中日劇場、2017年2月11日15時半。
時は江戸時代中期、徳川吉宗(香綾しずる)の治世。九州の緑深き里、山々に囲まれた三日月藩藩主の次男、天野紀之介(早霧せいな)は、夜ごと城を抜け出しては星の観測に夢中になる奔放な少年であった。ある夏の星逢(七夕)の夜、紀之介は蛍村の少女・泉(咲妃みゆ)とその幼馴染の源太(望海風斗)と出会い、星観の櫓を組み上げ、その日から友情を育んでいくが…
作・演出/上田久美子、作曲・編曲/高橋城。2015年初演、上田氏が第23回読売演劇大賞優秀演出家賞を受賞した作品の改訂再演版。雪組トップコンビのプレさよなら公演。
お友達にお取り次ぎいただいて、良きお席で楽しんできました。雪担で本公演に足繁く通った彼女と、都合三回かな?しか観ていない私とでは作品へのスタンスも違うので、観ている点や変更で気になった点、気に入った点などがずいぶんと違って、幕間トークがなかなか新鮮でした。
あくまでも私は、ですが、私はこの変更は一言で言えば「ぬるくなった」と感じました。わかりやすくなった、齟齬がなくなって良くなった、整合性が取れた、マイルドになったソフトになったスマートになった…と評価する声も大きいと思います。私も、最初からこれを観ていたのであれば、ほぼ手放しで絶賛していたと思います。私はこういうキャラクターの晴興も好きだからです。
でも、明らかに、以前とは違う晴興になっていました。だから違う話になってしまっていたと思いました。そのことが私には、受け入れがたかったのです。
初めからこれだったわけではない。本公演が確かにあった。そこで描かれていたものが確かにあって、その苛烈さ、峻厳さを私は愛していて、だからあの物語に泣いたのかもしれないな、だからこんなふうに優しくわかりやすくなめらかにそして違うものになってしまうことを私は望んではいなかったのだな、と改めて感じ、そして残念に思いました。この作品に作者と違うものを観ていたのかもしれないことに、作者がこの改変を良しとしたことに…
一方で、私がしょっちゅうしょっちゅう言う、事前に脚本を誰か第三者に見せて客観的な視線を取り入れろ最低限の整合性は整えろ本筋でないところに引っかからせるようなことはするなみたいに言ってされる手直しって、たとえばこういうことなのかもしれないなと思いました。そしてそれはもともとの作品のパワーを半減させてしまうことがあるのだな、とも感じたのです。それもショックでした。
しつこく言いますが、最初からこれだったのなら、なんの問題もないと思います。でも、この作品が描きたがったものは、描こうとしていたものは、その主人公像は、主人公たちの関係性は、これだったのかしら? 本当に? 整えすぎて痩せてしまっていない? 大事な本質が変わってしまっていない? これで本当によかったの? と私は思ってしまったのですよ…僭越で申し訳ない…
これでいいに決まっているから作者はこう変えたのだし、それを喜んで受け入れている観客も多いし、新旧双方を楽しんでいる観客もまた多いでしょう。しかしちょうどスカステで新公の放送があったのでそれを観てみて、やっぱり私はこっちの方が良かったんでないかい?と思ってしまったのでした。直すにしてもそっちの方向のまま、よりわかりやすくなるようにするべきだったのでは?とね。
もう完全に個人的なワガママの部類に入ることは承知していますが、今回はそのあたりを語ってみたく思います。あ、めでたく増刷されたそうですがル・サンクは未入手です、なのでうろ覚えの記憶とイメージで語っているところも多いかと思います、すみません。あくまで自分が観たと思っているものの話、観たいものの話にすぎないのかもしれません、本当にすみません。
脚本と向き合って一言一言きちんと対峙する体力や情熱がそのときの私にはなかったというか、そもそも作品に負けたというか…担組作品じゃないからひよった、というのが一番正確かな。今までイケコとか生田くんのホンにはさんざんしてきたわけですからね。なので次のロマノフでは私はやるのでしょう、それは逃げられる気がしない…
お友達が言っていたのですが、そもそも批評に耐えられないホンと、批評して批評がおもしろくなるホンと、そんな批評とは無関係にただ泰然と屹立するようなホンとが、この世にはあるのかもしれません。
本公演の感想は
こちら。
ほぼ手放しでほめているようですがあとで考えるにそんなこともなくて、私は晴興の政治的な思想というか、政治家としての生き方がよく見えない気がして、それが物語としてうまくハマりきれていないようで、歯がゆく感じてはいました。だからそのあたりは改善されるともっといいんだろうな、と漠然と思っていました。だから今回も改変の余地はあるのだろうし、良くなるのだろうと自然と思えていたのです。
でも今スカステ放送などを観てみると、観劇では聞き取れなかった台詞が聞き取れたりといったこともあって、このあたりもほぼほぼ整合性に問題なく感じました。むしろその方向でよりわかりやすく伝わりやすくしてもらいたかった。何がどうぶつかり、こうなるしかなかったのか、その流れがもっと見えやすくなるよう整えることはできたと思うのです。
これは理想に生きた晴興と現実に生きた源太がぶつかる物語だったのではないでしょうか。そこに泉という女がいた、という物語だったのではないでしょうか。だから晴興は、源太が起こす一揆の原因となった政策を主体的に進める存在でなければなりません。でなければぶつかる意味がない。
でも今の中日版は、晴興を安易にいい人に仕立てているように私には思えました。税制改革についても、推し進めているのはあくまで将軍で、晴興は最初は旗を振ったけれど今は疑問を感じている人、みたいになっていました。でもそれはただ流されているだけの人のようで、優しいし真面目だしいい人ではあるのかもしれないけれど、むしろなさけない人になり下がってはいませんか?と、そこが私は気になったのでした。最初からそういう生き方しかできない、何事にも優しくて結果的に自分がババ引く悲しいタイプ、という設定なのであればそういうのも私は大好物なので、最初っからそれならそれで見て愛したと思うのですが…チギちゃんがまた、そこまで弱くは見えないタイプだと私は思うからなあ…そう思ってちゃんと見れば、以前より弱く優しいキャラクターをきちんと演じているのだろうとは思うのですが。
だから、この変更を踏まえて、もう一度素直に観る機会があったなら、こんなに違和感は引きずらなかったのかもしれません。一度しか観ていないのに個人的な違和感でガタガタ言うだけの記事ですみませんとは、自分でも思ってはいるのです。
蛍村は、三日月藩は、貧しい。一揆で父親を失った子供たちの暮らしは特に厳しく、寂しい。子供たちは身を寄せ合ってたむろし、うつむいて足元ばかり見ていた。泥だらけの汚れた足、踏みつけられた草花、痩せた地面…
星を見ることを教えてくれたのはお城の若様だった。若様なはずなんだけれど、わんぱくできかん気で、自分たちと全然変わらない。すぐに仲良しになった。山の向こうに広い世界があること、いつかみんなが幸せになれる未来があること、そういうことを教えてくれた少年。
人は衣食足りて初めて夢を見られるのでしょう。だから紀之介にはそれができた。村の子供たちには、夢を見ることを覚えたことはぜいたくで危険なことだったのかもしれません。でも彼らは紀之介と出会ってしまった、星を見ること、夢を描くことを知ってしまった。そして江戸に行きいずれは殿様になるという彼をみんなで見送った、明るい未来を夢見た。しかし飢饉は長かった…
江戸で、全身全霊で仕える意義のある上司を得た晴興は、彼の手足となって仕事に邁進します。幕府の税制改革を推し進めたのもそのひとつです。それは理想にすぎず今の現状にはそぐわず、一揆を誘発するものとなってしまっているのかもしれない。しかし大事のための小事には目をつぶるしかない、憎まれ役を買って出てでも推し進める。星を見ることを忘れ、故郷を想うことも忘れ、笑顔すら忘れ、あるいは自分に許さずに、仕事に生きる男。晴興のその厳しさ、そのつらさ…そこに私はしびれたのでした。
その晴興の理想と源太たちの現実が、一揆の形で激突し、幼馴染同士の一騎打ちという形になる。それがこの物語の主眼だったのではないでしょうか。だから中日版のように、改革を推し進めているのはあくまで将軍で晴興は疑問を感じながら流されているだけ、先頭に立って無理やり推し進めているわけではない代わりに現状に合わないからと体を張って止めてみせるわけでもない、みたいにしてしまうと、晴興がなさけないダメな人みたいになっちゃって、現実を闘いついに一揆を決意する源太たちに対して弱すぎちゃわないですかね?と私は思ってしまったのでした。
源太たちは米倉を襲ったりはしません。食べるものがないから食べ物を奪う、そういう戦いではないから。お上から借りた土地で作ったものは食べる分以外はお上に渡す、でも飢饉で食べる分すら取れないときは少しだけ待ってほしい、そういうシステムを認めてもらいたい、その要求、交渉のための戦いだからです。そういうことを教えてくれたのは晴興、かつての紀之介なのです。
晴興は、今は現状にそぐわなくても、新しい税制が最終的には正しく、この国をトータルでは良くすると信じている。だから今の小さな些事には目をつぶりたいし、一揆も力づくでつぶす。他藩にもそうさせた、うちでもそうする。そうして前に進む、そう決心して故郷に帰ってきます。一揆なんて無謀だ、飢饉以上に人が死ぬ、幕府は絶対に税制を変えない、だから何もかも無駄だ、それが晴興の理屈です。一方源太の方では、もう理屈でないところまで事態は来てしまっていたのでした。
だって最後の一押しはちょび康(彩風咲奈)の「俺は、やりたい」なんです。理屈ではない、もう単なる意思、願望です。泣き虫だった男が病弱な息子を飢えで亡くして、それで絞り出すように言う「やりたい」なんです。やるべきだ、とかやらなくてはいけない、とかではもう、ない。
だから、晴興と源太の話し合いは物別れに終わり、一揆は起きます。だから晴興は源太との一騎打ちを提案する。被害を最小限に食い止めるためです。そしてそのときもちろん晴興は、自分や幕府側の被害ではなく、三日月藩の、源太たちの被害のことを案じていたのです。
「おまえが勝ったらこちらが要求を呑む、こちらが勝ったら一揆はここで打ち止め、参加者は全員捕縛」、それが晴興が出した一騎打ちの条件です。だから晴興は負けるわけには絶対にいきません。幕府に税制を変えさせることは不可能なのだから、自分は要求を呑めないのだから、勝って彼らを死なせずに捕らえてことを収めたいのだから。だからまきざっぽうなんざを手に取るのでしょう。相手を殺すつもりなんかないからです、叩きのめして降参させればいいからです。
けれど源太は生きて降参なんか絶対にしないと叫びます。捕縛だけですむはずがない、全員みな殺しにされると思っているからです。かつて自分たちの父親もそうして殺されました。お上のことなんて、今の晴興のことなんてもう信じられないのです。勝ちたい、勝って自分たちの要求を認めてもらいたい、そして村のことはほっておいてもらいたい、泉のことも忘れてもらいたい。三人も子をなした女房に「あの人には絶対勝てない」なんてもう二度と言われたくない。そういう意地が、プライドがかかった戦いなのです。そこが悲しい、せつない、いじましい、泣ける。そういうお話ですよね?
このままでは終わらない、だから終わりにするために、晴興は源太に太刀を投げつけ、自分も抜かなければならなかったのです。刃を持ち出すしかない、殺さなければ終われない。そしてそのとき初めて、晴興は源太の死と引き換えに他の者たちの命を救うよう将軍に頼むことと、その責を負って自分が政治的、社会的死を受け入れることを決意したのではないでしょうか。親友を手にかけるなら自分も死ぬのが当然だ、自分に目をかけ嫁をやり地位を与え信頼し働かせてくれた敬愛する上司を裏切るのだからそれくらいの罰を負って当然だ…そう思ったのではないでしょうか。
何より、本当に、心底、唯一愛していた女の夫を殺す自分が、そうでないと許せなかったのでしょう。だから源太を斬って一揆を終わらせ、村人の命を救い自分は遠流、蟄居となった…
背中合わせになったとき、源太は晴興の真意を察して、それで微笑み、喜んで斬られ、あとは任せたと死んでいったのではないでしょうか。晴興なら今後を悪いようにはしない、みんなを殺したりなんかしない、村を一時的にでも救ってくれると、信じられたから…
それを全部背負って、晴興は決着をつけました。仕事は途中で放り出す形になった。正しいと信じてやってきたけれどその犠牲はあまりに大きく、今ではもう本当に正しいのか自信も持てない。だから抜ける、誰かに任せる。自分の人生はもう終わった。卑怯だとは思うが他になんともしようがない。ここではないどこかで、愛した女とふたりで生きていけるなら幸せだろう、しかしそれは叶わぬ夢なのだ。その女が他に夫を持ったからではなく、子供がいるからでもなく、女とはそうした生き方をしないものだから…これはそういう話なのでは、そこに泣く話なのでは、ないのかな?
だから、晴興がなんか中途半端に優しくなって、ただ板挟みになっているだけの人みたいになって、もちろん十分かわいそうだしつらそうなんだけれど、でも本公演版の、理想を信じて働いていて、痛みを引き受ける覚悟もあって、でも結局は敗れていく男のドラマ…というものは薄まった気がして、それでついつい「ぬるい!」と私は、一喝したくなったのでした。
でもなんかこの晴興なら、ラストの櫓で泉を抱きしめてあげるところは許せる気がして、よかったです。以前は、そこでそんなこと言うなよ、卑怯だよ女々しいよ…という気がちょっとしたのです。でもこの晴興なら、ずっと心は三日月藩側に、泉たちの側にあったんだから、ここでつい泉を抱き寄せてしまうのもわかる、仕方ない、許せる、せつない…と思いました。だからここは泣きました。
でもこのくだりもずいぶんと台詞が減って、シンプルになった印象でしたね。やはり全体にわかりやすくなったというよりは含みがなくなった、痩せたのではなかろうか…
なくなったといえば祭りの再会で源太が晴興に泉をもらってやってくれというくだりで、「将軍の姫さんを断って」云々みたいな台詞もなくなりましたね。あ、なくしたんだ、と感じました。最初からならともかく、あったものをなくした分、ということは側室でもいいからもらってやってくれというニュアンスなんだな、と私は感じてしまいました。そして晴興はそれをよしとしなかったから、流したのだな、と感じました。難しいものです…
他にもきっとこまごまあったんでしょうね。罪な舞台です…
全体にはまちくん、おーじくんの好演が光っていた気がしました。がおりの将軍は現役感あるし、キャラクターもじゅんこさんの将軍とは違っていましたね。
貴姫(桃花ひな)はちょっと押し出しが足りなかったかなー。あとここの夫婦の在り方も台詞を言う人を変えて大劇場版とニュアンスを変えられてしまっていて、個人的には残念でした。
細川カリももうちょっとがインパクト欲しかったかなー。役替わりとはなかなか難しいものですね。
ショー・グルーヴは先日までやっていた本公演版から、クリスマス・バージョンだった中詰めをラテンに変えて上演。
BSWでもとてもよかったゆめ真音くんが歌で大活躍していて、頼もしかったです。あと中詰めとっぱしの大ちゃんの、暗い中にワサワサ衣装で出てきてゼロ番に板ついてライトオン!って出オチ感が最高に素晴らしかったです!!(ほめてます)
前が通路のお席をいただけたので、チギちゃんと咲ちゃんにタッチしていただきました。手すりにでれんと腕投げかけてけだるくポーズ決めるサキナ怖い…! 広い背中と薄い肩に抱きつきたくなりました!!
稲葉先生もなんだか濃くてよくわからないショー作家になりつつありますよね。これまた次回の宙組公演、お世話になりますがんばります!
…と、毎度勝手な感想で失礼いたしました…