駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『屋根の上のヴァイオリン弾き』

2021年02月27日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 日生劇場、2021年2月25日17時。

 帝政時代のロシア、忘れられたような寒村のアナテフカ。村の片隅にはユダヤ人たちが住む集落がある。テヴィエ(市村正親)は酪農業を営むお人好しの働き者。信心深くて、楽天家で、五人の娘たちを可愛がり、25年連れ添っている妻のゴールデ(鳳蘭)には頭が上がらない。貧しいながらも幸せな家族だった。娘たちのうち上の三人、長女ツァイテル(凰稀かなめ)、次女ホーデル(唯月ふうか)、三女チャヴァ(屋比久知奈)の最大の関心事は、結婚。今日も仲人婆さんの異名を取るイエンテ(荒井洸子)が縁談を持ってきて、娘たちは気もそぞろ…
 台本/ジョセフ・スタイン、音楽/ジェリー・ボック、作詞/シェルドン・ハーニック、オリジナルプロダクション演出・振付/ジェローム・ロビンス、翻訳/倉橋健、訳詞/滝弘太郎、若谷和子、日本版演出/寺崎秀臣、共同演出/鈴木ひがし、日本版振付/真島茂樹。1964年ブロードウェイ初演、67年日本初演。市村テヴィエは04年、鳳ゴールデは09年からの登板。17年の公演から一部キャストを変更しての上演。全2幕。

 20年ぶり二度目の観劇でした。前回の感想はこちら
 細かいところをいい感じに忘れていたので、楽しく観られました。ロシアと聞けば最近だと『アナスタシア』、ユダヤ人と聞けば『Oslo』ですが、そりゃこうやって何度も故郷を追われればついにはあそこに帰ってイスラエルも建国しちゃうよなと思うし、追い出した側も革命が起きれば今度はロシア人同士で追い出したり出されたりされるんだから…と悲しくなったりしました。
 この小さな島国で比較的のんきに過ごしてきた我々日本人にとって、こういう、異教徒や異民族との軋轢とか、それでも育まれる友情や愛情とか、それでも降りかかる理不尽とそれでも神を信仰すること…なんかを真の意味で理解することはなかなかできないことなのかもしれません。でも、家族の細やかな愛情とか、隣人とのつきあいとか、普遍的にわかることもたくさんあります。わりと出演者の多い舞台で、それでもそれで村民の全部が描けてしまうような小さな集落のつましい物語で、とても民族色豊かに演出されていると思いますが、遠いエキゾチシズムだとも思わないし、単なる他人事のようだとも思えない、とても豊かで愛らしくいじらしい作品だと思いました。背景が半円に切り取られていて、そこにいつも大空が写されていて、最後にその半円が取り払われて寄る辺ない感じになるのがなんともせつなかったです。あの半円は、そこだけは神様に守られている小さな世界、というイメージを作り出していたんですねえ。
 彼らの暮らしは確かに前時代的な、古臭い家父長制の、窮屈なものに一見思えます。でも結果的にテヴィエは娘たちがしきたりどおりの結婚をしないことを認めるし、日々の暮らしを支える古臭いしきたりなるものの根底にあるものはつまりは愛情や知恵といったあたたかで優しいものなのだ、ということがよくわかる物語です。たとえ人生なるものが屋根の上でヴァイオリンを弾くがごとく危なっかしいものであっても、上手くバランスを取って、楽しみながら、続けるしかない。それが人間の営みで、人々はそうして生きてきたし生きていくのだ…諦念とも希望ともつかない、ただ淡々としたラストが、しみじみとせつなく、沁みました。
 最後にテヴィエに呼ばれるヴァイオリン弾き(日比野啓一)はずっと、私はイマジナリー・キャラクターみたいなものなのかしらと思っていたので、あっ見える設定なんだ?とか驚いちゃったのですが、むしろ家や土地に憑く座敷童みたいなもので、人々が家や土地を捨てて去るのだから人について来いよ、とテヴィエが呼んだのかな、とか思いました。そしてヴァイオリン弾きが憑いていてくれるなら、彼らはきっと大丈夫なんだと思えたのです。ポーランドも、シベリアも、アメリカも、遠い。けれど、きっと、大丈夫。そんな、美しい物語だと思いました。

 休憩込み3時間半の尺のわりにナンバー数はそんなには多くないミュージカルで、でも1曲1曲が、大曲というよりは単に長い、というのはあるかな。でも巻いて短くコンパクトにすればいい、というものでもないんだろうな、とも思います。飽きて退屈した、ということは少なくとも私はなかったです。
 ヒロインとしてはツァイテルよりホーデルなのかもしれませんね。唯月ふうか、私は初めて観ましたが、9代目ピーターパンとのこと。前回はチャヴァだったんだそうな(そしてそのときのホーデルは神田沙也加だったとのこと…みみみ観たかった! 好きなんだ!!)、そういうのもいいですよね。すごく声が良くて、もっと別のミュージカルも観てみたいと思いました。
 一応お目当てとしてはツァイテルのテルだったのですが、まあ背が高くて顔が小さくて、こんなすらりんとした田舎娘あるかい!とは思いましたね。でもとても上手く、おとなしいけど意外と頑固な長女、をいじらしく演じていました。
 市村テヴィエは、過剰に頑固親父だったり愚痴っぽかったりするところもなく、フツーのおじさんで、そこがよかったです。鳳蘭も、別に歌はあいかわらずなんか変な声なんだけれど、いい感じの肝っ玉母さんでチャーミングでした。でもこのあたりも、もっと若い役者がやってもいいのでは、とは思ったかなあ…せいぜい四十絡みの年齢設定なんじゃないのかなあ? ま、今の四十よりは老けて作る必要はあるかと思いますけれどね。
 かつては現代の観客には、こんなふうに「これが今生の別れかもしれない」と思って離れていく家族、というものはちょっとピンと来づらかったかと思いますが、コロナ禍の今、感染して病院に入ってそのまま亡くなりでもしたら十分ありえることなので、そうしたこともリアルに感じられて、より沁みる、今観られるべき作品のひとつになっているのかなと思いました。愛知、川越公演もどうかご安全に…




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『太王四神記』~韓流侃々諤々リターンズ25

2021年02月24日 | 日記
『太王四神記』~韓流侃々諤々リターンズ25

 2007年MBC、全24話。

 私は2001年の『冬ソナ』再放送で韓流にハマり、以後十年にわたり主にドラマと映画を見てソウルに旅行しまくっていました。このドラマに関してもペ・ヨンジュンの当時の最新作ということで見ていました。そして宝塚観劇に関しても、2001年が最も観ていない年だった記憶です。月全ツ『ダル湖』を生で観ていない話はしましたが、大空さんの月組ラスト作の『ハリラバ』も見ていないし、花組に異動して最初の本公演『愛と死のアラビア』に至っては「おもしろそうな気がしない」という理由でハナからチケットを取らなかった記憶があります。この作品に関しては正解で、のちにスカステで見たとき「いつおもしろくなるんだろう…」と思いながら見て、オチに「えっ、これで終わり!?」と驚愕した記憶がある、世紀の駄作だと断じています。さてしかし、なので『太王四神記』が宝塚歌劇化されるんだって!となったときには「えっ、花組!? ってことはホゲが大空さんってこと!? それは観なくては!! この私が観ずしてなんとする!!!」となりましたね。
 韓ドラの基本構造は男女ふたりずつの計4人の愛憎ドラマだと私はこれまた勝手に断じているのですが、たいていヒロインにフラれる形になる第二男性キャラクターのポジションが私は大好物で、この作品に関しても当然そうだったからです。私はヨンヨン(「ヨン様」なんて恥ずかしくて呼べずに、私はペ・ヨンジュンをこう呼んでいました。私の韓流ブログの初期タイトルは「トモトモのヨンヨン日記」でした…)ファンだったのですが、彼の顔はやはり眼鏡あってのものだなとこのドラマでは感じましたし、ホゲ役のムン・テヨンが別のドラマでもわりと好きだったんですよね。ホゲに扮するにはちょっと線が細かったかな、とは今でも思いますけれどね。
 で、それでも大劇場遠征まではせず、東京で友会で当てた2階前方どセンター席でまず観て、イケコの換骨奪胎&翻案の上手さに唸り、ラストにクレーンに乗った主役ふたりがウンウン近づいてきたのに感動し、フィナーレの大空さんの扱いにも感動して、すぐさまリピートを決めたのでした。当時は観劇帰りにチケットカウンターに寄れば翌日や翌週のチケットが席を選びながらその場ですぐ買えるようなありさまだったのです…で、萌え萌えで浸っているうちに大空さんとスミカの組替え&宙組次期トップコンビ就任が発表され(朝刊でその記事を見つけたときの衝撃を今もはっきりと覚えています…当時はまだそんなにネット環境が良くなかったかと)、博多座遠征に出向いて(それでもまだ初日ではなかった…)おそるおそるスタッフさんに声をかけて入会案内をもらい、そして『カサブランカ』初日から、私の宝塚ファン第二期は始まったといっていいかと思っているのですが、とにかくそんなワケでそのきっかけになったのがこの作品だったのでした。
 なのでこの作品を見直すのは老後の楽しみに取っておく、ぐらいの気持ちだったのですが、つい手を出してしまいました…ら、なんと、12枚組の7枚目、13&14話収録のディスクがケースになかったという衝撃よ…! もう十年触っていなかったと思うんですよね。当時韓ドラ仲間と貸し借りを頻繁にしていましたし、誰に最後に貸したかなんて当然覚えていません。こういうボックスでなくとも、いちいちケース開けて中身があるかなんて確認しないじゃないですかフツー…しかも最後の一枚をデッキのトレーに忘れた、とかならわかりますよ、でもなんでこんな真ん中の一枚なの? 順番に見ていったらそんなことあるわけなくなくなくない!? こんなのもう絶対に回収できませんよね、そしてもう絶対に販売していませんよねこういうのって…はー、ショック…仕方ないので、もちろんそこは飛ばして見ました。一応類推はできていますが、重要なエピソードがあったんだったら、すみません…

 さて、主人公は、四世紀ごろの高句麗の王様、広開土王とも呼ばれる人だそうです。日本でいうと神武天皇みたいなものなのかな? 一応実在したとされているけれど、神話の人物と半々、みたいな。他国との戦争の記録みたいなものは残っているんだけれど、日常的なエピソードに関してはそれこそ「剣と魔法」の世界みたいなものばかり、みたいな。この王様に四神を添えたのは、このドラマのオリジナルのアイディアなのでしょうか、それともそこまでは定番なのでしょうか? くわしくなくてすみません。
 ドラマによれば、あるとき天が神の子ファヌンを遣わされ、地上にチュシンという国を築いたそうな。けれど虎族と熊族が争い続けていたので、ファヌンは虎族で火を操る女王カジンからその霊力を奪い、平和を愛する熊族の娘セオに与えます。さらにファヌンとセオの間には息子も生まれて、カジンは激怒する…そりゃそうやろ、って気しかしませんね。取り上げるだけにしておけばまだよかったのに、神様だろうと他の人に勝手に与えちゃダメだって…カジンはセオの子供を殺し、セオは怒りで暴走して地を焼き尽くし、ファヌンは天に帰ることにします。いつかまたチュシンの王が現れて、平和なチュシンの国を作るだろう、と言い残して。そして玄武、白虎、青龍、朱雀のよっつの神器も封印する…
 それから二千年経った、四世紀の高句麗。王には王妃もなく世継ぎの王子もなく、宮殿を出て山奥で暮らしている王弟と、国の最有力貴族ヨン・ガリョに嫁いだ王妹がいます。王の母親は現王である長男を産んだあと、しばらく敵国の人質に取られていたことがあって、帰国したときには次男を連れていました。敵国に赴いたときにはすでに身籠もっていたのだ、というのが先王と王妃の主張でしたが、敵の種ではという噂は絶えず、それでこの次男は宮廷や政治から離れて育ったのです。その下の長女は、帰国した王妃が王との間に産んだのか、王妃がいない間に王が別の妃に産ませた娘なのかは説明がありませんが、彼女は自分こそが正統な王族と誇り高く、次兄を認めていません。
 とある夜、チュシンの王が生まれるときに輝くというチュシンの星が夜空に煌々と輝き、天地神堂はチュシンの王の誕生を予言します。王弟の妻と王妹がともに臨月を迎えていました。チュシンの王として生まれた子供はアレコレと狙われるかもしれない、と案じた王弟の妻はひとり山奥に行って息子を産み落とし、その三日後に息を引き取りますが、夫に言ってその日を息子の誕生日として届けさせました。これが主人公、タムドクです。一方、王妹のお産は長引き、チュシンの星が消えようとする頃に息子を産みました。これがヨン・ホゲです。王妹もその夫ヨン・ガリョも、我が息子こそが次の王でありチュシンの王だ、と意気込みます。
 タムドクは父親とともに山の庵でひっそりと暮らしていましたが、王が今際の際に弟と甥を宮廷に呼び寄せ、弟に王位を譲って崩御します。怒り狂うヨン家。新王は息子タムドクに、ますますひっそり生きるよう、ひ弱な王子と周りからは思われるようふるまえ、と諭します。タムドクはこっそり、ごく身近なコ・ウチュン将軍相手に武芸の鍛錬をしたり、学業も進めていますが、なるべく人前には出ないようにして王宮の奥でひっそりと暮らします。でも、従兄弟のヨン・ホゲとは実は仲良しです。ホゲは両親や周りの期待をきちんと理解し、その上で驕ることなく勉学も納め武勇に優れた、気持ちのいい少年に育っていたのでした。
 ヒロインのキハは、天地神堂の見習い巫女で、タムドクともホゲとも面識ができて、それぞれが彼女に恋心を抱くようになります。彼女はタムドクとは言葉を交わす機会があり、一方ホゲとはお互い目を見交わすことがある程度だったので、それが差となってしまったのかもしれません。しかし彼女の正体は、百済の貴族の娘で、朱雀の神器の守り主。そして、チュシンの王と守り主が出会ったときに目覚めるというよっつの神器を集めて、ファヌンの封印を解き、世界を我がものにできる神秘の力を手に入れる…という野望を二千年の間抱き続けた虎族の魔術師プルキルが作り上げた秘密結社・火天会に捕らわれて記憶を消され、肩に烙印を押され精神的に支配され、王家の様子を探るために潜入させられたスパイなのでした。プルキルはヨン・ホゲを傀儡の王にして神器を集めようと画策し、キハに「ヨン・ホゲこそチュシンの王」という託宣をさせます。朱雀の守り主のお墨付きを得て俄然盛り上がるヨン家…だがそれは、プルキルがキハを操ってさせた偽りのお告げなのでした。
 キハには妹がいて、これが第二女性キャラクターになります。キハが火天会にさらわれる直前に隠して逃がした赤ん坊で、朱雀の神器を探しに訪れたコムル村の村民に拾われ、スジニと名付けられて育ちます。コムル村はいつかチュシンの王が現れたときに仕えようと修行?している修験者?集団の隠れ里で、玄武の神器を守っています。スジニはのちに村長になり玄武の守り主となるヒョンゴを師匠と慕いながらも、お酒と博打が大好きなやんちゃで活発な少女に成長します。王太子となったタムドクが宮殿を抜け出して下町をうろつくうちに彼女に出会い…というようなロマンスも展開されます。
 この構造で物語は進んでいくのですが、いろいろな立場のいろいろな思惑を持つキャラクターたちの行動が交錯するので、「そこでこの人がこう動くの、変では?」「その情報をこの人がこの時点で知ってるのは、何故?」みたいな箇所がいくつかあったものの、基本的にはよくできていて、上手く流れているドラマだと思います…22話までは。で、ラスト2話に崩壊する。
 韓ドラでは脚本の上がりが遅くて撮影が押して大変だ、みたいなエピソードには事欠かないのですが、この作品に関してはそういう問題よりも、ペ・ヨンジュンがアクションシーンで負傷して撮影が本当に大変になって…というようなことがあったようなので、そのせいかもしれません。でも、通して見ると、四神に関わる、いわゆるオタクっぽいところにあまり萌えやこだわりが見られない脚本だなと思うんですよね。玄武、白虎…だなんて四神はラノベ以前の、オタク必須のファンタジー教養かなという気がしますが、そこがだいぶとってつけたようなものになっている気がしますし、だからラストに収拾がつかなくなっている気がしました。そもそも四神と虎族・熊族の争いってどう絡むんだって気がしますし、神様相手にふたりの女、それが朱雀と黒朱雀って、他の三神の出番ないじゃん、みたいな。あと神器と守り主の関係もよくわからないし、神器や守り主に何ができて何ができないのかもきちんと設定されている感じがしません。しかも二千年前はカジンがフラれてセオが身籠もったのを、今度はキハが身籠もるのでそれはよかったねという感じなんだけれど、タムドクはやっぱり後半はスジニに惹かれてしまうので、キハ=カジンがかわいそうなままで物語として整合性が取れないんです。
 中盤も、どちらかというと闇落ちしてタムドクのライバルになるのはホゲではなくむしろキハです。タムドクと一夜をともにして身籠もったものの、その後いろいろあって、スジニと笑い合い酒を飲むタムドクを見てキハは嫉妬でキレてしまう。ホゲはそれにつきあわされるような形になっているんですね。だからラスト、ホゲが戦死しても物語は終わらない。キハはプルキルの手から子供を救おうとして暴走し、子供はスジニが抱きかかえて守るけれど、キハの暴走は止まらず、タムドクがその光に飲み込まれるような描写があって…で、あとはタムドクこと広開土王の略年表が語られて、完。なんじゃそら、ってなりますよ。
 だからこれをああまとめたイケコってマジ天才、と思います。
 あと、ムン・ソリってこういうドラマのこういうヒロインをやるようなタイプの女優さんじゃなくて、要するに美貌売りじゃないので、そこが萌えないのが見ていてつらいドラマだったんですが、宝塚歌劇ではトップ娘役が演じるんだからそりゃまごうことなき美しきヒロインぶりで、ありがとうアヤネ!って感じでした。
 宝塚歌劇版ではポロみたいな試合を武道会に変えて、戦闘はダンスで表現して、でもあとは基本的にはドラマどおりに展開しかつ非常に上手くまとめていてゴールさせていて、本当に見事だと思います。やっぱりちょっとパタパタしちゃってはいるので、ホントは5時間くらいのスーパー歌舞伎にするといいんじゃないの?とは思わなくもないですが、盆使いも鮮やかだし、珍しいくらいに歌詞がいい、楽曲もいい、お衣装も素敵な舞台でした。

 でも、それでも解決されていない問題があります。何故、ホゲがチュシンの王ではなかったのか、という問題です。
 玄武も青龍も白虎も、タムドク相手に目覚めます。朱雀も、キハがホゲに偽りの託宣をしただけで反応自体はタムドク相手にしている。つまりタムドクがチュシンの王なのでしょう。でも「♪私は生まれた同じ星のもとに」「♪教えてくれ、何故俺ではいけないのか」って、大空さんじゃなくても歌いたくなりますよ。チュシンの星が輝く夜に生まれたのはタムドクだけではなかったのに、何故ホゲではダメだったの? その理由がないと、納得できなくないですか?
 別になんでもいいと思うんですよ。ヨン・ガリョの妻がホゲを産み落としたときにはチュシンの星はもう光っていなかった、けれどヨン・ガリョが間に合ったと嘘を吐いたのだ、とでもすればいいだけのことだったと思うのです。真実を知らずに、ホゲは真面目に生きてきた。みんながホゲこそチュシンの王だと言い、王にと望んでくれるならやぶさかではない…と、勉学を積み鍛錬し戦勝もたくさん挙げて、正当に王になろうとした。
 なのに母親は息子を溺愛するあまりに、一刻も早く現王を片づけようとして毒殺騒ぎを起こして返り討ちに遭うし、父親は父親で今ひとつ息子を信じ切れてなくて卑怯にも裏からやたらと手を回そうとする。そうやってかえってホゲの邪魔をしたし、彼の誇りを傷つけたんですよね。それでも彼はきちんと手順を踏もうとしたし、従兄弟のことも好きで、よりふさわしい方、望まれる方が王位に就けばいいと本当に考えていたのです。母親が死に追い込まれていたことでタムドクを恨んだにしてもそれはある種の逆恨みだし、いつか誤解も解けたことでしょう。キハへの横恋慕は難しい問題ですが、それだってどこかであきらめがついたかもしれない。でも、そうしてフラットに対峙したときに、ふたりともがチュシンの星のもとに生まれた子供だったら、四神がみんなタムドクだけに反応する理由がないじゃないですか。タムドクの方が優しく賢く優れていた、なんてことはないと思います。でもそれじゃホゲだって退けないよ、負けを認められませんよ、でもそれじゃかわいそうじゃないですか。
 だから、どこかで、「自分はチュシンの星のもとに生まれたのではなかったんだ」と知らされて、ショックで、それでもここまできちゃったし「俺はもう後戻りできないんだ!」ってなるべきだったんじゃないの? それで死んでも、ホゲは納得できるじゃないですか。星に導かれていなかったからだって。仕方なかったんだ、天に逆らうなんて無理なことだったんだ、でもがんばったからいいよね、ってあきらめがついて、納得して、タムドクに託して幸せに死ねるじゃないですか。
 そのフォローがどこにもない。それが、ホゲファンかつ大空さんファンとして、実に無念です。
 それ以外は本当によくできてるんだけどなー。ドラマでは迷走の23話に8年か10年くらい経ってて(でも18歳が28歳になった程度のはずなのに、髭はともかく白髪出すってどうなんだ)、その間キハとホゲは一緒にいたようなので、仮にもそこではさすがにやるこたやってんだろとか思っちゃうんですが、それを宝塚歌劇版ではあの婚約式の場面に仕立てる手腕ね! 星組版ではテルのホゲがキハにチューしなかったときの衝撃ね!! いやー断然花組版派だったわー、でも中の人のニンを汲むイケコの手腕もマジすごい。
 タムドクがスジニを「これからも兄と妹のようでいてくれ」と言ってフるのはけっこうひどいんだけど(笑)、4番手格の男役スターがやっていたこともあったし、やはり主人公のラブはヒロイン一本の方がいいので、この改変もよかったと思いました。
 でも今回見直してみて、スミカがやっていたタルビが、舞台ではチームのただの料理人、マスコット、アイドルみたいなポジションだったのに、ドラマではちゃんとした兵站部長だったのには感心しました。やはりさすがですよ韓国…有能な女性キャラクターをきちんと描けるというのは大事なことです。その上でチュムチとのラブコメパートもあって、お見事でした。
 カクダン、チョク・ファン、イルスなんかもちゃんと舞台版にいるのが嬉しいよね。あとまりんさんのフッケ、ドラマに激似すぎ(笑)。逆にチョロはだいぶチョイ役になってしまっていましたが、これはドラマ版でも不完全燃焼なキャラクターなんですよね。でも実におもしろい存在でした。神器が覚醒したからといってタムドクに仕えるかどうかは別、彼の王としての器を見定めたい、とか言っちゃうクールなキャラがよかったし、ホントに無口で、美形で(今見ると橋本愛にしか見えない気もしますが…)、逸材でした。でも何故彼がずっとセオの夢を見ていたのか、とかの説明はないんですよね。それで彼がスジニに惹かれちゃうのはおもしろかったし、こっちの流れにしておけばタムドクもキハに戻れたのに…しかし青龍もまた熊族の人間だったということなのか? でも二千年前のエピソードのときにはカジンやセオといった朱雀の化身(?)は出てきても、玄武や青龍や白虎の化身というか人間は出てこないし名前もない。このあたりの整合性も実にザルで、オタクならこだわりそうなものなのにそういうこだわりがない脚本家が無理に、なんとなく書いてるやろ、ってのはもったいなかった気がします。
 ドラマとしては人気はあったのかな、視聴率はどうだったのかな…宝塚歌劇版も、当時の評価はどうだったかなあ、あまり記憶がありません。私自身は萌え萌えで騒いでいたし、韓ドラファンをたくさん同伴してみんな喜んで観てくれていたのですが。権利の関係か最近はスカステ放送も全然なく、もったいないです。だいもんとスミカの新公も以前映像で見ただけですが、とてもよかった記憶があります。歌は今でもわりと歌われているけど、そういう権利は大丈夫なのでしょうか? 「チュシンの星のもとに」「希望の瞳」「何故」とか、名曲揃いですよね。「炎の巫女」「偽りの愛」「その名はキハ」ももっと歌われてほしい…
 しかし尺たっぷりめのフィナーレがいいし、大空さんの歌唱指導ってのも今考えると沁みるし(これのみですよね、経験…?)玄武の男役群舞でひとり大階段を降りてくるなんてホント破格の扱いだと思います。いつの時点でトップ人事が決まったんだろう…そしてこんな上級生の2番手でまとぶんも大変だったろうけど、3番手のえりたんがいいガス抜きをしていたのか、ホントにいい感じではありましたよねこの頃の座組も…そして男役路線スターが腐るほどいる(笑)。でもここからめおちゃんがやめてみつるが抜けてまっつが組替えしてまぁ様もだいもんも組替えしてPがやめて…あきらはこのときはまだこうしたスターの数に入っていなかった印象だったけれど、それも今度やめて、今の花組の惨憺たるありさまが悲しいです。れいちゃゃんは上手く育てられてきたと思うんだけど、周りがスカスカじゃねえ…やはりみりおの弊害ということになるのかなあ、心配です。
 花娘も、じゅりあも一花もきらりも去って久しく…がんばれまどか!と祈るしかないのでした。カガリリ、こうららちゃん、そして何より音くりちゃんを上手く起用して、花園を復活させてほしいです。
 そしてこの公演もいつかまた再演されないかなあ、もったいないよなあ…と、いろいろ考えさせられた、楽しい鑑賞でした。




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まさかの月城日記~『ダル湖』マイ初日雑感

2021年02月20日 | 観劇記/タイトルた行
 どうしましょう、今私はこれをこのまま月城日記としそうな勢いでいます…と書き出したのですがそうすることにしてしまいました(笑)。何故赤坂とDC一度ずつの観劇予定にしてしまったのだ自分、イヤ事前に手配していても客席半分のこの時期、チケットは厳しかっただろうがしかしあと100万回観たいぞ…というわけでいつもならマイ楽後に感想をまとめるのですが、待てないので上げます。でもロゴはなんかおどろおどろしいので変えてもよかったと思っています(笑)。

 まずは順番に。
 というわけで赤坂ACT劇場『ダル・レークの恋』2月19日13時公演を観てきました。
 この演目は前回上演時は月組全国ツアーで、アサコミホコのトップコンビに大空さんが2番手格としてペペル(今回は暁千星と風間柚乃の役替わり)を演じていましたが、なんと大空ファンともあろう私がこれを生で観ていません。大空ファンだったからこそアサコが組替えしてきた頃あたりの月組がしんどくて観ていられなかったのか、最初にハマった頃のスターがどんどん卒業しトップスターも代替わりしていってみんな小粒に思えてきたか、仕事が忙しくて観劇を優先できなくて遠のき気味だったか、当時の記憶は定かではありません。マリコユリの星組本公演版も生では観ていません。ユリちゃんは好きだったんだけど、なんでだろう、たまたまかな…この頃はまだ何がなんでも全演目観る、とかは思っていなかったことは確かです。
 で、「来るんですか、来ないんですか」とか「さあ、卑しいことをなさい!」とかの名台詞は知っているわけですが、だいたいのシチューエーションしか知らなかったので「つーかレイプじゃん」とこっそりずっと思っていましたし、今回の再演が決まってスカステで放送していた月全ツ版を予習として見たときにも、「うーむ事情はわかったが、しかしやはりこれは卑怯というかなんというか…ラッチマンが実は何をしたいということなのかよくわからん」とモヤったものでした。今、再度見てみたのですが、思うにアサコがちょっと色悪すぎる役作りをしているのかもしれません。ミホコともども芝居がウェットというか。なのでボタンの掛け違いがなくても、そもそもこのラッチマンが本当にカマラを愛していたのだろうか、という疑問が湧いてしまう仕上がりになっている気がする…うーん、比較しすぎかな?
 そして今回は、タカヤ先生が潤色、新演出に立ったのが効を奏したのだと思います。これまた比較すると、ハコの違いはもちろんあるけれど、セットやミザンスが上手くブラッシュアップされていると思いました。何より脚本の精査と演出、芝居の質がいい!
 バウデビュー後、本公演デビュー前のヤング演出家って今数人いると思うんですけれど、私は最も期待している人材です。なんかセンスを感じる。今回も、まずプログラムのコメントが良かったです。「免疫力爆上がり」はともかく「鼻血必至」というのは、スミレコード的にNGとまでは言わないまでも品位に欠けるかなとは感じましたが、その前の「守るべきものとチャレンジの天秤をリスペクトを持って考え続ける精神」「こっぱずかしさついでに大きく言ってしまえば、それは人生のあるべき難しさと通ずる」「人間の理想に対する願い、人の世のプラスのエネルギー」「愛や理想に対するニヒルな諦観が主題ではありません」というような言葉が紡げるところに期待できます(この「あるべき」はどうだろう?とは個人的には思いますが)。というか単に好みなんだと思います。私は景子先生には同族嫌悪を勝手に感じているんですけれど(なんか自分が作家だったらこういう作風になりそうな気がして嫌なのです。この点に関しては景子先生には多分罪はない…)、同じ感じでタカヤ先生にも勝手に近いものを感じていて、かつなんか弟に持つような好感を持っていて、所詮同性に厳しく異性に甘いのかと言われても仕方がないのかもしれませんが、この肩入れ感はなんなんだろうと自分でもとまどってはいます。あとは本公演オリジナル作品でその力量を証明していってくれることを願うしかありません。ちなみに、なのでこの「タカヤ」呼ばわりは、「谷先生」だと皆殺しうんちゃらと区別がつけづらいからであり、たとえて言うと「イケコ」に近いニュアンスで、「ヨシマサ」の意味ではありません。「ダイスケ」はその真ん中くらいかな(笑)。勝手かつ失礼かつわかりづらい表現で申し訳ありません。ともあれマジで期待しています。
 今回も、もともと1幕のお芝居だったものを2幕ものにリメイクしていることもあって、全体にややまったりしていると言えないこともないとは思うのですが、華やかなプロローグ、たっぷりの場面数があるフィナーレ、劇中のショーアップや心象風景を彩る歌とコロスのダンス(水の青年は彩音星凪、水の少女は菜々野あり)と飽きさせず、品が良くかつ効果的な映像使いと、何より身の詰まったお芝居が素晴らしく、生徒はもちろんですが演出家の手腕を感じました。クラシカルなザッツ・宝塚歌劇を久々に堪能できて、楽しかったです。これはホント全国津々浦々にツアーで持っていきたかった、あちこちで新しいファンをきっとたくさん開拓できたはずだ喜ばれたはずだ!としみじみ思いましたね。何よりACTの舞台が意外と小さくて窮屈そうで、もっと大きなところでのびのびやらせてあげたいなと思いましたし、ときにはがらんどうに思えることもあるほど大きい神奈川県民ホールの空間が今のれいこちゃんならひとりで埋められるよ、ぜひトップスターになったあかつきには再演全ツして凱旋しようぜ!と、れいこちゃんと同じく神奈川県出身者としては深く念じたのでした。
 てかさっさと就任を発表してくれないかなー、これが次期トップさんねと思いながら観るのはまた格別だと思うんですよ。こういう時期にしかないことですし…ドラマシティはそんなふうに観られるといいなあ、いやあホント盤石!と感動しました。組力が上がっていることも感じました。
 そして私はずっとれいこちゃんについては、お芝居は上手いと思うし好きなんだけれど、私の好みからすると美人すぎるわ、なので個人的にはなんか今ひとつ興味が持てないスターさんだわ…というようなことを、本当にずっとずっと言ってきたと思います。ここにも何度も書いていると思う。ファンの方はそのたびに本当に気に障って嫌な思いをしたことでしょうね…申し訳ございません。でも好みとかってホント謎だし、私は珠城さんが好きなのでれいこちゃんが月組に来てからは観る頻度も増えたかと思いますが、それでもその印象は変わらず、ずっとそんなようなことを書いてきたしつぶやいてもきたと思います。『ラスパ』もそんな感じだったし、シャルルおじさんもおじさんとして好きなだけだったように思います。それかシャルジャンのカップルとして好き、とか。イヤ役だけじゃなくて中の人にもだいぶ好感を持つようになってはきていましたけれど、それでも。
 でも今回、席がどセンターで観やすくて視線がガンガン来てハクハクした、というのもありますが、「えっ、えっ、私ってこんなにれいこちゃんのこと好きだったっけ!?!?」ってくらいに、まさに自分でもとまどい動揺するほどに、終始胸が高鳴りっぱなしの観劇となったのでした。いやーマジで驚いた。ずーっと顔がいい!好き!!って思いながら観てた。顔がいいのなんかずっと知ってたのに、今まではそれで終わっていたのに。
 そして、くらげちゃんに関しては引き続き苦手のままだったので、なんかかえってセーフ!とか思ってしまいました(この件に関してもファンの方には申し訳ないと思ってはいます…)。私、この物語のこのカマラという役を好みの娘役さんに演じられていたら、もうタイヘンなことになっていたかもしれません。こじらせて、萌え萌えで、つらくて、しんどくて…今回はなんか、好きで肩入れして観たのがれいこちゃんの方で、ラッチマン側、主人公側でセーフ、というか。私は娘役ちゃんが好きなので、宝塚歌劇はトップスターありきなのだと理解していても、物語はすべてヒロインの、女の物語として受け取ってしまうところがあり、カマラにあまりにも肩入れして観ると作品全体の印象が大きく変わってきただろう、と思うのでした。ま、今でも結愛かれんとかにやらせてほしかった、とは思っていますけれどね…だって新鮮さがないんですもん。上手いのは知っています、でも地味だと思ってしまうのです。『瑠璃色』も『アンカレ』も『ラスパ』も『出島』も観ました。でも好きじゃないから気づけないってのもあると思いますが、みんな同じに思えてしまう…だからもういいじゃん、と配役発表のときにはガッカリしたんですよね。すみません…でも月娘は今、これぞという可愛子ちゃんが他にいないんですよね(あくまで私の好みの顔の娘役さんがいない、ということです)。さくさくがいなくなったら私は見るところがなくなってしまう…何組だよ、とつっこまれようと、みちるが組替えしてきて次期トップ娘役に就任してくれないかなーと夢想しています。それか、くらっち。それか、らら。個人的にはららを強くオススメしたい、似合うんじゃないかなと思うんですよね。だって華が欲しいよね、イヤこんだけ美しい人にナニ贅沢言ってんだって感じだけど、横にいて負けない、かつ方向性の違う華が添えられると最強のトップコンビになると思うんですよね…ららはいいと思うんですよホント……
 あ、でも、プログラムのくらげちゃんの写真がヒロインなのに小さすぎたり、プロフィールページがないことには怒りを感じています。別箱でもトップトリオ格はきちんと遇するべきでしょう。なんの線引きをしたいのかわかりませんが、だったらこんな配役すんなよ。娘役は軽く扱っていい、などということはない。劇団には猛抗議したいし、猛省していただきたいです。
 まあいい、話を戻して、そんなワケでれいこです、ラッチマンです。あ、以下ネタバレ全開で語ります。

 というか、ターバンの尻尾は長いほど良き…ということを今回私は初めて知りましたよ…確かにショーなんかで出てくるターバンは尻尾がないかあっても短くて、場面としても海賊とかワイルドめの男役たちがバリバリ踊るタイプのものが多かった気がするので、今回の礼装としてのターバンとはちょっと意味が違うのかもしれませんね。そして見比べるとアサコのときより垂れる部分の量が少なくてわさっとしていないのが、上品で美しいのです。
 プロローグ、黒燕尾にターバンで居並ぶ男役たち、その奥にひとり客席に背を向けて佇む影、背中に流れるターバンの尻尾、振り返るとそれがくるりと翻り、ライト、拍手!みたいなベタなの、もうたまらん!! そして顔がいい!(何度でも言う)
 いやタカラジェンヌってもちろん美人ばっかりなんですけれど、どこに出しても誰が見ても美人と判定するだろう真の美人、というかそういう方向性の美人は意外と限られていて、今だとれいこがやはりピカイチな気がします。次点はあーさかな(そしてこれまた私はあーさに今のところ興味がないのであった…私の好みの顔というのは、だからちょっとこういう基準とは違うところにあるのだ。なんせ最愛の顔は響れおなだ)。だから本物の美人が本気でカッコつけてこういうベタにカッコいい仕草、ポーズ、アクションをしてくれることが大事なんですよ、そのありがたみをひしひしと感じました。もうのっけから拝みそうでした。コートの紐を解き出すところとか、前回ママなんだけど色気ありすぎて何事かと立ち上がりそうになりましたもん!
 続く場面の、ターバンからお髪がこぼれたバージョンももう眼福で眼福でうっとり…だったんですけれど、本当はここはもっとくらげちゃんとセットで愛でなければいけなかったんですね。つまりここは単なるプロローグのレビューチックな場面というよりは、この夏のラッチマンとカマラのキャッキャウフフの幸せな恋を表現していたくだりなわけで、それをきちんと把握しておかないと、あとのふたりは本編ではずーっとすれ違って「ボタンの掛け違い」を演じているので、本当はどうなるはずだったんだっけ、何を求めてるんだっけ、ってのを観客は見失いがちになるからです。そら追っかけっこもしようというものです。
 さらにはありちゃんセンター場面。ありちゃんの脚の上げ方は90度でも135度でもぴたりと正確で実に清々しく、美しい。強めの色気を発揮しているのも良き、でした。そしてすぐぱるに気づく私…イヤでっかいから、とかじゃなくてなんか好きでもうセンサーあるんですよ私…

 さて本編に入ってからも、「こっぱずかし」いくらいのベタベタな登場の仕方をするれいこラッチマンですが、でもそのベタが大事なのそれをド美人が大真面目にやるからいいのよ、とまたまた震えましたね…! まず声、鳴り物、そして扉からの登場! たまらん!! いやーベタ正義、そして本当に美は正義。
 しかし一転してこってりした芝居のロイヤル・ホームドラマになると、まあこのインドというのは概念としてのというかイメージの、なんちゃってインドなのかなとは思うのですが、でもとにかく社会的な階級があることとか、王族だの家柄だの体面だの外聞だのといった事情があることは我々現代日本の観客にもよくわかり、カマラの苦しい立場と、しかし家族や望まれる在り方、職務、将来を考えてこの恋を捨てよう、捨てるからには相手に強く、つらく当たってきっぱり別れなくては…となるのは、とてもよくわかります。別にカマラが利己的すぎるとか理不尽だとかワガママだと感じる、とかはないと思います。
 さてしかしそうなると、いったいラッチマンの方は今までこの恋愛をどう考えていたのだろう、今後どうする気だったのだろう、という気がします。彼の本当の身分というものは別にあるわけですが、彼自身はそこに収まる気がなく、本当にその身分を捨てたいと思っているのだし、だから今もあえてとか嘘を吐いてとか偽って、というつもりではなく、ただどこの誰とも知れぬただのひとりの男として生きていて、ただ軍人としては有能できっちり務めを果たしているということには誇りを持って生きていて、それでたまたま出会ったマハ・ラジアの孫娘と恋に落ちた…でもそれは一夏の戯れなどで終わらせるつもりもなかったもので、彼は真剣にカマラを愛していたし、彼女からも愛されていると確信していて、だからいずれ良き時を選んで身分を明かし、その上で求婚するつもり…だったのでしょうか? その場合は、結果的に父ハリラム・カプール(蓮つかさ)が望んでいたような地位と身分に収まることも、視野には入れていたのでしょうか。親孝行にもなりますしね。つまり彼は相手のために自分の生き方を変えてもいいと思うくらい、彼女を愛していたのでしょう。まさか自分がずっと在野でいたいから彼女も王族から離脱してくれるはずだ、とは考えてはいなかったかと思います。愛しているからといって自分の生き方を相手に押しつけようとするような男では、なかったと思う。ヤダ、マジ惚れる!
 だから王室が移動してもついていくつもりだった。そう言ったし、一度は受け入れられた。なのに今、カマラは来るなと言う…なんかいい言い回しがあったんだよな、命令ではなく既定の事実みたいな…「あなたについてきてほしくないのです」と言いそうなところを「あなたには行かないでいただきます」って言うんだったかな? 謙譲語のようで命令、という…うわ、上手い台詞!と痺れましたね。てか脚本が欲しい…
 カマラの嘘の愛想尽かしがまた絶妙で、きっぱり別れるために徹底的に言うワケです。そもそも身分が違うし、そもそもこっちは本気なんかじゃなかった、何を思い上がっているのか、と。これに騙されちゃうラッチマンが可愛いんだよね。家族につきあいを反対されたのだ、だから無理にこんなふうに言うのだ…という発想ができないのは、ちょっと驚きです。彼が身分差というものを気持ち軽く考えていた、というのはあるかもしれませんが、思うにインディラはアルマがこうまで騒ぐまでは、一夏だけのこととある種容認していたのでしょうし、カマラの分別を過信していたとも言えますが、なのでわりとラッチマンに対しても好意的に振る舞っていたのかなあ。アルマですら今こうして騒いでるのは遠乗り(でしたっけ?)に誘ったのを断られた腹いせなだけで、夏の間は目がハートだったのかもしれません。しかしラッチマンは賢明なので、ド平民の自分が恋人として彼女の家族にすんなり受け入れられるだろうと思っていたわけはさすがにないと思うんですよね。でもじゃあどんなビジョンを思い描いていたのでしょう? 思うに、彼も男なので、そして男ってのはしょーがないものなので、たとえばカマラが思い詰めて駆け落ちしましょう、私と逃げてどこかでひっそりともに暮らしていきましょう、みたいなことを言い出したときには、身分を明かし、逆プロポーズするくらいのことを想定していたのかもしれません。ずうずうしいですね、都合がいいですね。なのにカマラの方からこんなことを言われて、逆上し、そしてそもそも本当に愛されていなかったのだろうか?彼女は俺が愛した優しく清純で聡明な女などではなく、高慢で人の心を弄ぶ残忍な女だったのだろうか?という疑念がわいちゃったのかもしれません。アサコは低く見下されてカチンときてキレてやっちゃった、ように見えなくもなかったのですが、れいこちゃんはとにかく悪い人に見えなかったところがよかったのかもしれません。顔がいいしモテモテなんだけれどそれは当人の与り知らぬところで、中身はわりとフツーの男で、ただフツーにカマラに恋をしただけの、まあちょっと茶目っ気を持っていつ真実を告白するか企んでいただけの男、というような。そしてほとんど初めてと言っていいくらいに真剣に恋をした、だからこそ「愛していない、いなかった」と言われて、自分が相手に足る男ではなかったのかもしれないと自信を失い、また相手を見る自分の目を疑い彼女の真意を疑う疑心暗鬼に、陥ってしまったのかもしれません。
 愛は容易に憎しみに転じます。そこで終わればただ別れるだけですんだかもしれないところに、ラジエンドラ騒ぎが起きて、おまえこそその前科者だろうと決めつけられ、口止め料の額を言え、と居丈高に言われて、彼はついにキレてしまったわけですね。そして言う、要求するのは金品ではない、と…
 ひー! いやーひどい、ホントひどい。ここでこれを要求することを思いつくことがひどい。てかそんなホン書く菊田一夫がひどい。マジ天才。それは愛していれば自然と望んだことと同じものなのだけれど、でもこの流れで言うのがひどい。それでも、そういう形ででも確かめたいと思っちゃうくらいラッチマンはカマラを愛していた、ということなんだとラッチマン側に立てば思う。でももしもっと好みの娘役がカマラを演じていて、カマラ側から見ていたらホントたまらなかったと思います。愛し合って、いつか自然としたかもしれないこと、を無理やり、させられる。自分が愛していたと思っていた男は幻の偽者だったようだし、男はハナから自分を騙すつもりで近づいてきたのであり、自分を愛してなどいなかったし今も愛していない。ただ快楽を得るため、そしてこちらに屈辱を与えるためだけに要求している。でも自分は家族の名誉を守るためにその要求を呑むしかない…
 インディラもクリスナもまたひどいんですよね。この時代のこの国のこの階級の貞操観念がどういうものかくわしくは知りませんが、おそらくは結婚するまで女は処女なのが当然で、それこそが女の名誉、って世界ですよね。なのに、そんなものはくれてやればいい、黙っていればいい、露見しなければいい、すれば口をつぐむというならさせてやればいい、そうして名誉を保ち涼しい顔で今後も生きていくのだ、それが貴族のさだめだ…というようなことを暗にカマラに言うワケです。すげえ。イヤもちろん彼らも大なり小なりそうして何かを犠牲にして生きてきて今がある、ということだとは思うのですが。
 それでカマラは、殉教者のような思いでラッチマンのところに赴く。ここの会話での「命」の用法を私は他に知りませんが、本当に素晴らしいと思いました。カマラは人形になって、抜け殻の身体を与えるだけ、心は与えない、魂は汚れない…そう思い込もうとして、でも怖いものは怖いし悔しいものは悔しい。かつて心底愛したと思った男と同じ顔の男は、今は唇をゆがめて笑っている。「来るんですか、来ないんですか」とまるでこちらに選択権があるかのように言う。実際は向こうが強要しているだけだというのに。結局は引きずられるようにして湖に浮かぶ船に連れ込まれてしまう…あのラブホもかくやという円形ベッド(言い方…)は、船の中なんだそうですね。ラッチマンがターバンを解きカマラの帯を解くあの場面名こそ「ダル・レークの恋」というのでした。
 本当はここで、キスされたら嬉しくて力が抜けちゃって、とか、やっぱり好きだから受け入れちゃって気持ち良くて、というのは現実的には異論が多いにあるところです。同意なき性行為はすべてレイプです。あまりにつらすぎるので、愛ゆえだ、とすり替えて自分を守ろうとする、という心理はあるかもしれません。ストックホルム症候群みたいなものも。けれど本当なら気持ちいいとか感じちゃうとかあるわきゃない。性器が傷つけられるだけでなく、心と魂の殺人です。本当はお互い好き合っているので、というのは免罪符にはなりません。お互いがそれを承知していないからです。
 だから私は、たとえばカマラの抵抗がなくなることでラッチマンが彼女の真意に気づけたのなら、つまり彼女は俺をやっぱり愛しているんだと確信できたのなら、そこでそれ以上の行為をやめるのが筋なんじゃなかろうか、と考えは、したのです。それが筋だろう、ねじれた道を正し、しかるべきときにしかるべき道筋でまたここに来られるよう、今は引き下がるというのが正しい行動だろう、それが紳士の、誠意ある人間の取るべき行動だろう、と思う。
 でも男ってバカだから、愛されてるとわかって嬉しくなっちゃってなおさら舞い上がっちゃって止まらなくなる、っての、あるんだろうな、とも思っちゃうのです。そしてなお悪いことには、自分がラジエンドラだと認める嘘なんか吐くのが悪くてそれが完全な駄目押しになっちゃったのに、最初に彼らに犯罪者だと決めつけられたことが本当に悔しくて、股間違った沽券に傷がついたと思っていて、その腹いせでならホントに悪いことやったるで!ってなる幼稚で愚劣な精神性が絶対に男にはある、と思う。「♪悪いことがしたい」(by『BADDY』)ですよ、コドモなんです。傷ついたから傷つけ返してやる、という幼くて愚かな意地。そして嗜虐心にも火が点く。こうして犯罪は起きるし戦争も起きるんだな、とマジで思う。
 それを、そういう人間の、男女の、愚かさや弱さを、ある種の欺瞞のようにこうして美しい愛の場面として描く宝塚歌劇を、だから私は愛しているのかもしれないな、と思いました。そこには人間を愛しむ視線があります。現実にリアル男子にこんなことやられたら「ケッ」だし、男優が演じる物語として見ても「ケッ」かもしれない、けれど男役が娘役相手に演じる宝塚歌劇でのみ、愛と真実の物語として成立する…振り付けが美しいとか、そういうこともありますが、その前のくだりの台詞のやりとり含めて、そこに描かれる心理ドラマが、人間なるものの描写がすさまじい。哲学があり、哀しみと愛がある。こういう場面だったのか、こういう物語だったのか…と震えましたね。それはれいこちゃんのラッチマンが、たとえ自信たっぷりの雄々しい武者ぶりだろうと、けっして傲慢で高飛車な人間ではなく、真剣な恋愛に対して自分にその資格があるかを内省するかのような謙虚さや繊細さや聡明さを持つ人間として存在してみせているからこそ、この解釈が成立しこの展開が納得できたんだと、と私は思いました。
 そして何より凶悪なほどの色気と美しさよ…ほっそりしていて過剰な生々しさのないくらげちゃんの身体を撫で回す、美しく凜々しいれいこ、そして暗転…恐ろしい……

 ラッチマンがハイダラバードに行っちゃうのは、まあチャンドラと再会させないといけないお話の都合、というのもありますが、いかにも男の未練って感じで実にイイですよね。そしてペペルと、過去の因縁話と…という展開も見事だと思います。1幕ラスト、幕が下りてくるときスタオベしたくなっちゃいましたよカッコ良すぎてベタすぎて! ここ、今は客席降りが使えないからというのもありますが、前回の全ツ特有サービスみたいな演出より断然いいと思いました。
 そしてありちゃんペペルは私にはもの足りなかったかなあ…映像しか見ていないくせに大空さんペペルが大好きすぎるせいもあるかもしれませんが。でも『出島』もちょっと足りないなと感じたんだよなあ…それはともかく、ラッチマンとペペルの似て非なる生き様の描写、とか菊田一夫マジ天才!ってまた思います。別にペペルの方が小悪党だとかそういうことではないと思うんですよ、方向性が違うキャラなんですよね。現にジャスビル(礼華はる。めっちゃ好きで気になっているんだけれど、どうもなかなか上手くならない気が…だってこれ演技でやってるんじゃなくない? たとえばココれんこんだったらもっと効いてきたっぽくない? てか今回れんこんもったいなくない? いや『ピガール』でのもったいなさも大概だったけど、もうこっちの役しか振らないの…?)をぐるぐる巻きにしておきながら「逃げやしねえよ」みたいに言えるってのには、思わず惚れそうになりました。てかコレを書く菊田一夫マジ天才(何度でも言う)。そして「どうせこの世は」は人生のテーマソングにしたい歌のひとつですね、あっかるいケセラセラ感が素晴らしいです。
 で、ラッチマンが犯罪者ラジエンドラなんかではなかったことはもちろん、ベンガルのマハ・ラジアの跡取り息子だということが判明して、俄然色めきだつアルマが可愛い(笑)。クリスナとはお見合いなのかしら、幼馴染みで小さい頃から親同士が婚約させてて、とかもいいな。どんな恋愛をしたのかしら…てかちゃんと副組長なっちゃんの夫に見えるおださん研30の貫禄よ! 梅芸ペペルがめっちゃ楽しみです。
 でもこのクリスナ、単なる事なかれ主義の王様という感じではなくて、深くて、よかったなー。最初にカマラをラッチマンのところに行かせようとしたときにも、貞操や純潔よりも貴族の名誉を重んじてああ言ったのではなくて、カマラが本当は本当にラッチマンを愛していたことを察していて、ラッチマンの正体がアレで恋は破れたにせよ、思い出を作っておいてもいいのでは…という配慮があるように私に感じられました。そして逆にラストは、カマラをラッチマンのところへ行かせたけれど、ラッチマンは旅立ってしまうのだろうなと予見していた感じがしました。達観というのともまた違うかもしれませんが…そういう人生観の持ち主、とでもいうのかな。るねっこはもっとおっとり作ってくるのではないかしらん、あひちゃんはそんな感じでしたよね。
 で、そのとおり、犯罪者でもなくふたりに身分の差もないことがわかった、でもだからってハイそうですかと元に戻れるものではなくて、「壊れたものは、壊れたものさ」なワケですね(てかれいこちゃんはバトラー船長もきっと似合う…あの髭…あの白スーツ…もう見えるわ……)。というか私はここで『カサブランカ』でリックが最後にイルザに言った、「明日は後悔しないかもしれない、明後日もしないかもしれない、でもいつかきっと絶対後悔する」みたいな台詞が脳裏をよぎりましたね。小さなボタンの掛け違い、だったのかもしれないけれど、やはり掛け直せばいいというものではない、人の心はそんなに単純なものではない、という真実…
 そしてラッチマンとしてはやはり、そもそも自分のスタートのさせ方が悪かったのだ、という忸怩たる想いがあるのだと思います。今までも、今でも、カマラを真実愛しているからこそ、この顛末とさせてしまった自分を自分で許せない。その責任を取るためにも、彼女と別れて身を退こうと考える。自分が不幸になることで償おうとする。彼なしではカマラもまた不幸なのに。カマラとともに生きることで、ともに生きて幸せになることで償おうとする発想は、残念ながら、ない…こういう逃げ方、すごく男あるあるな気がします。女のために、愛のために、自分のメンツやプライドを捨てきれないんですよね。
 構造としても『カサブランカ』と同じだな、とも思いました。本質的には両想いである。しかし男は女の幸せのために、と言いつつ自分の、恋とは別の野望や理想のために、別の道を選んで女を残して去っていく、というパターンです。これまた「ケッ」ですよ、酔ってんじゃねーよ、ホントに愛してるなら最後までつきあえよ面倒みろよ責任取れよ、と言いたいです。でもこれも、宝塚歌劇だからこそロマンとして成立していると思うのです。あと、観客はほぼほぼ女なので、男のひとりやふたりに去られても実は女は意外と平気だということを知っている、というのもある…これは世の男どもにはナイショの真実です。男は、こうして旅立つ俺カッケー、と思って酔っている。そしてそういう物語を量産している。女は取り残されてよよと泣くけれど、次の男との出会いをもう夢想している、みたいな…同じ物語を男女違う形で消費しているのが、この世というものなのかもしれません。
 最後のパリの場面は蛇足ではなく、概念としてのラストシーンなので、いいのです。あああるべきなのです。カフェの女主人(楓ゆき)が効いています。そして再び歌われる主題歌「まことの愛」…「♪もう一度君の心を教えて欲しい」って、こっちの台詞だっつーの、ってなります。カマラは愛してる、愛してほしいって言ったじゃん。私たちは愛してる、愛してほしいっていつもいつも男に言ってるじゃん。心を明かしてくれないのは、言葉にしてくれないのはいつも男の方じゃん。そしていつも勝手にカッコつけて去っていく…バカヤロー!って叫びたくなるんですよ。でも男役が歌うから惑わされちゃうの、そして許せちゃうのです。
 別れに際してもアサコはあまり苦しんでいるように見えなくて余裕綽々で、ミホコだけが泣きわめいているように見えた気がするんだけれど、今回はれいこちゃんも対等に苦しんでいて、くらげちゃんも対等に耐えているように見えました。ふたりとも硬質な持ち味で、抑制が効いて、けれどそこからほの見える情熱の炎の熱さがまた対等で…というのが現代的で、とてもよかったのかもしれません。

 宝塚歌劇が男女の理想を描いている、というのはこういうことだと思います。なんせ数として世には異性愛者が多いので、そして人間同士の関わり合いには恋愛以外にもたくさんの形がありますが、それでも恋愛はわけても濃く大きなものなので、男女の恋愛を主な題材に、人間の真実と理想を描いているのです。いつか、男が心を明かし女のもとに留まり女とともに幸せに生きていってくれることを、信じ、願いながら、今はそうならない悲劇を描く。でも望みは捨てない。男はいつか変わってくれるはず、気づいてくれるはず、そして男女はともに幸せになれるはず、と信じている。その信仰にも似た希望を、理想を、描いているんだと思います。それを愚かだと私は思わない、思えない。だから私は宝塚歌劇を愛しているんだと思います。実際には男は変わらないし女は別の形ででも幸せになれるし人類はゆっくりあるいはもしかしたら急転直下で滅びに向かっているのだと考えながらも、この美しい夢に浸ることをやめられないのです。
 観客は女性ファンが大半で、だから男役がトップスターなのであり、けれど生徒全員が女性なのであり、十年一日どころか百年一日、男女の愛の物語を紡ぎ続けている宝塚歌劇を、だから私は愛しているのでした。
 そしてその存在意義を体現できる、説得力ある、圧倒的な美貌と芝居力のあるトップスターに、れいこちゃんはなれる、と確信しました。歌も上手い、何より声がいい。てか柔らかい開演アナウンス、震えましたね。ダンスはまあフツーかと思いますが、デュエダンでさすがくらげちゃんが上手くて相手をより素敵に見せていたので、そういうことです。周りがいるからトップなんだし、十分だと思う。ご本人は、真の美人ってホントそういうところあるよねって感じなのですが綺麗と言われるよりおもしろいと言われると嬉しいようで、この日のカテコで「悲しいお話でみなさんお疲れでしょうから…」と語り始めたときには、この深く濃い物語を「悲しいお話」ってまとめる主役すげえな!?とまず仰天しましたが、そこからのまさかの「私の渾身の一発芸で締めたいと思います」発言には待って待ってそういう芸風でいくことにしたの!?と動揺し、からの「みなさま、また会う日までさようなラッチマン!」には組子ならずともドリフばりにコケるっつーの!と大笑いしてしまいました。はーたまらん、はーカワイイ。あれは「れーこ」だった、れこたんでした。これをもって今後この作品は『ダルれーこ』として確立されそうな気がします。

 ずっとニマニマしていてマスクの中でカバーが盛大にズレたフィナーレについては、また次回。その他の出演者に関してもまた次回、ねちねち書きたいと思います。
 はー、チケットどっかからこぼれてこないかなー、また観たい! 浸りたい!! お声がけ、お待ちしています(笑)。






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『Oslo』

2021年02月17日 | 観劇記/タイトルあ行
 新国立劇場、2021年2月15日17時。

 ノルウェーの社会学者テリエ・ルー・ラーシェン(坂本昌行)は、妻でノルウェー外務省職員のモナ・ユール(安蘭けい)がエジプト・カイロに赴任するにあたり、中東各地を旅して回っていた。ある日、パレスチナ自治政府の行政地区であるガザにやってきたふたりは騒乱に遭遇し、イスラエルとパレスチナの少年ふたりがにらみ合って武器を手にしている光景を目の当たりにする。子供たちにこれ以上恐怖と憎しみを与えてはならない、とラーシェンは決意するが…
 作/J.T.ロジャース、翻訳/小田島恒志、小田島則子、演出/上村聡史。1993年にイスラエルのイツハク・ラビン首相とパレスチナ解放機構(PLO)のヤーセル・アラファト議長がアメリカ・ホワイトハウスのローズ・ガーデンで握手を交わした「オスロ合意」に至る交渉の道程を描いた2017年トニー賞受賞作。2016年オフ・ブロードウェイ初演。全2幕。

 まず、ポスターやプログラムの一部にはすべて大文字でタイトル表記がなされているのですが、大文字と小文字の峻別はしていただきたい、と苦言を呈したいです。日本上演版の場合、カタカナ表記なのかスペル表記なのかすら揺れることがありますが、作品のタイトルというものをもっと厳密に考えていただきたいのです。敬意も愛着も感じられず、不愉快です。

 さて、それはともかくとして、なんとなくおもしろそう私好みっぽそうという嗅覚が働いたのと、退団後のトウコがわりと好きなので(現役時代はあまり興味が持てないスターさんでした)、それでもややスローに立ち上がり初日が開く直前くらいにチケットを買いました。結果、最後列のサブセンブロック席でしたが、もともとどこからも見やすい劇場ですし、遠目に観る分、二役を演じる役者さんに惑わされることなく芝居が観られてよかった気がしました。てか、声などで二役をやっていることがわかった俳優さんももちろんいましたが、明らかに違うキャラクターに見えましたし、あとでプログラムなどで確かめて「えっ、ココ同じ役者がやってたの!?」って役もありました。役者さんって本当にすごいですね。
 しかし役者はこういう舞台のオファーを何をもって受けるのでしょうね…イヤ一応事前に台本を読んで、おもしろいと思うから引き受けるものなのでしょうが。でもそれもなかなか難しかろうよ、とつい思ってしまうくらい、中東戦争云々ってどうしても遠くにしか考えられない題材だと思います。
 私も、イスラエルとパレスチナってどっちがどっちなんだっけ、というていたらくで、こういうときにあんちょこ代わりにしている高校時代の世界史の教科書を引っ張り出してきたのですが、オスロ合意は私が社会人2年目のときの出来事で、もちろん高校の教科書には載っていなかったのでした。でも、そうだユダヤ人がまず追い出されて、そこにイスラム教徒が住み始め、だけど現代になって戻ってきてイスラエルを建国しちゃったんだった、だからそれまでそこに住んでいて追い出されたイスラム教徒が反発して…というようなことは思い出した上で、あとは開演前にプログラムを買って登場人物紹介を読んでおいたくらいで観劇に臨みました。プログラムを読んでもキャラクターの名前は馴染みがなく覚えづらいものばかりでしたが、まあそこまで身構えなくても、なんとかついていけたかなという感じです。対立構造さえ抑えられていれば、そのふたつを結びつけようと主人公たちががんばる、というだけの物語ではあるので、ものすごく複雑で難解なことをやっているというわけではないからです。史実とフィクションを上手く織り交ぜた、舞台劇としてもよく仕上げられた作品だと思いました。
 ただだからって、政治ドラマではなく人間ドラマだった、というような感想をよく見かけましたが、それはどうかな、と思いましたね。交渉している人間たちはみんな祖国を背負って戦っていたので、やはりその政治性こそがこの作品の最大の見せ場なのではないだろうか、と私は感じたからです。でも私自身が政治なるものにそこまでピンときていないからか、私が泣いちゃったのはむしろ、エルサレムを巡るくだりでした。私はそれこそ無宗教で、その意味では宗教なるものにこそ縁遠いのかもしれませんが、でもその精神性みたいなものはすごくわかる気がしているし、それを大事にしている者にとってはそれこそ命と引き替えにできるほど大切で重要な問題なのだ、ということも理解できているつもりです。だからどちらも聖地エルサレムが欲しい、と言うのはすごくよくわかりましたし、そこに交渉の余地を残す結果に落ちついたことに心底安堵して、泣いちゃったのです。そこが相手のために譲歩できるなら、その他のことだってきっとできるはず、折り合えるはず…と思いました。あるいは逆で、ここは譲ってもあとのことではすべて対立し続けるのかもしれません。でもこの、私たちなんかが軽率に「要するに同じ神様なんでしょ?」とか言っちゃって下手したら殺されかねない、でもそうとしか思えない、ふたつの違う顔を持つ、ひとつだけれども別々の神様をそれぞれ唯一のものとして信じている一神教の人々が、「相手もまた神様を持っているのだ」ということに理解を示せる、というのはものすごく大きいことに思えるのです。それができるなら何故他のことに対してはこんなにもかたくななんだ、とか言っちゃえそうになるのは、私たちがそういう意味での神を持たない民族だからなのでしょうか。このあたりは実際根深い問題なのでしょう。でも、ことさらオーバーに描いている感じもなかっただけに、ここの最終攻防には私は本当にハラハラさせられましたし、なんとか落着したときに泣いちゃったのでした。
 そうしてなんとかかんとかホワイトハウスでのパフォーマンス(今また日本の政治では困った意味に使われたりしていますが)にこぎつけ、けれどそれでよかったよかったハッピーエンドの大団円、みたいな作品ではもちろんなく、現在に至るその後の惨憺たるありさまにもきちんと言及します。これまで3時間かけて舞台の上に息づき、私たち観客にもすっかり知り合いのおじさまのように思えていた政治家たちが、凶弾に倒れ暗殺され志なかばで散っていったことが語られ、スポットライトから外れていく。最後に残るのは主人公夫妻たちだけ。テリエは打ちのめされてがっくり膝をついています。それでも、あの合意が一度はなされたことには変わりはないし、今もパイプがないわけではなく、そこにはかすかな希望の光が灯っている。そして平和の象徴と言われる鳩らしき鳥がその光から羽ばたく音が響き、そして暗転、完。甘いかもしれないけれど、美しい終わり方でした。そうして未来は観客に託されたのだと思います。
 ユダヤ人観客の多いブロードウェイで上演された、アメリカ人作家の作品ではありますが、イスラエル寄りであるとかの印象は受けませんでした。むしろアメリカ外交官(チョウ・ヨンホ)のキャラとか、アメリカ人自身もアメリカ人をステロタイプでこう見ているのかな、とかおもしろかったです。
 それを日本で、日本人役者が(チョウ・ヨンホは在日韓国人役者さんですが)演じるのを観ている日本人観客である我々は、主人公夫妻同様、中立というと聞こえがいいけれど、要するにイスラエルともパレスチナともほとんど無関係、みたいな存在かと思います。でも、だからこそ主人公夫妻が立ち上がり奔走したように、私たちにもできることがあるのかもしれません。そんなことも考えさせられました。
 ただ、テリエに関しては、作家がそれこそ実在の人物であるテリエ自身に会ってこの作品の着想を得て、取材し調査し作品を書いているせいもあるのかもしれませんが、そしてこういうタイプの作品の主人公像としてわりとありがちなことではありますが、けっこう空っぽなんですよね。カイロでの経験が彼を和平交渉の道に進めた、というのはもちろんわかるんですけれど、でもこんな大変なばかりで一文の得にもならないことを人間がやり続けられるものだろうか、そもそもやり始められるものだろうか、と私はちょっと思ってしまったのです。もしかしたら作品の中にちゃんと描かれていたけれど私が読み取れなかっただけで、彼にはもっと動機みたいなものがあったのでしょうか。もしあまりなかったんだとしたら、たとえば彼は社会学者だそうですが、自説を立証するため、としてもよかったのかもしれません。どんなトラブルも当人同士が余人を交えずひとつずつ順番に語り合っていったら絶対に最後にはすべてが解決する、というような自説を、実際に実現させるためにこの交渉をやってみることにした、つまりそもそもは功名心のためだった、とかにした方が、私は納得しやすかった気がしたのです。ただ理想とか義憤のためだけでは人は動かないんじゃないのかなー、とか私はちょっと思ってしまったので。モナはわかるんですよ、夫が始めちゃったことだから手助けしているだけ、とか、そもそも外務省職員なんだからこういうことが仕事でもあるし、みたいなスタンスとかは、ね。でもテリエはなんかよくわからなかったし、人間としてキャラクターとしてそこまでチャーミングに見えなかったのですよ。坂本くんの愛嬌を持ってしても、です。だからそこにだけは引っかかったのですが、あとは、なんせ交渉のテーブルに着く二国の人間がどいつもこいつもみんな濃くて人間臭いので、とても親身になって楽しくおもしろく観られました。当初は超慇懃無礼なウリ・サヴィール役の福士誠治なんか、テレビドラマなんかで見るイメージと全然違っていて、うっかり惚れそうになっちゃいましたよ。上手いし素敵でした。坂本くんの後輩になる河井郁人も二役とも素晴らしく、感心しちゃいました。あと相島一之ホントなんでも上手いよね!
 そして実際、こうした交渉ごとは仲介役など立てず、あくまで当事者同士でがっつり話し合わせること、というのが効果的なんだろうなあ、と感心しました。仲介役相手にカッコつけるようなことをする必要がなくなるからか、本音も出やすいんだろうし、だから当然ガチンコ対立になることも多いんだろうけれど、かえって真意がわかって妥協点も見つけやすいんじゃないでしょうか。だから結果が、急がば回れみたいなもので、時間がかかっても強固なものになる。そういう理論はありそうだし、実際実践されるとそうなるのではないかしらん、と思いました。
 けれど食事とかブレイクタイムのときとかは、仲介役どころかホストの料理人夫妻(石田圭佑、那須佐代子)も警備員(チョウ・ヨンホ、駒井健介)も一緒になってお酒まで飲んじゃう。それでまた別の親しさとか、何かが生まれる。きわどいジョークも受け止められる。こういうことって本当にあるんじゃないかな、と思わせられました。
 彼らは我々は決して西洋なんかではないと言うのだけれど、そしてそれはそうだろうとは思うのだけれど、一方で私たちからしたら同じように「外国」で、要するにこういう、相手をきちんと尊重できて対等に誠意を持って議論できる文化、というものは日本には、特に日本の政治にはないんだろうなあ、それは東洋特有のというよりはやはり日本独自のダメな部分なのかもしれないなあ、とかも考えさせられて、悲しくなったりもしました。そういうふうに思い至れることを考えると、やはりこの作品を現代日本で上演する意義はあるのかもしれません。
 モナやトリルにマドンナやお母ちゃん役を求める感じとかは、現代アメリカ作品でもこんなんなんかーい!と気にならなくもないのですが、まあそこが主眼の作品ではないし、モナに関してはわかってやっているところもあるのかな、とこれは私がトウコさんのクレバーさを愛しすぎ過信しているのかもしれませんが思ったりしているので、流すことにします。
 ハコは気持ち大きすぎた気もしなくもないですが、あの空間がよかったのかもしれないし、もしかしたらこのご時勢で役者たちが距離を取れることはいいことなのかもしれないな、とも思いました。とにかく思っていたよりだいぶ演劇的な作品で、娯楽作ではありませんが、私は好きです。良き観劇でした。







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死ななそう(笑)なこっとん『ロミジュリ』初日雑感

2021年02月15日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 星組ちえねね梅芸初演の感想はこちら
 雪組キムミミあみ大劇場公演の感想はこちら
 月組まさみりちゃぴ大劇場公演の感想はこちら
 星組ちえねね再演大劇場公演の感想はこちら
 外部版はこちら、来日版はこちら

 ボックスも買いました。というわけで咲あゆ新公とこっちゃんしろきみちゃん新公以外は生で観られているわけですが、一気見してみるとそれはそれでおもしろかったですね。特典のビデオコメンタリーも、見入っちゃう彩彩、ついに泣き出すたまあーさ、ずっと笑ってることりゅうの三者三様っぷりもおもしろかったし、お稽古場映像がまた、今はなかなかこの光景が見られないのでワクテカでした。だってお教室の壁沿いに座っている後ろの生徒を見るためのものじゃないですか、お稽古場映像って!?!? それに梅芸初演のお稽古映像がずっと舞台上で、でも梅芸の舞台稽古ってワケじゃなさそうだし(お化粧も、お洋服も)そもそもちょっと狭そうだな、どこだ??と思っていたら、今回のプログラムで稲葉先生が語っていた思い出話によると、当時は本公演ではなかったのでお稽古場確保に難儀していて、梅芸地下の稽古場やドラマシティの舞台を借りられる限り渡り歩いていたそうなので、そのあたりなのかな、と判明しました。なかなか貴重な映像かと思います。
 別箱公演だった初演から本公演に格上げされても、基本的にはアンサンブル人数が増えたのとフィナーレがついたくらいで(あとは番手の関係で「ティボルト」がカットされたり戻ったりしたくらい?)、最初から完成度が高かった、大きな変更がない演目ですよね。本編ラストのデュエダンは月組版からちょっと変わっちゃったんですよね。私は最初のものの方が好きですが、どちらも本当に多幸感があふれたいいデュエダンだと思います。
 今回も、イケコと並んで演出として稲葉先生が加わりましたが、大きな変更はなかったかと思います。「僕は怖い」リプライズのラストは上手だった記憶ですが、今回は下手だったな、くらい? バルコニー場面のラストでジュリエットがロミオに薔薇を渡すくだりの台詞が、「明日になっても気持ちが変わらなければ」みたいだったのが「明日になっても結婚する気が変わらなければ」みたいなものになっていた気がしました。まあ具体的にするのは悪いことじゃありませんが、別に今までどおりでもわかるやろ、って気はしたかな…私はそこよりその前のロミオの「あの気取り屋のマヌケに?」を「~マヌケと?」に直してほしいとずっと思っているのですが…細かいことですが、これはジュリエットが「パリス伯爵と結婚せられそうなの」と言っているのを受けて言っているんだから、「パリス伯爵と」=「あのマヌケと」と助詞を揃えるべきでしょう?
 まあでも、なので、もともと有名なお話だっていうのもあるし、わかりにくいからもっとここをこうしてああ直して…というような要望が初演時から特に生まれなかった作品なので、あとは各役者が各キャラクターをどう演じてくるかな?というのが眼目の、やや気楽な観劇となりました。あ、でも初日チケットは全然なくて、でも取次を当てにして先に新幹線を取っちゃってたんで、お断りになったときは目の前が真っ暗になりましたし、そのあともお友達あちこちにいろいろお願いしたりなんたりしてしまいました…無事に滑り込めてよかったです。

 なので一番の懸念は、ぶっちゃけお衣装でしたよね。先行画像が先でしたっけ製作発表が先でしたっけ、とにかく「何それ? 飛行服? 作業服? いつの時代の何がモチーフ? それがカッコいいってことになっている世界線ってどんなの!? まさか本番もソレでいくの!? 嘘でしょ!?!?」と全米が泣いた(嘘)、どうした有村先生、やはり衣裳デザイナーも歳をとるとダメになるってことがあるものなのか?今までほぼ外さなかったのでは??信じてたのに???ってな感じで、一応心づもりしていたのですが…いやーダメージでかかった。
 ロミオが登場時にまずその問題の上着(だってブルゾンとも言いづらい気が…ジャンパー??)を着てきたときに、「ま、まあ一回は出さなきゃアレだから仕方ない、『いつか』だけだよ、次の場面からは違うお衣装だよ!」と思ったのですが、次もその次も、というか仮面舞踏会場面以外は1幕ずっとこのお衣装…(ToT)2幕になってやっと手が切れるはず!と思ったら、違うけど似てる、てかテイストほぼおんなじの、フードついててコットンとスウェード素材でなんか肩のデカい、またまた変なシルエットの上着で、「ぜ、絶望…」ってなりましたよね…ひばり場面が白シャツイチで、まあコレも肩はデカいシルエットでそこは今ひとつでしたが、もーシンプルが一番!こっちゃんは十分カッコいいんだから変な小細工要りませんから!!ってマジでほっとしましたね…バルコニーとか霊廟とか、上着脱いでシャツになる場面はホントなんぼかマシでした。
 ジュリエットも同様で、登場時の、まあ部屋着なんだろうけれど、そのときのドレスというかお洋服が、なんか謎のプリント地に乗ったシフォンがパープルみたいなグレーみたいなくすんだ色で、ベルトは赤い革っぽいものをしているんだけれど、せめてここはもっとパープルに見える、というかちゃんとピンクに見えるものを着せてあげるべきでは…!?それが彼女のイメージカラーなのでは…!?それともキャピュレット家の困窮ぶりを表現しているってことなの…!?と激しく動揺しました私。それでも「こ、この場面だけかもしれないし」と心を強く持ったつもりだったのですが、パリスが求婚に来て「結婚だけは」を歌うくだりもこのお衣装で、銀橋で全身見てもつらいものはつらいね!?シルエットとかはとにかく(しかし上半身もなんか変だったな…)布が、柄が、色味が変だよね!?!?と泣きそうになりました。仮面舞踏会の新調ドレスも、なんというかアキバ感というか魔法少女感がありましてですね…てかパレードのお衣装が正解だったんですよ、アレのキラキラがちょっと少ないバージョンでいいんですよ、つまり脚を出せってことですよなんだあの変なロングブーツ!? 「エメ」のときのお衣装はポスターとか製作発表のものかな? 私はこれは気にならなかったのでいいのですが、スカートのフリルというか段差というかがお洒落なデザインというより単なるボロに見えたという人もいました。2幕に行くとピンクのガウンがまた袖先に変なリボンが付いているデザインで、かつ左右で色が違うんですよ。お揃いにできないくらい経済的に困っているのかキャピュレット家!?確かここも二種あったような記憶のアリモノのどちらかでいいのでは!? 霊廟での死装束も新調でしたが、これはまあクラシカルな感じで可愛かったからいいかな…しかしホント、全編なんなんだどーしたんだ???って感じでしたよ…
 あんるちゃんのキャピュレット夫人はすーさんパターンかな。そしてなっちゃんモンタギュー夫人は、これまでずっと同じお衣装だったかと思いますが、胸元が変わってスカートのボリュームも増えていました。みきちぐモンタギュー卿も織りというか柄が変わりましたよね。祝・組長、副組長就任! キャピュレット卿はこれまでと同じかな? くらっち乳母はコマのときのものでしたが、もうひとつのお衣装の方が私は好みかなー。でもくらっちはメイクをオカメに作っていなくて、でもいい塩梅のおばちゃん感と現役のオンナ感があって、コミカルだけど情深くてゲンキンっぽそうでもあり、とてもよかったです。
 ベンマーも作業服イメージで新調されていたようですが…しょんぼり。私はベンヴォーリオはあまりモンタギュー・ブルーに染まっていないブラック基調のお衣装のパターンの方が、やや中立ポジションのキャラクターって気がして好みなんですよね…愛や死もアリモノかな? ま、このあたりはこれで十分だったのではないでしょうか。
 フィナーレも…歌唱指導とロケットはともかく、群舞はやや地味っちゃ地味だったかな…? デュエダンはスパニッシュで、まあよくある赤と黒の感じで、これは特に問題なかったかと思いました。バレードのこっちゃんはブルーのリボンタイが坊ちゃんぽくてロミオっぽくていいっちゃいいけど、トップスターでござい!ってカッコ良さにはややマイナスだったかもしれません。ひっとんは小さいティアラも可愛くて(靴の黒の部分は白ママでもよかったかも)、ここの舞台写真は出してください買います飾ります、って感じでした。
 と、東京で変わらないかな…てか次の休演日明けから、今殿堂に飾っているらしいアリモノ衣装に替えてくれていいんですよ…?(ToT)

 あとは、『アナスタシア』ほどではないにせよやはり役の少ない演目で、舞台にたくさんの人が出ている場面は意外に少なくてちょっと寂しいかもね、とか、それこそ『アナスタシア』がすごく上手く映像を使っていたのに比べるとわりと無骨かつ実直なセットと黒カーテンのみで、乳母もベンも真っ暗な中でただ歌うんだね?(ティボは銀橋を渡るのでまた見え方が少し違うかな、と)とこれまた寂しく感じはしました。でもこれはもうヘタに手を入れない方がいい部分なのかな…クラシカルでいい、というふうになっていくのかもしれません。このご時勢で下級生たちも二手に分かれての出演なので、アンサンブルの人数は雪や月や前回星より明らかに初演に近い少なさなので、おちついてきたら組ファンは全員が見られて楽しいでしょうし、みんな役作りを深めてきて小芝居なんかも見応えが出てくることかと思います。とりあえずキャピュレット女のはることマメちゃんのあでやかさ、モンタギュー女のりらとるりはなちゃんのカッコ良さはチェックできました。次回観劇も、またBパターンでも好みの生徒チェックをがんばりたいです。
 そしてこっちゃんに引っ張られてか、みんな歌のレベルが一段上がりましたよね! 危なげがない!! ひっとんもものすごく上手くなったし、かりんたんも健闘していました。みっきーなんかもこれからどんどん良くなるのでは、という予感…せおっちの「どうやって伝えよう」もあたたかでせつなくて、とてもよかったです。でもホントこっちゃんの「僕は怖い」が絶品だったなー!

 では以下、やっと生徒の感想を。
 こっちゃんロミオ。正直この髪型も正解なのか私にはよくわからないのですが(^^;)、タンポポふっ!がよく似合う、優しくおぼこい真面目そうなロミオにちゃんとなれていたと思います。こっちゃんって童顔だし大柄な方じゃないから少年っぽく見られがち…と思いきや声は低いし芝居もクドくできるタイプなので、要するになんでもできるタイプのスターさんだと思いますが、そうなるとまっさらのキラキラのロミオって意外と難しかったりもするんでしょうけれど(ちえちゃんもつい貫禄が出ちゃうから、みたいなことを語っていましたよね)、やはり手堅い、実にバランス良く上手い。そしてホントに歌が上手いし、「世界の王」なんかでバリバリ踊るくだりはホントあざやか! まあでも個人的には昔好きだったとか以前新公でやったとかのシリーズはもういいかなと思っていて、次は今のこっちゃんにふさわしい、そして新しい挑戦になるような当て書きのお役をやらせてあげてくださいよ、とは思ったりもしています。
 ひっとんジュリエットは、製作発表のときはちょっとシズル感がありすぎて「何も知らない16の乙女」には見えない…?とか思っちゃったものでしたが、さすが修正してきました! というか、その上を行ってきましたよ、令和の新しいジュリエットになっていましたよ!! こっとんロミジュリは死ななそう、という前評判もありましたが(笑)、そう、ふたりとも元気で前向きで、ことにひっとんジュリエットは加えてけっこう勝ち気で強気! そうそう、パリスからの花束を「受け取る理由がない」と突っぱねるような台詞が増えていましたね、そういう、真っ直ぐで、好きなものは好き、嫌なものは嫌と言える今どきの女子なのです。「結婚だけは」で銀橋に出るときも花束は乳母に押しつけていました。お花に罪はないし綺麗だから…というような甘さはないタイプなんだと思います(笑)。絶品だったのがバルコニーのくだりで、乳母に二度目に「今行くってば!」と言い返す声がドス効いててホント邪魔!って思ってそうで、客席からも笑いが起きていました。でもその前のキスシーンもよかったんだよなあ。あまりためらったりとまどったりしないスムーズなキスだったんですけど、でもジュリエットの掌がずっとパーでかっ開いて硬直していて、よくある男役の背に手を回して指に力が入ると今唇が触れたんだってわかる、とかじゃないの(笑)、ずっと「はわわわわ」ってなってる感じの手なの! カーワーイーイーーー!! ロミオがヴェローナを出たあと神父さまに助けを求めに行くくだりも、「じゃあどうしたらいいの?」がちょっと泣き言チックに聞こえるジュリエットは私はワガママに感じて苦手なんですが、ひっとんジュリエットは「じゃあどうしたらいいの!」って感じで、対案出してよ実行したるから!って気合いを感じて頼もしかったのです。ただふわふわ流されてしまう、泣いて暮らす少女ではなくて、愛する人とともに生きる道を懸命に探し行動する女、という感じがとてもすこやかで、まぶしかったです。だからこそ、霊廟場面は泣けました…そして本編ラストのデュエダンのキャッキャウフフはまさしくザッツ・多幸感!でした。
 愛ちゃんティボルトはスチールからして「15のときから女を抱いてきた色気…!」と震撼しましたが、でっかくて圧があって長髪も似合っていて、宙組若手時代の愛ちゃんは歌が独特の声のせいもあってかヘロヘロしていたんですけれどこれまたホントうまくなっていて、「本当の俺じゃない」は十分に聞かせてくれました。でもこの人の赤ジャケットの下の黒Tシャツみたいなのもヘンだった…しょんぼり。マーキューシオを刺したあとも顔色ひとつ変えずスキットルかっくらいはるこ姉さんの肩を抱くティボルト、良きでした…歌唱指導の髪型はちょっとあかちゃんパリスと被ってしまっていた気もするので、違う方向を探ってもいいのかも。でもあの全客席を孕ませそうな色気はヤバかったです。あと、こっちゃん中心に男役たちが本舞台でバリバリ踊っていたとき、「これは愛ちゃんがひとり大開段降りてきちゃうヤツ!? トップスターと互しちゃう2番手スターにしか許されないヤツ!?」と私はちょっとワクテカしたんですけれど、娘役さんたちに囲まれて降りてきたのでそこまで強烈な印象にはならなかった、かな…? ただそのあと階段に座り、脚を組み、そして開脚して踊り始めるというのは大変にごちそうさまでした。役替わりをトータルで観たときに私は愛ちゃんが死をやるBパターンの方が全体のバランスがいいのでは?とも思っているので、そちらも楽しみです。ただしパレードのラインナップではトップトリオがノリノリで歌い踊るので、ここで死がニコニコしているとそれはそれでシュールかもしれません…(^^;)

 せおっちベンヴォーリオは濃いグレーないしグリーンに見えるような短髪で、粗忽者と言われるキャラクターですが、いい感じにいい人感があり、こっちゃんロミオとの幼馴染み感、親友感がしっかりあってとてもよかったです。
 なので、かりんちゃんマーキューシオがあまり病的に尖っていたり狂気を孕んでいるというよりはやんちゃが過ぎる感じのあっかるいキャラなのと、ちょうどいいコンビだったと思います。こちらは赤毛でトサカで付け毛長髪で、フィナーレではピンクっぽい地毛かな?になっていて、素敵でした。そして愛ちゃんに負けないタッパとガラのデカさがあって、対等にガチンコ決闘ができそうな感じがとてもよかったです。あと犬の吠え真似が上手かった(笑)。いつもだらんと腰を落として膝が曲がっててお行儀の悪い立ち方してて、キビキビ踊らずダラダラ踊るのがいかにもで、サイコー! 「マブの女王」もまだまだ当人比でかもしれませんが歌えていたと思うし、死に際もよかったです。そして「僕は怖い」リプライズで、死に呼び戻され目覚めさせられたんだけど自分がどこにいるのかわからなくて周りは闇で呆然としてうろたえて…って芝居がとてもよくて、ちょっと泣いちゃいそうになりました。推してるんで甘くてすみません…
 あかちゃんパリスは、お衣装のキラピカ感が増してましたよね?(笑) 髪型はデカいポンパドールみたいな感じで、変っちゃ変だけどトンチキ感はあまりないキャラだったかな。フィナーレで「誰このイケメン! こんな人本編にいた!? あっ、あかちゃんか!」ってなりました(笑)。
 そしてぴーすけが死。顔に傷というか痣というか模様がないパターン、紫の口紅するとかもしてなかったですね。正直、あまりインパクトを感じなかったかなー…なんでだろう?
 愛はさりお。私はダンサーとして認識していますが、今回はこれまたあまり印象がない…細いなー、とは思いました。
 役替わりはあとは大公がオレキザキ、ピーターがはるとくん。てかピーターってこんなポジションの役でしたかね(笑)。それはともかく、大公はさすがええ声でした。あ、あとジョンも役替わりでしたね、すみませんチェックできませんでした! てかココそんなに重要なキャラか??

 モンタギュー夫妻は組長、副組長カップルですね。なっちゃんモンタギュー夫人が「何故」ラストに神様に向かって天に訴えかけるように大きく両腕を伸ばしていたのが印象的でした。そこからの「♪息子は帰らない」…泣かせますよね。キャピュレット夫人と手を取り合うのもわりと早いタイミングで、安心しました。
 キャピュレット卿は初代パリスだったみっきー。「娘よ」は正直もっと歌えるかなと期待していたのですが、これから練れてくるかな。スチールの現役感がたまりませんでした。あんるちゃんの夫人も前回の新公に続いてかと思いますが、こちらも「憎しみ」などもう少し楽々歌うかなと思っていたのですが意外とそうでもなかったかな…あまりギラギラしていないマダムにも見えましたが、こちらもこれから練れてくるのかもしれません。愛ちゃんとは同期で叔母と甥で愛人…ムフフ、となりました。
 くらっちの乳母は絶品でしたね! 「あの子はあなたを愛してる」は美穂姉さんでも苦しげだった地声と裏声の変わり目を楽々クリア、かつ心情あふれていて、歴代最高だったのではないでしょうか…前回新公のふーちゃんも好きでしたけどね。
 あとは四回目の神父じゅんこさん、安定の、でしたね。髪型がロミオに合わせて片側寄せのウェーブで、なんなの流行ってるの?となりましたけど。まとわりついてきた小さい頃のロミオを思い浮かべる様子が、こっちゃんを初舞台の頃から見守ってきたのであろう中の人の優しい視線とダブって見えました。
 「ヴェローナ」で愛がくっつけかける、そして霊廟の「罪びと」で夫人たちの次に抱き合う男女はひーろーといーちゃんでした。舞踏会のアトラクションはいろはすのピエロのバトン。「綺麗は汚い」で乳母がくっつけた男女は誰だったかな? あ、ここの手拍子の入り方は完璧でしたが「世界の王」は早すぎましたよ、各人のソロはちゃんと聞いてから、3人が銀橋に出るあたりからにしましょうよー。
 ラストのカゲデュエットは小桜ほのかちゃんと颯香凛くん。舞踏会のカゲソロは都優奈ちゃん。エトワールもほのかちゃんかでした。

 カテコで、こっちゃんの視線があまり上に上がらないな、とか思っていたんですけれど、そうだ二階席は客入れしていないんでしたね…生徒は寂しいだろうなあ。ともあれ星組さん的にはやっと年が明けたようなので(笑)、引き続きご安全に、無事上演が続くことをお祈りしています。Bパターンも早めに観られる予定なので、楽しみです!



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