるエンターテインメント・ショー。作・演出/三木章雄、全2幕。

 花組版の感想はこちら、月組版はこちら、宙組版はこちら
 宙組のときにいろいろ比べられて語られて嫌な思いもしたものですが、それでもアホほど通って観たもので印象が強く、なのでどうしても比べて語ってしまいます、すみません。
 私は雪組はイチロさん時代から生で観ていて、でもカリンチョさん、モサクさん、ターコさんくらいまでは映像で遡って見ていて、でもまーちゃんが苦手だったのでコム時代をほぼ観ていなかったりもして、要するに雪組と星組に一番かかわりが薄いので、そのバイアスもあるとは思います。でもひとこの新公は縁あってけっこう観ているので、下級生もまあまあわかるつもりなんですが…しかし、若かったな! さすがにタレントが少ない印象でした。
 というか幕開けはあれでよかったの…? メインがふたりしかいないんだし、まずはひとこに露払いさせて満を持してれいこ登場、ってコンセプトだったんでしょうけど、私はやっぱり寂しかったです。それは宙で幕が開いたときにてっぺんセンターに贔屓がいるのを見て仰天してアタマ真っ白になってやっと「主な出演者」ってこういうことかと震撼したときの記憶が今まだ生々しいから、なのですが…れいこちゃんファンにもその感動があってもよかったのではないかな、という余計なお世話です。
 というかれいこちゃんなんてもう呼べませんね、月城さんですね…!(私がこの呼び方をするのは大空さんと珠城さんくらい。そろそろだいもんもヤバいが) 私の中ではすんごい美人なんだけど…という印象だったのが、やはり組替えが決まったころからかすごく垢抜けてきていてスイッチがひとつ入った感じで、今回も押しも押されぬ座長っぷり真ん中っぷり、頼もしかったです。もちろんひとこにも大器を感じるんだけど、まだまだ甘えがあるのかはたまたやっぱりまだまだ下級生なんだよということなのかけっこうわたわたして見えたので、なおさられいこちゃんの肝の据わりっぷりが舞台を締めていたと思いました。
 でも、これは明らかにミキティのせいなんだけれど、場面構成としてはパラパラしていて、生徒の使い方も微妙で、これでいいのかな組ファンは盛り上がっているのかな私は知らない場面ばかりだけれど過去のショーで有名な場面だったんだろうか…みたいに終始ややもやもやしながら観てしまいました。客席降りもおとなしいと言われた宙に輪をかけておとなしかったし。というか盛り上がりようがない選曲だったし。もうちょっとミキティが工夫してあげてもよかったんでないかい?
 また、三番手格のすわっちがすでにわりとちゃんとなんでもできるのに対して、センアガタはやっぱりまだまだで特に歌はつらいというのもつらかったですね。これまた比べてあれですが、宙ではメイン最下級生のずんちゃんが実は一番歌えるというのが強かったんですよ。とっぱしで歌わせてもなんら問題がない、という有利さ。それがセンアガタだとガタタ、ってなるわけですからね…ただこの人にも大器は感じるので、場数を与えることも大事なのでしょう。がんばれ!
 ただ、歌は叶ゆうりくんと愛すみれちゃんにほぼほぼ任せて、みちるをもっとヒロイン格にしてとにかくバリバリ躍らせて、あとディーバっぽいのはすべて桜庭舞ちゃんに歌わせて…ってしてもよかったんじゃないかなーとも思いました。
 でもひまりちゃんも表情のつけ方がとてもよかったし、話題の潤花ちゃんは確かにたいしたものですね。ただ個人的には顔が苦手…
 たわしや眞ノ宮くんもよかったです。
 私が観た回の生徒紹介はかりあんこと星加梨杏くん。顔が好きかなと思っていましたが、まあまだこれからという感じかな。関西人でロミジュリが好き、というんで大阪弁でロミオを、とか振られてすぐジュリエットになるひとこが可愛かったです(笑)。
 黒燕尾の群舞とロケットがなかったのは寂しかったなあ。出色だったのがその黒燕尾を唯一着たれいこちゃんの「散らば花のごとく」で、新公時代より明らかにうまくなっているし、本当にバウホールが狭く見えました。
 そこからのひとこスカーレットとのナイタンデーですから、これはもう大階段と銀橋が見えましたよ。ひとこのお衣装がまぁ様とかいちゃんの宙組版ってのもあるけど、だからバンドの掛け声が入らないのが寂しいとかもあるんだけど、銀橋に出ていく振りのところで拍手しかけましたよねホント。ふたりが息ぴったりで本当に楽しそうにやっていて、舞台がこのふたりにはもう狭くて。楽しかったです。
 でもこのふたりは意外に芸風が違うよね、とも今回改めて感じました。先のことはわからないしまたどこかで一緒になることもありえるんだろうけれど、この組替えはやはり好機なんじゃないでしょうか。
 ひとこと椅子は、ごちそうさまでした。れいこはシャレードもよかった、トップさんでこういう場面ってあるよね!とホント思いました。
 宙の新曲だった「Over The Wave」がまた聴けて嬉しかったです。

 ぜひ星でもやってほしいです。というかこうなるとやるだろうけれど、せおっち、しどりゅー、華華とかでしょ? 楽しみです。





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宝塚歌劇雪組『星逢一夜/Greatest HITS!』

2017年02月14日 | 観劇記/タイトルは行
 中日劇場、2017年2月11日15時半。

 時は江戸時代中期、徳川吉宗(香綾しずる)の治世。九州の緑深き里、山々に囲まれた三日月藩藩主の次男、天野紀之介(早霧せいな)は、夜ごと城を抜け出しては星の観測に夢中になる奔放な少年であった。ある夏の星逢(七夕)の夜、紀之介は蛍村の少女・泉(咲妃みゆ)とその幼馴染の源太(望海風斗)と出会い、星観の櫓を組み上げ、その日から友情を育んでいくが…
 作・演出/上田久美子、作曲・編曲/高橋城。2015年初演、上田氏が第23回読売演劇大賞優秀演出家賞を受賞した作品の改訂再演版。雪組トップコンビのプレさよなら公演。

 お友達にお取り次ぎいただいて、良きお席で楽しんできました。雪担で本公演に足繁く通った彼女と、都合三回かな?しか観ていない私とでは作品へのスタンスも違うので、観ている点や変更で気になった点、気に入った点などがずいぶんと違って、幕間トークがなかなか新鮮でした。
 あくまでも私は、ですが、私はこの変更は一言で言えば「ぬるくなった」と感じました。わかりやすくなった、齟齬がなくなって良くなった、整合性が取れた、マイルドになったソフトになったスマートになった…と評価する声も大きいと思います。私も、最初からこれを観ていたのであれば、ほぼ手放しで絶賛していたと思います。私はこういうキャラクターの晴興も好きだからです。
 でも、明らかに、以前とは違う晴興になっていました。だから違う話になってしまっていたと思いました。そのことが私には、受け入れがたかったのです。
 初めからこれだったわけではない。本公演が確かにあった。そこで描かれていたものが確かにあって、その苛烈さ、峻厳さを私は愛していて、だからあの物語に泣いたのかもしれないな、だからこんなふうに優しくわかりやすくなめらかにそして違うものになってしまうことを私は望んではいなかったのだな、と改めて感じ、そして残念に思いました。この作品に作者と違うものを観ていたのかもしれないことに、作者がこの改変を良しとしたことに…
 一方で、私がしょっちゅうしょっちゅう言う、事前に脚本を誰か第三者に見せて客観的な視線を取り入れろ最低限の整合性は整えろ本筋でないところに引っかからせるようなことはするなみたいに言ってされる手直しって、たとえばこういうことなのかもしれないなと思いました。そしてそれはもともとの作品のパワーを半減させてしまうことがあるのだな、とも感じたのです。それもショックでした。
 しつこく言いますが、最初からこれだったのなら、なんの問題もないと思います。でも、この作品が描きたがったものは、描こうとしていたものは、その主人公像は、主人公たちの関係性は、これだったのかしら? 本当に? 整えすぎて痩せてしまっていない? 大事な本質が変わってしまっていない? これで本当によかったの? と私は思ってしまったのですよ…僭越で申し訳ない…
 これでいいに決まっているから作者はこう変えたのだし、それを喜んで受け入れている観客も多いし、新旧双方を楽しんでいる観客もまた多いでしょう。しかしちょうどスカステで新公の放送があったのでそれを観てみて、やっぱり私はこっちの方が良かったんでないかい?と思ってしまったのでした。直すにしてもそっちの方向のまま、よりわかりやすくなるようにするべきだったのでは?とね。
 もう完全に個人的なワガママの部類に入ることは承知していますが、今回はそのあたりを語ってみたく思います。あ、めでたく増刷されたそうですがル・サンクは未入手です、なのでうろ覚えの記憶とイメージで語っているところも多いかと思います、すみません。あくまで自分が観たと思っているものの話、観たいものの話にすぎないのかもしれません、本当にすみません。
 脚本と向き合って一言一言きちんと対峙する体力や情熱がそのときの私にはなかったというか、そもそも作品に負けたというか…担組作品じゃないからひよった、というのが一番正確かな。今までイケコとか生田くんのホンにはさんざんしてきたわけですからね。なので次のロマノフでは私はやるのでしょう、それは逃げられる気がしない…
 お友達が言っていたのですが、そもそも批評に耐えられないホンと、批評して批評がおもしろくなるホンと、そんな批評とは無関係にただ泰然と屹立するようなホンとが、この世にはあるのかもしれません。

 本公演の感想はこちら
 ほぼ手放しでほめているようですがあとで考えるにそんなこともなくて、私は晴興の政治的な思想というか、政治家としての生き方がよく見えない気がして、それが物語としてうまくハマりきれていないようで、歯がゆく感じてはいました。だからそのあたりは改善されるともっといいんだろうな、と漠然と思っていました。だから今回も改変の余地はあるのだろうし、良くなるのだろうと自然と思えていたのです。
 でも今スカステ放送などを観てみると、観劇では聞き取れなかった台詞が聞き取れたりといったこともあって、このあたりもほぼほぼ整合性に問題なく感じました。むしろその方向でよりわかりやすく伝わりやすくしてもらいたかった。何がどうぶつかり、こうなるしかなかったのか、その流れがもっと見えやすくなるよう整えることはできたと思うのです。
 これは理想に生きた晴興と現実に生きた源太がぶつかる物語だったのではないでしょうか。そこに泉という女がいた、という物語だったのではないでしょうか。だから晴興は、源太が起こす一揆の原因となった政策を主体的に進める存在でなければなりません。でなければぶつかる意味がない。
 でも今の中日版は、晴興を安易にいい人に仕立てているように私には思えました。税制改革についても、推し進めているのはあくまで将軍で、晴興は最初は旗を振ったけれど今は疑問を感じている人、みたいになっていました。でもそれはただ流されているだけの人のようで、優しいし真面目だしいい人ではあるのかもしれないけれど、むしろなさけない人になり下がってはいませんか?と、そこが私は気になったのでした。最初からそういう生き方しかできない、何事にも優しくて結果的に自分がババ引く悲しいタイプ、という設定なのであればそういうのも私は大好物なので、最初っからそれならそれで見て愛したと思うのですが…チギちゃんがまた、そこまで弱くは見えないタイプだと私は思うからなあ…そう思ってちゃんと見れば、以前より弱く優しいキャラクターをきちんと演じているのだろうとは思うのですが。
 だから、この変更を踏まえて、もう一度素直に観る機会があったなら、こんなに違和感は引きずらなかったのかもしれません。一度しか観ていないのに個人的な違和感でガタガタ言うだけの記事ですみませんとは、自分でも思ってはいるのです。

 蛍村は、三日月藩は、貧しい。一揆で父親を失った子供たちの暮らしは特に厳しく、寂しい。子供たちは身を寄せ合ってたむろし、うつむいて足元ばかり見ていた。泥だらけの汚れた足、踏みつけられた草花、痩せた地面…
 星を見ることを教えてくれたのはお城の若様だった。若様なはずなんだけれど、わんぱくできかん気で、自分たちと全然変わらない。すぐに仲良しになった。山の向こうに広い世界があること、いつかみんなが幸せになれる未来があること、そういうことを教えてくれた少年。
 人は衣食足りて初めて夢を見られるのでしょう。だから紀之介にはそれができた。村の子供たちには、夢を見ることを覚えたことはぜいたくで危険なことだったのかもしれません。でも彼らは紀之介と出会ってしまった、星を見ること、夢を描くことを知ってしまった。そして江戸に行きいずれは殿様になるという彼をみんなで見送った、明るい未来を夢見た。しかし飢饉は長かった…
 江戸で、全身全霊で仕える意義のある上司を得た晴興は、彼の手足となって仕事に邁進します。幕府の税制改革を推し進めたのもそのひとつです。それは理想にすぎず今の現状にはそぐわず、一揆を誘発するものとなってしまっているのかもしれない。しかし大事のための小事には目をつぶるしかない、憎まれ役を買って出てでも推し進める。星を見ることを忘れ、故郷を想うことも忘れ、笑顔すら忘れ、あるいは自分に許さずに、仕事に生きる男。晴興のその厳しさ、そのつらさ…そこに私はしびれたのでした。
 その晴興の理想と源太たちの現実が、一揆の形で激突し、幼馴染同士の一騎打ちという形になる。それがこの物語の主眼だったのではないでしょうか。だから中日版のように、改革を推し進めているのはあくまで将軍で晴興は疑問を感じながら流されているだけ、先頭に立って無理やり推し進めているわけではない代わりに現状に合わないからと体を張って止めてみせるわけでもない、みたいにしてしまうと、晴興がなさけないダメな人みたいになっちゃって、現実を闘いついに一揆を決意する源太たちに対して弱すぎちゃわないですかね?と私は思ってしまったのでした。
 源太たちは米倉を襲ったりはしません。食べるものがないから食べ物を奪う、そういう戦いではないから。お上から借りた土地で作ったものは食べる分以外はお上に渡す、でも飢饉で食べる分すら取れないときは少しだけ待ってほしい、そういうシステムを認めてもらいたい、その要求、交渉のための戦いだからです。そういうことを教えてくれたのは晴興、かつての紀之介なのです。
 晴興は、今は現状にそぐわなくても、新しい税制が最終的には正しく、この国をトータルでは良くすると信じている。だから今の小さな些事には目をつぶりたいし、一揆も力づくでつぶす。他藩にもそうさせた、うちでもそうする。そうして前に進む、そう決心して故郷に帰ってきます。一揆なんて無謀だ、飢饉以上に人が死ぬ、幕府は絶対に税制を変えない、だから何もかも無駄だ、それが晴興の理屈です。一方源太の方では、もう理屈でないところまで事態は来てしまっていたのでした。
 だって最後の一押しはちょび康(彩風咲奈)の「俺は、やりたい」なんです。理屈ではない、もう単なる意思、願望です。泣き虫だった男が病弱な息子を飢えで亡くして、それで絞り出すように言う「やりたい」なんです。やるべきだ、とかやらなくてはいけない、とかではもう、ない。
 だから、晴興と源太の話し合いは物別れに終わり、一揆は起きます。だから晴興は源太との一騎打ちを提案する。被害を最小限に食い止めるためです。そしてそのときもちろん晴興は、自分や幕府側の被害ではなく、三日月藩の、源太たちの被害のことを案じていたのです。
「おまえが勝ったらこちらが要求を呑む、こちらが勝ったら一揆はここで打ち止め、参加者は全員捕縛」、それが晴興が出した一騎打ちの条件です。だから晴興は負けるわけには絶対にいきません。幕府に税制を変えさせることは不可能なのだから、自分は要求を呑めないのだから、勝って彼らを死なせずに捕らえてことを収めたいのだから。だからまきざっぽうなんざを手に取るのでしょう。相手を殺すつもりなんかないからです、叩きのめして降参させればいいからです。
 けれど源太は生きて降参なんか絶対にしないと叫びます。捕縛だけですむはずがない、全員みな殺しにされると思っているからです。かつて自分たちの父親もそうして殺されました。お上のことなんて、今の晴興のことなんてもう信じられないのです。勝ちたい、勝って自分たちの要求を認めてもらいたい、そして村のことはほっておいてもらいたい、泉のことも忘れてもらいたい。三人も子をなした女房に「あの人には絶対勝てない」なんてもう二度と言われたくない。そういう意地が、プライドがかかった戦いなのです。そこが悲しい、せつない、いじましい、泣ける。そういうお話ですよね?
 このままでは終わらない、だから終わりにするために、晴興は源太に太刀を投げつけ、自分も抜かなければならなかったのです。刃を持ち出すしかない、殺さなければ終われない。そしてそのとき初めて、晴興は源太の死と引き換えに他の者たちの命を救うよう将軍に頼むことと、その責を負って自分が政治的、社会的死を受け入れることを決意したのではないでしょうか。親友を手にかけるなら自分も死ぬのが当然だ、自分に目をかけ嫁をやり地位を与え信頼し働かせてくれた敬愛する上司を裏切るのだからそれくらいの罰を負って当然だ…そう思ったのではないでしょうか。
 何より、本当に、心底、唯一愛していた女の夫を殺す自分が、そうでないと許せなかったのでしょう。だから源太を斬って一揆を終わらせ、村人の命を救い自分は遠流、蟄居となった…
 背中合わせになったとき、源太は晴興の真意を察して、それで微笑み、喜んで斬られ、あとは任せたと死んでいったのではないでしょうか。晴興なら今後を悪いようにはしない、みんなを殺したりなんかしない、村を一時的にでも救ってくれると、信じられたから…
 それを全部背負って、晴興は決着をつけました。仕事は途中で放り出す形になった。正しいと信じてやってきたけれどその犠牲はあまりに大きく、今ではもう本当に正しいのか自信も持てない。だから抜ける、誰かに任せる。自分の人生はもう終わった。卑怯だとは思うが他になんともしようがない。ここではないどこかで、愛した女とふたりで生きていけるなら幸せだろう、しかしそれは叶わぬ夢なのだ。その女が他に夫を持ったからではなく、子供がいるからでもなく、女とはそうした生き方をしないものだから…これはそういう話なのでは、そこに泣く話なのでは、ないのかな?
 だから、晴興がなんか中途半端に優しくなって、ただ板挟みになっているだけの人みたいになって、もちろん十分かわいそうだしつらそうなんだけれど、でも本公演版の、理想を信じて働いていて、痛みを引き受ける覚悟もあって、でも結局は敗れていく男のドラマ…というものは薄まった気がして、それでついつい「ぬるい!」と私は、一喝したくなったのでした。
 でもなんかこの晴興なら、ラストの櫓で泉を抱きしめてあげるところは許せる気がして、よかったです。以前は、そこでそんなこと言うなよ、卑怯だよ女々しいよ…という気がちょっとしたのです。でもこの晴興なら、ずっと心は三日月藩側に、泉たちの側にあったんだから、ここでつい泉を抱き寄せてしまうのもわかる、仕方ない、許せる、せつない…と思いました。だからここは泣きました。
 でもこのくだりもずいぶんと台詞が減って、シンプルになった印象でしたね。やはり全体にわかりやすくなったというよりは含みがなくなった、痩せたのではなかろうか…
 なくなったといえば祭りの再会で源太が晴興に泉をもらってやってくれというくだりで、「将軍の姫さんを断って」云々みたいな台詞もなくなりましたね。あ、なくしたんだ、と感じました。最初からならともかく、あったものをなくした分、ということは側室でもいいからもらってやってくれというニュアンスなんだな、と私は感じてしまいました。そして晴興はそれをよしとしなかったから、流したのだな、と感じました。難しいものです…
 他にもきっとこまごまあったんでしょうね。罪な舞台です…

 全体にはまちくん、おーじくんの好演が光っていた気がしました。がおりの将軍は現役感あるし、キャラクターもじゅんこさんの将軍とは違っていましたね。
 貴姫(桃花ひな)はちょっと押し出しが足りなかったかなー。あとここの夫婦の在り方も台詞を言う人を変えて大劇場版とニュアンスを変えられてしまっていて、個人的には残念でした。
 細川カリももうちょっとがインパクト欲しかったかなー。役替わりとはなかなか難しいものですね。


 ショー・グルーヴは先日までやっていた本公演版から、クリスマス・バージョンだった中詰めをラテンに変えて上演。
 BSWでもとてもよかったゆめ真音くんが歌で大活躍していて、頼もしかったです。あと中詰めとっぱしの大ちゃんの、暗い中にワサワサ衣装で出てきてゼロ番に板ついてライトオン!って出オチ感が最高に素晴らしかったです!!(ほめてます)
 前が通路のお席をいただけたので、チギちゃんと咲ちゃんにタッチしていただきました。手すりにでれんと腕投げかけてけだるくポーズ決めるサキナ怖い…! 広い背中と薄い肩に抱きつきたくなりました!!
 稲葉先生もなんだか濃くてよくわからないショー作家になりつつありますよね。これまた次回の宙組公演、お世話になりますがんばります!


 …と、毎度勝手な感想で失礼いたしました…









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名前の話

2017年02月13日 | 大空日記
 大空祐飛さんが大空ゆうひさんに改名することになりました。

 何度か語っていますが、私の宝塚歌劇初観劇は『メランコリック・ジゴロ/ラ・ノーバ!』で、最初に好きになったスターはヤンさんです。当時のトップスターさんだったわけですから、これはまあ刷り込みみたいなものだったのかもしれません。でもちゃんと好きでした。今でも好きです。
 宝塚歌劇自体にハマってすぐ全組観るようになって、見つけたスターが大空さんでした。観続けているうちにトップが代替わりしていって小粒に思えるようになったり、観る演目を選り好みしたりして観劇からやや遠ざかり気味になっていた時代もずっと、好きではいました。韓流にハマっていたころに『太王四神記』宝塚歌劇化のニュースが舞い込んできて飛び上がり、その出来が良くてホゲが良くて気持ちが宝塚歌劇に戻ってきたところに組替えとトップ就任発表があって、ファンクラブに入って私の宝塚歌劇ファン人生第二期が始まりました(ちなみに今は第三期です)。ファンクラブには今でも入っています。
 なので、ファンクラブ公式サイトのコメントが更新された旨をメール配信でもらって、でも仕事中でサイトを見に行く暇がなくて、でもツイッターは見られて、コメントが単なる近況報告とかではないようだ、何かもっと大きな発表だったんだな、とはファンのツイートから察せられました。そこで私が思ったのは、もしかしてしばらく休業するとかそんなこと?ということでした。ライブの次のお仕事の発表がないし、あくせくしていないと言えば聞こえがいいけれど仕事の選び方に悩んでいるのではなかろうかとか勝手に心配していたので、そんな想像が先回ったのです。つい先日まゆたんが、結婚を機会にってこともあるでしょうけれどそんなような発表をしていたんですよね? その連想もあったのかもしれません。
 そんな想像ができるくらい、そしてそれでも仕方ない大丈夫と思えるくらい、今の私は仕事と現役に忙しくて、正直言って大空さんから心がちょっと離れ気味なんですね。
 だから、名前をひらがなにすると言われても、「ああそうですか、まあそれもいいかもね」とだけしか思わなかったのでした。けっこう動揺している方も多くて、そのツイートを読んで考えれば確かに大きなことだよなとは思うのですけれど、でもやっぱり今の自分は一番にそのことを考えるとかではないんだよな、というのが、正直な今の私の心のありようなのでした。

 もちろん、名前というものはアイデンティティに関わる問題でもあり、その変更となれば大問題です。
 私ですら、本名の他にここでの名前とかツイッターのアカウント名とかいくつかの名前を持っていてちょっとずつキャラが違ったりします。韓流ブログも違う名前でやっていましたし、同人誌時代には別のペンネームがありました。いずれもそれなりにこだわりがあったりします。
 タカラジェンヌには本名の他に芸名があって、愛称もあって、宝塚歌劇団を卒業しても芸能活動をする場合にはそれを使い続けることが多いものです。でも活動内容がかなり変わるので、悩む人も多いのでしょう。最近だとねねちゃんとか、ね。

 「大空祐飛」というのは四字熟語にも通じるようなずいぶんと堅い文字面で、でもそれがいかにも大空さんらしくもあったと思ってきたのですけれど、卒業を見据えた頃に、このまま女優でやるには堅すぎる芸名なのではないか、みたいな心配は私もしました。
 また、卒業を決めた心境みたいなものの話で、本名とは違う、愛称とも違う、「大空祐飛」という人間像、キャラクターをやっと完成させられたから、だから満足して、納得して、辞められる…みたいなことを言っていて、すごくわかるなと思う一方で、それはやはりタカラヅカのスターとしての、男役としての「大空祐飛」なんだろうし、その名前で今後また違う活動をしていくかもしれないことに関してはどう考えているのかな…とかもちょっと心配していたのです。でも、そもそも芸能活動をする気があるのかどうかも半信半疑でしたけれどね…最近の多くのスターさんのように、卒業の日付が変わったらもう次の仕事が発表されるような人ではなくて、そのままいなくなっちゃうかもしれない疑惑がごくごく自然に湧くタイプの人でしたからね。
 でも結局、多少の時間はかかりましたが、いわゆる女優さんとして芸能活動を続けてくれることになって、名前もそのままで、だからファンとしても楽しく新作に通っていきましたし、ゆるくなったなでも可愛いな素敵だなやっぱり好きだな好みだな、と感じてはきましたが…でも当人はいつしかその齟齬をやはり感じるようになったのかなと思えば、やはりなんとなく納得できる気がします。「ゆうひ」というのはずいぶんと丸く優しい文字だけれど、今の大空さんのゆるさ、気取らなさにはちょうどいいのかなしれないし、いずれなじむことでしょう。
 私にとっては変わらず「大空さん」だし「ヨウコちゃん」だしな、というのも大きいかもしれません。普段からきちんと「祐飛さん」と呼んでいる人は、やはり据わりが悪く感じられるかもしれませんね。

 でも、それより何より仕事の発表を求めているんですよね実は私は…『ヘッズ・アップ!』再演決定はそりゃめでたいです。オリジナル・ミュージカルとしてとても良くできていたと思っています。でもほぼほぼ同じ座組みなら私はもう行かないでしょう。
 私は、新作が観たい。新しい大空さんが観たい。ぶっちゃけ名前なんてどうでもいい、とまでは言いませんがしかし、私の一番の関心事はそこにはないのでした。どんな名前でも中身は変わらない、♪薔薇という名の花は名前を変えても…です。でも新作がないなら興味が持続できないのです。
 今でも一番に大空さんのファン、という方には不快かもしれませんが、私にとってはもうそういうことになってきてしまっているんだと思います。
 あいかわらず好きな女優さん、好きなOGさんです。好きな顔、好きな声、好きな芝居、好きな歌、好きな佇まい、好きな話し方の人です(もっとたダンスも観たいよ!)。今後もずっと、良さそうな演目に出てくれるなら観に行きたい、いろいろ観たい。
 でももう今までのようには通わないでしょう。そもそも宝塚歌劇のようにリピートする方が異常なのであって、例えば今なら『ロミジュリ』とか、役替わりがあったりアンサンブルも豪華だったりするグランドミュージカルなら何十回も行くファンも多いかもしれませんが、例えば『ワーニャ伯父さん』を全通する、とか普通しないわけじゃないですか演劇ファンって。むしろまた次に再演されるときに、別の座組みで公演されるからそれを観る、そうやって演目を、戯曲を愛していく…というものですよね。
 そもそも宝塚歌劇とは公演のタイプが違うから比べても意味はないのかもしれませんが…宝塚歌劇は新作主義で再演されるとは限らないし、常に誰かの退団公演でメンバーも一定しないし、出演人数が多くて場面数が多くて見きれないから通うしかない、そして通うに足る公演だと思うのです。外部なら普通は飽きちゃうんじゃないかな。そんな鑑賞回数に耐えない、というかそういう見方をするものではない、というか。
 そして大空さんは現役生ではない、OGであり普通の外部の舞台に出演する人になりました。だから今までのような回数では観ない。そして私は舞台が好きだけれど宝塚歌劇というジャンルそのものを愛してもいるので、現役と同等の愛と情熱とお金と時間は注げないのだな、と自分でもわかってきたのです。
 さびしいことではありますが、人の心は移ろうものなのです。私もひとつ大人になったということです…

 それでも元トップスターだから外部でも活躍の場があるし、その気になれば追っかけやすいからいいよね…と今から先を心配していじいじしているくらい、今の現役が好きなんです。
 ああ、普通にお嫁に行ってほしいな、中途半端な公演に中途半端に出たりリアルな知り合いにしかおもしろくないインスタとかされたら萎えるなー…と今からいじいじしているのです。
 大空さんは、たゆまず、颯爽と、あるいはのんきに、歩いて行ってくれると思っています。それは信じられる、だから大丈夫。そういうふうに、ちゃんと好き。
 そんな、言い訳をしてみました。



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