駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇星組『オーム・シャンティ・オーム』

2017年07月29日 | 観劇記/タイトルあ行
 梅田芸術劇場、2017年7月24日13時。

 1970年代のインド映画界。エキストラ俳優のオーム・プラカーシュ・マキージャー(紅ゆずる)は人気女優のシャンティプリヤ(綺咲愛里)に恋心を抱いていた。いつか必ずスターになって君を迎えに行くというオームの夢を、親友のバップー(麻央侑希)と母ベラ(美稀千種)は応援していた。ある日の撮影現場で火事が起き、火に囲まれたシャンティを危険を顧みずに救い出したオームだったが…
 脚本・演出/小柳奈穂子、作曲・編曲/青木朝子。2007年に大ヒットしたインド映画を今年1月にミュージカル化したものの再演。全2幕。

 初演の感想はこちら。もう半年か、早いなあ!
 当時もあのゴージャスで楽しい狂乱の映画をうまいこと舞台化したなとは思いましたが、やや平板に見えることやちょっと間延びして感じられること、役がどうにも少なくて残念だったことは引っかかっていました。今回もほぼほぼ大きな修正はなかったと思うので、せめてれなちゃんがバップーをやってまおくんがリシ(十碧れいや)をやる、とかがあってもよかったのかもしれません。主役ふたりはママとして、初演も再演も出演するスターがまた同じ役をやるのはちょっとつまらないんじゃないかな、と思ったので(これは博多座『王家』で主要スターのうちりんきらのみが役続投だったときにも言いましたが)。長くやって役を深めてどうこう…というタイプの芝居ではないだけにね。
 逆に言うと、役が替わったかいちゃんのムケーシュ(七海ひろき)とかまおくんのバップーとかみっきーのオーム父とかせっきーのリシ父とかがやはり見どころになっているワケじゃないですか。私はれなちゃんが好きなだけに、ちょっと残念に感じたのでした。
 あと、やっぱり初演と比べてしまうこともあるのかもしれませんが、当時のせおっちには良くても今のまおくんにはやっぱりバップーは役不足なんじゃなかろうかとか、超絶スタイルが持てあまし気味で悪目立ちしているんじゃないかとか、こちらは私は特にファンではないのですが(すみません)ちょっと心配になりました。劇団はこのスターを今後どう扱うつもりなんだという、ね…30年後のロマンスグレーっぷりはかなり素敵だったけれど、そういうことを求められている役でもないしさ。
 オーム父にしても、前回がしーらんで今回がみっきーという贅沢さかつ圧倒的な役不足ぶりに若干引きますよね。ホントもったいない…
 前回は東京でしか公演が組めなかったから関西でも上演したいとか、権利が買えたんだから期限内に何度も上演して稼ぎたいとか、いろいろ大人の事情はあるのかもしれませんが、こんなにすぐに再演するような作品ではなかったのかもしれません。というか再演するほどの作品でもなかったのかもしれない…いやファンが楽しく通っているというなら外野がガタガタ言うことではないと承知していますが、チケットの売れ行きが苦戦しているとも聞きますし…ファンももっと違うものが観たかったりしたんじゃないのかな?という単なる一方的で勝手な心配です、失礼しました。
 かいちゃんもまこっちゃんとはまた違う色悪っぷりで、良かったんですけれどね。プロローグで浅黒い肌に赤い唇半開きでボリウッドスターとして踊られたときには、あまりの色気放射に思わずはわわわわとなりました。でもやはりもうちょっと繊細な芝居がニンの人なんじゃないかなあ、ムケーシュみたいな悪役にはまこっちゃんみたいな問答無用に押し切るパワーの方が合っていた気がしました。歌も健闘していたけれど、私には全然別のものに聞こえてしまいました。
 あと、ムケーシュがシャンデリアの下敷きになって死ぬ場面は入れたほうがいいと思うんですよね。暗転のあとスノードームが置いてあるだけじゃ、いくら生まれ変わりとかシャンティの亡霊とかのファンタジーを信じるにしても死体がスノードームに化けるとは思えないんだから、現実にどう決着がつけられたのかがわかりづらくて、映画を知らない観客はとまどうだろうと思いました。
 スノードームの扱いの変更自体は良かったんですけれどね。オームとシャンティのデート場面のしょぼい車がなくなって、ミュージカルらしいダンスシーンになったのも良かったし、その後ろの映像の効果でふたりがスノードームの中にいるように見えるようになったのも素敵な改変でした。
 あいーりはマルグリットを経てシャンティプリヤの大女優っぷりがさらに良くなったように思えました。でもサンディのときの単純で気のいい女の子っぷりも愛らしい。
 ベニーは…これまたファンでないので申し訳ないのですが、初演のときの方がふたりのオームをうまく演じ分けているように思いました。今回はどっちも単なるベニーに見えた…あの、おどけたときとかにするヘンな鼻声がダメなんですよね、私…変にコメディばかりやらせるんじゃなくて、例えばくーみんが書くような芝居をやった方が上手い役者なんじゃないかと個人的には思っているのですが、どうなんでしょう。

 というわけで私にはわりとモブの下級生チェックにいそしんでしまえる公演でした。水乃ゆりちゃんホント可愛いよね! あと極美くんホント華があるよね!
 『阿弖流為』チーム総見と重なってアドリブは阿弖流為祭り、立ち上がって見本をしてくれるまこっちゃんの客席に響き渡る生声が聞けて幸せでした。あと泣くほど笑ったのか目元を拭いながらニコニコ退場するあやなが見られて幸せでした。
 次の『ベルリン』、ダーハラががんばってくれることを祈りますマジで…






コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トーヴェ・アルステルダール『海岸の女たち』(創元推理文庫)

2017年07月25日 | 乱読記/書名か行
 「あなた、父親になるのよ」それを伝えたくて、私は単身ニューヨークからパリへ飛んだ。取材に行ったフリージャーナリストの夫の連絡が途絶えて十日あまり。夫からの手紙には、謎めいた写真が保存されたディスクが。ただの舞台美術家だった私は異邦の地でひとり、底知れぬ闇と対峙することになる…北欧の新ミステリの女王のデビュー作。

 北欧ミステリー、流行っていますよね。でもスウェーデンの作家だそうですがこの作品にはスウェーデンはほとんど出てきません。むしろ女の女による女のためのハードボイルド社会派ダークロマン…みたいなジャンルの作品なのかなと思いました。なんにせよ、けっこうつっこみどころが満載でした。
 まず、ヒロインが夫に失踪されたところから物語が始まるのですが、読者はヒロインに感情移入するつもりはあっても、夫のキャラクターは他人なのでピンときづらいと思うんですよ。一応、ふたりがつきあい始めたなれそめとかも語られるんだけれどいかにも短いし、夫はジャーナリストだそうですが危険で面倒そうな取材に勝手に没頭して勝手にいなくなっている気もしてしまって、親身に心配になれないのです。結果、捜索に必死になっているヒロインにも同調しづらくなる、という悪循環。
 さらに、ヒロインが舞台芸術家でかつ妊娠中という設定なのですが、それがほとんど生かされていないので、なんだったの?という気分になります。夫の捜索のためにヨーロッパに渡ってもしょっちゅう仕事のことを考えてしまうとか、ついつい仕事に生かせるものを探してしまうとか、仕事で養った感覚が捜索に生かされる…とかがあれはよかったんでしょうけれど、まるでないので設定以上のものになっていないのです。
 妊娠にしても、急に母性が湧くのはヘンかもしれないけれど、ほとんど頓着していないのはどうなんだろう、という気がしました。精神的には変化がなくても肉体的には負担になっていたりするものなのではないの? でもこのヒロイン、めっちゃワイルドにバイオレンスに動き回るんですよ。ほとんど不自然な気がしました。
 捜索の途中でレイプされてもそれに対する反応がほとんど描かれないし、夫の死が確定してもあまり感情を揺さぶられている様子がないし、黒幕の実業家を復讐の対象としてめっちゃ冷酷に殺害するんですけどとても素人とは思えない手際だし、躊躇したり後悔したりもほとんどしません。リアリティ皆無。
 ヒロインとは別視点で男の死体を発見する少女が語られ、それがタイトルの「女たち」の「たち」の部分でもあるのかなとも思うのですが、彼女がこの事件を通して成長するとかもない。せめて変化くらい描かれるべきではないかと思うのだけれど…?
 さらに、彼女が発見し不法移民だと思った黒人男性の死体が実はヒロインの夫だったわけで、そこには白人女性であるヒロインの夫は当然白人男性でこの黒人男性のはずはない…という思い込みを利用したギミックがあるんだけれど、日本人が読むと不発ですよね。その意外性とかが本当の意味では上手く理解できないからです。アメリカ人もフランス人も同じ白人だし東欧も西洋も同じだしなんなら黒人も白人も外人さんということでは同じだし…という感覚なんだと思うんですよ、少なくとも私はそうです。邦訳に向かない作品だったのではないかしらん?
 ヒロインが復讐をした気になってはいても、もちろん夫は帰りません。夫が追っていた、不法移民を奴隷のように売買している社会問題に関しては解決もされないし、世間的に企業の悪事として暴露もされない、なんにもなっていない。それでいいの? で、ヒロインは嫌っていたであろう故国に逃げ帰るように潜伏して、子供が生まれるのを待つエンディング…って、全然爽快感も達成感もカタルシスもなくないですか? ホントにこれでいいの? 何が描きたかった話なの?とけっこうボーゼンとしました…
 解説によれば事件を通じて自分のルーツと向かい合うヒロインを描いたものだそうですが…私には読み取れませんでした。残念。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宝塚歌劇星組『阿弖流為』

2017年07月17日 | 観劇記/タイトルあ行
 シアタードラマシティ、2017年7月16日16時。

 8世紀。東北の権益を求める貴族たちは、朝廷の支配を広げるため、蝦夷征伐に取り掛かっていた。ある夜、朝廷に与する蝦夷、伊治城主・伊治公鮮麻呂(壱城あずさ)は蝦夷の長たちを集め、自らの命と引き換えに参議・紀広純(輝咲玲央)の首を取る計画を打ち明ける。それを聞く長の息子たちの中に、ひときわ逞しい若者がいた。彼こそ胆沢の長の息子・阿弖流為(礼真琴)である。鮮麻呂の遺志を継いだ阿弖流為は、ある日、黒石の長の跡継ぎ・母礼(綾凰華)と、嫁いだ里を朝廷の兵に焼かれた母礼の妹・佳奈(有沙瞳)に出会うが…
 脚本・演出/大野拓史、作曲・編曲/高橋恵、玉麻尚一、振付/峰さを理、平澤智。吉川英治文学賞受賞作である高橋克彦の小説『火怨』を原作にしたミュージカル。礼真琴待望の東上公演つき主演作。全2幕。

 事前に原作小説を読む暇が取れなくて、一応坂上田村麻呂(瀬央ゆりあ)との史実なんかも知っていたつもりではいたので、開演前にプログラムの人物紹介も読んだしなんとかいけるかな、と思っていたのですが、やはりさすが拓G作品は手ごわく、情報量ギュウギュウでガンガン話が進むので脳内補完に忙しく、予習してきた方が観易かっただろうな、と我が身の不明を恥じました。
 逆に言えば、もうちょっと整理してわかりやすく芝居を進める親切さはあってもいいと思いましたし、特に田村麻呂の描き方は未整理でもったいない気がしました。私がせおっちにNO興味だから、というのはあるにせよ、キャラクターとしては絶対にもっと好きなタイプなはずなんだよなー。だからもっと萌え萌えで見たかったです。
 蝦夷を都人たちと同じ人間とみなさず、自らの政争の手段としてしか考えていない貴族たちと違って、父の赴任について北の地で暮らしたこともあるという田村麻呂には蝦夷への偏見がなく、そのおおらかさやまっすぐさに好感を抱いていて同じ人間としてきちんと向き合いたいと思っているし、一方的に攻め滅ぼすのではなく共存できたほうがお上のため、世のためになるのではないかと考えている、広い視野と優しい心を持った賢い青年武官です。そのあたりがもっとクリアに描けていると、阿弖流為との友情や信頼、その後のせつなくしんどい展開…がもっと効いてきたかと思います。
 阿弖流為たち蝦夷もそういう相手には意固地になりすぎずに心を開くわけで、別に彼らは蛮族でも好戦的でもなんでもない、ただ同じ人間として正当に認められ扱われたい、人として誇りを持って生きていきたいということだけを願っているごくシンプルな人々なのでした。なのに欲や権力にまみれてきちんと向き合わない人間がいるから、悲劇が起きる。これはそんな話です。
 お話としてはわりとシンプルで、だからこそ阿弖流為と仲間たちとのドラマや阿弖流為と田村麻呂のドラマが中心になる、なんというかとても星組っぽいヒーローものというか主役ありきの物語になっていて、こういうのが星組は本当に似合うし上手いな、と組ファンでなくても観ていて気持ちが良く、胸が熱くなりました。熱くてすがすがしくて爽快感がありました。「星を継ぐ者」はこうでなくちゃね、とセンターで輝くまこっちゃんを頼もしく見つめたのでした。
 『かもめ』は私は嫌いではなかったけれどまこっちゃんのスター度を上げる作品になっていたかというと微妙かなと思ったし、『鈴蘭』は作家のデビュー作ということを考えるにしても出来の良くない作品だと私は思っているので、なんでもできてどこに出しても恥ずかしくない実力の持ち主のスター・まこっちゃんにふさわしい主演作がやっと来たねよかったね、ととにかく感動したのでした。
 ただ、映像の使い方は私は感心しませんでした。地名や人名の表記を出してあげるのは親切かなとも思いましたが、背景や心理描写の効果を頼りすぎるのは舞台作品として負けなのではないかと思うし、役者の画像を出すのは絶対にやめていただきたかったです。なら映像でいいじゃん、映画でいいじゃんってなっちゃいますよ。そこに生身の役者がいるのに、それを生で観るのが舞台なのに、大写しにされたらそっちに目が行っちゃうでしょう? それは悲しいことだし容認しがたいな、と私は感じました。

 というわけでまこっちゃん、鮮やかなスターっぷりですヒーローっぷりです。ちょっと不器用なところもあるけれど最終的にはみんなが仲間になってくれるのがよくわかる、ザッツ・リーダー、ザッツ・ヒーローなキャラクターが持ち味にぴったりで、それをただニンでやっているんでなくてちゃんと芝居として見せてくれていました。歌もダンスももちろん素晴らしく、不安なところがひとつもない、素晴らしい主役ぶりでした。大きく見えるしね。
 ヒロインのくらっちとの映りも良くて、お似合いだわ耳福だわで、いいカップルでした。佳奈のキャラクターも良かったなあ。男勝りで復讐に燃える…とかではなくて、最初から「里を再建したい」と言っているのがいいんですよね。男たちとは違う戦い方、違う仕事をしようとしている女。とても自然で、しなやかに強く美しく、ただ庇護されるだけの存在なんかではなくて、ちゃんと並び立ち、輝いていました。素晴らしい。
 飛良手(天華えま)は実は私は阿弖流為との最初のやりとりのあたりがよく理解できなくて、キャラクターとしてもちょっと捉えづらかったのですが、びーすけ自体は本当に明るいおおらかなオーラがあっていいスターさんになってきましたよね。多くを語らずとも常にそばにいる心強い腹心、というのがぴったりでした。
 でも私の萌えは圧倒的に母礼でした…! あやなが好きで参謀タイプのキャラクターが大好きなんだから当然ですよね、もう登場から麗しくて血圧上がりました。紫のキーカラーが似合うこと美しいこと! お衣装によっては線が細く見えすぎることを私はいつも心配しているのですが、今回はよかったなあ。そして長身で顔が小さいスタイルの良さが際立っていました。ノーブルでクレバーで優しそうなニンがよく生かされていて、すごくよかったです。ポジションとしておいしい役だったということもあるし、組替え前の餞めいた意味もあったかもしれませんが、それをきちんと大きく華のある役に見せたのは中の人の力だと思います。存在感とオーラ、ハンパなかった! 何より似合っていた。シビれました。スチールが出なかったのは本当に残念です。
 それからいーちゃんの諸紋(音咲いつき)がまたよかったなあぁ…! これまた私がいーちゃんがわりと好きっていうのと、キャラクターのポジションとして好みだしドラマがあったというのもありますが、転向前の大きなお役に感動しました。もったいない気もするけれど、きっと娘役になってもめっちゃ上手いんだろうなあ…! 期待しています。
 ひーろーはこういう役をやらせると本当にきっちり上手いし、天飛くんの達者さには度肝を抜かれました。
 そしてしーらんね! ホント仰天したね!! 実は私は彼女にはこれまであまり興味がなくて(『太陽王』なんかは上手いなと思ったし好きだったんですけれど)、『オーム』とかで老け役に回されているのとかを見るとちょっとこの先どうするの何やるの?とか思っていたくらいだったんですけれど、こういうポジションの役をこういうふうにやってみせるとは全然思っていなくて、素晴らしいなと感動したのでした。
 オレキザキとか夏樹れいちゃんとかかなえちゃんとかがまたきっちりいい仕事をしているのも頼もしいし、柚長が男役に回ってきっちり仕事しているのも頼もしい。そしていつでも本当に素晴らしい俺たちのはるこが今回も本当にたおやかで美しくいいポイントになっていて、素晴らしかったです。そしてあんるちゃんがまたこういう役が本当に上手い。でもはるこもあんるもフィナーレではニコニコ笑ってバリバリ踊っていて、本当に気が晴れましたし嬉しくなりました。
 桃堂くんも天路くんもホント上手いし手堅いし、今回は初めて台詞を言ったような下級生だっていたと思うんだけどみんなしっかり声が出ていて台詞ができていたのにも感心しました。
 そしてじゅりちゃんね、ホントに上手いよね泣かされましたよねうちに来てくれるの嬉しいわ!!
 来週には『オーム』も観てきますが、あちらはこういうふうには役がないミュージカルなので、芝居ができる子はみんなこちらに集めたのかもしれませんね。でもあちらも楽しみです。

 フィナーレがまたカッコよかったなあ…てかあやなの扱いにはホント仰天したし声出たし震えたわ私もう本気でファンだわ。千秋楽にはご挨拶があるのでしょうか…組替え後も楽しみです。
 お芝居のお衣装のままのデュエダンも、踊りにくかったかもしれませんが息が合っていてとてもよかったです。せおっちパートとかも嫌いじゃない、いいと思いました(笑)。

 現代にも通じるような人種差別とか民族差別とか、内乱・内戦・紛争の物語でもあり、人が自分と相手をともに尊重し愛と敬意をもってつきあっていくことの大切さと難しさを訴える部分もあり、この先さらに進化して、単なる熱血漢冒険譚でもお涙ちょうだいの人情悲劇でもない作品に仕上がるのではないかなと思っています。通う人は楽しいだろうなあ、いいことです。私は早めに観られて、新鮮でよかったです。楽しい観劇になりました。


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『カントリー』

2017年07月14日 | 観劇記/タイトルか行
 DDD青山クロスセンター、2017年7月13日19時。

 真夜中に夫(伊達暁)は眠る女(南沢奈央)を腕に抱えて帰ってきた、妻(大空ゆうひ)と子の待つ美しい家に。夫が出かけた家で女は目を覚まし、妻に尋ねる。それぞれの会話に縁どられ、浮かび上がる真実とは…
 作/マーティン・クリップ、翻訳/高田曜子、演出/マーク・ローゼンブラット。2000年ロンドン初演、全1幕。

 初日を観た方の感想の多くが「難解で…」というものだったようでしたが、私は特にそうは思いませんでした。
 以前にもこういうタイプの翻訳劇を観たことがあって、つまりそれも会話劇で、「あんたたちもうちょっとおちついてゆっくりきちんとしゃべればその話5分で終わるよ」と口出ししたくなる話でした。
 もちろん、人は嘘もつけばごまかしもするし、素直に応えなかったり皮肉っぽく言っちゃったり言い間違えたり誤解したり揚げ足取ったりわざと話を逸らしたりしながらしゃべるもので、だから話が進まないのであり、その進まなさやそういう会話をすることでのキャラクター同士の緊張感みたいなものに眼目を置いている芝居なのでしょうから、そんなことを言うのは野暮なのです。それはわかっています。
 辛抱強く会話を聴いていれば、順に状況は見えてきます。細かいところはあいまいでも、だいたいのところがわかればだいたいのことがわかるからそれでいいのです。私はもっと『藪の中』みたいな物語なのかと思っていたんですけれど、別にそんなギミックはありませんでした。夫と妻、妻と女、女と夫という、常にふたりずつの会話が展開される中で、ちょっとした嘘やごまかしがあっても三人のだいたいの事情は窺えます。
 そして舞台は再び夫と妻の場面に戻り、二か月たっているようなので状況もいろいろ違うようなんだけれど会話の流れは最初の場面を踏襲するかのようで、もちろんそれはわざとそう戯曲が書かれているのであり、つまりこのふたりはどんな状況であれ結局のところ常にこういう会話をし続けるふたりなんだな、ということが示されます。
 けれどこの場面にはもうレベッカの陰はありません。代わりに別の女がいるのかもしれない。逆にコリンの側に誰かがいるのかもしれない。だからかつてのコリンの台詞のお株を奪うようなリチャードの台詞で話が終わるのかもしれない。あ、これは、と引っかかったところで動きが止まり暗転し、話が終わったのはいかにも鮮やかでした。
 ふたりの立場は逆転したのかもしれない。そもそもこのふたりはそうした共依存みたいな関係をずっと紡いできたのかもしれない。でもそうでないのかもしれない。タイトルは田舎という意味のカントリーであり都会と対比されているようでもあり、舞台を観ている限りでは私にははっきりとはわかりませんでしたが夫妻はイギリス人でレベッカはアメリカ人の設定だそうだから出身国という意味もあるのかもしれませんが、そういう対比の究極の形として男と女というものがあるのかもしれません。そして彼女はついにこのカントリーになじんだということなのかもしれない
 でもそうでないのかもしれない。わからない。作品が終わったのはわかったんだけど、「で、オチは?」と言いたくなりました、私はね。
 こんなことを示すためにこんな胡乱な台詞劇を仕立てないといけないのかなあ?とかついつい思っちゃいましたし、こんな胡乱な台詞劇を仕立ててまで言うべきほどのことかなあソレ?と思ってしまったのでした。
 なんというか…大山鳴動して、というのとはちょっと違うのかもしれませんが…うーん。
 役者は三人ともとても素晴らしかったです。台詞が明晰で、ちゃんとその役柄に見えて、自己肯定感の弱さにイラつかされたりふてぶてしさにムカつかされたり感じの悪さにカチンとこさせられました。こちらの心にざらりと触れ、こちらの心を揺さぶる演技をしてくれました。
 でもなあ…だからこそ、「で?」としか私は思えなかったので…残念でした。でもいかにも大空さんが選びそうな作品だなとは思いました。演技の方向性としてはこういう芝居に向いているんだとも思います。
 何度も観ればまた違った感想も出てくるのかもしれませんが、改名のときに記事にしたように、私は大空さんの出演作を出演するからという理由では、あるいは宝塚歌劇以外の公演は、そうそうリピートはしない、と決めたので、私のこの作品の観劇はこれで終わりなのでした、すみません。イヤ別に誰に謝ることでもないんでしょうけれど…一度の観劇での浅薄な感想としては、こんなところなのでした。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『子供の事情』

2017年07月13日 | 観劇記/タイトルか行
 新国立劇場、2017年7月12日18時半。

 4月のある日の放課後。みんなが塾や習い事で忙しい中、なんだかんだと教室に残っているのは毎日同じ顔ぶれである。クラスで一番頼りになるアニキ(天海祐希)、一番の勉強家ホリさん(吉田羊)、一番の問題児ゴータマ(小池栄子)、おじいちゃんみたいなジゾウ(春海四方)、恐竜博士のドテ(小手伸也)、なんでもオウム返しのリピート(浅野和之)。子役スターのヒメ(伊藤蘭)は仕事が忙しく、放課後に特別授業を受けている。みんなのあだ名をつけたのはホジョリン(林遣都)だ。彼らに目を光らせるのは学級委員のソウリ(青木さやか)、そこへミステリアスな転校生ジョー(大泉洋)が現れて…
 作・演出/三谷幸喜、音楽・演奏/荻野清子、美術/松井るみ。昭和46年、世田谷区立楠小学校4年3組の一年を描いたミュージカル。全2幕。

 そう、ミュージカルなのでした。しかも当初はその予定ではなかったそうです。お稽古の途中でどんどん歌が増える芝居だなんて、すごいですねー。でもすごく正しいミュージカルでした。ミュージカルのパロディーっぽいところもあってそういうのも楽しかったんだけれど、やはりドラマにインパクトがあったときに盛り上がって歌うとか、キャラクターが心情を歌で吐露するとかがやはりミュージカルの真髄なんだと思いますし、そういう意味でとても理にかなっていた歌の在り方だったんですよね。で、またみんな上手いんだ!(笑) みんなミュージカルスターではなくてあくまで役者なはずですが、無駄に上手い、それがまたおもしろいし、素晴らしい。
 お話としても、子供たちの話だけれど大人や社会を反映した物語なので、ざらっとした部分もあります。でも基本的にはコメディー。そしてものすごく深刻なテーマとかメッセージとかがあるわけではないタイプの作品です。そういう点でもミュージカルとして正しいなと思いました。そりゃ革命を歌い上げるような悲劇の大ドラマチック・グランド・ミュージカルだってもちろん世の中には多いですし、そういう大作の方がファンも多いのかもしれないけれど、ミュージカルの本質は本当はこういったささやかな日常や小さな幸せを歌うところにこそあるものなんじゃないのかしらん、などと思わせられたのです。悲劇メロドラマ好きのこの私に! だからやっぱり、たいしたものです。
 ウェルメイドのコメディーを書かせたら今や右に出る者がそうそういない三谷幸喜、さすがです。お稽古初日に脚本ができていたことを笑いになんかしていないで、これからもきっちり良作をたくさん作っていっていただきたいです。今回はハコはちょっと大きかったかもしれないけれど、魅力的なキャストだしチケットは即完売だったんだろうなー。あと、大きな舞台にしかできない鮮やかなラストも素晴らしかったです。

 私も、10歳のころあたりできちんとしたもの心がついたように思います。それ以前はやはりただの子供で、虫みたいなもので、動物以下だったと思うのです(^^;)。
 小学校のクラスは2年ごとにクラス替えされるはずだったのですが、校舎の建て替えなどがあって私は3年生のときのクラスはその1年間だけで終わり、4,5,6年生を同じクラスで過ごしたのでした。ちなみにこのお話と同じ3組でした(笑)。それで思い出深いのかもしれません。
 あと、漫画の描き方入門みたいな本を手に入れて、それに沿って、Gペンとかペン軸とかケント紙とかを買い揃えて投稿用の原稿を描き始めてみたのもこのころでした。B4の画用紙を見開きに見立てて鉛筆描きでコマ割りして描いた大長編はたくさんあったんですけれどね(^^;)。
 そう、私はこの10人で言えばソウリみたいだったのかなあ。学級委員とかやっちゃう、仕切りやタイプの優等生。でも外ではそうでも内ではオタクでした。だから中学のときの転校を機にキャラを変えたというか、無理をするのをやめたかな。そういう意味でも、落選をきっかけにはっちゃけちゃったソウリと似ている気がします。

 すべてが完全に当て書き…ということではなく、あくまで作者自身の思い出の中から頭で作り上げたお話だそうですが、役者がみんな本当にタイプで言えばそういう子供だったんじゃない?というハマりっぷりの演技を見せてくれていたのも素晴らしかったです。
 観客も、観ていて思い当たることが多いような、自分もどのキャラクターに近いか考えてしまうような…そんな作品だったと思います。ここまで極端でなくても、子供の世界なりに事件はあって、似た思いをした人もたくさんいることでしょう。何より子供でいなかった人間はいない、だからみんな笑って泣いて怒ってまた泣かされますよね。卑怯なまでに上手いと思いました。
 ジョーの、なんというか…卑怯というか矮小というか小悪党ぶりというか…とか、ドテの扱いというか描かれ方というか…とかは、もしかしたら引っかかる人もいるのかもしれないな、とも思いました。でも、特にドテは、私はこういうクラスメイトがいたな、と思ったので、嫌だなとは思いませんでした。今は発達障害とか呼ばれるものなのかもしれませんが、当時はまだそんな言葉はなく、でもこうした友達は確かにいました。特殊学級の方で授業を受けていることが多くてもやっぱりクラスメイトで、遊ぶときはいつも一緒で、泣き虫なんだけど優しくてみんなに大事にされていて…という友達でした。
 彼を別格にすれば、人間は、というか人生とは、つまるところずっと自分のキャラの模索するものというか、自分の居場所探しをしていくもの、ポジション取りを極めていくもの、といったところがあるわけじゃないですか。それをちょっとほろ苦く、でもあくまで明るく優しく描いた作品だったのかな、と思います。彼らがどんな大人になったか、どんな人生を歩んだかはまた別のお話。平均寿命が長くなっているとはいえさすがに人生の折り返し地点も過ぎて、それでもまだまだ人生は変えられると思える、もっともっと幸せになれると思える人間に、なっていてくれるといいなと彼らのために思います。そして自分もそう生きたい。生きてきた分の人生を背負って、そこからさらに生きていくのが人間なのですから。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする