駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

藤原旭『忍べよ!ストーカー』(祥伝社オンブルーコミックス)

2018年09月24日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名は行
 丹葉国領主の嫡男・獅之介に助けられて以来、存在を悟られないようひっそりと見守る日々を過ごしてきた抜け忍の紅丸。しかし刺客から獅之介を守ったことで、しばらく屋敷に留まることになる。堂々と傍らにいていいはずが、邪魔をするのは染みついた悲しきストーカーの習性…スパダリ領主×スゴ腕忍者のぐいぐいラブ。

 タイトルが秀逸だと思います。要するに、忍びなのに忍べてない、ストーカー気質な愛の圧が強い、ってことなんですけど、もうホント楽しくニマニマ読んじゃいました。
 獅之介はスパダリというより単なる天然かなとも思いますが、その素直さ、まっすぐさがまた良くて。そしてヒロイン(笑)の紅丸がまた、女々しいくらい粘着質で自己評価が低くて面倒くさくていじらしくて可愛いのです。真面目な話をすると、要するにこれを少女漫画で女性キャラクターでやられたら本当にしんどいわけで(不当に自己評価を低くさせられている女性が未だに多い世の中だから、です)、でもそれが男性キャラでBLでやられると気にならなくなるというマジックがあるわけですね。私は以前はLGBT差別がなくなればBLの流行りは去る(必要性がなくなる)のではと思っていたのですが、ちょっと違って実はむしろ女性差別がなくならない限りその逃避としてのBLの需要は減らないのではないかな、と考えるようになりました。
 まあでもそんな難しい話はナシにしても、おもろいラブコメなので気になった方はゼヒ。アップが多くてカメラワークに工夫がなく、コマの中での状況の見せ方が下手なのは気になりますが(編集者がネームで指導してないのかなー)、出てくるキャラがみんないい味出しているし、襖とか障子とかをすぱーんと開けるギャグが妙にツボり、お気に入りの一冊となりました。愛蔵します。



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『マイ・フェア・レディ』

2018年09月24日 | 観劇記/タイトルま行
 シアターオーブ、2018年9月20日18時。

 ロンドンの下町。貧しい花売り娘のイライザ(この日は朝夏まなと)は、言語学者ヒギンズ教授(この日は寺脇康文)のもとで、訛りの矯正と淑女になるための礼儀作法を教わることになるが…
 脚本・歌詞/アラン・ジェイ・ラーナー、音楽/フレデリック・ロウ、翻訳・訳詞/G2。ジョージ・バーナード・ショウの戯曲『ピグマリオン』を原作に、1956年に初演されたミュージカル。日本初演は1963年、2013年には演出を一新。その新キャスト版。全2幕。

 まとぶん、きりやん版の感想はこちら
 石原さとみのイライザで観た『ピグマリオン』の感想はこちら
 前宙組トップスター、まぁ様の女優デビュー作となりました。ダブルキャストのさーやのも観たかったんだけど日程の都合がつかず、残念でした。
 装置の出し入れがお洒落なのが好きです。でも、そもそももはやレトロなミュージカルだから仕方ないのかもしれませんが、各ナンバーがやや冗長かな。そんなにダンサブルでもないので、今の観客は飽きちゃうと思うんですよね…というか休憩込み3時間15分ってやっぱ長いって(><)。そうそうたいした話じゃないんだからさ。
 さて、まぁ様は笑顔がキュートで仕草がラブリーで、まっすぐでいじらしくとても可愛らしいイライザでした。女優になっても長い腕が素敵で本当に雄弁で、身のこなしが綺麗。そしてソプラノも問題なく、綺麗に歌えていて感心しました。ストプレもいいかもしれないけれどまずはミュージカルでがっつりがんばっていってほしいなあ、年末の公演も楽しみです。
 さてしかし、イライザがいいだけに、またキャストも一新されているだけに、何故男性陣は続投組が多いのか、そんなに役者の層が薄いのか、そして前回上演時からさらに時代が進みもはやMe Too時代の今このときにこの作品を上演するというのに演出になんら手が加わっているように見えないのはこれでいいのか、という疑問はやはり湧きました。
 たとえば、ヒギンズがもっとめちゃくちゃハンサムだったらまた違うのかもしれません。顔が良ければいいのかよ、と特に男性からはつっこまれそうですが、人間性が最低なんだから顔くらい良くして出てこいよ、と言いたいです。だいたいなんでヒロインにばかり美貌が求められてその相手役たる男優はただ男だというだけでよしとされがちなのか皆目わかりません。男が美人が好きだというなら女だって美男が好きなんです、あたりまえでしょ?
 あるいは、容姿は関係ないというならイライザをピッカリング大佐(相島一之)とくっつけるべきですよね。だって彼は紳士ですもん。ヒギンズに比べて小太りのおじさんに描かれがちなピッカリングですが、それこそ容姿は関係ないとされているんだったらハゲでデブだろうが関係ないはずなんです。彼は親切で優しく、差別をせず偏見を持たず、イライザをまっとうに扱いまっとうに相対してくれます。彼女が相手に求めているのは「まっとうに扱われること」ただそれだけです。それすらできずにフレディ(平方元基)と結婚すればいいとかしか言えないヒギンズが馬鹿で愚鈍で視野が狭く偏見に凝り固まったしょうもない男なんです。
 当時の男性なんてみんなそんなもの、という認識が根底にあるのはわかっています。でもそれは昔の作品だからで、それをそのまま今やっても意味がない。そういう男性特有の甘えを許していても何もいいことなんかない、と我々は学習してきたではないですか。古い革袋に新しい酒を仕込んでこそこの現代に上演する意味があるというものでしょう(用法、ちょっと違うかな?)。今やるならそのまま『ピグマリオン』になるべきで、イライザは愛はなくともフレディとさっさと結婚して店員として働くことなんかすっ飛ばしてさっさと花屋の経営を始めるのが自然で、ヒギンズは取り残されて呆然となってちゃんちゃん、でしょう。それをこんなふうに少女漫画展開にしたいなら、もっとていねいに「恋」を導かなければなりません。
 具体的には、大使館での舞踏会です。ドレスアップして異性と踊る、ザッツ・少女漫画なシチュエーションなんですから、ここでヒギンズとイライザにもっときちんとときめかせなければならないのです。学習の成果が発揮されて意気揚々で興奮したふたりがその胸の高鳴りのまま踊ったら恋に落ちないわけがないじゃないですか。というか今もそのつもりで演出されているのかもしれませんが、全然弱い。ふたりとも単に成功に酔いしれダンスを楽しんでいるようにしか見えません。それじゃ駄目なの、ああここでこのふたりが本当に恋に落ちたんだな、と観客にわからせないと駄目なの。イライザも、ヒギンズもです。
 特にヒギンズね。なんかイライザが可愛く見えるな、いやドレスアップしているんだから綺麗なのは当然なんだけど、それにしてもいやこんなに可愛い子だったっけな、なんだこの動揺は…と動揺するそぶりとかを見せてほしいし、彼女がパートナーチェンジでピッカリングや大使の息子と踊ってたりしたらやきもきしちゃってすぐ奪いにいっちゃうとかしてほしい。いつもはお義理で嫌々出席していたダンスパーティーだけれど、こんなに楽しいのは初めてだ、なんなんだろうな? いや成功したからか、だよな、それだけだよな、うん…みたいにむりやり自分を納得させようとする独り言があるとか、ベタだろうがなんだろうがとにかくわかり易くそういうくだりを追加しないと駄目ですよ。
 で、そのまま無理に自分を納得させて、イライザのことなんか好きじゃない気にもならない、と思い込んだヒギンズが、帰宅してピッカリングと自分の教育の成果のことだけ誇りイライザを無視し、彼女を褒めもねぎらいもしないから、イライザはキレるんじゃないですか。がんばったのは自分なのに、ダンスのときはあんなに楽しかったのに、目と目で通じ合えたように思えたのに、やっと対等の位置に立てたと思えたのに…しょせん彼は猿回しで自分は猿にすぎなかったのか、という絶望。女として以前に人としてすら認めてもらえないことへの怒りと悲しみに打ちのめされて、彼女はこの家を出て行くことを決心するんじゃないですか。恋心ごと葬る気持ちで住み慣れた街に戻り、しかしそこにももはや自分の居場所はない…
 そういう流れがあって、それでもヒギンズの方はそういう偏見というか思い込みに凝り固まったしょうもない男だからなかなか素直になれず、母親の家でイライザと話し合う機会が持てても話し合いにすらならない。このとき観客に「でもヒギンズってチャーミングな男だよね」って十分に思わせておけないと、「もう、そうじゃないでしょヒギンズ!? ああ、イライザもわかってあげて~」って悶えながらこの場面を観る、ってならないじゃん。今、「うん、イライザが正しい、ヒギンズが悪い。そんな男捨てて次に行こう、次に」としか思えません。そのあとヒギンズがフレディばりに通りで歌って後悔しようと、今さら遅いよ馬鹿じゃないの関係ないよ、としか思えません。だからラスト、ヒギンズがあいかわらずスリッパを探していてそれをイライザが差し出したからってなんだっつーのふたりとも馬鹿じゃないのあーあガッカリ、ってなりかねません。
 でも駄目でしょ? 観客を「ふたりともよかったね、お幸せにね」って感涙にむせばせなきゃ駄目でしょ? それができていないんだから芝居が破綻している、演出が失敗しているということなんですよ。
 あ、感涙した方にはすみません。でも全然知らないで観たら「え? これでいいの?」ってなる方の方が多いと思う。私があちこちで聞くのは「そういう話なんだから仕方ないんだろうけど、でもヒギンズってヤな男でなんでイライザが惚れるのかわからん」という感想ばかりです。だからせめてもっとイケメン配役にするとかしてくれないと帳尻が合わない、と言っているのです。
 寺脇さんは「普通の男」を実に上手く演じてくれていると思います。上流階級の、ちょっと勉強ができて女性の相手や社交が苦手な、変わり者とされることで許されてわがまま放題になっている、要するに基本的にはどこにでもいる普通の男、ってことですよねヒギンズって。人を人とも思わぬ傲慢な愚か者、汝の名は男、ってなもんです。
 でも、普通の男が、こんなにまっすぐで真面目で一生懸命で美しく愛らしい女性に何もせず好かれる、なんて幻想はそろそろ捨てさせた方がいい。それは嘘だし、今や男性自身をも苦しめています。人は人としてきちんと生き相手のことも人としてきちんと認めてこそ相手からも人として認められるのであり、愛だの恋だのはその先の話です。ただ男として漫然と生きているだけで美女に好かれるなんてことがありえないなんて、当然のことなのです。
 イライザは貧しかろうと、多少口の利き方がなってなかろうと、それは生まれのせいであって彼女の責任ではないのだし、そこから変わろうと自分で行動を起こした勇気ある女性です。特権階級の中でちょっとばかり得意だった勉強をこね回してきただけで安住しているヒギンズなんかより、彼女の方が明らかに人間として立派なのです。そこをきちんと描かないと駄目。その上で、それとは別に恋に落ちちゃうこともある…というのが素敵に描けるならそれは素敵にファンタジーだし、ロマンチック・ラブコメディになりえるでしょうが、きつい言い方をしますが今は単なるレトロな、現代に生きる女性観客がおっさんの幻想につきあわされている気持ちになるだけの演目になってしまっている気がします。
 それではあまりにもったいない。いくらでもアップデートできる題材だと思うだけにもったいないです。
 人は変われる、そして幸せになれる、というメッセージを作品を通して発信していくことはとてもとても大事なことだと思うのです。世知辛く、滅亡に向けてひた走りに走っているような現代においてはなおさら。もう平成も終わるのですから、次の上演のときにはぜひ検討してみていただきたいです。それか、また別の演出家でやってください。元々の戯曲や契約の関係でそこまでは手を入れられないのだ、ということなら、過去の遺物としてそっと忘れていくことにしましょう。間違った幻想は毒です。ファンタジーにはいいものと悪いものとがあるのです。そのことも、エンタメ業界の人間は知っていなければなりません。売れればいい、ウケればいいということではない。真摯に向き合っていっていただきたいです。
 役者はみんな好演していただけに、あえて、そこは強く、言っておきたいです。







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『チルドレン』

2018年09月17日 | 観劇記/タイトルた行
 世田谷パブリックシアター、2018年9月16日13時。

 巨大地震、大津波、そしてそれに伴う原発事故。そこから遠くもない海辺のコテージに移り住んだ夫婦。そこへ数十年ぶりに女友達が訪ねてきた。人生の後半にさしかかった3人の元物理学者は…
 作/ルーシー・カークウッド、翻訳/小田島恒志、演出/栗山民也。2016年ロンドン初演の福島原発事故をモデルとした全一幕の戯曲、日本初演。

 黄色い防護服姿のキャスト3人の宣伝写真がなかなかに鮮烈でしたが、作品はコテージの一室を舞台にしたワンシチュエーションの会話劇です。ヘイゼルとロビンの夫婦が高畑淳子と鶴見辰吾、訪ねてきたローズが若村麻由美。いずれ劣らぬ素晴らしい役者さんによる3人芝居でした。
 私は若村麻由美が好きでお友達に誘われて飛びついたのですが、白髪交じりの老女に近い中年女の役で、これまたなかなかに驚きました。というか彼らはみんなリタイアした65歳かそこらの役なのだけれど、役者の実年齢ももう少し若いので、そこはちょっと私は混乱しました。作者が30歳ごろに書いた作品で、私は50手前で、役者たちはもう5歳ほど年長で、キャラクターはさらにもう10歳ほど年長だということなので。後半生の生き方を探る身としては、その五年、十年の差はセンシティブで大きな問題なのよ?と思えたのです。
 これはイギリスの戯曲だけれど、明らかに東日本大震災と福島の原発事故に着想を得た作品で、今、日本の劇場で日本人俳優によって日本の観客に向けて日本語で上演されています。そのねじれというか不思議な奇妙さを、私は少し受け止めきれなかったのかもしれません。震災当時、私は当日半日仕事にならなかったくらいで週明けから普通に出社して働いていましたし、街が暗いのに心寂しく感じた程度で、ほぼなんの被災もしていない人間です。大学ではたまたま物理学を専攻していて、それより前に原子爆弾とか原発の仕組みを勉強したときには、これは人間には扱いかねるエネルギーだろうと思い素朴に原発反対派になりましたが、なんの運動も起こしたことはなく、また自分が日々使う電力が現状どれくらい原子力に依存しているのかも把握していないような駄目人間です。福島のことをきちんと自分事として考えられていない、と言っていいと思います。
 作者は、引退した作業員や技術者たちが原発の処理に向かった実際の出来事に感銘を受けてこの物語を書き、「イギリス人の多くがこの芝居の結末を冷酷なものと感じるでしょう」「こんなのは幼稚なファンタジーだというご意見もあるでしょう」とプログラムで語っていますが、そういうことより、私は、私がローズのような歳で、死に至る病を抱えていて、結婚していなくて子供も持っていなくて、かつて発電所で働いていて今もそこでできる仕事があって求められていたとして、だから自らの責任として、未来に生きる子供たちの代わりに自分が死を賭して働きに戻る…という選択を、おそらくしない、としか思えなかったのでした。そしてそう考えたことにやや打ちのめされもしました。
 でも、私は多分自分にもっと甘ちゃんで、全然崇高なんかじゃなくて、自分が死んだあとの日本や地球のことなんてあとは野となれ山となれ、と思っているところが、あるのだと思うのです。引き継ぐべき子供はいないし甥も姪もいない。強いて心当たりがあるとすれば友達の子供だけれど、そこまで責任を負いたくない、と逃げてしまう心情があるのです。私は十分働いた、自分の仕事をした、この先働くべきなのは若い人で、自分はあとはゆっくり余生を過ごすだけなのだから、自分の好きなことをして暮らしたい、誰かのために犠牲になって再度働くとかは、おそらく自分にはできないししたくない、と思ってしまったのでした。
 でもこの3人は原発に戻るのでしょう。そういう人間たちです。幼稚だなんて全然思いませんし、むしろあるべき姿だろうと思います。でも自分にはできそうにない…そこに打ちひしがれたのでした。
 舞台は、それが正義だとか理想だとか義務だとか押しつけることなく、静かに終わります。それこそ波が引くように。
 また途中、なんの話かさっぱりわからなくなって、所詮は男女の痴話喧嘩の話なのか?みたいに思えるのも、いい。所詮は人の営みの話だからです。その中で、男女ともにある性愛へのゆるさや、はたまた女同士のシスターフッドみたいなものが語られるのもいい。とても素敵な作品で、役者もみんなとても達者でした。

「今ならわかる。世界が完全に崩壊しないためには、わたしたち、ただ欲しいからって何もかも手に入れるわけにはいかないんだって」
 プログラムにもエピグラフのように抽出されている印象的な台詞です。でも、つい、そんなに何もかも欲しがってなんかないよ?と言いたくなってしまう私なのでした。
「ただとても、難しいって言うか、分からないの、どうすれば、多くを望まないでいられるか」
 そんなに多くを望んでなんかいないよ? それでも駄目?と言いたくなってしまう。その甘さが地球をこうしたのだと、突きつけられているのになお、です。バブリーな育ちだからなあ…というのはおそらく言い訳なのでしょう。我がこととして引き受けて、考えなければなりませんよね。わかってはいる、わかっているつもりではある、のだけれど…と、ふと途方に暮れた気も、したのでした。

 ところで、このやりっぱなし感みたいなものは題材が今日的なものだから成立しているのであって、この戯曲を20年後にただこのままやったら『サメと泳ぐ』の「で?」感になるんだよな、と思いました。オヤ同じ劇場の公演でしたね…イヤ、プロデュース先が全然違うんですけれどね。
 閑話休題。



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劇団メリーゴーランド『王様のピッツァ/ミッドナイト・ギャラリー』

2018年09月15日 | 観劇記/タイトルあ行
 2018年9月16日13時、文化シヤッターBXホール。

 19世紀後半のヨーロッパのとある半島。そこではピッツァの具のように、小国がひしめき合っていた。その一国で突如革命が起き、王が行方をくらます。すると国内ではたまた国外で、有象無象の具材たちが何やらもくろみ始め…
 脚本・演出/平野華子、俵ゆり、作曲/内海治夫、振付/俵ゆり、平野華子、森有紗。女性だけの団員でオリジナル・ミュージカルを作り続けている劇団の記念すべき10作目。

 前回公演の感想はこちら
 久々の本公演で、出演者も最多の9人で、ぐっと幅が広がって、とても楽しく観ました。オリジナルのミュージカルとしてこんなに高いクオリティのものを毎度ちゃんと作れているのが本当にすごいし、特に脚本が毎度素晴らしくて、リライトしたらいいラノベになると本気で思っています。キャラクターとドラマとストーリーが本当にしっかりしているのです。
 欲を言えば、今回は、もう少し主人公のアルフレード(華波蒼)に自分は本当に王位を継ぎたいのだろうか、みたいな葛藤があって、それをヒロインのロザンナ(羽良悠里)に「本当に継ぎたくないのなら乗っ取られたのはむしろチャンス、無理に継がなくていいんだから」みたいなことをスパーンと言われて霧が晴れるような思いがする…みたいなところが、そしてそれが恋心に発展するようなところがより深く描けるとよりよかったのかなと思いましたが、まあ尺がちょっとなかったかな。わりとみんながみんなちゃんと歌うのでそれで意外と尺を取るんですよね(^^;)。
 ともあれ政権転覆みたいなネタなのに真の悪人が出てこなくて最終的にはみんながハッピーになって終われるんだからたいしたものです。そしてロザンナは女性だけれど政治の才能があって、だからここは世襲でいいのだろうし、一方でアルフレードは元王太子だけれど本当はそういうことには向いていなくてこれからゆっくりいろいろ探してみたいと思っている、それこそピッツァ職人でもいいし…というのは、とても現代的でいいなと(19世紀のお話だけれど)思いました。なんでもかんでも世襲すりゃいいってもんじゃないのなんてあたりまえで、人間誰しも好きで向いていることをやって生きていきたいものですよね。そういうまっとうですこやかなテーマがいつもきちんと描かれるところも、本当に好感度が高いです。
 トップコンビは暴走ヒロインにおたおた振り回される優男、という構造になることがいつもわりと多いのですが、今回はそのノリはやや弱めでやや残念だったかも。でもまずはヒロインの復帰が嬉しいです、引き続きお体に気をつけてくださいませ。
 宝塚歌劇の娘役さんには相手役さんへの恋心を表現するルリルリ力なるものがあると私は思っているのですが、私が華波さんが好きなのは彼にはその男役バージョンがあることで、羽良さんと絡むと瞬時にそれが発動する点です。なんかちょっと変わった女、と最初は嫌がりつつも、可愛いないじらしいなと思ってしまってとまどいつつもつい惹かれちゃう感じ、を表現するのが絶妙に上手なんですよね。というか何もしなくてももうにじみ出ている、そこににまにましちゃいます。劇団員の演技のノリやレベル、フェーズは実はみんなちょっとずつ違うように感じるのだけれど、トップコンビはしっかりハマる信頼感があるのです。
 斎くんは弟役みたいなのも似合うけれど、今回のような一見悪役、実は元親友で…みたいなのも素敵だし、月夜見さんのいかにも悪役、色悪が似合う個性は本当に貴重ですね。みおんさんの芸達者ぶりやプリマぶりは信頼感に満ちみちて、紗海ちゃんの娘役力もたまらない戦力だと思います。
 さらに新たに加入した宵野誘くんのスーツ、メガネ、こういう研3で新公主演みたいなヤング男役いる!って感じが本当に素晴らしかったし(てかルカはいいキャラクターでしたよホント!)、北藤光ちゃんの一癖ありそうなクール侍女っぷりも素晴らしかったですゼヒ女王ともっとイチャイチャすべき!! ルカとニコラが新公主演だよねってフツーに思いましたし、ショーで恋人役で組んで踊っててホラホラとにんまりしました(笑)。
 そして紗蘭さんの絶妙なキャラクター…! あまりにもなくてはならなさすぎました…!!

 ショーはスタイリッシュで大人っぽくて、コンセプトとしてはよくあるものかもしれませんがちょっとメリゴらしからぬお洒落さで(失礼!)、でもどの場面もよく歌えていて踊れていて感服しました。プロローグで4組のカップルができていたときには本当に感動しましたよ…!
 メンバーが増えてやれることの幅は格段に広がったはずです、今後にさらに期待です。ホント脚本はこのままバウホールにかけていいくらいだからなー…!
 良いお席をありがとうございました。


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宝塚歌劇花組『MESSIAH/BEAUTIFUL GARDEN』

2018年09月15日 | 観劇記/タイトルま行
 宝塚大劇場、2018年7月28日11時、31日18時(新公)。
 東京宝塚劇場、9月9日11時、11日18時半。

 明暦二年(1656年)、江戸城。南蛮絵師の山田祐庵(柚香光)は若き将軍・徳川家綱(聖乃あすか)から二十年前に肥前島原で起きた乱の真実を知りたいと請われる。祐庵は、民衆のために立ち上がり救世主と崇められた男、天草四郎時貞(明日海りお)について語り始める…
 作・演出/原田諒、作曲・編曲/玉麻尚一。

 あんなにもつまらなかった『ベルリン』から一転、「どーしたんだ何があったんだダーハラ!?」と聞いて回りたくなったくらいにちゃんとしていましたね。前回が『邪馬台国』だった花担さんからしたらもう本当に天国だったのでは…
 しかし娘役に役がなさすぎること、ヒロインですら描かれ方が弱くラブストーリーとしてもほとんど成立していなかったように見えたことなど、宝塚歌劇としていかがなものかというあまりに初歩的な問題は未だあります。また、扱っている題材が信仰というとてもデリケートなものだけに、ざらりと引っかかる人も多かったかもしれません。
 私自身は、たとえばフェミニズム関連のことで引っかかるよりはこうした問題にはずっと寛容というか鈍感なんだな、と自分を振り返ることができました。それは仏壇もなくお墓参りなどにあまり熱心でない家庭で育ったからかもしれないし、素朴にお天道様に感謝するとか何か大いなるものに漠然と祈るとかはあっても基本的には無神論者で宗教一般にどちらと言えば懐疑的であること、というか子供のころに日曜学校にちょっと通わされたくらいであまり深く関わることなく生きてきたこと、が大きいのかもしれません。あと、女性への人権侵害なんかに比べて、内心の自由は侵されにくいものなのではないかと考えている、というのもあります。もちろんこんなふうに物理的、政治的に弾圧していいものでは全然ないのですが、最終的には心の中へまでは他人は誰も踏み込めないので、そこは守られているのではないかな、と思うのです。
 なので、わりと劇として、ミュージカルとして綺麗に組み上がっていると感心しましたし、盆の使い方や装置も良くて絵面が美しく、観ていて私はストレスをほとんど感じませんでした。ラストにひとりずつ死んでいくのをいちいち見せるのはお涙ちょうだい演出としてもやや悪趣味だなとは思いましたし、死体が十字架の形に集まるというのも悪趣味ギリギリかなと思いましたが、うっかり泣かせる作りにもなっているとも思いましたし、そこまで不快に感じませんでした。男役の配置に妙があり、みんなキャラクターが立っていたこと(もちろん演じる生徒がそれぞれがんばっていた部分も大きい)、ドラマがあったことが勝因かなと感じました。また台詞の運びや会話に整合性があったこと、論理的に破綻していなかったことが自分が観やすく感じた要因かな、とも思いました。
 四郎は言います、こんなに苦しいのに助けてくれないなんて神は本当にいるのか、死んで天国に行くことに意味なんかあるのか、生きてこその命ではないのか、と。純粋無垢な天草の民たちはショックを受けます。しかし甚兵衛(磯野千尋)は返します、そんなことはわかっている、神などいないと知っている、でも今があまりにつらすぎるから、神を信じて耐えていればいつか報われる救われると信じることでしか自分たちを支えられなかったのだ、それくらい今苦しいのだ、と。だから四郎はそれに応えます。なら、ただ耐えるだけの生き方はもうやめよう、立ち上がろう、戦おう、そして自分たちの天国をこの世に築こう、と。これは私にはとても正しい、自然な流れに思えます。
 そしてそういう運動にはリーターシップを取る人が必要だとも思うのです。だから天草の民たちは四郎を中心に据えて立ち上がる。ここで「神はあなたたちひとりひとりの心の中にいる」と言うのは蛇足かなとも思うし、運動のリーダーを救世主、メサイアと呼んで神格化しちゃうのはもっと危険な認知のゆがみなんだけれど、人の心の動きとしては十分ありえてしまうかなとも思うし、そこにタイトルをかけているんだから仕方ないとも思いました。
 ただ、戦争は起こすのは簡単でも終結のさせ方こそが難しいものなのであり、四郎がそういう戦略的、戦術的なリーターシップが取れるタイプの人間だったかははなはだ疑問です。停戦交渉に出向いたのはリノでした。そしてその条件がとてものめないとなった彼は四郎に対し嘘の愛想尽かしを展開する…
 ここが実はキモでしたよね。個人的に私は嘘の愛想尽かしというネタが大好物なのです。ましてこんなみりれい萌え展開、ごちそうさまです以外の何ものでもありません。
 本当なら、四郎と流雨(仙名彩世)とリノはもっとがっつり三角関係を展開すべきだったと思います。でも流雨はリノを幼なじみの信者仲間として、また同志としてしか見ていなかったのでしょう。リノとの出会いやなれそめめいたことは特に語られていなかったかと思いますが。そしてまた四郎のどこにどう惹かれたのかも特に描かれていませんでしたが、まあ人はストレンジャーには弱く簡単に惹かれがちなのだ、ということにしておきましょう。一方で四郎が流雨に惹かれたのは命を救ってくれたからということももちろんあるかもしれないけれど、その美貌へのほぼ一目惚れに見えたので、このメンクイめと片付けるしかないですね。中の人はふたりともすごくしっとり演技を重ねていたけれど、それでも恋心はそう明確には立ち上がってこなくて、銀橋チューには「えっ、そんなことしちゃって大丈夫!?」とか余計な心配しちゃいましたよ。この時代の、まして宗教的に厳格な人ならなおさらさ、とか…だからやはりもう少しエピソードは欲しかったし、このくだりでも「好きだ」とかなんだとかの具体的な台詞が欲しかったですよね。でもまあ、トップコンビなんだからくっつくんでしょ、というお約束が宝塚歌劇にはあるので、目をつぶりましょう。
 そしてリノは、流雨をもちろん愛していたかもしれないけれどそれ以上に同志としてその強さやひたむきさを愛し、絵のモデルとして信頼し活用していたので、四郎が現れても単に男女として妬いたり邪魔立てしようとしなかったのだ…というのは、私にはちょっと深いドラマとしてなかなかおもしろく感じました。リノにとっては絵の方が大事で、だから流雨を四郎に預けて自分は絵のあと片付けのためにしばし島に残れるんですよ。まずは恋愛をちゃんと描けてからだろう、という気もしますが、こういう恋愛とは少し違う人間関係や感情をあえて書こうと演出家がしていたというなら、そこは私は評価したいです(しかしそれとは別にこの人の恋愛やヒロイン、女性キャラクターの描けなさ加減はかなり問題だと思っていて、そこは彼が今後も宝塚歌劇の座付き演出家としてオリジナル作品を書いていこうとするならかなりネックになるよ?と危惧してはいます)。
 というわけでリノにとっては絵や信者仲間が大事で、そのリーダーになった四郎も大事。だから仲間たちに改宗させることもできないし四郎の首を差し出すこともできない、だから自分が犠牲になろうとする…ベタですがせつない、いい展開ですよね。四郎がリノの代わりに絵を踏むくだりもそうですが、いわゆる勧進帳展開というか、観客にも真意がわかっている上での…というこういうやりとり、萌えます。
 で、リノは投獄され、しかしそこに四郎がやってくる…
 問題はここからで、ここで四郎がすべきだったことは、本当なら、リノひとりを逃がすことなんかではなくて、仲間を集めて嘘でもいいから改宗した振りをして投降するよう説得すること、そして自分は信綱(水美舞斗)に殺されに出向くことでした。それこそがリーターの仕事です。自分の命を犠牲にして仲間の命を購うべきだったのです。もちろん仲間たちは改宗だなんて冗談じゃないし振りすら嫌だと騒ぐでしょう、玉砕覚悟でともに戦おうと言うでしょう。しかしそこを言いくるめてこそのリーダーです。生きてこその命なのだから殉死なんて問題外です。嘘も方便、それくらいでは神は怒らないし信綱も目をつぶってくれると信じられる、だから行け、俺はみんなの代わりに死ぬ、と言ってこそのリーダーでありヒーローでありメサイアだったのです。
 でも、そうは史実がなっていないので、それは無理だったんですけれどね…でも、たとえば作家がこの史実にインスパイアされたのだとしたら、まったく別の国の別の時代のお話をゼロからこしらえて、四郎とは違う選択をしたヒーローを描いてみせてもよかったんですよ。たとえばくーみんはそれを『金色の砂漠』でやっているんだと思いますよ。史実というか、事実がどうだったのかなんて我々にはもやはわかりません。けれどここでこの四郎があっさり「彼らに改宗は無理だ」とか言って歴史の証人としてリノだけを逃がそうとする、というのはいかにも安易にすぎました。そこが残念だったかな。
 ともあれ物語はそうして、玉砕覚悟の決戦に突き進みます。多勢に無勢の中で籠城とかしててもそら勝ち目ないよね、と本当に思いますよ…彼らが神のために、来世のために幸せに死んだというのならそれはもちろん彼らのためにそう信じてあげたいところですが、しかしそれは犬死にであり無駄死にでした。でも信綱にも、鈴木(綺城ひか理。というか素晴らしすぎるキャラクターでしたね…!?!?)にも、それはもうどうにもしてあげられなかったことなのです…
 家綱(聖乃あすか)にリノに絵を完成させるようと命じさせ、「歴史を改善することなく残せ」みたいなことを言わせるに至っては「どーしたダーハラ!?」な騒ぎどころではなく、こんな時の政治批判みたいなことまでぶっ込んでくる気概がある人間だとはついぞ思えなかったのでホント仰天しましたが、その意気やよし。ここの信綱マイティがまたいい仕事をしていることもあり、名場面となりました。
 ラストもベタベタなんだけれど、リノが唯一作り出せなかった黄金色をまとった四郎と流雨が再び現れる、というのはとてもいいと思いました。笑顔で集う島原の民たちの輝きも愛しいです。家族や愛する者たちのため、また信仰や信念のために死ねた彼らは、もしかしたらやはり幸せだったのかもしれません。たとえば今、私たちはむしろ貧困や災害や政府の無策のために命を落とすことが珍しくなくなってきているからです。それが怖い…そんなことすら考えさせられる、いい観劇となりました。
 花組の充実に支えられた、いい演目になったと思います。みりおのリーダーっぷり、れいちゃんの温かいお芝居、あきらの兄貴っぷりにちなつの悪役っぷり、マイティの賢明さ、あかちゃんの聡明さ、しーちゃんさなぎなみけーの布陣もいい。せのちゃんだけはもっと上手くなってくれと拝む気持ちで見ていましたが…ほのちゃんも上手い、代役のはなこも磨かれてきましたね。そしてたそが本当に上手くて素晴らしかったです。娘役ちゃんたちは本当にもったいなかったですけれどね…


 ショー・スペクタキュラーは作・演出/野口幸作。これまたよかったです。
 みっちゃんとのときとだいもんのときとやっていることは同じで、ゴンドラだったりハットとケーンだったりジャニーズだったりみんなみんな同じなのですが、より洗練されてバランスが良くなってきたし、生徒の起用に工夫が出てきたのも好感が持てました。特に歌手の使い方、娘役ちゃんの使い方がいい。大満足でした。
 ひっとんの愛らしさ! あかり姉さんのカッコよさ! マイティの牛の素晴らしさ! カラー手袋の萌え! でも中詰めのゆきちゃんの白いお帽ぼにドレスに白レース手袋も正義! つかさっちに歌わせてれいちゃんに踊らせる正解っぷり! てかローマの貴族と美女とグラディエーターにはどんなめくるめく3Pが始まるのかとワクテカしたのはナイショだ! あかちゃんもメイクがいい感じに濃くなってきてイイと思う! はー幸せ…ってな感じでした。目が足りませんでしたが満足です。色みもとても良かったです。

 そうそう、大劇場では新公も拝見しましたが、初ヒロインのひっとんが本当に立派で華があって歌が良くって、素晴らしかったです。信頼のつかさっち信綱も本公演とまた違う感じでそれがよかったし、抜擢と言っていいはなこのリノも本公演とはだいぶ違う印象でしたがこれまたよかったです。せのちゃんの悪役も悪くなかった。まれくんとからいとくんとかの新興勢力も頼もしい。もちろんほのちゃんも健闘していたと思いました。おもしろかったです。


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