駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『死と乙女』

2015年03月31日 | 観劇記/タイトルさ行
 シアタークリエ、2015年3月19日ソワレ(初日)、20日ソワレ、24日ソワレ、28日マチネ、ソワレ(千秋楽)。

 軍事独裁政権が崩壊して間もない、南米のとある国。かつて学生運動に参加していたポーリナ(大空祐飛)は、独裁政権下で監禁され拷問を受けた記憶に今も苛まれていた。深夜、海辺の別荘で夫の帰りを待っていると、見知らぬ車が停まり、弁護士である夫のジェラルドー・エスコバル(豊原功補)が降りてくる。車がパンクし、通りがかりの車に送ってもらったのだという。ジェラルドーは独裁政権の罪を暴き真相を究明する、新政府の査問委員会のメンバーに指名されたとポーリナに伝える。そこへ扉を叩く音。ジェラルドーを車で送った医師ロベルト・ミランダ(風間杜夫)が戻ってきたのだ。夫と話すロベルトの声を聞いたポーリナは確信する、彼こそシューベルトの四重奏曲「死と乙女」をかけながら自分を拷問した男だと…
 作/アリエル・ドーフマン、翻訳/青井陽治、演出/谷賢一、美術/土岐研一、照明/齋藤茂男、衣装/前田文子。1991年初演、94年日本初演。ハリウッド映画化もされている。全2幕(戯曲では3幕)。

 日本では何度か上演されているそうで、風間杜夫がジェラルドーに扮した公演は、たとえばこちらなど。

 事前にお友達から戯曲のコピーをもらえたので、読んでみました。私は戯曲を読むことには苦手意識があったのですが、これは読みやすかったです。おもしろかった。
 ただ、ラストがよくわからなかったのですね。ラストというか、事件の真相が。ズバリ言えば結局のところ、ロベルトがポーリナの拷問に関わった医者だったのかどうか、という点について、ということです。
 私は、舞台としては真相がわからないように演出されるのだとしても、台本には真実(と作者がすること)が明記されているものだと思っていたのです。だって私だったらわかった上ででないとやれないもん、と思ってしまった。
 でもこの戯曲にはそれは書かれていないのでした。ポーリナ自身も実は自分の記憶に確信が持てなくて、だから証言に嘘を紛れ込ませたのだ、と終盤に語るような展開になっている。だから私は混乱しました、これは結局どういう物語なの?と。
 で、実際の舞台を観てみればわかるということなのだろうか…と、不安半分、楽しみに劇場に出かけました。観劇前にある程度の予備知識を持つことは多いけれど、戯曲そのものを読めることはなかなかないので、ちょっと変わった経験になりました。
 で、結論から言うと実は初日は、私はどうも受け取れきれなかったのでした。
 まずなんとなく、実際の舞台を戯曲の答え合わせみたいに観てしまったことがひとつ。あの台詞はこんなニュアンスで言われることになったのかなるほど、とか、あの流れはこういうアクションで表現されることになったのか、とかいろいろ考えてしまって。
 また、私の初日の席が上手ブロック通路際で、最後にジェラルドーが立つちょうどその脇であり、のちにポーリナが現われても彼の背中に隠れてしまって、まして表情などまったく見えない席でした(これは問題があると思う。最後にはふたりは舞台に向かって佇んで終わるにしても、まずは最前列間際に客席に向かって立ってその表情をすべての観客に見せるべきではなかろうか)。そして彼らが邪魔になったのか、本舞台の幕が再び上がって別荘のリビングダイニングが現われたときも、テラスのポーリナに私は気づきませんでした。つまり私はこの舞台のラストが、ふたりが空っぽの部屋を眺めて終わる形に改変されたのだと思ったのです。それでけっこう混乱したのでした。
 戯曲ではラストはコンサート会場を思わせ、客席を映す鏡を出したり、そこに幻影らしきロベルトが現れてポーリナとだけ目を見交わす、というようなものでした。なので、あれれれれ?と思ってしまったのですね。
 かつ暗転後、暗い中で豊原さんが大空さんをエスコートして舞台に上がらせようとしているのが私の席からはよく窺えて、そうしたら風間さんが下手袖から舞台に出てきてラインナップになったので、ああこれで終わりか、とあわてて拍手する、みたいな感じになってしまいまして。
 それで、戯曲の方がいいなあ、何故変えちゃったのかなあ、どういう意味なのかなあ、と考えたりしたのでした。
 すぐ翌日の観劇で、ラストのふたりの表情も見えればテラスのポーリナの姿にも気づく、となって初めて私は、ああ、この方がいいな、と納得できました。全体の演技も初日の硬さが取れてメリハリがつき、より鮮やかになって物語が立ち上がってきたと思いましたし、いい芝居だな、いい作品だな、と素直に思えました。
 そしてこの回の観客に、やたらと笑いを漏らす男性がいたことで、フェミニズム的にもいろいろ考えられて、またおもしろかったりしたのでした。

「私なら、どうするだろうか?」
 そう思いを馳せてもらいたい、と演出家はプログラムで語っていました。笑っていた男性客は後半では静かになっていましたが、彼の胸にこの思いは去来したのでしょうか?
 私はこの舞台は復讐の物語ではないと思っています。ポーリナが求めていたものは復讐ではないと思っているのです。復讐なんかでは得られないものを彼女は欲していたのだと思うのです。あるいは、復讐以上にして復讐以前のもの、とでもいうか…
 それを誰かが彼女に与えられたとき、寄せては返す波のように彼女が繰り返してきた、あるいは繰り返すのであろうこの「復讐のように見えてしまう行為」は終わるのだと思うのだけれど、ではそれを与えられる者がはたしてこの世にいるのだろうか、という絶望的な境地に、この男性観客の笑い声は私を追い込んでくれました。
 私は、ポーリナが求めていたものとは、「正当な扱い」だったと思います。
 何人たりとも、なんの言われもなく他人に侵されることがあってはならない。時代や国によってもしかしたら多少の制限がかかるにしても、これは基本的にはごくごくまっとうな、基本的人権のひとつではないでしょうか。人には等しく尊厳があり、みんなが互いを尊重してい生きていくべきではないでしょうか。仮にも文明国であるならば。たとえ理念だけだとしても。
 女は男より肉体的に弱いかもしれない。だからといって痛めつけていいということには絶対にならない。まして強い男が力で何か強いていいということなど絶対にない。強いのであればその力をセーブする責任が力の持ち主にはあるのです。そうして万人が対等に対峙し合わなければならない。それが正当に対するということです。
 なのに何故「いつも、私たちが譲歩しなければならないの」「何故、いつも、私は、歯を食いしばって耐えなくてはならないの」か? 肉体的に弱いからというだけの理由で? 女だからというだけの理由で?
 嫌だ。「今度は嫌」だ。だから実験してみる。一矢報いてみたら何が起きるのか?「何を私たち何を失うの、奴らの一人を殺したからと言って?」やってみてもいいはずだ、やってみなければわからない。試してみるくらいの権利はあるはずだ。世界が私に優しくないなら私だって世界に優しくしてやる必要はないはずだ。ポーリナの行動はそういうことではないでしょうか。
 それを甘えだと糾弾できる者がいるでしょうか? 罪なき者がいるなら彼女に石を投げるがいい。観劇して笑うがいい。
 こうしたことがすべて実は無益だとポーリナだってわかっているのです。復讐がなされても何も修復されない。弱すぎる者は復讐すらできず、犠牲になり、皺寄せを被る。そういうことでしか復讐の連鎖は止まらない。
 だから本当に必要なことは、そもそもの事件を起こさないことなのです。ひとたび事件が起きたら復讐の連鎖は続くし、その連鎖が止まるには常に弱き者に皺寄せが行くことになる。それは不当なことです。
 だからそもそも事件を起こしてはいけないのです。なのに事件を起こすのは常に常に常に男なのです。
 ロベルトがその医者であろうとなかろうと、あんなふうに開き直るのではなく、ただ謝ってくれたらよかったのに。全男性を代表して謝ってくれたらよかったのに。男は男であるだけで女に対し脅威であると認め、それを申し訳ないことだと当の男としても思っているのだと認めてくれたら、女は少しは救われるのに。女はただ男と対等に、まっとうに、正当に扱ってもらいたいだけなのに。
 でも女が何を望んでいるかを気にしてくれる男はほとんどいません。女に意思や希望、脳味噌、心があることに思い至る男はいたって少ない。ロベルトは謝らないし、観客の男性は我関せずみたいにこの舞台を観て笑う。この、男が男であることの罪の無自覚さたるや。そのことへの女の絶望感たるや…!
 それでも女は男を愛しているから、だから男に、世界につきあってやっているのだと、そろそろ気づいた方がいいですよ男たちよ? 女が男を見捨て世界を見捨てたときに世界は確かに終わるのです。女は自分たちがその力を持っていることを知っています、だからその力を賢くも行使しないのできたのです今まで。男たちが愚かにも無自覚にその腕力を振るってきたのとは大違いです。
 つきあってもらっているうちが花ですよ。男たちよ、まずはあなたの女の顔を見なさい、話を聞きなさい。「ああしろ、これはいかんと」「指図する」のではなく、あれをしろこれはダメと命令だの強制だのするのではなく、ただ話を聞きなさい。あなたたちは椅子に縛り付けられでもしないとおとなしく女の話が聞けない生き物です。でも世界を失いたくないならそろそろ考えた方がいい。自分から座りなさい。
 ジェラルドーは本当はポーリナから逃げたいと思っているのかもしれない。でもポーリナがジェラルドーを事態につきあわせてやってあげている部分があるのです。ポーリナがジェラルドーを解放したらジェラルドーは一瞬楽になれるのかもしれませんが、その次の瞬間に世界丸ごとが終わるのです。
 男は自分たちが世界を回していると思っているか、自分が誰かに回させていると思っているのでしょう。しかし世界を回しているのは実は女なのです。確かに回させられているのかもしれない、でも彼女たちがやめたら世界は終わる。ただそれだけのことです…

 大空さんが卒業後に演じた中ではポーリナという役は最も女っぽいというか、普通の女の人っぽかったかもしれません。『La Vie』のタマラは女性性というよりは芸術家としての側面の方が強かった役のようにも思うので。けれど石田えり、余貴美子と並べると、ポーリナを演じた女優さんとしては大空さんは最も女っぽくないタイプだったでしょうね。
 舞台は全体に大空さんの良くも悪くも持ち味である乾いて硬質な感じにトーンを上手く合わせていたと思います。もっと泥臭く生々しく、組んずほぐれつの暑苦しい舞台にすることもできたと思うけれど、現代の商業演劇として見せるにはそれはけっこうしんどかったと思うので、そういう意味でもいいキャスティングであり、おもしろい舞台に仕上がったのではないでしょうか。
 照明が美しく、印象的でした。スターの顔をはっきり見せることに特化したライトに慣れた私にですら、その繊細な効果は感動的でした。逆にポーリナがロベルトを縛り上げるときの効果音など、音響はナゾのところがあったかな…
 ともあれ、いい作品でした。いいお仕事でした。





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宝塚歌劇星組『黒豹の如く/DearDIAMOND!!』

2015年03月14日 | 観劇記/タイトルか行
 宝塚大劇場、2015年2月28日マチネ。

 大航海時代に国策に沿ってスペインの海を悪から守った伝説の海賊ソルの血を引く男、アントニオ・デ・オダリス大佐(柚希礼音)はスペイン海軍で参謀長を務め、しなやかで俊敏な「黒豹」としてその名を広く知られていた。1920年11月、バルセロナの海軍省で終戦二周年を祝う華やかな宴が催され、アントニオはかつて恋仲にあったカテリーナ(夢咲ねね)と三年ぶりに再会する。カテリーナは戦争のあおりを受けて財を失った父を救うため富豪のラミレス侯爵との結婚を余儀なくされたものの、まもなく侯爵が亡くなり、若くして未亡人となったのだった…
 作/柴田侑宏、演出・振付/謝珠栄、作曲・編曲/太田健、玉麻尚一、斉藤恒芳。星組トップを6年務めたゴールデン・コンビ、柚希礼音と夢咲ねねの退団公演。

 順番が前後しますが、諸事情あって東京のチケットを手放しましたので、マイ楽を終えたことになりましたので感想を上げます。
 ま、簡単に言うと、『白夜』よりも『ルパン』よりも私はつらかったので、友会で当たっていたチケットをお嫁に出したのです。東京ですごく改良されていたりしたら、不明を恥じます。確認できなくて悔しいだろうけど、改良されたことは嬉しく思うだろうな。だって本当につらかった…柴田スキーなだけに、そんなふうに感じたくはなかったのだけれど、それでも。私は原作や元になる史実などがない、宝塚歌劇の純粋なオリジナル作品としては、『哀しみのコルドバ』『琥珀色の雨にぬれて』を最も高く評価しているのです…そんな柴田スキーの私ですが、つらかった。
 演目が発表されたとき、わあ柴田先生の新作だなんて星組さんいいなあ!と羨んだ一方で、ところで新作って何年ぶり? 後年けっこう力が落ちてましたよね残念ながら、大丈夫?と不安に思ったことは、事実です。それでも信じていました。台詞の美しさ、キャラクター造形、ドラマ構成やストーリーテリング、馥郁としたえもいわれぬ香気…巨匠・柴田、老いたりといえどそこらの若手より一枚も二枚も三枚も上だろう、と信じていたのです。未だ現役を降りない見苦しい植Gとは違うだろう、と。
 でも…全然ダメでした。今の星組のカラーが柴田作品に合っていないとか、そういうことでは全然なくて、単に作品としてなっていませんでした。
 どうして誰も止めなかったの? 口出しはまったくできなかったってことなの? でもじゃあもう二度と登板させてはいけないですよね、そして過去の名作を財産として大事に再演していきましょう。『あかねさす』『うたかた』『激情』『アルジェ』『バレンシア』『赤と黒』『誰鐘』『小さな花』『星影』『大江山』『紫子』『仮面ロマ』『黒い瞳』…何度でも再演される意義がある名作揃いです。『川霧』『業平』『炎のボレロ』『珈琲カルナバル』『アンジェリク』あたりは再演希望が多いのに未だ叶っていませんよね、ゼヒ!
 てか今回だって『琥珀』か『激情』の再演でよかったよ…本公演で観たかったもん…
 この感想は一度しか観ていないで書いています。記憶違いや勘違いもあるかもしれません。あくまで私の感想ですが、そんなじゃなかったおもしろかった素晴らしかったよという方は、ゼヒご意見をお聞かせください。語り合ってみたいです。
 ちなみにザッツTSな装置、振付、演出は、私は今回は特に好きでも嫌いでもありませんでした。ただ、とにかくザッツTSだなあと思いました。

 さて、アントニオとカテリーナが再会する場面から、物語は始まります(冒頭の海賊場面は単なるアバン、ショーアップされたプロローグであって、物語とはほとんど関係ないので)。
 彼らはかつて、カテリーナの家の経済的事情のために別れたが、カテリーナは今は未亡人になっている。アントニオはずっと独身だった。そしてふたりは再会した。
 …なんの問題もないじゃないですが、何故何も始まらないの?
 当時の貴族社会においては、ややスキャンダラスな、陰で冷やかされる醜聞めいた関係にあたる、ということなのでしょうか? でもそんなこと、愛の前には重要ではないでしょう? 宝塚歌劇なんだから! ちえねねなんだから!! 愛至上主義で当然でしょう? 何が問題なの?
 カテリーナが夫を毒殺したのではないか、という噂がたっていることが問題なのでしょうか? でもカテリーナは潔白なんでしょう? ならアントニオは絶対カテリーナを信じますよ、なんの問題もありませんよ。愛至上主義なんだから、ちえねねなんだから!
 たとえカテリーナが本当にやっていたんだとしても、愛ゆえ、ないしなんらかの事情があったんでしょう? だったらやっぱりアントニオはカテリーナを信じかばい愛しますよ、それで愛が冷めるなんてことはありえませんよ。愛至上主義なんだから、ちえねねなんだから!
 なんの問題があるの? 何故何も始まらないの?
 ちえねねがふたりしてやりにくいとインタビューなどで語っていたのは、過去の経緯が台詞だけで説明されていてふたりの関係が見せられないからじゃありませんよ、今現在このキャラクターとしてやることがないからですよ。このふたり、再会しても何もしないんだもん。
 私が心底あきれたのは、二度めの逢い引き(古風な言葉を使ってみました。だってデートとは言いがたい)のときに、会うなり「次はいつ会える?」とか相談し出したことです。今会っているんだから今何かしようよ! 愛し合っているんならしたいことがイロイロあるだろう!! 何もしないなら何しに来たの? 会わないと次の約束ができない、とかなの? 電話とか手紙とかお遣いも出せないってことなの?? それは何故???
 今もなお愛し合うふたりが再会して、そして…という話のはずなのに、このふたりがさっぱり恋をしないのです。何もしないのです。具体的なエピソードが何ひとつないのです。それっぽい愛の台詞をしゃべったりくるくる踊ったりは多少するけれど、それは恋愛の描写じゃないでしょう。
 しかもこのふたり、ちえねねが扮しているということ以外にほとんど情報がないキャラクターなんですよね。そりゃアントニオは黒豹と呼ばれる仕事のできる男らしいですが、人間として、男として、どんな特徴があってどんな魅力があるキャラクターなのかはほとんど描写されません。カテリーナも「未亡人」以外の要素がほとんど出てきません。だから彼らがお互いのどこをどう愛しているのかがさっぱりわかりません。美男美女ってだけじゃダメだろう、宝塚歌劇は美男美女ばっかなんだから。ちえねねだから応援したいのに! ラブラブカップルが困難を乗り越えてゴールするさまをドキドキハラハラしながら応援して見守りたいのに!! なのに脚本が全然そう流れていません。

 さて、そこに現れる恋敵アラルコン(紅ゆずる)。大実業家で、士官失踪事件の黒幕らしい? どうやら優秀な士官を次々誘拐して他国の軍隊に送り込んでいる? それでまた戦争でも起こせれば特需で儲かるとか、そういうことが狙い? えええ?? 嘘くさくない??? 胡乱すぎるだろうそんな金儲け、そんなふうに上手くいくわけないだろう。今どき素人ラノベにだってそんな設定の悪役いなくない?
 アラルコンがアントニオに目をつけ、転職話を持ちかける。アラルコンはカテリーナに気があるから、アントニオがスペインからいなくなってくれるのは二重に都合がいい。だがアントニオは断る。アラルコンの申し出にきな臭いものを感じているし(黒豹の勘で!!!)、スペイン海軍を愛しているから。
 アラルコンは断られてプライドに傷がつき、カテリーナのこともあってアントニオが目障りで、ますますなんとかしてやろうと思う。で、またのこのこ同じ話を持ちかける。え? バカなの? 前回ダメで今回乗るわけないじゃん、何も条件変わっていないんだから。アントニオが従わざるをえない弱みをアラルコンが握ったとかなんとか、何かないとダメでしょ? でも何もないよね? あと、他国の軍に送り込んだあとは言いなりに動かせないと意味ないんじゃないの? でもアントニオがアラルコンの言うことをきく義理はないし、最初からこんなに敵対的な人間を手駒にできるわけないよね? いったいアラコルンは何をどうしたいの? むしろ手駒にするのをさっさとあきらめて亡き者にしちゃう、とかの方が自然なのではないの? だってあんなヤクザなボディガード連れて、手を汚すことも厭わないような男なんでしょ? そういう設定なんじゃないの??
 あと、アラルコンはカテリーナを本当に愛しているの? どこをどうして? そもそもカテリーナが魅力行方不明の描かれ方しかしていないからアラルコンの心情にも全然添えません。
 しかもアラルコンは結局カテリーナをどうしたいの? 結婚したいの? 愛されたいの? 手込めにしたいの? それってすべて全然違うことだし、その目的に合ったアプローチが必要だと思うのですが、現状アラルコンがカテリーナに対してしていることはなんなのかさっぱりわかりません。カテリーナが夫を毒殺したんじゃないかという噂を立てたのは彼のようだけれど、それで彼にどんな得があるというの?
 アラルコンはアントニオのことで話がある、と言ってカテリーナを呼び出したようだけど、何故カテリーナはののこのこ出かけていくの? 愛する男になんら後ろ暗いところがないことを知らないの? おかしくない? 何がどう弱みになって脅迫の種になって無理強いされているのか、さっぱりわかりません。全然萌えないし、レイプまがいに見えて超不愉快です。
 ベネディクトからこっち、しょうもない恋敵役ばかりやらされているベニーが本当に気の毒です。二番手男役の方が美味しい、という作品をかつて柴田先生はたくさん書いてきたのに…

 冒頭での再会のあとねねちゃんの出番がずーっとないし、話がさっぱり見えないというか始まらないし、各キャラクターの言動に理屈が通ってなくて何しているのか意味不明で、観ていてずっとずっと苦痛でした。
 カーニバルの荒事で物語を無理矢理クライマックスにしようとしている感じも嫌でした。そもそも彼らがカーニバルに行く理由がわからない。こんな無理矢理のご都合主義で展開する柴田作品なんか私は今まで観たことありませんでした。本当に目を覆いたかったです。なんなのあのアラルコンの間抜けなザル計画…たとえ悪役だとしても、スターが演じるキャラクターをバカに見せる展開なんて昔の柴田先生なら絶対書きませんでしたよ?
 岬の場面のメロドラマ展開に至って初めて、「ああ、この話ってこういうことがやりたい話だったの!?」とWATER!!!な気分になりましたが、同時に、ああじゃあもうこの脚本はどこかを直すとかの問題じゃないわ、全とっかえするしかないんだわ、と絶望的な気持ちになりました。
 愛に狂った男が愛に狂った女に殺され、主役の男女ふたりが危機をすり抜けるドラマ。アルヴィラ(妃海風)→アラルコン→カテリーナ→←アントニオという四人のドラマ。そこに一枚噛まされる、さらに悲劇的なピエロで美味しい(はずの)、ゴンザーロ(十碧れいや)のドラマ…
 でもこのアルヴィラがまた全然わかんないじゃん。アラルコンのスパイなの? 愛人なの? アラルコンはアルヴィラを利用しているつもりのようだけれど、アルヴィラはアラルコンに愛されていると思い込んでいるということなの? それともアラルコンも気を持たせるようなことを言っているの? 何も描写や説明がないんですけど??
 アルヴィラはアラルコンを愛しているようだけれど、彼女は最終的にはどうしたいの? 彼と結婚したいの? 彼に愛されたいの? 彼を独占したいの? それってすべて全然違うことだし(さっきも言った)、カテリーナに嫉妬するのはわかるけど、だから殺すってのは短絡的すぎない? それでアラルコンの愛が失われるとは考えないの? そんなバカな女を柴田先生が書くなんて…これは愛に愚かになっている哀れな人間、というのとは違うよ? ねえどうしちゃったの?? 本当に泣きたい…

 そして終盤のとってつけたようなサヨナラ感…柴田先生がこんな無様なことをするなんて…たとえばペイさんのサヨナラ公演『あの日薔薇一輪』の洒脱さとかはどこに失われてしまったの?
 アントニオとカテリーナの恋?の何がどうなったのかさっぱりわからないし、どうやらアントニオは情勢が不穏な赴任地に向かうということのようだけれど、何故カテリーナがついていかないのかとか、ついていかないなら何故「この任務から帰ったら結婚式だ!」とならないのか、さっぱりわかりません。
 こんなんで泣けないよ、ちえちゃんがどんなに居並ぶ組子の面々をいとおしく見つめたって泣けないよ。だってそれは物語じゃないもん。
 ああもう、いったい本当にどうしちゃったの…? 泣けるとしたらそういう意味でですよ…

 それでもこれは紛れもなく柴田先生が書いた脚本なんだろうな、と思ったのは、軍隊の主力が海軍から空軍に移りつつあることをアントニオが語るくだりがあったからでした。
 はっきり言ってこの物語に(物語があるとすれば)まったく関係のないネタであり、ラブストーリーにもまったく不必要なモチーフです。それでも柴田先生はこの台詞を書かないではいられなかったのでしょう。それくらい先生の中に戦争の記憶は鮮明であり、なのにこの国はどんどん戦争を忘れて戦争ができる国になろうとしていて、先生はそれを恐れていて今ここであえて言及したのでしょう、プログラムでも語るくらいに。
 でも柴田先生はかつてはそういう形で反戦を語る人ではなかった…ただひたすらに愛至上主義の物語を綴ることで、愛より尊いものはないこと、争いが無意味なこと、人命が大事なことを訴えてきた作家だったのに…
 あえてその主義を曲げた作家の老いを憂えればいいのか、作家にそうさせた今の世の中のきな臭さを憂えればいいのか、私にはもうわかりません…

 まさこのセバスチャン(十輝イリス)とかおもしろかったんだけどね。しーらんみっきーまこっちゃんのマリオマルコスマルセリーノとかチャーミングだったんだけどね。ベニー同様この系統の役ばっかだなというゆりかのラファエル(真風涼帆)もよかったんだけどね…
 でも、残念ながら、そういう問題ではないのでした。生徒もやりづらかろう、リピートするファンもつらかろう…同情します。

 ダイナミック・ドリームは作・演出/藤井大介。何度も何度も休めダイスケと言い続けてきましたが、今回も本当にありきたりの、フツーの、可もなく不可もないショーで、特別ちえねねの魅力が出ているとも思えないし、なんだかなあ…という感じでした。
 ちえちゃんのドアボーイはすごくいいなと思ったんですよね。愛のあるアイディアです。でもドンファンになったら微妙じゃなかったですか?
 あとまおくんのデコレート・パールS、もうこういう使い方をしていい学年ではないと思う。こういう使い方に特化するというならポコちゃんとシンメにしないでくれ、しーらんみっきーより内に入れないでくれ。
 三組デュエダンはパートナーチェンジがあって全組み合わせが見られるのがいいなと思ったのだけれど、やはりあそこはまこっちゃんではなく風ちゃんを使うべきではなかったのではないでしょうか。というか風ちゃんをもっと二番手娘役格に使ってあげてくださいよ、次期トップ娘役なんですよ? えりあゆがやめるときのショーでのゆうみちゃんの使われ方は素晴らしかったなあ…
 何より、ちえちゃんらしい、バリバリ踊ったりのびのび踊ったりする場面がなかったのが残念でした。アサコもミズもひとりで踊るいい場面をもらって卒業していったのになあ…
 お神輿でにぎやかに去っていくのもいいけどさ、自作の歌詞もいいけどさ、二階客席下りもいいけどさ…私は、寂しかったです。もっと違うものが観たかったです。

 私はトウコが好きでも嫌いでもなくて、だからあのころの星組をあまり観ていなくて、でもちえちゃんが抜擢されていることは知っていたし、それに値するスターオーラのある下級生だとずっと思っていました。近年では確かに若い学年でのトップスター就任だったけれど、もともと私はトップ就任のあまりの高学年化には反対で、みんな研12くらいで就任して研15くらいで卒業させてあげたいなと考えていましたし、トウコとは学年差がありましたが十分準備されてのバトンタッチだったと思うので、まったく不安にも不満にも思いませんでした。雪組から組替えして二番手に就任したテルとの映りもよかったですしね。
 ねねちゃんも、月組にいる頃は綺麗だけどでかいなあ、と、三組デュエダンとかで大空さんと組んだときとかヒヤヒヤして見ていましたが、いいところにお嫁にいったよ、とほくほくと見守っていました。いいコンビだったと思います。
 代表作としたら『ロミジュリ』初演と『オーシャンズ11』なのかなあ。今ひとつ宛て書きオリジナル作品に恵まれなかった印象はありますが、二番手が何人か替わって常に組がフレッシュな印象で、人気も絶大でしたね。ちえちゃんは100周年をトップオブトップとして背負って、やっと肩の荷が下ろせる…というところだろうから、素直に卒業をお祝いしたいです。そうそう、台湾公演も感動したなあ、誇らしかったです。
 その隣でねねちゃんも大輪の花を咲かせたと思います。コンビが長くなると相手役を替えたほうがフレッシュさが保てるのでは…みたいな流れもあったりするものだと思いますが、ねねちゃんは常に一番綺麗で魅力的で、新たな面を見せ続けてきて、だからちえちゃんと一緒に完走するのだと思います。歌、ダンス、芝居の何がどう優れているというタイプではなかっただけに余計に、でもとにかく綺麗、可愛い、美しい、魅力的、カップルになったときに最高!という、ザッツ・トップ娘役を作り上げたのかな、と思います。ご卒業おめでとう。

 専科生ですら卒業するのだから、演出家もまたしかり、であるべきでしょう。財産は残して、あとは見守っていていただけばと思います。その目に光がないのは残念なことではありますが…
 ああ、新生宙組に柴田佳作の再演が来ないかなあ…ああでもとりあえず来年のお正月公演は新作がいいなあ。新生星組も再演ものが続くのはなあ…次の雪か月か、花も似合いそうだけどなあ…あ『新源氏』か。
 生徒とファンが幸せになれる演目が生まれるよう、願ってやみません。







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劇団メリーゴーランド『メリーメリーゴーランド!!』

2015年03月10日 | 観劇記/タイトルま行
 神楽坂THE GLEE、2015年3月7日マチネ(初日)。

 明日はロッソメーラ王国女王の戴冠式。王女シュゼット(羽良悠里)は戴冠式を目前にして何者かの策略により塔に監禁されていた。ところがシュゼットを連れてきた騎士テオドール(華波蒼)までが何故か閉じ込められてしまう。塔内の薄暗い小部屋には、王国では絶滅したはずの林檎がひとつ置かれていて…
 脚本・演出/平野華子、作曲/内海治夫、振付/俵ゆり、平野華子。

 第一部のミュージカル・コメディ『囚われの林檎姫』はふたり芝居の密室劇。第二部はこれまでのストーリー・ショーを濃縮したエンターテインメント・ショーでした。
 オリジナルミュージカルの上演を続けている女性だけの劇団で、知人に前回公演に誘っていただいてあまりのクオリティの高さに失礼ながら仰天したのですが、今回も楽しかったです。
 ライブハウスのような会場で、最小限の小道具や照明といった装置でしたが、舞台はなんだってできるんですね。
 なんといってもまず脚本が素晴らしい。キャラクター、シチュエーション、設定、会話の楽しい掛け合いやジョーク、そしてドラマと、何もかもがちゃんとしていました。最初っから笑う気満々の観客がいてなんでもないところから笑いすぎたのにまず引いた私が、それでもすぐに自然に笑い出し、話に引き込まれるのに時間はまったくかかりませんでした。いやぁ本当に才能あるなあ、勉強させたいプロの歌劇団の座付き作家を何人も知ってるなあ。
 どうして王子と魔法使いの娘が入れ替えられたのかとか、だったら国を継いで王になるのは王子ではないのかとか、つっこみたくなくもなかったけれどおもしろかったからいいや。魔法使いの娘に生まれて王女として教育を受けたヒロインなんて、最強だからいいのです。王子に生まれて魔法使いに育てられても魔法は使えないし王になる教育も受けてない青年は、それでもいいヤツなので女王を支えて国を栄えさせていくことでしょう、多分(笑)。ふたりに幸あれ。
 劇団の主演であるふたりは、たとえば外見とか演技のスタイルとかが実はけっこう違って私には見えて、いつもなんかもったいないなと最初は思うのですが、最終的にはなんかハマって見えてこれもアリかと思えてくるのだから舞台って不思議なものです。またふたりとも、こんなに狭い空間で観客がすぐ近くにいて、でもちゃんとスイッチが入っていて役になりきっているし、ショーでは釣ることすらするのです! すごい。
 ショーもふたりだけで歌い踊りMCでつなぎ、もとのショーを知らなくても全然楽しくて、いい曲が揃っていてよく聴かせて、実によくできていました。
 今年は秋に本公演があるそうです、楽しみです!!

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宝塚歌劇雪組『ルパン三世/ファンシー・ガイ!』

2015年03月10日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 宝塚大劇場、2015年1月11日ソワレ、31日マチネ。
 東京宝塚劇場、2月24日ソワレ、3月5日ソワレ(新人公演)。

 現代のフランス。ヴェルサイユ宮殿では「マリー・アントワネットの首飾り」の展覧会が行われている。フランス史上に残る詐欺事件に使われ、その後行方不明になった首飾りが本物のダイヤモンドで復刻されたのだ。時価30億円に上る首飾りを手に入れようと宮殿を訪れたルパン(早霧せいな)、五ェ門(彩凪翔)、次元(彩風咲奈)の一行と同じく宮殿に忍び込んでいた不二子(大湖せしる)は、銭形警部(夢乃聖夏)と鉢合わせする。そして首飾りに手を触れた瞬間、一同はフランス革命前の1785年にタイムスリップしてしまう…
 原作/モンキー・パンチ、脚本・演出/小柳奈穂子、オリジナル作曲/大野雄二、作曲・編曲/青木朝子。雪組新トップコンビ、早霧せいなと咲妃みゆのお披露目公演。

 101周年の幕開きはたいそうな話題作で『エリザベート』以上のチケ難公演になり、まあ喜ばしいことです。初めて観に来たお客さんも多そうでしたし、楽しんでくれたらいいな、また来てくれたらいいな、と切実に思います。こういうお客さんを一度だけで逃がしちゃ駄目なんですからね劇団? ちゃんといろいろ考えてね?
 というワケで友会があまり当たらなかったり頼んだ取り次ぎがお断りだったりで、あまり回数を観ませんでしたが、私としては十分でした。イヤ楽しかったですけどね、でもね。
 キャラクターの再現率は素晴らしかったし、フランス革命期にタイムスリップというアイディアでいわゆるタカラヅカらしい世界との融合を図ったのは素晴らしかったと思いますが、個人的な好みとしてはややガチャガチャしすぎていて、私が考えるところの宝塚歌劇らしさに欠けていたかな、と感じました。ま、お祭り公演、ネタ公演としてはいいかな、という感じ。大入り満員なんだし新生雪組の船出としてはよかったと思いますし、雪組にはこの後の博多座での『星影の人』の再演、その次の本公演での上田久美子作品と洋々たる前途が準備されているので、当面は問題ないでしょうから、いいっちゃいいです。
 それでも言っておくべきだと私が考えたことについては、この場で言わせていただきます。ここはそういう場なので。すみませんね毎度うるさくて。

 まずなんと言っても、一見さん呼び込み企画にしては、池田理代子『ベルサイユのばら』および宝塚歌劇版『ベルばら』を知っていること前提の作りにすぎたことが私は気になりました。一般常識としては「フランス革命で王妃マリー・アントワネットはギロチンに」止まりで、首飾り事件なんて知らない人がほとんどではないでしょうか。私にしたって漫画での知識しかありませんが、アントワネットの偽者の扱いが漫画とは違いましたし、これは史実に準拠しているの? というか偽者を使ったのって史実なの? ロアン枢機卿(蓮城まこと)の名前の表記が漫画と違うのはよっぽどのこだわりで、だからこそ史実なりオリジナル解釈に基づく展開なのかなと思うのですが、だとしたらもっときちんとゼロから説明してほしいです。中途半端にアリモノに頼るのは甘えでしょう。
 演出的にも、鏡の回廊でポリニャック夫人(早花まこ)他、今回のストーリーにからむキャラクターをスターの顔見せとして台詞もなく舞台を横切らせるのは、誰が誰だかわからない一見観客にとってはまったくの謎であり無意味です。照明の当たり方も中途半端で、注目させられるよう誘導できているとも思えません。舞台にかけると間抜けなアニメBGを聞かされるだけの不可思議な時間になってしまっていました。そのあと彼らを再登場させて台詞つけて芝居させてますけど、なんでそこから始めないの? 狙いが意味不明でイライラしました。
 また、ルパンたち主要キャラクターは(ちなみにルパン三世はルパン一世の孫じゃなくてアルセーヌ・ルパンの孫なんじゃなかったっけ? 一世の孫が三世、なんてあたりまえのアタマ悪い台詞、書いてて恥ずかしくないのかななーこたん…)ぐるぐるものの基本として変化したり成長したりするわけにはいかないので、ドラマを担当するのはもっぱらアントワネット(咲妃みゆ)とカリオストロ(望海風斗)ですが、これがまた…
 アントワネットは、まあ、いい。無知は罪じゃないし反省してるし学習したみたいだしいい子だから助けてあげたい、というのは理解できるロマンだし、ルパンがアントワネットを救っても次元が言うようにフランス革命が起きないことにもならないし民主主義の時代もやってくるからそんなに歴史は変わらずタイムパラドックスも起きず大丈夫(なーこたんは次元に「アントワネットがいなかったらフランス革命もない」とか言わせてるけど、ルパンがアントワネットを処刑から救ってもアントワネットがいなかったことにはならないでしょ? てかこの時点ですでに革命は起きてるでしょ? なーこたんアタマ悪いの? 年貢がどうとかおもしろいジョーク言わせちゃったなーとか舞い上がってるんじゃないでしょうねバカなの? ちなみに冒頭でルパンたちが盗もうとした首飾りは行方不明のものを復刻したものだけれど、現代に戻ったときには歴史が変わってそれは最近発見された本物に変わっていて、SF者の私はニヤリとしましたけど、きっと多分おそらく絶対なーこたん的にはたまたま書いてますよねこの展開…がっくり)。トップコンビが恋愛未満の関係なのは私は残念ですが、意外によくあることですし、ルパンのキャラクターからいっても妥当な展開でよかったのでしょう。
 対してカリオストロは、変化パートを一身に担当しストーリーを背負いかつ美味しい儲け役です。組替えでやってきて今後は正二番手スターとなるのであろうだいもんが務めるにふさわしいポジションです。で、だいもん自身はそれに十分応えていたと思います。
 しかし私が引っかかったのは結局は脚本です。うかがいたいのですが、世間的に、辞書として、「錬金術師」「詐欺師」「魔術師」って、それぞれどういうことになっているんでしょうかね? そしてこの物語の中では、これらの言葉はどういう意味で使われているんでしょうかね?
 私は理屈っぽい人間だし出身学部は理系ですが高校理科の選択で化け学からはけっこう早く離脱してしまったので、元素周期表とか化学式とかを習ったときにはその仕組みの美しさに感動したものでしたが、もしかしたら化学の基本をよくわかっていないのかもしれません。そんな状態で言うのですが、しかし砂金からならともかく砂から金は作れませんよね? 無から有は作れませんよね? それが現代に生きる常識的な科学的思考を持った人間の共通理解ですよね? とすると砂から金が作れると主張する錬金術師とは、それを本当に信じているなら誇大妄想狂だし、そうでないなら嘘つきか、嘘だとわかっていてトリックつきで実演してみたりして人を騙す詐欺師、ってことですよね?
 ただこの時代にはまだそんなふうに金を作り出すことはできない、ということがわかっていなかったのかもしれません。とするとこの時代の「錬金術師」とは難しいことに挑戦するチャレンジャーとか真理を探求する尊敬すべき求道的研究者、みたいな意味があったのかもしれません。
 でも、そういう説明ナッシングでしたよね?
 そんな前提が不確定な状態で、「俺は錬金術師じゃない、詐欺師だ!」とか言われても(逆だったっけ?)、すみませんがその差は一体…?ということになって、そう叫ぶジュゼッペたんの心情に私は全然添えなかったんですよ。
 さらに彼がやらかすのは時を越える秘術ですよ、魔法ですよ。そもそもタイムスリップから始まる物語を喜んで観ていてなんですが、しかしタイムトラベルなんか簡単にできないどころか光速でウラシマ効果がね、程度の知識が常識として一応はある現代人からしたらまさに時間旅行なんて荒唐無稽なおとぎ話、ファンタジーなワケで、一線を越える問題なワケじゃないですか。魔法なんて存在しない殺伐とした現代社会に生きている我々ですよ?
 彼が差別され無視され苦労して死んだ師匠を実は尊敬していて、彼を認めなかった世間を恨み僻み、グレてスネて生きてきたのはわかるけれど、では彼が求めていたのはなんなの? 真実? 科学? 不老不死? 魔法? 名誉や栄耀栄華? さっぱりわからん。前提がきちんとしていれば、それをクリアしてさらに魔法というジャンピングボードに乗るジュゼッペたんに、やったねしてやったりだね!って拍手できるのに、そう流れていません。このフラストレーションが私には本当に気持ち悪かったのです。
 私は『アリスの恋人』はけっこう評価しているので、なーこたんはそろそろオリジナル修行に戻ったほうがいいと思っています。きちんとキャラクターとストーリーを作る練習をもっとしよう。でも次も『キャッチミー~』だね、クリエ版が楽しかったから作品には期待していますが、そういう仕事ばかりじゃクリエイターとして駄目になりますよ? 劇団ももっとちゃんと考えてあげて? ホント頼むよ、生徒だけじゃないよ座付き作家のことも大事なんだよ???
 TBS系列の製作だったため主題歌が使えなかった実写映画と違って、今回はきちんと楽曲使用の許諾が取れて、それだけで勝ったも同然ですし、どなたかも言っていましたが現実の男優が演じたらどのキャラクターも嘘くさくなるけれど、男役というのはそれだけでファンタジーなのでキャラクターになりきるのにぴったりというかフェーズが一緒というか、そういう不思議な利点もあって(だからかな、私がせしるの不二子に感心しなかったのは…やはり実在の女性が演じては成立しないキャラクターなのかもしれません)、企画として今回はいろいろ成功していました。
 何よりチギちゃんが素晴らしい。
 でもそういう企画ラッキーとか生徒の奮闘におんぶに抱っこじゃダメだろう、との苦言はあえて呈したいのでした。

 というワケでチギちゃんは素晴らしい。
 ゆうみちゃんも素晴らしい。しっとり深い甘いいい声で、キュートでチャーミングなアントワネットで。牢獄に至る経緯がうかがえて。相手役のアドリブにもよく合わせていて。
 だいもんも素晴らしい。本当にいい布陣になりましたね新生雪組は。
 ともみんも生き生きとやっているようで、私はたとえば『伯爵令嬢』のフランソワとかを演じるともみんが好きでしたが、まあこういう役で卒業するというのもともみんにしかできないことのようにも思えるので、よかったと思います。
 咲ちゃんナギショーもきっちり仕事して、せしるは私には前述の理由で物足りなかったけれどまあ健闘していたのでしょう。がおりにきんぐ、まなはるにほたて、大ちゃん、くらっち、よかったです。

 新公も拝見しました。
 ひとこは神本役のチギちゃんに比べればルパンというよりただののんきな青年でしたが、明るいオーラ、のひのびしたスタイル、甘く優しい歌声が良くて、初主演として上々だったと思います。
 星南のぞみちゃんは大劇場新公は酷評されていたようでしたが、本役によく似たいい声をしていて、それほど棒でもなく、健闘していたかと思います。例の被害者意識が強いセリフはゆうみちゃんよりストンと腑に落ちました。
 二度の主演経験があるれいこは落ち着いていましたし、本当に美人ですねー。美人すぎて私はあまり興味がないのですが(^^;)『メランコリック・ジゴロ』の次の再演はれいこひとこで観たかったよ、プレお披露目の中日公演とかでいいんだよアレは全ツ向きのネタじゃねえよてかまぁ様のキャラじゃねえ!!!(キレる)
 あすくんが上手くてカリが美しくて、新公はこれで卒業ですがどこかで主演させてあげたかったですよね残念です。
 まちくんがすらりんと素敵でした。あと妃華ゆきのちゃんは色っぽくて良かった(でもやっぱり不二子ではなかった)。彩みちるちゃんも芝居ができるようでこの先が楽しみ!
 マリー・ルゲイ(舞咲りん)の愛すみれはズバリ本役よりよかったな、だって歌詞が聞き取れたもん。ヒメ、やりすぎ気をつけたほうがいいよもったいないよ…
 友会のおかげで上級生席に近い良席が当たり、彼女たちの笑い声がよく聞こえて、幸せになれる観劇でした。

 さてでも、これ以上のリピートはもういいかな、と思ってしまったのは併演のファンタスティック・ショー(作・演出/三木章雄)がつらかったせいもあります。
 プロローグの黄色と紫の反対色が目に痛いのは目をつぶってもいい(高度なジョークだ)、というかこういうトンチキな色合いなんてタカラヅカショーの十八番で醍醐味みたいなものでもあるからかまいません。ただ材質がぺらっぺらで安っぽいのが許しがたいし、手拍子入れるには気持ち悪いテンポで人海戦術的にも中途半端なのが許しがたい。
 ファンシー・シリーズからの待望の再演というわりには場面の切り取り方が謎だし、選曲が古すぎるし、生徒の個性にも合っていないのが許しがたい。意味のない耽美はまさしく無意味です。
 中詰めがなくても楽しいショーはあるけれど、全体に平板で盛り上がりに欠けているのが許しがたい。バラエティショーでも楽しいものはたくさんあるけれど、都市めぐりというほどテーマが際立っていなくて散漫なのが許しがたい。世界的なテノールだろうがなんだろうが宝塚歌劇の舞台に男声を持ち込むのが許しがたい。
 私が何より嫌いなのがメスキータの場面で、プログラムはそういうタイトルでひとくくりだしセットが変わらないのでひとつながりの場面なんだと思うのだけれど、まったくもって場面の意味がわからないことが本当にイヤです。考えるな、感じろ、それがショーだ!ということなのかもしれませんが。
 あとともみんにはエトワールなんかじゃなくロケットボーイなんかじゃなく、ちゃんとセンターの場面をひとつ作ってあげてほしかったです。それが上級生の卒業への餞というものでしょう。ずっとだいもんとシンメかチギともだいもんの1,2,3ってなんなんだよひどすぎるよ。
 ゆうみちゃんの使われなさ加減も本当に許しがたい。そもそも全体にこのショーの雰囲気が新生雪組に似合っていなさすぎます。
 もっと普通に、この新トップコンビのお披露目ショーとして、明るくて楽しくてラブラブなものが作れたでしょうミキティ? どうしちゃったの? 何がしたかったの?
 博多座バージョンはがっさり改変されるといいな…歌がだいもん頼りだったところは変えざるをえないし、歌えるヤングスターは他にもたくさんいますよもっと生徒を見て! お稽古場を見て!! レッスン見て!!!
 ショー作家ももっと入れましょう、というか若手はショーもまずは作らせましょう。宝塚歌劇の基本ですよ。ミュージカルはよそでもやっています、ショーやレビューがダメになるなら宝塚歌劇もまたダメになるということですよ。
 101年以降も続けたいのなら、もっと考えて! 力入れて!! 生徒があんなにがんばっているのに、ファンがこんなに支えているのに、甘えてる場合じゃないですよ劇団!!!
 …チギちゃんを見習って(嘘)、ちょっと熱く語ってみました。こんなシメですみません、口うるさくてすみません。


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想像の翼

2015年03月03日 | 大空日記
 大空さんの「表現者ノマド~演じること、物語ること~」の第三回を観覧してきました。ゲストは漫画家の美内すずえ先生。
 ところでこれって観覧というのはヘンなのかな、講座だから受講、かな? 参加、ではない気がします。
 でも第一回も観ましたが、クリエイター同士がお酒でも呑んで、でも真面目な話をしている会合?を、ちょっとだけオフィシャルな形にして横から覗き見させてもらっているような、なんかそんな感じなんですよね毎回。単なる対談とかトークショー、というのとは違う空気を感じます。それはホストの「俳優・大空祐飛」の手腕なのかもしれません、もしかしたら。
 というワケで今回は、言わずと知れた演劇漫画の傑作『ガラスの仮面』の作者がゲスト。大空さんてばどアタマから「女の子なら誰でも…」と始めて一瞬固まりました。確かに会場は女性が多かったけれど男性もいないことはなかったし、50になっても60になっても女子は女子という今の風潮から考えても「女の子」と呼ぶのはさすがに…という妙齢以上の女性が大半でしたからね(^^;)。
 まあでもとにかく、読んだことがない人はいないとまでは言わないけれど、その存在は大半に知られているであろう少女漫画作品です。大空さんは入団前くらいにその頃刊行されていた分くらいはコミックスで読んでいて、あとはわりに最近、アタマから最新巻までを一気読みして「なんておもしろいんだ!」となったそうです。また美内先生とは、美輪明宏の舞台を観劇したときに席が偶然お隣だったり、児玉先生が演出した『女海賊ビアンカ』(ご存じ『ガラスの仮面』の劇中劇を舞台化したもの)を観劇したときも席がお隣で児玉先生に紹介してもらったり、といったご縁があったそうです。大空さんの宝塚歌劇団卒業後第一作『滝の白糸』を演出した蜷川先生も、かつて舞台『ガラスの仮面』を演出しましたしね。ちなみに私は去年のG2演出の舞台は観ました、おもしろかった!!
 私自身は、マヤより幼い頃から、おそらくまだコミックスが数巻しか出ていなかった頃から読み始めて、しばらくは最新巻が出るたびに買って全巻保有していました。引っ越しか何かのときに手放して、真澄さんより年上になってから知人に借りてそれまでの巻を一気読みし、その後は続巻が出るたびにその友人から借りて読んでいます。雑誌では追いかけていません。不定期連載で掲載されたりされなかったりしているし、最近の美内先生は雑誌に掲載した原稿をコミックス収録時にほとんど描き直して、話も変えてしまうからです。
 今回の美内先生の話によればラストは20年くらい前から決まっているそうですが、だったらさっさと描こうよそろそろもう煮詰まりすぎよ、というくらい話が進みきっているので、マジでちゃんと近々完結させていただきたいです。『王家の紋章』は延々グルグル同じことやってて完結しないまま作者逝去とかになっても仕方がないしそれでもいいと思えますが、『ガラスの仮面』はそういうタイプの作品ではありません。ちゃんとストーリーがあるんだから、オチをつけるのは作者の義務です。読者を裏切らないでいただきたい、と切に願っています。
 でもそんなワケででは私がものすごくディープで熱心なファンかというとそんなこともなくて、たとえば美内先生が大阪出身だということも知りませんでしたし、貸し本漫画を読んで育って賃料がかさんで親に止められたので自分で漫画を描き始めた、なんてエピソードも今回初めて知りました。しゃべりの楽しい、明るいおばさまでした。
 自分で描いたら描けて、読んだクラスメイトに好評で、先生に「漫画家になれ」って言われてその気になって…というのは、すごくわかるなあ、と思いました。私も字が読めるようになった頃から漫画を読んで育ち、自分でも描いていました。B4の画用紙帖を横長に置いて真ん中で分けて見開きに見立てて、鉛筆描きでコマを割ってストーリーものを何冊も何冊も描いていました。私はクラスメイトに読ませるようなことはしなかったけれど。同様に文章を書くのも好きで、国語の授業の作文なんかお手のもの、これはかなり成績に貢献したと思うなあ。自前の小説は教室の中で回し読みされたりしましたかね。
 そんな小学四年生のある日、私はある一冊の本に出会いました。鈴木光明『少女まんが入門』(白泉社)です。担任の先生の親戚が白泉社で描いている漫画家さん…だったのだと思います、よく覚えていないのですが。この本に従って私はペン先だの墨汁だのケント紙だのの道具を揃えて、本格的な漫画原稿制作に取りかかるようになったのでした。
 しかもこの頃、白泉社は、というかおそらく花とゆめ編集部は、表参道のとあるビルの一室に漫画家志望の少女たちを集めて、漫画の描き方講座みたいなものを開いていたのです。有料で週一回、全10回、生徒数20名、みたいな。
 春先だけだったのかなあ、よく覚えていないのですが、私はそこに2タームほど参加したことがあるのです。まだ中学校に上がる前とかで、クラスの最年少でした。初めてひとりで電車に乗って、乗り換えを間違えないか気が気でなくて大緊張した記憶があります。
 おそらく美内先生はその講座に講師としていらしたことかあるはずです。私が受講したかどうかはまったく記憶がないのですが。当時クラスでもらった複製原画は今も実家に残してあると思います。
 ことほどさように私は正しいオタクな漫画少女で、この『少女まんが入門』は長らく私のバイブルでした。というか私はその後何度か投稿してすぐ、プロの漫画家になることをあっさりあきらめ、代わりにといってはなんですが出版社に就職し、本当は雑誌記者みたいな仕事がしたかったのに何故か漫画誌の編集部に配属されて(就職試験の面接で漫画の話しかしなかったのだから当然だと今は思う)漫画編集者になったのですが、この本はバイブルであり続けました。実によく出来た本で、今でも十分通用する内容だと思っています。
 この本の中で、ストーリーもののプロローグの優れた例として『ガラスの仮面』連載第1話の冒頭部分が紹介されています。そんなもろもろの深い印象や顛末があって、今回のノマドに私はいそいそと出かけたのでした。ちなみに私は美内先生とお仕事をしたことはありません。

 話は本当におもしろかったです。漫画家は自分が描いているキャラクターになりきってその絵を描くので、泣いているキャラクターを描くときは泣き顔になるし怒っているキャラクターの絵を描くときは怖い顔になっている、とか、「わかるわかる!」とか思いました。自分もそうだったし、自分が担当させていただいてきた漫画家さんもみんなそうでした。そうやって作品を描きながらキャラクターたちの人生を生きているようなところがあるので、漫画家は演目の中で役を生きる役者みたいなものなのかもしれない…というのも、すごくおもしろいなと思いましたしその感覚はわかるな、と思いました。
 短いページ数の作品でも数人、長い作品になれば何十人とキャラクターを生み出し、作品に表さない部分の全人生も考え出してしまうくらいのパワー、それが想像力です。そしてそれをこそ、才能というのです。美内先生がズバリそう言ったとき、私は目ウロコでした。
 漫画ならどんなに絵が上手くても、小説ならどんなに文章が上手くても、原稿のアタマ数ページを見ただけで書き手の才能のあるなしがわかる。それは結局、作品にはその人が世界を、人間をどう捉えているかが表れてしまうからで、その人が大きな想像の翼を持っていて多様なキャラクターの生き様を想像できて広い世界を想像できていると、その作品はおもしろく、冒頭だけでもそれが窺えるのです。想像力がない人が知っていること、自分が考えられることだけで作った作品は、狭く浅くつまらない。才能とは、想像力なのです。そしてそれがあるかどうかはもう、生まれつきなのでした。
 同じ寝物語を聞いて育ち、同じ本を読んで育っても、そこから大きな想像の翼を生やせる者とそうでない者とがいる。それはもう、生まれつき足が速い人がいるとか泳ぎが上手い人がいるとかと同じことで、誰にもどうしようもないことなのです。
 編集者時代に、担当した作品に対してここを生かすためにはここをこうしたらいいとか、こう直した方がここのつじつまが合うとか、そういう助言はたくさんしてきたけれど、おもしろくないものはどう直してもおもしろくないままで、でも何がどうダメなんだろうとか悩んだものでしたが、やっとわかりました。想像力は天性のものであり、才能のあるなしは残念ながら誰にもどうにもできないものなのです。多少でもあれば、鍛えたり伸ばしたりということはできるのでしょう。でもないものはないのです。
 編集者は才能ある作家に対して、助言したり支援したり、プロデュースしたりご馳走したり、刺激を与えたり休ませたり、とにかくいろんなことをして全力でサポートしますが、ない才能にできることは残念ながらないのでした。
 美内先生が言った「想像の翼」という言葉は、『赤毛のアン』にあった言葉だそうです。少女小説というかジュブナイル文学、ビルドゥングスロマンの傑作ですね。アンはいつでも想像の翼を羽ばたかせて、広い世界を旅していました。美内先生もそうやって、マヤや亜弓、真澄さんや月影先生始めたくさんのキャラクターを生み出し、その人生を紡ぎ出し、その物語を漫画の形に仕立てている。漫画を描きながら、キャラクターになりきり、その人生を追体験するかのようにして生きている。それは役者が舞台で役になりきり役を生きるのと同じなのかもしれない。自分が知らない、経験したことのない時代や世界に生きる役でも、想像力があればその人間になれる、演じられる、それが優れた役者です。滑舌とか身のこなしとか、そういうことは漫画でいう画力とかと同じで、鍛えれば上手くなるテクニックにすぎず、それより何より肝要なのが想像力のあるなしなのです。それを才能と呼ぶのです。
 大空さんは次回作『死と乙女』で、独裁政権下に生きたことも拷問を受けたこともないけれど、ヒロイン・ポーリナを演じます。大きな想像の翼を広げて、ポーリナの人生を想像し、シンクロし、表現する。楽しみです。
 才能のある者同士は響き合い、違うジャンルで仕事をしていてもすぐに通じ合えるのでしょう。そのトークがおもしろくないわけがなく、そんな貴重なものを観覧させてもらえるこの企画は、なんて贅沢でありがたいものかとしみじみ思います。次回の人選も楽しみですし、都合がつく限り観覧したいです。自分にもちーっちゃいけれど想像の翼がなくもないかなそれとも幻想かなとか思っているごくごく平凡な人間であると私としては、自分では飛べないような大きな空を見せてくれる人には憧れないではいられないのです。そういう意味でも、やっぱり大空さんは私にとって特別な人なのでした。


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