駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『ベイマックス』を見ました

2015年01月22日 | 日記
 先日『ベイマックス』を観てきました。
 私は舞台に比べたら映画は全然観ていないのですが、これでも仕事柄、一応は話題作は押さえておこうと思ってはいるのです…(この言い訳の「は」多さよ!)
 それはともかく。
 『アナ雪』ほど世間は盛り上がっていない気がしましたし、あまり期待して行かなかったせいか、かえって私はとても楽しく観てしまいました。SF心が揺さぶられました。
 お話はサンフラントウキョウという架空の近未来都市を舞台にしていて、それはアメリカ人が考える日本、東京というよりは、SFファンが考えるもっと古くからある近未来都市のイメージに私には思えて、そういうのも楽しかったです。たとえば『ドラえもん STAND BY ME』で描かれていた未来の東京とほとんど同じでしたものね。クラシックで、かつ中二っぽい(笑)。
 あと、お店の看板とかに出てくる漢字なんかが正確なのがよかった(笑)。せっかく日本やらアジアやらを模しているのに漢字がウソ絵柄みたいになっていたりするのは本当にしょんぼりするので。そういうディテールのリアリティーこそ大事だと思っているので。
 また、キャラクターの芝居、特に主人公ヒロの表情がとても豊かで繊細だったのがよかったなあ。組む相手がいないのでそういう意味で萌えられなかったのは残念でしたが(オイ)。私は日本のリミテッド・アニメももちろん愛しているけれど、やはりディズニーアニメーション(ピクサーアニメというべきなのかな? くわしくなくてすみません)のこの動きはそれはそれで素晴らしいと思うのでした。
 キャラクター造形もよかったです。ストーリーは単純だけれどね。才能に恵まれているが未来が見えない主人公、というおもしろいところからスタートしているのに、仲間とチームを組んでスーパーヒーローになって悪を倒すって流れになるところがなんとも古いアメリカンコミックで、斬新さや哲学的なところがなかったのは残念でした。だから『アナ雪』のような爆発力は持てなかったのでしょう。
 まあでもわかりやすくていいんじゃないですか?って感じでした。それより私が震えたのは、この作品に通底する「ロボット観」みたいなものです。私はベイマックスに鉄人28号を見ました。
 これは漫画家のゆうきまさみさんがどこかで語っていたことなのですが、日本は八百万の神の国で物にも魂が宿ると考えがちだし、『鉄腕アトム』のように心を持つロボットすら生み出してしまう国です。
 でも鉄人28号はあくまでロボット、純粋な機械です。だからコントローラーが悪役に奪われたりすると、悪役の命令のままに動いて悪さをしちゃったりするのです。それが幼き日の自分にはすごくクールに思えた、人間みたいなロボットが安易なくらい多かった当時にそれを描いた横山光輝先生はすごい…というような話です。
 だから彼は『機動警察パトレイバー』をああいう形に描いたのでしょうね。あくまで機械であり乗り物でもあるロボットと、それに名前をつけて可愛がって乗る主人公。
 私は実は『鉄腕アトム』も『鉄人28号』も原作漫画もテレビアニメも見たことがなくて、SF世代としてはゆうきさんよりひとつないしふたつあとの人間です。ロボットアニメを見て育ちましたが、子供時代を脱して考えながら見るようになった最初の作品は『機動戦士ガンダム』という世代です(もちろんいわゆるファーストです)。
 アムロはガンダムにこだわったけれど、それは「僕が一番ガンダムを上手く操縦できるんだ!」という形でであり、野明がイングラムを愛したように愛したわけではありませんでした。その違いもおもしろい。それは主人公の性別の違いによるものではなく、作品が生まれた時代の空気の違い、思想の進化によるものだと思います。
 そして人間側の立ち位置は違っても、どちらも機体は心を持ったり人間に応えたりはしません。あくまで機械。そこがまたいい。
 ベイマックスはふかふかだしのんきな行動をするし、一見とても人間っぽいユーモラスなロボットです。でもそれはタダシのプログラムに従って動いているからであり、ヒロが攻撃的なプログラムで動かせば攻撃的に動いてしまうのです。その怖さ、恐ろしさ。こういう視点はとても大事だと思いました。
 そしてケアロボットのくせに、人間が大丈夫でないときにも「大丈夫」と言ってしまうことがあることを理解できず、そういう悲しい寂しい嘘が見抜けず、言葉どおりに受け取ってしまう機械ならではのダメさ加減を持っている…愛しかったです。
 機械に心が簡単に芽生えてしまったらそれはファンタジーになってしまう。SFってそういうものじゃない。もっとクールなんです(「涼しいわけではありません、ロボットですから」!)。
 そこがとてもよかった映画だと、私は思いました。



 

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私のメガネくん2

2015年01月17日 | 日記
●月本誠● Makoto Tsukimoto(松本大洋『ピンポン』/小学館ビッグスピリッツコミックススペシャル全5巻)
卓球の王子様、通称はスマイル。笑わないから。「疲れるんですよ、なんか。笑ったり……怒ったり……/そうゆうの凄く……」

 片瀬高校一年生。卓球部。右シェイク、両面裏ソフト→F面裏ソフトB面ツブ高カット主戦型(すみません、意味わかってません)。両親は早くに離婚、母親の勤めは夜。血液型はBらしい。「マラソン凄え速い」。「ガールフレンドとデートする予定」、なし。

 小さいころ、彼は「ロボットだのゴルゴだのトンチキなあだ名付けられて、/凄えイジメられて」いた。「何もしてないのに。/怒ってもいないのに。/笑ってもいないのに。/ただ居るだけなのに」。掃除道具のロッカーに閉じこめられたこともあった。でも、彼は平気だった。「ここは静かで安全な所だ。/とても落ち着くんだ」。彼を外へ出したのはペコだった。「頭に来たら怒りゃいいし、可笑しきゃ笑えよっ」。卓球を教えたのもペコだった。「こっち来て一緒にやるべえよっ!」
 そのときから、ペコは彼のヒーローになった。ピンチのときに心の中で三回呪文を唱えると、必ずやってきて助け出してくれる、ヒーロー。だが一方で、ペコのヒーローもまたスマイルであったのだが…それはまた別の話、というかそれが『ピンポン』の本筋なのだけれど、そしてペコこそ作品の主人公なのだけれど、いいの、ここはスマイルの素敵さを語るコーナーなんだから。
 彼のメガネは、自分の内面と外界とを遮断する壁だ。彼は世界に興味を持っていない。自分自身にも興味がない。何しろ、すべては死ぬまでの暇つぶしだと考えているのだ。彼の卓球の才を惜しんで、また妬んで、たくさんの人が彼をかまうが、彼にはうざったくてしょうがない。彼は複雑なことが嫌いだ。というか複雑なことに疲れてしまうのだ。だから卓球も、ただ単純に楽しめれば十分なのだ。だがそれは彼が卓球を純粋に愛しているということを意味しない。彼にとっては卓球すら死ぬまでの暇つぶし、どうでもいいことなのだ。
 彼にとって唯一意味があるのはペコの存在だけである。ペコが卓球をやっているから、彼もまた卓球をやっているだけなのだ。ペコがアクマに敗れて卓球をやめてしまったとき彼が卓球を続けたのは、チャイナやドラゴンによって卓球の次のステージを見せられたからというよりも、やはりペコのためであっただろう。彼はペコが帰ってくるのを待つために、卓球を続けたのだ。
 だが、その間に彼もまた愛を知ったのではないだろうか。小泉コーチが手を放そうとするから。ペコが戻ってこないから。大田先輩が親切だから。卓球がやっぱり楽しいから…愛はこの世でもっとも複雑なものだ。そして、翌夏、ヒーローは帰ってきた。笑顔が戻り、涙と汗が飛び散って、その夏は終わった。
 5年後、彼は大学生になり、小学校の教員を目指しており、タムラで子供たちに卓球を教えている。その口調は小泉コーチに、そしてペコにそっくりだ。そして、普通に笑うようになった。軽く、優しく、静かに。そして、あくびなんかしたりする。だがそれは疲れているからではなく、単に眠いからだ。彼は今、複雑この上ないこの世を確かに愛している。そんな彼を、私も確かに愛している。
 彼はタイプとしては観察型とも探求型とも、またどちらでもないようにも考えられるが、とにかく「メガネくん」であることは間違いがない。世の中のすべてから遠ざかろうとしているくせして、たった一点、どうしても執着してしまうものがある。そのディレンマ、そのアンビヴァレンス、これこそメガネくんだ。そのせつなさ、はがゆさ、いじましさこそいじらしく、酔い、萌えてしまう…ハッ、病気ですか私!?
 でも、スマイルがペコと結びついていることに萌えるのでないことだけは明言しておきたい。私はそのやおい性に感じているのではない。何事からも離れていようとする彼にただひとつ否応なく関わらざるをえなければならないものがあること、その状況こそが好きなのだ。メガネくんとはそれを体現するものだ。だがおそらく、人間というものは総じてみなそうなのではないだろうか。結論は、メガネくんこそ人類、私は全人類を愛する博愛者ってことか!? …ちがいますね。(2002.9.28)

●真性メガネくんは本当に視力が悪くなくてはいけないと思う。ダテ眼鏡だったり、かけなくても日常生活に支障はないくらいじゃダメなのだ。いつもいつも眼鏡かけてなきゃダメだ。スマイルの視力に関する描写はないが、汗で曇るのか試合や練習でしょっちゅう眼鏡を拭くシーンがあるので、やはり眼鏡がないとつらいのだろう。そういう人だからこそ、こういう眼鏡を外したシーンも絵になるってものなのよ!!

付記●実は映画『ピンポン』は、眼鏡をかけていない彼氏と観に行った。終演後、彼はニヤリと「きみ、ARATAツボでしょう」と言ったものだ。私は、ARATAスマイルとの出会いもうれしかったが、それを恋人にこう指摘されたことこそがうれしかったかもしれない。彼はメガネくんを偏愛する私の性向を理解し、その上で愛してくれているのだと思えたからだ。すまん、ノロケだ。


●望月慎● Shin Mochizuki(円城寺マキ『罪深く恋をして//小学館プチフラワーコミックス『不・純愛』収録)
お花飛ばしてる癒し系ほんわか刑事、実はナチュラル・ボーン・サオ師?「実は僕女性と寝ると普通じゃないらしくて…/相手が必ず失神しちゃうんです」

 都内某署勤務の刑事。キャバクラで料理を楽しむほんわかのほほん男。最初につきあったのは人妻(食われただけ)。経験が多い訳ではないのだが、「普通のやり方」がわからず、セックスした相手を必ず昇天・失神させてしまうという特異体質(?)の持ち主。

 どちらかと言えばクール系メガネくん好きの私としては、本来はこういうほややん優男メガネ兄さんはそんなにはツボではないはずなのだが、この外見にこの性技(?)という二面性にやられてしまったのである。そう、決してヤラれたのではなく!
 元はよみきりだが好評だったのか連作され、今度また新作が描かれるようだが、さもありなん。また二作目の扉絵の、ひまわりの花抱えてる図がすっごいカワイイ! ひまわりツボなんだ!!(なんじゃそら)
 なんかまだよみきり二本だけのキャラクターなので、どこがいいのか列挙していくと作品のオール解説みたいになってしまいそうのだが、とにかく、ほわんとしているようでけっこう独占欲が強かったり、おちこんで拗ねるとけっこう暗かったりというところがやっぱりメガネくんで、この先の発展が楽しみだ。お相手はお馬鹿だけど明るくて元気なヒロイン、という構図にもうひとつ何かパンチが加われば、物語としても転がり出すんだろうけどなー。期待。(2004.7.5)


番外●シン・ドンヒョク● Shin Dong Hyuk/Frank Shin(ペ・ヨンジュン/2001韓国MBCプロダクション『ホテリアー』全20話)
ホテルビジネス界における敏腕企業ハンター。「仕事でもゲームでも僕は勝てる相手しか選ばなかった。でも今回は予想がつかない。でもどうしようもない、もう始まってしまった…」

 ニューヨーク在住。32歳。カトリック。ハーバード大卒。米国名フランク・シン。
 幼い頃に親に捨てられ、11歳のときにアメリカ人の養父母に引き取られて渡米。苦学してウォール街で身を起こし、食うか食われるかの熾烈な戦いを続けてきたM&Aの専門家。冷酷で血も涙もない事業の喧嘩屋。今やサンタモニカやサンディエゴに別荘やヨットを持つ大富豪でもある。10年来のパートナーで弁護士のレオナルド・パクとフィフティ・フィフティでコンビを組んで仕事をしてきた。
 ラスベガスのホテルでひょんなことから見知ったソ・ジニョンに興味を抱き、彼女が勤めるソウルホテルの買収工作を依頼されたこともあいまって、21年ぶりに韓国の地を踏んだ。「金のゲームしか知らなかった奴が愛に目覚め」、生き別れの父や妹と再会し、そして…
 PDAを愛用、PCはVAIO。日課はジョギング。甘いものは苦手。カクテルはブルーマルガリータ、マティーニ。

 『ホテリアー』(タイトルはホテルマンを意味する造語)の主要登場人物は四人。ソウルホテルのVIP顧客担当支配人で、美人で元気で単純でおっちょこちょいなソ・ジニョン。ジニョンの元同僚で元恋人、ある事件でホテルを追われていたが経営難に総支配人として呼び戻されたハン・テジュン。ソウルホテルのオーナーに遺恨があるキム会長から買収工作を依頼されたM&Aの専門家シン・ドンヒョク。キム会長の一人娘で、ホテルに勤め出すキム・ユンヒである。
 ジニョンとテジュンには恋仲だった過去があり、ドンヒョクはジニョンに惚れユンヒはテジュンに惚れるので、この四人は一直線に並んで関係を作り、端からドンヒョクとジニョンの恋、ジニョンとテジュンの恋、テジュンとユンヒの恋のみっつの物語が描かれる、のがあるべき形だったのだろうと思う。しかしこの中で質量ともに圧倒的に重く描かれたのがドンヒョクとジニョンの恋であり、なんとドンヒョクはヒロインのジニョンをさらってしまうのであった。いやあびっくり!
 もちろん私はドンヒョクのファンであり、彼を応援していたので、彼の恋が成就するのはうれしい。そして物語が、元恋人だったふたりが元サヤに収まるのではなくそれぞれ別の新たな恋に向かっていく、という形を取るのもまた悪いパターンではないとは思う。しかし、あまりにも他のふたつの恋の描き込みが薄かったのではないだろうか。
 百歩譲って、テジュンとユンヒの恋は一番後回しになってもいいと思う。最終話で、ベストホテルの授賞式出席のためにテジュンがラスベガスに行くことになり、その地には留学中のユンヒがいるはずであり、そこからふたりの新しい物語が始まる「かもしれない」くらいで終わる、というのはなかなか美しい形だと思う。
 しかしジニョンとテジュンの恋がどんなものだったのかはもっと見せなければならなかったと思う。それがないと、ドンヒョクとの関係の中で、ジニョンがフラフラしているだけのように見えたり、テジュンが片意地を張っているだけのように見えてしまうと思うのだ。
 彼らは元同僚といえど、テジュンの方が年上であったらしい。同僚にも公認の中だったようで、プロポーズはジニョンの方からしたくらいだという。そんなふたりの関係と、テジュンがホテルを追われた事件とがどうからむのかがわからないままなのだ。ジニョンは自分がふられたつもりでいるが、テジュンにはその意識はないらしい。では本当のところ何があったのか? 何故彼らは別れたのか? それが見えないままでは、ジニョンがそれをどう振りきってドンヒョクのものに向かうのか、あるいはやっぱりテジュンの元へ戻るのか、その心理を追いづらいのである。
 このあたりを上手く見せることができていれば、ふたりの過去を描きつつ、テジュンがユンヒをいじらしく想うようになる様子もまた上手く描けたと思う。ユンヒが一から一生懸命にホテルの仕事に取り組む様子は、テジュンにかつての自分たちを思い起こさせたことだろう。ジニョンに対しては同僚故にライバル意識もあったかもしれないが、ユンヒに対してはずっと先輩として当たれるので、テジュンはより優しくなれたのだろう。それがユンヒのテジュンへの信頼と愛情を呼び起こしたのだし、テジュンもまた…しかしあまりにも歳がちがうし、立場がちがうし、弟分のヨンジェが彼女に惚れているし、彼女の実家が大金持ちでしかも父親がホテルのオーナーのライバルだとなると、とても情熱のままに踏み出すことなどできない…というような流れであったはずなのだ。
 まあ、この作品も韓国テレビドラマの例に漏れず、その日になって当日の撮影分の脚本が出来上がるような進行だったそうで(台本を読み込んでくるタイプの俳優であるペ・ヨンジュンにはこれがかなり苦痛であったらしい)、あまり先までがっちりと見通しを立てて作られた物語ではなかったのかもしれないのだが。
 しかし私としては、テジュンがしっかり立っていてこそのドンヒョクだったと思うので、主人公もっとしっかりせんかい、という気持ちが大きいのだ。
 しかしこれも、私が実際にドラマを見る前に受け取っていた情報による影響があるのかもしれない。私はこのドラマを、あくまで主演はキム・スンウ(ハン・テジュン役)とソン・ユンア(ソ・ジニョン役)であり、けれど2年ぶりのテレビドラマ出演となったペ・ヨンジュンの悪役ぶりの方が話題となったドラマ、だと認識していたからである。しかし実際にDVD-BOXの特典映像にある韓国でのドラマ紹介番組などを見ると、このあたりはいくぶんあいまいで、はっきり「ペ・ヨンジュン主演のドラマ」と言っているものもあれば「キム・スンウともうひとりの主役ペ・ヨンジュン」という言い方をしているものもあるのだ。ドラマの中でアイキャッチのように出てくる四人の似顔絵は、左からユンヒ、ドンヒョク、テジュン、ジニョンと並んでいる。ポスターやサントラのジャケット写真に使われるメインカバーは逆に女性ふたりを中に挟む形で、左からテジュン、ユンヒ、ジニョン、ドンヒョクの順である。現在東京MXテレビで放映されているエンディングテロップではテジュン、ジニョン、ドンヒョク、ユンヒの順にキャストが出ていた気がするし、これが妥当なのだと私は思っていたのだが、さて。
 しかしアメリカロケはドラマ撮影の一番始めにされたはずだし、このときユンヒの留学シーンや、ユンヒの夢の中でテジュンとラスベガスで再会するシーンが撮影されているはずなので、やはりこの大筋は最初から決まっていたのだろう。つまり放送していくうちにドンヒョクに人気が出てしまったのでヒロインとくっつくことに筋を変更した、とかではないということだ。だとしたらやっぱりテジュンというキャラクターはもうちょっと描き込んであげなくてはいけなかったのでは? 結果としてドンヒョクは実はメロドラマ『冬のソナタ』のチュンサン/ミニョン(俳優は同じくペ・ヨンジュン)に優るとも劣らない王子様役だったわけだが、テジュンだっていい男だ。キム・スンウはハンサムとか美形とかとは言い難いかもしれないが、実にいい顔をしたいい役者だし、テジュンは誠実で真面目で義理人情に篤くお人好しででも頼り甲斐があってという、要するにドンヒョクと二枚看板を張れる、女性の二大理想像の片割れだったはずなのだ。
 キム・スンウは非常にクレバーな役者のようで、インタビューで、自分だったら(ユンヒとの)新しい恋ではなく(ジニョンとの)今までの愛を取ったろう、というようなことを言っている。テジュンはいいキャラクターだったが、ジニョンをドンヒョクの方へ送り出してやるような優しすぎるところが個人的には不満だった、と。そして逆に、ドンヒョクのような男の生き方は実際にはありえないだろうとも言っている。もっと若ければ情熱のままに突き進むこともあるかもしれないが、、20代後半という歳で、何もかもすべてを捨ててひとりの女性の元に走ることなどありえないだろう、と。
 そうなのだよキム・スンウくん、実際にはありえないのだ。ましてドンヒョクの設定年齢は実際にはもっと年上の32歳だ。そんな男が「僕には何もない/遠回りをしてやっと何も持たずあなたの元へ」来ることなど現実には絶対ないのだ。だからこそファンタジーなのである。と言うかファンタジーってそういうもんだろ(逆にテジュンはもっと作り込めば、女性の二大理想像の一翼を担うのみならず中年男性の期待の星ともなれたと思うのだが)。
 手元には売れもしない株券と何着かのスーツだけしか残っていない男が、司法取引とかの関係でホントは帰国しちゃいけないはずなのにそんなものぶっちぎって帰ってくる、それがドラマなのだよ。ビバ!シン・ドンヒョク!!

 というわけで役作りのために8キロほど減量したというペ・ヨンジュンの顔は実にシャープで真性メガネくん、唇の妙な色っぽさがさらに目立ち、『冬ソナ』ミニョンさんの私が嫌いなギリギリの長髪とうってかわって短髪で(13話「ゲームスタート!」で心機一転散髪するのだが今度は短すぎてこれまた個人的にはギリギリだった)、ブローによっては前髪サラサラで萌え萌え、しぼってもガタイはいいのでスーツの似合うことといったらなく、ワイシャツ姿の美しさは筆舌に尽くし難い限り。さんざんこの世に実際には存在しない二次元キャラクターを愛してきた私ではあるが、実在の俳優によって演じられる2.5次元くらいの存在で、でも現実にはもう時間がたってしまったいて今この瞬間にはこの世のどこにも存在していない人を愛するのってなかなかつらく悲しいものなのだわと知らしめてくれたキャラクター・役者である。
 第4話で、ジニョンに安食堂に連れて行かれて目を白黒させるシーンで、オフタイムということで珍しくラフにブルーのポロシャツを着ていた姿が素敵。このくだりでの「いくらお金があっても他の人に私の幸せは買えません」というジニョンの台詞は、彼には二重にも三重にもショックだったことだろう。彼はそれまで、幸せとは何かなどと考えたこともなかったのではないだろうか。ただジニョンを好きになって、彼女を喜ばせるために「ルームサービス」を贈った。それで自分も幸せな気分になっていた。けれどジニョンはもっと別の幸せを知っているのだ。この世には金で買えないものがあるのだ。自分の幸せはどうしたら手に入るのだろう。そんなことを初めて考えさせられたのではないだろうか。
 第5話で、これまた珍しくスーツもシャツもネクタイも黒、というシーンもあり、これまた素敵。キム会長としては政略結婚として愛娘のユンヒをドンヒョクに縁付けたかったのだろうけれど、ドンヒョクにさりげなくいなされて終わっている。ドンヒョクとユンヒの接触は数少ないが、もう少しいろいろあってもおもしろかったかもしれない。個人的にはツボの設定・構図だった。
 第6話「雨の降る風景」でのハイライトは、青いジャケットに白いシャツとパンツのドンヒョクが、雨避けにコートをかざして走るシーンで、シャツの裾が割れて一瞬腹が見えるシーンだと思うのだがどうだろう(どうと言われても…)。
 第7話のプールサイドのシーンは、バタフライを披露したりホントに厚い胸板を見せたり眼鏡取るとちょっとタレ目気味に見えたりと見所満載なのだが(NG集で、ホントにコケかけたソン・ユンアをギリギリセーフで助けたぺ・ヨンジュンは見物!)、「また行きたいな/一緒に行きたい」という呟きは本当に秀逸。腰砕けます。そんな人が父親との再会では立ち上がるときに洟をすすり、「車を出せ!」と声を荒げ、たーって感じで流れる涙を拭う。「誰にも邪魔されずただふたりでいたかった/あなたを僕の胸に抱いて/いや僕が抱かれていたい」とメールに書く。来年のバレンタインデーを心待ちにする。ラブリー!
 寝ている女を5分で呼び出す、女性に歳を聞く、そんなエチケット違反も彼なら許そう。
 正体が暴露されて客室を追い出された第12話冒頭での怒りっぷりはまさに青い炎が燃え盛っているようだった(11話ヒキの彼の周りでカメラが廻るところも素敵だったなーっ)。どこから情報が漏洩したのか、それをつかむための誘い水としてわざと怒ってみせたということもあるだろうが、彼にとっては正当な代価を支払っているのにそれに反する扱いを受けることは本当に心外なことだったのだろう。親に捨てられた子供であるということは本当に彼の弱点になっていて、以来彼は稼いだ金で自分の居場所を贖うことに人生を費やしてきたのだ。その居場所が理不尽に取り上げられることは、彼には本当にたまらないことであったのだろうと思う。
 そのあとで、謝罪のシャンパンを壁に投げつけるのはまだしも、そこでジニョンを呼び出させるのは本当は卑怯なことである。だが彼はそれくらい彼女に本気だったのだ。ジニョンに揶揄されて泣いてしまう彼は本当に不器用な子供のようだ。父の前では泣けなかったというのに。のちに代わりに妹がすべてを代弁してくれたのだが(例によって日本放送版、DVD版にはカットがあるらしい。本放送ではジニョンがドンヒョクを後ろから抱きしめるシーンがあったらしいのだが、このくだりかな?)。
 バーでレオに「恋は酒と同じさ/きつい酒ほど胸と頭がかっとなる/だがいくらきつくても時間が経てば醒めるのさ」と言われて、「死ぬまで酔ってるかもしれないな」と答える台詞が、実は私は一番好きかもしれない。はは。のちにレオと喧嘩別れしたあと、フォローに行くしおしおとしたさまは本当に愛らしいです。
 第13話の、バーの入り口でテジュン、ジニョン、ドンヒョクの三人が交差するスローモーションのシーンは白眉。廊下の黄色い灯りが効果的。流れる曲は権利の関係かサントラ未収録のスティング「Fragile」。よく聞く英単語ですが、ワタクシ、今の今までジャイロ関係の、つまりコンパスとか羅針盤とかいう意味なのかとずっと勝手に思っていました。今辞書引いたら「壊れやすい、もろい」…がーん。発音ちがうし。
 バーのシーンは何度もあるが、テジュンはカサブランカのカウンターが似合う。一方ドンヒョクだが、赤い壁の螺旋階段を黒いシルエットになって上がってくるのがこんなにも似合う男は他にいない!
 第15話のテジュンの捨て台詞「あなたには女も数多くいるんでしょうね」はドンヒョクをカッチーンとさせるいい台詞だ。テジュンにとってドンヒョクは確かに「悪者で天敵」なのだが、さて彼がジニョンにした耳打ちの内容はどんなものだったのだろう?)私の案は…韓国ではNGだろうな…)
 先に折れてくるドンヒョクとまだ我を張っているテジュンとの、ジェニーの招待のくだりは微妙でちょっと微笑ましい。テジュンにしてみれば、昔の恋人も面倒を見てきた少女も、みんなドンヒョクに盗られてしまう気がして、同じソファに仲良く並んで座る気になれなかったのは無理からぬことなのだが。一方でドンヒョクにとっては、仕事を通していつでもジニョンと一緒にいるテジュンが気がかりなのだが、まるごと友達になってしまえればいいとも思うようになっているのだ。「ホテルという川を渡ったのにハン・テジュンという山がそびえている」
 だがついに彼は「ジニョンさんが望むならすべてを捨ててもいい/だから僕から離れないで」とホテルを救い(ただしジニョンのためだけではなく、テジュンが頼んできたからこその、彼への友情の表明でもあったのだが。あと、キム会長の汚い遣り口への反発と。そう、彼は紳士なのである)、無一文になってなおサパークラブを貸し切り、「永遠に僕から離れられない魔法の指輪をください」とダイヤの指輪を買い、「愛している、ジニョン」(この台詞は全編に三度あるがみんないい!)とプロポーズし、再びホテルに戻ってきてチェックインを頼み、「いつまでこちらに(ご滞在を)?」という質問に「永遠にあなたのそばにいます」と答えるのである!!
 この王子様ぶりにオチない女がいるかね!?
 ドラマとしてはメロ度が弱かった分『冬のソナタ』よりは女性陣にブームを起こさないだろうが、出来そのものはいい勝負だと思う(決して満点ではない、という点でも)。ぺ・ヨンジュンファンにとってはあたりまえだが必見の作品。「メガネくん」好きにも一応お薦めの作品だと思う。一応、というのは、これ以上ライバルが増えるとイヤだからで…了見狭いな自分!!


<一応、完>

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私のメガネくん1

2015年01月17日 | 日記
 私にはホームページビルダー(!)で作った古いサイトがありまして、更新はだいぶ以前に停止して、観劇感想だけこのブログにコピーしてここに移ってきたのですが、サーバーがホームページサービスをやめるというので、さらにメガネ考察だけ移しておくことにしました。
 ホントーにオタクですみません…
 自分のための備忘録として…すみません…

***

●メガネくん事始
 気づいたのはわりあい最近なのですが、私は眼鏡をかけた男性に弱いです。眼鏡をかけた人は5割増しくらい素敵に見える気がします。なんでなんでしょうね?
 個人的なことで考えれば、ファザコンの延長なのかもしれません。中年太りでややお腹が出ていることを除けば我が父は還暦過ぎの(注・これは10年ほど前に書いたものです)なかなかダンディなおじさんなのですが(娘バカ)、若かりしころはもちろんもっとスマートな優男だった訳で、母との恋人時代の写真なんか見せてもらったときには子供心ながらにときめいたものでした。それが父であったからなのか、眼鏡をかけたいかにもな好青年だったからなのか…
 さらに、どうも漫画の中の眼鏡をかけてるキャラについつい身びいきしちゃう気がする、と気づいたのはもっと最近です。で、こういう話をすると意外と同好の士は多い。これはなんなのか?
 私の知人が提唱するものに「アカレンジャー理論」というものがあります。これは、物語の主人公はいわゆるアカレンジャーのような、明るくて元気で前向きなキャラクターが務めるのだけれど、実際にはその傍らにいるアオレンジャー、ややクールでちょっとスカした二枚目にディープな人気がついたりする、でもやはりそれはアカレンジャーあってのことで、主役はアカレンジャーでなければいけないのだ…というような説?です。
 これはわかる気がします。主役を愛するのは競争率高そうだからイヤ、とかさ。私は主役だなんてそんなまっとうすぎてつまんないところには惹かれないの、ちょいと通なのよ、とかいう顔をしてみたい、とかさ。私も天の邪鬼なので。で、そこから延長して考えてみると、この、主役じゃないところにいる、あるいはアオレンジャーよりももっと、主要人物とは呼べないような遠いポジションにいる、しかも眼鏡をかけているキャラクターには、ある種の特性があって、それにこそ惹かれる人もいるのだろう、と思い至った訳です。
 では、その特性とはなんなのでしょうか?

●「ビバ!メガネくん」による分類
 先日、その特性を検証する同人誌に出会いました。アニメ誌などでライターをやっていらっしゃる渡辺由美子氏の「ビバ!メガネくん」です。これはアニメ界の(少年漫画系の)メガネ男子を扱った評論本なのですが、渡辺氏は、その「メガネキャラ」を以下のカテゴリーに分類しています。すなわち「メガネくん」「ギャグメガネ」「めがねっ子」「ダンディメガネ」であり、「メガネくん」は「策略型」「観察型」「探求型」に細分される、としています。これが実によくできた分析なんですよ、奥さん!!(ダレ!?)
 わかりやすいところからいって、まず「ギャグメガネ」。これは、グルグル瓶底眼鏡を外すと目が3の字だったりして、「待ってよ、おやび~ん」とか言っちゃう、あの、知恵は回るが腕力ゼロ、ひ弱でへっぽこだが主人公を慕い笑いを取る、アレです。さすがに最近激減していますが、ありますよね、このタイプのメガネキャラ!
 次に「めがねっ子」。いわゆる「めがねっ娘」の少年バージョンだそうです。頭が良くて純情可憐で真面目で優しくて人にものを頼まれたら嫌とは言えない、巻き込まれ型のプリティ・フェイス。あるある! これが良質な環境で順調に育つとさらに「メガネ兄さん」になるそうです。素直で可愛く、かつ面倒見の良い頼れる青年になる訳ですね。しかも優しすぎて損しちゃいがちだったりするので、乙女心にかばってあげたくなるような…少女漫画でヒロインの相手役が眼鏡をかけている場合、その多くは知性・理性の象徴というか、マッチョでないこと、肉体派・筋肉派でないこと、男根主義的すぎないことを表現しているのであって、いわゆる「メガネくん」とはまたタイプがちがうなあ、とぼんやり思っていたのですが、それらはこの「メガネ兄さん」だったんですね。納得。
 それから「ダンディメガネ」。実は私はこれにはそんなにピンとこないのだけれど、単に好みのツボとちょっとちがうからかもしれません。彼らはアウトローの証としてサングラスをかけている、長身、美形、ミステリアスな強面。女性に優しいフェミニスト、なのに「俺に惚れるなよ」と言って去っていっちゃったりするタイプ…ああ、でも、あるよね。
 そしてそして、真打ちの「メガネくん」です。
 渡辺氏によれば、メガネくんとは、「眼鏡をかけることで自己と外界の間に壁を作るキャラクターの総称」だそうです。その頭の良さゆえに感じてしまう「自己と世界の不具合」を以下の三通りに対処することで、各タイプに分類されるとしています。すなわち、世界を変えようとする者が「策略型」、世界を冷めた目で見つめるのが「観察型」、マイワールドに没入するのが「探求型」です。
 策略型メガネくん…組織のナンバー2あたりのポジションにいて、己が理想世界の構築のために暗躍するタイプ。皮肉、挑発、意味ありげな含み笑いの三点セットで相手の弱みを握り、取り引きを持ちかけ、他人を駒のように動かす。実は純真で繊細で臆病で、彼らの野望は主人公によって必ず阻まれる…この悲劇性こそメガネくん!
 観察型メガネくんは、一見、頭が良くて気配りができる優しそうなお兄さん、その実、その頭の良さ故に自らの限界と世界の醜悪さに気づき絶望してしまった、何ものにも期待しないニヒリスト。策略型のように世界を変えようというエネルギーを持たない代わりに、いっさいを超越するカリスマ主人公を発見すると、魅了され、間近で観察してしまう。ときに眼鏡の仮面が外れ、噴出する激情…この二面性こそメガネくん!
 そして探求型メガネくんは、好きなことだけにとことん熱中、周囲の事情や事の善悪などには無関心、専門が発明や科学技術の開発の場合はいきすぎるとマッドサイエンティストにもなるタイプ。求道的とも趣味的とも言える、このマニアックさがまさしくメガネくんです!
 どうです、奥さん!!(だからダレだって) よくできた分類・分析だと思いませんか!?
 この本には他にも、"探求型のメンタリティにめがねっ子の外見と彼女持ちの条件を加えると発明少年というカテゴリーになる"とか、"メンタリティと技能が限りなくメガネくんに近い女性メガネキャラが存在して、それを女メガネくんと呼ぶ"とか、"メガネ・リアクションあれこれ"とか、示唆に富む考察がたくさんあります。現在は在庫切れとのことですが、2002年冬コミには再版するとのこと、また続けて少女漫画のメガネキャラを研究中とのことです。楽しみ!

●メガネという萌え記号
 「ビバ!メガネくん」の巻頭言は以下のようなものです。
 「萌え」とは、キャラクターの一部分に着目する視点であり、視る側の願望によるキャラクター性の増幅である。
 その昔、登場人物にバラエティを持たせるために入れられたであろうメガネキャラが、いつしか受け手の側に「メガネキャラはこんな性格だろう。そうあって欲しい」という願望が生まれ、作り手の側も呼応して「メガネキャラ的な」性格付けや演出法を作り出していった。いわば作り手と受け手の共同作業によって、暗黙の了解事項"お約束"が生まれたのだ。
 その「お約束」が、以上のものであったという訳です。不思議ですねえ。深いですねえ。
 また一方で、こんな文章も見つけました。歌人・穂村弘のエッセイ集『世界音痴』より引用します。
 私は女性はみんな男の眼鏡が好きだと信じているのだ。正確には、眼鏡が女の征服欲と性欲と破壊衝動に訴えると信じている。
 その「具体例」というのがなかなかニヤニヤしちゃうものなので興味のある方にはご一読いただきたいのですが、ちょいとなるほどな、と思えてしまいませんか?
 眼鏡をかけている人はその状態が「常態」なので、そうでないところを見てみたい、私だけに見せて、みたいな好奇心というか独占欲というかは、あるでしょう。眼鏡を普段かけている人は眼鏡を外すとなんとなく無防備で頼りなげになるので、そこがいじらしい、可愛い、いじめちゃいたい…というのは征服欲や破壊欲に通じるかな。くすくす。
 ただ、私はとにかく眼鏡好きを自覚してしまっているので、そんなことないという人の意見も聞いてみないと、みんながみんなこうだとは言えないんだろうなとは思っています。この著者が言うには、女は男が異質であるが故に惹かれるのであり、眼鏡はその異質性の象徴なのだそうですが、男は男だというだけで十分異質な気もしますしね。私にしたって、眼鏡かけてりゃなんでもいいって訳ではないんだしね。っていうか、私、眼鏡かけてる人とつきあったことナイし。普段コンタクトレンズを着用している人で、のちに眼鏡姿を知るようになった相手もいましたが、だからってそれで愛情がより燃え上がったかというと、そんなことはなかった気がします。私はメガネくんの特性を持ったメガネキャラが好きなのであり、それは「キャラ」という言葉どおり現実ではなく2次元のものなのです。そもそもここに現実の話なんて無粋でしたね、失礼。「萌え」とはよく言ったもので、それは「愛」とかいうものとは多分少しちがうのです。
 それでは、以下、ねちねちと(笑)、「私のメガネくん」について語らせていただきましょう! おつきあいいただければ幸いです。また、「ここにもメガネくんが」「こんなメガネくんはどう?」などの情報・提言、お待ちしています!!
 なお、図版はすべてコミックスから引用として使用させていただきました。


●天川太一朗● Taichiroh Amakawa(すもと亜夢『私の…メガネ君』/小学館Cheese!フラワーコミックス全7巻)
こんなにもメガネに誰がした…「僕が本能のままに愛したら/君は簡単に壊れてしまいそうだね」

 甲葉高校一年生。学力優秀。ひとりっ子。料理はおにぎりしか作れない。通称、メガネ君。クールで無愛想だが意外と男女ともに人気がある。
 小さいころは、お隣の蝶子ちゃんと仲良しだった。彼女は脚が速くておてんばで、みんなの人気者だった。彼女は彼が好きだった。彼も彼女が好きだった。他の女の子なんかどうでもよかった。だが彼女は、彼から女の子たちを遠ざけるために、彼を悪く言うようになった。メガネ、メガネザル、エロメガネ…彼はいじめられるようになってしまった。それ以来、彼と彼女は口をきいていない。彼女は陸上短距離で全中優勝して、スポーツ推薦で彼と同じ高校に入学した。彼が上級生とつきあい始め、彼女はやっと自分の気持ちを素直に伝える。「太一朗ちゃんが好き/ずっと私だけを好きでいて」。だが彼女は本当に蝶々のようだ。「どうして思い通りにならないんです/君には僕しかいないのに/今までのようにもう自由に飛ばせてはあげない」。ふたりの甘くせつなく苦しい恋の行方は…!?

 少女漫画でヒロインの相手役がたとえ眼鏡をかけていたとしても、多くの場合それは「メガネくん」ではなかった。メガネくんには美しい恋愛があまり似合わないことを、無意識にしろ漫画家たちは感じていたからだろう。
 だが一方で、恋愛にはまた独占欲とか執着心とかいった暗い情念もつきものであり、それはメガネくんの特性そのものだ。メガネくんの恋愛物語は、絵空事でない、夢物語でない、すなわち究極の恋愛物語になりえるのだ! それに果敢に挑んでいるのがこの作品である。とにかくもう、全編これすばらっしいメガネっぷりなのである!! メガネにこんなに恋愛が似合うなんて!!!
 嫉妬にかられて電気スタンドで窓を割る、すんごいキスしておいて翌朝その場所で真っ赤になる、恋人と裸で抱き合いながら電話に出る、遊園地の前売りチケットを初デート用に大切に持っている、恋仇の喉仏をつぶそうとする、聞く耳持たないときには外国人のふりをする…!!!
 いったいに少女漫画は少女の夢や理想やあこがれを描くものなので、オブラートで包み甘々のクリームを塗りたくった砂糖菓子のようになるのが普通なのだが、最近ではもっと剥き出しの少女の欲望や願望を赤裸々に描くものも増えてきた。愛し愛される喜びに震えるのが恋愛だが、それだけではなく、奪いたい、奪われたい、誰にも盗られたくない見せたくない、怖い、恥ずかしい、でもより深くつながりたい、溶け合いたい、食べられてしまいたい…という底無しの欲望もまたzきまとうのが本当の恋愛だろう。それを、子供っぽくて不器用な、「子ザル」などと呼ばれるヒロインとしてあるまじきキャラの蝶子と、執念深くて粘着質で冷酷で泣き虫なメガネ君が追求していくのである。そらディープでんがな!
 作者がギャグ漫画出身だからかいろいろと「濃い」のもこの作品の特徴だ。ヒロインが鼻の穴に指突っ込まれたり、彼氏にベタベタくっつくからって蛸の絵で表されたり、スケベ心を萎えさせるために梅干し食べさせられて不細工な顔させられたり、しょうもない夢を見て笑いながら起きたりは、普通の少女漫画ではあまりしない。だが現実に生きている普通の人間にはこういうことも確かにあるだろう(あるかな?)。そういうところから目を背けない、かといって露悪一辺倒でないこの作風は貴重だ。レディスコミックでもなく女性漫画でもなく、ボーイズラブでもガールズコミックでもない、少女漫画のひとつの進化の形がここに芽生えかけていると思う。
 惜しむらくは、「恋愛そのもの」は突き詰めてしまうと意外とドラマにならず、物語として、作品としてやや消化不良なエンディングを迎えざるをえなかった点である。だが、長く記憶されるに足る作品だとは思うのだ。


●伊賀観● Kan Iga(佐々木倫子『Heaven?』/小学館ビッグスピリッツコミックススペシャル全6巻)
傍観、達観、諦観の「観」。「どうしてこうなってしまうのか--/こんなことではだめだ。/サービススタッフ失格だ」

 駅からも繁華街からも住宅街からも遠く、利益からも遠く、何よりも理想のサービスから遠いレストラン"ロワン ディシー"(この世の果て)のシェフドランにしてサービスの要。長崎県出身。家族は温厚な父と超マイペースな母。高校受験に失敗してそのままフランス料理店に就職、3年のキャリアを経て黒須オーナーのスカウトにより現店へ。

 「表情が読めなくて怖い」「普段から愛想悪い」「融通がきかない」「黙って怒っている」「じいさんに弱い」「主義に反する要求には応えられない」「一生苦労する」など、何やら散々な言われ方をしながらも、素人同然の経営理論と素人離れした無茶苦茶な自信を持つオーナー、弱気ですぐ味が薄くなるシェフ、素人のサービススタッフに囲まれて、日々、できる範囲で仕事に励む、いたって真面目で責任感あふれる好青年。典型的な巻き込まれ型、貧乏籤を引くタイプ。だがけなげではあるがはかなげではなく、早い見切りとその上での粘り腰はなかなかのものだ。
 私は意地汚いもので料理うんちく漫画や食べ物周りの人情漫画が好きで、この作品もその意味で愛読していたのだが、あるときふいに、伊賀くんにノックアウトされた。それも、彼には珍しい、笑顔に。第23話『無意識の墓参』は、エピソードとしてはぶっちゃけて言ってしまえばよくある幽霊話なのだが、この笑顔は、いい。伊賀くんは実は言われているほどには笑わない人では全然ないのだけれど、この本当に微笑むべきシーンでの、この笑みは、いい。完璧である。惚れたね。そのひとつ前のエピソードで、カラスに襲われたカエルを助けて手当てし、送り出しながら語りかけるときの笑顔もよかったが、小さく愛らしいものに(カエルが本当にそういうものであるかは別にして)微笑みかけるのはまあ普通っちゃ普通だからね。
 そもそも彼の眼鏡は良識の象徴ともいうべきものであって、彼自身はあまり「メガネくん」ではなかった。むしろ「めがねっ子」「メガネ兄さん」に分類されるべき存在だったかもしれない。周りが変人ばかりなのと著者のドライな作風で、その愛らしさ・いじらしさが表現されないできただけで。
 だが、ここへきて彼はやはりメガネくんだったことが明らかになりつつあると思う。第30話『怒っているの!?伊賀くん』での覚醒ぶりは探求型を思わせる。やはり彼はただのいい人ではなかったのだ。この人外魔境ぶりは立派なメガネくんだ!
 というわけで目下の私の一番の心配事は、伊賀くんとオーナーとの間にラブかなんかが芽生えちゃったりなんかしちゃったりしないかということである。『動物のお医者さん』でも『おたんこナース』でも恋愛をほぼまったく扱わなかった著者だけに大丈夫だろうとは思うが、伊賀くんのオーナーのあしらい方には余人の追随を許さないものがある。加えてオーナーは伊賀くんの母親に性格がそっくりだという事実がある。少女が父親に似た男性を選ぶように、伊賀くんもまた母に似たオーナーを選ばないとは言えないのである。ヤダヤダヤダ! そんなのヤダ!! ただのやっかみなのだが、おもちゃ屋の前で大の字になって手足バタバタさせて駄々こねる子供のように、私は異議を唱えたい。…まあ恋愛には何がしかの情熱が必要であり、オーナーはともかく伊賀くんはそういった熱意とは程遠いところで生きている人間なので、まずありえないんじゃないかと思うけれどね…(2002.10.02)
 追記。その後作品は2003年夏に大団円完結、伊賀くんとオーナー(じゃなくなるんだけど)は40年の腐れ縁を続けることになるが、具体的には恋愛話は持ち上がらなかった。バンザーイ。いや描かれなかっただけかもしれないんだけどさ。それでも私は満足なの。なんて悲しいメガネ好きの性…よよよ(←「嘘泣きですねお客様、邪魔です」とか伊賀くんに突っ込まれたい…しくしく)。


●伊藤貢作● Kousaku Itoh(河原和音『先生!』/集英社マーガレットコミックス全20巻)
余裕で、なんでもわかってて、何があっても平気に見えて。「オレなんか好きになって/17歳から20歳位の女としていちばんいいときムダにするこたねえよ」

 南高校の社会科教師。26歳。秋生まれ。家族は両親と姉。背が高くて電柱のよう。競馬と野球と麻雀が趣味。愛煙家。自称女嫌い、年上好み。理想の女性は沢口靖子といいときのダイアナ妃。視力は裸眼で0.1ない。コーヒーは砂糖たくさん、ミルク1滴。通った高校は男子校。ひとりでものを考えたいときは河川敷に行く癖がある。愛車はスバル。
 いわゆる「彼女」というものについて、「いないよりはいた方がいいけど/面倒くさい」という考え方の持ち主だが、高校生のときには高校生なりの、大学生のときには大学生なりのつきあいをしてきた。新任教師のころは卒業直後の元教え子とつきあったこともあった。そして今、9歳年下の担任の生徒とつきあっている。自他ともに、生徒とつきあうようなタイプでないと認めていたのに。
 「女が「好きだ」と言うのを/信じてもいいと思ったのは島田が初めてだ」ったから…

 少女漫画でヒロインの相手役が眼鏡をかけていることはなかなか少ないが、かけていたとしてもそれは「メガネくん」ではない場合が多い。メガネくんには恋愛はあまり似つかわしくないからだ。
 伊藤先生は微妙なところだと思っていた。彼の眼鏡は、学生であるヒロインやその友人たちに対して彼が大人であることの象徴だったろう。当初は眼鏡をズレ気味にかけていたし(「めがねっ子」の典型的表現である)、ラブラブしているときはけっこうするし、ちょいと怠惰なメガネ兄さん、の範疇だろうか、と思ってきた。だが、中盤以降の激動の展開で表れたその意外な不器用さ、真面目すぎなところが、やっぱりメガネくんなんじゃんこの人、という感じだ。
 ヒロインは親友に「真面目すぎでバカすぎで考えすぎ」とぐさぐさ突っ込まれているが、それは先生にも言えることなのだ。彼は自分がそして周りが思っているほど大人じゃないのだ。考えづらいことを考えないで適当にすませたり、考えたいように考えて強引に押し切ったりということが意外とできない人なのだ。
 彼はずっと恋人に後ろめたく感じ続けてきた。そのことを考えて考えて、そして、とうとう身を引いてしまう。そんな必要はないと、わかっていながら。そのままだと、ただただ自分が苦しいから。
 この脆弱さ、繊細さ、真面目さは、まさしくメガネくんだ!
 このあたりの展開では、私は内心叫びっぱなしだった。誰か彼にそれじゃイカンと言ってやってくれ! 逃げるな、目を覚ませ、戦えと言ってやってくれ!! 頼む!!!と…
 いや、本当は、逃げてもいいのだ。かつて一度ヒロインも逃げた。そしてまた彼のところへ戻ったのだ。人は誰でも迷うものだし、女に一度は逃げることが許されたのだったら男にだって許されていいのだ。でも多分、彼は逃げていても楽にはならない。苦しさは変わらないか、むしろ増すだろう。ヒロインもそうだった。端で見ている我々にはそれがもうわかっているのだ。そして我々は(ってみんなにしちゃうが)彼が好きだから、つらそうな彼を見ているのがつらいのだ。幸せでいてほしいのだ!
 もちろん、物語的に、どんな紆余曲折があろうと最後には大団円になるであろうことはわかっていたが、それでもなお、心配だった。ああ、こんなにも私の心を締め付けるなんて、悪い男だぜメガネくんってヤツぁ!!
 そして、作品はきれいに、美しく、大団円を迎えて完結した。伊藤先生もまた立派なメガネくんとして卒業していった。満足、満足。胸に残るは彼の面影だけである。
 恋人のどこが特別なのかと聞かれて、「普通だと思うけどな」と答えて浮かべる笑み(すでにこの時点で心情的には恋敵の位置に立っている相手を、微笑ませることができるほどの笑みなのだ)。どうしたらいいか考えるために、あるいは何も考えないために、勤務をサボって出かけた河川敷で浮かべる茫漠とした無表情。「ただのサボリ」と答えるときの寂しい笑み。自分の意気地のなさを笑う苦笑い。「きちんと別れよう」と告げたときの、むしろ自分の心の方が壊れてしまっている、冷たい瞳。自分の本音が見えるように活を入れてくれた相手に対して浮かべた感謝の笑み。そしてそのあとすぐ眼鏡をかけるところ。照れ笑いして鼻をこする仕草。失くしたら耐えられないもの、それを失う怖さを思い返すときの恐怖と痛恨。珍しく顔を赤らめたりして言う「好きだよ」。心配してくれた人に見せる謝罪と感謝の笑み。「寒いな」なんてあたりまえのことを言うときの優しい笑顔。心ない言葉で生徒を傷つける教師に向ける冷たい怒りの視線。もしかしたら受験に合格した本人よりもうれしそうな、満面の笑顔。照れもせずすごくきれいに笑って言う「ほんとだ」の、最後の笑顔…ああ、うっとり。メガネくんよ永遠なれ!

●すごい言われようの伊藤先生だが、意外と男友達は多そうなのである。先生自身はどうでもいいと思っているかもしれないが。思えば単行本最終巻に収録された番外編の『先生14』もなかなかに興味深い。こういう中坊時代を経て、男子校で多くの友達にわいわい囲まれる高校生になる彼があったのだなあと、しみじみと想う。そして、運命なんてつまらない言葉は使いたくないけれど、そんなような出会いがめぐってきたのだなあと。そして、こんなふうに友人にも恵まれた?今がある。彼のこれからの人生の幸福を私は願ってやまない。(2003.11.11)


●カーター・オーガス● Carter Coflin Ohgus(獣木野生『パーム』/新書館ウィングスコミックス刊行中)
元医者、今はしがない私立探偵、日系三世の屈折中年男。「わたし自身がわたしは君を必要としていないと言っているんだからわたしは君を必要としてはいないんだ!」

 1949年10月27日アメリカ・ニューポート生まれ。身長172cm(5Ft.8in)、目の色はカーキ、髪の色は黒、肌の色は黄白色。
 コフリン夫妻の長子として生まれ、外科医の父にならって医者を志すが、母と折り合いが悪く、17歳のときに家を出て伯父のもとでオーガスに改姓。その後、両親と伯父を相次いで事故で失う。大学卒業後、インターン、研修医を経て28歳で専門医になるも、数年後にメディカル・センターを退職、私立探偵となって現在にいたる。

 カーターがかけているのはサングラスで、おそらくはジャネットにふられて(と言ってかまわないにちがいない)グレ始めたあたりからかけているのであろう、彼なりの「反社会的なポーズ」の象徴みたいなものなのだろうが、それでも彼もまた、立派なメガネくんである。
 彼は「無害な男/ささやかな人類への貢献を願い身の程を知った/自分のふがいなさに苦しんでいる男」だった。地道にがんばってがんばってがんばり続けて、ついにキレて「とにかく今度は運命のほうがわたしに求愛する番だ」とか抜かしてスネてひらきなおっていたところへ超弩級の大物・ジェームスと巡り会い、短くも密で濃いひとときを過ごすことになったのだ。観察型メガネくんとそのカリスマとの関係に近いが、カーターのニヒルになりきれない情の濃さとジェームスの超博愛主義的フレンドリーさが、ふたりの関係をそれとはちょっとちがうものにしている。そこがこの作品の妙でもある。物語の主役はジェームスだが主人公はカーターである、とでも言おうか…
 そもそもカリスマとは他者をまったく眼中に入れないからこそカリスマなのだが、だとしたらこの誰をも愛してしまう(しかもこの愛はみんな均等に適当に好きでだからどれも均等に大事じゃない、というタイプのものではない)ジェームスはカリスマの範疇には納まりきれない人物だ。そのジェームスをして「どんなことでも/絶対に/あんたの命令に従う」と言わしめるカーターこそ只者ではない。だいたい観察型メガネくんというものは立場的にしろ心情的にしろこのカリスマの方をボスとするものなのだが、このふたりはカーターの方がボスでジェームスはその助手なのだ。
 「孤独だから」ジェームスを「必要としてい」たカーターが好きだ。そうとなかなか認めないカーターが好きだ。ジェームスが子供のころからずっと夢に見ていた子供・アンディと実際に初めて出会ったとき、眠るアンディを見つめるジェームスを見てカーターは微笑んだ。彼はその出会いを、ジェームスのために喜んであげられる人間なのだ。そのアンディは、ジェームスがボアズと再会したときにとまどって見せたものだったのに。このときもカーターは微笑んでいた。そんなカーターが好きだ。
 彼は「障害物レースでトップランナーのわきからちゃっかりアミをくぐり抜ける二番手の選手、それがこの人」などとも評される人物で、その小器用なずるさをおそらく自他ともに認めてはいるのだろうが、当人が思っているほど本当は器用でないところがまたいかにもメガネくんだ。
 真面目で温厚で慎重で誠実で良識派の人格者、のふりをしているが、その実、ええかっこしいだは優柔不断だは情が深すぎるは気は長すぎるは意外と俗物だはで、しかもその内実がちょっとつきあうとすぐバレる。愛いヤツ!
 現在、連載は物語の「終わりの始まり」まで描かれたところで中断中だ。作品の評価は完結してからでなければ下せないというのが私の持論だが、現時点では上手いことまとまってくれたらマイ・ベスト・ワンとなりそうなくらい好みの作品である。早く再開してくれないかなー…(2002.10.17)


●緒方精次● Seiji Ogata(ほったゆみ・小畑健『ヒカルの碁』/集英社ジャンプコミックス全23巻)
詰めの甘さがなくなってきて、しぶとさや粘りが出てきた、新世代棋士台頭の急先鋒。「上座に座ってお待ちしてますよ」

 塔矢行洋名人(のち引退)門下の囲碁のプロ棋士。九段(のち十段、碁聖)。どんな碁でも打てる本格派。煙草はラーク、趣味は熱帯魚飼育、勝負服はダブルの白スーツ。愛車は…あの車の車種、おわかりになる方教えてください。(後に教えていただいたところではRX-7というものなのだそうな)

 すっごい好き。夢中。最近の大ヒット。これぞまさしく由緒正しいメガネくんだと思う。
 主人公ではない、主人公のライバルでもない、主人公のライバルの兄弟子、先輩という役柄。今が打ち盛りの中堅棋士で、大御所たちに果敢に立ち向かいつつも、やがて来る若手たちの波にはタイトルホルダーとして彼らを迎え撃ちたいと思っている、真ん中の世代。このポジションこそメガネくんのものなのよ!
 私はこの作品は小学館漫画賞受賞直後くらいの、コミックスの5巻目が出たくらいから1巻1巻追いかけていて、今では貸してくれる知人ができたので本誌で毎週追いかけている体たらくだ。初期に比べると物語の進行がややペースダウンしてきた感はあるが、まだまだスリリングで十分おもしろい。ことに絵の上手さはどんどん研ぎ澄まされてきて目を見張る。
 画力はもともとあった漫画家だが、長い作品だけに絵柄の変化もかなりある。緒方さんに関しても、最初はちょっと手塚治虫(ないし田中圭一?)が描くようなごつくもっさりしたおじさんだったのが、ふっくら柔らかい青年になったり、痩せて尖って神経質そうな兄ちゃんになったりいろいろしている。でもどれも好きだ。というか、私は本当に初登場時から緒方さんが好きだった。外見なんかこれですよ、これ。でもいいんだよ。見端じゃないの、キャラなんだよね。主人公・ヒカルの(ホントのことを言うとこの時点では佐為の)才能を見抜く鋭さを持っているところに、なんといっても惹かれたのだ。
 凡人にはわからない人の天才がわかるということは、その人自身は凡人ではないが天才でもまたないことを意味する場合が多い。緒方さんもまたそうであると言っていいだろう。もちろん碁はつねに研究・精進が必要で、天才のひらめきひとつでどうなるというものではなく、ヒカルにしてもアキラにしても天性のセンスや環境に恵まれたにしろ不断の努力を重ねて技量を高めているのであり、その意味ではこの物語に天才など出てこないと言っていい。だが、そのあらかじめ与えられた天性の何か、どんなに求めて血を流しても決して得られない何かが、彼我の間にあることを、緒方さんは知ってしまっているのではないだろうか。
 彼はずっとアキラを可愛がってきた。師匠の息子であり、弟弟子だ。これまではキャリアの差も歳の差もあり、良き兄ぶってこられただろう。ヒカルを見つけ、アキラにぶつけてきたのも、幼き者の成長を願う親心のようなものがあっただろう。アキラがプロになったとき、初めて対等の扱いをして見せているが、やはりまだまだ余裕があった。おもしろがっていられなくなったのはいつのころからだろう。もしかしたらそれは、実は最初にヒカルを知ったとき、そのときからではなかったか?
 渡辺氏によれば観察型メガネくんは自身の限界を知っていて、自分と世の中のすべてに絶望している。だからそんなことを突き抜けるカリスマ主人公が登場すると、魅了され、観察・研究してしまうという。自身、熱帯魚を飼っている緒方さんだが、彼がヒカルやアキラを見つめる姿は「鮎とか養殖しているおじさん」の行動を思わせる、と彼女は言う。肥え太らせて売り飛ばしその利益をものにするならそれはむしろ策略型メガネくんのようにも思えるが、この場合はつまり、対象と同じフィールドに立たないということに意味があるのだろう。観察型メガネくんはその名のとおり観察者・傍観者になり、決して勝負の場に立たない。勝負しなければ勝つこともないが負けることもまたないのであり、そのことのほうが大切だからだ。彼のプライドはそれほどに高く、またもろいのだ。
 そんなことはない、戦ってやる、勝ってやる、そして自分が頂点に立ってやる、覇者になってやると緒方さんは言うだろう。だが彼は本当はそんなには強くないのだ。そんなには悪くないと言ってもいい。彼の本質はそういうところにはないのだ。だからこそ彼なのだ。
 彼は今、破滅の予感に震えながらも、戦っている。アキラに言った「おまえはオレより下だ」という言葉は、もはや自身に言い聞かせているだけのようにしか聞こえないのに。今はまだ勝てている、だが…
 観察者になってしまえばまだ楽なのに。だが彼にはそうはできないのだ。そこがまた彼がメガネくんである所以だと思う。
 「他人に勝つことより、負かされてもいいからもっと高みを見てみたい、そんな欲求のほうが強いように感じる」と再び渡辺氏は言う。彼は天才を発見し、成長を促進させ、その上で叩きたいと考える一方で、自分を超えるさまを見てみたいと思っているのではないだろうか。門脇新初段のモノローグ「もてあそばれたいのかもしれない/誰にも負けたくないと思う一方で自分など遠く及ばない力にあこがれるのは/そいつが歩いていく先を見たいからだ/自分をはるかに越えていくその先を」はそのまま緒方さんの心情に当てはまるように思える。彼はそうとは認めないだろうが。
 彼は勝負から逃げられないし、逃げないだろう。「碁よりオモシロイものなどないよ」と言ってのける、「つまんない男」なのだから…
 いーいなー、この「どんな関係かわからなくていい」女性。やっかむ、というのとはちょっとちがくて、私はこの人がいて緒方さんが「気ばらしに」なって幸せなら本当に全然いいんだ。でも自分がこの人になれるんだったら本当になりたいよ。「タイトル戦の名も知らない」ところは同じなんだけど、ダメ? かつて板垣恵介『グラップラー刃牙』の愚地独歩館長に関して「初めて漫画のキャラクターに抱かれたいと思った」とのたまった知人がいましたが、近いものを感じるなー。全然「オトナ」じゃないよな、ワタシ…
 いったいいくつなんだろう。どんなふうに囲碁と巡り会ったんだろう。名人の門を叩いたいきさつは? 私はいわゆる姫川亜弓タイプ(と私が勝手に呼んでいるのだが)のアキラくんもすごく好きなのだが、ちょっと妄想しちゃうよねえ。芦原さんがツボの人はそこにも感じるだろうねえ。名人とも…(←鬼畜…)それもこれもみんな緒方さんが色っぽいからいけないんだよなっ。「さよなら」と題され佐為が消えるコミックス15巻の白眉は緒方さんの酔っぱらい姿だというのは一部ではかなり断言されています。ああ、攻めたてたい…(←バカ…)
 完結時に原作者が作画家にリクエストしたという「10年前の緒方」さん、ぜひ見てみたかったです。

 この作品はけっこうメガネ率が高く、典型的めがねっ子の筒井先輩や観察型メガネくんの岸本くんなど多士済々。岸本くんはもちろんだけど、メガネくんというにはパンチがないが飯島くんとか私は好きだ。奈瀬ちゃん番外編を読むまでもなく、飯島くんと奈瀬ちゃんの友達ぶりって素敵だ。それを言うなら伊角さんや和谷もそうなんだけれど、色恋が介在していない、まっすぐな子供同士の同好の士、という雰囲気がいいのだ。院生をやめても、プロにはならなくても、幸せでいてね。(2002.10.21)


●千歳蓮● Ren Chitose(ひうらさとる『LOVE+DESSIN』/講談社別フレコミックス全4巻)
今日本で一番センスのいいクリエイター。「オレがどこでだれと結婚してようが別れてようが/オマエには関係ない」

 ADD賞2年連続受賞の今をときめくアート・ディレクター。28歳。スモーカー。他人行儀にですます調の標準語でしゃべり、本気になると関西弁が出る。趣味は競馬、パチンコ、寺・神社・城下町めぐり。左党で「この世の中でチョコレートと名のつくモンが/死ぬほどキライ」。フリーランスのくせにワードロープはスーツオンリー。それというのも「どるちぇ&がっばーな?」とか「へるむーと・らんぐ?」とかの「オシャレなコーディネート」がまったく似合わず、腐れ縁のコピーライターが思わず管理してしまっているらしい。業界ではあまり知られていないが実はバツイチ。

 実はこの作品、後半の方をパラパラと雑誌で読んでいていつかまとめて読みたいと思っていたのだが、意外と短く完結していて驚いた。あんまり人気なかったのかなあ。
 17歳のごく平凡なヒロインが出会った、極上の大人の男。しかもバリバリの業界人。11歳の年齢差。恋愛の経験差。昔の女に囚われている男。クリエイター同士の恋愛。才能ある仲間への嫉妬。同じ夢を見ること、別々に歩いていくこと…
 題材としてはすごくおもしろくて、というか好みのものを扱っているのに、駆け足でやや未消化に終わってしまった感じなのが悔やまれる作品だった。モノクロイラストに派手な色のタイトルロゴというカバーも粋だったのになあ。
 紀久やコウたちなど、美大にぱっと編入してきたひろのとは志も心構えもちがう仲間たちとの確執なんていうあたりはもっとドラマが広げられそうだった。紀久はもっとひろののいい女友達になって友情ドラマが展開できそうだったし、コウなんてひろのに惚れるという線が見え隠れしていたのに、やらずじまいだったし。その代わりに出てきた蓮の従兄弟でフォトグラファーの直樹がひろのに絡み、これがまた蓮の前妻・綾子に横恋慕していたという過去もあっていい三角(四角?)関係ドラマに発展できたのに、中途半端で終結してしまったのがもったいない。
 最後の二話が急展開すぎたんだよ~、蓮はひろのに綾子の二の舞を演じさせたくなくて身を引いたはずなんだよね。あるいはこれから成長して伸びていく若いひろのには、自分よりも直樹の方がお似合いだと思って身を引いたはずなんだよ。そこには『先生!』の伊藤先生が響を藤岡くんに譲ろうとしたときと同様の構図があって、あれと同じくらいネチネチネチネチと悩んでくれなきゃだめなのよ! いやもちろんふたりは同系統とはいえまったく同じキャラクターではないし、作品のタイプもちがうので、あのまんまやれとは言わないんだけどさ。でもあまりに駆け足すぎてそういうところが読み取れなくなってしまっていたと思うのだ。
 綾子さんの扱いも実は私には疑問で、最後まで顔を出さない手もあったのではないかなーと思ったりはするのだ。蓮の背中を最後に押す言葉を発するのがこの人だったとしても、それこそ電話ごしでもよかったはずだし。
 別の女を愛している男、というのはなかなかそそられると思う。というか、別の女を愛している男を愛してしまったヒロイン、という状況に酔えるのだろう。この場合、この「別の女」とこの男とは現在進行形でラブラブなのではいけない。そんなんではヒロインの分け入る隙が全然ないからだ。そうではなくて、別れていてなお男が女に未練を引きずっている形が好ましい。よくあるパターンでは、この「別の女」とは死別した過去の恋人である。このように、その「別の女」が男の、そしてヒロインの目の前にはもういないことが重要だ。今現在でしゃばられるとかなりうざったいし、きちんと向き合って戦わなければならないとなるとドラマとしては重すぎて酔いづらいからだ。
 綾子、蓮、ひろのの形はこのパターンにすばらしく合致する。綾子は蓮が「海外出張行ってるあいだに出ていっ」て以来「行方不明」という「元ヨメ」だが、蓮は今でも「そろそろイケてな」くなりつつあるが綾子が選んだ眼鏡を使い続け(そのフレームにはフランス語で「私の人生の人」と書かれている)、ふたりの思い出がある場所を巡り歩き、髪型が似た女性の姿を目で追い、彼女が「最後に来て」と言ってクリスマス・イブに予約したホテルの部屋を別れてからも毎年予約して彼女を待っている。細かいことを言えば出て行かれてから届を出して「キッパリ切れ」るに至るには何か経緯や決断があったはずであり、そこまでしているのだからこんなに引きずるはずはないのではと突っ込みたいところなのだがまあ目をつぶろう。とにかくこれは黄金のパターンである。
 そしてこの過去に執着する感じや未来を恐れて踏み出せないでいる感じ、新たに出会ったものを大切に想いすぎてむしろおびえてしまう様はまさしくメガネくんなのだ!
 こんなにスーツが似合って方言がコワくて不器用でオヤジでカワイイいい男が、年下だなんて信じられないよ…しくしく…(2003.7.17)


<続く>
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宝塚歌劇花組『Ernest in Love』

2015年01月17日 | 観劇記/タイトルあ行
 東京国際フォーラム、2015年1日15日ソワレ。

 19世紀末のロンドン。ハートフォードシャー育ちの貴族、アーネスト・ワージング(明日海りお)はかねてから想いを寄せるフェアファックス家の令嬢グウェンドレン(花乃まりあ)にどのようなプロポーズをしようかと思案していた。グウェンドレンず母親のブラックネル夫人(悠真倫)と共に、彼女の従兄にあたるアルジャノン・モンクリーフ(芹香斗亜)の屋敷を訪れる予定であることを知ったアーネストは、早速彼の屋敷に向かうが…
 原作/オスカー・ワイルド、脚本・作詞/アン・クロズウェル、作曲/リー・ポクリス、日本語脚本・歌詞・演出/木村信司、翻訳/青鹿宏二。1960年オフ・ブロートウェイ初演、宝塚歌劇団では2005年に月組、花組で初演。花組新トップコンビのプレお披露目公演。

 生では未見で、月組版をスカステで観たことがあるくらいでした。ミホコのコメディエンヌっぷりが素晴らしくて、可愛らしいラブコメディだけれど、役が少なくて小さな作品だなあ…という印象でした。
 今回も箱がやや大きすぎたのではあるまいか…そしてやはり完全モブ扱いの下級生が気の毒だったかもしれません。
 たとえばブラックネル夫人はどうせだったらビックにやらせてしまえばよかったのに…とかね。
 まあでも、一幕があまりにあっけなくて驚きましたが、二幕はほろりにやりとさせられて盛り上がり、楽しく観ました。
 私はみりおにはまったく萌えないのだけれど、ちょっと小さいこと以外は本当に問題のない、なんでもできる華やかなスターさんだなあ、と思います。
 かのちゃんも健闘していたと思います。歌はしっかりしているし、可愛らしかったし、ヒロイン力がありました。スタイルが良くて難しいシルエットのドレスも着こなしていましたしね。でもあのドレスはなんだってあんなぺらっぺらのプリント生地で新調してしまったの…!?
 コミカルなパートはやはりミホコの芸達者な域にはなかなか達していず、やや笑いづらい部分もあったかなー、がんばれ!
 これまた個人的にまったく萌えないキキちゃんですが、それでもやはり上手いとは思います。特にアルジャノンってかなり大きい役ですよね、下手したらアーネストを食えますもんね。そういう意味でも、今後花組の二番手としてキキを立てていくのだとしたらみりおとの並びはこれでいいのかしらん…とまた勝手にいらん心配をしてしまいました。
 組替えしてきた城妃美伶は私は買っていて、まず声が好きだし、キュートでチャーミングな「ちっちゃなセシリイ」っぷりにもうキュンキュンしてしまいました。でもまだまだヒロイン力を学んでいってほしいです。で、次期娘1にしないならさらに組替えしてほしいです。
 あとは、らいらいやくみちゃんがきっちり仕事しているとはいえ、まりんさんはやはり苦しかったと思うし、さおたさんのところも若手でもよかったのではないかという気もします…
 翻訳にももう少し手を入れてほしいと思いましたし、もともとの海外ミュージカルがそうなんだから仕方ないにしても一幕があまりに短くてしどころがないので、簡単でもいいからアーネストとグウェンドレンの出会いの場面とか作っちゃえばいいのに…とかは思いました。
 とはいえナンバーはどれも素敵で、鳥籠ならぬ温室の骨組?に囲まれるオケは塩田先生の指揮でノリノリだし、楽しい観劇でした。
 


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村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』(文藝春秋)

2015年01月10日 | 大空日記
 1982年秋、専業作家としての生活を開始したとき、著者は心を決めて路上を走り始めた。それ以来25年にわたって世界各地でフル・マラソンや100キロ・マラソンや、トライアスロン・レースを休むことなく走り続けてきた。旅行バッグの中にはいつもランニング・シューズがあった。走ることは著者の生き方をどのように変え、書く小説をどのように変えてきたのだろうか? 日々路上に流された汗は何をもたらしてくれたのか? 村上春樹が書き下ろす、走る小説家としての、そして小説を書くランナーとしての、必読のメモワール。

 あけましておめでとうございます。新年初の更新です。今年もよろしくお願いいたします。
 さて、こちらの本ですが、年末の大空さんフェスタでじゃんけんに勝ち抜いてクリスマス・プレゼントとしていただいたものです(笑)。『華クラ』大劇場お茶会でもじゃんけんに勝って赤いバラを一輪いただいたことがあったのですが(ちゃんと東京まで持ち帰りました)、そのときと同様、なんとなく大空さんとシンクロして「次はコレ出すな、ってことはアレ出せば勝てるな」ってのがわかって、それでゲットしました。
 フェスタでも「最近読んでおもしろかったのはシュタイナーの食物論みたいなの」とか言って会場中をぽかんとさせたくらい(自分が体調を一定に整えるために自己流でやってきた食事法みたいなものが、その本の理論で裏打ちしてもらえた気がしたらしい…)、読書家ですが乱読で読書傾向が一般的な流行とかとはかなり違っていることがファンにも有名な大空さんですが、プレゼント用にセレクトした10数冊はまあまあ一般的でした。以前読んでおもしろかったので勧めたいものや今興味があって自分も読みたいと思っているものなど、そのラインナップを見ているだけでも大空さんの人柄やものの見方、考え方が窺えておもしろかったです。
 私自身は村上春樹は昔に初期の何冊かを読んだだけで、特になんとも思わなかった記憶しかなく、その後大ブレイクしても「みんなが読んでるなら私はいいや」みたいな感じで素通りしてきたので、こういう機会に触れられてよかったです。しかもこれは小説ではなくエッセイなので、作家の考え方がダイレクトに表れますし、それを大空さんがどう捉えてどこをどうおもしろがって何故人に勧めたいと思ったのかがとてもよくわかって、おもしろい読書体験となりました。好きな人が読んでおもしろかったと言っている本を当人から勧められて読むなんて経験はなかなかないことですよね。そもそも人に本を薦めるのって意外と難しいものですし。でもそれをあえてやっちゃう大空さんが本当に愛しいし、そんな機会に恵まれてとても幸運でした。

 というわけでこの本ですが、確かにエッセイというよりはメモワール、でした。人生すべてについての回顧録ではなく、走ることに関してのみではありますが、覚え書きというか自分語りというか、なのです。
 著者はある日、小説が書きたくなって、書き上げて、応募して、受賞して、デビューして、売れちゃって、職業作家としてやっていくことにした…のだそうです。で、小説家として長くやっていくにあたり、作品をコンスタントに書いていくためには体力が必要だし規則的な生活が必要だ、ということで走り始めたようです。ものすごく勝手な要約ですが。
 で、単なるランニング程度だとアレなので、年に何回かレースに出ることを目標にコンディションを整えていくようになって…ということで、今もストイックなまでの生活を続けているようです。
 このあたりが、大空さんの日々の暮らしに通じるものがあるのかな、と私は思いました。著者はあくまで小説家を本業としていて、その生活というか精神を支えるために走っていて、その課程にレースがあるのですが、大空さんにとってはこのレースが公演で、それに向けて日々コンディションを整え走るランニングがお稽古にあたるのかなあ、と。日々のランニングや年数回のレースの先に、著者の最終的な目的としていい小説を書くことがあるように、大空さんにとっては日々のお稽古と年数回の公演の先に「大空祐飛」なるものを作り上げることが最終的な目標としてあるのかな、とかね。
 大空さんは、現役時代にそれをずっと作ろうとしていて、自分がそれらなろうとしてきて、ついにやっと自然にいられるようになったから卒業を決めた、みたいなことをフェアウェルなどでも語っていました。
 今の「大空祐飛」は宝塚歌劇団の生徒の、とか宙組トップスターの、という枠はなくなっても、本名の大空さん(ヘンな言い方ですが)と表裏一体というかまさに一心同体として今もあって、今後もその名前で役者として働いていき生きていくのだ、と決心したからこそまた舞台に戻ってきてくれたのだろう、と私は思っているのです。
 大空さんがこの本を読んだのが最近なのか現役の頃なのかはわかりませんが、おそらくシュタイナーのときと同じで、自分にとってベストの方法であろうものをずっと自己流に模索してきてある程度つかんだと思えたものがあって、それと同じようなことを他の人もしていてやっぱりどうやら正しい方法らしい、と思えた喜びがこの本を読んだときにあったんだろうな、と思うと、その「そうそう、そうなのよ!」と膝を打ちながら読書する大空さんを想像するだけで微笑ましくて私は幸せになってしまうのでした。イヤあくまでこちらの勝手な想像なんですけれどね。
 翻って自分自身を見れば、好きな仕事について日々楽しくまた苦しく働いていますが、自分の名前を出して自分だけの力量で勝負するというよりはやはり組織の一員として円滑に業務を回すことに専心するタイプの仕事ですし、仕事があるから食べていけてそれで幸せに生きていくつもりですが、最終的になにものかになろうと目指しているとか日々研鑽しているとかはない怠惰な流され人生でもあるわけで、著者のストイックな姿勢にも感心はするのですが共感はしづらいというか「すごいねえ、そういう人もいるんだねえ」って感じで、お恥ずかしい限りではあります。
 でももちろんだからこそ大空さんのような人にシビれるのだろうし、素敵だなと思うわけですけれどね。せめてファンとして見苦しくない程度にはありたいと思いますが、今さら性格も生き方も変えられないでしょうし、今後も私はゆるゆると人生をいき、ゆるゆると好きな人の才能を応援をし続けたいと思っています。
 なんか読書の感想じゃないな、これは大空日記カテゴリーかな。
 まあでもいいや、そんなこんなで今年もゆるゆるとよろしくお願いいたします!




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