シアタークリエ、2015年3月19日ソワレ(初日)、20日ソワレ、24日ソワレ、28日マチネ、ソワレ(千秋楽)。
軍事独裁政権が崩壊して間もない、南米のとある国。かつて学生運動に参加していたポーリナ(大空祐飛)は、独裁政権下で監禁され拷問を受けた記憶に今も苛まれていた。深夜、海辺の別荘で夫の帰りを待っていると、見知らぬ車が停まり、弁護士である夫のジェラルドー・エスコバル(豊原功補)が降りてくる。車がパンクし、通りがかりの車に送ってもらったのだという。ジェラルドーは独裁政権の罪を暴き真相を究明する、新政府の査問委員会のメンバーに指名されたとポーリナに伝える。そこへ扉を叩く音。ジェラルドーを車で送った医師ロベルト・ミランダ(風間杜夫)が戻ってきたのだ。夫と話すロベルトの声を聞いたポーリナは確信する、彼こそシューベルトの四重奏曲「死と乙女」をかけながら自分を拷問した男だと…
作/アリエル・ドーフマン、翻訳/青井陽治、演出/谷賢一、美術/土岐研一、照明/齋藤茂男、衣装/前田文子。1991年初演、94年日本初演。ハリウッド映画化もされている。全2幕(戯曲では3幕)。
日本では何度か上演されているそうで、風間杜夫がジェラルドーに扮した公演は、たとえばこちらなど。
事前にお友達から戯曲のコピーをもらえたので、読んでみました。私は戯曲を読むことには苦手意識があったのですが、これは読みやすかったです。おもしろかった。
ただ、ラストがよくわからなかったのですね。ラストというか、事件の真相が。ズバリ言えば結局のところ、ロベルトがポーリナの拷問に関わった医者だったのかどうか、という点について、ということです。
私は、舞台としては真相がわからないように演出されるのだとしても、台本には真実(と作者がすること)が明記されているものだと思っていたのです。だって私だったらわかった上ででないとやれないもん、と思ってしまった。
でもこの戯曲にはそれは書かれていないのでした。ポーリナ自身も実は自分の記憶に確信が持てなくて、だから証言に嘘を紛れ込ませたのだ、と終盤に語るような展開になっている。だから私は混乱しました、これは結局どういう物語なの?と。
で、実際の舞台を観てみればわかるということなのだろうか…と、不安半分、楽しみに劇場に出かけました。観劇前にある程度の予備知識を持つことは多いけれど、戯曲そのものを読めることはなかなかないので、ちょっと変わった経験になりました。
で、結論から言うと実は初日は、私はどうも受け取れきれなかったのでした。
まずなんとなく、実際の舞台を戯曲の答え合わせみたいに観てしまったことがひとつ。あの台詞はこんなニュアンスで言われることになったのかなるほど、とか、あの流れはこういうアクションで表現されることになったのか、とかいろいろ考えてしまって。
また、私の初日の席が上手ブロック通路際で、最後にジェラルドーが立つちょうどその脇であり、のちにポーリナが現われても彼の背中に隠れてしまって、まして表情などまったく見えない席でした(これは問題があると思う。最後にはふたりは舞台に向かって佇んで終わるにしても、まずは最前列間際に客席に向かって立ってその表情をすべての観客に見せるべきではなかろうか)。そして彼らが邪魔になったのか、本舞台の幕が再び上がって別荘のリビングダイニングが現われたときも、テラスのポーリナに私は気づきませんでした。つまり私はこの舞台のラストが、ふたりが空っぽの部屋を眺めて終わる形に改変されたのだと思ったのです。それでけっこう混乱したのでした。
戯曲ではラストはコンサート会場を思わせ、客席を映す鏡を出したり、そこに幻影らしきロベルトが現れてポーリナとだけ目を見交わす、というようなものでした。なので、あれれれれ?と思ってしまったのですね。
かつ暗転後、暗い中で豊原さんが大空さんをエスコートして舞台に上がらせようとしているのが私の席からはよく窺えて、そうしたら風間さんが下手袖から舞台に出てきてラインナップになったので、ああこれで終わりか、とあわてて拍手する、みたいな感じになってしまいまして。
それで、戯曲の方がいいなあ、何故変えちゃったのかなあ、どういう意味なのかなあ、と考えたりしたのでした。
すぐ翌日の観劇で、ラストのふたりの表情も見えればテラスのポーリナの姿にも気づく、となって初めて私は、ああ、この方がいいな、と納得できました。全体の演技も初日の硬さが取れてメリハリがつき、より鮮やかになって物語が立ち上がってきたと思いましたし、いい芝居だな、いい作品だな、と素直に思えました。
そしてこの回の観客に、やたらと笑いを漏らす男性がいたことで、フェミニズム的にもいろいろ考えられて、またおもしろかったりしたのでした。
「私なら、どうするだろうか?」
そう思いを馳せてもらいたい、と演出家はプログラムで語っていました。笑っていた男性客は後半では静かになっていましたが、彼の胸にこの思いは去来したのでしょうか?
私はこの舞台は復讐の物語ではないと思っています。ポーリナが求めていたものは復讐ではないと思っているのです。復讐なんかでは得られないものを彼女は欲していたのだと思うのです。あるいは、復讐以上にして復讐以前のもの、とでもいうか…
それを誰かが彼女に与えられたとき、寄せては返す波のように彼女が繰り返してきた、あるいは繰り返すのであろうこの「復讐のように見えてしまう行為」は終わるのだと思うのだけれど、ではそれを与えられる者がはたしてこの世にいるのだろうか、という絶望的な境地に、この男性観客の笑い声は私を追い込んでくれました。
私は、ポーリナが求めていたものとは、「正当な扱い」だったと思います。
何人たりとも、なんの言われもなく他人に侵されることがあってはならない。時代や国によってもしかしたら多少の制限がかかるにしても、これは基本的にはごくごくまっとうな、基本的人権のひとつではないでしょうか。人には等しく尊厳があり、みんなが互いを尊重してい生きていくべきではないでしょうか。仮にも文明国であるならば。たとえ理念だけだとしても。
女は男より肉体的に弱いかもしれない。だからといって痛めつけていいということには絶対にならない。まして強い男が力で何か強いていいということなど絶対にない。強いのであればその力をセーブする責任が力の持ち主にはあるのです。そうして万人が対等に対峙し合わなければならない。それが正当に対するということです。
なのに何故「いつも、私たちが譲歩しなければならないの」「何故、いつも、私は、歯を食いしばって耐えなくてはならないの」か? 肉体的に弱いからというだけの理由で? 女だからというだけの理由で?
嫌だ。「今度は嫌」だ。だから実験してみる。一矢報いてみたら何が起きるのか?「何を私たち何を失うの、奴らの一人を殺したからと言って?」やってみてもいいはずだ、やってみなければわからない。試してみるくらいの権利はあるはずだ。世界が私に優しくないなら私だって世界に優しくしてやる必要はないはずだ。ポーリナの行動はそういうことではないでしょうか。
それを甘えだと糾弾できる者がいるでしょうか? 罪なき者がいるなら彼女に石を投げるがいい。観劇して笑うがいい。
こうしたことがすべて実は無益だとポーリナだってわかっているのです。復讐がなされても何も修復されない。弱すぎる者は復讐すらできず、犠牲になり、皺寄せを被る。そういうことでしか復讐の連鎖は止まらない。
だから本当に必要なことは、そもそもの事件を起こさないことなのです。ひとたび事件が起きたら復讐の連鎖は続くし、その連鎖が止まるには常に弱き者に皺寄せが行くことになる。それは不当なことです。
だからそもそも事件を起こしてはいけないのです。なのに事件を起こすのは常に常に常に男なのです。
ロベルトがその医者であろうとなかろうと、あんなふうに開き直るのではなく、ただ謝ってくれたらよかったのに。全男性を代表して謝ってくれたらよかったのに。男は男であるだけで女に対し脅威であると認め、それを申し訳ないことだと当の男としても思っているのだと認めてくれたら、女は少しは救われるのに。女はただ男と対等に、まっとうに、正当に扱ってもらいたいだけなのに。
でも女が何を望んでいるかを気にしてくれる男はほとんどいません。女に意思や希望、脳味噌、心があることに思い至る男はいたって少ない。ロベルトは謝らないし、観客の男性は我関せずみたいにこの舞台を観て笑う。この、男が男であることの罪の無自覚さたるや。そのことへの女の絶望感たるや…!
それでも女は男を愛しているから、だから男に、世界につきあってやっているのだと、そろそろ気づいた方がいいですよ男たちよ? 女が男を見捨て世界を見捨てたときに世界は確かに終わるのです。女は自分たちがその力を持っていることを知っています、だからその力を賢くも行使しないのできたのです今まで。男たちが愚かにも無自覚にその腕力を振るってきたのとは大違いです。
つきあってもらっているうちが花ですよ。男たちよ、まずはあなたの女の顔を見なさい、話を聞きなさい。「ああしろ、これはいかんと」「指図する」のではなく、あれをしろこれはダメと命令だの強制だのするのではなく、ただ話を聞きなさい。あなたたちは椅子に縛り付けられでもしないとおとなしく女の話が聞けない生き物です。でも世界を失いたくないならそろそろ考えた方がいい。自分から座りなさい。
ジェラルドーは本当はポーリナから逃げたいと思っているのかもしれない。でもポーリナがジェラルドーを事態につきあわせてやってあげている部分があるのです。ポーリナがジェラルドーを解放したらジェラルドーは一瞬楽になれるのかもしれませんが、その次の瞬間に世界丸ごとが終わるのです。
男は自分たちが世界を回していると思っているか、自分が誰かに回させていると思っているのでしょう。しかし世界を回しているのは実は女なのです。確かに回させられているのかもしれない、でも彼女たちがやめたら世界は終わる。ただそれだけのことです…
大空さんが卒業後に演じた中ではポーリナという役は最も女っぽいというか、普通の女の人っぽかったかもしれません。『La Vie』のタマラは女性性というよりは芸術家としての側面の方が強かった役のようにも思うので。けれど石田えり、余貴美子と並べると、ポーリナを演じた女優さんとしては大空さんは最も女っぽくないタイプだったでしょうね。
舞台は全体に大空さんの良くも悪くも持ち味である乾いて硬質な感じにトーンを上手く合わせていたと思います。もっと泥臭く生々しく、組んずほぐれつの暑苦しい舞台にすることもできたと思うけれど、現代の商業演劇として見せるにはそれはけっこうしんどかったと思うので、そういう意味でもいいキャスティングであり、おもしろい舞台に仕上がったのではないでしょうか。
照明が美しく、印象的でした。スターの顔をはっきり見せることに特化したライトに慣れた私にですら、その繊細な効果は感動的でした。逆にポーリナがロベルトを縛り上げるときの効果音など、音響はナゾのところがあったかな…
ともあれ、いい作品でした。いいお仕事でした。
軍事独裁政権が崩壊して間もない、南米のとある国。かつて学生運動に参加していたポーリナ(大空祐飛)は、独裁政権下で監禁され拷問を受けた記憶に今も苛まれていた。深夜、海辺の別荘で夫の帰りを待っていると、見知らぬ車が停まり、弁護士である夫のジェラルドー・エスコバル(豊原功補)が降りてくる。車がパンクし、通りがかりの車に送ってもらったのだという。ジェラルドーは独裁政権の罪を暴き真相を究明する、新政府の査問委員会のメンバーに指名されたとポーリナに伝える。そこへ扉を叩く音。ジェラルドーを車で送った医師ロベルト・ミランダ(風間杜夫)が戻ってきたのだ。夫と話すロベルトの声を聞いたポーリナは確信する、彼こそシューベルトの四重奏曲「死と乙女」をかけながら自分を拷問した男だと…
作/アリエル・ドーフマン、翻訳/青井陽治、演出/谷賢一、美術/土岐研一、照明/齋藤茂男、衣装/前田文子。1991年初演、94年日本初演。ハリウッド映画化もされている。全2幕(戯曲では3幕)。
日本では何度か上演されているそうで、風間杜夫がジェラルドーに扮した公演は、たとえばこちらなど。
事前にお友達から戯曲のコピーをもらえたので、読んでみました。私は戯曲を読むことには苦手意識があったのですが、これは読みやすかったです。おもしろかった。
ただ、ラストがよくわからなかったのですね。ラストというか、事件の真相が。ズバリ言えば結局のところ、ロベルトがポーリナの拷問に関わった医者だったのかどうか、という点について、ということです。
私は、舞台としては真相がわからないように演出されるのだとしても、台本には真実(と作者がすること)が明記されているものだと思っていたのです。だって私だったらわかった上ででないとやれないもん、と思ってしまった。
でもこの戯曲にはそれは書かれていないのでした。ポーリナ自身も実は自分の記憶に確信が持てなくて、だから証言に嘘を紛れ込ませたのだ、と終盤に語るような展開になっている。だから私は混乱しました、これは結局どういう物語なの?と。
で、実際の舞台を観てみればわかるということなのだろうか…と、不安半分、楽しみに劇場に出かけました。観劇前にある程度の予備知識を持つことは多いけれど、戯曲そのものを読めることはなかなかないので、ちょっと変わった経験になりました。
で、結論から言うと実は初日は、私はどうも受け取れきれなかったのでした。
まずなんとなく、実際の舞台を戯曲の答え合わせみたいに観てしまったことがひとつ。あの台詞はこんなニュアンスで言われることになったのかなるほど、とか、あの流れはこういうアクションで表現されることになったのか、とかいろいろ考えてしまって。
また、私の初日の席が上手ブロック通路際で、最後にジェラルドーが立つちょうどその脇であり、のちにポーリナが現われても彼の背中に隠れてしまって、まして表情などまったく見えない席でした(これは問題があると思う。最後にはふたりは舞台に向かって佇んで終わるにしても、まずは最前列間際に客席に向かって立ってその表情をすべての観客に見せるべきではなかろうか)。そして彼らが邪魔になったのか、本舞台の幕が再び上がって別荘のリビングダイニングが現われたときも、テラスのポーリナに私は気づきませんでした。つまり私はこの舞台のラストが、ふたりが空っぽの部屋を眺めて終わる形に改変されたのだと思ったのです。それでけっこう混乱したのでした。
戯曲ではラストはコンサート会場を思わせ、客席を映す鏡を出したり、そこに幻影らしきロベルトが現れてポーリナとだけ目を見交わす、というようなものでした。なので、あれれれれ?と思ってしまったのですね。
かつ暗転後、暗い中で豊原さんが大空さんをエスコートして舞台に上がらせようとしているのが私の席からはよく窺えて、そうしたら風間さんが下手袖から舞台に出てきてラインナップになったので、ああこれで終わりか、とあわてて拍手する、みたいな感じになってしまいまして。
それで、戯曲の方がいいなあ、何故変えちゃったのかなあ、どういう意味なのかなあ、と考えたりしたのでした。
すぐ翌日の観劇で、ラストのふたりの表情も見えればテラスのポーリナの姿にも気づく、となって初めて私は、ああ、この方がいいな、と納得できました。全体の演技も初日の硬さが取れてメリハリがつき、より鮮やかになって物語が立ち上がってきたと思いましたし、いい芝居だな、いい作品だな、と素直に思えました。
そしてこの回の観客に、やたらと笑いを漏らす男性がいたことで、フェミニズム的にもいろいろ考えられて、またおもしろかったりしたのでした。
「私なら、どうするだろうか?」
そう思いを馳せてもらいたい、と演出家はプログラムで語っていました。笑っていた男性客は後半では静かになっていましたが、彼の胸にこの思いは去来したのでしょうか?
私はこの舞台は復讐の物語ではないと思っています。ポーリナが求めていたものは復讐ではないと思っているのです。復讐なんかでは得られないものを彼女は欲していたのだと思うのです。あるいは、復讐以上にして復讐以前のもの、とでもいうか…
それを誰かが彼女に与えられたとき、寄せては返す波のように彼女が繰り返してきた、あるいは繰り返すのであろうこの「復讐のように見えてしまう行為」は終わるのだと思うのだけれど、ではそれを与えられる者がはたしてこの世にいるのだろうか、という絶望的な境地に、この男性観客の笑い声は私を追い込んでくれました。
私は、ポーリナが求めていたものとは、「正当な扱い」だったと思います。
何人たりとも、なんの言われもなく他人に侵されることがあってはならない。時代や国によってもしかしたら多少の制限がかかるにしても、これは基本的にはごくごくまっとうな、基本的人権のひとつではないでしょうか。人には等しく尊厳があり、みんなが互いを尊重してい生きていくべきではないでしょうか。仮にも文明国であるならば。たとえ理念だけだとしても。
女は男より肉体的に弱いかもしれない。だからといって痛めつけていいということには絶対にならない。まして強い男が力で何か強いていいということなど絶対にない。強いのであればその力をセーブする責任が力の持ち主にはあるのです。そうして万人が対等に対峙し合わなければならない。それが正当に対するということです。
なのに何故「いつも、私たちが譲歩しなければならないの」「何故、いつも、私は、歯を食いしばって耐えなくてはならないの」か? 肉体的に弱いからというだけの理由で? 女だからというだけの理由で?
嫌だ。「今度は嫌」だ。だから実験してみる。一矢報いてみたら何が起きるのか?「何を私たち何を失うの、奴らの一人を殺したからと言って?」やってみてもいいはずだ、やってみなければわからない。試してみるくらいの権利はあるはずだ。世界が私に優しくないなら私だって世界に優しくしてやる必要はないはずだ。ポーリナの行動はそういうことではないでしょうか。
それを甘えだと糾弾できる者がいるでしょうか? 罪なき者がいるなら彼女に石を投げるがいい。観劇して笑うがいい。
こうしたことがすべて実は無益だとポーリナだってわかっているのです。復讐がなされても何も修復されない。弱すぎる者は復讐すらできず、犠牲になり、皺寄せを被る。そういうことでしか復讐の連鎖は止まらない。
だから本当に必要なことは、そもそもの事件を起こさないことなのです。ひとたび事件が起きたら復讐の連鎖は続くし、その連鎖が止まるには常に弱き者に皺寄せが行くことになる。それは不当なことです。
だからそもそも事件を起こしてはいけないのです。なのに事件を起こすのは常に常に常に男なのです。
ロベルトがその医者であろうとなかろうと、あんなふうに開き直るのではなく、ただ謝ってくれたらよかったのに。全男性を代表して謝ってくれたらよかったのに。男は男であるだけで女に対し脅威であると認め、それを申し訳ないことだと当の男としても思っているのだと認めてくれたら、女は少しは救われるのに。女はただ男と対等に、まっとうに、正当に扱ってもらいたいだけなのに。
でも女が何を望んでいるかを気にしてくれる男はほとんどいません。女に意思や希望、脳味噌、心があることに思い至る男はいたって少ない。ロベルトは謝らないし、観客の男性は我関せずみたいにこの舞台を観て笑う。この、男が男であることの罪の無自覚さたるや。そのことへの女の絶望感たるや…!
それでも女は男を愛しているから、だから男に、世界につきあってやっているのだと、そろそろ気づいた方がいいですよ男たちよ? 女が男を見捨て世界を見捨てたときに世界は確かに終わるのです。女は自分たちがその力を持っていることを知っています、だからその力を賢くも行使しないのできたのです今まで。男たちが愚かにも無自覚にその腕力を振るってきたのとは大違いです。
つきあってもらっているうちが花ですよ。男たちよ、まずはあなたの女の顔を見なさい、話を聞きなさい。「ああしろ、これはいかんと」「指図する」のではなく、あれをしろこれはダメと命令だの強制だのするのではなく、ただ話を聞きなさい。あなたたちは椅子に縛り付けられでもしないとおとなしく女の話が聞けない生き物です。でも世界を失いたくないならそろそろ考えた方がいい。自分から座りなさい。
ジェラルドーは本当はポーリナから逃げたいと思っているのかもしれない。でもポーリナがジェラルドーを事態につきあわせてやってあげている部分があるのです。ポーリナがジェラルドーを解放したらジェラルドーは一瞬楽になれるのかもしれませんが、その次の瞬間に世界丸ごとが終わるのです。
男は自分たちが世界を回していると思っているか、自分が誰かに回させていると思っているのでしょう。しかし世界を回しているのは実は女なのです。確かに回させられているのかもしれない、でも彼女たちがやめたら世界は終わる。ただそれだけのことです…
大空さんが卒業後に演じた中ではポーリナという役は最も女っぽいというか、普通の女の人っぽかったかもしれません。『La Vie』のタマラは女性性というよりは芸術家としての側面の方が強かった役のようにも思うので。けれど石田えり、余貴美子と並べると、ポーリナを演じた女優さんとしては大空さんは最も女っぽくないタイプだったでしょうね。
舞台は全体に大空さんの良くも悪くも持ち味である乾いて硬質な感じにトーンを上手く合わせていたと思います。もっと泥臭く生々しく、組んずほぐれつの暑苦しい舞台にすることもできたと思うけれど、現代の商業演劇として見せるにはそれはけっこうしんどかったと思うので、そういう意味でもいいキャスティングであり、おもしろい舞台に仕上がったのではないでしょうか。
照明が美しく、印象的でした。スターの顔をはっきり見せることに特化したライトに慣れた私にですら、その繊細な効果は感動的でした。逆にポーリナがロベルトを縛り上げるときの効果音など、音響はナゾのところがあったかな…
ともあれ、いい作品でした。いいお仕事でした。