駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『HYPNAGOGIA』

2013年08月29日 | 観劇記/タイトルは行
 シアタークリエ、2013年8月29日マチネ。

 ほぼ必ずプログラムを買うことにしている私ですが、二日間4階の公演なんだから小冊子みたいなものかな、もしかしたら無料配布かもな、くらい思っていたので、CD付き2500円というのに恐れをなして未購入ですませましたすみません。
 なのであらすじとかが上手く書けませんが、ポスターコピーなどから言うと、夢に恋したピアニストと、その親友の医者の話です。ピアニストは北村有起哉、その夢に現われる女が彩吹真央、医者が米倉利紀。ピアノとチェロの入る新感覚・音楽朗読劇。全2幕。

 おもしろい企画だと思いましたし、ストーリーにつっこむのは無粋なのかもしれませんが、で、結局ピアニストはどうなったの?という気がしました。健康は回復された? でも凡人になった? それでいいの? 幸せなの?
 そもそも医者はなんだってそんなにピアニストの世話を焼くの? それって医者の仕事かな? 親友だからにしても余計なお世話では? BLっぽくもなかったし。というかふたりの声のタイプが近すぎて朗読としては問題だったと思う。
 でもユミコのものうげな声が素敵だったからまあいいか、というのはなくはないです。歌ってもよかったかもしれないけどねー。


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『激動-GEKIDO-』

2013年08月29日 | 観劇記/タイトルか行
 新国立劇場、2013年8月28日ソワレ。

 「男装の麗人」として一世を風靡し、第二次世界大戦では「東洋のマタ・ハリ」「満州のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた川島芳子(水川あさみ)。清朝の王女という高貴な家柄に生まれながら軍人・川島浪速(別所哲也)の養女となった芳子は、日本軍に従事する一方で、数多くの男と恋に落ち、最後はスパイとして処刑されるが…
 演出/ダニエル・ゴールドスタイン、脚本/横田理恵、舞台美術/中根聡子。全2幕。

 川崎芳子の小説を書くことになった現代の作家・津田晶(5人の役替わり。この日は浪川大輔)を置いたことといい、奥が八百屋になっている抽象的でごくシンプルなセットといい、基本的にはテレビ芝居の俳優たちがごく素直な演技で話を進めていることといい、物語や登場人物たちは戯画化され観客たちは傍観者の立場に置かれる舞台でした。
 そういう狙いでもあったのだろうし、そうした中でこそ、ヘンに凝った技巧やてらいのない脚本の良い意味でのシンプルさと、洗練の極みのような演出の技が引き立ったのかもしれません。黒子のように動くアンサンブルの扱いも素晴らしかった。
 だから逆に、特に前半はああなってこうなってというストーリー展開だけに見えて、でも何がゴールなのかとか何が芯のモチーフなのかがよくつかめなかったので、一幕はやや退屈してしまったのですね。
 でも二幕が俄然おもしろかった。ヒロインの養父と愛人、大人の男ふたりが俄然いい訳ですよ。これが効いてきていたのですよ。
 でもだとしたら、この関係性に絞って、もっとぐっと人間くさい濃密な芝居を作っても、おもしろかったのかもしれませんけれどねえ…
 ともあれ、川島芳子に関する歴史ドラマみたいなものなんかはこれまでにもいくつかみたことがありましたが、私にはどうも満州を含むこの時代の歴史的・政治的背景がよくわかっていないせいもあって、ぴんときていませんでした。
 でもこの舞台の芳子は、脚本家が女性だからかもしれませんが、もうほとんど単純に「父の娘」なんですね。養父に望まれたとおりの娘であろうとした、素直で悲しい少女。日本と清国の架け橋になれと言われたから、そうなろうとしただけの少女。
 彼女自身は空っぽの器で、周りに望まれるものになろうとしたにすぎないのです。周りから注がれるものをただ受け入れていただけなのです。そうして愛されたい、必要とされたい、よくやったと褒められたい、さすがだと認められたい、と思っているだけの、ごくありきたりな少女だったのでした。だってきっと美人ですらなかったのではないでしょうか。
 史実がどうかは知りませんが、養父によるレイプ場面は鮮烈でしたし(脚の見せ方、使い方が上手い。扇情的にも露悪的にも醜悪になることもなく、でも行為の意味がちゃんとわかった)、そこから彼女の人生は捻じ曲げられ、さらに田中隆吉(ダブルキャスト、この日は田中茂弘)によって決定付けられたのでしょう。
 そうして不幸なことに、彼女は彼女自身が心底からやりたいこと、といったものをついに見つけられないまま、生涯を終えることになった、ということなのでしょう…
 終盤の牢獄や執事の緒方圭一郎(桐山漣)との面会の場面では客席から啜り泣きがもれていて、客層としてはテニミュファンあたりが多いのかなとか思っていたのですが、そういう客がもらい泣きするんだ、と感心する一方で、よもや泣き方を間違えてはいまいな、とか邪推してしまいました。
 死んでしまうから悲しいのではない。こうとしか生きられなかったから悲しいのです。同情すべき点を間違えてほしくないなあ、と思いました。毎度エラそうですみません。
 これまた史実はいざ知らず、もっとも近く仕え寄り添いけれど最後までプラトニックであったろうふたりの、緒方からの最後の告白と柵越しの口づけはなかなかに美しく胸打たれました。この中では緒方がもっとも長く、ごく最近まで存命であったこともまた泣かせました…

 というわけで、意外にじんわりと感動した、いい舞台だったのでした。
 カテコでヒロインがやたらへこへこしていたのは、舞台に不慣れとはいえちょっとみっともなくて残念だったけれど、ね…

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須賀しのぶ『芙蓉千里』(角川文庫)

2013年08月29日 | 乱読記/書名は行
 「大陸一の売れっ子女郎になる」という夢を抱いてハルビンにやってきた少女フミは、妓楼の下働きになって天性の愛嬌と舞の才能を買われ芸妓の道を歩む。夢を共有する美少女や花のごとき姉女郎たち、そして運命の男…煌く星々のような出会いは彼女をどこへ導くのか?大河女子道小説、開幕。
 コバルト出身の作家だそうですが、『帝国の娘』も読みましたが確かに一般文芸でも十分通じる筆力、というか少なくとも今どきの少女小説の範疇には収まらないモチーフを書く作家なのでしょうね。安易な出し直しには反対ですが、これにはきちんとした需要がありそうです。
 先日書店に行ったらシリーズ最終四巻まで文庫化されたようなので、続けて読んでみようと思います。
 ただ、この巻に関しては、表題作については新聞小説みたいだなという感想を持ちました。場当たり的な展開をしていて、そのときどきはおもしろいんだけど、トータルで見るときちんとした筋がないと言うかゴールがない話で、ラストも「えっ、これで終わり!?」と私は思いました。続いているからいいのかもしれませんが、それにしてもオチていない、というかこれをオチとするようなストーリーの流れじゃなかったじゃん、という気がしました。
 同時収録の『桜の夢を見ている』の方がまとまりはある気がしましたが、これも「えええ? このオチでいいの?」と思ったかなあ…
 ともあれ私は山村より黒谷派なので、続巻に期待します。

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近代ナリコ『女子と作文』(本の雑誌社)

2013年08月27日 | 乱読記/書名さ行
 随筆、エッセイ、手紙、詩、ポエム、投稿…戦前から現代までの「女子本」で出会った、文章と人生のリアリティ。「書く」女性たちの切実な声を共感をもって蘇らせる、類のない読書エッセイ。

 新聞の書評に惹かれて書店まで出かけて買い求め、英題の「Girls Write Alone」というのも実にいいなあと思い、この著者の本を読むのは初めてですが名前は聞いたことがあったし略歴によればほぼ同い歳じゃんとドキドキワクワクでページを開いたのですが…
 期待はずれでした。
 でも今、帯の惹句を書き写していて気づいたのですが、私の期待の方が筋違いだったのかもしれません。
 私は「女子と作文」に関する論考ないし評論、ないしはせめてそれに関するエッセイが読めるものと期待してこの本を買ったのでした。
 私が読みたかったのは、読むことで考えたかったのは、何故「女子」は「作文」するのか、ということです。女流作家が文学作品を書く、ということとは違って、「女子」がする「作文」です。例えばこのブログだったそうでしょうし、私がここ最近絶賛どハマり中のツイッターだって基本は140字のつぶやき、作文です。男性だってするけれど、それこそ男もすなるものを女もしてみんとて、じゃないけどユーザーは女性の方が多い気がするし(実際はどうか知りません)、とにかく女が書く創作や作品とはつかない何か、あるいは女が書くということ、について考えたかったのです。それについて書かれた本だと思ったから買ったのです。
 でも違いました。これは「読書エッセイ」でした。そしてその意味でもあまりおもしろくないものでした。
 だって基本的には「こんなものを読みました」というしか書かれていないんだもん。何故その本を読み、どこをどう読み、どう思い何を考えたのか、についてはあまり書かれていない。だからそれこそエッセイですらなくて作文なんですよ、子供が学校の課題に書いて出すつまらない作文、の方の「作文」です。朝起きてご飯食べて夜寝た、式の駄目な日記みたいな作文レベルでした。
 文学よりその周辺のもの、例えば随筆などが好きだし、書き手もタレントなど文学の領域でない人のものが好き、というこだわりがあるなら、それのどこがどう何故好きなのか語ってくださいよ。でなきゃ他人にはわかりません。「私、好きなんだー」だけじゃ「へー」しか返しようがないじゃん。ああつまんない。
 おもしろい視点、切り口だなあと思ったのになあ。女性周辺ものを古本屋でせっせと買ってるんだったら蔵書もたくさんあるだろうし、いくらでも論考できそうなのになあ。
 まあ自分で考えろよってことなのかもしれませんから、考えたいとは思っていますが。
 それが女性であれ、プロの作家が小説とか詩歌とかの創作作品を書くこととは別に、ノンプロの女性が、自分のためとも他人のためともつかない、日記とも空想ともつかない文章を綴り発信しがちなのは何故か。男社会にもの言う形としてそういうスタイルが選ばれているというだけのことなのか、それとも。
 自分が例えばここに何かを書くことも含め、ちょっと考えてみたいと思いました。
 ちなみにここについて言えば本当にまずは自分のための「備忘録」として書いているのであり、でも自己顕示欲としてまた誰かに読んでもらって同意なり賛意なりの反応が欲しいから公開しているのであり、そして最終的にはそれで自分がひとかどの何かになっているような気になるためのものである、というような気がしています。あいまいで申し訳ない。

 

 追記。「小学館ミニレディー百科シリーズ」の『あなたも詩人』(著者は詩人の清水哲男、1978年刊)が紹介されているのですが、これ、持ってた…!
 書影にも記憶あるし、「詩とは、なんですか。/あなたが詩だと思ったらそれが詩なのです」も、その例文も、すっごい覚えていて驚愕しました。
 でも詩人にはならなかったんだな私は…でも「作文する女子」にはなった。というかまさかの就職先…すごいわあ人生って。

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『風立ちぬ』について、少しだけ。

2013年08月20日 | 日記
 最初に言いますと、私は特にジブリ・フリーク、宮崎駿信者ではありません。ひととおりは見ているかとは思いますが、映画館では見ていない、というものも多いです。
 なんといっても大好きなのは『ナウシカ』、次いで『カリ城』(これがジブリ映画でないことを承知であえて挙げます)。『ラピュタ』は何故かそんなに…で、『トトロ』『ポニョ』は全然わからず、『もののけ』は話が破綻していると思っています。『千千』『ハウル』はまあ好きかな、程度。あと『紅』はなんとなく好き。そして『魔女宅』をなんと見たことがありません。
 それくらいでしたっけ?
 『風立ちぬ』についても、まあ話題に乗り遅れないためにも見ておくか…程度でした。ただ、公開直後から何故か賛否両論だという評判は聞いていて、でも何がどう賛でどう否なのかはあまり聞こえてこず、どういうことかいな、とは思っていました。
 ちなみに中身については零戦の設計者の話、だとは聞いていて、ああ、飛行機大好きだもんね、と思った、程度の認識で映画館に行きました。

 で。
 私は全然楽しく見ました。普通に良く出来た映画だと思いました。
 好みというか、好き嫌いはあるかもしれないけれど、何かが明らかに間違っているとかおかしいとかいうことはない作品で、何をそんなに論じることがあるのかよくわからない…という気がしました。
 確かに、ヤマもオチもないかもしれない。けれど人生ってそういうものですよね? これは実在の人間を主人公にしたある種の評伝なのだろうから、当然の構成なのでは?と思うのですが。
 ファンタジーが好き、物語が好きという人には不評かもしれないけれど、事前に実在の人間が主人公の話であることはある程度宣伝などでわかっていたんだし、だったら架空の怪獣が出て来たりチャンバラするような話にはなりそうにないって想像つくじゃないですか。見当違いのものを期待して行って、裏切られたって騒ぐのはおかしくない?
 私だって特に前半、いいんだけどところでこれってなんの話だっけ?って思ったりはしましたよ。なかなか本題が始まらない感じがしたというか、ストーリーがつかめないと思えたというか。でもやがて、ああこれはそういうスタイルの作品ではないのだな、と気づいて、身を委ねて見ることにしてしまいました。結果的にまったく退屈しなかったし、ひとつの人生のおもしろい疑似体験ができた気がして、私は満足な気持ちで映画鑑賞を終えたのですよ。
 で、これの何がどう問題なの? 嫌いだと言っている人は何がどうそんなに気に入らないの?と、純粋に不思議でした。
 まあ、のちに禁煙学会がつけたケチには笑いましたけど。

 ジブリ映画のいいところは、なんと言ってもあの独特の柔らかな絵柄だと思います。ザッツ・アニメーション。CGとか3Dとか別に万人が求めてないし、そんなものでは表せない何かがコマ・アニメなら表現できるんですからね。
 たとえば二郎の夢の表現もそのひとつ。現実と地続きで夢がつながっている感じ、すごくリアルだと思いました。その中で、現実では起きないことが夢では起きる。その妙味。
 夢の中の飛行機は現実の飛行機ともまた少し違う。しかし監督が、ひいては二郎がこだわる部分は同じです。エンジンがかかって、プロペラが回り出し、溜まった力が機体をふわりと浮かせて、そうしたら翼が風をつかんで滑空を始める、あの感じ。何度見せられても、そこまで飛行機が好きでなくても、ぞくぞくわくわくさせられるあの感じを、この映画は何度でも、執拗にと言っていいくらいに描きます。その稚気がまた愛しい。
 そしてたとえば日常生活のゆかしさ、豊かさ。いくらでも省略してしまえるところを丁寧に描いていて、また美しい。幼い妹が庭から縁側をよじ登る感じ、学校の先生に対する主人公の美しい言葉遣い、のどかで浮世離れした避暑地の空気…素晴らしい。
 さらに、震災や戦争との距離の取り方も良かった。
 私はこの映画が震災を取り上げることはことはまったく知らないで見たので、最初これが心象風景なのかはたまた夢なのかそれともここから架空の物語になるのか、まったくわからず混乱しました。すぐにこれがおそらくは関東大震災のことなのだろうと思いはしましたが、教養や歴史的な素養がないもので、年号的にそれで合っているのかどうか確信が持てず、作中のキャラクターたちもなかなか確定できる言葉を発しないので、不安な思いをさせられました。
 でもそれがリアルだと思う。渦中の人はあとから外の人間が付けた震災の名前のことなどいちいち語らないし、目の前の事態をやりくりするのに一生懸命で、大局的な物思いなどずっとあとまで、もしかしたらあとになっても、しないものだからです。
 東日本大震災からまだ三年しかたたず、ここでの公開にもいろいろな意見もあったかもしれませんが、こういう描き方でちょうど良かったのではないでしょうか。その、ことさらでない感じが。日常的な感じが。起きてしまったものに対して粛々と対応する様子が。そこに必要以上の意味を持たせない感じが。
 同様に、戦争の描き方についても私は感動しました。参院選に合わせて監督が改憲反対を唱えていたのは知っていたので、何かしらのメッセージが込められているのかと思っていたのですが、むしろきれいさっぱり何もなかった。
 監督は、二郎は、飛行機が好きです。飛行機が好き、美しいと思う、だから作る、描く。飛行機が兵器として悪用されてしまうかもしれないことについては理解はしている、しかし深く考えたくない、考えられない、それは自分の仕事ではない。兵器となった飛行機がどこの国相手のどんな戦争に使役されるのかに至っては把握すらしていない。
 無責任かもしれません。しかしすごくリアルだと感じました。
 兵器として利用されることを良しとせず、開発をやめた人もいるでしょう。逆に、兵器としての飛行機が起こした罪過をすべて我がこととして負おうとした人もいるでしょう。でも二郎はそうではなかった。監督は二郎を、そういうふうな人間に描いた。そういう人間もいたと思えるからでしょうし、自身の飛行機へのスタンスがそうだからでしょう。
 兵器を好み憧れる男の子は多い。しかしそれは戦争をしたがることとはまったくイコールではない。道具そのものに罪はない。使い方が問題なだけだ…
 そんなことを、言い訳がましくもなく、ただ淡々と描いて見せていました。それを説明不足と感じる人も、確かにいるかもしれませんが…
 だから二郎が特攻に引っ張られるシーンもないし、戦闘の場面もないし、どことどんな戦争がなされたのかの描写はいっさいありません。ただ二郎が作った飛行機が一機も還ってこなかったことだけが語られる…
 私には、それで十分に思えました。

 そして私が何より感心したことは、宮崎作品なのに、ジブリ映画なのに、恋愛がきちんと描かれていたことでした。もっと言えば性愛すらあった。そんな場面はないけれど、確かにそこに香っていた。これは画期的なことに私には思えました。
 この件について、ヒロインがかわいそうだとか、理想的すぎるとか、主人公の夢の犠牲になるヒロイン像が嫌だとか、隷属的なヒロインを描くこの作品が嫌いだとかいう意見も特に女性から出ることが多いようですが、私はピンときません。
 ちなみに私は別に二郎も菜穂子も特に好きではない。親近感を持つとか、特に理想的な生き方をしているとか理想的な男性像だとか女性像だとかカップル像だなんてことはまったく思わない。でも、こういう人っているだろうな、と思えたし、彼らなりに普通に生きていたと思います。だからなんの不満もないのですよ。
 二郎が病身の妻をいとわず自分の仕事ばかりにかまけて嫌とか、菜穂子が自分の人生を犠牲にして夫の仕事にすべてを仮託しちゃって嫌とか、まったく思わなかったなあ。だって、そういうことじゃなくない?
 あの人たちは、ただ恋に落ちただけのことでしょう。で、結婚したいと思った。結婚とは生活を共にすることです。だから離れて療養することもなかったし、仕事があれば会社に泊まりこみもするし家に持ち帰ってでもするでしょう。お互いにヘンに気を使わず、とにかく一緒にいる、いたい、好きだから。ただ単純にそういうことなんじゃないの? それが夫婦、家族ってものじゃないの?
 片手は妻の手を握って、もう片手だけで仕事して。そこで煙草を吸う二郎。「吸うのか!」と私も思いましたよ。そういう思いをさせる間をとった演出でしたからね。でも吸うでしょう、だから何? 結核患者がそばにいるのにひどいって? 赤の他人の結核患者ならもちろん遠慮したでしょうよ、でもふたりは夫婦だからね、家族だからいいんです。お互いがいいと言ったらいいんです。それにあの一服がどれほど菜穂子の寿命を縮めたというのか? あれがあろあとなかろうと菜穂子の寿命にそんなに違いはなかったろうし、だとしたら好きな男のそばにいられた方が幸せなのに決まっているのでは?
 だいたいしょっちゅうキスしてるんだもん、もう同じだよ。移ることも悪くなることも厭わない一蓮托生感、それが夫婦ってものでしょう。
 愛とエゴイズムが剥き出しになった、とてもいい場面だと思いました。結婚すること、生活すること、働くこと、愛することのきれいごとでない美しさがあふれていると私は思いました。

 結婚式の場面もいいなあ、と思ったんですよね。なし崩しに夫婦になってしまうのではなく、やはり儀式というのは必要なのだな、と思えました。でないと男は女を大事にしない、ということもあるし、神聖な儀式を経て自分のものにしたからこそ家族となりひとつになれる、わがままになれる、ということなのかもしれない、とか考えました。年々結婚式がめんどくさくなって、結婚するにしても届け出すだけでいいんじゃね?とか思っていた私でしたが、やはり式は挙げてもらおう、とか思っちゃいましたよ。脱線してすみません。
 あと、婚前交渉感ね(^^;)。いやこの解釈が正しいのか知りませんが。史実がどうか知りませんが。この時代的にどうか知りませんが。
 でも電報もらって菜穂子の実家の離れの病室に二郎が駆け付けたとき、それ以前にしていなかったら「あなた」なんて呼ばないよね? しかもキスした。このちゃんと睦み合っている感は宮崎作品では画期的なことではなかろうか…ただのロマンチック・ラブ、観念的なプラトニック・ラブ、アイコンとしての、女神としての少女愛とかじゃないもん。
 新婚初夜の「来て」「だっておまえ…」だって、初めてのときの会話じゃないもんね。いやあシビれたわあ。にやにやしたわあ。
 あたりまえのことなんだけれどね。そういう、普通の生きる営みを普通に描いた、ウェルメイドな作品なんじゃないの?と私は思うのでした。

 菜穂子は二郎の生き方の犠牲になんてなっていないし、二郎の夢に自分の夢をのせたりもしていないと思う。好きだからそばにいただけで、病気だから寝ていただけで、病気が治ったらまた自分のために好きな絵を描くつもりだったと思う。
 二郎の仕事がある程度ケリがついて、そして自分の命がもうあとがないとわかったから、死体を見せない猫のように夫のもとを去っただけで、それだって彼女の選択で彼女の意思じゃない。私には彼女がかわいそうだなんてとても思えませんでした。そんな物言いは彼女に対する侮辱だと思う。
 むしろ感動したのは、飛行実験中の二郎が菜穂子の死を感じたことですよ。実験に夢中になっていて気づきもしなかった、という演出ではなく、彼に妻の死を気づかせた。その演出に感動しました。

 そこからの流れるような時間の飛び方が美しかった。
 そして「生きて」「ありがとう」は私には蛇足に感じました。今さら言われることじゃないんじゃないかなあ、と思ってしまった、生きることも、お礼も。
 風立ちぬ、いざ生きめやも。そのフレーズしか知りません。『風立ちぬ』なんて読んだことはありません。そんな世代じゃない。
 でも風が吹いている間は生きなければならないのです。エントロピー増大の法則というか、宇宙は常に動いていて熱量は移動し、風は常に起きている。人は生きるために生まれるのであり、生きている以上生き続けなければならないのです。たとえすべての生が死に向かうだけのものだとしても。
 私はずうずうしいのでそんなことは自明のことだと思っているし、誰はばかることなく生きるつもりだし、「生きて」とか「生きねば」とか「生きよう」とか別に誰かから言われる必要性をまったく感じていないのですけれど、でももしかしたらいまどきのお若い人はそうではないのかしら? 言われたいのかし?? 言われないと安心して生きられないのかしら…
 淋しい世の中だなあ。

 でももしかしたらそれは洒落でもないのかもしれない。
 私は生きたければ生きられると思っているし、生存権とか基本的人権とかを生得のものだと思ってきたけれど、今のキナ臭い政権のもとではいつ奪われるかわからないんですものね? 非国民には死を、とかいう世の中がまさか生きているうちに繰り返されようとは思いもよりませんでしたが、そういう方向にこの国の政治は向かっているってことですもんね?
 そういえば私は、投票率を上げるためには、投票に行った人しかジブリ映画を見られない、とかにすればみんな行くんじゃないかなあ…とかくだらないことを考えたりもしました。いまや全国民的な出来事ってなかないから。AKB総選挙も一部の人のものだし、オリンピックは私は東京招致に反対だし。選挙に行かないとその週のジャンプが買えない、とかも効果あると思うけどねー。
 選挙に行かないと国がヘンになってアニメなんか楽しめなくなる、ってのはけっこう冗談じゃないんだけれどなあ…
 私はこの映画は、クリエイターの罪業を描いたものとしても、純愛を描いたものとしても見ることができるけれど、それ以上にやはりなお大きく「戦争」を扱ったものなのではないかとも思うのです。その描写が一切なくとも。
 戦争が奪う日常の淡々とした美しさを描いた、というか…
 そんなふうに思う、また終戦記念日が巡る夏なのでした。


 




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