東京建物Brillia HALL、2025年4月15日13時。
19世紀初頭。科学者ビクター・フランケンシュタイン(この回は中川晃教、ダブルキャストは小林亮太)は執事のランゲ(鈴木壮麻)を伴い、軍の指揮の下、戦死した死体を蘇らせる兵士再生の研究を行っていた。ビクターは、敵兵の治療を行ったかどで銃殺されそうになっていた軍医のアンリ・デュプレ(加藤和樹、ダブルキャストは島太星)を助ける。ビクターの研究は神の摂理に触れる行為だと反発するアンリだったが、人間が安らかに暮らせる理想の世界を自らの手で実現したいというビクターの情熱に心打たれ、研究を手伝うことを決意。ふたりは固い友情で結ばれるが…
音楽/ブランドン・リー、脚本・歌詞/ワン・ヨンボム、オリジナル・オーケストレーション/アン・ヒジン、ブランドン・リー、潤色・演出/板垣恭一、訳詞/森雪之丞。メアリー・シェリーの小説を原作に、2014年ソウル初演の韓国ミュージカル。17年日本初演、20年再演に続く3度目の上演。全2幕。
韓国ではこの10年に5度の上演を重ねている大ヒット作だそうで、そもそも『サ・ビ・タ』や『パルレ』などの小規模な、いわゆるテハンノ・ミュージカルではない、千席以上の大劇場クラスの演目が海外進出していく初のケースとなった作品だそうです。私はこれまで名前だけは聞いていたものの何故か観ないできていたのですが、今回は女優陣がまぁ様に出産後舞台初復帰のかのまりちゃんと聞いて、いそいそとチケットを手配しました。本当は応援の意味を込めてヤングチームを観劇しようと思っていたのですが(どうしても中川加藤組がまず売れるんだと思ったので)、手違いでアダルトチーム回になってしまいました。が、まずはスタンダード版が観られてよかったのかな、とも思いました。ただこれ、この組み合わせだけじゃなくクロスキャストもあるんですね。それはおもしろいな、と思いました。後述しますが、ビクターとアンリに大きめの年齢差がある方がいいのではないか、とも思ったんですよね…
さて、そんなわけで席についてプログラムをざっと読み出すまで、これが韓国ミュージカルであることを私はちゃんとは知らなかったくらいなんですけど、ブランドン・リーのコメントにシェリーの原作について少し言及がある程度で、あとはクレジットなどに全然出ていないのはいかがなものか、と思いました。ちょうど文庫で新訳が出ていて改めて読んでみて、そんなに読みやすい小説じゃないしぶっちゃけおもしろいかと言われるとそれほどでも…と感じたしなんならだいぶ飛ばし読みしちゃったくらいなんですが、それでも0から1を立ち上げた最初のアイディアが最も奇跡的で価値があり素晴らしいものなのであり、それ以降の翻案はどんなに上出来だろうと翻案でしかないのです。オリジナルにはもっと敬意が払われるべきです。この舞台は、いくつかの設定やキャラクターの名前だけ原作から借りているだけで、ストーリーはほぼ独自のものだと言ってもいいけれど、でもそのオリジナリティはあくまで原作に立脚したものです。フランケンシュタイン博士が死体から人造人間を作り、それが怪物となる、というアイディアで小説を書いたのはメアリー・シェリーであり、この名前がもしかしたらドイツ語圏では単に鈴木とか佐藤とかにしかすぎないものだったとしても、彼にこの名を与えたのは彼女で、今ではむしろ怪物の方を指すものだと思われていて知らない人などいないくらいなのも、みんなみんな彼女の小説あったればこそなのです。それをタイトルにしている、まさしく「派生作品」として、この舞台はメアリー・シェリーの小説を原作にするものである、ということはもっとちゃんと明記されていいはずだと思いました。強く指摘しておきます。
さて、そんなわけで原作のビクターには弟はいても姉エレン(朝夏まなと)はいないし、恋人の名はエリザベスでジュリア(花乃まりあ)じゃないし、アンリとは確か学友だったはずだし何より怪物になるのはアンリではないんだけれど、この舞台は原作の要素を上手く生かして換骨奪胎しておもしろいストーリーに発展させていて、かつ一幕と二幕でプリンシパルが対照的な二役を演じる、という演劇的な趣向のおもしろさもあり、何より楽曲が素晴らしくて、ホントもうザッツ・韓国ミュージカルで熱く激しく濃く重く、もうもうおなかいっぱいになりました。例えば日本人が翻案したらこういう作品にならないと思うんですよね…
で、意図があるのかないのかはともかくとしてビクターとアンリにBLめいた関係性が持ち込まれているしそこにファンがついている、というのは理解しました。実際、当初はアンリはビクターに反発して、でもやがてビクターの理想や情熱や狂気に感化されて協力者となり、親友となっていく展開なので、それはそこが見どころになりますよね、とも思いました。なので、アンリがビクターの身代わりになる事件については、今のように回想や伝聞で語る形ではなく、実際の時間軸で見せた方がいいと思いました。ビクターの行為はほぼ事故かもののはずみだったのかもしれないけれど、そこに狂気や虚栄心や他人のことをどうでもいいと考えている傲慢さなんかがなかったとは言い切れず、その恐ろしさをきちんと見せてもらいたかったし、それがわかっていてなお、ビクターが逮捕され処刑されるよりは自分が犠牲になったほうが世界のためにいい、そもそも今の自分の命はビクターに救ってもらったものだし…と考えて自分がやったと訴え出るアンリ、みたいなのもちゃんと見せた方がよりドラマチックだと思うのです。その自己犠牲、自己陶酔、あるいは逃避、あるいはそうやって相手に自分の決して消えない爪痕を残すこと…なかなか根深いものがありましたよ、ここには。
ビクターがアンリの首を死体につなぎ、そこに落雷があって、死体についに命が宿る。しかしアンリは記憶も何もかも失っていて、ただの赤子のような、しかし怪力の怪物になってしまう。フリークスが売られるのはサーカスと相場が決まっていて、二幕の二役はみんなその関係者になっています。そこで怪物はいろいろなことを学習していき、ビクターを皮肉を込めて創造主と呼ぶようになるのだけれど(これは原作も同じでしたね)、それはアンリがビクターを師父として慕っていたことの名残でもあるわけです。なので原作と違って、ビクターはアンリよりかなり年長であるとして、そういう年格好の役者を配役し、舞台としてはそりゃ怪物役が華かなと思うのですがアンリ役者がやがて歳を重ねたら博士役者になるような、そういうムーブメントができると素敵なんじゃないかしらん、と私は考えたのでした。
そう、出番とかはトントンなのかもしれないけれど、ビクターって辛抱役だし、この作品のタイトルロールは怪物のことなのかなあ、などと途中までは観ていて私は感じていたのです。が、二幕ラストの楽曲名は「俺はフランケンシュタイン」で、北極で、致命傷を負ったビクターが怪物の死体を抱いて(絶命する直前に、完全にアンリの声音に戻って一言だけ呼ぶ「ビクター」という台詞よ…!)この歌詞を絶唱するのでした。そしてガクンとうなだれて、暗転、完結。
ふたりを分かつものはただ死あるのみ、ふたりはともに息絶えて、この「俺は」は「俺たち」のことであり、ビクターとアンリのふたりともがフランケンシュタインであり怪物であったのだ、という結論の物語なんだ、と実にわかりやすく納得できたのでした。ならばファーストクレジットは発端となるビクターの方だよね、というだけのことなのだな、と…ちなみに北極も原作由来の地名であり、そういうのをちゃんと拾っているのはとてもよかったです。でもビクターがエレンを蘇らせようとしたときには、今回の怪物は特に伴侶を欲しがらなかったけれどアンリとエレンにはビクターを介してではあったけれどほのかな交情が見られたので、やめてそれはダメよ誰にも望まれていないわよ!?とかなり焦りましたよ私、ということは告白しておきます…
あとは、そんなわけでどうしても主役ふたりのドラマで盛り上がっちゃうのは仕方ないにせよ、でもせめてジュリアのしどころのなさはもう少しどうにかしようか、と思いました。女性キャラクターに対する解像度がいったいに低すぎるんですよ…! 女性を聖母か娼婦にしか描けない、それはもうしょうがないのかもしれない。で、娼婦側は売らせる女エヴァ(朝夏まなとの二役)と売られる女カトリーヌ(花乃まりあの二役)、という描き分けはできるのに、聖母側ではエレンが慈愛パートを務めちゃうとジュリアにやらせることが残っていない、みたいな残念な脚本になっちゃってるんですよね、今。そりゃかのちゃんもプログラムのトークでこぼすっつーの…
私なら、ジュリアはもっと強く明るい娘にします。母親のことがあってもなくてもそもそも生来内向的な少年だったろうビクターを照らし、明るい方へ導く、お嬢様らしからぬ先進的な、進歩的な考えの、まっすぐな女性にします。エレンが母親代わりにビクターを案じ世話を焼き甘えさせむしろダメにしているのとは逆の方に引っ張ろうとする、ビクターだってそれに惹かれる部分もある、そういう魅力的な女性にします。それでも男の男による男のための物語では女が死ぬ定めなのは変わらないわけですが…むしろ反家父長制を掲げた彼女が空しく死ぬ展開なのは、良き皮肉となっていいのでは? かのちゃん、歌も良かったしドレス姿もホント美しかったけど、芝居は特にもっとできる子なんで! よろしくお願いしますよ!?
でもそれでいうとまぁ様もホントよかった。エヴァのショースターっぷりはもちろん、私が姉弟萌えだってのもあるけどエレンの芝居がホントよかったです。あと今回はちゃんと歌えていたのもよかった、キーが合えば問題ないのかな。それか、若いヒロイン役みたいなのをやらされなかったのがよかったのかもしれません。そういう歌ってキーも高くなるしね。
アッキー、加藤さんとももちろん素晴らしいわけで、あと今回の鈴木壮麻が私の好きな鈴木壮麻で大変満足でした(笑)。ただ、アッキーも加藤さんも上手いと思うし信頼している役者さんですが、個人的には私は特に好きでも嫌いでもない役者さんなので、これはここを誰か好きな人にやられたらそらこの作品たまらんくなるな、とも思ったんですよね…なのでいつか、そんな日を、待ちたいなと思いました。またひとつ、良き沼を知りました…
19世紀初頭。科学者ビクター・フランケンシュタイン(この回は中川晃教、ダブルキャストは小林亮太)は執事のランゲ(鈴木壮麻)を伴い、軍の指揮の下、戦死した死体を蘇らせる兵士再生の研究を行っていた。ビクターは、敵兵の治療を行ったかどで銃殺されそうになっていた軍医のアンリ・デュプレ(加藤和樹、ダブルキャストは島太星)を助ける。ビクターの研究は神の摂理に触れる行為だと反発するアンリだったが、人間が安らかに暮らせる理想の世界を自らの手で実現したいというビクターの情熱に心打たれ、研究を手伝うことを決意。ふたりは固い友情で結ばれるが…
音楽/ブランドン・リー、脚本・歌詞/ワン・ヨンボム、オリジナル・オーケストレーション/アン・ヒジン、ブランドン・リー、潤色・演出/板垣恭一、訳詞/森雪之丞。メアリー・シェリーの小説を原作に、2014年ソウル初演の韓国ミュージカル。17年日本初演、20年再演に続く3度目の上演。全2幕。
韓国ではこの10年に5度の上演を重ねている大ヒット作だそうで、そもそも『サ・ビ・タ』や『パルレ』などの小規模な、いわゆるテハンノ・ミュージカルではない、千席以上の大劇場クラスの演目が海外進出していく初のケースとなった作品だそうです。私はこれまで名前だけは聞いていたものの何故か観ないできていたのですが、今回は女優陣がまぁ様に出産後舞台初復帰のかのまりちゃんと聞いて、いそいそとチケットを手配しました。本当は応援の意味を込めてヤングチームを観劇しようと思っていたのですが(どうしても中川加藤組がまず売れるんだと思ったので)、手違いでアダルトチーム回になってしまいました。が、まずはスタンダード版が観られてよかったのかな、とも思いました。ただこれ、この組み合わせだけじゃなくクロスキャストもあるんですね。それはおもしろいな、と思いました。後述しますが、ビクターとアンリに大きめの年齢差がある方がいいのではないか、とも思ったんですよね…
さて、そんなわけで席についてプログラムをざっと読み出すまで、これが韓国ミュージカルであることを私はちゃんとは知らなかったくらいなんですけど、ブランドン・リーのコメントにシェリーの原作について少し言及がある程度で、あとはクレジットなどに全然出ていないのはいかがなものか、と思いました。ちょうど文庫で新訳が出ていて改めて読んでみて、そんなに読みやすい小説じゃないしぶっちゃけおもしろいかと言われるとそれほどでも…と感じたしなんならだいぶ飛ばし読みしちゃったくらいなんですが、それでも0から1を立ち上げた最初のアイディアが最も奇跡的で価値があり素晴らしいものなのであり、それ以降の翻案はどんなに上出来だろうと翻案でしかないのです。オリジナルにはもっと敬意が払われるべきです。この舞台は、いくつかの設定やキャラクターの名前だけ原作から借りているだけで、ストーリーはほぼ独自のものだと言ってもいいけれど、でもそのオリジナリティはあくまで原作に立脚したものです。フランケンシュタイン博士が死体から人造人間を作り、それが怪物となる、というアイディアで小説を書いたのはメアリー・シェリーであり、この名前がもしかしたらドイツ語圏では単に鈴木とか佐藤とかにしかすぎないものだったとしても、彼にこの名を与えたのは彼女で、今ではむしろ怪物の方を指すものだと思われていて知らない人などいないくらいなのも、みんなみんな彼女の小説あったればこそなのです。それをタイトルにしている、まさしく「派生作品」として、この舞台はメアリー・シェリーの小説を原作にするものである、ということはもっとちゃんと明記されていいはずだと思いました。強く指摘しておきます。
さて、そんなわけで原作のビクターには弟はいても姉エレン(朝夏まなと)はいないし、恋人の名はエリザベスでジュリア(花乃まりあ)じゃないし、アンリとは確か学友だったはずだし何より怪物になるのはアンリではないんだけれど、この舞台は原作の要素を上手く生かして換骨奪胎しておもしろいストーリーに発展させていて、かつ一幕と二幕でプリンシパルが対照的な二役を演じる、という演劇的な趣向のおもしろさもあり、何より楽曲が素晴らしくて、ホントもうザッツ・韓国ミュージカルで熱く激しく濃く重く、もうもうおなかいっぱいになりました。例えば日本人が翻案したらこういう作品にならないと思うんですよね…
で、意図があるのかないのかはともかくとしてビクターとアンリにBLめいた関係性が持ち込まれているしそこにファンがついている、というのは理解しました。実際、当初はアンリはビクターに反発して、でもやがてビクターの理想や情熱や狂気に感化されて協力者となり、親友となっていく展開なので、それはそこが見どころになりますよね、とも思いました。なので、アンリがビクターの身代わりになる事件については、今のように回想や伝聞で語る形ではなく、実際の時間軸で見せた方がいいと思いました。ビクターの行為はほぼ事故かもののはずみだったのかもしれないけれど、そこに狂気や虚栄心や他人のことをどうでもいいと考えている傲慢さなんかがなかったとは言い切れず、その恐ろしさをきちんと見せてもらいたかったし、それがわかっていてなお、ビクターが逮捕され処刑されるよりは自分が犠牲になったほうが世界のためにいい、そもそも今の自分の命はビクターに救ってもらったものだし…と考えて自分がやったと訴え出るアンリ、みたいなのもちゃんと見せた方がよりドラマチックだと思うのです。その自己犠牲、自己陶酔、あるいは逃避、あるいはそうやって相手に自分の決して消えない爪痕を残すこと…なかなか根深いものがありましたよ、ここには。
ビクターがアンリの首を死体につなぎ、そこに落雷があって、死体についに命が宿る。しかしアンリは記憶も何もかも失っていて、ただの赤子のような、しかし怪力の怪物になってしまう。フリークスが売られるのはサーカスと相場が決まっていて、二幕の二役はみんなその関係者になっています。そこで怪物はいろいろなことを学習していき、ビクターを皮肉を込めて創造主と呼ぶようになるのだけれど(これは原作も同じでしたね)、それはアンリがビクターを師父として慕っていたことの名残でもあるわけです。なので原作と違って、ビクターはアンリよりかなり年長であるとして、そういう年格好の役者を配役し、舞台としてはそりゃ怪物役が華かなと思うのですがアンリ役者がやがて歳を重ねたら博士役者になるような、そういうムーブメントができると素敵なんじゃないかしらん、と私は考えたのでした。
そう、出番とかはトントンなのかもしれないけれど、ビクターって辛抱役だし、この作品のタイトルロールは怪物のことなのかなあ、などと途中までは観ていて私は感じていたのです。が、二幕ラストの楽曲名は「俺はフランケンシュタイン」で、北極で、致命傷を負ったビクターが怪物の死体を抱いて(絶命する直前に、完全にアンリの声音に戻って一言だけ呼ぶ「ビクター」という台詞よ…!)この歌詞を絶唱するのでした。そしてガクンとうなだれて、暗転、完結。
ふたりを分かつものはただ死あるのみ、ふたりはともに息絶えて、この「俺は」は「俺たち」のことであり、ビクターとアンリのふたりともがフランケンシュタインであり怪物であったのだ、という結論の物語なんだ、と実にわかりやすく納得できたのでした。ならばファーストクレジットは発端となるビクターの方だよね、というだけのことなのだな、と…ちなみに北極も原作由来の地名であり、そういうのをちゃんと拾っているのはとてもよかったです。でもビクターがエレンを蘇らせようとしたときには、今回の怪物は特に伴侶を欲しがらなかったけれどアンリとエレンにはビクターを介してではあったけれどほのかな交情が見られたので、やめてそれはダメよ誰にも望まれていないわよ!?とかなり焦りましたよ私、ということは告白しておきます…
あとは、そんなわけでどうしても主役ふたりのドラマで盛り上がっちゃうのは仕方ないにせよ、でもせめてジュリアのしどころのなさはもう少しどうにかしようか、と思いました。女性キャラクターに対する解像度がいったいに低すぎるんですよ…! 女性を聖母か娼婦にしか描けない、それはもうしょうがないのかもしれない。で、娼婦側は売らせる女エヴァ(朝夏まなとの二役)と売られる女カトリーヌ(花乃まりあの二役)、という描き分けはできるのに、聖母側ではエレンが慈愛パートを務めちゃうとジュリアにやらせることが残っていない、みたいな残念な脚本になっちゃってるんですよね、今。そりゃかのちゃんもプログラムのトークでこぼすっつーの…
私なら、ジュリアはもっと強く明るい娘にします。母親のことがあってもなくてもそもそも生来内向的な少年だったろうビクターを照らし、明るい方へ導く、お嬢様らしからぬ先進的な、進歩的な考えの、まっすぐな女性にします。エレンが母親代わりにビクターを案じ世話を焼き甘えさせむしろダメにしているのとは逆の方に引っ張ろうとする、ビクターだってそれに惹かれる部分もある、そういう魅力的な女性にします。それでも男の男による男のための物語では女が死ぬ定めなのは変わらないわけですが…むしろ反家父長制を掲げた彼女が空しく死ぬ展開なのは、良き皮肉となっていいのでは? かのちゃん、歌も良かったしドレス姿もホント美しかったけど、芝居は特にもっとできる子なんで! よろしくお願いしますよ!?
でもそれでいうとまぁ様もホントよかった。エヴァのショースターっぷりはもちろん、私が姉弟萌えだってのもあるけどエレンの芝居がホントよかったです。あと今回はちゃんと歌えていたのもよかった、キーが合えば問題ないのかな。それか、若いヒロイン役みたいなのをやらされなかったのがよかったのかもしれません。そういう歌ってキーも高くなるしね。
アッキー、加藤さんとももちろん素晴らしいわけで、あと今回の鈴木壮麻が私の好きな鈴木壮麻で大変満足でした(笑)。ただ、アッキーも加藤さんも上手いと思うし信頼している役者さんですが、個人的には私は特に好きでも嫌いでもない役者さんなので、これはここを誰か好きな人にやられたらそらこの作品たまらんくなるな、とも思ったんですよね…なのでいつか、そんな日を、待ちたいなと思いました。またひとつ、良き沼を知りました…