駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇月組『PUCK』大劇場初日雑感

2014年09月28日 | 観劇記/タイトルは行
 私の宝塚歌劇初観劇は1993年6月の花組東京公演『メランコリック・ジゴロ/ラ・ノーバ!』でした。
 その後すぐに買った「歌劇」がカナメさんのサヨナラ特集号だったのをよく覚えています。その後月組も観に行くようになりましたが、初めて観たのはユリちゃんの『風共』でした。つまりカナメさんの現役時代には私は間に合っていません。
 でもNHKで放送した「サヨナラ涼風真世」を録画したVHSテープは今も実家にありますし(笑。残念ながらもはやビデオデッキがないが)、『PUCK』もそれで見ました。その後一、二度どなたかにお借りしてDVDで見たかな。主題歌集CDに入った「ミッドサマー・イヴ」や「LOVER’S GREEN」はもちろん歌えます。でも物語全般としては薄ぼんやりしか覚えていません。すごく熱心な初演ファンということではない。むしろ後の『LUNA』といい、イケコのオリジナルってけっこう残念だよね…という印象がありました。
 それでもやっぱり今回の再演は楽しみで、いそいそと出かけてしまいました。初日と翌日11時の回だけ観て帰京して、あとはまた新公に遠征するだけですが、楽しみです。
 なので現時点での日記というか感想を、ちょっとつらつらと。完全ネタバレかつあくまで私見です、ご留意ください。

 スカステニュースで音楽が、歌詞はそのまんまなのにメロディが微妙に違っているのは私でもわかって、ちょっと不安に思っていました。プログラムによれば権利関係云々というよりはイケコが新調したがったようにも読めるけれど、なんらかの事情をぼかしてあるのかしら…? やるならもっと完全新曲にしちゃった方がよかったのではないでしょうか。なまじ似ているだけにちょっと気持ち悪く感じられました。でも二度観ただけでもう記憶は塗り替えられがちなんだけれどね…でも初演ファンにはここはしんどいかもしれません。
 幕開き、ピンクのドレスのちゃぴハーミアと黄色のドレスのコマヘレンがわちゃわちゃしてて、その少女っぷりが可愛くてきゅん!となってつかまれて、でも歌うメロディが微妙に初演と違っていてアレレレ…となって、となかなか忙しかったです。
 ヘレンは確かに知ったかぶりとかしちゃうちょっと困ったお嬢さんで、素直で賢くかつそつがない(笑)ハーミアをライバル視して目の仇にしているのですが、「みなしごのくせに生意気よ!」とかの台詞があってからでないとサー・グレイヴィルの「両親がいないからといってハーミアをいじめてはいかん」みたいな台詞がくるのはおかしいだろう…
 それはともかく、毎夏開催される音楽祭に今年もラリーやダニーもやってきて、夏ごとにわちゃわちゃしている幼なじみの子供たち…という様子が語られます。カチャやみやちゃんが半ズボンで登場しただけで笑いが起きるんだからムラ初日ってすごいよなあ。
 で、インディアンの扮装してオモチャの機関銃だかパチンコだかを持って乱入してくるいたずら小僧のボビーの珠城さんが似合ってなさすぎてもう可愛くてツラい(笑)。ダニーが観たかったな、新公でもよかったけど。新公はヘレンでもよかったんだけど。まあ一番恐れていたのは新公でパックをやらされることで、似合わないとかいうこと以上にこの人はもうそういうレベルの生徒ではないので新公で老け役に回ったのは正しいことなんだけれど、それで言えば本公演でもう一皮剥けるためにもかつてユリちゃんがそのキャラとノリだけでやってのけた「能天気でオマヌケなところが魅力のボビー」にチャレンジするのも大事な過程なんだけれど、でもショーの「くりすたるず!」といい私は悶えた、気恥ずかしかった、痒かった(^^;)。子供に見えない、真面目さが全身からにじみ出てる! いっそ実はけっこう真面目にいろいろ考えているボビーに作っちゃってもよかったんじゃなかろうか、でもそうやって役を自分に近づけてばかりいちゃダメなんだよな、どんな役にもなれなくちゃな…とは思うのですがああイヤしかし。あああ愛が重い。
 というわけでハーミアにだけはストーン・ステージに集まり始めた妖精たちが見え…そして、パックが誕生します。
 いやあ、初演どおり! ゾクゾクしました。カッコいいまさおが見たい、というファンには物足りないのかもしれませんが、これはまさおのあたり役、はまり役のひとつになるな、と私は思いました。
 オベロン様は生まれたばかりのパックに人間の愚かさ浅はかさを見学させるため、人間界に行かせます。でもそこでパックはハーミアと出会う。妖精を見ることができるセカンド・サイト(オタク的にはサード・アイだよね)を持つ人間がまれにいて、ハーミアはそのひとりだったのです。
 ちゃぴが激可愛くてまさおが激ラブリーで、ということもありますが、ここのパックとハーミアとの交情の美しさに早くもほろりとしかけましたワタシ。豆の花たち妖精はパックを止めます。人間なんて嘘つきで見栄っぱりでさもしくて卑しい生き物なんだ、すぐ老けちゃうし友達になんかなれない、まして恋なんかしちゃダメ、それは妖精の掟を破ることになる、と。
 でもふたりは異質だから、異種だから友達になるんだよね。パックにとって豆の花たちは友達ではなくただの仲間です。自分が見えるただひとりの人間、ハーミアが初めての「友達」。ハーミアにとっても、パックが初めての本当の友達。ラリーやダニーにちやほやされたりしていても、本を読むのが好きなおとなしい彼女は多分周りからちょっと浮いていたのでしょう。そんな自分だからこそ出会えた、自分にしか見えない、特別な相手。ああ泣ける。
 でも人間の成長スピードは早く、彼らはあっという間に大人になっていってしまいます。子供の頃の夢を忘れ、あるいは失くしていく。まあダニー、ヘレン、ボビーはそれぞれある意味まんまなんだけれど、ラリーはヴァイオリニストになる夢も指揮者になる夢も捨て、相続税が大変な家屋敷も手放して母校の教師になっています。爵位みたいなものに安穏としていられる時代は終わってきているのです。グレイヴィル邸も例外ではなく、そしてハーミアもまたセカンド・サイトを失っていくのでした。
 パックはショックを受け、怒ります。パックがここでハーミアを「おまえ」呼ばわりしたのに私は最初引っかかったのだけれど、パックもまた生まれて一時間とかでも(笑)妖精として成長して大人になってしまったんですよね。人間を見下すようになってしまったのです。
 でも夜の森をさまようハーミアはやっぱり美しい。そしてそれは決して外見のことではなくて、心栄えが美しいからで、セカンド・サイトを失ってもパックの記憶はごくうっすらとですが残っている。うまく思い出せないということはわかる、という程度にはパックの存在が心に引っかかっているのです。
 だからパックが再び声をかけたときに、反応する。気配を感じる、ぬくもりを感じる。そして再びその声が聞こえるようになり、姿が目に見えるようになる…!
 ところでその前にパックの三色スミレ(さんしょく、かと思っていた)によるいたずら騒ぎがあるわけですが、ボビーがロバに変身させられちゃうところはちゃんと理解されているのかなあ。つまり醜く怖ろしい獣に化かされてしまったのであり、だからクインスたちは怯えて逃げるのであり、だからそんな獣に惚れちゃったタイテーニアをオベロンが嘲笑するのだけれど、下手したらこのロバ、可愛く見えすぎちゃってませんかね? もともと西洋人に比べて日本人の方が獣に対して精神的にハードル低いと思うので(笑)、こういうくだりの瀆神性が伝わってなくて何がどうおかしいのか理解されていないんじゃないのかとついヒヤリとしたりするのでした。
 まあそれはいいや、たまきちのロバ耳が可愛いから(オイ)。すーちゃんがいい仕事してるしね。でもここのソロはもう少し短くてもいいかもね、初演は羽根ちゃんのための場面だったろうとは思うので。あとボビーの「ここはどこ? 私は誰?」ってのはあくまで当時のギャグであって、今やただのモノローグ台詞にしか聞こえず、「なんちゃってー」という意味が理解されないのではないでしょうか…
 というワケでパックとハーミアです。ふたりは恋に落ち、キスを交わしてしまう。そしてオベロン様の怒りの雷を呼んでしまうのでした。
 ここで、パックが妖精の掟を破ったことにもっとすごく怯えて謝り、罪を償おうと必死にならないと演出としてちょっと弱いかな、と思います。だって何がどう罪なの? なんで償わなくちゃなんないの? ってなっちゃいそうだもん。償わなければすべての記憶を失いただの人間として人間界に落とされることになる、という罰の他に、ハーミアに対してもなんらかのペナルティがあるようにしないと、パックが償おうとする流れがわかりづらいかもしれません。まあハーミアの記憶もまた取り上げられる、というのはパックにとっては十分悲しく避けたいことなのでしょうが。
 ともあれパックは掟を破った罪を償うため、一番大事なものを封印して一年間、人間界ですごすことになります。パックの一番大事なもの、それはたぐいまれな歌を紡ぐ声でした。
 パックは身寄りのない行き倒れとしてボビーに拾われ(ここの「プック」のアイディアは素晴らしいと思う!)、カントリーハウスとして営業を始めていたグレイヴィル邸で働くようになりました。ハーミアは同僚として優しくしてくれますが、パックに関する記憶はオベロン様に取り上げられていて、彼をただの口のきけない気の毒な青年だと思っています。いそいそ働くまさおパックがすごく可愛くてねえ…
 ハーミアのそばにいられるのは嬉しい。でも話はできない、自分が誰かもわかってもらえないのは悲しい。人間界はやっぱり騒がしすぎて息苦しい、周りは金儲けの話とかばかりで醜くてしんどい、美しく静かで豊かな森に帰りたい、約束の期限まであと少し…
 そしてその間、ダニーは「一生の夢」であるハーミアを手に入れるために姑息な罠を仕掛けているのでした。サー・グレイヴィルが高利貸しへの返済に領地を手放そうとしたとき、ダニーが肩代わりを申し出て、条件としてハーミアとの結婚を求めます。
 ラリーとヘレンはふたりの結婚式を邪魔しようとし、ダニーの計画を知ったボビーもまた音楽祭で返済のための寄付を募って計画を阻止しようとします。しかし2014年において「パリからドレスを空輸」にあんなに驚かなくてもいいと思う(^^;)。あとここの「スター誕生!」感はさすがユリちゃんだったと思うので珠城さんもがんばってください。イヤ初日から手拍子入って盛り上がりすごかったけどさ。やっぱり二番手のキャラクターだもんねボビーって。怖いけどそういうことですよ珠城さん!
 アクシデントでボビーが潰れ(酔っ払いっぷりが可愛かったなあ、倒れ方がゴーカイでまた可愛かったなあぁ)、パックが禁を破ってボビーの代わりに歌います。ここは完全に初演のままで、もうここから私は爆泣きでした。
 ダニーの計画に両親が加担していたことを知ってヘレンは去り、ラリーが追います。パックを思い出したハーミアが落としたヴェールをダニーが拾って握り締め、立ち去ります。パックが歌い、みんなが聴き入り、唱和し、ハーミアは手を伸ばします。
 オベロン様との約束を破った。あと少しだったのに、もうこれで森へは帰れなくなった。でも森は残る、美しいままに。僕が育ったあの森を、きみと出会ったあの森を、覚えていて、忘れないで…
 ああ、歌い終わりに拍手入れたいなー、その間を取ってから雷鳴、暗転にしてくれないかなー。パックが消えて泣き叫ぶハーミアに拍手を捧げたいわけじゃないんだもん。
 エピローグ。ラリーとヘレン、お似合いだよね。スターになっても未だ地元の男子生徒に冷やかされちゃう、そしてそれに屈託なく応えちゃうボビーの変わらなさがまたいい。あんなにみんなが夢中になるハーミアに対して、ボビーはあくまで普通に接している感じがまたいいんだわー。ただ朴念仁だからか、彼もまたセカンド・サイトは持っていなくとも純真な人間だからなのか? だからこそ彼が森でパックを拾えたのかもしれない。そして今回パックを拾うのは欲を捨てたラリーです。あれ? 記憶違いならすみません。
 この、記憶を失いただの人間になったパックの冷たい声音が初演から大好きだったのですが、まさおの言い方がカナメさんそっくりでまた良かったわー! 「誰ですか?」なんてつんけん言われて、でもハーミアはひるみません。プックを覚えているから、彼こそがパックだと知っているから。ハーミアは彼を森に連れて行きます。
 ストーン・ステージでパックはハーミアを思い出し、その名を呼んで終わり、だったかな…と私は思っていたのですが、そうではありませんでしたね。
 パックの記憶は戻りませんでした。そういう奇跡は起きませんでした。
 私がこういう異種同士の恋愛もののラストで引っかかるのはいつもこの点でした。タイムスリップで出会ったとか、異世界から来た相手と恋に落ちるとか、そういうファンタジーとかSFのオチのつけ方です。今までの世界、時代、家族や生活を恋のためにすべて捨てられるものだろうか、捨てていいものだろうか。自分を育ててくれたものいっさいから切り離されるということはアイデンティティの喪失に等しいのではないか、それではその人はその人でなくなってしまうのではなかろうか。死んで生まれ変わってまた出会えばいいとか嘘だ、それでは同じ人間ではない。ではどう解決するか? 例えば『スター・レッド』、例えば『天は赤い河のほとり』、例えば『ふしぎ遊戯』、例えば『漂流教室』…いろいろな鮮やかな幕切れがありました。では『PUCK』は?
 パックは妖精としての記憶や能力をすべて失い、ただの人間になりました。記憶を失うということはアイデンティティをすべて失うということです。妖精と人間のままでは恋も添い遂げることもままならず大変だったろうけれど、人間同士になれたからって記憶が失われたらそれはもはや別人になってしまったということで、恋も何もあったものじゃないだろう…と当初は思いました。
 が、しかし、よく考えたらパックは生まれてたかだか一時間半なのでした(笑)。正確にはブックとして人間界で暮らした一年間もありますが。でも失われたのはたったそれだけの時間分の記憶です。多分それはすぐに埋められる。だってハーミアがそばにいるから。彼らの瞳にはお互いがちゃんと映っているから…
 さんさんと日の降り注ぐ岩の上に、ふたりは寄り添って腰掛け、おでこをこつんとくっつけ合わせて微笑み合います。明るい未来が見える、なんて幸福な絵! そして幕はゆっくりと降りるのでした…もう爆泣き。

 るうさんとみやちゃんの遊戯室(なんか妖しくヤラしいな)のアドリブとかまさおのウッドペッカーズへのムチャ振りとかまさおとマギーの掛け合いとかはどんどん濃く楽しくなっていくだろうし、ザッツ・ミュージカルとしてのまとまりももっと出てくるだろうし、群集芝居も小芝居が入ってくるだろうし、進化・深化して楽しい舞台に仕上がっていきそうです。いい再演になりそうで嬉しいです。
 適材適所でみんな当て書きみたいにいい仕事しているので、あとは珠城さんが開き直ってはっちゃけて二皮くらい剥けてさらうべき場はさらってくれればカンペキなのではないでしょうか。イヤもうできてるのかもしれないけど私は過保護で目が曇っているのでよくわからない(^^;)。ニンじゃないことだけはわかる、でもがむばれ!
 新公も楽しみです。ショーは安定の中村Aショーですが、バランスのいい二本立てとしてきちんと集客できるといいなと思います。私もビギナーをたくさんアテンドしたいわ。
 かつてファン時代のまさおやみやちゃんがこの作品を愛したように、この作品に出会い宝塚歌劇団入団を目指す少女たちがたくさん現われるといいなと思います。もちろん生徒だけでなく演出家も生まれてほしい。夢が広がるなあ。
 そのささやかなお手伝いをすべく、一ファンとして作品を愛しダメを出し劇場に通い続けたいと思うのでした。






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葛河思潮社『背信』

2014年09月28日 | 観劇記/タイトルは行
 東京芸術劇場、2014年9月23日マチネ。
 画廊を営むエマ(松雪泰子)、出版社を経営するロバート(長塚圭史)、作家エージェントのジェリー(田中哲司)。「逆行」していく時間の中で、不確かな現実が浮き彫りになっていく。真実と偽りとははたして区別できるものなのか…?
 作/ハロルド・ピンター、翻訳/喜志哲雄、演出/長塚圭史、美術/松岡泉。全1幕。

 『昔の日々』がちょっとアレだったんでちょっとビクビクしつつ、松雪が好きなので観てきたのですが、フツーにわかりやすい話でした。
 舞台はエマとジェリーの久々の再会らしい場面から始まって、ふたりに何かしらの屈託があることが感じられ、そこからどんどん遡って経緯が語られることになります。
 ひとつのことに対してみんなが思い違いをしていりそれぞれ違う受け取り方をしていたりすることが語られますが、現実にそういうことって多々あるし、真実とは何かとかそんな重い話ではありません。
 簡単に言えば不倫の話、なのかもしれませんが、不倫であろうとなかろうと恋というものが何故どのように起きるものなのか、ということに関しては実は理由やきっかけというようなものは意外とないのだ、というのもけっこうもう新鮮でないテーゼになっていると思うので、「話が過去にさかのぼっていく」というスリリングさはあったけれど、逆に言うとそれだけで、特に何も明らかになるということではなく、では冒頭に戻って考えるに、それで彼らは結局あまり変わらずに生きているし生きていくのですね、というだけの話…に、見えてしまったかな、私には。
 現実を切り取った舞台、としてはアリなのかもしれないけれど、だったら現実なんて十分に見ているので、もう少し「物語」や「意味」を舞台の演目に、創作に求めてしまう私としては、やや肩透かしというか、物足りなくなく感じてしまいました。
 でも役者はみんな端整で素敵だったし、美術が鮮やかで美しかったです。微妙になりがちなオチがちゃんとこれで終わり、とわかる形になっていた照明もよかったです。
 しかしわかってても言わなかったり別れなかったりで、どのキャラクターも愛一筋に美しく生きたりはしていない物語なのでした。彼らが裏切っていた「背信」の相手とは、自分自身だったのかもしれません。


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安藤なつみ『ワルツのお時間』(講談社コミックスなかよし全3巻)

2014年09月28日 | 乱読記/書名や・ら・わ行
 名前負けしちゃってる牧村姫愛と、ダンス教室の息子なのにダンス嫌いの男の子、南たんご。パートナーがいなければ成り立たない世界一ロマンチックなスポーツ、「競技ダンス」を通して出会ったふたりに、ジュニアダンス界きっての華形カップルも巻き込んで、四人の恋のワルツが回り始める…

 実際に取材するとどのジュニア選手も「パートナーとの恋愛なんで絶対ナイ」と言うそうですが(^^;)、そこはソレ、少女漫画はこうでなくちゃね。
 でも2カップル男女四人の恋と競技の相克を描ききるには、キャラクター設定が甘かったかな。
 太り気味だったヒロインが実はダンスに向いた筋肉の持ち主で、レッスンを始めたら見る見るやせて綺麗になった…というのは楽しくていいと思うんですよね。
 だ、たんごがかつてのパートナーと背の伸び方の差でうまくいかなくなってしまって…というのもすごくいいと思う。
 リアルとフィクションの嘘が上手く重なっていると思う。
 なのにキャラの造詣が甘いから、これを使って上手く四角関係メロドラマが発展できていないんだよね。もったいない。
 掲載誌が幼い読者向けだから、というのは言い訳にはならず、これは残念ながら作家の力量なのかなあ、と思いますが…
 取材もちゃんとしていて、ダンスの絵などはわりとしっかりしていただけに残念でした。
 でも、主に雑誌などのピクチャーポーズ写真を参考に描いているからでしょうが、私の目には未だに女性のスウェイは不自然に見え、特に美しくは感じられないんだよなあ…
 この漫画の読者で実際にまったく社交ダンスを見たことがない人には、やはり美しく見えないし意味がわからないのではないかなあ、と思いました。
 まあ、まだまだマイナーなジャンルですが、キャラクターとストーリーがおもしろくて絵が上手い漫画家がこの世界を新しく描いてくれるのを待ち続けたいと思います。とりあえず名香智子『パートナー』を越えるのは大変だ、ということですね。


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宝塚歌劇宙組『ベルサイユのばら』

2014年09月23日 | 観劇記/タイトルは行
 市川文化会館、2014年9月7日マチネ、ソワレ。
 イズミティ21、9月13日マチネ、14日マチネ。
 ニトリ文化ホール、9月20日マチネ、21日マチネ。

 18世紀末フランス、栄華を誇ったブルボン王朝は翳りを見せ始め、王妃マリー・アントワネット(実咲凛音)の浪費による国庫の疲弊は深刻な事態に陥っていた。重税に喘ぎ各地で暴動を起こす民衆と宮廷の関係は日増しに緊迫の度合いを深めている。宮廷にはさらに由々しきもうひとつの問題があった。アントワネットとスウェーデンの伯爵ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン(朝夏まなと)の道ならぬ恋である…
 原作/池田理代子、脚本・演出/植田紳爾、演出/谷正純。1974年初演。「フェルゼンとマリー・アントワネット編」での全国ツアー公演。

 市川、仙台、札幌と出かけてしまいました…振り分け・配役発表前はあっきーアンドレを夢想したりもしましたからね…まあ『SANCTUARY』に回っていたとしてもりんきらと同じ仕事はできなかったと思うので…当然だけれど。やっていたらまた違ったギーズになったはずですからね、まあでもそれはともかくチケットは手配してしまっていたワケですよ…
 基本的には花組中日版を踏襲し、生徒のポジションに合わせてみつるが演じたド・ブロイ元帥のパートをカットしキキちゃんだったオスカルの場面を増やす変更でした。毒殺、今宵一夜は今回もナシ。台詞もちょっとずつ手が加えられていましたが、例によって改善されたところもあれば改悪されたところもあり、あいかわらずの一進一退ぶり。いつになったら完全版(私の夢想や論考はこちらこちらなど)ができるのか…いつになったらノー・ストレスで観劇できるのか。
 今回も退屈と戦いつつも生徒の熱演に感動させられる、疲れる観劇となりました。何度でも言いますが悪いのは脚本と演出であって生徒ではありません。

 プロローグはそらくんの小公子(和希そら)から。札幌以外、歌のマイク音量が全体に小さくて生徒の喉に負担をかけるようで気になったのですが(もっと歌唱力をフォローするエコーをかけていいとさえ思いました)、そらくんはさすがにしっかり歌えていて好感を持ちました。しかし小公女はそろそろもっと下級生に下ろしてもいいのではなかろうか…前回の「オスカル編」から変わっていないのはプロデューサーの怠慢だと私は思う。
 そしてまたまたパペット場面なのですが…このアイディアがよほどお気に入りなんでしょうね。でもいらない。普通にナツメさんのときの「フェルゼン編」のように仮面舞踏会の場面を回想として芝居で見せてくれれば十分でした。百歩譲って、ステファン人形とか「このお人形がわたくしで、わたくしがお人形だったのです」との絡みからあやつり人形ネタをやりたかったのだとしても、せめて半分の時間でいい。とにかく長い。客席はずっとぽかんとしたまんまなんですよ。
 あとここの「♪ああパリの夜」をスキャットにさせる意味がわからない。普通に歌詞を歌わせてください。名曲揃いの「ベルばら」ソングと言えどこれは五指に入るほどメジャーな曲というわけではなく、まして今回は全国ツアー公演です。『ベルばら』はおろか宝塚歌劇すら初めて観るお客様に対して歌詞で状況を説明しないという不親切をあえてする意味がわかりません。
 でもこの三人の運命の出会いをきちんと描くことは重要です。パペットのオスカルしか出さなかった花中日版より断然いい。この三角関係の構図こそが肝です。台湾版ではアンドレをカットするのもやむなしだと私は思います。
 しかし何故ここでオスカル(七海ひろき)にフェルゼンを殴らせるのか。最近やっとジェローデル(澄輝さやと)がオスカルを叩かなくなってほっとしたと言うのに、また原作にない暴力場面を増やしてどーする(今回はそもそも場面がありませんでしたが、ジャルジェ将軍がオスカルを平手打ちするのはいいのです。原作にあるし、意味がある仕打ちだからね。だが後述しますがチュイルリー宮殿での公安委員のアントワネットへの暴力とかは本当に許しがたい)。
 原作ではフェルゼンがアントワネットの仮面を外してしまったので、オスカルはその非礼を咎めたのであり、かつ声をかけて制し剣で威嚇しただけです。手は出していません。まして今回は、アントワネットがフェルゼンをダンスに誘い、フェルゼンはそれに応えただけです。そのフェルゼンに対してオスカルが手を上げるのはただの暴力です。こんなことを大事なキャラクターにさせる権利はあんたにはないんだよ植爺! こういう改悪は本当に根絶していただきたいです。
 何もすべて原作どおりにしろと言うつもりはありません。だったら舞台化する意味なんかありませんからね。ステファン人形だっていいアイディアだと思うし、原作にはない牢獄場面も名場面です。この仮面舞踏会のくだりも、若いアントワネットがただはしゃぐのではなく、周りに相手にされずに立ち往生しているフェルゼンに優しく手を差し伸べる、何故なら宮廷で実は孤独な自分の姿を彼に見たからだ…というのはとても素敵な改変だと思います。
 改善、改良は大歓迎、改悪はノー・サンキュー。いたってあたりまえのことを言っているだけなんですけれどね…?

 本編に入ってまずはカーテン前(ToT)。まあでもここで状況説明をしておくことは大事です。しかしメルシー伯爵(英真なおき)もブロヴァンス伯爵(風羽玲亜)もお互いの名前を呼びすぎです、というか台詞に芸がなさすぎる。話が行ったり来たりするし何度も同じことを言うし、いくらセットチェンジの時間稼ぎとはいえひどすぎる。あとここの大道具さんのトンテンカンテン大音量もひどすぎる、学芸会か。全ツ観客の皆さん、ゼヒもっと静かにスムーズに動く装置を観に大劇場にいらしてくださいマジで…
 しかしホントこんな脈絡ない台詞のやりとりをよく暗記できるよなー生徒さんマジすごいわー。
 ところでここで軍装のメルシー伯というのを初めて見た気がするのですが、私はこの人はアントワネットのごく個人的な従者か大きく言ってフランス駐在オーストリア大使、要するに文官だと思っていたのですが軍属なのでしょうか。外国人なのに? フェルゼンも外国人ですがアントワネットの贔屓で連隊に入っていたりしますが、同じことをしていていいの?
 風雲急を告げるには軍人の方がいいというならブイエ将軍(風馬翔)を使えばいいし、じゅんこさんファンに対するサービスならなんかもっと違う方法があるのではないでしょうかね? こういう意味不明な改変は本当にやめていただきたいのですが…

 ユリカーテンが開くと宮殿の廊下の書き割り。遠近法が気持ち悪くなるバージョンじゃなくてよかった…
 ここで各近衛隊士に台詞を振りたいのはわかりますし、ジェローデルの立場の説明をうまくしたいのもわかりますが、しかしアンドレ(蒼羽りく)にジェローデルに向かって「副官」と呼びかけさせているのに何故隊士に返答させるのだ植爺。ああヤダヤダ…
 ちなみにここでジェローデルがフェルゼンを悪し様に言うのは私はけっこうツボでした。宝塚版のジェローデルはのちにフェルゼンに国王一家救出の手助けの依頼なんかしに行っちゃいますが、本来は高慢で傲慢なキャラクターであり、王妃の愛人風情の外国人になんか鼻も引っ掛けない男なはずなんですよね。
 ここのオスカルとフェルゼンとのやりとりでは、フェルゼンが「女を捨てた君になどわかるはずもない」みたいな、相手を貶めて言う「など」の使い方がイヤでした。フェルゼンはそんな言葉使いをする男ではありませんよ。「そんなむごいことは言われないはずだ」みたいなちょっと古風な言い回しは好きなんだけどなー。
 同様にオスカルの「私は誰になじられるより君になじられるのがつらい」みたいなちょっと翻訳調の台詞も古風で趣があって好きだったのですが、何故変更したんですかね? しかもなんのおもしろみもない台詞に…だったらなくしてください、そもそも原作にない台詞です。原作にないのを遠い昔に作ったのならその矜持を守って使い続けんかい、コロコロ改変するくらいならいっそ原作どおりすべてやれ! 恥を知れ恥を!!

 ボート場面はみりおんの浮かれっぷりがいじらしくて可愛くてはっとさせられました。もっとおちついて聡明な王妃を演じちゃいそうなタイプだよな、と勝手に心配していたのですが、なかなかどうして、ちゃんと恋に浮かれる若いお姫様を華やかに演じていて感心しました。
 またまぁ様の包容力のすばらしいこと。根本的な解決にはまったくなっていないにもかかわらず、今はただその腕に抱かれていたい…と思わせて出色。素晴らしい。
 この場面は原作にはありませんがフェルマリ編には、というかフェルゼンとアントワネットの関係を語るには必須の場面です。えりあゆにやらせなかった馬鹿を私は一生かけて呪います。誓う。

 続く新場面、カーテン前のデュガゾン(穂稀せり)と侍女ふたりのあまりにもツナギらしいツナギっぷりに絶句。こんなにまでしてセットチェンジ時間を捻出しなければならないなら、続くメルシー伯爵説教タイムはいりませんマジで。
「王妃のためを思うなら身を引け」というのはオスカルもすでに言っていることなので、ダメ押ししなくても観客はみんなフェルゼンの苦しい立場と心情を理解しています大丈夫。
 じゅんこさんが熱演すればするほど、まぁ様が真摯に対応すればするほど、台詞の中身のなさがバレます。みんなここで寝ます。やめてくださいマジで。

 続いてジャルジェ家、ロザリー(瀬音リサ)に対する「赤ちゃんはまだ?」とかいうセクハラ台詞はなくなったものの、謎の「マスコット」発言は残っていてげんなり。
 ベルナール(星吹彩翔)を使ってパリの現状や平民の困窮を説明するのはいいにしても、ここでオスカルに自発的に近衛隊から衛兵隊への転属を決心させ、かつ「国王様にお願いします」と困ったおねだりお嬢さまに見えかねない発言をさせるのはいかがなものか。ひっかかりました。
 あと「私は平民の味方をするなどとは言っていない」みたいな、またも対象を貶める「など」ね。オスカルは平民を見下したりする人じゃありません。キャラクターの人間性を傷つけるような台詞を不用意に書かないでくださいマジで。

 次のカーテン場面はジェローデルのサービスタイムだと解釈していますワタシ。意味なく上手に行きかけて下手に引っ込むからね。美味しくいただきましたよもちろん。
 必要なセットチェンジタイムがあるのは理解しています。問題は銀橋が使える本公演でもこういう演出を平気でやりそうだという点です、マジ引退して…
 国王様(寿つかさ)の夜のお散歩は残念ながらカット、夜の庭園でフェルゼンはアントワネットに暇乞いをします。オスカルの「お館」発言がなくなったのはよかった…
 フェルゼンがオスカルの自分への想いに気づく「もしかして君は僕を…」も、それにつながるカイちゃんオスカルがそらうるうるだしまぁ様には嫌みがないので、こっぱずかしいラブコメ場面として楽しめました。イヤ失礼。別れの台詞に原作に近い友情と尊敬を語らせたのもよかった。
 アントワネットとフェルゼンの別れをオスカルが見ていて、フェルゼンとオスカルの別れをアンドレが見ている構造になっているのはちょっとストーカー連鎖で残念なのですが、まあ仕方がない。アンドレのソロが終わると宮廷場面になってバイト貴族のあっきーが出てきて、ああ退屈な一幕がやっと終わるとほっとするのでいいことにします。
 この公開告白場面を力づくでもたせるまぁ様は素晴らしい。最後にひとり幕前に残り、客席降りしてどよめきの中を悠々と走り去っていくのもいい。
 舞台って観客の目の前の地続きの空間で生身の人間が演じているにもかかわらず、いやだからこそ異空間で、だからそれを越境して役者が、まして宝塚歌劇のスターが客席に降りてくるのはまさに降臨と言っていい大事件なんですよね。地方の観客が驚愕するのもわかります。リピーターとしては何故か勝手に誇らしくなりました。ショーの中詰めのハイテンションお祭り客席降りのときの感覚とはおそらく何かが違うんですよね。お芝居ってすごい、と思います。

 第2幕も小公子たちのプロローグから。そしてスウェーデンの花祭り、オスアンに国王夫妻もバイトするすさまじさですが意外にこれが地方の観客にはバレないので舞台とはすごいものです。
 というワケでジェローデルがフェルゼンのナンパにやってくるわけですが、今回はここではトランク持っていないんですね。どうでもいいことですがあっきーのことならなんでも気になる私です。
 そしてここのソフィア(綾瀬あきな)のヒドい台詞はもう改善されることはないのでしょうか…エビちゃんがいい感じに大根でさらりと流すからいいようなものの…(オイ)涙せずにはいられません。
 そして今回もジェローデルは「オスカル隊長はアンドレと固く結ばれ」などといつ見てたんか!とつっこみたくなる台詞をさらりと言って(ああ、あきジェロの「みんなわたしに預けてみませんか」の銀行台詞が聞きたかったなあ…全額預けるよ…)、回想に突入します。
 過去にはバスティーユを一幕に入れてしまった構成もありましたが、やはりそれは重いかな。
 しかしここでオスカルは何故すべて見ていたベルナールに対し「お聞きのとおりだ」と言うのか、「ご覧のとおりだ」ではないのか。
 あと全ツだから仕方ないとはいえ橋が橋じゃないよね、悲しい…
 それはともかく、オスカルを庇って下手へ避難誘導するときのジェローデルが本当に紳士的で惚れ直しました。オスカルを止める仕草もよかった。
 カイちゃんはもちろん熱演、てらいなく拍手入れたくなる熱いバスティーユでした。

 一方、チュイルリー宮殿に幽閉されている国王一家。アントワネットのお世話を続けるフランソワーズ役の華妃まいあちゃんが次の何かなんですかそうですか。
 この場面ラストのみりおんの絶唱は素晴らしく、毎回素で拍手がすぐさま入っていました。ハケまで待つとか暗転まで待つとかないの、歌い終わったら拍手入れるの、感動したから。すごいよね。
 だからこそその直前の公安委員の意味のない暴力描写が本当にイヤです。原作にないし、彼らがどんなに国王一家を恨んでいたとしても高貴な身分に対し遠慮もあったはずで手なんか簡単に上げないはずです。
 何よりここでアントワネットが「殴られてるからかわいそう」となってしまっているのがイヤ。原作はそうじゃないでしょ? なんでそれが読み解けないの?
 公安委員たちが自分の子供の死についてただ静かに語るとき、それがどんなにアントワネットに衝撃を与えたか…それをただ呆然と立ち尽くすだけの姿で表現した原作漫画の素晴らしさがわからない演出家にこの作品を手がける権利はないよマジで。

 その次のフェルゼンのソロはまあスター様だし主人公だから目はつぶろう…だがなくてもすむぞ残念ながら。
 その次のベルナールとロザリーの会話もセットチェンジタイムありきだし、ロザリーが言うには理屈っぽい台詞だし、なくすか実のある会話に変えたいところではありますねー。
 国境のくだりは昔からほぼ変わっていませんが、わかりやすくていいと思います。国境警備隊との意味のない乱闘場面はなくて安心しました。もう永久に封印してくださいマジで。
 馬車でフェルゼンが長鞭を持つ日は来るのかな…乗馬用の短鞭では馬車馬の尻に届かないって、ちょっと考えればわかると思うんだけどな…あと馬車がデカすぎていつも笑うんですけどもう永久に直らないんですかね…とりあえずまぁ様の長いおみ脚が堪能できるんでいいことにします。あきジェロは馬車の中で酔いそうになってるのかなとか妄想しましたすみません。てかまぁあきで旅の間にナニもなかったとかナイよね…

 牢獄場面は正確には原作どおりではないものですが名場面だと思っています。しかしやはりアントワネットが立ったままスープをすするくだりは気になります。高貴な人はこんなお行儀悪いことしません決して。
 あとメルシー伯がアントワネットのドレスの裾に口づけようとするくだり、もっと裾を持たないと、よろけてしがみついただけに見えかねません。直してほしかったです。
 ベルナールの呼び出し後にフェルゼンが出てきてまた引っ込むのっておかしくないかな? 端でもいいからそこにいたんじゃダメなのかな? また引っ込むなら出てきた意味なくない? カッコ悪く見えないように細心の注意を重ねてお願いしたいのですが…
 そしてロザリーのスライディング・タックルは毎度頼もしくてよかったです。
 セリがないのでフェルゼンが板つきのまま「王妃様!」の絶叫を二度することになりますが、なかなかよかったです。断頭台をイメージさせるはずの階段も段数がなくて残念でしたが、みりおんがそれはたっぷりと間を取って立ち去り、素晴らしかったです。

 フィナーレはロケットからバラのタンゴ、カイちゃんが娘役に囲まれてニコニコしてウィンクで締める「愛の柩」(タニに似てきたなあ!)、「愛の讃歌」のデュエダン(みりおんの幸せそうなこと!)から黒燕尾と美しい流れでした。
 ひとりのぴのびと踊るまぁ様の肢体の素晴らしさと明るく華やかで温かなオーラがまた素晴らしかったです。オペラグラスがあっきーロックオンでソロになってくれないとまぁ様が見られなかったのはナイショです!
 パレードのエトワールがまたもみりおんなのはホントどうなのって感じですが、まあ居残りも確定なのでしょうし、この先もっとのびのび楽しくやれることもあるだろうので、良き発表を待ちたいと思います。なんでも遅い宙組だが次期くらいそろそろいいだろう。
 ああもうしばらく『ベルばら』マジでもういいよおなかいっぱい…と思いましたが台湾があるんだったがんばるよママン…
 ショーがないのはホントはどうなのと思いますが長めのフィナーレはあるし、全ツとしてはやはりお客様に喜ばれていたようなのでそれはそれでよかったのかな。旅行も楽しかったです、次の本公演も楽しみにしています。



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『白鳥の湖』

2014年09月11日 | 観劇記/タイトルは行
 シアターオーブ、2014年9月11日マチネ。

 初来日公演時に観劇したときの感想はこちら
 今回プログラムを購入しなかったのですが、「アドベンチャーズ・イン・モーションピクチャーズ」という団体名ではもう活動していないのかなあ? というか「マシュー・ボーンの『白鳥の湖』」ってタイトル、死ぬほど恥ずかしいんですけれど…
 アドベンチャーズ~の『ザ・カーマン』の感想はこちら
 『くるみ割り人形』の感想はこちら
 『愛と幻想のシルフィード』の感想はこちら
 『ドリアン・グレイ』の感想はこちら

 この日のザ・スワン/ザ・ストレンジャーはアメリカン・バレエ・シアターのプリンシパル、マルセロ・ゴメス。王子はクリストファー・マーニー、女王はアンジャリ・メーラ、ガールフレンドはキャリー・ジョンソン、執事がポール・スメサースト。
 とにかくおもしろかったということだけ覚えていて、久々にチケットを取ったのですが、やっぱりスリリングでエキサイティングでおもしろかったです。
 でも初観劇時の自分の感想を読んで、いろいろ印象が違うのにけっこう驚きです。
 今回の王子は少年のようには見えませんでした。小柄ですががっしりしている感じで、少なくとも成人はしている感じ。そんなに神経質そうでもない。でも生きづらさは感じていて、母親がハンサムな衛兵をエスコートに摘発するのを嫌がったりそうかと思えば赤ちゃん返りというにもどうなのというくらいの執着っぷりを見せたりして、自分でも自分をもてあましている感じでした。
 そこに現われたザ・スワンは王子より大柄で、鳥なんだけど肉食の獣のようにも見える。誘惑する同性愛者とか自由気ままに生きるボヘミアンというよりは、ただただ人外のようでした。でも王子に対して優しいところもある。その不思議さ。それで確かに王子は救われたのでした。
 でもザ・スワンと瓜ふたつのザ・ストレンジャーは猛々しいマッチョな「男」で、宮廷の夜会をかき回し女王すら虜にします。執事とは顔なじみ、というかそれこそゲイカップルに見えました。執事がロットバルトだとは思わなかったな、でも彼らは確かにこの国をのっとろうとしているのでした。
 王子が死んで、女王は未だ色気を失っていないとはいえさすがに新たな子供を産めそうな歳には見えず、跡継ぎのいないこの国は執事とザ・ストレンジャーに牛耳られ蹂躙されて滅ぶ未来が見えます。王子もまた、天国でザ・スワンと幸せになりました、というようには見えません。
 そもそも白鳥たちは何故ザ・スワンと王子を攻撃したのでしょうか。王子がザ・ストレンジャーにふらついたのを怒って? ザ・スワンはそれには怒らず、王子を庇って仲間たちに責められて死んだ? ラストがやっぱりよくわかりませんでした。
 人はここではないどこかでないと愛する者と結ばれない、ということかしら。ここではないどこかでないと、自分らしくのびのびと生きられないということかしら。悲しいなあ…
 初演からだいぶ月日が経っていることでもありますし、ラストの解釈、ないしラストそのものがまた違ってきてもいいのかもしれません。
 ああでもまたバレエ・ブランが観たくなりましたよ、年内のバレエのチケット取ってないなー、何か行きたいなー。バレエファンにこそ観てもらいたい舞台だとも思いました。
 チャイコフスキーも喜んでいると思います。少なくともおもしろがってはいると思います。隠れて生きた同性愛者だったそうですしね。あるいは性的嗜好にかかわらず、芸術家というものは多分に生きづらいものではあるのかもしれません。だからこそ美しい芸術が生み出せる、という皮肉な考え方は、あまり支持したくないのですけれどね…

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