goo blog サービス終了のお知らせ 

駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

河﨑秋子『私の最後の羊が死んだ』(小学館)

2025年04月20日 | 乱読記/書名や・ら・わ行
 どうして羊飼いという職業に就き、順調に美味しい肉を生産していたのに、やめる決断をしたのか。直木賞作家が「小説家前夜」の日々を綴る自伝的エッセイ。

 私より十歳若い、JRA馬事文化賞受賞作もある作家さんだそうですが、私は直木賞受賞作も読んでいなくて、この作品で初めて知りました、すみません。でも、ものすごくおもしろく読みました。
 これは「週刊ポスト」の連載のようですが、エッセイというより自分のための防備録、自分で自分のために物語っているようなところがあって、そういう感じにも親近感を持ちましたし、何より動物や人生に対する向き合い方に自分と近いものを勝手に感じて、ものすごく楽しく読んでしまったのです。
 北海道の酪農家に生うまれた作者と町育ちの自分を重ねるのは不遜なことでしょうが、しかし私のものごころついたころの夢は「牧場で暮らして漫画を描くこと」でした。それ以前にケーキ屋さん、とかお花屋さん、みたいな夢を持っていたことがあるかは覚えていませんが、少なくとも「お嫁さんになりたい」みたいなことは小さなころから言わなかった子供だったことは確かです。もちろんこの「牧場」も、マザー牧場みたいなものかはたまたムツゴロウ王国みたいなものかは記憶がなくて、ただイメージとして、動物と暮らしたい、動物を世話して生計を立てつつ、漫画を、物語を紡いで生きていきたい…というようなことを、わりとマジで、意外と長く夢として持っていた子供のころを私はよく覚えているのでした。別にものすごく内向的だったとか厭世的だったとかはなくて(そんな子供は嫌だ)、家に引きこもって本や漫画を読むのも好きだったけれどひとたび家を出れば男勝りのおてんばで…というような少女だったし、小学校に上がるころに雑種犬を飼うようになった以外は動物に触れることなどないような町っ子だったんですけどね。犬だってただ可愛がるだけで、散歩も餌やりも世話はすべてほぼ母親がしていましたしね。その後、漫画の原稿を仕上げて投稿したりして賞に何も引っかからなかったりし続けて、ああ自分は漫画家にはなれないんだなと思い、セットで牧場のことも忘れ、夢というか将来の展望は変わっていったわけですが…でも、二十歳のころにこの飼い犬が老衰で死ぬのと入れ替わるように乗馬を始め、北海道・静内の競走馬の生産牧場に住み込みのアルバイトに出かけたりしているので、やはり目指す方向性はあまり変わっていなかったのかもしれません。
 この作家も、家業の酪農ではなく羊に惚れてしまったのはたまたまなのかもしれませんが、では修行に海外に出よう、となったりまず二頭もらってくるとかろから始めたり、そこから美味しい羊料理の研究も進めて…みたいな邁進の仕方がすがすがしいやら微笑ましいやら、そしてなんとなく「わかるわあぁ…」と勝手になってしまって、とにかくおもしろく読み進めちゃったのでした。物事との距離感が人として近い部類の感じ、と言いますか…
 例えば「羊を飼っているのに羊を食べるなんて…!」って人もいるでしょう。それは乗馬仲間にもいました。私は馬刺しをフツーに美味しく食べられる人間でした。日本の乗馬クラブにいる馬なんてほとんどが地方競馬からの払い下げで、馬術競技で才能を発揮できることもまれだし最後はドッグフードか動物園の餌なんでしょ?みたいな現実は知っているつもりだったので。さらに最初から食用に生産されている動物ならむしろありがたくいただくのが筋だし、それがたとえ自分の愛馬でも最後に食べなきゃならなくなるなら食べますよ…という精神性の人間だったので。でももちろん愛着がないわけではない、愛情や情熱がなければこんなことはそもそもやっていないわけです。そういう感覚が、すごく共感できて、読みやすかったのでした。
 その廃業までの日々を綴る技量、この素晴らしいタイトルを付けるセンスはやはり作家のものだな、と思います。他にもいろいろ理由はあったにせよ、主には専業作家となるために羊飼いをやめた、ひとりの女性の、とある期間の生き様の物語。ただやみくもなわけではなく、目標と過程をきちんと定めて突き進むその姿勢が、美しく、読むに値するものになっていたと思いました。
 気になる方は、ぜひ!!!









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミン・ジヒョン『私の最高の彼氏とその彼女』(イースト・プレス)

2024年02月04日 | 乱読記/書名や・ら・わ行
 30代なかばの女性ミレは、職場で魅力的な男性シウォンに出会う。彼は清潔感があってイケメンで、恋人になれる可能性を感じられないような「完璧な男性」だった。だが急接近、しかし驚きの事前通告が…「僕にはオープン・リレーションシップの関係にある彼女がいます。それでもよければ…」互いを独占せず、他の人と関係を持つことも許容する「非独占恋愛」とは…『僕の狂ったフェミ彼女』の著者が描き出す、前人未踏の「共有」恋愛小説。

 ものすごくおもしろく読みました。帯には「ラブ・コメディ」とあり、ヒロインの一人称小説で確かにコミカルな筆致なんだけれど、まず彼女自身がとても真面目で誠実なんですよね、恋愛にも人生にも、他者にも自分にも。それは彼女がそういう自分を客観視しておもしろく語れる、成熟したちゃんとした大人だということで、それをそう描ける著者もまたとても真面目で誠実な人なんだと思います。
 前作が「絶望編」なら今作は「希望編」というのもとてもよくわかります。巻末の著者あとがきにすべてがありますが、ひとつ引用すると、
「私は相変わらず異性愛に強い関心を持つフェミニストとして、ある人からは『そんなに男が好きなのか』と言われ、またある人からは『そんなに男が嫌いなのか』と言われる。/だが私が本当に気にしているのは自分の人生、そして女たちの人生だ。望まないことは拒み、望むことに欲求が抱ける人生。/どちらも依然として容易ではなく、これからすべきことも、言うべきこともまだまだ無数に残っているけれど、敢えて今回は、望むことについて書いてみた。/必ずしもこのかたちでなくていい。ただ、より良い恋愛、より悩み抜いた恋愛、当たり前のことなど何もない恋愛、そしてお互いにもっと尊重し合い、何より誰のものでもない自分のままで、自分の境界線を守りつつ愛し合える関係が、私たちには必要だ。」
 首が赤ベコですね…
 安易に生きない、真剣に生きる、悩み、選び、流されない、それでも傷つくことはあるし、変わることもある。それは悪いばかりのことでもない…そういう、温かくて強いメッセージを感じました。日韓の違いもあれど、欧米との違いに比べたら断然近くて、そういう意味でも勉強になります。こうしたテーマの作品は日本にもないこともないけれど、表れ方が違うなーとも感じたりします。本当におもしろい読書でした。ラストもとてもいい!
 前作と同じuyumintのカバーイラストも素晴らしい。上手い。ホント今っぽい。
 最新作は35年後の韓国が舞台の、女性ふたりの物語なんだそうです。おもしろそうすぎる! 早く訳出して!!
 そしてこの作品が、お伽話に思えるような未来が、早く来ますように…イヤ来させないといけないんですよね。自分たちが変わり、世の中を変えていかないと、人類は滅ぶのみです。ファイティン! そんな元気をもらいました。清々しい読書でした。













コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラグナル・ヨナソン『闇という名の娘』(小学館文庫)

2021年03月27日 | 乱読記/書名や・ら・わ行
 フルダ・ヘルマンスドッティル、六十四歳。女性警部として実直に勤務に励むも、ガラスの天井に出世を阻まれ、定年が数か月後に迫っていた。ある朝、歳下の上司から二週間後に後輩に席を明け渡すよう指示される。最後に自分に未解決事件を担当させるよう進言したフルダは、ロシア人女性不審死事件の単独捜査を始めた。当初は難民申請が通らず自殺したとされていた彼女だったが、やがて売春組織の関与が見え始め…アイスランド・ミステリの気鋭の待望の新シリーズ。

 少し前から北欧ミステリーのブームはずっとあって、ことにここの文庫はよく訳出している気がするんですけれど、どれも本当におもしろいですね。ごく近年の作品だということもあるし、社会や文化の在り方が私たちが慣れ親しんだ(気がしている)欧米のものとはちょっと違っていて、すごく新鮮に感じるのです。そしてそんな社会保障や男女平等や人権教育などのシステムや考え方がとても進んで見える社会でもやっぱり犯罪は起きて、そこに人間のドラマがある、ということが常に描かれる…非常に興味深いです。
 この作品も、帯などに惹かれて手にしましたが、まず冒頭がちょっと叙述トリックみたいなんですよね。あらすじはカバー表4から書き写したものですが、そもそも本文にはフルダという名の刑事が容疑者を尋問するくだりしか描かれていないので、フルダという名前にはジョンとかマリアみたいな馴染みがないこともあり、私はフルダとは男性名でありこの刑事はこういう名前の男性なんだと自然と思い込んで読み進め、次の章で主人公が鏡を見て「この女は誰なんだ」と思うところでやっと自分の誤解と、刑事といえば男性だろうと思い込んでいた自分の性的バイアスに気づかされたのでした。そして、主人公が定年間際の女性刑事、という小説が普通に存在していることに驚愕し、世界は本当に広いのだなあと感動したのでした。ちょっと前、中年女性の物語がないか少ない、みたいな話題があったじゃないですか。でもあるところにはちゃんとあるし、しかももっと先を行っているんですよ…
 そう、この小説は、他にもいろいろな意味でずっと先を行っている作品になっていました。自分の固定観念がガラガラと覆されていくのを常に感じる、久々におもしろい読書になりました。最近の文庫にしては全然厚くない分量だし、描写がそっけないくらいに少ないのでドライで、過剰でなく、その空気もまた主人公の人生を手放しかけている感に通じているようで、とてもおもしろいと感じました。主人公と主人公以外の視点人物による場面描写が交互に現れる構成はよくあるもので、この人物が誰でどこにつながっていくのかというおもしろさももちろんありますが、そこはまあ想定内のつながりではあったかと思います。でもすべてを総合したときにもっと大きなドラマが立ち上がり、そしてまさに驚きのラスト…! 確かに納得なんだけれど、はっきり言ってなかなかない、いや少なくとも私はまったく見たことがない結末でした。アメリカで映画化が決定しているそうですが、これをまんまやるのはかなり、けっこう難しいのではないかしら…でもきちんとできたら素晴らしいだろうなあ。
 英題はただの『THE DARKNESS』で、まあシンプルなだけに邦訳は難しいところなんだろうけれど、そこにまた女の名を悪く使うのはやめてくれ、という気もしなくはないです。でも女性は誰でも誰かの娘であり、多くは人の母となるものなので、これもアリなのかもしれません。全三部作だそうで、順に十歳ずつ若いフルダが描かれるそうです。ネタバレして読む形になるわけですが、どんな感じの作品なのでしょう…訳出が待たれます。
 女性主人公ミステリーで性暴力が題材になるものはたくさんありますが、主人公がこういう関わり方をするパターンのものは意外と少ないと思いますし、その意味でもとても興味深い作品でした。ネタバレはしません。興味あれば、読んでみていただきたいです。オススメです。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

須藤祐実『夢の端々』(祥伝社フィールヤングコミックス全2巻)

2020年11月14日 | 乱読記/書名や・ら・わ行
 伊藤貴代子、85歳。認知症で家族の顔さえわからなくなる日々の中、突然訪ねてきたのは、忘れられるはずもない、かつての恋人・園田ミツだった。貴代子とミツは、戦後の女学校時代に心中を図った恋人同士だったのだ。心中が失敗しても恋愛関係は続いたが、貴代子は28歳のときに見合い結婚を決めてしまい、ミツは傷つくが…離れたふたりの人生が再び重なるようになるまでの恋愛の軌跡を、時代を遡って辿るドラマチック一代記。

 端正とは言えない絵柄で、デッサンもちょっと不安定で、決して上手いとは言いがたい気はするのですが、味がある絵を描く作家さんですね。このサイズのコミックスにするには画面の密度もだいぶないけれど、それもまた味に見えます。得だなあ。
 お話の始まりは2018年、平成30年です。そこから遡って第2話冒頭は1988年、昭和63年、さらに第3話になると1969年の昭和44年になって…という、スリリングな構成です。
 ふたりは昭和8年生まれのようなので、20年生まれの私の母親より半世代くらい上の青春を送った感じでしょうか。美人でお金持ちでクラスの人気者の少女と、地味で目立たない文学少女、みたいなふたりが出会い、心を通わせ、でも時代は女の自由を許す空気はまだまだ全然なく、「この体はいつもだれかの物なんだわ」「お国の物だったり親の物だったりやがては夫の物 家の物…/でも本当はこの体も心も自分だけの物のはずだわ」「だれかに傷つけられるんじゃなくて/どう傷つくかを自分で決めたい」「だから一番幸福な時期に死ぬことにしたの」と心中するために山に登り、薬を飲み…ふたりで生きてみることにして山を下りようとし、しかし遭難して大怪我をした…
 そのせいばかりでもないけれど、その後もいろいろとふたりの関係は捻れていって…というのは、時代のせいばかりとも言えないし、そりゃ人生いろいろあるよとしか言えなかったりするし、やっと再会して、けれどまた思わぬ別れがあって…というのも、やはりザッツ・ライフな気がする、せつなく美しい物語です。
 ラスト、もう2ページあれば最後に見開きで抱き合うふたりの絵を入れられたのにな。
 貴代子の娘も孫もひ孫もみんな女ですが、彼女たちが少しは生きやすい世の中に、今、はたしてなっているのでしょうか…
 上下巻で綺麗に対になる装丁が美しい本でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あだち充『ラフ』(小学館少年サンデーコミックス全12巻)

2020年08月14日 | 乱読記/書名や・ら・わ行
 大和圭介は私立栄泉高校に入学し、寮生活を始めた。部活は水泳部。だが同じく水泳部の二ノ宮亜美に「人殺し」という言葉をいきなり浴びせられる。圭介と亜美の家はともに和菓子屋で、ふたりの祖父の時代からライバル同士だったのだ…

 このコロナ禍で、密集した観客が大声援を飛ばす中、大汗かいて試合を戦う主人公たちの漫画を描く気になれなくなったとのことで、最新連載『MIX』を休載していた作者でしたが、ひと月ほど前の様子がちょっとおちついて見えてきたころの心境の変化に伴って連載再開を決め、合わせて高校野球の交流試合開催に合わせて全著作を電子化解禁したので、ちょっと話題になったりしましたね。私は実家に『ナイン』と『タッチ』は愛蔵していて、先日『H2』『クロスゲーム』を読んだところだったので、今回はこちらを読んでみました。
 今回のスポーツは野球ではなく水泳。主人公は競泳を、ヒロインは高飛び込みをしています。競泳は、隣のレーンの選手と争うこともあるでしょうがとりあえずタイムを競うもので、自分との戦いがシビアな競技かもしれません。作者はチームプレーとかトーナメントのおもしろさとかではないものを描いてみたかったのかもしれませんし、単に女子の水着姿をたくさん描きたかっただけかもしれませんが、ものっすごいスポ根漫画とかではなくとも(この作者はどの作品でも常に「根性」とは遠いところにあるドラマを描いていますが)きちんと競技の醍醐味は伝わる、おもしろい作品に仕上がっていました。
 やっていることは、というかキャラクターはいつも同じで、圭介は要するにタッちゃんだし亜美は南です。いつも、主人公男子はちょっとワルぶっていたとしてもテレやで優しく、不言実行のがんばり屋で、ヒロイン女子は美人で優等生で素直ないい子です。そして主人公男子のライバルないし恋敵に、主人公より容姿や学業成績や競技実績が少し上の男子が配される。しかし彼もまた優しく紳士的で気遣いの人で、ヒロインに対してゴリ押ししたりは決してしない…
 主役カップルはたいてい幼なじみとか義理の家族とかなんとかで、ふたりの心が揺れ動きやがて寄り添って行く様を淡々とした日常を淡々と描くことで絶妙に描き出し、そしてストーリーはここぞというところでほとんど卑怯なほどの交通事故や怪我、死といったアクシデントがぶっ込まれて大きく展開し、ラストきっちり仕上げる…というのも定番で、この作品もそれに漏れません。
 今回いいのは、仲西さんがメガネってのもあるけれど(だが伊達っぽいお洒落眼鏡で、キャラとしての「メガネくん」ではもちろんない)、彼が圭介にとって憧れのヒーローだと設定されていることです。だから三角関係が単純ではないこじれ方をする。それに、誤解というか、仲西さんのある種大人げない行動が波紋を呼んで、圭介が亜美に「おまえなんか大っきらいだ。」と言うかなりスリリングな、しんどい展開になったりする。
 亜美の水難事故はともかく、その後の仲西さんの交通事故はあたりまえですがとてもショッキングで重大で、その後の仲西さんの変貌も、でも実は変貌なんかではなくて人間なら当然だし彼にはもともとそういうところもあるひとりの若者で決して達観しきった大人なんかじゃなかったんだし、それでもそこからああまで復活してみせたのには彼に本当に意地と能力と努力する才能があったからこそだと思います。
 だから、描かれなかっただけで、最後の試合はやっぱり圭介が勝ったのだろうけれど、でも、仲西さんが最後に意地を見せたかもしれない、とも思わせる。私はどちらかというとそれを願う派です。でも、だからこそ、それは描かれない。そしてそれとは別に亜美の気持ちはすでに固まっていて、だからあのラストシーンになる。
 カセットテープにお気に入りの曲と、生の声の録音ですよ! 今のティーンにはもう意味がわからないかもしれませんよね! でも名作です。あだち作品としては小品と言っていいくらいかもしれませんが、佳作です。私は好きです。

 かおりちゃんみたいなデザイン(容姿も性格も)の女子キャラがヒロインの恋敵として現れて…ってのも実に定番なんだけれど、彼女と芹澤くんの顛末もよかったです。これ以上ここを掘るとストーリー上ややこしくなりすぎる、という判断があった故のことなのかもしれないけれど、芹澤くんがあまり描き込まれていないだけに、彼にとって、また物語全体のバランスとして実によかったと思うのです。亜美が選手としてはまだまだでかおりの方が断然スター、というのもよかった。亜美は南ほどはスーパーヒロインではないのでした。

 タイトルは素描、荒削り、みたいな意味で、人生を築いていく直前の青春模様、デッサンというようなニュアンスが込められているのでしょう。特に水泳とは関係のない言葉ですが、印象的でいいタイトルだと思います。でも物語冒頭に出てくるだけであとは全然出てこなくなっちゃっている言葉なので、もしもうちょっとだけ尺があれば、最終回直前に再度出してもよかったかもしれません。そこは残念です。

 あとは、まあ女子の水着に対する男子の視線の描き方とかの問題はあるんだけれど、女子が気づいていないのでまだマシかな、と甘いけれど思ったりしました。少年漫画のラッキースケベとかって、女子が「いや~ん」とか騒ぐところまでがセット、というのが問題だと思うんですよね。つまり男子は女子の身体を見たいんじゃなくて、女子の嫌がることをやってみたい、そこにこそ快感を覚えるものなのだ…という刷り込みをエンタメを通してすることがダメだと思うのです。そういう嗜虐心は人として間違っている、それは人下劣な嗜好だ、と子供に早くからきちんと教えていかなければならない。それと性的な興味を持つこととは別の問題だし、でも男子だけが性欲を露わにすることを認められていいものでもないので、そこはまたきちんと分けて考えたいと思うのです。
 むしろ気になったのは、これまたこの作者の作品あるあるなんだけれど、いわゆる不美人の、太めの少女を使った笑いの方です。これはもう、作者が女性というものに対して女神のように崇めるか、こうしたタイプの不美人をいじってからかうかしか絡む術を持っていない、対等の他者として友情を育むとかは発想すらできない魂が貧しい男性なんだから仕方ない、と考えるしかない気がしました。ただ、描写としてはこちらの方が今からでもいくらでも変えられると思うんだけど(編集が描かせなきゃいいだけの話なので)、『MIX』ではさてどうだったかな…
 こういう疵で作品が時代を超えられないことはままあるものなので、『アクタージュ』事件もあった今、作者も編集部も版元も今一度きちんと考えてみるべき案件だと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする