駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『裏表太閤記』

2024年07月09日 | 観劇記/タイトルあ行
 歌舞伎座、2024年7月6日16時半(七月大歌舞伎夜の部)。

 大和国信貫山にある松永弾正(市川中車)の館を、織田信長(板東彦三郎)軍の使者である多岐川一益(松本錦吾)、服部弥兵衛(大谷廣太郎)が信長の御諚を告げに訪れる。弾正は主君や先の将軍を攻め滅ぼし、東大寺大仏殿を焼き討ちにする大罪を犯していたが…
 脚本/奈河彰輔、演出・振付/藤間勘十郎。1981年明治座初演、全3幕。

 三世市川猿之助(二世猿翁)は埋もれていた狂言の再創造に熱心で、これもそのひとつなんだとか。近松門左衛門の『本朝三国志』始め、上演の機会が少ない先行の「太閤記もの」の数々をつなぎ合わせて、初演は一日がかりの通し狂言として上演されたんだそうです。羽柴秀吉(松本幸四郎)の活躍の物語を表、明智光秀(尾上松也)たちの悲劇の物語を裏、とする趣向だそうです。
 大河ドラマや歴史小説なんかでこのあたりの史実はひととおり知っているつもりだし、宣伝ビジュアルはポップだし、通しだし、最近の新作だし(二百年物がざらにある世界では43年ぶりの再演なんて「最近」なのだということが、私にもわかってきました…)、私でもわかるはず、楽しめるはず…とチケットを取って出かけてきました。
 今回は夜の部のみでの上演なので、大幅なカットや補綴がされたそうですが…でも、あたりまえですが完全新作スーパー歌舞伎ではないので古典寄りでしたし、澤瀉屋が指向するスピード、ストーリー、スペクタクルの「3S」からするとちょっともの足りなかったかな…というのが、私の率直な感想です。ま、期待しすぎちゃったのかもしれませんが…これでもド古典よりはかなりスピーディーらしいんですけどね。
 でも光秀が松也で秀吉が幸四郎ったって、幸四郎さんは二役の鈴木喜多頭重成の方が出番が多いくらいだし(イヤこの人はさらに孫悟空もやるんですけどね…)、光秀の妹・お通(尾上右近)が信忠(板東巳之助)に縁づいていて…ってドラマもあるのになんか中途半端で、「通し」感がないな、と感じてしまったんですよね。せっかくの裏表の趣向が生きていないというか。
 いろんな作品からの名場面ピックアップ・ダイジェストになっているので、くわしい人は前後も補完して観られるのでしょうが、私は素人だからピックアップの仕方が良くないように感じられるわけです。話がつながってないじゃん、通ってないじゃん…と思ってしまう。ひとつひとつの場面はちゃんとドラマがあって、おもしろく観たんですけどね。「馬盥」とか、歌舞伎ってホントこーいうの上手いよな、とか思ったので。あと歌舞伎あるあるすぎる生首ネタとかね。
 でもさー、みのさまが素敵だったし、むずがる赤ん坊に薙刀キラキラさせてあやすお通、ってのがめっちゃ素敵だったので、こーいうキャラたちを生かさんでどーする、って気がしちゃったんですよね。彼らと鈴木親子のドラマは重ならないんだしさ。もっとちゃんと関わり合いつつ綺麗に流れるお話は作れるでしょ、と思ってしまった…
 本水チャンバラとか、楽しくていいんですけどね。ホント、歌舞伎の本質って別に高尚な芸術とかじゃなくて、お客を驚かせてナンボ、喜ばせてナンボなんだよね、というのも最近やっとわかるようになってきました。だから猿だから、というだけで夢オチで『孫悟空』がぶっこめる。そして大詰ラストは大坂城大広間で五人の華やかな三番叟フィナーレでオチる。わかるし楽しいし艶やかでうっかり満足しちゃうんだけれど、そもそも私が観たかったものとは違ったな…とは感じてしまったのでした。
 弟橘姫ネタはたまたまだったのかしらん? メインのお役が鈴木孫市(市川染五郎)だった染五郎くんはますます素敵でした。












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モダンスイマーズ『雨とベンツと国道と私』

2024年06月30日 | 観劇記/タイトルあ行
 東京芸術劇場シアターイースト、2024年6月26日19時。

 コロナの影響で心身ともに病んでいた五味栞(山中志歩)は、知人の才谷敦子(小林さやか)の提案で、彼女の自主映画製作を手伝うため群馬へと誘われる。そこには、かつて五味が参加していた撮影現場で罵声や怒号を日常的に役者やスタッフに放っていた監督・坂根真一(小椋毅)の姿があった。しかし彼は名前を変え、別人のように温厚な振る舞いで監督をしていて…
 作・演出/蓬莱竜太。劇団結成25周年の新作、全1幕。

 前作『だからビリーは東京で』は観ていて、すごくよかったので今回も気になっていたのですが、仕事が忙しくて見送ろうかな…と日和っていたところ、友達にすごくよかった!と勧められたので急遽駆け込んできました。口コミで後半日程は完売したそうですね、良きことです。
 真ん中に背もたれのない椅子が置かれているだけの、ほぼ何もない舞台。よく見ると両脇に椅子の列があって、その後出てきた役者たちは、舞台中央で芝居をしていないときはそこに座っていたり、次の場面に出るために着替えをしたり小道具の準備をしたりします。真ん中の空間にはときどき机が出る他はほぼ物が増えないのですが、照明などの効果もあって、ほぼ自在に撮影現場や映画館や車内になるのでした。演劇の魔法がまさしくそこにありました。
 冒頭、栞が出てきて、ややたどたどしい口調で「私の話をします」みたいなことを語り始めます。彼女は本当に栞そのものにしか見えないのだけれど、きっと中の女優さんの素顔はもっと全然違うんだろうな、とか思いました。なんというか、それくらい、怖いくらい、みんなそれっぽかったのです。これは前回の観劇でも感じたことですが…役者はまさしく千の顔を持つ。ここにも演劇の魔法があるのでした。
 さて、なので栞が語り始め、壁に彼女の名前が大写しになるので、彼女が物語の主人公なのであり、タイトルの「私」というのは彼女のことなのかな、と思わせられます。しかしその後、彼女に手伝いを頼んだ敦子もまた彼女の話を語り始めて、彼女の名前も壁に出ますし、その映画の監督をしている坂根の名前も壁に出ます。彼は貰い物のベンツに乗っていました。敦子はかつて、夫とともに国道を散歩していました。栞は雨の中、確かに初恋を感じていました。「雨とベンツと国道」とはこの三人を指しているのであり、では「私」はといえば、つまりは観客ひとりひとりのことなのでしょう。みんな、何かを失ったり、何かに傷ついたりしながら、今なお続くコロナ渦中の現在を生きている人間だからです。これは私たちの物語なのでした。
 私はおそらく未だにコロナに罹患したことがなく、なんとか心身ともに健康でいられて、栞のような創作現場にいたこともあり、似たようなパワハラ、セクハラに遭ったり目撃したりしてきたけれど、彼女のようにここまでひどく追いつめられたことは幸いにしてありません。芝居を観ていて、坂根監督の言う極端な二元論に私は脳内で反論できます。「真剣だからこそちょっとくらいキツいことを言われても耐えてがんばっていいものを作る方がいいのか、みんなで仲良く気を遣い合って優しくぬるま湯に浸かって中途半端なものしか作れない方がいいのか」みたいな、しょうもない二択です。私はその二択の立て方自体が間違っている、と言えます。みんなが健康で安全で安心して打ち込めて、それでいいものができる、という道が必ずある、と言えます。というかあることを知っている、信じている、と言ってもいい。
 でもそういう経験や信念がないと、あるいは経験がなくても信念や理想を信じられるようなある種の図太さがないと、生真面目に受け止めすぎて追い込まれてしまう人がいる…というのも、すごくわかります。配られたブログラムには「一部、恫喝や暴力の表現があります」とごく小さくアナウンスされていますが、観ていてダメな人はこれは全然ダメでしょう、とヒヤヒヤしました。抽象化され様式化されていたけれど、それでもリアルでシビアで、トラウマが蘇っちゃう人は多いんじゃないかな、と思ったのです。別に撮影現場でなくても、どこでもこうしたことは蔓延している、それこそコロナ以上に…と改めて思わされました。誰もが身に覚えがある、そういう意味でもまごうかたなき現代劇です。
 こうしたハラスメントの顕在化とか、コンプライアンス遵守の徹底が叫ばれ出したのは、たまたまコロナ禍と軌を一にしていただけであって、感染症との直接の関係性はないのでしょう。ただ、栞はコロナに感染したこともあって、心身ともにダウンしてしまった…
 栞に対しての坂根、が置かれているだけでなく、彼らとは直接関係がないような、あるいは彼らと三角形を描くようにやや離れて、敦子の物語が置かれているのがまたとても深いですよね。彼女はコロナで夫(古山憲太郎)を亡くしました。喘息の既往症があったものの、基本的には健康な壮年の男性が、あっという間に感染して、家族の見舞いも受けられずにあっけなく死んだのです。忘れていたけれど、今でも目を背けがちだけれど、コロナってそういう病気です。報道されていないだけで、今でも人はバンバン死んでいます。田舎暮らしを始めたり、野菜作りを始めたり、子供を持つか真剣に悩んだり、人生のプランがいろいろあった敦子は、配偶者の突然の死というある種の運命の暴力によって、立ち止まらせられ、呆然とさせられ、それで再出発のために自主映画の製作を始めたのでした。それで坂根に監督を依頼し、手伝いに栞を呼んだ…
 私は映画にはくわしくないけれど、映画は監督のものだ、とはよく言われますよね。でも物語の根幹は脚本にあるだろう、ということもよくわかります。しょーもない脚本はどうやっても素敵には撮れない。敦子は素人です。けれど夫の物語を書かないではいられなかった。再出発したかった坂根は名前を変えてでも、しょーもない脚本でも、もう一度映画が作りたかった。でも…やはりカタストロフは訪れてしまうのでした。
 前作で役者としてデビュー?した凛太郎(名村辰)が、ほぼ演技の経験のがないようながらも敦子の夫を演じる役者として登場しているところが、ミソです。そして彼は暴言や暴力というものにほぼ絶対的に否定的な人間でした。演技はアレでも良識はちゃんとしているのです。もちろん彼には彼の物語があるのだけれど、今回はそこはピックアップされていません。
 同様に助監督の山口(津村知与支)にも彼の物語があって、彼が圭(生越千晴)に好かれていると思い込むところとか、ホント男子あるあるで笑っちゃったんですけれど、彼だって栞と同じくらいトラウマになっていいくらいに坂根に痛めつけられているはずなのに、彼は呼ばれたらまた行っちゃうんですよね…でも暴言の録音はしている。このホモソーシャルの害悪、マジでヤバい…そういうこともあぶり出される物語です。
 ユーモアは確かにある舞台で、客席からもよく笑いが沸いていましたが、それはパワハラやセクハラを容認しての笑いではなかったと私は感じました。だから私は嫌な感じは受けませんでした。問題がちゃんとわかっていて、でもこういうしょーもなさってホントある、とついしょーもなく笑っちゃう感じで沸いた笑いに思えました。でもこのあたりは、もしかしたら回によって、観客によって違ったかもしれませんね。そこは笑っていいところではない!ってところで無神経な観客から無邪気な笑いが起きて、別の観客の繊細なハートが傷つくような回もあったのかもしれません。
 ゴールも、解決策も、正解もない作品だったと思います。ラストの栞の叫びは、確かに当人が言うとおり、ハラスメントの一種だったのかもしれません。真剣なら許される、とか正しければ許される、ということはない。怒号はそれだけで暴力であり犯罪です。でも、栞の意図が、真意が、真剣さが、誠実さが、欲していることが、求めていることが凛太郎に伝わっているなら、彼は特に傷つくことなく、とりあえず素直に走り出せて、もしかしていい絵が撮れているのかもしれません。脚本がしょうもなくても、映画としては駄作でも、敦子はそれで救われるのかもしれません。坂根は今度こそ少しだけ変われて、再出発できるのかもしれません。凛太郎は役者として一歩前進できるのかもしれません。山口はどうだろう…そして圭は、今はどこかで元気になっていて、幸せに暮らしてくれているといいな、と祈らないではいられません。でもみんなが回復し乗り越え元気で幸福でいられている、なんてそれこそ幻想なのでしょう。だから彼女のその後の姿はこの物語には出てこない。そういうほの暗さもある舞台でした。まさしく現代劇、だと思いました。
 人は何故物語るのでしょう。物語を必要とし、創作しないではいられないのでしょう。物語ることでしか得られないものとはなんなのでしょう。大事なのは、命であり、その生き様、人生です。物語の、創作の力を借りて、それが少しでも明るく輝くとか、楽になるとか、幸福に近づけるとかがあると、いいんだろうな、など考えました。「人は本当に変われるのか」、進化し、前進し、滅亡から逃れられることができるのか…そういうことを考え続けていこうとする、舞台だったように思いました。










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宝塚歌劇月組『Eternal Voice/Grande TAKARAZUKA110!』

2024年06月28日 | 観劇記/タイトルあ行
 宝塚大劇場、2024年4月5日13時。
 東京宝塚劇場、6月13日15時半(新公)、25日18時。

 ヴィクトリア女王統治下のイギリス。考古学者のユリウス(月城かなと)は、古美術商を営む叔父ジェームズ(凛城きら)に頼まれてアンティークハンターとして各地を飛び回る生活を送っていた。ある日、エディバラの鑑定即売会を訪れていたユリウスは、ひとりの男からスコットランド女王メアリー・スチュアート(白河りり)の遺品とされる首飾りを見せられ…
 作・演出/正塚晴彦、作曲・編曲/玉麻尚一。月組トップコンビの退団公演となるミュージカル・ロマン。

 マイ初日雑感はこちら
 結局その後、東京では新公を先に観ることになってしまい、どれが誰の役だっけ、とか点呼しているうちにあっもうオチ?てかじゃあさっきのくだりがクライマックスだったってこと??と新鮮に驚いてしまい、そのあと観た本公演ではもっとおちついて観たつもりでしたが、しかし私はやっぱり全然ダメなのでした…
 なので、感動した! 超名作判定!! …という方はここまでで読むのをおやめくださいませ……
 ちなみにもちろん生徒さんにまったく罪はなく、完全にハリーの問題だと思っています。

 私は理屈っぽい人間なので、遺品に残る残留思念が読み取れるとかの特殊能力、あるいはいわゆる超常現象なるものに対しては全体に懐疑的です。非科学的だと思う。ただないという証明は難しいものだし、現実にできていないわけですよね。それにロマンとしてはあっていいとも思います。
 ただ、フィクションのモチーフとして扱うなら、明確なルールが必要だと思うのです。どういう条件でどんな能力がどう発動するのかを定めてほしい。でないと魔法や超能力と同じで能力者は無敵の人になってしまい、その力ですべて難なく解決できてしまうはずで、物語としてまったくおもしろくなくなってしまうからです。あと、観客とか読者とかはそうした能力を持たない一般人が大半だと思うので(まれに「わかる! 私のことだ! よくぞ描いてくれた!」って人がいるのかもしれませんが…)、自分とは関係のない、知らない星の人の話だ…となってしまわないよう、よりキャラクターに感情移入させる工夫が必要だと思います。
 主人公だから、ヒロインだから、トップスターが演じるキャラクターだから、観るのは宝塚歌劇のファンが大半だから、そのあたりは担保されているのかもしれません。でも、甘えないでほしい。少なくとも私は、もしかしたら意地悪すぎる見方をしているのかもしれませんが、ユリウスのこともアデーラのことも特に好きにはなれませんでした。どういう人間なのかはそれなりに描かれていたと思うけれど、あまりチャーミングに思えなかったのです。それでお話そのものにもノレなかったというのはあると思うけれど…もっと主役を好きになって応援する気持ちでお話を追えるよう、脚本や演出にきちんとお膳立てしてほしかったんですよね。望みすぎですか? でも、それって創作の基本では? 主役が嫌なヤツのお話なんてごまんとあるけれど、たいていは共感しやすい視点人物が他に置かれているものですが、今回のヴィクター(鳳月杏)やダシエル(風間柚乃)、カイ(礼華はる)がそれを担えていたとは思えません。というか要ります?この役、みたいな役しかなかったじゃん…もちろんそれが贔屓ならなんとしてでも萌えて観ていたかもしれないけれど、正直、今回、つらくないですか…?
 ユリウスはなんかオラついた男で、それは自分の特殊能力故の生きづらさにイラついていて、でも開き直って生きていくことにしているのでその虚勢なのかもしれないし、考古学だけでは食べていけないことにもイラついているのかもしれないけれど…いくられいこちゃんが素敵でも、ちょっと幼稚で、周りに甘えて当たっている、よくいるプチ傲慢な男性の典型にも思えて、私はなんか萌えませんでした。アデーラも、そうなる状況に追い込まれている、というのはわかるにしても、神経質でヒステリックな女性に見えて、またそれ以外の個性や特徴は特に描かれていないので、私にはなんか好きになるも何もなかったのでした。
 それは他のキャラクターも同様で、ジェームズ(凛城きら。東京でやっと観られた! お元気そうで何より)とアマラ(羽音みか)の謎のイチャつきとかもニヤニヤしないことはないんだけれど、それでなんなんだ?という気がしたし…エゼキエル(彩みちる)とマクシマス(彩海せら)も、あみちゃんの「もうやめよう、姉さん…!」みたいなのには萌えたんですが、結局なんだったの?という気しかしませんでした。てかアデーラが先祖の意志云々っていうなら彼女たちだってそうだったんでしょ? ヴィクトリア女王(梨花ますみ)を呪うのは筋違いだから叶わなかったんだ、ってこと? そんなのもっと早くわからないものなのか…? トリックスターにしてはエキセントリックすぎて、そしてそれなりに上手いみちるちゃんがいろいろかなぐり捨ててやっているのを観るのは、私はなんかホントしんどかったんですけど、やや考えすぎなんですかね…?
 有能で敏腕なしごでき女性エイデン(天紫珠李)と、その後輩でやはりやる気がある若い女性エレノア(花妃舞音)、ってのだけは、好みもあるけど響きました。ただ、話の本筋にはあまり関係ないキャラ立てだった気もしますけどね…あと、フツーならこのあたりを七城くんとかわかとかしゅりんぷに振ってもよかったんじゃないの?とも思うので、正直言って微妙なフェミ媚びに感じました。まあ次期トップ娘役にまあまあちゃんとした役を書いた、という意味では評価できるのかな…?(毎度上から目線ですみません)実質的に彼女の救出劇がお話のクライマックスになっているわけでもありますしね。ただ、そんなんでいいのか?ってのはあるけど…なんせ主役ふたりは彼女自身とはほとんど関わりがないようなものなので、今ひとつドラマチックに盛り上がらなかった気がするのです。
 それこそエイデンは家の都合によるユリウスの婚約者なんだけど、当人同士は全然その気がなくて…とかにしてアデーラ含めてちょっとこじらせたりしたほうが、もう少し何かのドラマが生まれたのでは…? なんでも色恋にすればいいということではなくて、人の感情が動くエピソードを作ってほしい、という意味です。だって昔のスコットランド女王の無念が云々言われても、大多数の人にはなんじゃソレ、ってなもんじゃないですか。イヤそれが国家元首の隠遁につながっていて政情不安で、ってのは国民としては大問題なんだろうけど、あの説明台詞ではその深刻さは上手く伝わっていないんじゃないでしょうか…てか「クイーン・オブ・スコッツ!」ってナニ? カッコいいから言わせてみた、みたいなの、やめたら…? ただでさえイングランドとスコットランドとかカトリックとプロテスタントとか、わかりづらいんだからさ…
 生徒さんはみんな脚本に書かれたことを上手く演じてみせていたと思うんですけれど、なんせその脚本がまたひどくて、「ル・サンク」を買っていたら私は5行に1回は赤入れしていそうな気がします。指示代名詞が何を指しているのかわかりにくい、省略された語尾や言葉が類推しづらい、掛け合いの意図がわかりづらいなどなど、問題山積だったと思います。実際の人間のしゃべり言葉や会話ってこうだよ、というんだとしても、芝居の台詞は現実とは違うものであるべきだし、ハリー節云々という味わい深さはあってもいいけど、無駄にわかりづらいんじゃ台無しじゃないですか。
 こういう引っかかりも全部飲み込んで、補完して、思い入れて観れば、味わい深いれこうみの関係性が楽しめて、なかなかいい佳作だったよ…みたいな評価になるのでしょうか。そこまで人間ができていなくて、すみません…という気持ちにはなっています。ホント申し訳ございません。

 前日に知人からお声がけいただいて、生で観劇できた東京新公についても、以下簡単に感想を。ちなみに最後のラインナップで正面がまのんたんのお席で、ホクホクでした私…
 ま、全体としてはハリー芝居はやはり下級生には難しかったかな、という印象でした。
 初主演コンビで、ユリウスは雅耀くん。前回の新公でおださんのところをやっていて、華がある若手キター!な印象はありました。確かに美形、でももちろんメイクはもっと洗練されていくことでしょう。立ち姿なんかも、登場時がズボンの皺とかがあまりにも美しくなくて、本役の着ている物をお直ししているから限界があるのは当然なんだけれど、とりあえずこういうこともスキル、場数、年季で、どんなに好素材でもそれだけでは舞台は務まらないものなんだなあぁ、と改めて痛感しました。歌も緊張もあってかけっこう怪しかったし、デュエットはどこをハモってるの?という微妙さでしたね…でも声は深くていいなと思いました。これは役者として武器ですよね。上手く育ててほしいなと思いました。
 アデーラは乃々れいあちゃん、組ファンには美人で知られた存在だそうですが私はほぼお初。確かにこちらも美形。まあソツなくやれていたのかな? でもこちらもまだまだ天然なだけの美でぷくぷくしていて、娘役として洗練されていくのはこれからだな、と感じました。のびのび育てー!
 それからするとヴィクターの七城雅くんはさすがおちついていました。主演経験者はやはり違うなあ…!
 あとはザンダー和真あさ乃くん、よかったです。上手い! 印象に残りました。
 わかのダシエルは…フツーだったかな…どうにも伸び悩んで見えるけど大丈夫かしらん…
 エイデンは俺たちのまのんたん、キリッと作れていて、よかったです!
 ジェームズまひろんは安定の上手さ。てかまだ新公内なの…!?
 エゼキエルはスーパーおはねタイムでした。しゅりんぷのマクシマスもなんせ顔が良くて、やっとわかりやすく目立つところがキタ!って感じでしたね。
 ヴィクトリア女王は私が大好きな静音ほたるちゃん、素敵でした。
 アンナ・クリフトンの美渦せいかとメアリー・スチュアートの咲彩いちごの歌声は圧巻。
 ハリエットの澪花えりさもクールでしごできで良きでした。
 あとはフィンレイの美颯りひとくん、顔がいい! 期待!!
 …そんなところかな……


 レビュー・アニバーサリーは作・演出/中村一徳。
 安定のBショーで舞台にいつも人が多く、銀橋にもいろんな生徒がバンバン出してもらっていて、娘役が銀橋にズラリなんて珍しい場面もあって、まあフツーに楽しかったです。目新しさはまったくなかったですけどね…れいこちゃんセンターの荒城の月くらい?
 大劇場では初舞台生ロケットだったところが東京では多少構成が変わって、スーパーおださんタイムになっていたのも良きでした。イヤすごいよホント、大スターさまだよ…!
 我らがまのんたんは2列目の一番端っこ、みたいな立ち位置が多く、2階席からの方が被りなく見えたかな…とも思いましたが、どの場面でもくるくる表情変えて良きだったので満足です。マスカレードの扱いなんかは良くて、もっと起用してくださってかまわないんですのよ?のキモチ…あー今から『BLUFF』が楽しみすぎます!!
 この期に及んでやっばりみちるあましシンメってなんなんだ、とは思いますが、次代も楽しみです。
 れこうみもご卒業、おめでとうございます。まあいろいろ思うところはありますが…私はくらげちゃんはひらめのように先にやめてくれるものとばかり思っていたのですけれど、当人は自己評価が低いタイプなのか、全然満足できず、なので結局同時退団となったようですね。なんなら残ってまだやりたい、突き詰めたい、くらいすらあったのかなとも思いますもんね…なんとも不思議なコンビでした。まあれいこちゃんは安心できる相手でよかったのかな。個人的には、違う相手役とも組んでより新しい顔を見せてくれていたら…とも思いますけれどね。
 2番手に関しても、結局変わらないままでしたしね…まとぶんも大空さんからえりたんになって、珠城さんもみやちゃんかられいこちゃんになって、こっちゃんも愛ちゃんからせおっちになって…やっぱりのびのびしたと思うんですよね、やっぱり上級生2番手って変則的なんですよ。なんなら珠城さんのあとちなくらげだってよかったんじゃないの?とすらも思いますけれど、まあこういうたらればは言っても仕方ないんでしょうし、劇団はそもそもレールを敷くのが下手でかつ事が敷いたレールどおりに進むとは限らないんだから、もう仕方がないですね。私はれいこちゃんのお芝居は好きなので、芸能のお仕事を続けてくれたら嬉しいです。まあその美貌を活かして、ただのめっちゃ綺麗なお姉さん、になって生きていく…というのもアリなのでしょうが…
 まずは七夕まで、どうぞご安全に。そしてそのあとは少しゆっくりのんびりしてください。組子と組ファンのご多幸をお祈りしています。







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新国立劇場バレエ団『アラジン』

2024年06月18日 | 観劇記/タイトルあ行
 新国立劇場オペラパレス、2024年6月14日19時(初日)。

 商人たちが行き交うにぎやかな市場にアラジン(この日は福岡雄大)が現れる。何かと騒ぎを起こす彼は宮殿の警備隊に捕まってしまうが、その様子を見ていた魔術師のマグリブ人(中家正博)が魔法でアラジンを助け出し、自分の仕事を手伝わないかと誘う。財宝に目がくらんだアラジンは了承するが…
 振付/デヴィッド・ピントレー、音楽/カール・デイヴィス、装置/ディック・バード、衣裳/スー・ブレイン、照明/マーク・ジョナサン。指揮者/ポール・マーフィー、管弦楽/東京フィルハーモニー交響楽団。
 プリンセス/小野絢子、アラジンの母/中田実里、サルタン/中野駿野、ランプの精ジーン/渡邉駿郁、アラジンの友人/木下嘉人、原健太。2008年初演、5度目の上演。全3幕。

 デイヴィスがスコティッシュ・バレエのために書き下ろしたバレエ音楽『アラジン』を用いて、ビントレーが新国立劇場バレエ団と創作した新作…というようなものだそうです。『アラビアンナイト』などを参考にしたということですが、アラジンがプリンセスと出会って恋に落ちて結婚して離れ離れになって再会して…というストーリーには目新しいものはなく、単純です。ただ、音楽がいい。振付もいい。セットもいい。砂漠の洞窟の財宝、その宝石たちのディヴェルティスマンがゴージャスで飽きさせず楽しいし、何度かある主役カップルのパ・ド・ドゥは華やかでチャーミング。なんちゃって中東…どころかタイや中国のイメージまであるのは、ホント西欧人の考えるエキゾチックって…とほとんどあきれるところですが、お衣装も素敵でなんせ目に楽しい。ジーンはバリバリ踊るし、ミュージカルばりの演出もデーハーで楽しい。3階最前列センターブロックやや下手寄りのお席から、十分堪能しました。
 宝石たちではパ・ド・トロワのエメラルド(原田舞子、益田裕子、中島瑞生)や男女カップルのルビー(木村優里、井澤駿)、たおやかなサファイア(池田理沙子)なんかが素敵でした。
 そしてアラジンとプリンセス(プリンセス・バドル・アルブダル…「満月の中の満月」という名だそうな)の踊りが、どれも本当に素敵でした。福岡小野コンビというのは新国立のエースだし、私も何度か観ていると思いますが、今回はことに息ぴったりで、何度もあるダイブからのリフトがまったく危なげがなく流れるようで、実に美しく鮮やかで軽快で、ハッピーなラブのオーラにあふれていました。こうでなくっちゃね!
 3時間近くたっぷりあるので、18時開演でもよかったかもね…とは思いましたが、客入りもよく、お子さんでも楽しめそうで、良き演目だと思いました。団の財産として育っていくといいですね。
 ついついド古典のバレエ・ブランばかり観がちな私でも、楽しかったです!








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『ウーマン・イン・ブラック』

2024年06月16日 | 観劇記/タイトルあ行
 PARCO劇場、2024年6月12日18時。

 ヴィクトリア様式の小さな劇場。舞台に特別な装置やセットはなく、がらんとしている。そこへ中年の弁護士キップス(勝村政信)と若い俳優(向井理)が相次いで現れる。キップスには青年時代、家族や友人にも告白できないようなある呪われた体験があった。以来、その記憶のために悪夢に悩まされ、安らぎのない日々を送っていた。悩み抜いた末、キップスはこの忌まわしい記憶を家族に打ち明けようとする。あの怪奇な出来事を家族や身内の前で語ることによって、悪魔祓いに代え、呪縛から解放されようというのだ。その手助けに俳優を雇ったのだが…
 原作/スーザン・ヒル、脚色/スティーブン・マラトレット、演出/ロビン・ハーフォード、アントニー・イーデン、翻訳/小田島恒志。1987年イギリス・スカーバラ初演。日本では1992年の初演以来8回目の上演、全2幕。

 前回上演は2015年で、俳優役は岡田将生、キップスは同じく勝村政信だったそうです。タイトルは知っていて、『黒衣の女』も以前読んだことがあるようにも思いますが中身はまったく覚えておらず、ふたり芝居というのでおもしろそう、と出かけてきました。
 ふたりなんだし、休憩なし90分か2時間弱くらいの舞台かな?と思っていたら、しっかり2幕あって驚きでした。正確にはふたり芝居ではないのかもしれないけれど…でも台詞もアクションもふたりでずっと回すので、神経使うし体力的にもかなり大変な作品なのでは、と感じました。ただ、もちろん上手いふたりなので、安心して観られました。私はスプラッタはわりと平気ですがホラーは全然ダメなので、そういう部分については怖くてまあまあ涙目になりましたが、悲鳴を上げたりはせずにすみ、楽しく観ました。
 ただ、ミステリー部分については、だんだんことの顛末がわかってくると同時にお話のオチについても類推できるようになっていくので、トータルで観ると、これはもっとおもしろくできる演目なのではあるまいか?と私は思いました。権利関係が厳しいのかもしれませんが、一度日本人演出家でガッチリやってみたらどうなんでしょう…
 というのも、これは俳優が俳優を演じるタイプの芝居、作品なんですよね。ムカイリの「俳優」は当初は、キップスが自伝というか自作の回顧録? 日記、告白文? を読み上げるテクニックについて指導するのですが、まだるっこしい、となって、俳優が若き日のキップスを演じ、キップスはそれ以外の自伝の登場人物である地主とか管理人とか御者とかを演じ出すわけです。で、読むのはたどたどしかったキップスが、なりきり演技はものすごくて、だんだん劇中劇がそのまま回想になっていくというかなんというか…な構造になっています。いかにも舞台作品のギミック、という感じです。
 ただ、その過程で、キップスは語ることで肩の荷を下ろし回復していき、黒衣の女の呪いを俳優に押しつけてイチ抜けた、と去っていき、傲慢で上から目線だった俳優がキップスを演じるうちに自信を失いその呪いごと引き受けてしまって、今度は自分の家族に災厄が…というオチになる、はずにしては、その変化が描かれていなかった気がしたのでした。現実と演技の境目がなくなる、あるいは逆転するのがこういう作品の醍醐味なんじゃないの? そこが私には弱く見えて、アレッこれで終わり?という気がしてしまったのでした。これは演出とか演技指導の問題じゃないのかなあ。それとも私が穿って見過ぎ…?
 あとは、まあイギリスのゴーストとはこういうものなのである、と言われたらまあそうなんでしょうけれど、この黒衣の女の呪いというかなんというか、には節操がないというか際限がなさすぎて、これだとちょっと同情しづらいな、というのがちょうど観たばかりの『四谷怪談』のお岩さんとの違いかな、などと考えたりもしました。代わりの子供を殺しても自分の子供は帰らないのだし、、自分も救われたり癒やされたり気がすんだりしていないようだし、不幸な家族を増やすだけで虚しいどころか害悪だよね、という気しかしなかったのです。理屈っぽい人間ですみません…
 あとは(が多くてすみませんが)、もう一回り小さいハコでやるとより効果的だった気はします。客席登場の使い方なんかはホント上手いですよね。ザッツ演劇らしい演劇で、さすがイギリス作品なのかもしれません。
 数十年後、若い俳優を迎えてムカイリがキップスをやるときまでに、適度に中身を忘れてまた観たい、と思いました。かつて俳優をやっている西島秀俊も上川隆也も、そろそろキップス役ができそうですよね。そういうの、楽しいと思います。
 ところでプログラムのムカイリのスーツ姿の写真が素敵すぎますね…罪な男だぜ!












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