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駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『ラヴズ・レイバーズ・ロスト』

2019年10月26日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 シアタークリエ、2019年10月21日18時半。

 バークシャー郊外のスパ付き高級リゾートで、大学卒業5周年のパーティーが行われている。国王のファーディナンド(三浦涼介)は同窓生のビローン(村井良大)、デュメーン(渡辺大輔)、ロンガヴィル(入野自由)とともに、これから3年間は恋愛禁止でひたすら勉学に身を捧げるという誓いを立てる。そこにフランス王女(中別府葵)とその親友ロザライン(沙央くらま)、キャサリン(伊波杏樹)、マライア(樋口日奈)がやってくる。王女は病身の父の代理で借金返済の交渉を任されてきたのだ。誓いを立てた以上、女性と接触するわけにはいかないと王女たちの訪問を拒絶しようとする国王たちだったが…
 原作/ウィリアム・シェイクスピア、楽曲/マイケル・フリードマン、脚色/アレックス・ティンバース、翻訳・訳詞・演出/上田一豪。2013年ニューヨーク初演。全一幕。

 原作『恋の骨折り損』は未読。まあ中学生くらいのころ読んだかもしれませんが、筋は覚えていませんでした。禁欲の誓いを立てた男たちが女たちと恋に落ちて右往左往のドタバタ喜劇、程度の知識で臨みました。
 現代の大学生に設定が変更されているようでしたが、国王とか王女とかはそのままだし、出会った男女が一目惚れだったのかはたまたかつての恋人同士だったということなのか明快な説明がなく、というか台詞であったのかもしれませんがよく聞き取れず、またそれぞれのキャラクターの特徴なんかも特に描写されないままに話が始まるので、ややおいてけぼり感は感じました。
 ただ、キャストがみんなとにかく歌が上手くて、楽曲はどれも楽しく、恋する男女の歌謡ショーみたいなものだと思って楽しめば十分楽しめたので、楽しかったです。歌唱力に関しては本当にノーストレスだったなー。
 こういうところに宝塚OGがまざるとスターオーラはともかく歌唱では見劣り(聴き劣り?)するのが常ですが、コマちゃんはまったくそんなことはなくて感心しました。パンチあるし地声も高音も上手いし、ひとりだけちゃんと芝居歌になっていたのはさすがでした。あとはみんなキャラソングみたいだったんですよね、あとホントに歌謡ショーみたいで。でもコマちゃんの歌はちゃんとロザラインとしての歌になっていたのでした。また、実年齢もこの女性キャストの中では高い方なのではないかと思いますが、『PUCK』や『AfO』でも発揮していた娘役力をここでも存分に発揮して、別にぶりっ子しているとか若作りしているとかではなくてちゃんと大学生くらいの女子に演技として見せていました。その技には感嘆しましたね。みんな可愛くて綺麗で達者なんだけれど、でもアイドルだとか声優だとかの他のキャストとはやはり舞台での居方がコマひとり違う気がしたのです。さすがです、プロの舞台女優でした。
 でもこの作品自体はこうしたアイドルや声優や2.5次元俳優なんかを目当てに若い観客が集まるものになっていて、それはそれでフレッシュで物珍しく、また成功しているように見えたので、それもおもしろく感じました。ポスターがとてもよかったし、ポップなデザインのプログラムもとてもお洒落でした。ツアーもある公演なんですね、成功をお祈りしています。


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『オイディプス』

2019年10月19日 | 観劇記/タイトルあ行
 シアターコクーン、2019年10月17日18時半。

 「父を殺し、母を娶るであろう」という恐ろしい予言から逃れるため、放浪の旅に出たコリントスの王子オイディプス(市川海老蔵)は、旅先のテーバイで他国の脅威を退け、法の秩序を取り戻した英雄として請われ、王になる。先王ライオスの妃イオカステ(黒木瞳)を妻に迎え安寧な日々を送るが、まもなくテーバイに疫病が蔓延し…
 原作/ソポクレス、翻案・演出/マシュー・ダンスター、翻訳/木内宏昌、美術・衣裳/ジョン・ボウサー、振付/シャーロット・ブルーム。ギリシャ悲劇の最高傑作と言われる『オイディプス王』の設定を大胆に引き継ぎ、歌舞伎、現代劇、ダンスのコラボレーションで上演。全一幕。

 たとえばイシちゃんの『オイディプス王』なんかも観ていますし、話は知っているわけですが、久々にワケのわからない舞台を観てしまいました…
 別にオイディプスがスーツを着ていようが、テーバイ市民に政見放送みたいなのをしようが、コロスたちが街から官邸?に入るのに防護服を脱ごうがいいんですけれど、単純に戯曲としてよくわかりませんでした。つまり現代だか近未来だかに翻案されているからわからない、ということではないと言うことです。
 ストーリーはあらすじにあるようには展開せず、すでにオイディプスはテーバイ王になりイオカステとの間に子もなしているところから始まるので、そもそもどうしてここに至ったかなどがあとから語られるのですが、それだと我々観客がすでに古典としてネタバレとして知っている設定を劇中の彼らがどこまで知っていて知らないなら今どう知ることになるのかその順番がよくわからず、共感も感情移入もできず謎解きもスリリングにも気の毒にも思えず、とにかくどう観ていいのか、どう捉えていいのか私はさっぱりわからなかったのです。コロスもそのリーダー(森山未来)もよくわかりませんでした。
 私は歌舞伎もくわしくないし海老蔵がどういう歌舞伎役者なのかも全然くわしくないのですが、別に歌舞伎っぽいとも感じませんでしたし、ただ単調にとうとうと台詞を言っているだけのようで、はっきり言うと眠かったです。ショーコちゃんもどういう女性なのかキャラクターとしてよくわからなかったし、海老蔵の母親の歳に見えているのかどうかもよくわかりませんでした。
 セットは素敵だなと思ったんですけれどねえ…あと照明もよかった。でも映像の使い方はやっぱりよくわかりませんでした。スタッフがみんな外国人なので、西洋と東洋の融合とかなんとかいうものを狙ったのかもしれませんが、とにかく私にはよくわかりませんでした。残念です…






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宝塚歌劇雪組『ハリウッド・ゴシップ』

2019年10月19日 | 観劇記/タイトルは行
 KAAT神奈川芸術劇場、2019年10月17日11時。

 1920年代、サイレント映画最盛期のハリウッド。映画スターを志しながらもチャンスに恵まれないエキストラ、コンラッド・ウォーカー(彩風咲奈)は、これを最後にと新人発掘を謳うトーキー映画の主演オーディションに挑む。しかしこの企画は、大物プロデューサーのハワード・アスター(夏美よう)が仕掛けた話題作りにすぎず、実際は若手スターのジェリー・クロフォード(彩凪翔)主演が決まっていた。そのジェリーはロケ先のダイナーで見つけたウェイトレスをヒロインにしなければ主演しないと要求するなど、わがまま放題で…
 作・演出/田渕大輔、作曲・編曲/青木朝子、編曲/植田浩徳、録音音楽指揮/橋本和則。雪組二番手スター彩風咲奈の主演三作目となるミュージカル・スクリーン、全2幕。

 12日11時のチケットを持っていたのですが台風で中止になり、フォロワーさんからご縁あってお譲りいただいたチケットで観ることができました。ありがたや。
 『パルム』『ネモ』と観てきたのでやっとまあまあの作品に当たれてよかったねと祝いたいような、でも悪い言い方をすればめっちゃベタいやむしろ通俗的で凡庸でアイディアも新鮮みもない作品でコレもっとおもしろくできたやろと歯噛みするような、そんな観劇になりました。
 ハリウッド・バビロンだから劇中劇が『サロメ』ってのもベタベタなんだけれど、かのちゃんサロメのダンスがよかったのと、サロメとヘロデ王との関係性の翻案がよかったのは褒めてもいいです(毎度偉そうでホントすみません)。てかむしろ二次創作っぽくてアマンダ(梨花ますみ)の発想ってこっち側なんだなと微笑ましくなりましたが(笑。もちろん考えているのは田渕先生なんだけれど)、でもコレ別に義父のままでもなんら問題ないし、ジェリーというかナギショーがやるなら若く見えるに決まっているので、むしろいらない翻案だったかもしれません…コンラッドが頭角を現してきたら撮ったフィルムを編集してヨハネ主人公の作品に仕立て直しちゃおうとする、ハワードのしたたかさには笑いましたし感心しましたけれどね。田渕先生にはむしろこのしたたかさやバイタリティが必要なのではないでしょうか…?
 人物の描き混みが浅いのはもちろん、なんといってもコンラッドが嫌な男に見えかねないのがなにより気になりました。でもこれ、二幕でコンラッドがエステラ(潤花)に語る来し方のくだりをもっと前に、開幕してすぐ観客に提示するだけで全然ちがうと思うんですよ。この作品で私が唯一オリジナリティ、新鮮みを感じたのはコンラッドのこの陰キャ設定だったんですけれど、この位置に置いといたんじゃ不発で、もったいなかったです。だって今、冒頭のオーディション場面のコンラッドのあまりのふがいなさには「才能がないからスターになれないんだね…」としか思えないし、アマンダの特訓で制作発表記者会見の場をさらってしまうくだりもヒロインの晴れの場を奪ったように見えちゃうと思うんですよ。それじゃダメじゃないですか、観客に主人公を好きにならせて、心を沿わせて、物語を追うつもりにさせなきゃダメでしょ? だから早いうちに主人公の人となりを描き魅力を見せなきゃダメなんです。ただ咲ちゃんがやってるだけで魅力的に見てもらおうってのはいくら座付きでも作家としての仕事を放棄していますよ田渕先生。過去話が先にあれば、オーディションに上手く対応できずに失敗ししちゃうくだりも愛しく見えるし、スター誕生してやったり!ってところもちょっと調子に乗っちゃったんだね愛しいね、ってなるのに…
 そもそも我々観客は一般人なので、主人公の映画スターになりたい、という想いに寄り添えないのが普通なので、そこから説明してほしい、と私は思います。で、恥ずかしがり屋で引っ込み思案で本当の自分に自信がなくて、だけど映画に魅せられて、お芝居でならなんにでもなれる、演技でならどんなことでもできる、ということに目覚めて役者を目指したんだ、とくれればとてもわかりやすいし共感しやすいと思うんです。自分が嫌い、自分に自信がない、というメンタリティはけっこう多くの人に刺さると思うので。
 でもそれとスターになってチヤホヤされたいとか贅沢三昧の暮らしがしたいというのとは違うと思うし、そこを混同させないでほしいんですよね。そのあたりは微妙だったかな…エキストラ仲間たちをもっと上手く使って、俳優志望にもいろいろある、みたいなのをもっと上手く見せられるとよかったんでしょうけれどね。
 ジェリーは大根(かどうかは言及されていませんが、少なくとも踊れないスターだということになっています)だけど美貌で人気があってだからわがままで、スタントをしてくれるコンラッドを自分専用にしておきたいからコンラッドの邪魔をする、演技もコンラッドの方ができるのに無名だからと起用されなくて悔しくて…とかもあればなおわかりやすいけれど、そういうのもないんですよねえ。コンラッドが何故今まで成功できなかったのか、の説飯は必要だと思うのだけれど…
 とにかく全体にキャラ設定やエピソードに深みがなくて、パッと思いつきそうなことをひとつやっておしまい、なのもちょっとしんどかったです。だってジェリーの「わがまま」描写ってほぼ遅刻押しばかり、それもひとつふたつだけなんですよ。もっと考えましょうよ…
 コンラッドが何故このオーディションで最後にしようと決心したのかも語られませんが、なんだったんでしょうね? そこにはドラマはなかったの…?
 いいところもたくさんある作品なんですよ? ことにダイナーの場面は一幕も二幕も出色で、だからこそ本当に惜しかったです。きゃびぃがいいのはもちろん、ここはものすごく芝居になっていました。もったいないなあ…
 エステラに関しても描写は中途半端なんだけれど、移民で孤児で働き者で人間観察が好きでそこにドラマを見立てて幸せになれる人種で、たまたま美貌でスカウトされてちょっと演技をやってみたいと思ったけれどそもそもそんな大きな野望はなくて…というのは十分だし、あまりガツガツしていないこの設定はちょっと新しいので、よかったんですよね。コンラッドが惹かれるのもよくわかりましたし、世界恐慌で映画がポシャってからの再会のくだりもとてもよかったです。ベタだけど、お行儀悪いけどあのカウンターの使い方もよかったし、怒ってあきれていた女主人(早花まこ)がエステラがカウンターに上がるのに最後に手を貸すのにもニヤリとさせられました。
 でも、それだけなんですよね、ストーリー展開もとてもイージーでしたしね…あまりにも「いかにも」な話すぎました。フィナーレがたっぷりだったのは単に話がなくて尺が余ったからにすぎないんですよ…残念だなあ…
 あとラインナップはとてもお洒落でしたが拍手が入れづらかったので、このあたりも工夫がもう少し必要だと思いました。
 すわっち、あがちん、はいちゃん、ゆめくんなどみんな役不足でもったいない。ひまりんも妃華ゆきのちゃんもいつでもどこでも可愛かったけどもったいない。まなはるもカリも愛すみれもこういう仕事ができるのはもう知ってるんですよ。ファンにもしんどい公演ではなかろうか…イヤ余計なお世話でしたらすみません。
 失礼ながら意外にもよかったのはナギショーでしたが、宝塚歌劇で薬物なんて、というのを別にして宝塚歌劇でこういう役をこういうスターに当てるのって、けっこう酷ではないんでしょうかね…そこも含めて、でもしっかりジェリーを演じてみせているナギショーに感動しました。でも私は宝塚歌劇のファンとして、ここを消費したくないんですよ…
 ジェリーのゴシップに群がる記者たちの醜悪さはでも、その記事に群がり喜び消費する新聞の読者やラジオの視聴者、ひいては私たち観客の醜悪さに通じるものなので、これにもざらりとさせられ、私は微妙な気持ちになりました。タイトルにしているくらいなんだからここに田渕先生の主張があるのかもしれませんが、ちょっとやりっ放しの描写でもありましたし、そのあたりも消化不良かなと感じました。あとポスターとイメージが合っていないし、そもそもあのポスター自体があまり集客力ある感じじゃなかったのが残念でした…

 毎度のことですが文句ばかりで申し訳ないです。
 でもハシボーじゃないからこそもったいなく思ってしまったんですよー。
 なんにも考えずただ楽しむ、とかができない質ですみません。本人はこれで楽しいんです。ここはいいなここはダメだなもっとああならいいのにこうならそうなのに、と考えながら楽しんでいるんです。
 そして、どこに出しても恥ずかしくない、みんながおもしろいと思い楽しめ何度でも観たい再演してほしいと言われるような名作が常に制作されてほしい、と願っているのです。なので今日も懲りずに劇場に行くのです…

 咲ちゃんがなんでもできる立派なスターさんなのは知っているので、あとはさらに人気爆発するような当たり役に恵まれることを祈っています。
 かのちゃんは、あーちゃんの後任でヒガシマル醤油のモデルを務めることになったようですね。なので順当にいけばここが次代の雪組トップコンビなのかな? 私は声が好きだし芝居がいいと思うしダンスは絶品、歌も今回は危なげがなかったので、あとはよりいっそうの娘役力の習得と鍛錬を、と願っています。さらに、りさちゃんみちるひまりんも大事にしてねと念じています。
 次の本公演はお正月公演ですね。原作映画は未見ですが、楽しみにしています!


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宝塚歌劇雪組『はばたけ黄金の翼よ/Music Revolution!』

2019年10月14日 | 観劇記/タイトルは行
 カルッツかわさき、2019年10月13日13時(初日)、17時。

 中世、北イタリア。湖の国イル・ラーゴの若き領主ヴィットリオ・アラドーロ(望海風斗)は、宿敵である隣国ボルツァーノの領主カンポ公を暗殺する。その後、ボルツァーノの宰相グリエルモ伯爵(久城あす)の策略で新カンポ公ジュリオ・デル・カンポ(永久輝せあ)の異母妹クラリーチェ(真彩希帆)と結婚することになったヴィットリオは、他の女たちとは違い、自分の道は自分で決めたいと語るクラリーチェに興味を持つ。だがヴィットリオの影とも呼ばれる腹心の部下ファルコ・ルッカ(朝美絢)は、クラリーチェの存在がヴィットリオとイル・ラーゴを滅ぼすことになると危ぶみ…
 原作/粕谷紀子、オリジナル脚本/阿古健、脚本・演出/小柳奈穂子、作曲・編曲/寺田瀧雄、青木朝子、編曲・録音音楽指揮/御﨑惠。1985年に当時の雪組トップスター麻実れいのサヨナラ公演として上演された舞台を潤色・新演出で34年ぶりに再演。

 台風19号の上陸で12日の公演が中止になり、この日も開演を2時間遅らせての上演になりました。なので結果的に初日公演を観劇することになりました。
 被害に遭われました方々にお見舞い申し上げます。
 私は無事でした。もともと心配性の父親があれこれ常に備えているのを見て育ったのでひとり暮らしを始めてからも食料の備蓄などしている方でしたが(単に無精で買い溜めしがちだとも言う)、震災以降さらに避難リュックその他の準備も自分なりにですが念入りにしてきたつもりです。結果的にはうちの立地や方角からは前回の台風より雨風は弱く感じましたし、去年の台風ではリビングの網戸が外れて寝室の室外機置き場に引っかかり、その室外機も位置が大きく変わっていて再設置に時間がかかったりしていろいろ大変だったのですが、そういった被害はまったくありませんでした。窓枠に養生テープを貼ったり桟に新聞紙を詰めたりもしたのですが、風向きの関係か隙間風の吹き込みなどもほとんど感じませんでした。停電や断水にもならず、気圧の関係かやたら眠かったので昼寝したりはしましたが、基本的には録画消化と読書でのんびり家に籠もっていました。テレビのニュースやツイッターは不安になりすぎない程度にちょいちょい覗いていて、ツイッターはやはり心の支えになりました。地域メールや防災アプリが知らせてくる警報類は過去最高数で怯えましたが、備えがある以上はヘタに近所の小学校の安普請の体育館に避難するより自宅の方が安全、と心に決めてじっとしていました。むしろ近くに川のある実家の方が心配でしたが、父親がしっかりしたLINEの返信をしてきたので安心できました。
 生徒さんたちは会場の近くの宿泊だったのでしょうか。雪組KAATは初日開いてすぐ翌日の公演が、そして星組は前楽が中止となってしまいました。ファンの心中は察しきれませんし、生徒もできるものならやりたいと思っていたことでしょうが、まずは安全第一で判断が下されてよかったです。私も公演中止と鉄道の計画運休との発表でいざよくあきらめられました。そうでなければやはり万全の支度をして自己責任で行くだけ行こうとしていたと思います。
 この日も、鉄道の運行開始が思いの外早く、スムーズに現地につけて助かりましたが、何時間かかってでも行こうと考えていたりしました。改めて、日々、あたりまえのように、定刻どおりに電車に乗れて定刻どおりに公演が観られていろいろものが買えて運んでもらえて…ということの奇跡に感謝します。それと同時に、全体にもっとバッファを儲けないといろいろ危ういだろう、とも改めて感じました。全国ツアーなんて特に、乗り打ちもけっこうあるようなスケジュールで組まれていますが、今までなんとかなっていたのが不思議なくらいなワケで、今後は今回のことを教訓に、もう少し余裕を見ていただければと思います。興業としては大変でしょうが、生徒のためにも、ファンのためにも手厚くしていった方が、長期的に見ていいに決まっていますからね。残念ながらまた休演者が出てしまいましたしね…
 そして私は当日、同じ回を観るお友達に声をかけてもらって開演前にお茶ができて終演後には呑めて、すごく楽しくて発散して、逆に、ああやはりここ数日はストレスかかっていたんだな緊張していたんだな、とわかりました。お互いの支度や顛末をおもしろおかしく語って、もちろん公演についての萌えポイントなんかもわあわあ語り合って本当にリフレッシュしましたし、被害がなかったからこそ笑い話にできるので、改めてありがたく感じました。
 全国ツアー、くれぐれも事故のないよう、ご安全に。すべての公演が、エンタメが、インフラが、日常生活が、いつもどおり、そしてより良く豊かに優しいものになっていきますように。微力ながら自分も何かしら努めたく思います。

 さて、では以下公演の感想を。完全ネタバレで語りますので、未見の方はご遠慮ください。もうご覧になった方、残念ながら観る予定がないという方にお読みいただければと思います。毎度のことですが2回観ただけの、ごく個人的に感想であることはお含みおきください。
 原作漫画は未読、初演もたーこさんがイチロさんを襲う場面(オイ)とキンキラプロローグの主題歌サビくらいしか知りません。てか『はばたけ~』と言えばこの場面がよく再生されますがほぼレイプやろ、という気もしていて、でも今回はそんなことはなかったので、やはりなーこたんの手がかなり細かく入っているのかな、と感じました。ブツブツザラザラでもいいから初演がまるっと見てみたいなー、スカステで放送されないのかなー。どう改変されているのかが知りたいです。原作漫画ともけっこう違うと聞きますよね、読んでみようかな…

 だいもんのヴィットリオ。ナウオンでは、のし上がり系とかではなく最初から嫡子で御曹司で今は一国の王で、というタイプの役は珍しく難しい、みたいなことを語っていましたが、その辣腕ぶりから来る傲慢さやワンマンぶり俺様ぶり、でも臣下たちを心酔させるカリスマ性、リーターシップみたいな魅力もたっぷりの、良き主人公像でした。意外に書き込みや説明がないキャラクターで、昔のお芝居にわりとありがちな、それで十分やろみたいな放りっぱなし感は感じますし、だいもんの歌が意外に少ないので、1曲生い立ちを語るようなバラードみたいなのがあってもいいのにな、とは個人的には思いました。「♪強くあれと父に教わって育った、王たるもの愛されても愛するな、愛は弱みだと、なのに今青い小鳥が飛んできて歌う…」みたいな、さ(笑)。ナウオンでだいもんとあーさが、ヴィットリオとファルコの友情の歌みたいなのがないので腹心で親友でみたいなことの表現が難しくて、みたいなことを話していたときにだいもんが即興で作詞作曲した歌がいかにもそれっぽかったわけですが(ホントこのひと宝塚ファンというよりただのオタク、しかもこちら側のオタクですよね…(笑))、主人公にもぜひ欲しいと思いました。ただ今回に関してはなくてももちろん背景は類推できるし演技として目に見えているもので一応十分ではあるとも思えますし、だいもんの美声はラストまで取っておくことであの歌での説得力を増す効果にしたのかもしれません。
 再演が決まったときにみんなが言ったという鬘に関しても、すごく素敵でした。プログラムではちょっともっさりして見えたけれど、舞台では全然そんなことはなかったです。大きなお衣装も着こなしていましたし、さすがでした。
 ただ全体に、これは出演者全員に言えることなんですが、もっともーっとたっぷり大芝居してもいいんだろうな、と思いました。もっと大仰さが欲しい、クラシカルさが欲しい。古臭い芝居をあえてやっているのだ、というギミックがあった方がいいと思うのです。でも普通に聞こえましたしなんなら早口に思えるときもありました。全ツは各会場の音響設備がいろいろだろうからまた大変なんでしょうけれど、だからこそさらにもっとゆっくりたっぷりしゃべった方がわかりやすいし雰囲気が出やすいだろうと思いました。
 ヴィットリオの本編での登場シーンのベタベタさとか、こういうお芝居だからこそ失笑することなく成立するので、今後も絶対にこういうもののときには受け継いでいってほしいと思います。なーこたんはニヤニヤしながら意識的に残したのではないかしらん。ファルコのこじらせソングの前奏、入り方、後ろの幕のしまり方とかもたまりませんでしたもん。もちろんあの超直接的な歌詞もね! いやーベタ大事です。
 一方、違う意味で「なーこたんたら!」と思ったのが「フッ、おもしれー女」ですよ! いやヴィットリオの台詞はこんなじゃないんですけれど、これ系の台詞を、つまり最近の(というかちょっと前の)少女漫画の流行りへの揶揄をぶっ込んでくるところですよ! この台詞、おそらく原作漫画にはないですよね!?
 つまり、ちょっと前の少女漫画では、学園一のチャラモテ男に才媛でもなんでもないごくごく普通の女の子であるヒロインが忖度せずつっかかったりなんかしたりして彼の興味を引き「おもしろいヤツだ」と認識されそこからラブが始まる…みたいなシチュエーションのものばかりだった、という皮肉を、あえてやってみせてるんだと私は思ったのです。さすがだいもんとはまた違う意味でのオタクだよねなーこたん…
 でもここより何より霧の十字路でほぼ一目惚れだったんだろうなと思うとホント微笑ましいですヴィットリオ…意志の強そうな女が新鮮で惹かれる、なんてやっぱり単なる後付けで、単にやっぱ顔が好みで可愛いから気になったんやろオイ、と言いたい(笑)。ボルツァーノの舞踏会で兄と再会して喜ぶクラリーチェにケッて顔して不機嫌になっちゃったり、騎士たちと次々踊るクラリーチェが楽しそうなのに妬いてダンスの相手に名乗り出ちゃうところとか、ホント可愛いったらなかったです。
 やっぱり相思相愛、いいですね! 『20世紀号に乗って』みたいなハチャメチャコメディももちろん楽しかったけれど、ド少女漫画のキュンキュンぶりはやはり王道のどストライクで、円熟期に入りつつあるだいきほでやってこそのいい案配のラブを感じました。今後どんどん芝居が深化していくんだろうなあ、いいなあ、梅田チケ落ちてこないかなあ…

 クラリーチェのきぃちゃん、可愛いカワイイ可愛い! イチロさんはもっと硬そうな印象だったけれど(今ならあみちゃんが本公演ヒロインやるようなもんだもんね、そりゃいろいろアレだよね)、きぃちゃんはさすがですよやわらかくてひたむきでしなやかで、かつカマトトにならない絶妙さ! 鬘もいい! お衣装もどれも素敵! 美声はもちろん、素晴らしいヒロインっぷりでした。個人的には特にファルコに首締められてるときの様子がホントにしんどそうで迫真で、あまりの上手さに舌巻きました(笑)。
 ただ、これはきぃちゃんのせいでは全然ないんだけれど、ジュリオに唆されてヴィットリオの浮気?現場を見てしまうくだりは、実際にあった方がわかりやすかったのではないでしょうか。カーテンの向こう、シルエットのふたり…程度でいいので。そしてショックを受けたクラリーチェがそこを立ち去ったあとか、もっとあとの全然別の場面ででもいいのだけれど、父に言われてヴィットリオの夜伽(笑)に来たビアンカ(彩みちる)をヴィットリオは実際には抱かなかったのだ…とした方がいいと思います。原作はいざ知らず、ここは宝塚歌劇として、また女性が望むラブロマンスのコードとして、ここでやる男なんざダメですよ。この時点でクラリーチェが心はいざ知らず身体だけはすでにヴィットリオに与えてしまっているのかどうかは謎ですが、それとは別にヴィットリオの気持ち自体はすでにクラリーチェに傾ききっているので、他の女を受け入れてちゃ駄目なんですよ。どんなプレイボーイだろうとヒロインと恋に落ちたら以後一途、は鉄則です。当時のこの国この社会この階級の男女間ではこれが普通、みたいなこととは別に、今見る観客に受け入れられるものにしなくてはならないのです。ヴィットリオとビアンカは寸止め、未遂じゃないとダメ。あとでジュリオが受け入れようと謝ろうとビアンカが謝ろうと受け入れようとダメ。ここでビアンカが「ヴィットリオさまは何もなさいませんでした」とか言ってもいいし、その前にヴィットリオがジュリオに「他の男の名を呼んで泣き叫ぶ女を抱く趣味はない」とかなんとか嘯いてもいい。とにかくここはクリアにしてほしかったです。
 あとラストの湖畔のやりとりも、この私が言うのもなんですが理屈っぽすぎる気がしました。ヴィットリオがズバリ、「俺はおまえを愛している、だからおまえの意思を尊重する、おまえの行くべき道はなんだ?」と問い、クラリーチェが「兄の言うままに嫁いできたけれど、今は自分で考えて自分で決めた、あなたのそばにいたい、あなたとともにはばたきたい」と応えればいいと思うのですよ。もちろんそれはそのあとの歌でちゃんと表現しているんだけれど、その前の出ていく云々がとにかくもう、荷物も持たずに「どこか遠く」に行くとか言ってる時点ですでにノープランでダメダメで、クラリーチェを自立した意志あるヒロインというより愚かな世間知らずの小娘に見せているだけだと思うので、カットした方がいいと思うのです。だいたい教皇の覚えもめでたくなっちゃってなおさら離婚なんかできないじゃん、無責任にも見えちゃうし…ホントここはど直球ベタベタでいいと思うんですよ、いくら現代の働く自立した女でも好きな男に物語の中でまで「好きにやってこい、俺はいつでもここでおまえを待っている」なんて言われたくないと思うのです。そりゃ冷たく聞こえるよしんどすぎるよストイックな生き様の強要だよ、なんならはばたきたくない羽を休めてぬくぬくしていたいのが本音なはずですよ(笑)。一瞬独立独歩オチになるの!? ヤダ!! と怯えましたもん、私…さあ結婚式だ!みたいな純粋ラブラブハッピーエンドでいいんですよ、ここには現代フェミニズムは要りませんよなーこたん…

 初演でもファルコがモサクさんなので二番手役で、ジュリオが三番手のかりんちょさんでしたが、どうしてどうしてジュリオの方がいい役だし大きくも見える気もしましたが、これはあーさとひとこのニンに合わせたのでしょうか…こういうあーさは『ひかりふる路』でこういうひとこは『ドン・ジュアン』で観ましたがしかし、いいものはいいのだからこの程度の繰り返しは問題ないのかなと思います。かつふたりとも進化していましたしね。
 ファルコはこれまた説明が少ないお役で、ヴィットリオの「影」を自他ともに任じる腹心でありともに育ってきた親友、です。乳兄弟なのかな? 主君を「光」たらしめるために自身は「影」に徹して、権謀術数駆使してあらゆる汚れ仕事を引き受ける家系の生まれ…オタク皆殺しの萌えですね! 俺が領主の息子の方だったら、みたいな嫉みはないんでしょうね。ただ自分がちゃんとした「影」であるためにもヴィットリオには「光」であってもらわなければならなくて、それであればこそ他の臣下たちとは違い自分だけがその孤高で絶対で唯一のものの唯一の相手であれる、という誇りで自分を満たしてきた人なのでしょうね。だからヴィットリオが誰かを本気で愛することが許せなかった…
 当時の少女漫画ではあるし、原作ではゲイっぽい描かれ方だったんでしょうか? でも私はあーさファルコを観ていて、ゲイというよりは単なる女嫌いか、はたまた宦官ではないにせよむしろ性的不能者っぽい空気を感じました。ヴィットリオを愛しているからやっているわけではない、というのが上手く出ている、という意味では正しいのかな。今っぽく変に女々しくゲイゲイしくBLっぽくやるのは違う気がするので、ちょうどいい案配だと思いました。初演ではヴィットリオを鞭打つのがファルコで、そこでこうした心情吐露もされていたそうですから、そのあたりがカットされている形になりますが、十分類推できるしいいのかな、という印象です。
 あとはホント美形! この美貌はホント武器ですよね。
 最後にジャンヌ(星南のぞみ)にペンダントを渡すのは…多少の想いはなくもないのかもしれないけれど、でもそれは罪だよ、綺麗にフッてやった方が女はさっさと次へ行いけるのにひどい男よのおファルコ…と思ったりもしました。ラストの十字路の場面は上手い演出で、憎いです。

 ひとこジュリオもビジュアル最強! コスチュームもの、もっとやればいいのになあ雪組!! そしてこの物語は、宰相に操られていた傀儡の御曹司が真に君主として目覚めるまでの成長物語、でもありましたね。ひとこはそれをすごく上手く体現していて感心しました。優しいんだけど甘ちゃんな感じとか、優柔不断で情けないギリギリな感じとかがすごくよかったです。この時代のこんな境遇の男が普通、腹違いの妹になんかあんな優しくないよ? 父の愛人にすぎなかった妹の母親に関してあんなふうに優しく妹にフォローしてあげるなんてなかなかないよ? おそらくここも愛なき政略結婚だったのであろうジュリオの母親ももう亡くなっているのでしょうね、家庭に恵まれず寂しく育ち、だから幼なじみのように育ったビアンカとほんわか愛情を育ててきたのかもしれません。はー萌える。
 でも冒頭、グリエルモに「策略」って言うのはおかしいよ、これはマイナスのニュアンスの言葉でしょう。「計略」か「政略」かなあ? ロレンツォ(綾凰華)なんかがグリエルモを策略家と評するのはもちろん正しいわけです。
 初演から改変されて鞭打ち担当(笑)になっていて、ここでビアンカのことを含め宰相の言いなりになっていることを揶揄されて激高しての行為、となっているので、ヴィットリオもジュリオも痛々しくてせつなくてシビれました。まあその前にさんざん拷問していることは事実で、臣下にも正気を心配されちゃってるくらいなんだけれど、その危うさもまたいいキャラだと思うのです。
 なのでビアンカは傷物とならずにジュリオの元に戻ってきたことにして、ふたりでがんばってボルツァーノを治めていってください…

 ファルコの妹ロドミア(朝月希和)、ひらめちゃん。大きな役で驚きました。柴田ロマンならありそうだけれど、油断していました。初演は歌姫タイプの別格娘役が演じていたのでしょうか?
 ひらめちゃんってホントは路線っぽい役の方が上手いタイプだと私は思っているのですが(なのでりさちゃんでもよかったと思うけれど、そうなると『PR×Prince』と同じになってしまう…)、組替えの餞別でもあるし、よかったと思います。
 ただ、これもひらめちゃんのせいではありませんが、ロドミアは未亡人か人妻にしないとダメじゃないですかね…いくらヴィットリオが王様で俺様でかつロドミアの方から迫ったんだとしても、嫁入り前の貴族の娘をやっちゃってポイってのは許されなかったろうと思うのです。あと腹心ファルコの妹だってのもホントは引っかかりあるはずやろ、と思う。未亡人(なので生娘ではない)とか人妻(なので浮気という形である)ならセーフな世界だと思うのですが…あと、ロドミアが世継ぎの剣を欲しがるのが、ヴィットリオの愛が欲しいというよりは一度やったんだから王妃の座をくれと言っているようにも聞こえかねないなと思ったので、そこはもう少していねいな台詞が必要かなと思いました。
 でも酒場での歌姫っぷりや男装してきたクラリーチェ相手のいかにも芝居っぽい芝居でのカバー、ベタベタだけど観客を泣かせる死に方、とてもとてもよかったです。

 ロレンツォのあやな、やはり華がありますよねー!
 親衛隊、というのは近衛兵みたいなものかと思うのだけれど、今だとファンクラブみたいなものと混同されかねないし(笑)、むしろスパイっぽくあちこち出かけさせられているようなので、単に「側近」「臣下」の方がわかりやすいかもしれません。
 途中、ボルツァーノでの舞踏会で騎馬試合に参加しに来た騎士かなんかのバイトをするんだけど、華がありすぎて目を引きすぎて「ロロロロロレンツォ寝返ったな!?」と思いましたマジで(笑)。ジーノ(彩海せら)しかお供に来ていないし…なのでロレンツォは留守を守っているとか国境で待機しているとかの台詞を足してほしいです。そうしたらバイトだな、と安心して観ていられるので(^^;)。
 ロドミアにおネツ(笑)のジーノとロドミア、ジャンヌと4人で歌う歌、可愛いですね。当時のこの世界観での男女観を上手く説明していました。そういう、要するに男尊女卑で女は政治の道具で…みたいな世界観と現代フェミニズムと一夫一婦のロマンチック・ラブ・イデオロギーとを上手く摺り合わせていたのはなーこたんの手腕かなと感じました。

 ジーノあみちゃん、あやなともどもちょっと『Pプリ』と似ちゃうイメージのお役だったかもしれませんが、やはり華があってチャーミング。ヴィットリオがファルコに裁きを下すあたりでの立ち方があまり良くなかったのがちょっと目立ちました。あやなはちゃんと動揺する芝居をしてなおかつ美しく立てていたので。でもこういうのも場数ですよね、伸び盛りだろうし期待しています。

 ボルツァーノ宰相グリエルモ伯爵の娘にしてジュリオの婚約者ビアンカ、みちる。これまた可愛い、上手い!
 さらにジャンヌ、りさちゃん。ヴィットリオの親衛隊ロレンツォの妹でファルコさまラブ。そしてロドミアとなんかユリユリしい。素晴らしい。
 私は顔と声が好きな娘役さんで、でもちょっと棒…とずっと思ってきましたが、むしろあまり路線っぽくない役の方がハマるのかもしれませんよね。今回はそれからしたら路線っぽい役ですが、そう大きくないところがちょうどよかったのかもしれません。
 てか柴田ロマンでなくてこんなに娘役に役が多い舞台は久々に観た気がします…! やはりあちこちに感情移入できて忙しく楽しく、芝居に厚みを感じさせてくれました。

 グリエルモのあすくん。最近こういう役どころを任されることが多くなってきたように思いますが、高笑いとかホント上手い憎たらしくてムカつきます大正解。教皇ニワニワもさすがで、あとは修道院長の白峰ゆりちゃんがいいお芝居をしていたのが印象的でした。あとどこでもかりあんの顔が好きすぎて惹かれました…
 
 恋! 政治! 戦争! 策略! の詰まった、ロマンチックな作品で、いい再演だったなと思いました。私は韓ドラなんかでも「政略結婚からのラブ」みたいな設定が鉄板で大好物なのですが、わかりづらくもなく、ベタで王道で、萌えまくりときめきまくりました。
 原作タイトルは『風のゆくえ』ですが、確かにそのままだと宝塚歌劇のタイトルとしてはやや地味かな。歌詞にちょいちょい入っていていい工夫だなと感じました。ヴィットリオの名字が金を意味するものであること、「愛することは捕らわれることだ」と教えられて誰も愛さず頑なに孤高であろうとしてきたヴィットリオが、クラリーチェを知り愛に目覚め、むしろより自由にはばたけるようになる物語です。よくできていました。
 全国ツアーとしてもいい公演だと思います。わかりやすい王道ロマンだし、簡素なセットで十分耐えました。各地でときめきの翼を広げてきていただきたいです!


 ダイナミック・ショーの作・演出は中村一徳。
 『エクレア』を観てしまうとやはりあちらの方が好みで、今年のナンバーワン・ショー(レビュー)はあちらだなと思ってしまいますが、ダンサブルなこのショーもやはり楽しかったです。
 私は本公演をそんなにリピートしていないので、どこがどう変わったとかにはくわしくないのですが、とりあえず冒頭、だいもんの周りにあーさ! ひとこ! あやな! あみちゃん! と次々現れゴレンジャー感を出すのがたまりませんでした。カチャのところをあーさがやって、ガウチョ場面はひまりばっか見てたんだな自分、と今さらに発見。今回はぶーけちゃんはどこでも可愛いなーと思いました。
 咲ちゃんのジャズはあやながセンター。初日は咲ちゃんの脚の長さってやっぱり異常とか、あの洒落た抜け感ってやっぱなかなか出せないんだなーとかいろいろ痛感したりもしましたが、二回目にはもうあやなから力みが取れていて、ジェンヌすごいな!?と震撼しました。あとあゆみちゃんやひーこ、ひらめがダンサーとしてピックアップされがちですが、りさちゃんもバリバリだね!? 見ていてとても気持ちがよかったです。
 中詰めは客席降りもあり、狩りに行くだいもんを本舞台でプンスカ待つきぃちゃんの図が可愛かったです。今後はご当地アドリブなんかやっていくのかなあ?
 そしてカノンはやっぱりひとこ! メンバーが減っても熱さは変わりませんでした。
 「Music is My Life」はだいもんに組替えのひらめ、ひとこが絡むくだりもあり、涙…
 そしてあみちるのそんな夜ってどんな夜だよ徹夜でマリオカートとかかなホラー映画見てキャアキャア言いつつポテチ食べまくりとかかなカワイイなオイ?からの、サーモンピンクの変わり燕尾のひとこ兄さんにバトンタッチ! オトナのキュートセクシー漂うサッチャナイへ…花組カラーが似合うよひとこ…(ToT)
 そしてオペラガン見だったかりあんのロケットA! テレがあるな振りきれここはブリッブリのきゅるんきゅるんでいいんだウィンクがっつり飛ばせ! もうじきダルマも卒業ですよ買われているんですよだからこそここは自信持ってやっとけ! とお手紙書きたくなりましたはーカワイイ、顔が好き。
 フィナーレの淑女のナンバーは全員鬘が本気で素晴らしくてやっぱり目が足りませんでした…「Tico Tico」でフィナーレに中詰めもう一回、みたいなのは最近のBのマイブームなんだと思うんですが全ツだとやや重かったかな…あーさに新場面とか作ってあげてもよかったかもしれません。デュエダンのカゲソロのブーケ、ブレスがやや気になりましたがこれも場数でしょう。この先にさらに期待!
 エトワールはひめかちゃん。しかしホントずっとこういう歌起用ですね、何が足りないの…?

 カテコではやはり通常の初日のご挨拶というよりは、前日の初日が中止されたお詫びや当日の開演時間の変更のお詫び、台風被害のお見舞いに徹した印象で、晴れやかさが少なく寂しかったですが、いつもとは違う思いで観劇しに来た気持ちが報われ癒やされるときでもありました。横浜出身だいもん、鎌倉出身あーさ始めご当地ジェンヌが嬉しそうにしていたのもよかったです。
 交通機関が復旧していないところも多々あるかもしれませんが、お気をつけて、全国に元気を振りまいてきていただきたいです。私は現実を忘れるためだけにエンタメに向かうようなことはあまりしませんが、今回は3時間の間だけでもほっとできる時間を、現実を忘れて楽しむ時間を与えられればそれがベストかと思います。がんばってきてくださいませ! 
 そして私は梅田のチャンスを窺おう…(笑)





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劇団チョコレートケーキ『治天ノ君』

2019年10月10日 | 観劇記/タイトルた行
 東京芸術劇場シアターイースト、2019年10月9日19時。

 激動の明治、昭和に挟まれた「大正時代」、そこに君臨していた男の記憶は時代からすでに遠い。暗君であったと語られる悲劇の帝王、大正天皇嘉仁(西尾友樹)。しかしそのわずかな足跡は、人間らしい苦悩と喜びの交じり合った生涯が確かにそこにあったことを物語る。明治天皇(谷仲恵輔)唯一の皇子でありながら、家庭的な愛情に恵まれなかった少年時代。父との軋轢を乗り越え、自我を確立した皇太子時代。そして帝王としてあまりに寂しい引退とその死。今や語られることのない、忘れられた天皇のその人生、その愛とは?
 脚本/古川健、演出/日澤雄介、舞台美術/鎌田朋子、照明/松本大介。2013年初演、2016年に再演され読売演劇大賞選考員特別賞、優秀男優賞、優秀女優賞を受賞した舞台の三演。全一幕。
 
 再演を観たお友達がすごくよかったので、と誘ってくださったので出かけてきました。以前に触れたのはチギちゃんの『まほろば』の演出と、別の友達に誘われて行った俳優座に書いた脚本だけで、名前と違って全然甘くない劇団、というくらいの認識は一応ありました。やっと劇団公演が観られて嬉しかったです。
 あと、シアタートラムといい芸劇のシアターイースト/ウェストといい、私はこのタイプの劇場がとても好きなのです。そして二時間ないし二時間半くらいの一幕舞台も超好みなのでした。
 ドライアイを完全に忘れるくらい、自分でも引くくらいにしゃくり上げるように泣きまくる観劇になりました。
 大正天皇の物語だ、という知識だけで臨んだのです。学校の歴史の授業では近代史がおろそかになる典型で、私は申し訳ありませんが病弱で短命だった天皇、という程度の認識しか持っていませんでした。ただ、暗愚と言われることも多いがそれはむしろ後の世のイメージ操作で…というイメージも、事前にちゃんとあったかな。あとは、この代からやっと側室制度をやめたんだよね、とかね。
 私にとっては天皇陛下といえばやはり昭和天皇で、でも私が物心ついたときにはすでにだいぶおじいちゃんだった印象ですし、その後の平成時代の方が私の人生においては長かったので、こちらの天皇陛下の印象も強いです。作中で陛下とか殿下とか先帝とか皇太子とか言われると、どの時代から見た誰のことだっけ、と軽く混乱もします。でもそんな舞台ならではの自由自在な時間の行き来も素晴らしい作品でした。
 舞台には玉座と、そこから伸びる赤絨毯の通路?のみ。一度曲がって客席に入るその延長上のお席で、ベスポジでした。
 最初は、ヒストリカル・ロマンスのように観ていたんですよね。主人公とヒロインが、政略結婚だけど仲良くやっていこうね愛を育んでいこうね、なんて言うところから始まったんですからね。さらに、厳格な父親に後継者としてあまり認められていなかったり、世襲を窮屈に感じる一方で義務を果たすことや理想の実現に燃えていて…というのもせつなかったりロマンチックだったりで萌え萌えで、典型的なプリンスもののように思えたのです。
 が、次々出てくる政治家たちの名前が、もはや物語として消費している幕末ものによく出てくるものばかりで、その地続きっぷりに気づいてまず震撼しました。で、明治天皇って、要するに幕末の大政奉還で急に京都から東京に連れてこられた当時の天皇とかで、それまではほとんど実権みたいなものがなかったんだろうに、そこから豪腕振るって大帝とまで言われる傑物になったのか、という今さらながらの驚きとか、たとえば降嫁した和宮さまとか、あのあたりとどういう血縁関係の皇族なんだっけ?と自分の知識のなさゆえのつながらなさへの困惑とか、いろいろ忙しくなってきたのです。
 さらに明治帝が嘉仁に、孫の代までのつなぎでいいみたいなことを言うものだからオイオイとなり、そして改めてそれが昭和天皇のことだもんね…となると、再来週にはその孫の即位礼があるんじゃなかったっけ、と現代への、現実への地続きっぷりにまた震撼したのでした。
 また当時の政治家がみんなちゃんとしているんですよ。もちろん登場人物はすべて実在した人物だけれども物語はフィクションです、とはことわられているし、なのでこのまんまではなかったろうとはもちろん思うんだけれど、でもたとえば比較して今の内閣総理大臣がこんなに真摯に国や国民や天皇家のことを考えているとはとても思えないわけですよ。考えていたら即位パレードに自分も乗っかろうとか思いつくワケないんですから。ホント何様のつもりなんだよ、と言いたいです。当日私は東京にはいない予定ですが、天皇家の車輌に手を振っても総理になんて目もくれたくないです。なのにセットでついてくるんでしょう? 本当にヤダ…(ToT)
 話を戻しますが、私は弱虫なので努力が嫌いなんですね。報われなかったときの虚しさに耐える勇気がないからです。だから努力しなくともできること、好きなこと、得意なことばかりをしがちです。そういう人間にとって、自分の宿命から決して逃げようとせず、向き合い、引き受け、背負い、それに値しようと懸命に努力する人の生き様は本当に心打たれるものです(私がタカラジェンヌを敬愛しているのはこういう部分も大きいのかもしれません)。なのに、どんなに努力しようとも、一番認めてもらいたかった人からの理解が得られなかったりする。あるいはどんなに才能や野心や理想があっても健康が損なわれてしまい、万全の活動ができなくなったりする…魂は自由なのに、人間は所詮は器である肉体に縛られ、閉じ込められる存在なのでした。その体ごと当のその人なのだとわかっていても、口惜しい…そのあたりからもうずっとダダ泣きでした。
 女性が貞明皇后節子(松本紀保。何度か舞台で観ていますが、あまり松たか子と似ていると思ったことはないけれど今回は目元が完全に同じじゃん!と思えて驚いたなあ…そしていつも素晴らしいですが今回は本当に素晴らしかったです)しか出てこないので、たとえば苦しい決断をした裕仁(浅井伸治)には当時もうお妃はいたの支えてくれる良子さまはもういたの?と案じないではいられませんでした。みんないい人でみんな優しくて賢くてみんなに良かれと思って動いていて、けれど見ようによっては非情に見えてしまう選択をせざるをえなくて…三演の今は当今自らが生前退位を申し出それが叶った世だけれど、初演時は、まして作中当時は、摂政を置くなんてとんでもないことだったんでしょうしね。幼児が継いだので成人する間まで…みたいなケースではなかったわけですからね。また、病気に関する理解やイメージもだいぶ違っていたことでしょう。今ならもう少し違ったろうに…という、言っても詮ないたらればにまた泣くしかありませんでした。
 ゆっくり変化していることは確かにたくさんあるのだけれど、それはいい方への変化ばかりとは限らなくて、たとえば昭和天皇には弟宮が何人かいたのだけれど(平成天皇にも今上にも弟宮はいた、いるのだけれど)、今や男子は…みたいな状況だったりもするわけです。普通に考えると皇族の在り方って人権侵害なのでは?という現代的な視点も出てきているわけで、何が正しいのかすら怪しくなってきました。あと、この作品では一切描かれていませんでしたが、私は皇室が神事を司っているのはけっこう大きいことなのではないかと思っていて、怠惰な国民の代わりに身を清め神に祈り国を守ってくれている部分があると感謝しまた敬愛しているのですが、それってやっばり苦役を押しつけているとかそれこそ人身御供に差し出しているようなものなのではないかなどと思うと、後継者がいなくなるのと同時に消失するのも幸せなのかも…と思わなくもありません。
 作品を見終えたときに観客の多くが感じ考えることは、初演と再演と今回とでは短い間隔ながらすでにしてけっこう世相が違うが故に、かなり大きく違うのではないでしょうか。物語は若き皇太子が清濁併せ呑んで摂政となり国を継ぐ、というところで終わるわけですが、彼が継いだのは結局のところ大日本帝国であって今の日本国ではないし、その後この国はそして彼は大東亜戦争に敗れることになるわけです。
 その上に築かれた今の国を、主権者である我々国民はうまく運営できているのでしょうか? そう突きつけられた気もします。
 俳優のお辞儀その他の所作が素晴らしく、動きもドラマも最低限のほぼほぼ会話劇なんだけれど、中身はとても豊かで複雑で繊細で、その上でとても明晰で研ぎ澄まされ、すがすがしくも美しい舞台でもありました。観られてよかったです。








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