駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『もっと泣いてよフラッパー』

2014年02月22日 | 観劇記/タイトルま行
 シアターコクーン、2014年2月20日マチネ。

 ローリングトゥエンティーズ、夢幻の都市、空想のシカゴ。踊り子志望のトランク・ジル(松たか子)は男の扮装をして田舎からやってきた…
 作・演出・美術/串田和美、作曲/越部信義、八幡茂、乾裕樹。1977年初演、22年ぶり六度目の再演。全2幕。

 ノスタルジックな音楽劇というかレビューというか…でした。
 だが無粋ですが長すぎないか? 鼠の場面と天国の場面はなくてもよかったのではあるまいか…そういう部分も「夢幻」なんだろうけれどさ、娯楽が他にもいろいろやる現代に再演する以上はさ…
 てかこれは昔に小さな小屋でやっていたからこそ輝いていた演目だったのではなかろうか。現代の渋谷のシアターコクーンでやって、誰が観たがるのだろう、喜ぶのだろう…
 私はバブル世代の尻尾に属する人間で、狂乱の20年代というものは想像できるようなできないような…で、郷愁を感じるとか憧れるとかは全然ないわけで…
 泡のようにはかなく消えるフラッパーたち…というだけの話なら、それこそもっと美しくて悲しいレビューの舞台を私は知っているよ、とか思ってしまったりしたのでした。すみません。

 でも松たか子はなんでも上手いな。すっとんきょうな話し方が「ああ、これは作り物の話ね」という説得力を持たせていた。
 逆に言うとアタマの口上が声が悪くて聞き苦しくて、「これは作り物で云々」と大事なことを言っているのにほとんど聞き取れなくて一気に萎えたんですよね…だからヒロインが出てきて舞台の見方に納得できるまですごく退屈しました。
 ダメな観客ですみません…
 でもりょうも秋山菜津子も鈴木蘭々も太田緑ロランスも素晴らしかったわー。
 ギャングたちのスーツは『ガイズ&ドールズ』にしか見えなかったわー。
 セットというか装置がなかなか素敵で印象的でした。





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宝塚歌劇宙組『ロバート・キャパ 魂の記録/シトラスの風Ⅱ』

2014年02月22日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 中日劇場、2014年2月19日マチネ、ソワレ。

 1933年、ベルリン。新米カメラマンのアンドレ・フリードマン(凰稀かなめ)は質屋の店主と殴り合いになる騒ぎを起こす。生活のために質入した小型カメラ・ライカが売られてしまったのだ。やがて彼は親友のチーキ・ヴェイス(七海ひろき)とともにフォト・ジャーナリスト目指してパリに向かうが…
 作・演出/原田諒、作曲・編曲/太田健。2012年に初演されたものを一幕ものにして再演。

 青年館で見たときの感想はこちら。「…まあ…こんなもんかな…」というものだったような気が…
 その後スカステで映像の放送を見たときには「記憶していたよりおもしろく見られた…かな?」と感じた気が…
 で、出かけてきたのですが。
 スペインのショーアップ場面やゲルダ(実咲凛音)のソロがカットされていたりはするのですが、いつものお芝居より長い上演時間でしたし、一幕ものにする以上、もっと大胆に編集したり再構成したりしてもよかったのではないかな…と思いました。
 全体に通してみると単調に見えるというか、山や谷の作り方が一幕ものになっていないというか、あくまで間に休憩があることを見越したままの構成に見える…という気がしました。とにかく長く退屈に感じてしまったのです…
 シモン(寿つかさ)との電話の場面とか(これはセットチェンジのために必要なのかもしれませんが)母親(京三紗)の来訪場面とかは、一幕にもあって二幕にもあったからこそ意味があったように見えました。同じような流れなのに意味が違っていることに意義がある、というか。でも一幕の中にあると妙な既視感と「さっきも同じことやったじゃん」という繰り返し感の方が気に触ってしまったのです。
 序盤も、第4場のフーク・ブロック通信社の場面はカットしちゃってもよかったかもしれないし、ゲルダと出会ってすぐ「キャパ」が生まれたことにしちゃってもいいかもしれないな、と思いました。仕事の妨害・迫害をされたから名前を変えキャラクターとプロフィールを捏造した、という流れより、その名前で何をしたのか、ということに焦点を絞った方がいいように思えたのです。
 まあ尺を巻けばいいというものでもないですけれどね…
 そうやってテンポアップしたとしても、題材として宝塚歌劇としてやはり地味だな、と思ってしまいました。パリのデモ場面もスペイン内戦場面もコーラスや群舞は素晴らしいのですが、はて何を争い何と戦っている場面なんだろう?と思ってしまうのです。これは私が色恋好きで戦争とかとなると思考停止するタイプなのが良くないのかもしれないのですが…
 ううーむ。アンドレはカッコよかったんだけれどねえ…
 あと、卒業したいちくんに代わりフェデリコに扮したりくくんがきっちりいい仕事をしていました。
 ずんちゃんとかもよかったな。ちーちゃんは…まあ、おっさんの作りでなくて安心したかな。そしてカイちゃんはこういうしどころのない役はどうしようもないんだな、という感じがしてしまいました…

 自分でもびっくりしたのが、ゲルダみりおんがダメだったこと。
 再演の発表があったときには、ニンからしたらゆうりちゃんよりゲルダに向いていそう!と期待していたのですが…
 なんか真面目で地味できっちりしっかりしたみりおんがやると、私にはゲルダが本当に賢しらで嫌な女に見えて、鼻白んでしまったんですね。ゲルダはゆうりちゃんのあの無駄なまでの美貌と大根と言ってもいいくらいにちょっと一本調子だったしゃべり方で、ちょうどいいキャラクターだったのかもしれない…と思ってしまいました。
 「キャパ」誕生場面のキラキラさやラブラブ感はさすがトップコンビの息の合い方だな、と思ったんですけれどね…
 脚本のせいかもしれないけれど、ゲルダがアンドレのプロポーズを「今は駄目」と断るのも納得いかなかったし。いつならいいんだ、彼女にとって結婚ってなんなんだ、恋愛ってなんなんだ、全然わかんないぞ。宝塚歌劇の主人公たるトップ男役を簡単にふるなよムカつくな、とか感じてしまったんですよ。
 ヤダなあ、もっとすっきり楽しくニヤニヤ見たかったわ…
 個人的にみりおんがタイプでないことももちろんあるのかもしれないけれど、ヘンな偏見はないつもりで観に行ったので、ちょっと驚きでした。勝手な感想ですみません。
 しかしポスターはツーショットの方がよかったと思います。一緒に撮影する時間が取れなかったのかもしれませんが、トップコンビなんだし、なんといっても「キャパ」とはアンドレとゲルダが一緒に作ったキャラクターであり名前であり、ゲルダの方が姉さん女房というか牽引した部分が大きかったはずなんですからね。あの写真だってゲルダのカメラに収められたものだったそうなんですからね。
 しかしそれで言うと今見るとこの題材は某聾音楽家問題を思わせてなかなかモヤりますよね…私はペンネームを使うこととか架空のキャラクター像を立てることはアリだと思っていて、あの事件のある種の詐欺性とは問題が違うとは考えているのですが…
 とにかくそんなワケでなかなかいろいろ考えさせられてしまった観劇なのでした。
 ちなみに八百屋舞台は美しく、特に前半の流れるようなミュージカル仕立ても美しいなと思いました。シャッターが閉じられるように閉まる幕の閉まり方もお洒落で、特にセンターで観たときに綺麗でした。

 エツ姉とエビちゃんのバイト(というかアンサンブル)が素晴らしかったなあ…!


 ロマンチック・レビューは作・演出/岡田敬二。1998年に初演されたものの再演。
 初演は生では観ていません。友会で外れたか、『エクスカリバー』にNO興味だったのだと思われます(笑)。
 だがしかしロマンチック・レビューはいいねやはり! 時に昭和すぎてタルいなと思わないこともないのだけれど、今回はとてもハマりました、すごくよかった!
 プロローグの次がストーリー性のある場面、そして中詰め、さらにストーリーのあるダンス、ゴスペル、フィナーレととてもバランスがいい。間に入る繋ぎの歌唱場面もいい。これで尺が十分あればもう一場面入れられたか、フィナーレをもっとたっぷりできてベストだったと思います。
 なんてったってプロローグで手拍子入れなくてもいいのがいいよね。で、手拍子なくてもちゃんと盛り上がる、そして主題歌が覚えられる。大事! ずっと手拍子ししてなくちゃいけないのってはっきりいって苦痛だしインフレ起こす。この間の『コンタカ』のつらかったこと…!
 シャーベット・トーンのお衣装が上品で美しい。間奏曲の「夢・アモール」はバラードであるべきだと思っているので、後のみりおんのソロ・バージョンのほうが好きですが、これもよかった。
 だがちーちゃんはずっとカイちゃんより上手に置くべきではなかったのか…ヤダなあもう。

 続く「ステート・フェアー」は『ラ・カンタータ!』からの場面。大好きだった! もともとは海外ミュージカル映画の場面なんでしたっけ? でももう可愛くて懐かしくて鳥肌たちました!!
 ヤングガールA6人全員がマジで可愛いのとか異常! 特にあおいちゃんとエツ姉の金髪ぱっつん前髪! エツ姉なんかさらに三つ編み!! タラちゃんエビちゃんアリサにあれは誰!?と思ったら愛白もあちゃん、パレードでエビちゃんとシンメでその可愛さに仰天しましたよ!!
 ここは完全にアグネスのみりおんがメインでフレッドのテルはヒロインの引き立て役、みたいなところが好き(笑)。だから本当は二番手格の男役スターが相手をしてもよかったのかもしれません。

 「そよ風と私」と言いつつ宝塚歌劇以外では許されないとんちきな水玉衣装が楽しすぎる中詰めもよかった!
 続く「ノスタルジア」は…すっしぃさんを使っている場合なのか、というのはある。『クライマックス』で似たことやったやろ、というのもあるし、ちーちゃんでもカイちゃんでもりくくんでもずんちゃんでも使ってやれよ、と思わないではなかったからです。
 でもまあもちろんすっしぃ素敵だったけれどね。暗転オチもいい。

 ロケットは男役のニコニコっぷりにニヤニヤ。
 そして「明日へのエナジー」はやはり名場面! あおいちゃんの歌声が素晴らしい!!
 フィナーレはデュエダンがあまりふたりが絡んで踊ってなかったのがちょっと寂しくて、黒燕尾も短かったのが残念だったけれど、でもとても楽しく清々しく見終えられました。
 やはりショーはいい! レビューはいい!! もっとやるべきですよ、タカラヅカ「レビュー・カンパニー」なんだから!!!


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『滝の白糸』

2014年02月16日 | 観劇記/タイトルさ行
 新国立劇場、2014年2月16日。

 真夏の昼下がり、金沢・浅野川の川原の芝居小屋。楽屋の隅で鏡台の前に座る一座の看板女優・滝の白糸(中嶋彰子)は物思いに耽っている。『夢か現かまぼろしか、私を攫って消えた人…」
 原作/泉鏡花『義血侠血』、作曲/千住明、台本/黛まどか、演出/十川稔。全3幕の新作オペラ。

 原作は未読。『唐版 滝の白糸』とはストーリーが違うことはわかっていましたが、ちょっと興味があったので出かけてきました。
 日本語オペラなのに字幕があって、私はちょっと気が散りました。字幕、苦手なんですよねー、どうしても見てしまうので。原語オペラのときは我慢しますが、来日ミュージカルは基本的に行きません。字幕を見ちゃって舞台のダンスや演技を絶対見逃すので。オペラはそこまで歌手が動かないからまだいいのだけれど…
 でも今回は耳で聴きたいのについつい先に歌詞を目で見ちゃって、なかなか難儀しました。
 それはともかく、日本語のオリジナル・オペラなるものを思えば初めて観たのかもしれませんが、すごくよくできていたと思います。何度かリプライズされるアリア「君は今、奈辺にいるや…」には泣かされました。
 アンサンブルの具合や装置もとてもよかったです。欣弥(高柳圭)の母(鳥木弥生)も南京出刃打ち(清水那由太)もすごくよかったです。ところで「南京出刃打ち」ってナニ?(^^:)

 しかしこれは原作が読みたいな。原告は小説なんですよね、それを戯曲にした『滝の白糸』というのは誰が書いたものなんだろう? それが映画になったり新派の舞台になったりしているそうですが…
 白糸太夫と欣弥の出会いの場面がないのは問題だと思いました。宙組版『風共』か!と脳内でつっこむワタクシ。恋物語において相手ヒロインと相手役男性キャラクターの出会いを描かないなんざ下の下です。原作はどうなんだろう?
 今回の舞台は回想の形で語られます。百歩譲って回想でもいい、でもせめてここに欣弥を出そうよ。出てくんなきゃ白糸が彼のどこにどう惚れたかわかんないって。
 さらに何故馬方だった彼が白糸を乗せて馬で逃げ出し、かつ彼女を置き去りにしたのか? 説明してほしいんですけど…人力車にただ勝つため? たまたま美人を選んだだけ? なんで捨て去るの? 気絶した女を?
 白糸は何故気絶したの? 馬の相乗りがそんなに激しかったの? でも欣弥がカッコよく見えて惚れちゃったんだよね。
 なんかそのあたりの経緯が漠然としか語られないので、白糸は馬方に売られて太夫になったのかとかいろいろ考えてしまいました。私が不勉強なだけで例えば金沢市民にはこの筋はすべて承知のものなのかもしれませんが、ちょっと引っかかりました。
 ともあり白糸は欣弥に惚れた。なにやら学問がありげな凛々しい若者に…
 で、再会する。相手はこちらを忘れていたけれど、話しているうちに思い出す。で、学資がなくて勉強が続けられず、馬方になって母親を養っているが、太夫と相乗りして馬車を置いて走ったことが問題になってクビになり、今は行く当てもないという。
 で、白糸は仕送りを申し出る。ここ、欣弥はどういう意味で受けるんでしょうね。
 テレながらも最後の最後に白糸は言っているんですよ、女房にしてくれとは言わない、可愛がってくれるだけでいい、と。要するに妾とか囲い者にしてくれってことですよね、というかあなたの愛情が欲しい、と言っているのです。
 それに対し欣弥は恩に報いることができるだろうか、というような悩み方しかしていません。彼からしたら彼女との男女のことは考えられないということなのかなあ?
 でもだったらこんな申し出受けちゃダメだよね。いやわかってますよ、彼が切羽詰っていたことはね。でも家族でも親友でも、どんなに親しい間でもお金のやり取りは軋轢を生みます。まして色恋がからむとあっては…彼にそのあたりの覚悟はあったのか?
 私はむしろ彼は白糸の援助をいいことに遊び呆けるダメ男に成り下がる話なのかな、と思ったのですよ。だめんずヒロインの話ならまだわかりやすい。
 でも彼は白糸の援助に感謝してせっせと勉強するし、彼女の恩義を決して忘れない。そして「兄だったら彼女にどうしてあげるだろう」みたいなことを歌うのだけれど、でもこの「兄」って妹背の兄じゃないんだよね、あくまで肉親チックなの。でも何故「兄」なんだ、おまえの方が年少者だろう!
 白糸が「姉だったらあなたにどうしてあげるだろう」みたいに歌うのは、彼女の方が年上だからだし母性愛みたいなものもあるからわかるんですよ。妻だったら、とは歌えない。身分(階級というより社会的階層?)違いだから一歩引いているのです。
 でも彼女は彼に愛を求めているし愛ゆえに金を工面している。では彼は彼女に何を捧げていたのだろう? ただの感謝? 立身出世の暁に、彼は彼女に対して何をどうするつもりだったのだろう?

 あらすじとして、検事になった欣弥と容疑者の白糸が法廷で再会する、ということは知っていました。だから白糸が犯す犯罪とはどんなものだろう、とと思って観ていました。
 絶対に早晩のうちにお金に困ることになるから、金をタテに関係を迫るヒヒオヤジとかが出てきてもめているうちに刺しちゃう、とかかな、とか思っていたら、南京出刃打ちが大金持ちの話を持ち出すのでこれか!と思いました。
 ところが話は意外な方向に転がり出し…結果的に白糸は、なんの罪もない老夫婦を殺めてしまうのでした。これはけっこうしんどかったなー。

 で、法廷で再会するふたり。容疑を否認していた白糸は真実を告白し、欣弥の母親は情状酌量を頼むような証言をする。彼女に「あなたは私の娘です」みたいなことを歌われて、白糸はどれだけ嬉しかったことでしょう。それは「嫁」と呼ばれることとは違っていたのかもしれません。でもおそらくこのとき白糸には身寄りがいなかったのだろうし、好きな人の母親ということ以上に自分の母親に思える人を欲していたのでしょう。
 欣弥は泣いて、しかし死刑を宣告するしかない(というくだりはなかったのですが、そういうことだと思われる)。白糸も罰を受け入れる。

 牢獄で柵を挟んで再会するふたり。
 実は最終的に欣弥は自殺する、ということもあらすじを読んで知ってしまっていました。
 しかし私は、それは白糸が縛り首なりなんなりになったあとにしてほしい、と思っていました。少なくとも白糸に彼の死を知らせないでほしい。白糸の犯罪を自分の責任に感じ、白糸の死刑を自分の責任に感じ、彼が死んでケリをつけようと考えるのは理解できなくはない。死ぬ気で生きて働け、それが贖い、償いというものだ、ということもできるけれど、お話としてはこういう流れになる、ということもわかる。
 でも白糸は彼のために何もかもやったのだから、彼が死んで何もかも無に帰するのを見たくはないだろう。だからせめて彼女には見せないでやってください世、彼女の死後のことにしてくださいよ、と思っていたら…
 舞台下手に牢獄の白糸、舞台上手に自分の執務室らしき場所に帰った欣弥を置き、欣弥が銃を取り出して(どうしてこの時代には銃がゴロゴロしているのか。銃がないということだけでも現代日本の素晴らしさを痛感する)自分の頭につきつけ…暗転し…終わりました。
 銃声が響くことはなかった。すぐ拍手になっちゃいました。
 え? それでいいの? 銃声が入らなきゃダメじゃない? だって彼が自殺したんだってわかんなくない? それても金沢市民はみんな知っていることだからいいの? ええええ???
 でも私はやっぱり、せめて暗転は白糸の方を早く、そしてそのあと頭ふっ飛ばして倒れる欣弥を見せてから暗転…でもよかったのでは、と思いました。

 というわけでラストに歌われる二重唱はとても美しいのだけれど、やっぱり白糸は愛を歌っていて近弥は恩義を歌っているので、なんかもうせつなくて悲しくてやりきれなかったです。
 女が男の犠牲になる、という意味では『ミス・サイゴン』に近いやりきれなさ、後味の悪さもあるかもしれません。もう少し説明があれば、でも仕方なかったのかもしれないな、でもせつないな、という感じで泣けたかもしれません。客席からはけっこう啜り泣きが聞こえました。
 でもなあ…これを古いとは簡単には言いたくないのだけれど…今なおもてはやされるのはなんなんでしょうね…
 女だって男に無償の愛を捧げているわけではないんだと思うんですよね。女は彼が若くて男で勉強が出来る東京の学生さん、だったからこそ愛したのでしょう。要するに彼は自分がなりたかった自分だったのです。彼が優しかったからとかハンサムだったからとかは後回しなんですよ。彼女は彼に自分の嫁を託したのです。それで愛したのです。だから男女の愛としては不順だったと言える。
 だから申し出を受け入れた男を安易に罵倒することはできません。彼は常に感謝し恩義に報いようとしていたのですから。そして彼が立身することで彼女は十分報われていたのですから。
 だから恋愛的にハッピーエンドに至る道などそもそも最初からなかった関係ではあったのです。ただそこに途中に、余計な事件が起きてねじれてしまっただけで…でもそれはある意味で必然なことだったのでした。
 そして罪を犯した白糸とともに欣弥もまた死ななければ、確かに殺された老夫婦への贖罪とはなりえなかったでしょう。彼らは本当に無辜の人間だったからです。そんな悲しい、しんどいお話なのでした…

 ううーむ。しかしこれがどうして唐版になるのだ。みんなそんなに水芸人が好きなのか。とりあえず今回の水芸には本物の水は使われていず、何がどう水芸で滝の白糸なのかわからなかったのではないかと思いました。その点では勝っていたよお甲さん!(笑)





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『花子について』

2014年02月15日 | 観劇記/タイトルは行
 シアタートラム、2014年2月12日ソワレ。

 古典の知恵や洗練を現代の舞台創造に還元する「現代能楽集」シリーズ第7弾。『葵上』は同名の能から、『花子』は同名の狂言から、『班女』は三島由紀夫「近代能楽集『班女』」を下敷きにそれぞれ脚色。
 作・演出/倉持裕。全3幕。

 能の『葵上』はコムちゃんの朗読を目当てに行ったことがありました。この舞台でも、近藤公園の夫や西田尚美の妻はいるけれど、主役は六条御息所にあたる「女」で、黒田育世と宮河愛一郎が、ふたり一役というかなんというか…で演じていました。
 舞台は現代に置き換えられているようで、要するに不倫の愛人の話なのだと思うのですが、情念を踊るモダンバレエのようで、装置や照明の効果が美しく、スリリングでした。

 『花子』はさすが狂言が元になっているだけあって、ソープオペラという感じに仕上がっていました。夫の小林高鹿の意外な(?)ショースターっぷりがすごかったです。妻は片桐はいり、風見が近藤公園。この苗字は風見鶏から来ているのかしら…
 このときの愛人の名前が「花子」だったのと、続く『班女』の花子(西田尚美)とは同じなのかな。待つ女、ということだったからやはり愛人だったのでしょうか。彼女を支える、というか囲う、というか、なまたない女・実子が片桐はいり。花子に待たれる男・吉雄は近藤公園。
 これまた現代に翻案してあって、SNS実況とかブログの使い方が怖いのなんのって…そしてまた最初の『葵上』に還っていく作りになっているようにも見えました。シュールで悲しくてせつなくて美しかったです。

 縁あって舞台制作のお話なんかが聞けたのもとても楽しかったです。
 私の本業は編集者で、著者と一緒に作品を作ることが仕事なのですが、一緒にと言うのはおこがましいな、作品を作るのはあくまで作者なので、そのサポートとかプロデュースが仕事、かな。
 で、環境的にとても恵まれているので、作品を作ってしまえば、宣伝したり販売したりは別のルートで別の担当者がやってくれるようなところがある。そして売れたか売れないかの結果は結局、作品ないし作家にかかって黒子の自分には影響がなかったりする。
 そういう自分からすると、ほぼゼロから企画して何もかも自分で揃えて舞台というひとつの形に仕上げていくようなお仕事は、魔法のようにも思えるのでした。
 でも私は漫画の次に舞台が好きだな。小説とか映画より好きです。その理由の一部が覗けた気がした語らいの場が持てました。

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『翼ある人びと』マイ初日雑感

2014年02月15日 | 観劇記/タイトルた行
 ドラマシティ公演の初日翌日の夜公演、つまり通算第三回目の公演を観てきました。
 ありがたいことにご縁も多く、実はもっと多く観ているのですが、本当は私はモットーとしては本公演は二回、それ以外の公演は一回観れば十分、と考えているのです。十分、というのは語弊があるのですが。舞台は毎回違うものだしね。
 でも全部観ることなんてできないしできたとしてもそれがものすごく意義あることかというとまた違うと思うし、時間もお金も有限だしとかまあいろいろあって、私としてはそんなふうに考えているのでした。
 ただこの公演は珍しく友会が青年館公演を二度当ててくれて(たいてい一度しか当たらない)、かつ青年館が待てずにドラマシティ公演をギリギリに一般発売で買ってしまいました(あっきー茶が西であったからということもあるんだけれどそれはナイショ)。
 というワケでそもそも複数回観ることが確定していたのでした。
 で、普段だったら、マイ楽後に感想をブログにまとめるのですが、今回は初見ですでに言いたいことが溢れてしまいました。だから書いてしまいます。
 一回観ただけの、現時点での、ごくごく個人的な、感想ともつかない、もちろん批評とか劇評なんかでは全然ない、所感、雑感です。日記です。
 簡単にいうと「私は物足りなかった」という話なので、感動した、号泣した、一点の曇りなく大満足だった、という方には読むのをオススメできません。それでも読んでみたいわ、と思っていただけるのなら、最後まで読んでいただけると幸いです。だいぶ脱線しますし、最後まで読まないと単にクサしているわけではないのだ、ということがわかっていただけないと思うのです。毎度言い訳がましくてすみません。
 でもこの公演が複数回観られることになっていてよかった。マイ初日=マイ楽、だったら寂しかったと思います。今は早くもう一度観て、またいろいろ考えたいし、違った印象を得たいな、得るんだろうなと思っているのです。
 私にとっては「おもしろかった」と一言で言って終われるものと、「つまらなかった」と一言で言って終われるものと、そういうこととは別にとにかくねちねちねちねち語らないではいられないもの、とがあるのかもしれません…
 あ、ちなみに完全ネタバレで語ります。未見の方はそのあたりもご了承ください。

***

 私はミーハー・クラシック・ファンですが楽器も弾けないし楽譜も読めないし音楽史にもくわしくありません。
 でもシューマンの妻クララが美人でピアニストで作曲もした女性であること、ブラームスがシューマンに師事したことがあること、ブラームスがクララに懸想したとかしないとか未亡人になった彼女を支えたとかなんとかいったエピソードがあること…は、知識としては知っていました。そんな映画もありましたしね。
 だから演目発表があったときに、当時はまぁ様が主演でヒロインがゆうりちゃんであることしか発表されなかったと記憶していますが、つまり主人公のヨハネス・ブラームスをまぁ様が演じ、ゆうりちゃんがクララ・シューマンで、振り分けも配役もまだだけれどおそらくクララの夫ロベルトとの三角関係の話をやるのね、だって宝塚歌劇だもんね!とまでは考えてしまいました。
 そう、私は宝塚歌劇たるもの、トップトリオで三角関係メロドラマをやるべきであると固く強く考えている人間なのです。イヤまずはレビューだろとかそんなドロドロした恋愛ものばかりじゃなくてもええやろとかの意見があることは知っています。でも私が宝塚歌劇で観たいものはそういうものなの。まゆたん言うところの「大恋愛もの!!!!!」なの。
 で、ロベルトがキタさんとなったときに、やはりちょっと『ニジンスキー』のディアギレフを想起してしまったこともあって、おおっと喜んでしまったのでした。

 男役トップスターと、トップ娘役と、二番手男役(本公演以外の公演なら、それぞれその格にあたるスター)の三角関係。男ふたりに女ひとりのメナージェ・ド・トロワ。もっとも盛り上がる構造だと思います。宝塚歌劇の観客は圧倒的に女性が多いのですからね。
 男のひとりと女は兄妹とか姉弟とかなんなら父娘とかの肉親でもいいかもしれません。そこには恋愛感情以上に濃く複雑な情愛がある場合もありえるからです。
 女を挟んで対峙する形になる男ふたりは、恋敵でもいいし、たとえば親友同士でもいい。兄弟というのもおもしろい。あるいは恋愛以外にも仕事だのなんだので対立する要素があったりするのもいい。
 とにかくそういう緊張関係の中での人間ドラマ、恋物語が観たい。それが私の基本的な願望としてまずあるのです。

 で、宝塚歌劇とは別に、私は映画やテレビドラマや小説や漫画などのフィクションもそういうものを好んで探しているようなところがあるわけですが、それで以前から考えていたことがありまして。
 このときの男ふたりに、年齢差や社会的地位の差が大きくあった場合、また違ったドラマがあるよな、ということです。まあそもそも完全に対等ということはありえないのだけれど。
 人間は社会的動物であり、女同士は横並びにべったりつながることを好みますが、男同士は常に上下関係を考え、どちらがアタマを張るかという優劣を付けたがりますよね。
 これは獣の名残なんでしょうかね。まあたいてい群れというものはオスのボスをアタマに多くのメスが集ってハーレムを作り、他に群れにいるオスは大人になる前の、乳離れのすんでいないような子供のみです。大人になったオスは群れを離れてメスを集めて自分の群れを新しく作るか、群れのボスを襲って追い出しその群れを自分のものにするしかない。人間のオスは文化文明を手にして何万年とかたっていてもこの名残のままに今の社会を作り、常に戦っているのでしょう、今も。イヤ私は女なのでホントのところはわからないわけですが、私にはそう見えます。
 だから男と女と若い男がいたときに、男ふたりは女を取り合うこととは別に、もしかしたらそれ以上に、男同士の間に屈託を抱えることがあるよね、ということなのです。
 若い男は年長の男に打ち負かされ、でも尊敬し敬愛し、あんなふうになりたいと憧れ、取って替わりたいと願い、打ち勝ちたい、と思うものなのではないか、と私は思ってしまうのです。
 だから、女を欲するのではないか。年長の男のものである女を奪いたいと思うのではないか。今は勝負に勝てないから、せめて女を掠め取ってやりたい、という心理が働くのではないか。若い男が女を愛するときに純粋な恋愛感情だけではないこともあるのではないか。
 若い男が女を愛し奪い抱くときに、彼は女を通して年長の男を組み敷いている気分になっているのではないか。そうして勝っている気になっている部分があるのではないか。
 あるいは若い男が女に愛されたいと願うときに、彼は女を通して年長の男に愛されたい、認められたいと思っているのではないか。勝てないならいっそ抱かれたい、そういう形で負けを認めたい、と思っている部分があるのではないか。
 この形の三角関係は、女がふたりの男からモテて困っちゃうでも嬉しいわキャッ!みたいなオモテの楽しい(笑。つまり女にとっては、ということですが)部分とは別に、そもそも当の女をないがしろにするような、女を通して実は男同士が戦っているようなあるいはツルんでいるような、要するに愛し合っているような、そういうほの暗い(女にとってはつらい)ウラの部分があるのではないか、と私はずっと考えてきたのですね。

 ただ、観客・視聴者・読者、要するに物語の消費者が女性である場合、このウラ面をあまり強調するとウケません。そらそうだ、女が男に都合よく利用される話なんざ女は好きません。
 でもオモテ面だけで作られてもちょっとアタマ悪くて大人の鑑賞には耐えられないかもね、とも思います。その匙加減は難しいと思います。私なんかウラをやられすぎたらかえって引くしね。
 そのあたりは、期待しすぎず、また構えすぎず、フラットに観ようと思っていました。こういう話になるとは限らないんだし、とね。
 作・演出の上田久美子先生は、デビュー作『月雲の皇子』は確かに出色の出来だったけれど瑕瑾もあったと私は思っているし、それでも二作目にはやはり期待してしまうし、でも勝手に期待しすぎてハードルを上げるのも良くないし、ハードルを下げすぎるのも良くない。
 とにかく、あるものをあるように普通に観よう…とは思っていたのです。初日の好評はツイッターなどで聞いてはいましたが、それでも、なるべく、フラットに。
 まあ私はフラットを心がけすぎるとやや減点主義に傾きがちだという悪い癖があるんですけれどね…(^^;)

 で。
 私は、物足りなかった。
 観たいものが観られなかった、とか、観られるかもしれないと思っていたものが観られなかった、ということとはまったく別にして、物足りなかった。だってそれはこちらの勝手な思い込みなのだから、それがなかったといって文句を言うのは間違っているとはわかっているのです。
 でもではそこに代わりに観たものはなんだったのか、という話です。代わり、というのは僭越ですね。でも舞台にあったものは…私には、薄すぎた。淡すぎた。物足りなかった。
 で、え? これがやりたかったの? 本当に? と思ってしまった。
 これがやりたかったのか? これでいいのか? これがいいのか?
 だとしたらこれがジェネレーション・ギャップってこと? 最近の若い人は淡白だっていうからねえ、とかいう、アレ?
 それとも私が何かを読み取りきれなかっただけなのか?
 それとも実はもっと違う何かを内包していて、それが出て見えてなかっただけなのか? だったら演出や演技の問題なのか?
 え? わからない。
 だから、語りたくなってしまったのです。

 プラトニックで全然かまわなかったと思います。むしろ私はその方が好みです。なんならキスシーンもなくてもよかったかもしれないけれど、うーんでもそれはやはり宝塚歌劇的にはあってよかったか。サービスとして。
 でも肉体関係が実際にあろうがなかろうが精神的不貞の方が問題だ、云々みたいな台詞が劇中にあったかと思うのですが…それ、あった?
 つまり不貞という言葉が強すぎるとして、でもそういう恋愛感情とか情熱とかが…あったかなあ? てか要するに全体に色気が、情感がなさすぎないか? 端整すぎないか?
 だから私には一幕ラストのヨハネスの台詞はちょっと唐突に思えました。ヨハネスにはクララへの情愛がある程度あるように描かれていたと思いましたが、それは恋愛感情というにはあまりに儚く淡いもので、だからあんなふうに愛だと認めて叫ぶとは思わなかったのです。
 むしろヨハネスに関してはこの淡いくらいの感じがいいのかもしれないな、とは思いました。だって彼は結局は誰とも結婚しなかったのだし、愛を選ばなかった人として生きた、ということなのかなと思えたからです。彼はベートーヴェンが築き上げその後の誰もが忌避した「交響曲」という高い山をひとり登り、その頂のその向こう、広い空に大きく羽ばたいた人なのだから。寂しい天才は地上の恋愛とかそれこそ痴情には捕らわれないものなのだろうから。
 でもクララは残った。ではこの舞台のクララはヨハネスに何か思うところがあったのだろうか? 私にははっきり言って何も読み取れませんでした。
 もうちょっとよろめいてもいいんじゃないの? そして苦悩してもいいんじゃないの? なんか…普通すぎないか?
 そしてロベルトも、普通にいい人すぎたのでは? 老いて病に侵されベートーヴェンを超えること叶わず、かつての栄光はあったとしても取り戻す術なく、しがなく妻の稼ぎに頼る暮らしの中で、才能の片鱗を見せる若い男に出会ってしまった年長の男として…もっと何かなかったのか? 要するに嫉妬とかの苦悩が、もっと?
 かつてディアギレフをああも演じた人が演じられないわけはない。ということはこれはそういう芝居の方向性であり、演出家のそういう演技指導だったのでしょう。
 え、でもホント? ホントにそれでよかったの?
 少なくとも例えばゆうりちゃんに関しては、単に演技がヘタだっただけ、とかいうことはない? ファンの方すみません、しかしこれが例えばゆうみちゃんだったら? 漂う情感はもっと違くて、もっと違うキャラクターになったのでは?
 でもあえてそうしなかったってことですよね?
 え…でもそれって…物足りなくない?

 美貌の人妻の淫らなよろめきを見たい、とかそういうことではなくて、ですね。
 いや、私はクララは実際に幸せだったと思うのですよ。というか私にはこのクララは幸せそうに見えた。
 ともに音楽を愛しものする愛する夫とともに、三人の子供に恵まれ、経済的にはやや苦しくて小金を稼ぐためピアニストとして演奏旅行に明け暮れて忙しく、帰宅したらしたで家事に忙しくてゆっくり作曲に費やす時間もなく、それをちょっと不満に思わないでもないけれど、でも夫と子供と平穏に暮らしていければそれが一番幸せと考えていて、現にそれができている女性。
 私には彼女がそんな人間に見えました。老いた夫に性的に不満を感じているとか、音楽的才能を発揮できなくて鬱屈しているとか、そういったことは微塵も感じられませんでした。
 そして私はそれがいいとは思ったのです。クララが不幸だったからヨハネスに惹かれたのだ、みたいな流れは陳腐だと思うから。幸福で充足していてなお、人の心は揺れることがあるし恋に落ちることもある、というドラマを見たかったのかもしれないし、そうでなくても別に見られるドラマはあったと思っていたからです。
 でも…ドラマ、ありました? つまり、クララの心って、それが何に対してであれ、なんの理由であれ…揺れました?
 揺れなきゃ話は始まらない。話が動かない。ドラマにならないのです。
 友人の紹介で、夫をひとりの青年が訪ねてきた。貧しそうで不器用そうで生きるのが下手そうな若い男。だが才能の片鱗が確かに見える。自分より、もしかしたら夫よりも。かの偉大なベートーヴェンに匹敵するかもしれない才能が。
 だから夫とともに彼に手を貸し、彼を導き、彼が世に出る手伝いをしてやりたいと思う。それが年長者の役割、義務だから。音楽家として身を立てることは権力者に阿ったりなんたりと面倒なこともたくさんあるけれど、それが生きるということだし、自分たちはなんとかそれをやってきて今もなんとかなっているのだし、だから未だそれができずにいてそのやり方もわからないでいるらしい若者には手を貸してあげなければならない。自分たちもまた助けられてきたのだから。
 それに彼はうちの子供たちと同じ、ちょっと大きくなっただけのまだまだ子供なのだ。導き育ててやるのが大人の務めだ。母親の義務だ。たとえ歳は実はそう違わなかったとしても(史実ではクララはヨハネスより14,5歳ほど年長ではなかったか? 結婚が早い当時からしたら確かにこれは親子に近い年齢差であったろう。しかし今回は4,5歳ほど年長にすぎないイメージだそうだ)、彼は子供で私は大人だ。たとえ彼がちょっとハンサムだとしても。
 …以上、終了。…に、見えませんでしたか? でもそれって普通すぎて、あたりまえすぎて、つまらなくないですかね?
 例えば彼の才能に怯えるとか、あるいは嫉妬するとか、そういう部分が少しくらいあってもよかったのでは? 子供や家庭に縛られざるをえない女の自分と違って、その気になりさえすればどこにでも行けてなんでもできてなんにでもなれるはずの男の彼が、ただうちにいて子供たちの相手なんかしてそれでけっこう楽しそうにしていることにあきれたり苛立ったりすることがあってもよかったのでは?
 彼が自分に向けてくる視線に気づき、とまどい、困惑し、嬉しかったり優越感を感じたり、怯えたり迷惑に感じたりすることがあってもよかったのでは? 現状、ないですよね?
 クララは揺れない、迷わない、充足している。足りないものがあったとしてもそれでよしとしていて幸せにしている。むしろヨハネスの方が勝手に彼女をかわいそうがっているように見えます。でもそれはいいんだよね、恋ってそういうものだと思うから。
 でもそれにクララがまったく応えないのなら、何も始まらないじゃないですか。え? それでいいの???

 そしてロベルト。ヨハネスに対していい人すぎない?
 才能ある若者を伸ばしてやりたいと思う一方で潰してやりたいとも思ってしまうのが人間なんじゃないの? そんな葛藤はないの?
 妻に向けられる若い男の視線に男がまったく気づかないなんてことがあるのか? その男がすでに妻に対して関心を失っているのならともかく、まだまだ愛し慈しんでいるというのに?
 美人で才気溢れる妻のことが男は自慢なはずです。妻が他の男から関心を寄せられてもそれすら自慢であったりもするでしょう。そんな美しい妻を持つ自分、というものが誇れるわけですからね。
 でも若い男の関心があまりに強すぎたら? そしてその男に自分をも凌駕する才能が見られたのだとしたら? そして自分は病に侵されていて先が見えず、妻を残して去ることになるのかもしれないのだと薄々感じ始めていたのだとしたら? そうしたらもっと思うところがあるはずなのではないか?
 わざと自分たちの仲を若い男に見せつけるとか。逆に妻と若い男をあえてふたりきりにしようとするとか。そういう自虐、ありますやん。奪われるくらいならいっそ自分から与えたい、投げ捨てたい、みたいな。でも実際やられたら死ぬほど怒り狂うんだけど。
 例えばそういう葛藤、なかったですよね? なくていいの? 自分の病しか見てなくない?
 そしてクララのことを抜きにしても、若く才能に溢れた男への嫉妬と憧憬、みたいなものはあってもよかったのでは? かつての自分のような輝きに溢れた若い男を見るとき、男の胸に去来するものがもっと何かあるんじゃないの?
 その才能を愛する一方で憎み、潰したい邪魔したいと思い、なり代わりたいとも思い、首を締めたくなったりはたまたキスしたくなったり…しない? 奪ってやりたい、壊してやりたい、駄目にしてやりたい。逆に自分が追われ壊され駄目にされるというならむしろ自ら進んでそうなりたい、彼にひれ伏し足蹴にされて捨てられたい。要するに愛されたい。
 …そういうの、ない? え? 私が病んでるだけ?
 でもあんな連弾場面があってあんなになんにも漂わなかったなんて、はっきり言って私は許せなかったわー。
 だってディアギレフだったキタさんだよ? そして相手はブリドリ・ネクストですっしーを誘惑した(オイ)まぁ様だよ?
 いや私は別にBLを求めているわけではないので、今回のまぁ様は別におじさまを誘惑したりしなくていいです。てかヨハネスは天然でいいと思う。てかもっと天才演出をしてもよかったと思っています。
 だってその方が全体のお話としてもわかりやすくなかったかな? 上田先生はプログラムでベートーヴェンが一番好きだと語るくらいだからクラシックにもお詳しいのかもしれないし、だからこそ史実に捕らわれたりそれこそブラームスを天才だとは考えていなくてああしたのかもしれないけれど、でも簡単に言って天才と秀才ないし凡人の対立の話にしちゃった方がベタだけどわかりやすかったのではないかと私は思う。
 つまり『翼ある人』にするべきだったのではないか、ということです。そういう天才ブラームスの話、にするべきだったのではないか、ということなのです。
 でもタイトルは『翼ある人びと』であり、上田先生は翼は誰にでもあるものだと考えているということなのだろうし(少なくとも翼を持つ者は複数いるということではある)、つまり今の話にしたくてしているのだろうと思うので、だから私が言っているのはただのわがままなのですが、でもそれじゃない話の方が良くない? 今のままだと今ひとつつまんなくない? ってことなのです。

 翼、とは要するに才能のことなのでしょう。でもロベルトとクララがヨハネスに翼を片方ずつ与えたのではないのではないかしら。ヨハネスはそもそも翼を持っていたのです、彼らよりもずっとずっと大きく、遠くまで飛べる翼を。
 でも飛び方を知らなかった。若かったから、不器用だったから。だから彼らは飛び方を教えて、羽ばたいて去る彼を見送った。
 そして彼らは幸せに死に、大きく広く美しく寂しい空を孤独に飛んだ彼は…はたしてそれで幸せだったのだろうか?
 …そういう話にするべきだったんじゃないの?
 そして観客の多くは凡人だという自覚があるから、客席の彼方に去る天才ではなく、舞台に残って彼を見送るヒロインの方に共感して涙する。
 彼とともに行きたかった。夢見たこともあった。でも行けない。子供たちがいるし、自分にはそんな大きな翼はないから、天才ではないから。そしてもしも翼があったとして、羽ばたく勇気が自分にはあっただろうか。だって愚かな男たちと違って賢い女たちにはわかるのだ、広い空に幸せはないことを。そこは孤独で静寂で、寂しい世界であることを、飛べる飛べないにかかわらず、飛んだことがないにもかかわらず、知っているのだ。それでも飛び立つ勇気はおそらく女にはない、ささやかでも地上の幸せを望んでしまうのが女なのだ…
 という話は、どう? やりすぎ? わかりやすすぎ?
 でもだったら私は泣いたな。私は泣きたがりすぎていますか? それとも私の涙腺ポイントがおかしいということなのか?

 ルイーゼもまたよくわかりませんでした。
 実在した人物の名を借りた架空のキャラクターということですが、実在の彼女の部分とはどこなんでしょうね? クララの弟子であったこと? ヨハネスの遺品を処分したこと?
 架空扱いするならもっとキャラ立てした方がよかったと思います。中途半端に見えました。演出のせいか、それともれーれの演技のせいなのか?
 そもそもルイーゼっていくつなの? クララとは女友達なの? あくまで師弟なの? どちらに比重が大きい関係なの?
 いいとこのお嬢さんのようだけれどピアノを手慰みでやっているつもりはない、でも音楽家として立っていけるほどの才能はない、ということなのですよね? だったらそもそもクララに対する愛憎の屈託がもっとあるべきなのでは?
 そこにヨハネスが現われ、彼に惹かれ、彼がクララに注ぐ視線に気づき…そうしたら、なんかもっと、濃いものが立ちのぼるものなんじゃないの? なのになんか薄かった。通り一遍に見えた。
 彼女もまた観客の感情移入をもっと誘うキャラクターになれたと思うしなるべきだったと思うんだけれど…そしてこういう役をれーれにやらせていていいのかという問題も感じたけれどそれはまた別として…
 とにかく、物足りなかったのです。
 あと、貴族だとかなんだとかでヨーゼフとは身分の違いがあるとかにしておかないと、彼がああまで身を引く理由が納得できないと思いました。彼にとっては音楽が一番で彼女の一生を背負えないから、ということなのだろうけれど、現状では言い訳がましく見えるというより単によくわからないままになってしまっていると思いました。
 それ以外ではヨーゼフの立ち位置はとてもわかりやすいし効果的だし、2幕のヨハネスとの殴り合いの場面なんかは実にいいと思いました。彼にはヨハネスの天才がわかるから、だからフラフラしている彼が歯がゆいんだよね。そして見捨ててはおけないの。いいヤツ!
 フランツ・リストの立ち位置もおもしろかったしとてもよかった。このあたりはいい仕事をしていたのになー。『月雲』ほど芝居を締める年長者の脇キャラクターはいなかったけれど、その部分は彼らが負っていたのでした。

 実在の人物を扱った作品にありがちな、ああいうことがあってこういうことがありました、みたいなとおり一遍の伝記になることなく、きちんと「お話」になっていたところはものすごく高く評価したいなと思いました。これが意外にできていない作品は世にごまんとあるので。
 でもとにかく私は泣かなかった、泣けなかった。
 それは私のただのわがままなのかもしれません。次観たときには全然違うことを言い出すと思います。
 でも今は、何故泣けなかったのか、どこが物足りなく感じたのかということを考えずにはいられなくて、書いてしまいました。
 舞台が描いているものは何か、泣いている観客が観ているものは何か、考えずにはいられませんでした。
 考えたところが正しいのかどうかよくわからないし、だから今は再度の観劇が楽しみです。観た人とも語り合いたいなー。
 そういう魅力に溢れた作品でした。









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