シアタートラム、2024年5月15日19時。
病院らしき施設のなかの部屋に、パジャマ姿のジョン・ケイン(田中圭)が入ってくる。今日はジョンにとって年に一度の大切な日。彼は質問を受けて準備をする。「今日の調子はどうですか?」はい、元気です…まもなく、老人(奈緒)とロブスター(富山えり子)がやってくる。それはメアリーという名のふたりの女性。最後にドラム奏者(荒井康太)が入ってきて全員そろうと、はじめ!のかけ声でジョンは自分の人生について語りはじめる…
作/エンダ・ウォルシュ、翻訳/小宮山智津子、演出/白井晃。2021年エディンバラ初演、全1幕。
『おさラブ』以前から田中圭は好きな役者さんで、舞台もご縁あれば観ようとしています。過去にはこちらやこちらやこちらやこちらなど。白井晃×エンダ・ウォルシュは一作目の『バリーターク』を観ていて、これはなかなかおもしろく感じた記憶です。
ただ白井さんって当たり外れがあるというか、妙に難解で私にはよくわからない作品を手がけることも多々あり、そして田中圭も映像はともかく舞台は好んでそうした作品を選んで出ているようにも感じられるので、この作品もサイトの解説文なんかを読んでもさっぱり意味がわかりませんでしたが、「まあトラムの距離感でパジャマ姿の田中圭を拝めるんだから、いいか」という感じで出かけてきました。
で、ホント生田中圭のカッコよさにシビれて終わりましたよね…!(笑)パジャマからの生着替えも拝めましたしね! 髪型はいずぽやみたいでしたけどね! テレビドラマで受ける印象より背がすらりと高く、痩せたの?絞ったの?と思うくらいパジャマの中で身体が泳いでいて薄いのも印象的でした。『リターンズ』になって、ちょっと歳相応にむっちりみっちりしたかしら…?と思っていたくらいだったので…長く病院に収容されている患者、という役作りで多少身体を作ったのかなあ? ともあれ頭身高くてアタマちっさくてスタイル良くて、ホントうっとりでした。声もいいし台詞もいいし身体も利くし、もちろんはるたんには全然見えなくて、役者として素敵でうっとりです。終演後、同伴したお友達への第一声は「ナマやっぱサイコー! 田中圭やっぱカッコいいわー…!!」でした(笑)。
逆に、他に言うことがない…
奈緒は『恭しき娼婦』がすごくよかったし、先日までのテレビドラマ『春になったら』もとてもよかったです。富山さんも『ザ・ウェルキン』など印象的でした。おふたりともとても達者でした。音楽が主にドラムというかパーカッションで、演奏者が役者でもあるように舞台の上、お芝居の中の空間にいる、というのは最近よく観るけれど、これもある種の効果があったと思いました。つまりおもしろくなかったわけではない、しかしよくわからなかった…(^^;)
ストーリーとして解釈すると、年1回なのか誕生日なのかはたまた実は毎日なのかわからないけれど、ジョンは医師の問診を受ける。それがクリアとなれば退院できる…ということなのか? そしてダメなら毎度のごとく演劇療法みたいなものが始まる…ということなのか? ジョンが書いたらしい彼の来し方を台本に、ふたりの女優とともに彼のこれまでの人生が演じられ、女優たちはまずはジョンの両親に扮する。そこから窺えるのは、ややネグレクト気味だったらしいジョンの育ち、ないし粗野で理解がないかあまり子供にかまわないようだったらしい両親との暮らし、太っていて学校ではいじめられっ子だったらしい様子、しかし詩を愛し繊細でややや内向的だっただけで、思春期の性衝動も正常範囲で、特に病的でも神経症的でもなんでもないジョンの姿…です。彼はもちろん多少の生きづらさを感じていたかもしれないけれど、決して病院に収容されるような症状があったわけではないと思われました。けれど我々の社会はこうした人々を安易に疎外し、閉じ込め、より孤独に追い込みがちなのではないか…ということを糾弾している作品、なのかもしれません。
メアリー2の方はややビジネスライクというか、時間が来れば次の仕事へ出かけていってしまう。対してメアリーの方は居残って、ジョンがかつて恋した少女の姿のまま、彼と並んで座って、ジョンが手をつないでくるのにも逆らわず、そのままふたりはじっと佇んで、溶暗…でおしまい、という舞台でした。
この暗転がめーっちゃ長かったのにも意図があるんでしょう、でもなんか居心地悪く感じてしまいましたけれどね、私はね…ちなみに明転してお辞儀、となったとき、彼らは椅子から立ち上がりかけていて、そこに残りのふたりが合流して整列してお辞儀、という流れだったので、これは私的には良きでした。明転したときに暗転したままの格好や表情を見せられるのが私は何より嫌いなので…もう立ち上がって気をつけしてお辞儀するだけの格好になっていてくれるのがベストなんです。芝居を引きずらないでほしい、役を降りるところを見せないでほしい。それは暗闇の中で切り替えていてほしいのでした。
それはともかく、現状、私は心身ともにおかげさまで健康なので、なんというか、安全な立場からこの舞台が観られました。収監する側、疎外する側にならないようにしよう、などとは考えましたけれどね。でも、演出家が言うようにジョンの姿を観て「これは僕の物語だ」「私の物語だ」と感じるような観客には、たとえば狂乱の展開とか多大な音量とか照明の点滅とかは、耐えがたかったのではないかしらん…とかの心配もしてしまいました。孤独を感じることや社会に馴染みづらいと感じることは誰しもあることだとは思いますが、ああいう激しい展開には本当に繊細な人にはしんどいのでは…うぅーむ。
作家は「僕は25年間、同じ劇を書いている」という自覚はあって、それは「登場人物たちはある部屋にいる--それから何かをするうち記憶か幻想に入り込んでゆき--自分と、自分がいる世界についての真実を解き明かそうとする。そして理解する瞬間にたどりつく[か、つかないか]--そうして終わる……」というものだそうです。2作しか観ていないけれど、まあそのようですね。帰宅してプログラムを読んで、さて世の人々はどんな感想をつぶやいているのだろう、とツイッター(エックスとか知らん)を検索してみたところ、出てきたのはほぼチケット譲渡ツイでしたが、その中に「ウォルシュのこのタイプの作品にはもう飽きた」というのがあって、なるほど当然の意見だな、と思ったりもしました。
ジョンと医師の問診(?)は過去のものなのかはたまたなんなのか、今なされているもののように見えて、重ねて録音が流れたりするのですが、芝居の最後の方ではジョンの声が明らかに老人のものになっているものもあります。つまり今のジョンの姿すら幻想、ないし過去のもので、ジョンは医師との問診を繰り返しながら老齢になるまでこの施設から出られていない、ということなのかもしれないわけです。居残ってくれたメアリーも単なる幻想なのか、それともジョンに共感してくれた彼女もまたここに収容されることになってしまったということなのか…? ここに、わかりやすいオチや回答やゴールがないことがミソなのかもしれませんが、しかし私はそここそが怖いし、だから好きか嫌いかでいえば好きじゃない演目だな、とも感じました。収容されたままでもジョンは幸せでした、という結論ならそれはそれでいいけれど、それすらない、宙ぶらりんです。そして私は、人はどんなに引きこもり人づきあいを断とうともひとりでは生きていけないのだから、世の中に、社会の中に居場所を与えられるべきだし、だからジョンが山奥で世捨て人にように生きていく、とかならそれは止めないんだけれど、こうした施設の中に閉じ込めるのは違うだろう、と考えるのです。私は死刑には反対で、終身刑が最も重い罰だと思うし、それは社会から、人々から疎外されるからこそ罰になるのだと考えているのですけれど、ジョンの収容のされ方はほとんどそれに近い。そんな罪を彼は犯していないにもかかわらず、です。だからそれは正されるべきだし、正される気配くらいはさせて物語は終わるべきなのではないかと思うのですけれど、あの長い長い暗転のラストシーンは決してそうしたことを示唆していなかったと私は感じました。だから「なんやねん、好かんわ」と思ってしまったのでした。なんか全然間違った解釈だったらすみません…
あと、関係ないですが、タイトル表記がダサいと思う。潔くスペルだけにするべきだし、スペルだけでは読めないと思うなら(そして読みづらいスペルではあるけれど)ハナからカタカナ表記だけにすべきでしょう。なんだこの並列…
立ち見も出ていて、客席は盛況でした。『リターンズ』を見てここまで来たならすまんな、とどの立ち位置からかわからないけど脳内で謝る私…でも役者を推すってそういうことだから…
宣伝美術は高見清史、プログラムデザインも。雰囲気があって素敵だなと思いました。田中圭のコメントの文末に「!」「!!」が多いのにも好感(笑)。これが24年度の世田パブ主催公演の一発目だそうな…ついていきますよ、よろしくです!!!
病院らしき施設のなかの部屋に、パジャマ姿のジョン・ケイン(田中圭)が入ってくる。今日はジョンにとって年に一度の大切な日。彼は質問を受けて準備をする。「今日の調子はどうですか?」はい、元気です…まもなく、老人(奈緒)とロブスター(富山えり子)がやってくる。それはメアリーという名のふたりの女性。最後にドラム奏者(荒井康太)が入ってきて全員そろうと、はじめ!のかけ声でジョンは自分の人生について語りはじめる…
作/エンダ・ウォルシュ、翻訳/小宮山智津子、演出/白井晃。2021年エディンバラ初演、全1幕。
『おさラブ』以前から田中圭は好きな役者さんで、舞台もご縁あれば観ようとしています。過去にはこちらやこちらやこちらやこちらなど。白井晃×エンダ・ウォルシュは一作目の『バリーターク』を観ていて、これはなかなかおもしろく感じた記憶です。
ただ白井さんって当たり外れがあるというか、妙に難解で私にはよくわからない作品を手がけることも多々あり、そして田中圭も映像はともかく舞台は好んでそうした作品を選んで出ているようにも感じられるので、この作品もサイトの解説文なんかを読んでもさっぱり意味がわかりませんでしたが、「まあトラムの距離感でパジャマ姿の田中圭を拝めるんだから、いいか」という感じで出かけてきました。
で、ホント生田中圭のカッコよさにシビれて終わりましたよね…!(笑)パジャマからの生着替えも拝めましたしね! 髪型はいずぽやみたいでしたけどね! テレビドラマで受ける印象より背がすらりと高く、痩せたの?絞ったの?と思うくらいパジャマの中で身体が泳いでいて薄いのも印象的でした。『リターンズ』になって、ちょっと歳相応にむっちりみっちりしたかしら…?と思っていたくらいだったので…長く病院に収容されている患者、という役作りで多少身体を作ったのかなあ? ともあれ頭身高くてアタマちっさくてスタイル良くて、ホントうっとりでした。声もいいし台詞もいいし身体も利くし、もちろんはるたんには全然見えなくて、役者として素敵でうっとりです。終演後、同伴したお友達への第一声は「ナマやっぱサイコー! 田中圭やっぱカッコいいわー…!!」でした(笑)。
逆に、他に言うことがない…
奈緒は『恭しき娼婦』がすごくよかったし、先日までのテレビドラマ『春になったら』もとてもよかったです。富山さんも『ザ・ウェルキン』など印象的でした。おふたりともとても達者でした。音楽が主にドラムというかパーカッションで、演奏者が役者でもあるように舞台の上、お芝居の中の空間にいる、というのは最近よく観るけれど、これもある種の効果があったと思いました。つまりおもしろくなかったわけではない、しかしよくわからなかった…(^^;)
ストーリーとして解釈すると、年1回なのか誕生日なのかはたまた実は毎日なのかわからないけれど、ジョンは医師の問診を受ける。それがクリアとなれば退院できる…ということなのか? そしてダメなら毎度のごとく演劇療法みたいなものが始まる…ということなのか? ジョンが書いたらしい彼の来し方を台本に、ふたりの女優とともに彼のこれまでの人生が演じられ、女優たちはまずはジョンの両親に扮する。そこから窺えるのは、ややネグレクト気味だったらしいジョンの育ち、ないし粗野で理解がないかあまり子供にかまわないようだったらしい両親との暮らし、太っていて学校ではいじめられっ子だったらしい様子、しかし詩を愛し繊細でややや内向的だっただけで、思春期の性衝動も正常範囲で、特に病的でも神経症的でもなんでもないジョンの姿…です。彼はもちろん多少の生きづらさを感じていたかもしれないけれど、決して病院に収容されるような症状があったわけではないと思われました。けれど我々の社会はこうした人々を安易に疎外し、閉じ込め、より孤独に追い込みがちなのではないか…ということを糾弾している作品、なのかもしれません。
メアリー2の方はややビジネスライクというか、時間が来れば次の仕事へ出かけていってしまう。対してメアリーの方は居残って、ジョンがかつて恋した少女の姿のまま、彼と並んで座って、ジョンが手をつないでくるのにも逆らわず、そのままふたりはじっと佇んで、溶暗…でおしまい、という舞台でした。
この暗転がめーっちゃ長かったのにも意図があるんでしょう、でもなんか居心地悪く感じてしまいましたけれどね、私はね…ちなみに明転してお辞儀、となったとき、彼らは椅子から立ち上がりかけていて、そこに残りのふたりが合流して整列してお辞儀、という流れだったので、これは私的には良きでした。明転したときに暗転したままの格好や表情を見せられるのが私は何より嫌いなので…もう立ち上がって気をつけしてお辞儀するだけの格好になっていてくれるのがベストなんです。芝居を引きずらないでほしい、役を降りるところを見せないでほしい。それは暗闇の中で切り替えていてほしいのでした。
それはともかく、現状、私は心身ともにおかげさまで健康なので、なんというか、安全な立場からこの舞台が観られました。収監する側、疎外する側にならないようにしよう、などとは考えましたけれどね。でも、演出家が言うようにジョンの姿を観て「これは僕の物語だ」「私の物語だ」と感じるような観客には、たとえば狂乱の展開とか多大な音量とか照明の点滅とかは、耐えがたかったのではないかしらん…とかの心配もしてしまいました。孤独を感じることや社会に馴染みづらいと感じることは誰しもあることだとは思いますが、ああいう激しい展開には本当に繊細な人にはしんどいのでは…うぅーむ。
作家は「僕は25年間、同じ劇を書いている」という自覚はあって、それは「登場人物たちはある部屋にいる--それから何かをするうち記憶か幻想に入り込んでゆき--自分と、自分がいる世界についての真実を解き明かそうとする。そして理解する瞬間にたどりつく[か、つかないか]--そうして終わる……」というものだそうです。2作しか観ていないけれど、まあそのようですね。帰宅してプログラムを読んで、さて世の人々はどんな感想をつぶやいているのだろう、とツイッター(エックスとか知らん)を検索してみたところ、出てきたのはほぼチケット譲渡ツイでしたが、その中に「ウォルシュのこのタイプの作品にはもう飽きた」というのがあって、なるほど当然の意見だな、と思ったりもしました。
ジョンと医師の問診(?)は過去のものなのかはたまたなんなのか、今なされているもののように見えて、重ねて録音が流れたりするのですが、芝居の最後の方ではジョンの声が明らかに老人のものになっているものもあります。つまり今のジョンの姿すら幻想、ないし過去のもので、ジョンは医師との問診を繰り返しながら老齢になるまでこの施設から出られていない、ということなのかもしれないわけです。居残ってくれたメアリーも単なる幻想なのか、それともジョンに共感してくれた彼女もまたここに収容されることになってしまったということなのか…? ここに、わかりやすいオチや回答やゴールがないことがミソなのかもしれませんが、しかし私はそここそが怖いし、だから好きか嫌いかでいえば好きじゃない演目だな、とも感じました。収容されたままでもジョンは幸せでした、という結論ならそれはそれでいいけれど、それすらない、宙ぶらりんです。そして私は、人はどんなに引きこもり人づきあいを断とうともひとりでは生きていけないのだから、世の中に、社会の中に居場所を与えられるべきだし、だからジョンが山奥で世捨て人にように生きていく、とかならそれは止めないんだけれど、こうした施設の中に閉じ込めるのは違うだろう、と考えるのです。私は死刑には反対で、終身刑が最も重い罰だと思うし、それは社会から、人々から疎外されるからこそ罰になるのだと考えているのですけれど、ジョンの収容のされ方はほとんどそれに近い。そんな罪を彼は犯していないにもかかわらず、です。だからそれは正されるべきだし、正される気配くらいはさせて物語は終わるべきなのではないかと思うのですけれど、あの長い長い暗転のラストシーンは決してそうしたことを示唆していなかったと私は感じました。だから「なんやねん、好かんわ」と思ってしまったのでした。なんか全然間違った解釈だったらすみません…
あと、関係ないですが、タイトル表記がダサいと思う。潔くスペルだけにするべきだし、スペルだけでは読めないと思うなら(そして読みづらいスペルではあるけれど)ハナからカタカナ表記だけにすべきでしょう。なんだこの並列…
立ち見も出ていて、客席は盛況でした。『リターンズ』を見てここまで来たならすまんな、とどの立ち位置からかわからないけど脳内で謝る私…でも役者を推すってそういうことだから…
宣伝美術は高見清史、プログラムデザインも。雰囲気があって素敵だなと思いました。田中圭のコメントの文末に「!」「!!」が多いのにも好感(笑)。これが24年度の世田パブ主催公演の一発目だそうな…ついていきますよ、よろしくです!!!
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