ドラマシティ公演の初日翌日の夜公演、つまり通算第三回目の公演を観てきました。
ありがたいことにご縁も多く、実はもっと多く観ているのですが、本当は私はモットーとしては本公演は二回、それ以外の公演は一回観れば十分、と考えているのです。十分、というのは語弊があるのですが。舞台は毎回違うものだしね。
でも全部観ることなんてできないしできたとしてもそれがものすごく意義あることかというとまた違うと思うし、時間もお金も有限だしとかまあいろいろあって、私としてはそんなふうに考えているのでした。
ただこの公演は珍しく友会が青年館公演を二度当ててくれて(たいてい一度しか当たらない)、かつ青年館が待てずにドラマシティ公演をギリギリに一般発売で買ってしまいました(あっきー茶が西であったからということもあるんだけれどそれはナイショ)。
というワケでそもそも複数回観ることが確定していたのでした。
で、普段だったら、マイ楽後に感想をブログにまとめるのですが、今回は初見ですでに言いたいことが溢れてしまいました。だから書いてしまいます。
一回観ただけの、現時点での、ごくごく個人的な、感想ともつかない、もちろん批評とか劇評なんかでは全然ない、所感、雑感です。日記です。
簡単にいうと「私は物足りなかった」という話なので、感動した、号泣した、一点の曇りなく大満足だった、という方には読むのをオススメできません。それでも読んでみたいわ、と思っていただけるのなら、最後まで読んでいただけると幸いです。だいぶ脱線しますし、最後まで読まないと単にクサしているわけではないのだ、ということがわかっていただけないと思うのです。毎度言い訳がましくてすみません。
でもこの公演が複数回観られることになっていてよかった。マイ初日=マイ楽、だったら寂しかったと思います。今は早くもう一度観て、またいろいろ考えたいし、違った印象を得たいな、得るんだろうなと思っているのです。
私にとっては「おもしろかった」と一言で言って終われるものと、「つまらなかった」と一言で言って終われるものと、そういうこととは別にとにかくねちねちねちねち語らないではいられないもの、とがあるのかもしれません…
あ、ちなみに完全ネタバレで語ります。未見の方はそのあたりもご了承ください。
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私はミーハー・クラシック・ファンですが楽器も弾けないし楽譜も読めないし音楽史にもくわしくありません。
でもシューマンの妻クララが美人でピアニストで作曲もした女性であること、ブラームスがシューマンに師事したことがあること、ブラームスがクララに懸想したとかしないとか未亡人になった彼女を支えたとかなんとかいったエピソードがあること…は、知識としては知っていました。そんな映画もありましたしね。
だから演目発表があったときに、当時はまぁ様が主演でヒロインがゆうりちゃんであることしか発表されなかったと記憶していますが、つまり主人公のヨハネス・ブラームスをまぁ様が演じ、ゆうりちゃんがクララ・シューマンで、振り分けも配役もまだだけれどおそらくクララの夫ロベルトとの三角関係の話をやるのね、だって宝塚歌劇だもんね!とまでは考えてしまいました。
そう、私は宝塚歌劇たるもの、トップトリオで三角関係メロドラマをやるべきであると固く強く考えている人間なのです。イヤまずはレビューだろとかそんなドロドロした恋愛ものばかりじゃなくてもええやろとかの意見があることは知っています。でも私が宝塚歌劇で観たいものはそういうものなの。まゆたん言うところの「大恋愛もの!!!!!」なの。
で、ロベルトがキタさんとなったときに、やはりちょっと
『ニジンスキー』のディアギレフを想起してしまったこともあって、おおっと喜んでしまったのでした。
男役トップスターと、トップ娘役と、二番手男役(本公演以外の公演なら、それぞれその格にあたるスター)の三角関係。男ふたりに女ひとりのメナージェ・ド・トロワ。もっとも盛り上がる構造だと思います。宝塚歌劇の観客は圧倒的に女性が多いのですからね。
男のひとりと女は兄妹とか姉弟とかなんなら父娘とかの肉親でもいいかもしれません。そこには恋愛感情以上に濃く複雑な情愛がある場合もありえるからです。
女を挟んで対峙する形になる男ふたりは、恋敵でもいいし、たとえば親友同士でもいい。兄弟というのもおもしろい。あるいは恋愛以外にも仕事だのなんだので対立する要素があったりするのもいい。
とにかくそういう緊張関係の中での人間ドラマ、恋物語が観たい。それが私の基本的な願望としてまずあるのです。
で、宝塚歌劇とは別に、私は映画やテレビドラマや小説や漫画などのフィクションもそういうものを好んで探しているようなところがあるわけですが、それで以前から考えていたことがありまして。
このときの男ふたりに、年齢差や社会的地位の差が大きくあった場合、また違ったドラマがあるよな、ということです。まあそもそも完全に対等ということはありえないのだけれど。
人間は社会的動物であり、女同士は横並びにべったりつながることを好みますが、男同士は常に上下関係を考え、どちらがアタマを張るかという優劣を付けたがりますよね。
これは獣の名残なんでしょうかね。まあたいてい群れというものはオスのボスをアタマに多くのメスが集ってハーレムを作り、他に群れにいるオスは大人になる前の、乳離れのすんでいないような子供のみです。大人になったオスは群れを離れてメスを集めて自分の群れを新しく作るか、群れのボスを襲って追い出しその群れを自分のものにするしかない。人間のオスは文化文明を手にして何万年とかたっていてもこの名残のままに今の社会を作り、常に戦っているのでしょう、今も。イヤ私は女なのでホントのところはわからないわけですが、私にはそう見えます。
だから男と女と若い男がいたときに、男ふたりは女を取り合うこととは別に、もしかしたらそれ以上に、男同士の間に屈託を抱えることがあるよね、ということなのです。
若い男は年長の男に打ち負かされ、でも尊敬し敬愛し、あんなふうになりたいと憧れ、取って替わりたいと願い、打ち勝ちたい、と思うものなのではないか、と私は思ってしまうのです。
だから、女を欲するのではないか。年長の男のものである女を奪いたいと思うのではないか。今は勝負に勝てないから、せめて女を掠め取ってやりたい、という心理が働くのではないか。若い男が女を愛するときに純粋な恋愛感情だけではないこともあるのではないか。
若い男が女を愛し奪い抱くときに、彼は女を通して年長の男を組み敷いている気分になっているのではないか。そうして勝っている気になっている部分があるのではないか。
あるいは若い男が女に愛されたいと願うときに、彼は女を通して年長の男に愛されたい、認められたいと思っているのではないか。勝てないならいっそ抱かれたい、そういう形で負けを認めたい、と思っている部分があるのではないか。
この形の三角関係は、女がふたりの男からモテて困っちゃうでも嬉しいわキャッ!みたいなオモテの楽しい(笑。つまり女にとっては、ということですが)部分とは別に、そもそも当の女をないがしろにするような、女を通して実は男同士が戦っているようなあるいはツルんでいるような、要するに愛し合っているような、そういうほの暗い(女にとってはつらい)ウラの部分があるのではないか、と私はずっと考えてきたのですね。
ただ、観客・視聴者・読者、要するに物語の消費者が女性である場合、このウラ面をあまり強調するとウケません。そらそうだ、女が男に都合よく利用される話なんざ女は好きません。
でもオモテ面だけで作られてもちょっとアタマ悪くて大人の鑑賞には耐えられないかもね、とも思います。その匙加減は難しいと思います。私なんかウラをやられすぎたらかえって引くしね。
そのあたりは、期待しすぎず、また構えすぎず、フラットに観ようと思っていました。こういう話になるとは限らないんだし、とね。
作・演出の上田久美子先生は、デビュー作
『月雲の皇子』は確かに出色の出来だったけれど瑕瑾もあったと私は思っているし、それでも二作目にはやはり期待してしまうし、でも勝手に期待しすぎてハードルを上げるのも良くないし、ハードルを下げすぎるのも良くない。
とにかく、あるものをあるように普通に観よう…とは思っていたのです。初日の好評はツイッターなどで聞いてはいましたが、それでも、なるべく、フラットに。
まあ私はフラットを心がけすぎるとやや減点主義に傾きがちだという悪い癖があるんですけれどね…(^^;)
で。
私は、物足りなかった。
観たいものが観られなかった、とか、観られるかもしれないと思っていたものが観られなかった、ということとはまったく別にして、物足りなかった。だってそれはこちらの勝手な思い込みなのだから、それがなかったといって文句を言うのは間違っているとはわかっているのです。
でもではそこに代わりに観たものはなんだったのか、という話です。代わり、というのは僭越ですね。でも舞台にあったものは…私には、薄すぎた。淡すぎた。物足りなかった。
で、え? これがやりたかったの? 本当に? と思ってしまった。
これがやりたかったのか? これでいいのか? これがいいのか?
だとしたらこれがジェネレーション・ギャップってこと? 最近の若い人は淡白だっていうからねえ、とかいう、アレ?
それとも私が何かを読み取りきれなかっただけなのか?
それとも実はもっと違う何かを内包していて、それが出て見えてなかっただけなのか? だったら演出や演技の問題なのか?
え? わからない。
だから、語りたくなってしまったのです。
プラトニックで全然かまわなかったと思います。むしろ私はその方が好みです。なんならキスシーンもなくてもよかったかもしれないけれど、うーんでもそれはやはり宝塚歌劇的にはあってよかったか。サービスとして。
でも肉体関係が実際にあろうがなかろうが精神的不貞の方が問題だ、云々みたいな台詞が劇中にあったかと思うのですが…それ、あった?
つまり不貞という言葉が強すぎるとして、でもそういう恋愛感情とか情熱とかが…あったかなあ? てか要するに全体に色気が、情感がなさすぎないか? 端整すぎないか?
だから私には一幕ラストのヨハネスの台詞はちょっと唐突に思えました。ヨハネスにはクララへの情愛がある程度あるように描かれていたと思いましたが、それは恋愛感情というにはあまりに儚く淡いもので、だからあんなふうに愛だと認めて叫ぶとは思わなかったのです。
むしろヨハネスに関してはこの淡いくらいの感じがいいのかもしれないな、とは思いました。だって彼は結局は誰とも結婚しなかったのだし、愛を選ばなかった人として生きた、ということなのかなと思えたからです。彼はベートーヴェンが築き上げその後の誰もが忌避した「交響曲」という高い山をひとり登り、その頂のその向こう、広い空に大きく羽ばたいた人なのだから。寂しい天才は地上の恋愛とかそれこそ痴情には捕らわれないものなのだろうから。
でもクララは残った。ではこの舞台のクララはヨハネスに何か思うところがあったのだろうか? 私にははっきり言って何も読み取れませんでした。
もうちょっとよろめいてもいいんじゃないの? そして苦悩してもいいんじゃないの? なんか…普通すぎないか?
そしてロベルトも、普通にいい人すぎたのでは? 老いて病に侵されベートーヴェンを超えること叶わず、かつての栄光はあったとしても取り戻す術なく、しがなく妻の稼ぎに頼る暮らしの中で、才能の片鱗を見せる若い男に出会ってしまった年長の男として…もっと何かなかったのか? 要するに嫉妬とかの苦悩が、もっと?
かつてディアギレフをああも演じた人が演じられないわけはない。ということはこれはそういう芝居の方向性であり、演出家のそういう演技指導だったのでしょう。
え、でもホント? ホントにそれでよかったの?
少なくとも例えばゆうりちゃんに関しては、単に演技がヘタだっただけ、とかいうことはない? ファンの方すみません、しかしこれが例えばゆうみちゃんだったら? 漂う情感はもっと違くて、もっと違うキャラクターになったのでは?
でもあえてそうしなかったってことですよね?
え…でもそれって…物足りなくない?
美貌の人妻の淫らなよろめきを見たい、とかそういうことではなくて、ですね。
いや、私はクララは実際に幸せだったと思うのですよ。というか私にはこのクララは幸せそうに見えた。
ともに音楽を愛しものする愛する夫とともに、三人の子供に恵まれ、経済的にはやや苦しくて小金を稼ぐためピアニストとして演奏旅行に明け暮れて忙しく、帰宅したらしたで家事に忙しくてゆっくり作曲に費やす時間もなく、それをちょっと不満に思わないでもないけれど、でも夫と子供と平穏に暮らしていければそれが一番幸せと考えていて、現にそれができている女性。
私には彼女がそんな人間に見えました。老いた夫に性的に不満を感じているとか、音楽的才能を発揮できなくて鬱屈しているとか、そういったことは微塵も感じられませんでした。
そして私はそれがいいとは思ったのです。クララが不幸だったからヨハネスに惹かれたのだ、みたいな流れは陳腐だと思うから。幸福で充足していてなお、人の心は揺れることがあるし恋に落ちることもある、というドラマを見たかったのかもしれないし、そうでなくても別に見られるドラマはあったと思っていたからです。
でも…ドラマ、ありました? つまり、クララの心って、それが何に対してであれ、なんの理由であれ…揺れました?
揺れなきゃ話は始まらない。話が動かない。ドラマにならないのです。
友人の紹介で、夫をひとりの青年が訪ねてきた。貧しそうで不器用そうで生きるのが下手そうな若い男。だが才能の片鱗が確かに見える。自分より、もしかしたら夫よりも。かの偉大なベートーヴェンに匹敵するかもしれない才能が。
だから夫とともに彼に手を貸し、彼を導き、彼が世に出る手伝いをしてやりたいと思う。それが年長者の役割、義務だから。音楽家として身を立てることは権力者に阿ったりなんたりと面倒なこともたくさんあるけれど、それが生きるということだし、自分たちはなんとかそれをやってきて今もなんとかなっているのだし、だから未だそれができずにいてそのやり方もわからないでいるらしい若者には手を貸してあげなければならない。自分たちもまた助けられてきたのだから。
それに彼はうちの子供たちと同じ、ちょっと大きくなっただけのまだまだ子供なのだ。導き育ててやるのが大人の務めだ。母親の義務だ。たとえ歳は実はそう違わなかったとしても(史実ではクララはヨハネスより14,5歳ほど年長ではなかったか? 結婚が早い当時からしたら確かにこれは親子に近い年齢差であったろう。しかし今回は4,5歳ほど年長にすぎないイメージだそうだ)、彼は子供で私は大人だ。たとえ彼がちょっとハンサムだとしても。
…以上、終了。…に、見えませんでしたか? でもそれって普通すぎて、あたりまえすぎて、つまらなくないですかね?
例えば彼の才能に怯えるとか、あるいは嫉妬するとか、そういう部分が少しくらいあってもよかったのでは? 子供や家庭に縛られざるをえない女の自分と違って、その気になりさえすればどこにでも行けてなんでもできてなんにでもなれるはずの男の彼が、ただうちにいて子供たちの相手なんかしてそれでけっこう楽しそうにしていることにあきれたり苛立ったりすることがあってもよかったのでは?
彼が自分に向けてくる視線に気づき、とまどい、困惑し、嬉しかったり優越感を感じたり、怯えたり迷惑に感じたりすることがあってもよかったのでは? 現状、ないですよね?
クララは揺れない、迷わない、充足している。足りないものがあったとしてもそれでよしとしていて幸せにしている。むしろヨハネスの方が勝手に彼女をかわいそうがっているように見えます。でもそれはいいんだよね、恋ってそういうものだと思うから。
でもそれにクララがまったく応えないのなら、何も始まらないじゃないですか。え? それでいいの???
そしてロベルト。ヨハネスに対していい人すぎない?
才能ある若者を伸ばしてやりたいと思う一方で潰してやりたいとも思ってしまうのが人間なんじゃないの? そんな葛藤はないの?
妻に向けられる若い男の視線に男がまったく気づかないなんてことがあるのか? その男がすでに妻に対して関心を失っているのならともかく、まだまだ愛し慈しんでいるというのに?
美人で才気溢れる妻のことが男は自慢なはずです。妻が他の男から関心を寄せられてもそれすら自慢であったりもするでしょう。そんな美しい妻を持つ自分、というものが誇れるわけですからね。
でも若い男の関心があまりに強すぎたら? そしてその男に自分をも凌駕する才能が見られたのだとしたら? そして自分は病に侵されていて先が見えず、妻を残して去ることになるのかもしれないのだと薄々感じ始めていたのだとしたら? そうしたらもっと思うところがあるはずなのではないか?
わざと自分たちの仲を若い男に見せつけるとか。逆に妻と若い男をあえてふたりきりにしようとするとか。そういう自虐、ありますやん。奪われるくらいならいっそ自分から与えたい、投げ捨てたい、みたいな。でも実際やられたら死ぬほど怒り狂うんだけど。
例えばそういう葛藤、なかったですよね? なくていいの? 自分の病しか見てなくない?
そしてクララのことを抜きにしても、若く才能に溢れた男への嫉妬と憧憬、みたいなものはあってもよかったのでは? かつての自分のような輝きに溢れた若い男を見るとき、男の胸に去来するものがもっと何かあるんじゃないの?
その才能を愛する一方で憎み、潰したい邪魔したいと思い、なり代わりたいとも思い、首を締めたくなったりはたまたキスしたくなったり…しない? 奪ってやりたい、壊してやりたい、駄目にしてやりたい。逆に自分が追われ壊され駄目にされるというならむしろ自ら進んでそうなりたい、彼にひれ伏し足蹴にされて捨てられたい。要するに愛されたい。
…そういうの、ない? え? 私が病んでるだけ?
でもあんな連弾場面があってあんなになんにも漂わなかったなんて、はっきり言って私は許せなかったわー。
だってディアギレフだったキタさんだよ? そして相手はブリドリ・ネクストですっしーを誘惑した(オイ)まぁ様だよ?
いや私は別にBLを求めているわけではないので、今回のまぁ様は別におじさまを誘惑したりしなくていいです。てかヨハネスは天然でいいと思う。てかもっと天才演出をしてもよかったと思っています。
だってその方が全体のお話としてもわかりやすくなかったかな? 上田先生はプログラムでベートーヴェンが一番好きだと語るくらいだからクラシックにもお詳しいのかもしれないし、だからこそ史実に捕らわれたりそれこそブラームスを天才だとは考えていなくてああしたのかもしれないけれど、でも簡単に言って天才と秀才ないし凡人の対立の話にしちゃった方がベタだけどわかりやすかったのではないかと私は思う。
つまり『翼ある人』にするべきだったのではないか、ということです。そういう天才ブラームスの話、にするべきだったのではないか、ということなのです。
でもタイトルは『翼ある人びと』であり、上田先生は翼は誰にでもあるものだと考えているということなのだろうし(少なくとも翼を持つ者は複数いるということではある)、つまり今の話にしたくてしているのだろうと思うので、だから私が言っているのはただのわがままなのですが、でもそれじゃない話の方が良くない? 今のままだと今ひとつつまんなくない? ってことなのです。
翼、とは要するに才能のことなのでしょう。でもロベルトとクララがヨハネスに翼を片方ずつ与えたのではないのではないかしら。ヨハネスはそもそも翼を持っていたのです、彼らよりもずっとずっと大きく、遠くまで飛べる翼を。
でも飛び方を知らなかった。若かったから、不器用だったから。だから彼らは飛び方を教えて、羽ばたいて去る彼を見送った。
そして彼らは幸せに死に、大きく広く美しく寂しい空を孤独に飛んだ彼は…はたしてそれで幸せだったのだろうか?
…そういう話にするべきだったんじゃないの?
そして観客の多くは凡人だという自覚があるから、客席の彼方に去る天才ではなく、舞台に残って彼を見送るヒロインの方に共感して涙する。
彼とともに行きたかった。夢見たこともあった。でも行けない。子供たちがいるし、自分にはそんな大きな翼はないから、天才ではないから。そしてもしも翼があったとして、羽ばたく勇気が自分にはあっただろうか。だって愚かな男たちと違って賢い女たちにはわかるのだ、広い空に幸せはないことを。そこは孤独で静寂で、寂しい世界であることを、飛べる飛べないにかかわらず、飛んだことがないにもかかわらず、知っているのだ。それでも飛び立つ勇気はおそらく女にはない、ささやかでも地上の幸せを望んでしまうのが女なのだ…
という話は、どう? やりすぎ? わかりやすすぎ?
でもだったら私は泣いたな。私は泣きたがりすぎていますか? それとも私の涙腺ポイントがおかしいということなのか?
ルイーゼもまたよくわかりませんでした。
実在した人物の名を借りた架空のキャラクターということですが、実在の彼女の部分とはどこなんでしょうね? クララの弟子であったこと? ヨハネスの遺品を処分したこと?
架空扱いするならもっとキャラ立てした方がよかったと思います。中途半端に見えました。演出のせいか、それともれーれの演技のせいなのか?
そもそもルイーゼっていくつなの? クララとは女友達なの? あくまで師弟なの? どちらに比重が大きい関係なの?
いいとこのお嬢さんのようだけれどピアノを手慰みでやっているつもりはない、でも音楽家として立っていけるほどの才能はない、ということなのですよね? だったらそもそもクララに対する愛憎の屈託がもっとあるべきなのでは?
そこにヨハネスが現われ、彼に惹かれ、彼がクララに注ぐ視線に気づき…そうしたら、なんかもっと、濃いものが立ちのぼるものなんじゃないの? なのになんか薄かった。通り一遍に見えた。
彼女もまた観客の感情移入をもっと誘うキャラクターになれたと思うしなるべきだったと思うんだけれど…そしてこういう役をれーれにやらせていていいのかという問題も感じたけれどそれはまた別として…
とにかく、物足りなかったのです。
あと、貴族だとかなんだとかでヨーゼフとは身分の違いがあるとかにしておかないと、彼がああまで身を引く理由が納得できないと思いました。彼にとっては音楽が一番で彼女の一生を背負えないから、ということなのだろうけれど、現状では言い訳がましく見えるというより単によくわからないままになってしまっていると思いました。
それ以外ではヨーゼフの立ち位置はとてもわかりやすいし効果的だし、2幕のヨハネスとの殴り合いの場面なんかは実にいいと思いました。彼にはヨハネスの天才がわかるから、だからフラフラしている彼が歯がゆいんだよね。そして見捨ててはおけないの。いいヤツ!
フランツ・リストの立ち位置もおもしろかったしとてもよかった。このあたりはいい仕事をしていたのになー。『月雲』ほど芝居を締める年長者の脇キャラクターはいなかったけれど、その部分は彼らが負っていたのでした。
実在の人物を扱った作品にありがちな、ああいうことがあってこういうことがありました、みたいなとおり一遍の伝記になることなく、きちんと「お話」になっていたところはものすごく高く評価したいなと思いました。これが意外にできていない作品は世にごまんとあるので。
でもとにかく私は泣かなかった、泣けなかった。
それは私のただのわがままなのかもしれません。次観たときには全然違うことを言い出すと思います。
でも今は、何故泣けなかったのか、どこが物足りなく感じたのかということを考えずにはいられなくて、書いてしまいました。
舞台が描いているものは何か、泣いている観客が観ているものは何か、考えずにはいられませんでした。
考えたところが正しいのかどうかよくわからないし、だから今は再度の観劇が楽しみです。観た人とも語り合いたいなー。
そういう魅力に溢れた作品でした。