駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

OSK日本歌劇団『ADDIO/Dance of JOY』

2012年02月26日 | 観劇記/タイトルあ行
 三越劇場、2012年2月26日マチネ(千秋楽)。

 二度目のOSK観劇で、今回はお芝居が観られるというので楽しみにしていたのですが、なんとプログラムが前日に完売! NO予備知識での観劇となってしまいました。
 というワケで感想もいつもよりアレなところもあるかもしれませんが、忘れないためにも書いておきたいと思います。

 原作はヴェルディのオペラ『レニャーノの戦い』。北イタリアが神聖ローマ帝国と国境を争っていたころの物語。
 三越劇場はレトロで壁なんかも素敵なのですが、それがそのまま装置のようで効果的でした。
 ただ、こちらが予備知識がないだけに、演出で手助けしてもらいたいと思った点がちらほらと…
 まず、しつこいですが劇場がレトロなので仕方ないのかもしれませんが、照明がもう一段階明るいだけで人物が見分けやすいのになーと思いました。こちらが不慣れだし二階席だったので遠目になるので。
 特にもっと明るいピンスポットがあればよかった。そして主役が登場したときにはきちんとライトを当てて、できれば音楽も止めて、周りの人物に名前を呼びかけさせれるとかしてアピールするとよかったと思います。拍手も入れられるし。宝塚歌劇ではむしろ古臭い演出法ですが、こういう様式美は意外と大事だと思いました。
 というのは、冒頭、パーティーらしき場面から始まるのですが、舞台中央で娘役さんたちが踊っているのを眺めている間に、上手からトップスターと二番手スターが登場したらしく、パラパラと拍手が上がったのでやっと気づいてそちらを見たのですが、特にライトが誰かを浮かび上がらせているわけでもないので、一応あの人が主人公でその隣の人が親友役だろう、と推測はできたものの(主人公が親友の妻を好きになる話、だとは事前に聞いていたので)、しばらく自信が持てなかったからです。
 こういうところは、観客にもっと親切にしていいと思います。
 それから、台詞にキャラクターの名前をもっと入れて、呼び合わせてほしい。主人公のロランドよりアリーゴ役の方が先に名前が出たような気がしましたし、アリーゴの名は出るのにロランドの名はなかなか出なかった気がしました。名前がわからないとキャラクター(登場人物)が識別できないものです。
 さらにそれから、アリーゴは「野暮天」とか評されるのでそれでキャラクターが(この場合は性格の特徴、という意味)つかめますが(そういう芝居もするし)、肝心の主役のロランドのキャラクターを立てるエピソードが全然ないのが気になりました。喧嘩っ早いミケーレ(だったかな?)の決闘騒ぎを仲裁するのはロランドにやらせてもいいんじゃないの?という気がしました。

 アリーゴが戦場で行方不明になるのにも、たとえばロランドをかばって、とか、ロランドと相談して担当地区を二分して、たまたまアリーゴの方が激戦区となったのをロランドは見守るしかなく…とか、とにかくせっかく主人公なんだからもっと活躍させてあげないと…と思いました。
 なんか戦争に行かずひとり安穏と街で待っていた人みたいな見えちゃうので…いや文官だったとか政治家だったとかなのかもしれませんが。

 アリーゴが戦地から帰らないので、悲嘆にくれる新妻リーダの面倒を見るために、ロランドはリーダを妻に迎えます。
 ここも本当はもっと丁寧に見せてほしかったけれどなー。でも十分類推できる筋書きだし、脳内補完はできるので、逆にリーダが監察官みたいなキャラクター(ついに名前が出なかった気がします…「裏切り者の子」呼ばわりされていた人物のことです)と会話するくだりに回想シーンを入れたのはうるさかったかも。なんか今さらそこを見せられても…という気がしました。だったら時系列順に見たかった。
 しかしリーダの歌はよかったなー。全体に歌がみんな上手かったけれど、この役者さんのプリマっぷりは際立っていたと思いました。

 ニコラも役としてはとてもツボでしたが、こういうスタンスの人ならロランドに帰還兵がいるらしいことをわざわざ報告しないよね。ネグろうとするところをロランドが聞き出す、とかしないとさあ。いったいにロランドは脚本に芝居をさせてもらえてないので、なんかただ流されるかつっ立ってるかする優男に見えちゃってもったいなかったです。もっと素敵な主人公にしてあげられたよ彼は~!

 アルダもなかなかいい役でしたが、エマ(エバ?)役の方も素敵で、全体に娘役さんがバンとしていていいなーと思いました。でもこの役も名前がなかなか呼ばれなかった…
 ところでアバンとラストの修道院か何かですが、私はリーダもアリーゴも死んでロランドが入っていて、客に訪ねられたのもロランドなのかと思っていたのですが、台詞からするとリーダのことなの? でもリーダはロランドの腕の中で死んだんじゃないの??
 あれれれれ…
 ともあれとても素敵なメロドラマで、さすがヴェルディ、キムシン宝塚でやんない?と思ってしまいました(^^;)。

 レビューは楽しかったです! 人数が少ないのによくがんばっていたなあ。
 黒いスリットワンピの娘役さんだけの場面がよかったです。短いけれど娘役さん同士で組んで絡む振りもあったし。
 ロケットも衣装がかわいいし時間たっぷりだし振りは激しいしで感激しました。
 そして腕まくり黒燕尾! ぎゃー、やっぱカッコいいいよねー!!
 あ、『カノン』で今歌われている「アルディラ」がここでも歌われていました。

 千秋楽で会場は満席、卒業する方もひとりいて、カーテンコールがとてもあたたかでした。
 個人的には宝塚歌劇とのすみわけというか、OSKなりのオリジナリティってなんだろう、とまだつかみきれていないところなのですが…やはり一度は本場で観てみたいかなあ、と思いました。

コメント (2)
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宝塚歌劇宙組『仮面のロマネスク/Apasionado!!Ⅱ』

2012年02月24日 | 観劇記/タイトルか行
 中日劇場、2012年2月1日ソワレ(初日)、5日マチネ、ソワレ、12日マチネ、ソワレ、17日マチネ、24日マチネ(千秋楽)。

 1830年、ナポレオン失脚後、再び王政復古したパリ。ジャン・ピエール・ヴァルモン子爵(大空祐飛)は類まれなる才覚で零落した家名を再興した青年貴族で、社交界の注目の的だった。婦人たちとの艶聞が絶えない彼だったか、かつての恋人フランソワーズ・メルトゥイユだけは特別な存在だった。若くして未亡人になった彼女は高嶺の花として一目置かれる才媛であり、ヴァルモンと対等に渡り合えるただひとりの女性だった。仮面をつけて虚実取り混ぜた社交界を生き抜いてきたふたりは、あるとき恋のゲームを始める…
 原作/ラクロ『危険な関係』、脚本/柴田侑宏、演出/植田景子、作曲・編曲/寺田瀧雄、吉田優子、振付/名倉加代子。

 感想や考察は語りつくした気がしますので、今回は主に千秋楽についてなど。

 実は六回目の観劇でだいぶ感覚的には満足したんですよね。掴んだ、納得した、腑に落ちた。
 なので千秋楽は全体を味わい尽くそう、くらいな感じで穏やかな心境で観られました。
 全体にとても丁寧で、緩急がついていて、台詞がクリアで、歌も仕上がっていて、「集大成!」という感じでした。
 ツボだったのは、ローズモンド夫人の
「早く身を固めてくれると安心なんだけれど」
 に、へらっと答える
「は~い」
 と、そのあとのてへっ、みたいな笑い方がグレードアップしていたこと(^^;)。そりゃ伯母様も骨抜きですよ財産譲っちゃいますよ!

 楽アドリブとしては、「ダンスニーくん(るん♪って感じのとこ)」のくだり、ヴァルモンが「歌ってどうする」とつっこまないので、ダンスニーの歌がロングロング歌唱に!
 それでもヴァルモンが見ているので、だんだん
「♪手羽先~ひつまぶし~なーごや~」
 みたいなナゾの歌になっちゃって、最後には笑っちゃって、
「止めてくださいよ!」
 と助けを求めるのに、
「いや、楽しそうだなーと思って…」
 とヴァルモンが流すので、
「楽しいです!」
 とダンスニーが答えて場内爆笑!
 …で、なかなかいつもの会話に戻れないくらいでした。みっちゃん、「うっとりします」を飛ばしてたし(^^;)。

 仮面舞踏会の前、ロベールとヴィクトワールの二重唱が終わって引っ込むところに拍手が入りました。これで組替えとなるまさこへ拍手ですね。
 ショーのパレードなんかも熱かった…可愛がられているなあ、まさこ。星組さんでもがんばってね。

 三人組の脱走?場面では、ジャンの大荷物にジルが
「兄貴!」
 と振り、ルイが
「俺!?」
 と言いながら持ち上げようとするもできない、という振り。で、やっぱりジルががっと持ち上げて、拍手喝采となりました。

 最後の場面のスミカが本当に良くって、これまでなんのかんの言っても実際に泣きはしなかった私ですが、今回は涙腺決壊しました。
 もしかしたら気のせいだったかもしれませんが、観劇中にまた揺れた気がしたんですよね。確かに地震はあったようですが名古屋が揺れたかは微妙なんですけれど。
 で、絶対にまた災害は起こるだろうし、愛する人とこんな「思ってもいなかった別れ」をすることって、私たちの誰にでもありえるんだ…とか考えちゃったら、まさに我がことのように泣けてしまいました…
 美しいふたりだけの舞踏会でした。
 ラストも、踊り続けるうちに幕、という初演の方がいいなとずっと思っていたのですが、今回初めて、キスしたまま固まる、というのもいいなと思えました。
 今まさにこのときのふたりの愛が、想いが、そしてこれまでのふたりの生き様が、結晶化したようで…泣けました。

 そうだ、一点だけ…
 私はカチャが好きでも嫌いでもないので、そのせいかもしれませんが、私にはこのアゾランが野卑に見えてあまり好きじゃなかったんですよね…
 わざとなら、主人の真似した矮小版、という解釈もできるけど…
 でも従僕があんまり下品だとその主人の格が疑われるじゃないですか。逆に主人の方が際立つ、ということもあるのかもしれないし、主人もまた一皮剥けばこんなもの…という視点もありえるのかもしれませんが。うーむ…
 あとジュリーの「チラチラして」はすごくいい言葉で好きなんですが、アゾランはリーザが気を利かせたことを褒めているのであって、アゾランの意識は当然ジュリーに向いているわけだから、この返しはちょっとおかしい気がするんだよなあ…

 あともうひとつ(一点と言いつつくどくてすみません)。
 初演との台詞の変更点で、メルトゥイユが土壇場でダンスニーに言う
「いつかの夜、セシルはヴァルモン子爵に抱かれたということですよ」
 は、「抱かれたという話ですよ」のママの方がよかったと、私は思ったなあ…


 ファナティック・ショーは作・演出/藤井大介。あまり語ってこなかったので、せっかくなのでここで。

 まあ、みっちゃんがテルのバウに出るわけにもいかなかったんだろうし仕方なかったんだろうけれど、ただトップトリオが同じ構成での再演は、本当は新鮮さが足りなかったですよね。
 バンピロ伯爵はともちんがやって、みっちゃんに新場面をもらってもよかったかもしれません(その場合はまさかジャングル・チャンピオンじゃないよねとは思いますが(^^;))。
 もちろんわざと同じようにやって、前回との違いを楽しむという見方もあるわけで、事実、大空さんに関してはそんな感じだったわけだしそれで十分楽しかったわけですが…まあでもファンサービスとしては一考してもよかったかと思います。

 三美神は女神になって活躍の場が増えてよかったです。特に熟女ドリームガールズ(失礼!)は素晴らしかった。公演中日前あたりから手拍子が入るようになったのもよかった!

 プロローグと中詰めの客席下りも地方公演ならではでよかったです。

 ヴァレンチノの場面ではカイちゃんナターシャ、ヴィオレッタがせーこと(大介先生は『ヴァレンチノ』を観ていなくて、カイちゃんはともかくせーこはたまたまのキャスティングだったそうですが)、『ヴァレンチノ』を踏まえて観るとまた素晴らしい場面になっていました。えりぃのヤスミンも適任だったわー。

 中詰めお花ちゃんたちは鬘もいくつかあったようで、みんな楽しそうにやっていてよかったです。ともちんやまさこと絡むアベハは「タイヘン、食べられちゃうよ!?」って感じでしたけれどね(^^;)。
 オルキデアとのがっつりダンスもイイ! 千秋楽ではスポット浴びてのダンス対決の振りでスミカも掛け声入れていました。かーっこいーいっ!!

 マチョともちんは客席登場。毎回通路を変えていたようでした。エンブラではエツ姉の鬘がワイルドでかっこ良くて…ここのダンスは本当に素敵でした!
 そのシマウマ王と女豹を追うように現れるオンラドのダンスがまた素敵で…そうそう難しいことはしていないと思うのですが(コラ)、大空さんがよく踊れて見えました。
 続くラグリマみっちゃんとともちんの耳福のコーラスも素晴らしい。このあとのアパショナードのお衣装は私は苦手なんですけれど、白い鬣は可愛いと思いました(^^)。

 ロケットガールはれーれ、注目は下手で並ぶあっきーとひかるんですよね。可愛かった!
 そのあとアパショナードがエルモサたちを侍らせて踊るところも大好き。
 そして階段に並ぶ黒燕尾の男役たちに向かっていく後ろ姿が本当に素晴らしい。『クライマックス』にもしも黒燕尾がなかったら、これが見納めなんだわ…と思って、千秋楽ではガン見してきました。

 デュエダンはお芝居の続きのような、火花散らす男女の踊りで、これも素敵でした。最後のポーズと音楽がビシッと合ってバシッと拍手が入れられると、すっごく気持ちよかったです。

 パレードでは娘役さんたちが扇をくるりんひらりと回してお辞儀するのに毎回見とれていました。楽しいショーでした。
 『NICE GUY!!』から続くと、吸血鬼は棘だしラグリマは風だし、と思わなくもないんだけれど、楽しいからいいのです。ホント毎回時間が短く感じたなあ…


 千秋楽はカーテンコールが五回ほどあったでしょうか? 最後二回は音楽ナシでしたね(^^;)。
「組替えは寂しいですが、私自身も組替えで宙組に来ました。そして最初の公演が『Apasionado!!Ⅱ』でした。そのときから今まで育んできた、目には見えないけれど確かにあるもの、出会いの奇跡みたいなものを感じながら、今回の公演をしていました。組替えした先にも同じような出会いの奇跡があると思います。ね、まさこ!」
 と語った大空さん。まさこはうるうるだったりおたおたしていたりで、
「宝塚はひとつですし、宙組いっぱい観に来ます! 13年間お世話になりました!」
 みたいなご挨拶でした。見守りながら泣いているみっちゃんがまた泣かせました…

 出では、中日ビルでは響くので出の拍手はナシだったのですが、まさこのときにはみんな静かに音を立てないような拍手をして見送りました。
 大空さんもメガネでニコニコご機嫌さんで可愛かったです!!

 『華クラ』初日までもう会えません。そしていよいよ卒業公演が始まります。
 でもあいかわらず私は不思議と泣いていませんし、これからの日々が楽しみでなりません。精一杯のことをしていくつもりだし、卒業後も何か活動するなら見守り続けたいと思っています。
 本当にこんなすがすがしい思いでこの日々を送らせてくれるこのスターに、感謝し尽くせないくらいです。
 
 一週間くらいお休みがあるようですが、のんびりしてくれるといいな。
 そして次期トップコンビと演目発表が楽しみです。なんだかんだ言っても応援しますから。

 本当に幸せな観劇でした。

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雫井脩介『銀色の絆』(PHP研究所)

2012年02月21日 | 乱読記/書名か行
 夫の浮気で離婚、娘の小織とともに名古屋へ転居し、無気力な日々を送っていた藤里梨津子だったが、フィギュアスケートの名コーチに小織の才能を見出され、娘を支えることに生きがいを感じ始める…フィギュアスケートの世界を舞台に母と娘の絆を描いた感動作。

 …とアオリではなっていますが、読んでも読んでもなんの話かわかりませんでした…
 私はフィギュアスケートのファンなので、スケートものとして読んで、いろいろ新しい知識が得られたりしたことはおもしろかったのですが、物語としては何もないという気がしました。
 娘は現在にいて、今は普通の大学生でどうやらスケートはやめている。娘が選手時代を回想すると場面は切り替わって過去になり、母親が視点人物になる。
 つまりふたりは時空を挟んで存在していて、別に絆なんか作ってもないし強くなったり弱くなったりもしてない気がしました。
 母親の成長物語にも読めなかった。次々起きる事態にそれなりに対処しているだけで、嫌な女だったのがちゃんとした大人になった、というふうにも読めなかった。それは娘のほうも同様です。
 物語の軸、核がよくわからないまま、物語内の時間だけは進み試合があって…で?って感じ。
 うーん、残念な読書でした…

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宝塚歌劇宙組『ロバート・キャパ 魂の記録』

2012年02月18日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 日本青年館、2012年2月16日マチネ。

 1933年、ベルリン。写真通信社「デ・フォト」の新米カメラマン、アンドレ・フリードマン(凰稀かなめ)はある日、質屋の主人と殴り合いになる騒ぎを起こす。生活のために質入れしたカメラ、ライカが売られてしまったのだ。やがて彼は親友のチーキ・ヴェイス(春風弥里)とともにフォト・ジャーナリストとしての成功を夢見てパリへ向かうが…
 作・演出/原田諒、作曲・編曲/太田健。全2幕。

 軽快なミュージカルとして、とても良くできていると思いました。
 流れるように歌とダンスが入り、物語が展開していくさまはとても美しい。
 ただ全体としては、伝記ものなので仕方がないのかもしれませんが、「こういうことがありました」という事実の羅列になっているように私には見えてしまい、ドラマとしてのおもしろさは感じられなかったかな。
 たとえばヒロインのゲルダ・タロー(伶美うらら)とはビジネス・パートナーでもあり恋人同士だったようですが、才能あるライターで、政治や世情に対する見識もあって、アンドレに「ロバート・キャパ」という名を与えるというか架空の存在を作り出す才覚もある知的な女性です。
 そんな彼女とこんな(いやあの他意はありません)アンドレとの恋はどこからどう始まったのかとか、私としてはそちらの方が見たかったですけれどね。
 スペインでの別れのシーンがよかっただけに、そしてその後の永遠の別れが史実とはいえ本当にせつなくドラマチックだっただけに、残念でした。
 
 あとはみんなが言っていることですが、二番手格のみーちゃんの扱いが酷すぎる。チーキの活躍が史実としてこの程度なら、脚色や創作を加えてでも、それこそ捏造してでも出番を増やすか、別の役に当てるべきです。それは宝塚歌劇の座付き役者として当然の仕事です。しかも組替えを控えた、この組で最後の公演に花を持たせすぎるということはない! フェデリコ(鳳樹いち)との二役をやらせたってよかったくらいのはずです。
 『Je Chate』も『ニジンスキー』も私はまあまあ楽しく観ましたが、次はトップスターの退団公演ですからね、頼むよ!!!

 それでいうと専科さんの扱いもちょっと不満で、ユウちゃんさんなんか『クライタ』の足元にも及ばないし、母親役の光あけみの場面も私は唐突に感じました…
 ハンガリーに生まれ育ったユダヤ人として、ベルリンからパリへ出ていった者としてのドラマがもっと見えればよかったのかもしれませんが…私にはあまり意味のある場面に見えなかったんだなあ。
 うまくつなげれば、キャパという名前を作ったこと、その名で活躍したこと、それが自分であることを明かすことのドラマが盛り上がったろうとは思うのですが…ううーむ。

 背景の空や照明が美しかったことは特筆したいです。
 アバンとしてインドシナで地雷で落命したことを暗示する場面があり、二幕ラストも似た構図で終わるのですが、こちらは未来に向かってしっかり歩いていくすがすがしい後ろ姿になっていて、感動的だし美しかったです。
 こういう構成も鮮やかだったと思いました。

 テルは超絶スタイルで人間味あふれる主人公を好演、眼福。でももっとでれでれした甘アマ芝居と役も観てみたいですけれどね(^^;)。
 すがるように言う「もう俺を愛していないのか」が絶品でした。そういうキャラクターだってことですよ、それを生かさない手はないよ!

 ゆーりちゃんはまだまだこれから。『記者と皇帝』で抜擢されたときは「こんな綺麗な子がいたんだ」という程度ですみましたが、ヒロインとなるといっぱいいっぱい感が出すぎちゃってます。
 ゲルダだからクールで知的でお堅いのか、単に役者が大根で固くて無表情でギクシャクしているのかわかんないんだもん。
 もちろん場数が人を成長させるので、がんばってほしいです。というワケで宙組トップは月組ほどモメないと信じたいですが、トップ娘役はとりあえず(とりあえず言うな)れーれでどうだろう…いやれみちゃんが来てくださってもいいのですが。

 ちや姉、あおいちゃん、ちーちゃんにいちくん、もんち、りくとみな手堅い。
 あ、タラちゃん可愛かったなー。スペインの場面やフィナーレできりっと踊っているのも素敵でした。
 『ゲルニカ』の模写を中学のとき美術の授業でやらされたことを思い出しましたよ…モデルとして不自然なポーズを取らされている場面は笑うところですが、のちのスペインの戦争場面で蹂躙される兵士や民間人たちが虐げられてしんどいポーズを取るときに重なって、泣きそうでした。

 トークショーがつく回でしたが、司会のあおいちゃんを助けて話を回すちーちゃんがさすがでした。惚れるわ。
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またまた『仮面のロマネスク』私論

2012年02月13日 | 日記
 またまた遠征してきました。
 苦手なはずのダブル観劇がまったく苦になりません…もうどっぷりです。
 中日でしたが(「ちゅうにち」じゃなくて「なかび」ね)、演じる方も観る方も回数を重ねて、初演が払拭されてきているのではないかと思います。
 加えて、自分自身がぶっちゃけめんどくさい恋愛をしていることもあり、自分の精神状態によっては見えるものが違うんだな、と思わされたり…(^^;)。
 なのでいつも以上に個人的見解に偏った感想かもしれませんが、しつこく語ってみたいと思います。


 もしかしたら柴田作品はいつものことなのかもしれませんが、この作品は特に、男と女の相克を描いたものなのだなあ、としみじみ感じました。
「男を真剣に愛したことがありますか/女を真剣に愛したことがありますか」
「そうかしら 泣いているのは いつも 女 女 女/そうですか だまされるのは いつも 男 男 男」
「あなたは男 わたしは女/わたしは男 あなたは女」
 すべて対になる歌詞です。
 しかし当時の社会は、そして現代もなお、男女は同等ではまったくありません。

 当時の貴族社会において、結婚と恋愛は別物である、というのは男女を通した常識だったのでしょう。結婚は家と家を結び財産を子孫に残すためのもの、恋愛は婚外で、が常識でした。
 だから結婚した女性の艶聞は、実はそれほどスキャンダルではなかったのではないでしょうか。「おっ、やるね」ニヤリ、程度というか。
 けれど未亡人は違います。
 「未だ亡くなっていない女」ってことですよこの漢字。夫が死んだら妻も殉じて死ぬのが当然で、なのに「未だ」死に遅れている、ということを意味している、恐ろしい言葉なのです。
 実際には年齢差のある夫婦が多かっただろうから、若くして寡婦になる貴婦人も多かったろうと思うのですが、再婚というのもあまり美しいこととされていなかったようですし、後追いで死なないのなら修道院にでも行け、というような、社会的に抑圧する風潮があったのでしょうね。

 ヴァルモンは未だ独身で、おカタい人には「いつまでも身を固めずにふらふらと、みっともない」と眉をひそめる向きもあったのでしょうが、その色恋沙汰は彼の勲章になりこそすれ、傷にはなりません。
 でもメルトゥイユは違う。女だから、未亡人だから。
 同じように恋愛を楽しんでも、隠さないと、恥知らず、身持ちが悪いと揶揄され非難され、社交界のつまはじきにされる。それは貴族にとっては社会的抹殺に等しい事態です。
 だからメルトゥイユは恋愛を賢く隠します。たとえば今の恋人のベルロッシュも、対外的にはあくまでパーティーのホステスのパートナー役を頼んだだけ、みたいな形を貫いている。彼にも、友達に吹聴したりしないよう言い聞かせていることでしょう。
 彼女にはそれだけの才覚があるから、きちんとやってみせて、貞淑な寡婦の鑑との評判を取り、社交界に確固たる位置を占めている。ヴァルモンだけが真実を知っていて、上手くやっているねと褒めてくれる。
 でもだからって彼女が抑圧を感じていないわけではないのです。賢い彼女には、自分にあまり自由が許されていないことがわかってしまう。でも彼女は本当はもっと自由に生きたいのです。
(ちなみに一方のトゥールベル夫人が「綺麗なだけのお馬鹿さんで結果的に幸せになる女」であるともまた言いきれません。彼女は夫を愛し敬い盲目的に仕えてきましたが、ヴァルモンの誘惑に流されて、結局は人生を破滅させてしまうからです)

 人は誰だって正当な評価をされたい。誰にだって嘘はプレッシャーなのです。
 嘘をつかず、普通に恋愛を楽しんでそれをオープンにして、モテることやいい恋愛をしていることを誉めそやされたい、とメルトゥイユだって思うはずなのです。それは俗物根性かもしれない、でも自然な感情ですよね。

 でも女にはそれが許されない。ヴァルモンと同じような生き方はメルトゥイユには許されていないのです。
 それが悔しくないはずがあるでしょうか?

 だから冒頭の「宴は果てて夜深く」のふたりのやりとりには、もう少しそういうニュアンスが出てもいいのかもしれないな、くどくても私だったらもう少し台詞を足したくなるかもな、と今回思いました。

 「恋の行方」から「恋の証」の場面。前半は台詞のないシーンなのに、ヴァルモンとメルトゥイユの火花散る丁々発止の会話が聞こえてきそうです。そしてそのまま台詞というか言い合いになる。
 ふたりは同類でソウルメイトで、愛し合ってもいる。けれどヴァルモンは男でメルトゥイユは女なのであり、決して同等ではない。恋愛において、結婚において、人生において。
 だからメルトゥイユとしては勝負を下りるしかない。同格に戦えないのだから仕方ないのです。「お友だちでいいじゃない」と。
 だがヴァルモンはメルトゥイユを愛しているから、約束をはたしてもらいたいから、「友だちは嫌だ! 彼女を捨てればいいんだろう」と言う…

 けれど仮面舞踏会で、ヴァルモンがトゥールベルを捨ててみせたことにこそ、メルトゥイユはショックを受けたのではないでしょうか。
 ヴァルモンが確かにトゥールベルに本気になったように、メルトゥイユには見えた。けれどヴァルモンはそのトゥールベルを捨てた。ヴァルモンは愛した女を捨てることができる男だったのです。それは要するにヴァルモンも他の男と同じ、ただの男だったということです。そして自分もまたいつか捨てられることがありえるただの女だということなのです。
 大空ヴァルモンが「次はセシルだ」という台詞を言わなかったのは、彼にとってトゥールベルが「次」と並列できるような存在ではなかったからです。
 しかしメルトゥイユにとっては、自分と彼女が並べられたように感じたのではないでしょうか。だから「私をハレムの女のひとりにするつもりですか」と激高する。自分にはヴァルモンしかいないのに。
 ヴァルモン以上に愛せる男など、彼女は出会わなかった。ジェルクールでもベルロッシュでもダメで、おそらくダンスニーでもダメだとわかっているのです。
 なのに男の方では楽々ともうひとりの女を見つけて、うかうかと恋に落ちたりしている。
 その無常。この世に頼りにするに足る愛などない、真の愛を捧げるに足る男などいない、というその絶望。
 メルトゥイユはそんなものに囚われたのではないでしょうか。

 トゥールベルが引きこもった修道院にヴァルモンがアゾランをやっている、それは確かに彼のトゥールベルへの心残りの証拠です。けれどそれ以上に、この無常感、絶望こそがメルトゥイユには衝撃だったのではないでしょうか。
 だから田舎に去り、そしてパリへ戻ってきたことをヴァルモンに知らせなかった。「あんな男」であるダンスニーを寝室に引き入れた。
 なのにヴァルモンは案内も請わずに押し入ってきた。自分への愛情の強さの証だとは、彼女にはもう思えなかったことでしょう。傲岸不遜な男の鼻持ちならない乱暴狼藉…女がもっとも忌むものです。
 しかもヴァルモンはダンスニーにセシルへの愛情を思い出させ、自分との関係をただの過ち、勘違いの恋の幻だと言わせた。これは女としてのプライドが傷つきます。
 だからダンスニーに、ヴァルモンがセシルを抱いたと告げます。ヴァルモンが驚くように、それは仮面をかぶって社交界を泳ぎわたってきたふたりのやり方からしたらとんでもないルール違反です。けれどメルトゥイユはやってのけた。
 事実を否定したりごまかしたりすることはヴァルモンにはできず、激高したダンスニーはヴァルモンに決闘を申し込みます。ヴァルモンはそれもまた受けざるをえない。
 ここにいたってメルトゥイユはさすがに動揺しますが、しかし一方で「死ねばいい」と思っていたことでしょう。強い愛情は簡単に憎悪に変わります。メルトゥイユは殺してやりたいくらいヴァルモンを愛していたのです。

 そもそも「男は女の最初の男になりたがり、女は男の最後の女になりたがる」というのはある種の真実なのではないでしょうか。
 女性の方が平均寿命が長いから、というのもありますが、先に死んだ日には残った男はいそいそと若い女との浮気に励むに決まっていて、女はおちおち成仏もできない、と思うのが女でしょう。
 愛した男を見とって、その男の墓の上で楽しく踊り暮らすメリー・ウィドウ・ライフが、女の積年の夢だと思うのですよね。
 それに死はひとつのゴールです。
 結婚はこの時代も今も、決して愛のゴールではない。愛の戦いは一生続くのです。それに耐えきれなくなってきたときに、対象の死を願うのは私には当然のことに思えます。
「死ねばいい」
 トート閣下もかくやの思いで、メルトゥイユは念じたのかもしれません。

 前回、決闘の行方を案じて、
「誰を愛していてもいい、トゥールベルを愛してもいいから、生きていてくれさえすればいい」
 と思う境地に至って、メルトゥイユは最終場でヴァルモンへの愛を告白するモノローグをするのでは、と思った、と書きましたが…
 今回、決闘で、あるいは市民の蜂起で、ヴァルモンの命はないだろうと思ったからこそ、メルトゥイユもやっとプライドで身を覆うのをやめて、素直に仮面を外す気になれたのかもしれない、と思いました。
 もう戦う相手はいないから。戦う相手が死なないと、戦うことをやめられない、愛という名の戦いに縛られた悲しい女だから…
 
 そしてヴァルモンもまた、近衛連隊に籍を置く者として、また貴族の義務として、敗色濃厚でも国王軍に身を投じようとしているわけですが、トゥールベルへの罪悪感はあるしメルトゥイユは約束を守ってくれないしでなんだかもうわやくちゃになっちゃってくさくさしちゃって、いいやもう死ににいこう!みたいなところがあったんじゃないかな、と思いました。
 そういうのってすごく男の人っぽい。彼もまた愛に捕らわれた愚かな男だったのでした。

 でもここからが、男と女のこの断絶をひらりと飛び越えてみせる、柴田宝塚ロマンの真骨頂なんだろうなあ、と思うのです。

 彼が最後に顔を見に来たのはメルトゥイユでした。
 見に来ただけで、彼女がちゃんとこの事態に対する手だてを考えているだろうことは信頼していたと思うし、逆に言えば彼女を守って一緒に国外へ出るとかそういう発想は彼にはさらさらなかったわけで、それもまたいかにも男の無責任っぽい、と今やや皮肉な気分になっている私なんかは思います。
 それでも彼は、メルトゥイユの館を訪れた。

 メルトゥイユは振り返り、階段に佇むヴァルモンの姿を見ます(片足だけ一段下ろしたポーズのカッコいいことったら! 私なら簡単に惚れ直すね!!)。
 死ねばいいとまで思った男が、全身全霊をかけて愛し憎んだ男が、生きて自分のところに現れた。でも死ににいくという。一方自分は嵐を逃れて生き延びられるだろう、でも心は死ぬのだ、今。
 彼が死ぬから。
 相手が死んでも愛は残るのかもしれない、けれど愛し合う相手がいない、愛し合う肉体がない愛はやはり空虚だ。私の体は生き長らえる、しかし命は終わるのだ。彼なくして自分はないも同然なのだから。
 こんな別れが来ると、いったい誰が思っただろう…

 お茶会で大空さんが、こんな時代のこんな社会で、仮面をかぶったこんな生き方をして、それでもあれがヴァルモンとメルトゥイユの青春だったんだな、と思う、というようなことを言っていたのですが…まさしくそのとおりだと思いました。これはふたりの青春が、恋が、命が終わる物語なのですね。
 だから若かりしころの彼らがどんな出会いをしてどんなふうに恋に落ちて、ぶっちゃけどんなセックスをしてどんな別れに至ったのか、実は今ひとつ想像しがたいのですが、それでいいのですね。これはそこを描いた物語ではないのですから。

 初演がユキちゃんのサヨナラ公演だったため、
「もう少しで僕もおいとまするよ」
 なんかはいわゆる退団台詞なわけですが、今回はスミカの
「楽しかったわ」
 に泣かされました。初演台本ではヴァルモンの台詞だったようです。
 トップ生活が、宝塚生活が楽しかったと思ってくれてる? 大空さんにつきあわされて(と私は勝手に思っている)組替えしてトップになって。そうでなければもっとゆっくり長く違った形で宝塚生活を送れたかもしれない。違う花を咲かせたかもしれない。でも同時就任で在任三年、同時退団が自然だよねという空気もあったか本当に本人の初めからの意志か、まだ新公学年を出たばかりなのに卒業していく。私は勝手に申し訳ないと思っている、でもすごくありがたい、添い遂げてくれて(この言葉に問題を感じつつも)うれしいと思っている。そんな可愛い可愛いスミカが、台詞でだけれど万感の思いを込めて「楽しかったわ」と言ってくれている、大空さんとの「華やかなりし日々」を(笑)そうまとめてくれている…と思うと、もう泣かないではいられませんでした。
 こんなファンですみません…


 どうしようあとまだ20回くらい観たい。
 プレサヨナラ公演にしてまたこんな名作に巡り会えた僥倖に、感謝しないではいられません…


コメント (4)
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