駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

W・ブルース・キャメロン『野良犬トビーの愛すべき転生』(新潮文庫)

2017年06月24日 | 乱読記/書名な行
 兄弟姉妹に囲まれ、野良犬としてこの世に生を受けた僕。驚くことに生まれ変わり、少年イーサンに引き取られてベイリーと名付けられる。イーサンと喜びも悲しみも分かち合って成長した僕は歳を取り幸福な生涯を閉じるが、目覚めると今度は雌のエリーになっていて…

 犬と馬の出てくる物語に目がない私ですが、本当におもしろいと思えるものはなかなかないものです。これはおもしろく読みました。なんと言っても転生する、記憶が引き継がれるというアイディアが秀逸ですね。犬の中でもとりわけ賢くて人間と暮らす道理が最初からわかっているような子がいるものですが、生来の性格とかではなくて、何度か転生を繰り返していて経験があるから、なのかもしれません。
 単なる擬人化でもなくて、ちゃんと犬なりの理解の仕方でしか人間や社会を見ていないところなんかがきちんと描かれているのもおもしろかったです。「少年」と「仕事」をことに愛するものとして描かれているところもいい。
 原題は『Dog’s Purpose』で、続編もあるそうだけれど、さてどうかなあ。つまり、一匹の犬が生まれてから転生を繰り返しついには転生するのをやめ成仏する(?)までには、ひとりの人間を完全に幸福にするという目的が達成されることが条件となるのだ…ということなのであれば、いくら犬が人間と共に暮らし進化してきたからといって犬に対してちょっと失礼というか酷というか、な気が私はするんですけれど。そこまで人間に依存した生き物ではないんじゃないの?という。というかそんな生き物なんか存在しないだろう、という、ね。
 でもまあ、今回のお話に関しては、ややできすぎな気もするけれど綺麗にまとまっていて、楽しく読み終えられました。






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宝塚歌劇宙組『パーシャルタイムトラベル』

2017年06月18日 | 観劇記/タイトルは行
 宝塚バウホール、2017年6月15日11時。

 時は現代。放蕩三昧の日々を送る青年ジャン(桜木みなと)は思うようにいかない日々にもどかしさを感じながら、ストリートで歌っていた。ある日、ファンだという娘テス(星風まどか)が現れる。テスに導かれるまま骨董屋を訪れたジャンはとある金属の部品に目を留め、そのまま買い取る。いったいこれはなんなのかと金属に触れていると、めまいに襲われたジャンは、やがて兵士たちが駆け抜ける原野の中で意識を取り戻し…
 作・演出/正塚晴彦、作曲・編曲/高橋城、玉麻尚一、高橋恵。全2幕。宙組若手スターのバウ主演第二作。

 とってもおもしろく観てしまいました。
 私はハリーがわりと好きなのですけれど、当たり外れが大きい作家だとも思っているし、「私は好きだけどこれは一般的にはウケないだろう」とか「アナタがやりたいことはわかるけれどこれは宝塚歌劇ではないだろう」という作品を作りがちな作家だとも思っていて、心配していた、というのもあります。
 演目発表時の漠然としたあらすじとかタイトルとかサブタイトルからしても「あんま中身決まってないんだろうなあ…」としか思えませんでしたし、ポスターが出てもその印象は拭えず、配役が出ないので「脚本上がってないんだろうなあ…」としか思えず…というようなことを、ずっとずっと続けてきました。実際、ずんちゃん自身がお茶会で、ほぼノープランでポスター撮影をした、とか笑って言っちゃっていましたからね。
 で、スカステの稽古場情報なんかが出てきて初めて「コメディなんだ?」とわかってそれはそれで困惑し、初日が開いて「これはいいハリー」という評判が聞こえてきても「初日はファンが観るものだし、とりあえずみんなほめるんだろうし…」とやっぱり不安でした。革命もないし秘密警察も出てこないよ、と聞かされても、そういうのが出てきてそれでおもしろくて好きなハリー作品もあるしなあ…と、ホントおっかなびっくりで出かけたのでした。
 その分、おもしろくてよくできていると思えて楽しくて安心した、というのもあるかもしれません。でも、本当ならもっとちゃんと最初からワクワク楽しみに出かけたかったです。だからやっぱり最初からちゃんと企画立てて宣伝プラン立てていいポスターを作って煽んなきゃダメですよ、期待してもらわなきゃダメですよ。ずんちゃんの魅力を引き出す、ちょっと不思議でファンタジックなタイムスリップもののラブコメディをやりますよ、って最初から喧伝しなくちゃダメ。でないと「ハリーだしな…」ってチケット買うのを控えちゃうファンだっているんですよ、自分がそういう作家だって自覚は持ってほしいです。それで売れ行き悪かったら主演が全部背負うんだよ? ホントやめていただきたい。外向きには完売しているけれどそういうことじゃないってことは、ちょっとしたファンならみんな知ってることじゃないですか。宙組の若手実力派スター、というかほぼれっきとした四番手スターと言っていい存在、95期の中では遅れてきた感があるかもしれないけれどバウ主演二作目をやるのはふたり目とたいしたもの、という期待のポープずんちゃんの大事な作品ですよ。ファンを無意味に不安にさせるのはやめていただきたいです。というか興行として下の下です。
 …と、苦言を呈して一応すっきりしたので、以下感想を。

 というわけで別にジャンのシンガーソングライターとかストリートアーティストという設定は特に大きな意味があるものではありませんでした。ファンがちょっとはいたりもしたのでしょうが、本人自身はそこまで才能があるわけでも情熱をかけているようでもないことがすぐわかるからです。要するにジャンは、現代のどこにでもいそうな若者、というキャラクターなんです。学校は終えていて(中退とかかもしれないけれど)、グレかけてヤクザまがいのチンピラグループにいたこともあったし違法なことに手を染めかけたこともあるけれど今は抜けていて、さりとて将来の目標があるとか夢があるとかやりたいことがあるとかはなくて、この先どうしたらいいのか自分でもわからなくてもがいている、ごく普通の現代の若者、青年。
 それをナチュラルに、また嫌味なく、そしてなんとなく好感度を持たせて演じてみせているずんちゃんは、たいしたものだと思いました。そりゃ宝塚歌劇はそもそもファンが観にいくものなので主演者にも最初から好感はあってなんとなく甘く観るものですが、それでもこういうしどころのない、平平凡凡であることに意味があるようなキャラクターを演じるのって難しいんだと思うのです。物語のキャラクターって、現実の人間よりもうちょっとだけ誇張されて特徴づけがされていたり、特異な設定を背負わされていることが多いものです。そしてそういうタイプのキャラクターであればその特徴を演じてみせればいいわけですが、普通の若い男の子であることを、そのまんま、ちょっとバカっぽいところまで含めて(笑)、でも決してバカすぎて観客が見放したくなるようなことはさせずに好感度を持たせて演じるなんて、今ずんちゃんが若くてハマりやすいから、ということ以上にやはりずんちゃん自身の上手さを感じますし、感心しました。そしてこういう普通のキャラクターをあえて当ててずんちゃん自身の魅力をアピールしようとしたことは今回のハリーの企画意図でもあったようで、やるじゃんハリー、とほめたい気もいでいっぱいになりました(「何様だよ」というつっこみはご容赦ください、ホントすんません)。
 そう、これはタイムスリップものなのですけれど、現代のごく普通の青年を主人公にしている点がミソで、だからオチ含めて今まさにやる意義がある芝居に私には思えました。そういうところもおもしろかったです。
 もちろんタイムスリップものって、現代に生きている主人公が、過去とか異世界にスリップしてしまうタイプの物語がほとんどです。だから主人公は最初は現代に帰りたがるし、主人公の希望が叶えられるという意味ではその時点ではゴールは現代に帰ることに設定されるものです。ただしだんだんに行った先の過去や異世界で人間関係ができ事件に巻き込まれなんなら主導権を取るようになる(何故なら主人公ですから!)と、そっちを解決することが第二のゴールに設定されます。で、その相反するふたつのうち、どっちを最終的な物語のオチにして決着をつけるの?というのが長い目で見たときの読者・観客の焦点になったりすると思うのです。未だ連載中の『王家の紋章』なんかもそうですね。そしてたとえば完結済みの『天は赤い河のほとり』『ふしぎ遊戯』『漂流教室』(いずれも漫画ですが)などはそれぞれ違ったタイプの決着のつけ方をしています。現代に戻らず、行った先で生涯を終えることを決心して終わるもの、涙々に別れて現代に戻ってきたら、行った先で出会った人が今度はこっちに転生(?)してきて再会して終わるもの、などなど…
 タイムスリップものがもてはやされるのは、主人公が行った先で恋に落ちたり出世したりなんたりしても、現代に残した家族や友達とは離れ離れのままでいいのか、みたいな問題が常に障害としてドラマチックに存在し続け、ドラマを盛り上げてくれるからだと思います。だからこそ、そこに新たな、その作家なりの回答なり決着方法がないと、中途半端なものに終わる危険性も大きい、難しいジャンルだとも言えます。
 ジャンは何しろ普通の青年なので、天涯孤独というようなドラマチックな設定もおそらく負ってはいないのでしょう。つまり普通に家族がいて、それは別に虐待したり溺愛したりするようなこれまた特徴ある家族ではなくて、適度に愛情もありしかし大人になったので適度に疎遠で、という状態なのでしょう。リシャール(瑠風輝)は友人だけれど、学校時代からの腐れ縁というかなんとなくつきあい続けてきただけで、親友というほどのものでもないし、その妹のクラリス(雪乃かさり)から想いを寄せられていると聞いても「そうなんだ?」くらいの感想しか抱けない、残念ながら言うなれば希薄な人間関係なわけです。ジャン自身が平凡でつまらない人間だから周りにもそういう漠然としたつまらない人間関係しかできないのだけれど、そういうことを観客に嫌な思いをさせずに観せてみせられる宝塚歌劇ってすごいな、と私は今回そこに一番感心したかもしれません。
 若者の自分探し、とか「ここではないどこかに行きたい、そうすれば…」みたいな想いって、ホント「ケッ」としか言いようがないモチーフだと思うんですけれど、それを今こういう形でやれるのって宝塚歌劇でしかありえないのかもな、とまで思いました。要するに、過去なりどこかここではないところに行けちゃうのなら、そっちの方が楽しそうなら、行っちゃってもいいんじゃない?というメッセージがとても今っぽいし、それをとてもファンタジックに上手くやってみせているのが何よりいいなと私は思ったのです。現実の若い男優が演じる演劇で観ていたらきっともっとリアリティが出ちゃって、「甘えたこと言ってないでとりあえず働け、そうしたらまた見えてくるものもあるから」とか言っちゃう気しかしないんですよね、私。でもずんちゃんのジャンが、「あっちで会ったあの娘が運命の相手なんじゃね? キスくらいしとくべきだったんじゃね? てかしたいからもう一回向こう行きたいわオレ、なんなら行きっぱでいいわ」と言うなら、行くがいいキスするがいい、と言っちゃえるんですよ。現代ではすることなくてぼやんと生きていた青年が、向こうでなら心が動くことがあるっていうんなら、向こうに言って幸せになればいいじゃん、と自然と思えるのです。そしてそれは正しいことだと思うのです。
 そりゃ、クレマン(凛城きら)は言いますよ? 「いいのか? こっちにあるもの全部捨てて行けるのか?」みたいなことを、ね。この台詞は大事です。こういう視点があることは大事。人は天涯孤独でなんて生きていないし、いなくなって悲しまない人が誰もいないなんて人はいません。それでも、おもしろい方を選ぶ選択を人はもっと気安くしていいと思うんですよ。あるいは楽な方、楽しい方、幸せになれる方、と言ってもいい。今、たとえば学校がつらくて行きたくないのに無理に行ったり行けなくて引きこもっちゃったり、部活が厳しくてしんどいのに辞められなくてボロボロになっちゃったり、ブラックバイトやブラック企業に死にまで追い込まれちゃうことがあるわけじゃないですか。そうまでして今の場所にいなくてもいいわけですよ。「ここではないどこかに行きたい」ってそりゃ甘えた考えではあるんだけれど、でもホントにつらいときには「ここ」を逃げ出していいんだ、よそを探していいんだって視点もまた持っているべきだと思うんですよね。だからジャンくらい軽いノリで移ることを考えてもいいと思うのですよ。
 軽いノリ、と言いつつ、それが「運命」とか「一生に一度の真実の恋」とかであればそれは宝塚歌劇コードとしてもとても重いもので、ときには大義より正義より世界よりそれこそ生まれた世より何より断然重く価値あるものになったりするわけですが、この話ではジャンがその恋の相手を一度間違えるってのがまた軽くていいわけです。間違いならやり直してもいいんです。で、その間違え方も軽やかでとてもいい。そこが素晴らしい。そしてそれは今回のMVP、ららたんシャーロット(遥羽らら)の大好演によるところが大きい。ららたん、本当に本当に素晴らしかったです!
 シャーロットにはピエール(瑠風輝の二役)という婚約者がいるんだけれど、突然現れて窮地を救ってくれた魔法使いみたいな神様みたいなしかも見目麗しい男に望まれたらそりゃ喜んで身を捧げちゃうわけですよマジで。その軽やかさ、身軽さ、自然さ、まっすぐさが素晴らしい。それは彼女が蝶よ花よと育てられた天真爛漫な侯爵令嬢だから、でもあるし、生まれつき猪突猛進な性格だからでもあるし、それを本当にキュートにチャーミングに演じているららたんがいるからもう本当に愛らしいキャラクターにしか見えなくてみんなが好きになるし、ジャンだってほだされちゃうわけです。そこそこモテてはきたのかもしれませんがどうせろくな恋愛なんかしていないフツーの男ですよ、そりゃコロッといきますよね(笑)。だから謎の金属によるタイムスリップみたいな不可思議にも「運命だからじゃね?」みたいな軽いノリで対応できる。この軽やかさこそ今の鬱屈した現代世界に求められているものだと思うんですよ、そこまでハリーが意識して書いているかはともかくとして。だから本当はそういう面がもうちょっとだけ意識された言葉が台詞として足されると良かったかな、とは思ってはいます。
 で、ららたんがこういうパートを引き受けているので、まどかが演じるヒロインのテスはお堅い侍女にならざるをえない構造なわけですが、これがまたよかったと思いました。私はまどかは実力はあるし場数も順当に踏んでいるんだけどいわゆるルリルリ力、要するに「娘役力」みたいなものはまだまだ足りないと思っていてその開花を待っていて(だからデュエダンでそれが発揮されていておばちゃんもう泣きそうでしたよ…! 後述します)、だからたとえば『ヴァンサク』みたいな普通の可愛いヒロインをやらせると可愛いだけでおもしろくもなんともないんだよ、と今回のヒロイン像を心配していたのですが、テスは現代も中世のもとてもよかった。現代の方は、結局ジャンのファンでもなんでもなくてあれは先祖からの血みたいなものがさせた行動で、ジャンのことも特に好きにならないのがいいなと思いました。そこに恋愛感情が生まれちゃうとまたややこしくなっちゃうわけですし、中世のテスのために現代のテスがフラれるとか、かわいそうすぎですからね。でも現代のテスは本当にドライで勉強熱心なちゃんとした女の子で(ジャンがぶっちゃけどうしようもない男であるのと好対照ですよね。たまたまかもしれませんがハリーのこういう男女観は好きで、だから私はハリーを見限れないのです…!)、だからジャンになんか引っかからないし、自分がこの世にきちんと生まれるためにもジャンには中世に行ってもらわないと困るわけで、そう言って送り出す。ちゃんとしています。
 中世のテスはさらにちゃんとしていて、幼いころからシャーロットに仕えてきて友達のようでもあるんだろうけれどやはりちゃんと一線を引いていてそして彼女の性格もよくわかっていて、彼女と家と国のためにいいようになるように苦心奔走している、性格的にももの堅い侍女です。もしかしたら本当にピエールにちょっと想いを寄せていたのかもしれないけれど、彼がシャーロットを愛しシャーロットもそれに応えたことをきちんととらえて、身を引き口をつぐみ、主人と家のためにジャンを牽制しようとしたのでしょう。その可愛げのなさがいじらしく可愛い、そういうキャラクターです。こういう役をきっちりやるまどかは素晴らしい。そしてやっぱりチャーミングです。
 だからこそ瑕瑾は、あわあわとジャンに告白するシーンで笑いが起こせなかったことですよね。少なくとも私が観た回では客席から笑いは出ていませんでした。そしてあれは笑うところだと思うのです。堅く見えた侍女も実は…というところだったんじゃないの? そこは残念ながらまどかの演技力がそこまでではなかったのか、演出の助けがなかったのか、もったいないと思いました。ふたりがどう恋に落ちたのかよくわからないという意見はよく聞いて、ジャンの方はああいう男だからまあいいとして(笑)、テスの方はここで笑いが取れていれば「やっぱり好きだったんじゃん」って軽くなれるからよかったはずだったんですよねー。残念。
 でもともあれふたりは恋をして、だから謎の金属のコントロールがこの先本当にできるようになるかどうかはわからないけれど、ジャンはとりあえず中世に軸足を置いてテスと共に生きていくことにする、でハッピーエンド、というのはすごく自然で素敵なオチだと私は思いました。金属に関するタイムパラドックスはもうどうしようもないわけで、これはもうスルーするしかありません。そもそもタイムスリップなんてありえないんだしあるとしたとたんにこのパラドックスは起きて解決できないので、それは仕方がないし物語としての未回収とは違うと私は思います。
 また、全体的にずんちゃんジャンに一本かぶりの構成で、これがもっと若い学年のスターの初バウ主演作だったらとにかく真ん中をカッコよく見せることが大事なのでいいんですけれど、二度目だし周りにこんなにも芝居巧者を配しておきながらほぼ全員役不足に見える…というのはかなり問題だったかと思います。それでも、私は一回のみの観劇でしたが、何度か観るファンにはちゃんと各組子の小芝居なんかも見えているんだろうし、それなりにがんばっているんだろうから、いいのかな。もえことかはその次のホープなだけにもう少し何かやらせてあげたかった気もしますけれどね…すっしーもあおいちゃんもきゃのんもりんきらもありさも本当はもっとなんでもできる役者なんだしさ、さらにここにほんとうならまっぷーもいたんだよねってもう明らかに役が回っていませんよね。でもゆうこもりりこもわんたもみんなちょいちょい見せ場をもらってがんばっていたし、りおくんとかゆみちゃんとかやっぱり目を引くし、まあよかったのかな。
 フィナーレも素敵でしたしね。ラインナップは学年順でオイオイって位置に下げられちゃってたけど、娘役群舞でバリバリセンターで踊るららたんのまあカッコいいこと! お席がどセンターだったために視線バンバン来て、もう狂喜乱舞でした。
 そしてデュエダンのまどかが本当によくて、「ついにあのまどかがこんな表情をするように…!」って感動しました。ずんちゃんとは『王家』『シェイクスピア』新公や前回のバウ『相続人の肖像』で組んでいて、慣れてきたとか気心が知れてきたとか甘えられるようになってきたとかがあるのかもしれません。でもそういう単なる自然なだけの笑顔とか態度ではなくて、明らかに娘役さんが男役さんに恋してうっとりしていて、それで見せる甘やかな笑顔、たおやかな頼り方、優しい支え方だったんですよ!! そうよそうよそれなのよ、それができないと結局はただの女優さんなの、でも娘役はそれじゃダメなのよ! やっとキタぞ星風まどか!! と、ホント何様なんだとつっこまれるでしょうが思いましたね。ずっと注目されてきたのは知っているしこちらとしても担組ですからずっと観てきましたが、だからこそ物足りないとかこれではないと思っていたのがやっと払拭されました。ただしだからと言ってゆりかの相手役でいいかというとそれはまた別の問題だと私は思っていますけれどね…なんせ顔のタイプや持ち味の違いがカップルとしてけっこうつらいのではと私は思っているので。
 そしてずんちゃん、本当になんでもできるスターさんなので、これを弾みに、あとは本公演でさらに色濃い役をもらっていけるといいなと思います。歌えるし踊れるし活舌が良くて台詞がクリア。意外と白い役も黒い役も似合うタイプの役者だとも思いますしね。宙組の中では背が低いんだけれど、周りとのバランスの問題もあるので、なんとでもなると思うし心配していません。すくすくのびのびがんばっていただきたいです。痩せて顔がシャープになって素敵だけれど、これ以上はいいぞー。今度はキープするのも仕事のうちです。期待しかない!

 充実のコンサート組、巴里祭組と一緒になった次の本公演が本当に楽しみです。




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『君が人生の時』

2017年06月17日 | 観劇記/タイトルか行
 新国立劇場、2017年6月14日18時半。

 1939年10月のある日の昼下がり、サンフランシスコの波止場のはずれにある、ショーを見せるニック(丸山智己)の酒場。ピアノの名人、ダンサー、港湾労働者、哲学者、警察官、娼婦…さまざまな事情を抱えた客たちがやって来ては去っていく。ジョー(坂本昌行)はいつからかこの店にやってきて、毎日朝から晩までシャンパンを飲んで過ごす不思議な男だった。ジョーの弟分となったトム(橋本淳)は、客のひとりで自称女優の魅惑的な女性キティ(野々すみ花)に恋をしているが、想いを打ち明けられず…
 作/ウィリアム・サローヤン、翻訳/浦辺千鶴、演出/宮田慶子。1939年初演、ピュリツァー賞を与えられるも辞退。

 サローヤンは、私は名前だけは知っていて読んだことはない作家で、スミカ目当てで出かけてまいりました。
 一幕は、私は退屈しました。第二次世界大戦開戦直前のアメリカ合衆国の西海岸の空気や、そこで暮らすアイルランド、ポーランド、アラブ、アッシリア、ギリシャ、イタリア、イングランドなどなどからの移民たちの暮らしや生き様を表すべく、日常的なやりとりを言うなればだらだらと見せる構造になっていて、私にはそれらを正しく読み取れている自信がなくて、不安だったし退屈したのでした。ストーリーがないタイプの、このまま最後まで淡々と終わる群像劇だったらどうしよう、スミカの出番はアタマしかないし…とちょっと呆然となっちゃいましたよ。
 でも、二幕になったらちゃんとお話があったのでした。というかそのための前半の日常の積み重ねの描写だったのでした。そしてスミカはまごうことなき物語のヒロインでした。それは主人公であるジョーの恋の相手ということではありません、でも彼と彼女を中心に戯曲はクライマックスを迎えたのでした。
 以下ネタバレで語ります。
 キティは女優だと言い、かつてはバーレスクで踊って全米を公演して回り、ファンにはやんごとない方々も大勢いたと言います。生まれは田舎に大きな農場と邸宅を持つ名家だったとも。でも今は安宿に暮らし部屋で客を取る娼婦です。トムはそれでも彼女を愛しています。
 ジョーは三つ揃いを着た紳士で、本当ならこんな安酒場に来るような身分ではなく、なのにメニューにないシャンパンをニックに仕入れさせてまでこの酒場に入り浸り、ただ酒を飲み新聞を読みトムを使い走りにして日々を送っています。遺産なのか株か何かなのか、どうやら使い切れないほどのお金を持っているらしく、そのお金を使いあぐねてもいます。それで、トムにほだされたりキティが泣くのを止めたかったりそれとも単になんとなく気まぐれだったりで、キティの住まいを安宿から上流の紳士淑女も集うちゃんとしたホテルの一室に移させ、服から何からすべて買い与え変えさせます。
 だからスミカは、一幕の長いくしゃくしゃした髪と派手な花柄のワンピース姿から一転して、二幕後半では結い上げた髪に小粋な帽子を乗せた清楚なツーピース姿で現れます。そのどちらも美しくちゃんと似合うのが素晴らしい。そしてどちらのときも居心地悪そうな演技がちゃんとできていて素晴らしい。
 高級ホテルの暮らしにおちつけず、結局ニックの酒場に来てしまうキティ。そこに、いわゆる悪徳警官であるブリック(下総源太郎)が現れて、キティをねちねちといたぶります。そしてまさかの『グラホ』展開…! ブリックはキティに舞台に上がるよう強要し、踊れと指示し、服を脱げと命令するのです。
 激昂したジョーは拳銃を手にしますが、安物だったのか弾は出ませんでした。カーソン(木場勝己)が上物だとほめていたのは、単なるおべんちゃらだったのでしょうか。それとも拳銃なんか扱い慣れていないジョーが撃鉄を上げ忘れていたのでしょうか。ともあれジョーはブリックを殺せませんでした。
 そして銃が暴発してジョーが死ぬとか、撃鉄を上げ忘れていたことに気づいて今度はちゃんと撃てるようになったジョーがそれで自死するとかの私が恐れた展開もまたありませんでした。ブリックを殺したのはカーソンでしたが、彼の罪が問われることはないでしょう。それはもちろん正しくないことなのかもしれません、でもブリックがキティにしたこともまた正しくなかった。彼が町の人々にずっとずっとしてきたことは本当に正しくないことで、だからその死は仕方がないとは言えないまでも、町のみんなが真相に対し口をつぐみ誰も彼の死を悼まないのは仕方のないことでしょう。
 正義がきちんと存在しづらいこの世の中で、先なんか全然わからないけれど、キティはトムと旅立ちました。そしてジョーもまたニックの店から出ていきました。また別の酒場で飲んで暮らす日々を過ごすのかもしれないし、やっとお金の正しい使い方や今までとは違う生き方を見つけるのかもしれません。それはわからない、でも確かに変化は起きた。そのささやかな奇跡…それを描いた物語だったのかな、と思いました。

 スミカに取っていただいたお席でラインナップがスミカの真正面で、とても嬉しかったです。いい女優さんだなあ、この先も楽しみです!




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