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駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇星組『にぎたつの海に月出づ』

2025年02月04日 | 観劇記/タイトルな行
 宝塚バウホール、2025年1月31日11時半、2月2日11時半。

 時は飛鳥時代。百済人の青年・智積(極美慎)は、留学生として大和にやってきた。推古天皇(瑠璃花夏)に拝謁するために小墾田宮を訪れた智積は、何かに怯えて震える寶皇女(詩ちづる)とすれ違う。百済人である観勒僧正(悠真倫)のもとで開いた学堂で書を教え始めた智積は、書生に混じって文机に向かう寶と再会して…
 作・演出/平松結有、作曲・編曲/太田健、小澤時史。平松先生のデビュー作となる「幻想秘抄」、全2幕。

 かりんさんの初バウ主演作『ベアベア』の感想はこちら。
 悪くなかったと思っていますし、今回も悪くない、素敵なお役、作品だったと思います。主演作に恵まれる、というのはいいことですよね…!
 ただ、マイ初日がけっこう後半だったため、「素晴らしい!」「名作!!」みたいな評判を聞きすぎていて、ちょっと期待しすぎて観てしまったせいもあるのかもしれませんが、残念ながらまあまあ粗があるように感じられて、もったいないぞ惜しいぞ…!と思いながらの観劇となってしまいました。とはいえ2幕後半、そしてフィナーレはダダ泣きしながら観たんですけどね。なのでなおさら、あともう一歩…!と、久々に新人作家のネームを直す漫画編集者魂が発動してしまいました。
 以後、ねちねち語りますが、愛ゆえ、また一定以上高く評価しているからこそのダメ出しだと思っていただけると助かります。過不足のない最高傑作!と激賞している方は、ここでお引き返しくださいませ…
 ところでゆうゆ(と勝手に呼ぶ)は柴田先生の『あかねさす紫の花』から宝塚歌劇にハマったのでしょうか? プログラムのコメントのラストにそんなようなリスペクトの言葉があり、とても良きでした。それでフィナーレのデュエダンの終盤に、「♪君を恋い、君を慕い、あてどなく…」あたりのメロディを乗せた…んですよね? ドラマチックでとてもよかったです、胸突かれました。
 私は昭和の学生だったので、「白村江」はもちろん「はくすきのえ」派ですが、百済と唐の戦争に大和朝廷が派兵して大敗したこの戦いの謎に、「もし斉明天皇に、百済人との秘められた恋物語があったなら?」という着想を得て、生み出されたフィクションが『にぎたつ~』です。良きアイディアだと思いますし、史実の改変部分も含めてとてもいいストーリーに仕上がっていたと思いました。萌えもドラマもとてもよかった、好みでした。
 だからこそ、もっと引っかからせず、もっと素直に萌えさせたぎらせ盛り上がらせてほしかった…!と細かいところが気になってしまったのです。過剰な要望かもしれません。これで十分伝わった、おもしろかった、よかった、という方ももちろん多いことでしょう。でも、もっと高みが目指せたと思うのです…! そして今のままでは、『月雲の皇子』と比べて語るのは乱暴だと思いました。アレはマジ別格…!!
 ただ、あの作品もそうでしたし、今は東上しなくても、数年後でも再演されてもいいかな、とは思います。なんせかりんさん智積がとてもいいので。もちろん彼女は夏には花組へ組替えしてしまうのですが、例えば大空さんの『銀ちゃんの恋』も、まあスミカが一緒に異動していたからかもしれませんが、花組でやったものを宙組でも再演しました。大空さんはタニとの役替わりの『ラスパ』でも、ヒロイン入れ替えというかなんというか…な不思議な組を跨いだ再演もしています。こういうケースもあってもいいと思うのです。だいややらいとやれいんやまるちゃんが、いい仕事するかもしれないじゃん…!
 そのときは以下、ブラッシュアップしてくれたりするとなおいい…!と思うのでした。

 さて、時代としては『日出処の天子』のあと、『あかねさす~』や『飛鳥夕映え』『鎌足』前夜あたり…?と思いつつも、歴史にめっちゃくわしいとかはないので予習どうしようかな、など案じていましたが、「特に要らない」というツイートを見て、確かにあまり勉強しちゃうとネタバレしちゃったり観劇自体の興を削ぐかもしれないので、まずはこちらの人物相関図を眺める程度にしておこう…とマイ初日に向かいました。で、これくらいは押さえておいてよかった!と感じましたし、ホントになんにも知らないで来る人にももうちょっと親切に作ろうよ、とは思いました。
 というか創作鉄則その1なのでゆうゆコレだけまず覚えて? 役を出したらすぐ名乗らせる! ないし周りの人間にすぐ呼びかけさせて、観客にその役の名前を知らせる! 隙あらば何度でもやる! コレ大事。てか絶対に必要。宝塚歌劇はファンが観るものだから、ある程度は中の人で識別するものだけれど、みんながみんなのファンじゃないし衣装を着替えたら誰だかわからなくなったとかフツーにあるんだし、役としてきちんと把握させなきゃダメ。そのためにはまず名前! これが今回は圧倒的に足りませんでした。これはいただけません。すぐ直せるんだからすぐ直して!
 冒頭、さりお覚従(碧海さりお)はしばらくしたらうたちから呼ばれるから名前がわかるけれど(でもこれも第一声でもいいくらいです)、うたちは名前が出ないまんまじゃん。このときは斉明天皇なんだっけ? ちゃんと出しましょう。台詞には「大君にお伝えを…」云々とかあるけれど、この人のことだと明確にわかりません。女帝が多い時代ではあるけれど、普通は、この人は女性だし大君の妻、皇后ってことなのかな? 夫である天皇に伝えてくれと言われてるのかな? で、この人はなんて名前の誰なの?? とか思っちゃうでしょ。キャラクターの名前、立場を最低限説明してから話を進める、鉄則です。2幕後半でここに再び戻ってくる構成は素晴らしいだけに、残念でした。
 てかこの前の、かりんさん独特の声の開演アナウンスと、月と、「熟田津に船乗りせむと…」の歌と(カゲソロは星咲希)…の幕開きは素晴らしすぎましたね。あっという間に世界に引き込まれました。(個人的に『天守物語』の月と並びましたよ…! あとはやはり『月雲~』の月、ね…)
 で、話戻って、御剣くんは人質になっていた百済の皇子・扶余豊璋(御剣海)と説明されてから出てくるからいいとして、そこにさらに出た碧音くんがノー名乗りノー呼びノー説明なんですよ、これもダメすぎでは? 名前も立場もわからない、大和側の人間だとしかわからない。それともあとで、子役のふみたんから変わったところで「あっ!」って思わせたいの? でもそんなの無理だと思うんですよ…てかこの時点ではこのふたりがこうして戦っていることは観客にとってはなんの意味もないことなので、むしろ出さなくてもいいくらいかもしれません。それか後半、もう一回この場面もやるとよかったのかも。そこでならこの戦闘ダンスはあってよかったと思うんだけれど、ここに置くにはやや長いと私は観ていて感じました。なんせフツーの観客は主役の登場を待っているので、これだと前振りがあまりに長すぎると感じると思うのですよ…あと今回、殺陣が全体にあまり良くなくて(殺陣/清家一斗。もちろん生徒の技量の問題もあるのかもしれませんが…)けっこう残念だったので、もっとがんばるかもっとダンスに振るかしてほしかったかな、とは感じました。
 白村江の戦いが惨敗に終わり、覚従は四十年前を思い出す。ここは遠い昔、百済から船に乗ってやってきた浜だ、智積とともに留学生として希望に満ちあふれて渡ってきた海だ…と。で、月、船の上に後ろ姿、振り返ってライト! 拍手! ソロ! これは大正解で良きでした。ベタ演出はいつでもサイコーです。
 若くなった(笑)覚従と智積が合流して、でもここでふたりのキャラの違いをもっと出しておきたかったですね。智積は「そういうのはおまえに任せる」とか言ってさっさといなくなっちゃうんだけれど、「そういうの」ってのはつまり政治的な配慮とか社交辞令とかいったことかと思うのですが、わかりづらいし、それだと天真爛漫キャラになっちゃって、真面目で正しすぎる男、みたいなのとちょっと齟齬が出ると思うのです。出世とか権力争いみたいなことには興味がない、真面目で純粋な学問好きで好奇心旺盛で、それですぐどっか行っちゃう…みたいな描写が上手くできるといいですよね。キャラ表現をせずにスターのチャームにおんぶに抱っこでは、作家としてはダメだと思うよゆうゆ…
 天皇に拝謁するには丸腰で、という規定はよくあるものだし納得だけれど(むしろ学生がいちいち帯刀しているものなのか?と私は感じたのですが…どうなんでしょう?)、ここの台詞の「潔白」ってのは変では? それとも何か聞き間違えてます?私…
 禁じられた懐刀を手に進もうとしている寶と、智積がぶつかる。古い少女漫画の出会いのパターンですが、まあベタでいいでしょう。でも私はこれが刀か巻物か判別できず、はて?となりました。しかもそのあとことの顛末がわかっても、結局なんのための刀だったのかよくわからなかったのですが…私が鈍いだけだというならすみませんが、でももっと自明じゃないとダメでは? そもそも寶はこの時点で、夫の高向王(颯香凜)と別れたかったの? それとも酒に溺れて暴力を振るうようにはなったけれど、彼のせいではないとかばおうとする気があったの? この刀で何をするつもりだったの? 彼を殺して自分も死ぬ、とか? では盟神探湯の裁きを信じてなかったということ? 説明プリーズ…状況や心情がわからないとヒロインに共感できないじゃん、もっと工夫してほしかった…
 その後も、「推古天皇のおなり」の台詞のあと、田村皇子(稀惺かずと)と寶の名も呼ばわせましょうよ、でないとヒロインがここに再度現れたことに気づかない観客もいるって…田村なんかずーっと名前も出ないし、何者?ってなっちゃうじゃん。智積が「あの人は…」と気づいて、覚従か観勒が解説する、とかが欲しいです。私はこのふたりはどの立場でここにいるのか全然わかりませんでした。普通に考えれば推古天皇の息子と娘に見えると思うんですよ、王子と王女として玉座のそばにいるのかな?と思うじゃん。でもホントは親子でも兄妹でもなくて、でも縁戚ではあり王族ではあるんでしょ? それはここで出しておいた方がいい情報なのでは?
 あと、智積たちを紹介する蝦夷(輝咲玲央)自身もまず名乗らせましょう、誰だかわかりません。アタマに「大臣の蘇我蝦夷が申し上げる」とかなんとか言わせればいいだけなんですから。ついでに、この人が長く大臣をやっていて天皇を圧迫しているのだ、という政治状況がここで説明できるとなおいい。その対立構造はこのお話のキモなんだから、早く提示するに越したことはありません。
 その後の盟神探湯のくだりはよかったんですけれど、でもそもそも高向王と寶皇女が夫婦だってのもここで提示してから始めてもよかったんじゃないですかね? 知らない男の知らない罪の裁判を観るより、観客もその方が真剣に観られるでしょ? そして結局、高向王の罪や罰はどういうことになったのか、よくわからなかったんですけど…DVが暴かれて、寶とは離婚が成立した、みたいな「裁き」がきちんと下されるべきだったのでは? そのあとの寶のソロで、彼女の境遇が少し判明しますが、遅いというかスムーズじゃないんですよね…ちなみに赤ん坊は「病に倒れる」とは言わないのではあるまいか。だってまだつかまり立ちもしないうちに亡くなったようだし…頼むよー、こういうところにいちいち引っかかりたくないんだよー…(ToT)
 で、そんな寶の両親が学堂の隣に暮らしていて、寶の弟・軽皇子(凰陽さや華)を通わせている…んだけど彼は最後までずーっと名前が出ません。ひどすぎる…呼ばせなよ! きちんと認識させてよ! 衣装が変わらないし寶を「姉さん」と呼んでいるから弟役なのはわかるけど、その後完スルーだったけどまがりなりにも一度は天皇になる人じゃん…! あと、なのでここ以前に寶が推古天皇の親戚だと明らかにしておかないと、ここのあまりのフツーのホームドラマ感に、単にお嬢さま程度なのかな?ってなっちゃうじゃん。身分差は強調しておいた方が、のちの主人公たちの恋愛がドラマチックになりますよ…!
「普段は後宮にいる」ってだけなら侍女かなんかなのかな? だってフツーのお嬢さんのようだし…ってなりません? なんで智積はこれだけで「王族なのか」と思えるのでしょうか…?
 そのわりに智積が寶になれなれしいのも気になります。書を教えるのに熱心で接近してしまって…とかいうのはいいんだけれど、身分ある人に対してはもっとかしこまる人柄なんじゃないのかなあ? 百済からの留学生の立場は、尊敬されているようでいて所詮外国人、と見下されている部分もあるはずで、智積はそこで喧嘩するタイプじゃないだろうから、もっと腰が低く常にへりくだっている感じの方がキャラに合うのでは?と感じました。この作品は和製『ディミトリ』だとも言われているようですが、そのあたりの身分差の緊張感が足りないです。だって智積、皇子相手にすぐ「おまえ」とか言うじゃん。それじゃ身分差も強調されないし、結果ドラマが盛り上がりづらくなると思うんですよねぇ…
 小鈴(鳳花るりな)の登場はややランボーですが、これはおもしろい筋でしたね。でもパロほどのキーパーソンにまでは至っていなかったのがやはり惜しい…あとやはり筆の正しい持ち方から教えるべきではないのか(笑)。
 蓬莱寺のくだりの、蝦夷と観勒の癒着や豪族・僧侶の堕落の描写はよかったし、それに抗い小鈴を救おうとする智積もよかったんだけど、絹を奪った智積を蝦夷があっさり見逃すのはナゾだし、その絹を米に換えるのに智積が「蘇我に言いつけるぞ」って言うのは…カッコ悪くないですか?? 私はちょっとしょんぼりしましたけど…???
 まあ、正しいことが必ず通るとは限らないのが世の中だ、というのはわかります。そこからの回想シーンもなかなか良く、なんてったって『BF』に続いてまたかりんさんの子供時代を演じる俺たちの茉莉那ふみがまた上手くて素晴らしいのです。ただこのエピソード自体は、なかなか微妙ですよね…自分の正義を貫くことで父親を死なせているワケですけど、そんな主人公は微妙では? それでも俺は折れない、正義を曲げない、ってのは…イヤいいんだけどうーん…
 推古天皇と寶の場面はちょっとよかったですね。なくてもいいようなくだりではあるんだけれど、ふたりの女性に志があり政治家としてしっかりしていそうなところとか、寶が推古天皇を敬愛していて支えたいお仕えしたいと思っている…というのは見せておいていい要素だと思いました。というかもっと寶を描き込んだ方か、今っぽくてより良い作品になるのではないかしらん、など考えました。
 でも「たくましい」の乱発には私はやはり引っかかったかな…男女差別と言われようと、女性の表現として似つかわしくない気がしましたしね。凜々しい、とか気高い、とかじゃダメだったのかなあ…
 しかし私は次期はありうたちがいいんですけれど、正直ルリハナの方が上手いな…とは思ってしまいます。前回のアメリカ大統領といい、「頂」のお役が続いていますが、さすがでございます…
 日記の盗み読みはアレだけど、智積と寶の心が寄り添い合っていく描写はニマニマできて良きでした。が、本当は寶もここまでに今ひとつキャラが立っていなくて、智積が恋に落ちるほどには思えないのがもったいなかったかなー。このあとで田村が歌うように、本当はおてんばで才気煥発な明るい女性で、家のためにした最初の結婚やそこで子供を亡くしたことに傷ついてはいたけど、吹っ切れてくると生来のそうした魅力が出てきて…というのが智積の「泣いたり笑ったり」云々みたいな台詞につながるんだろうし、それで智積も心を動かすんだろうけど、そういう描写ができていないんですよねー…言われるほど強がっている描写もなかったし。でも、海に照る月の話題で盛り上がり、約束をし、ポスター構図で寄り添い合うふたり…という流れはとても美しいのでした。
 さて、続く蘇我邸の場面。ここでもにじょはなちゃんの名前や立ち位置の説明がされるのがかなり遅いので、それまで妻なの?妾なの?侍女なの?と考えさせられるのがしんどいです(正解は妹)。入鹿(大希颯)も同様。「さすがお兄様の息子」みたいな台詞でやっと関係性が明らかにされる…もうちょっと上手くなんとかしてほしいですね。ここの悪役ソングはベタで良きでしたが、余計に『ディミトリ』感が出ちゃいましたかね…
 さてしかし次の場面での田村皇子の歌、たまりませんでしたね! 智積の呼び捨てに眉をひそめるところから、もうたまらん!!(しかし寶皇女というのは名前というよりは役職名、通称に近いようなもので、個人としての名はもっと別にあったんでしょうね、など思います。中大兄皇子なんかも、そのパターンですよね。三兄弟の真ん中で大兄で皇子だってことしか表していない…)私はキャラクターやポジションとしては、この田村が超のつくツボなんです。田村が幼なじみの寶をずっと好きだったとせつせつと歌い、しかし紗幕の奥では智積と寶がキャッキャウフフしている…この構図が嫌いな人がいましょうか!?(笑)しかもこのキャッキャウフフ、ふたりの心の距離が近づきつつある…みたいなイメージシーンかと思いきや、実はやることやってるという驚きの展開になるんですもんね!? イヤ手が早いな智積!(笑)まあ寶も生娘ではないし、この時代の婚外性交はもっとおおらかなものだったのかもしれませんが…でもスキャンダルではあるのでしょう。でも誰の子だソングは下世話すぎやしないか…風が吹いちゃいそうなんでやめていただきたかったです。それか腹筋が震えてしまう…
 朝顔場面は、朝顔が今ひとつ美しく見えないなあ…など思ってしまいました、すみません。このころの「結婚」は、そもそも結婚という用語もまだなかったのかもしれないし、通い婚だったり一夫一婦制じゃなかったりでいろいろおおらかなのでしょう。このふたりが、子供ができたから結婚、とはならないのもわかる気はしますが、でもそれは智積が外国人だし、寶が皇族だし、という理由があるからで、でもふたりの愛は永遠だ…みたいなことをもっとクリアに台詞にできるといいかな、と感じました。理屈ぽい人間ですみません…あとは、智積には思い当たるところがあるんだから、寶に安易に「もしかして…」とか聞かせないでほしい。寶に他にも男がいると思っているように聞こえちゃうでしょ?
 一方で、いつのまにか法堤郎女(二條華)も田村にちゃっかり嫁いで男児を産んでいる…つっこみたいけれどここは我慢。ところで寶の侍女の秋坂(星咲希。ちなみに耳でだけ聞いていたときはもっと素敵な漢字の名前なのかと思っていました…ここも『月雲』の蜻蛉に敵わないのですよ)はここでやっとちゃんと出たけれど、ハナから姫様に付き従っているべきではないんですかね…?
 しかしかりんさんのパパ姿が観られるとは…メロでしたね……ただ、ここの智積が歌う子守歌はおそらく朝鮮語なので寶が「何をお歌いで?」みたいなことを言っているんだと思いますが、観客にはそこまで類推しづらいので、歌詞に木槿の朝鮮名を入れるとか、一節は朝鮮語で歌わけるとか(たとえなんのことか意味はわからなくても)、何か工夫が欲しかったところです。しかしのちに長じた中大兄皇子(子供時代は茉莉那ふみ。父の子供時代を演じた生徒が息子の子供時代も演じる、このニヤリ感よ…!)がこのメロディを笛で吹く…というのには胸突かれました。良きアイディア!
 推古天皇の病は篤く、次の天皇に田村皇子を指名し、寶には皇后に立てと言う。ここ、わかりづらいです。はっきり「田村に嫁いで皇后となり、田村を支えて国を統べよ」と言わせたほうがいい。寶にとっては皇位につくことより、智積がいるのに田村に嫁がされることが問題なんですから。結婚という言葉が出せないにしてもそこはクリアにしておかないと…今のままだと天皇と独立して皇后になるみたいじゃん。そういうことじゃないでしょ?
 小鈴のスパイ活動によって智積の日記が偽造され、茅渟王(美稀千種)の謀反が捏造され、追っ手がかかり、寶も智積を疑ってしまう…わかっちゃいるけど全員登場のいわゆるイケコ式1幕ラスト、盛り上がりますね! 懸命に巻物を投げ広げるかりんさんも愛しいです(笑)。キャーッ!!!
 あ、でもここでつんつん田村の天皇名をちゃんと出しておきましょう。「舒明天皇のご即位!」とかなんとか言わせておけばいいだけなんですから。あとで突然出しても「誰?」ってなっちゃうでしょ…(ToT)

 第2幕。ちょっと時間が戻っているような形になるのか、舒明天皇になった田村が茅渟王の嫌疑を晴らしてくれる。でもそれを理由に寶に婚儀を迫っちゃうようなところが田村なのよ、たまらん…! それに対して寶が智積との息子の処遇の話を出すのは、打算的ではあるけれどある種当然でもあるのでいいんだけれど、「あの子」より「私の息子」の方が良くないですかね? そして、寶の嫁入りと皇后就任、自分の息子が蹴落とされそうなことに怒る法堤の「あの女」もわかりづらい…指示代名詞は上手く使わないとダメなんですよ、「寶皇女」とはっきり言わせたほうがいいと感じました。
 智積たちの学堂は山奥に移転させられたようで、やや廃れている模様。なので多少時間が経っているのではないかと思うのです。その後のシーンでもかりんさんはかなり落ち着いた芝居をして見せていますが、しかし具体的に「あれから何年」みたいなことは言わせてもいいのかも。そして、なのでこのあとの岡本宮の火事(これは史実だそうですね)でも、ここの中大兄はもう赤ん坊ではなく、2、3歳児くらいになっていてもいいのでは…と思いました。それくらいの子供のぬいぐるみ?を使うのは微妙なのかもしれませんが…あと、秋坂の脚に添え木を当てるくだり、要ります? これで智積が医学にくわしいとするのは苦しいのでは…私は無駄なターンに感じました(^^;)。でもこのあたりの田村もすごくいいですよね、罪悪感に自家中毒のようになっていき、転落していく弱さがたまらん…!
 一方、人質として百済からやってきた皇子の扶余豊璋と中大兄がひょんなことから親交を結び、ともに智積の学童に通うようになり、茉莉那ふみが碧音斗和に成長する…104期の並び、エモすぎます! 大樹の向こうに回って入れ替わらなくても、背中合わせになってくるりんとしたら「成長著しい」のです、良き! ここの「♪止め跳ね払い」リプライズ、そら泣くよね…!
 もう一方、田村、今は舒明天皇の信頼篤い入鹿は、天皇に仕え看護する一方で毒を飲ませている…105期の並び、エモ!! しかし、不審に思われないよう時間をかけて毒殺しようとしていることを表す会話が、受け答えが変なので要再考。薬を怪しんだ寶が、智積を頼って山奥の学堂を訪ねる…せつない再会でした。
 舒明天皇は湯治のため熟田津を訪れる。ここのひよりんが大海人皇子(藍羽ひより)であることもすぐ名前を出して明かしましょうよー、わかる人はすぐわかってニヤリとするけれど、そういうの要らないよ…ともあれ寶は舒明天皇との間に大海人をもうけて、それなりに円満なのでした。
 死期を悟った舒明天皇は、寶を次の天皇とする違勅を残そうとする。しかし田村には人の筆跡を真似る特技があって智積の日記を偽造できたけれど、智積にはそんな技はないはずなので、蝦夷に見破られない違勅を代筆するのは無理なのでは…?と思ったのですが、智積が厩戸皇子の経文か何かを筆写していたというくだりで、 彼もまた手跡まで真似て書いていたので田村のライバル云々という受け答えになっているのでは、というリプライをいただきました。なるほど…! あとは、智積が自分が書いたとされる日記を見て、ハネで田村の手による偽造だと知るくだりに関しても、「鏡のように」文字を移せるはずの田村が、罪悪感からか嫉妬心からか心が乱れて完璧な筆写ができなかったんだろう、という感想を読んで、またまたなるほど…!と思いました。「♪字は心を写し出す」という歌もありましたしね。そういう描写はなかったけれど、田村もこの学堂に通って、ともに学んだ時間があったということなのかもしれません。そのあたりで、寶が智積に和歌を教えたのかもしれません…
 ともあれ、夫の違勅を受けて、寶は皇位につき、皇極天皇となります。これも天皇名を出した方がいいと思いました。
 蘇我の刺客との乱闘で智積の髪がザンバラになるのは素晴らしすぎました。しかしここで中大兄との父子の名乗りがあるのは感動的だとしても、智積を父と呼んだ口ですぐ「亡き天皇の子である私に刃を向けた逆賊」云々と言わせるのは、ダメじゃん…(><)智積は捕縛され、死刑にもされそうなところを、外国人なのだから…と百済へ強制送還されることになる。とても大海など渡れそうにない、すぐにも沈みそうな小舟で…でもそんなこたぁ見ればわかるので、民にわざわざ言わせるのは間抜けだと思いました。
 その後の顛末が類推できて、私は初見ではこのあたりからずっと号泣でしたが、でも本当のことを言えば、智積が何故この小さな船に乗ることに同意したのか、そして寶もまたそれを見過ごしたというか同意したというか…には、もっと理由が必要だと思います。智積をもっとズタボロにさせて、どのみちそう長くは生きられないと思わせるとか、息子とも親子の名乗りができたし愛した女とも再会できて誤解が解けて、もう思い残すことは何もないし、天皇になろうという彼女の足を引っ張りたくない…みたいな自己犠牲が見えると、よりよかったのではないかしらん。今はただ諦めの早い男に見えなくもない…あるいは観勒とかに何か脅迫めいたことを言わせてもいいと思うんですよね。それで、寶の足手まといに、邪魔になりたくないから、自ら消える決心をする智積…となるべきなのでは。ナウオンでは「愛とは許すこと」みたいな話が出ていましたが、智積のこの行動はさらに一歩進んで、愛する人のために、その邪魔になることを避けて自ら死のうというものなのですから…
「♪熟田津に船乗りせむと…」と、智積が歌い出す。のちに百済に向けて戦船を送り出すときに斉明天皇が額田女王(美玲ひな)に読ませたとされるこの歌は、ここで、このシチュエーションで、智積が歌ったのだ、という最大のフィクション…! そらもう号泣でした。
 序に戻って、エピローグ。皇極天皇となった寶はその後弟に一度は皇位を譲り、しかしその弟が死去したので重祚して斉明天皇になっています。長い間、国と民のために尽くし働いてきた…そういう説明はあってもよかったのにな、と思います。そこで覚従に派兵を懇願され、これが自分の最後の仕事だろう、と出兵を決断する。この最後の仕事は、唯一のわがまま、だったのかもしれません。無謀で勝ち目がないことは見えていたのかもしれないからです。けれど寶は、智積がいつか帰る祖国を座して滅亡させるわけにはいかなかったのです。ずっとがんばって国を率いてきた女性の、最後の甘い判断を、誰が留め立てできるでしょう…
 ここで早瀬まほろがひょいっと出てきていますが、名乗らせろっつってんの! ひよりんと背中合わせくるりん儀式をしてないんだから、誰だかわからないでしょ? 台詞から中大兄の弟だとはわかるけど、ちゃんと大海人だってわかんなきゃ意味ないでしょ? 万人が『あかねさす~』を履修していると考えてはいけません。ここの意味が伝わらないんじゃ効果半減です。
 中大兄は父の祖国である百済を救おうとする、しかし大海人には大和がそこまでする意味がわからない。これがのちにこの兄弟の争いの遠因となるのである…大きな船がふたつに割れて、離れていく中大兄と大海人…! ここを正しくたぎらせたいでしょ!? 私は大感動しましたよ! 『春の雪』といい、乗り物の装置が真ん中でふたつに割れるのが嫌いな人なんていません!!(主語デカ…)
 ところで中大兄のこの出生の秘密設定、不敬では?とつっこんでいるツイートを見かけましたが、史実でも中大兄の誕生は寶と田村の結婚より早いそうですね。まあ当時はいろいろあいまいなんだろうし順番もいろいろなんだろうし、男系男子にこだわっているのなんて近代のごく一部の層でしかないのだろうからどうでもいいっちゃいい気もしますけどね…
 覚従は百済と大和を往復しているけれど、智積は百済に戻っていない。「まだ海を迷っておられるのですね…」、まさかの『長い春の果てに』! ちょっと…イヤだいぶ、海に、迷ってたんですね智積さあぁん!!
 船団と月の向こうに、寶は幻を見て海へと駆け出す。入水というよりは、史実どおり寶はこの地で病に没したのでしょう。でも魂は月の照る海へ、そこで小さな船に乗って昔と変わらない笑顔を見せている、愛する男のもとへ還っていく…もう号泣ですよ。月光の中、船の上で抱きしめ合うふたり。最後の最後に「♪熟田津の海に月出づ」と、ここでタイトルを歌う智積…これを泣かないでおられましょうか……
 あまりにも美しい、卑怯なまでに素晴らしいラストシーンだったのでした。

 そしてフィナーレがたっぷりあります、良きですね! 『ベアベア』も『ラスジョ』もなかったからね!
 まずはさりお、御剣くん、つんつんにあいみちゃんの星組若手ホープ四人がカッコよく。新公主演で線引いてるんでしょうけれど、本当は碧音くんもここに加えたかったですよね…さりおセンターに104期ふたり、105期ふたりという布陣が、今回の座組では素晴らしかったわけですからね…! でも御剣くんもよかったよ、新公ラーマに抜擢させるまではまだぼやっとしていたと思うので、間に合ってよかったです。最近スカステなんかでの露出も多いし、タッパがあってスタイル良くて華があるスターさんです。もちろんいつでもなんでも上手い碧音くんにも主演のチャンスが欲しかったけれどね…今後も大事にしてください。ちなみに105期もつんつんの方が上手いしこちらは華もありますが、なんせあいみちゃんのタッパやスタイルの良さは武器なので、劇団にはここをどうするつもりなのかを早急に考えてきちんと手当てしていただきたいです。正直今さら100期を組替えさせている場合ではない、タレントいまくりの105期をどうにかしないとまた95期みたいなことになりますよ…?
 そしてさりおも大事にしてください…! いい人役、親友役をたくさん観てきた気がしますが、主人公のピンチにおっとり刀で駆けつける格好良さは初出だった気がしました。素敵でしたよー!!
 そのあと男役群舞が続いて、かりんさんが加わって、ワタクシまた号泣…ありちゃんのあと、他に天飛くんとかが加わって、この布陣で星組本公演をやるんだと思っていたのにと思うと、泣けて泣けて仕方なかったのです。しかし贔屓目もあるのかもしれませんが、ここの振付、ダンスはよかったな。同じ花郎ふうのお衣装のダンスでも、私は『不時着』のフィナーレにはあまり感心しなかったので…
 月光イメージの白いお衣装の娘役さんたちが出て、センターはルリハナちゃん。優雅でとても良きでした。そしてふたつの輪が作られて、それぞれから智積かりんさんと寶うたちが現れる…
 本編でも何度か連れ舞をしているわけですが、それでもやはり格別でした。スモークが美しく、涙でよく見えませぬ…流れるメロディに『あかねさす~』のワンフレーズが入るのも良き。
 そしてうたちが去って、かりんさんがひとり残ってもうひと踊り。やだスターさんみたい…!とまた爆泣きするワタクシ。別にダンサーじゃないしたいしたこともしていないんですけど(オイ)、のびのび踊っていてすがすがしく神々しく、また涙、涙。最後にピンクの花びらが舞い散り、そっとひとひら手のひらにつかんで微笑み、キメ…泣かせに来てるんだ、わかってるんだ、だが泣いてしまうんだ…!!
 パレードはひよりんふみたんの子役コンビから。月光や采女ではちゃんと美女でしたよー。プログラムでもそうですし、ラインナップも主役ふたりの両サイドは組長とまりんさんなので二番手扱いはしないということなのでしょうが、つんつんもさりおもパレードはちゃんと扱われていて良きでした。最後にうたち、そしてかりんさん。晴れやかな笑顔で三方礼、カテコのご挨拶は特にひねりナシ。良き、良きです。

 マイ初日観劇後に、こちらなど読ませていただき、改めて勉強しました。

 かりんさんの顎のほくろはものによっては消されていますが、今回のポスターにはちゃんとあってとても良き。このほくろがいいんですよ! 何故消す!?
 ロゴも、普通の明朝体でないところがとても素敵。星空を大きく入れた構図も素敵。久々にB2ポスター買っちゃいましたよ…!
 智積が特に笑っていなくて、もの言いたげにちょっと唇を開きかけているところが好き。本編のポーズとちょっと違うんですよね、そこがいい。本編では寶もただ智積の肩に頭を乗せただけで、両手とも自分の膝に置いていたと思いますし、ふたりはもっと微笑んでいたと思います。こんなふうにして語らった、あるいは語らずただ寄り添い合ったいくつもの夜が、このふたりにあったのね…と思わせる深さ、濃さがあると思いました。
 プログラムの表4に主役の写真を入れず、星空のみとしている潔さもたまりません。
 ゆうゆ、アレコレ言いましたが、そして勝手にニックネーム呼びしてすみませんが、第二作にも期待しています…!

 というわけで、かりんさん、特に何がいいとか上手くなっているとかはない気もするのですが(だがそこがいいのだ…歌声が時にヨレるところとかも。これはもはや芸ですよ…!)、こんなにも純粋でまっすくであたたかできよらかで優しく凛々しく頼もしく、包容力のある男性の役を、なんら嘘臭くなく、てらいなく嫌味なく演じられる…というのがまさしく才能、立派な芸だと思います。本人の人柄まんま…というよりは、ちゃんと役を生き役を体現しているんだと思うので…そのことが本当に素晴らしいです。素直で真面目で温かな人柄によく沿う、素敵なお役に当たって、本当によかったです。いいお役、いい作品を引き当てるのは運なのか、何かが呼び寄せるのか…でもこの先、ダメダメ作品をスターの力任せになんとかするようなところも観てみたい気もします。なんともならなくても、それはそれ(笑)。好きなので甘くてすみません…
 正直まだ花組での姿を思い描けませんが、しかしVISAガールは似合いそうなんで是非…!とか思ってしまいます。ご本人は組替えに驚いたり不安を感じたりしているのでしょうか、お茶会にこのところ行けていないから話が聞けず、心配だわ…でも、まずは大尊敬しているこっちゃんから学べるものをすべて学んで、ありちゃんともキャッキャウフフして(笑)、のびのび育っていってください。応援しています…!
 そしてうたち、可愛いし達者なんだけど、以前まどかにもあったような、焦ったり感情的になる演技で声が跳ね上がるのがあまり美しくないので、上手く修正できるといいなと願っています。小さいから誰にでも合うし、逆に言えばありちゃんは多少背が高い相手役でもものともしないタイプにトップスターになるのでしょうが…ありうたちがいいなあ、どこの月組だよって言われても次期はありうたちが私は希望です。でもこればっかりはなんとも…ですね。星娘も新公ヒロイン経験者がわんさといるからなあぁ…(でもるりなたんにもチャンスをいただければと思っています…!)
 所用あり、配信が見られなくて残念です。そして三番手主演だと円盤化がないんだろうから(そしてかりんさんトップ時代に販売されるヤツですね…!)、スカステ待ちになるので先が長いですね…てかなんで配信が平日昼間やねん、あと二度目の休演日が土曜だったのはなんでやねん。イヤいろんな都合の人がいるから万人にいいようにはできないのはわかっていますが、最大多数の最大幸福を狙うべきでしょ? 二度目も月曜休演にして千秋楽は水曜まで延ばしても、特になんの問題もなかったと思うのですが…? 謎…
 いつかの再演を信じて、部屋に貼ったポスターを眺め続けますね。そのときの私はこのうたちのような表情をしている気がする…
 これまたかなりのチケ難公演でしたが、なんとか二度観られて幸せでした。ご縁に感謝です…!







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『ニュージーズ』

2024年11月03日 | 観劇記/タイトルな行
 日生劇場、2024年10月28日18時。
 
 1899年、夏、ニューヨーク。少年ジャック(岩﨑大昇)は足の不自由な友人クラッチー(横山賀三)や他の孤児、ホームレスの新聞販売少年たち「ニュージーズ」とともに暮らし、毎日新聞を売って生活している。ジャックは「いつかニューヨークを出てサンタフェへ行く」と夢見ているが、現実はその日暮らし。ある日ジャックはデイヴィ(加藤清史郎)とその弟レス(この日は大久保壮駿)と出会う。彼らは他のニュージーズと違って家と家族があるが、父親の失業という事情があってニュージーズに加わったばかり。その頃、ワールド紙のオーナーであるピュリッツァー(石川禅)は売り上げを伸ばそうと、販売価格は据え置きでニュージーズへの卸値を引き上げることを企てていた…
 作曲/アラン・メンケン、作詞/ジャック・フェルドマン、脚本/ハーヴェイ・ファイアスタイン、演出・日本語訳・訳詞/小池修一郎。1992年のディズニーによる実写ミュージカル映画を原作に、2013年ブロードウェイ初演。21年日本初演の再演、全2幕。

 初演も主演は確かジャニーズでヒロインのキャサリン(星風まどか)はゆうみちゃんで気にはなっていた記憶ですが、何故か見送っていました。再演が決まり、まどかの退団後初舞台とあっていそいそとチケットを取りました。今回の主演もSTARTO所属ですが、歌が上手くてタッパもあって(なので少年というよりは青年、に見えてしまったのは役としてはアレだったかも、でしたが)、素晴らしい座長っぷりでした。逸材はいるもんなんですねえぇ…! ニュージーズの心のパトロネス、メッダ(霧矢大夢)は初演から続投のきりやんで当然ながらこれも上手い。石川禅は言わずもがな。横山くんはヤングシンバだったそうで当然ですがこれも上手くて、加藤くんももちろん上手くて、総じて歌唱やダンスナンバーにまったくストレスのない舞台でした。アンサンブルのニュージーズたちも素晴らしい歌、ダンス、アクロバットのパフォーマンスで、生き生きしていて楽しそうで本当によかったです!
 そして我らがまどかにゃんも立派だった! 男役に合わせた娘役のキーでなくても抜群の歌唱! 忙しく難しいソロを難なくこなして、リリカルなデュエットソングも素晴らしく、ヒロイン仕草もバッチリで、でもキャサリンってわりと強いお役なのでそこもよかった。バルコニー・シーンではジャックの方が姫っぽかったですもんね(笑)。エアチューなのもよかったです。いやぁ、これからミュージカル女優としてバリバリやっていけると思うよ! 期待しかない! 『ラブネバ』も作品がアレでまだチケット取っていないけど、なんとかしたいです…!!
 なので、毎度言いますが問題はホンですよ。というかもともとの脚本はいいと思うのです、でも足りない。欧米でやるならこれで十分伝わるのかもしれないし、ショーアップミュージカルとして成立しているのかもしれない。でも日本でやるならもっと掘った方が絶対にいいんですよ。ディズニーには珍しく、日本オリジナル演出を認めてくれた契約だったようだから、なおさらそっと台詞を足しちゃえばいいだけのことだったのに…!と、終始脳内ノートしながらの観劇となってしまいました。イケコ、仕事してー!

 まず、ニュージーズが「個人事業主」であることが本編できちんと触れられてないことが問題です。私は事前にプログラムを購入してコラムにさっと目を通していましたが、そんな観客ばかりじゃないでしょう。そして現代日本人のほとんどにとって新聞配達っていったら苦学生のアルバイトとか、そんなイメージでしょう? でもそういうことじゃないんだ、ってのはもっとちゃんと明示しないと、そもそもの前提が共有されないじゃないですか。
 そもそも、サラリーマンの大多数って商売、ビジネスの基本がよくわかっていないんじゃないでしょうか。少なくとも私は、営業の部署に異動するまできちんと考えたことがありませんでした。会社のどこからかの収益からなんらかの給与が出ている…くらいの意識しかなかった。でも商売って、どこから何をいついくらの卸値でいくつ仕入れるかを考え、それをいくらでいつどう売るか工夫し、その差額が儲けになる…という、まあ言われればあたりまえのことでしょうが、それをこの物語を観せるに当たっては改めて押さえておく必要があったのではないでしょうか。
 ニュージーズたちは、雇われバイトではない。売った新聞の量に合わせて歩合をバイト代としてもらう雇用形態ではない。彼らはそれぞれ個人事業主で、自分が売り捌けると判断した量だけ商品である新聞をあらかじめ卸値で買い取り、それをなるべく効率よく売り切ったら、売値との差額がその日の収入になる…そういうビジネスをしているのです。私は委託再販制という特殊な商売をしている業界にいますが、それでも直接取引や買い取りの案件はあり、その場合は料率が違う…ということをだいぶ大人になってから学んで、なるほどね、と思ったものでした。私がもの知らずだっただけかもしれません、フツーは常識なのかもしれません。でも私はこの作品でも改めてその理屈を説明してほしかった。わかっていない人だって絶対にいると思っている。それじゃこのあとの何がどう争点になりドラマになっているのかが理解されないじゃん、それじゃもったいないじゃん…! そういう雑さ、もったいなさが私は嫌なんですよ…!!
 ニュージーズがその日の新聞の見出しに一喜一憂するのは、大きな事件や報道があった日の新聞はたくさん売れるから、でしょ? 地味なニュースしかない日は新聞の売れ行きも悪い、だから儲けも少ない、だから落胆するんでしょ? 今でこそ減っているんでしょうが、当時の新聞は毎朝家庭に配達されるものではなく、駅の売店や通りの新聞売りから適宜買うものだった、だから売れ行きが見出しに左右されて重要なんだ、って話でしょ? それもノー説明じゃん。あのくだりの意味がわかっていない観客、絶対いるって…!
 デイヴィはお坊ちゃん育ちでこの商売の常識を知らないから、先に新聞を預かってあとから売上代金を納めて、差額を報酬として受け取る気でいたんでしょ? そして新聞は売れ残ったら戻せると思ってたんでしょ? それをニュージーズたちに笑われたんでしょ? でもそこになんの齟齬があるのかわからない観客がいたら、ここでもう取り残されちゃうじゃん。そういう作り方をしちゃダメなんだって、もったいないんだって…!
 私は卸値だって交渉できているのかと思っていました。たくさん売るものは安く仕入れられる、というのが当然のように思えたからです。でもそれはないようでした。一律の卸値を強いていることでピュリッツァーはもはや理想的な取引相手ではないわけです。そこから問題は始まっているのです。
 ジャックはレスにかわいそうな孤児のふりをさせて、客の同情を引いて新聞を売らせる。デイヴィは抵抗します。確かにそれは嘘だし、詐欺かもしれない。でもそれで新聞が余計に捌けるのならそれに越したことはないのです。彼らはその日の売り上げをその日の食い扶持に当てるような、まさしく自転車操業のその日暮らしをしているのですから…
 だから、ピュリッツァーの一方的な卸値の値上げに対して(売値も彼らによって決められているようでしたし、勝手に上げたら客は今までどおりの値段で売っているところで買うようにするだけなので、卸値を上げられたらニュージーズたちの手取りは減るだけなのでした)、ストライキで抵抗しよう、となったときも、ホントはもっと問題があったはずなのです。だってストをしたらもうその日の収入が断たれるんですから。彼らに貯金があった者なんかいないでしょう。数日はツケだの貸し借りだのなんだので賄えても、すぐに干上がったはずです。だからこそスト破りが出る。でもストは、なるだけ大規模に連帯して一枚岩でやらないと意味がない。そういうメカニズムを見せる描写がもっとあるべきでした。だってそれくらい見せないと、労働争議って今の日本の普通の人にとって遠いことで、理解できないじゃん…(ホントはそれじゃダメなんですけどね、我々は自分たちの権利に無関心すぎるのです)
 一方で、ピュリッツァーも発行数を上げたいから、という理由で卸値を上げたような描写でしたが、発行数だけなら単に刷り増しすりゃいいんだから好きに刷ればいいんです。そうじゃないでしょ? 売上数を上げたいんでしょ、売上を上げたいんでしょ? だから卸値を上げた、でもそれはとても短絡的なことです。事実、ニュージーズたちのストに遭い、新聞は売れなくなって倉庫に山積み…みたいな描写があるべきなんじゃないの? それとも新聞社にはニュージーズたちの他にも販路があって、彼らのストなんか屁でもなかった、ってことなの? じゃストなんかスルー、で終わり、じゃん。なんなの? そのあたり、もっと説明してくれないと何が争点のドラマかわからず、私は不満でした。史実なんだろうけど、ビジネスを舐めたビジネスもののお話なんか作るなよ素人か、と言いたいです。
 ストは新聞売りのみならずすべての小売業界に広がって、そして最終的には、州知事のルーズベルト(増澤ノゾム)が出てきてトップダウンで解決してしまうようだけれど、本質的には雇用者と被雇用者との契約とか信義とか信頼関係とかの商売の基本のキの話なんだと思うので、なんかデウス・エクス・マキナみたいなあるいは大岡裁きみたいな…で終わるのはどうなんだ、と私はちょっと消化不良に感じました。史実はどうであれ、この作品の中の物語として、ドラマとして、ということです。あとはなんかここにルーズベルトとピュリッツァーの男同士の、あるいはビジネスマン同士の、腹に一物ある者同士の、あるいは脛に傷持つ身同士としての何かの屈託や連帯や貸し借りや同盟やいわゆる「握り」があったようなんですが、そのあたりも描写が曖昧でよくわかりませんでした。スカッともニヤリともできない、そんなんじゃダメだろう…!
 さらに言うと、この物語ではヒロインのキャサリンがピュリッツァーの娘であり、しかし父親に逆らい嫁にも行かずペンネームで記事を書く報道記者として働く女性で、一方で主人公のジャックはリーダーシップや男気はあるものの所詮は無学な孤児で(ところでしかしニュージーズたちは新聞の見出しの字が読めていたな、当時のこの界隈の識字率はどんなものだったのでしょうか…)、しかし絵の才能があり、劇場の背景幕を描くこともできれば写真代わりの写実的なルポ絵も描けるのだった…というところがミソなんですよ。つまりマスコミの基本ですよね。『ビリー・エリオット』の炭鉱夫たちのストとはちょっとまた意味が違うのです、そのあたりももしかして消化不良のままなのでは…?
 ニュージーズたちがストを起こして新聞が売れない、配られないと、ニュースは人々に届かない。他で事件の報道はされず、事件そのものもなかったものとされかねないのです。キャサリンはストの記事を書いて新聞に載せ、より広く周知させ連帯を誘おうとしますが、そもそもその記事は読まれないのでは? ニュージーズたちのストによって新聞が足止めされているのでは…? というジレンマがノータッチでしたよね? 私はムムム?となりましたよ??
 ワールド紙は大衆向けの、スポーツやファッション、コミックなど娯楽に強い新聞だったそうですが、それでも基本はニュース、報道でしょ? ここには現代に通じるメディアの問題があるわけじゃないですか。今オオタニサンばっか言って衆院選の各党の細かい政策の精査報道なんかを全然しない本邦メディア批判にも通じる問題なんじゃないの? 新聞社主に反旗を翻している娘と被雇用者トップがそれぞれ報道記者、報道画家たる人材だという皮肉とジレンマ…そこにこそドラマのキモがあったのでは…? あるいはここがねじれてるから爆発しきれていない話になっちゃっているのでは…? だって彼らを記者、画家として雇いその稿料もちゃんと支払い新聞売りたちにもきちんと歩合で配達・販売料を支払うライバル社が出て、そっちの新聞の方が記事もおもしろいしちゃんと流通しているし結果売れて大勝利…ってのがありえるホントの道筋だったんじゃないの?って思うじゃん。あるいはそれこそ炭鉱とか、別業界でストが起きて、それに連帯した主人公たちが報道の力で一大ムーブメントを起こす…って話の方がわかりやすかったのでは? 事実を伝える、隠された真実を暴く、という報道の基本のキの力に特化した主人公たちが活躍する物語…でも彼らが戦う相手が直接の雇い主ないし契約関係にある相手、報道の元締めとなると、複雑というか微妙というか、になっちゃってるんじゃないのかなあ。でも勧善懲悪、というのとは違うけれど、正しい商売はみんなの幸福につながる、というのが資本主義の理念なんじゃないのかなあ…(そして今その資本主義がどん詰まりに来ているから世界はこんなにも荒廃しているわけですが…)それを描いてこそのフィクション、ハッピーエンド・ミュージカルなんじゃないのかなあぁ…?

 あとは細かいことですが、感化院も廃止して終わり、じゃない気がしました。だってそこから追い出されたら孤児たちは路上に戻るだけじゃん、彼らを保護し支援し育成する施設、システムは必要ですよ。排除されるべきは児童虐待する職員とかピンハネするような経営者なんであってさ…モヤったなあぁ。
 でも、この作品のお話としては、ニュージーズたちは健全な経済活動に復帰できて(児童就労の問題、とかまではこの作品では扱えない、のはわかっています。いますが…)、ジャックはキャサリンとの恋を実らせる。そういうハッピーエンドなのでした。下世話なことを言えば逆玉に乗って、いつかふたりはサンタフェに行く…まであるのかもしれません。
 クラッチーかデイヴィがサンタフェに行くことはないのでしょう。でもデイヴィの父親は、怪我さえ治ればまたバリバリ働けて、デイヴィもレスも新聞売りなんかせず学校に戻れて、もしかしたら彼らの家にはクラッチーを引き取る余裕くらいあるのかもしれない…そんなことを、夢見ないではいられません。ここのBL感とか三角関係感がもっと見えてもよかったのになー…イケコはガチだから逆にそういう琴線がない、とかなんだろうか…てかアンサンブルたちのパフォーマンスがどんなに見事でも、「でもみんなイケコのお稚児さんなのかな…」とか思わないでは観られないのって、めっちゃつらいんですけど、ホントこのままどうにもする気がないんですか東宝およびミュージカル界…
 ここではないどこかへ、みたいな望みを歌う歌はありがちではありますが、サンタフェへの想いを歌うジャックとクラッチーは吉田秋生『カリフォルニア物語』のヒースとイーヴを想起させました。懐かしや、引っ張り出してきて読み返しちゃいましたよ…そしてキャラとして私が好きなのはもちろんデイヴィです。こういう優等生タイプ、大好き! でも彼が学校で得た知識や教養がニュージーズたちの労働争議に役立ったのですもの、学校は大事、勉強は大事、知識や教養は本当に大事で必要。そういうことが改めて伝わるといいな、とも思いました。
 なのでなんかいちいちちょっとずつもったいなくて、ただ少年たちががんばっていて輝いていて楽しい演目でよかったね、だけで、だからブレイクしきれないし社会を変えるインパクトたりえてないんじゃないの?とちょっと歯がゆかったです。本来、エンタメにはそれだけの力があるのに…この作品にも要素は揃っているのに…エンタメはエンタメの力を信じている人に作ってもらいたいよなあ、などちょっと残念に思ったのでした。キャストも楽曲もよかっただけに、ね…演出家を変更し、ブラッシュアップされた三演に期待します。
 ちなみに二階最前列で観たのですが、イケコはわりと上の階にも配慮した構成をすることが多い印象で(美術/松井るみ)、いいところはけっこう高いところでやってくれていて、逆にあれは一階前方席の観客からはかなり見づらかったのでは…など思ったりも、しました。いろいろ難しいもんだなあぁ…私がうるさいことを言い過ぎなだけ、という自覚がないわけではないのですが…あー、手放しで褒められる作品に出会いたいもんだよーーーー!!!











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musical『9to5』

2024年10月14日 | 観劇記/タイトルな行
 日本青年館ホール、2024年10月10日18時。

 ロサンゼルスの大企業に勤めるヴァイオレット(明日海りお)はシングルマザー。日々の生活に追われながら仕事と家庭を両立し、社内で確固たる地位を築いていた。若手社員ジョー(内海啓貴)に慕われる一方で、社長のハート(別所哲也)の横暴には悩まされている。ある日、同じようにハートのハラスメントに耐えている秘書ドラリー(平野綾)、新入社員ジュディ(和希そら)と意気投合したことで、ハートをとっちめる計画を立てるが…
 音楽・歌詞/ドリー・バートン、脚本/パトリシア・レズニック、原作/20世紀フォックス同名映画。翻訳・訳詞・演出/上田一豪、音楽監督/江草啓太、振付/藤林美沙、ZooM。1980年公開の映画をミュージカル化したもので、2008年ワールドプレミア、09年ブロードウェイ初演。19年にはウェストエンドで別演出となるジェフ・カルフーン演出版が開幕し、24年には原作映画をジェニファー・アニストンがリメイクすると発表された話題作。全2幕。

 ソラカズキの退団後初出演作!というので、みりお会の親友に連れて行っていただきました。なんと最前列でしたが、舞台までちょっと距離があるし舞台の床が低くて、とても観やすくて楽しかったです。総踊りになってメイン3人が2列目になるときだけ、前列のアンサンブルが被って見づらかった程度。近さを堪能できました…!
 もとはまあまあ古い映画なので、今観てズレがどうか…という心配は事前にささやかれていましたし、蓋を開けたら逆に、セクハラもパワハラも女性差別も何もかも全然改善されていない現代の現実と地続きすぎて観るのがしんどい…みたいな声も聞こえてきていました。
 でも私は図太いので、めっちゃ楽しく観てしまいました。装置(美術/石原敬)やお衣装(衣裳/十川ヒロコ)なんかがポップでスタイリッシュなのが作品全体をファンタジーとして、フィクションとして上手く見せている気がしましたし、なんせみんな上手かったし可愛くて超キュートでプリティだったのも良きファンタジー感を醸し出していたと思います。もちろん戯画化されているし露悪的にも感じられ、ザラザラしたりヒヤヒヤしたりもしたのですが、それでも私はとにかくおもしろく感じてしまったのでした。ダメな人はダメでしょうとは思いますし、もしかしたらトリガーアラートが必要な作品だったのかもしれませんが…でもオールド・タイプのミュージカルとして、クラシカルな仕上がりで、とてもよくできていたと思うんですよね…私は演出家の癖とか傾向とかがあまりよくわからないへっぽこ観劇ファンなんですけれど、この演出家さんも作品をいくつか観ているはずですが特に個性とかはわかっていません。でも過不足なく、またある種の狙いをちゃんと持ってタイトに仕上げている気がしました。休憩込み2時間半で綺麗に終わる作品なので、ソワレはもう30分開演が遅くてもいいかもね、くらいかなあ…
 イヤ問題はありますよ? 一番まずいのはボリビア差別で、もとの映画なりウェストエンド版まんまなんだとしても今すぐ変更していただきたいですね。ボリビア人に観られて抗議を受けることなど想定していないのでしょうが…つーか抗議されなくてもこんなことやっちゃ駄目。別に砂漠のド真ん中のなんとか、みたいな架空の国にすればいいだけでしょ? 絶海の孤島でも極寒の僻地でもジャングルの奥地でもなんでもいいけれど、実在の国名を出す必要はないし、腰蓑でドクロとか本当に駄目すぎて肝が冷えました。
 あとは、会長(ひのあらた)の鶴の一声、トップダウン、大岡裁きで決着してしまうところとかもね…結局、上の男が了承すればいいんかい、ってなっちゃいますよね。実は会長は女性だったとか、会長は会社にノータッチなんだけど会長夫人が賛同してくれて…とかならまだよかったのかなあ…でも権力者がオーケーならオーケー、って構造はやっぱりアレなので、ヴァイオレットたちの改革で売り上げが伸びて株主たちが大満足で株主総会でオーケーが出て…というのが民主主義的に、資本主義的にも?正しかったのかしらん…??
 それからロズ(飯野めぐみ)はともかく、マーガレット(船山智香子)のザッツ・オールドミスみたいな描写とかももちろん引っかかりました。ここにはアルコール依存の問題もあって、まあ綺麗に解決されているっちゃいるんですけれど、健康が改善されると眼鏡もなくなって美人になる、というのはルッキズムを指摘されても仕方ないですよね…
 ヴァイオレットたちの妄想爆発場面も、ミュージカルナンバーとしてめっちゃ楽しいんだけれど、でも本当はそうじゃない感はありました。たとえばヴァイオレットが(白スーツで現役時代もかくやというノリノリでキメるみりおが絶品なのは別として)若い男たちに傅かれもてはやされてドヤるのって、ハートが今やっていることをただ男女逆転させただけなので、愚かさ加減はおんなじなわけです。だから、今の理不尽が撤廃できたとしてアンタのやりたいことって結局ソレなの?って気はちょっとしてしまう。でも、女だけが常に正しいことをしなくちゃならない、ってことはないのです。女にも愚かなことをやる権利がある。だから男からそれを取り上げたら同じようにおバカをやってもいいのです。ましてこれは妄想、想像の場面であって、実際のヴァイオレットはちゃんとした働き方改革を進めるんですからね。ドラリーが男たちをビシバシ叩きのめすようなスパンキング・プレイに走るのも同じことです。女にだって暴力を振るう権利はある(もちろんそれは犯罪なのですが、やりたいならやっていいのです。あとでその責を負う必要があるというだけのことです)。ジュディのように憎たらしい男たちをバンバン撃ち殺して、それで溜飲を下げたっていいんです。スカッとしちゃう、笑っちゃう、でもひんやりした罪悪感が忍び寄る…それがまともな人間の感覚でしょう。男性観客の心証を案じるツイートなんかも見ましたが、こういう作品を観に来る感性がある人は同じように感じて楽しむんじゃないかしらん? むしろこういうものを観に来ない人、そして現実にはまさにこんな感じで周囲に対して横暴で威圧的で暴力的でかつそのことになんの疑問も感じない男が多すぎるわけで、それこそが問題なのであって、そういうことを浮き彫りに描いているにすぎないと思うのです。私は、これを観ていて必要以上に申し訳ながったり居心地悪く感じたり自己反省的になる必要はない、と思ったけどなあ…
 マリファナの存在がカットされなかったのはよかったです。国によっては合法なんだし、フツーにやっていいのに、そんなところばっか変にちゃんとするフリをしようとするところがあるからさ本邦制作陣…でもそれでラリって見る夢があの大ナンバーたちなんだから、カットしようがなかったってのはあるんでしょうけどね。でも変にごまかしたり「マリファナ」という言葉を出さない、みたいな姑息なことがされていなくてよかったです。
 大人のお伽話ではあり、まして今や9時から5時までの会社生活が人生のすべて、なんて生き方をしている人は少ないよ…?とは冒頭から思いましたが、ちゃんとラストでみんなのその後を描いていて、会社を辞めて違う人生を生きているキャラクターもちゃんといて、そういうところはホントいいなと思いました。ドラリーについては、作品の音楽・歌詞を担当したカントリー・ミュージック・アーティストのドリー・バートンになぞらえているんだと思いますが、日本で上演するにはそこは通じなくて不発だったのが残念でしたね。

 というわけで私は楽しく観たしみんな上手くて可愛くて、満足でした!
 みりおちゃんは、今回は歌えていて、久々にダンスも観られて、とてもとてもよかったです! まあ外見というか、『王様と私』くらいならそれ相応に見えましたが、思春期?で車の免許も取れるような歳の息子がいる母親の歳には見えない…というのは、あったかな。実年齢としてはそれこそ全員近い感じなんでしょうけれど、役者さんってみんなすごく若く見えるから、みんなもう十くらい上の人がやってちょうどいい感じなのでは…というのは、ありましたね。でもそれもファンタジー感が出て、ちょうどよかったのかもしれません。どのパンツスーツも、妄想の白雪姫ドレスもお似合いで楽しかったです。ただ痩せすぎだよね、さすがにここまでだと不健康、不自然に見えてお衣装もやや映えないのが気になりました。まあもうこういう体質で、こういう人って太れないんでしょうけれど…
 1974年のアメリカ社会のリアル像が私には今ひとつピンときませんが、おそらくヴァイオレットは大学時代の恋人とすぐ結婚して妊娠して出産したんじゃないかしらん? でも専業主婦になる発想はなくて、結婚しても妊娠しても出産しても会社で働き続けた人だったのでしょう。それが当時どれくらいレアなことだったのかあるいはメジャーなことだったのか、そのあたりはよくわかりません。離婚ではなく死別、しかも3年前、というのはけっこう重要な情報だと思うので、もっと早く提示してもらえた方がキャラや境遇がつかめてよかったかな、とは思いました。なので40手前くらいの歳の設定なんでしょうか。やっと30というジョーの年齢に対するショック、わかるようなわからないような…(笑)めっちゃいい間でした。今なら十歳か一回りくらい男が下なんで平均寿命から言ってもバランスいいんじゃない?とか思えますが、当時はナイナイまず絶対にナイ!って感じだったのでしょう。あと、若い男に言い寄られて嬉しい、みたいなところが全然ないのもよかった。そうなのよ、好意なんて寄せられても面倒なだけ、とかとにかくまったく眼中にない、ってのが女のデフォルトなのに、嬉しがる描写をされがちだからさー…でもハートのストレスがなくなって働きたいように働けることになれば、恋愛する余裕も生まれる、というのはリアルだと思うので、良き展開だと思いました。
 脱線しますが、一緒に観た親友は92年の新卒就職時に金融業界に進んだので、均等法施行からだいぶ経っていてもまだまだ男女差別はあったし、総合職とか一般職とかの女性に気を遣っているようでやっぱり差別的だったシステムその他に悩まされた人でした。だから74年のアメリカでもこんな感じだったろう、というのはすごくわかる、と終演後に語っていました。私はそういう堅いところには進まなかったので、給与の男女の別はないことになっていたし、同じ部署に配属された同期は男子でしたがそれぞれ担当業務をバリバリやるだけで、性別も何もなくただ忙しかった最初の十年を過ごしたので、そういうことには全然無頓着でしたが(もう平成だったけれど、昭和のおじさんのセクハラ戯れ言みたいなのはもちろんフツーにありましたが)、今まさに、いわゆるガラスの天井みたいなものにぶち当たっていて、遅まきながら「これか!」となっているところです。
 ある程度までは年次で等しく昇進し、しかし管理職以上はポジションの数の問題もあるし、優秀な人や向いている人がなる…というのは、理屈としてわかります。でもそれが男性ばかりになっていることは、解せません。今の部署に異動してきたら、かつての後輩が上長で同期がその上にいました。彼らの方が先にここに異動してきていて実績を積んでいたのだから、それは納得できます。でも私よりあとに異動してきた後輩の男性が私より先にトントンと昇進したことは解せません。彼の方が私より有能だとか管理職に向いている、ということは特にないと思えたからです。女性の役職者が少ない、と全社的に問題視されている中なのに、たとえ数合わせのためだけでも私を起用しないのか、他に近い歳の女性社員がいないので、私を上げないならこの部署はまた十年とか女性の管理職が生まれないのだがそれでいいという判断なのか…とちょっとがっかりです。イヤ私は管理職なんてやりたくないんですよ、めんどそうだし。でもやれと言われればやりますし、やれるでしょう。だってどんな無能な男もやれているんだからさ。評価基準が昇進しかないんだから(弊社には査定がないので)、昇進しないってことは評価されていないってことなんだな、と思うと、仕事が空しいですよね…別に役職者になって会社に残りたいとか関連会社に再就職したいとかはまったくなくて、定年退職後に遊んで暮らすのを今から楽しみにしているし、それがバレているのかもしれませんが、それとこれとは別でしょう。今はちゃんと働いていて、かつまあまあめんどい担当業務をやらされているのに評価ナシ、グレていいですかね…?ってなりますよ。私はヴァイオレットのように育てた部下に抜かれたことはありません、何故なら部下を持ったことがないから。でも他部署含めて後輩がどんどん昇進していて、なんだかなあ…なのです。若いころでも、仕事も楽しかったけれど趣味もあった生き方をしてきたので、仕事で評価されなくても自分が楽しかったりある程度やり甲斐を感じられたり世の中にちょっとは貢献していると思えたり単にお金が稼げたりしていればそれで十分っちゃ十分なのですが…さて、現実は多少は良くなっているのでしょうか。こういう作品を観て批評することも世の改善に何かしら貢献している、とは思いたいものです。
 平野綾は私は実はあまり舞台を観られていなくて、人気声優、でもミュージカル女優としてもすごい、というイメージしかなかったのですが、ドラリーとてもよかったです! セクシーな格好をしているのは、それくらいしていないとハートにクビを切られるから、というのもあるのかもしれませんし、それが好みのスタイルで自分を素敵に見せている自信がある、ということなんでしょうね。セクシーな格好は自分のためのものであって、それで男が見ていいとか襲っていいとかいうことはまったくないのです。そんな格好しているから…みたいな台詞がなかったのもよかった。そこはもう自明の世界なのです。
 そしてそら! これまた年齢不詳で、新卒の新入社員の役ではありませんでしたが、まあおっつかっつのお若いお嬢さんの役なのでしょう。それは明示してほしかった、かな。でも出だしのたどたどしいタイピングからカワイイ! ポーズやアクションがいちいちカワイイ!! 冒頭の格好、帽子はエレガントに見えかねないしツイードのスーツはフォルムやスカートの丈をもっとダサくしないと「ダサい」の記号が伝わらないな、とは感じましたし、そこからどんどん垢抜けていって…というには後半のお衣装が色目こそ鮮やかになったもののまだパンチに欠けて見えて残念、ってのはありました。でもでも、そんなことよりも何よりも、歌もダンスも芝居もホントーーーーに上手い! あたりまえ体操!! これからもなんでもできる! ガンガン活躍してーーーーッ!! ってなりました。ビルボートライブが取れなくてしょんぼりです…
 でも実は内海くんジョーが一番カワイイですよね。これも、マザコンなのでは?とかフツーなら考えちゃうので、やはりファンタジーなキャラなんですけれど、誠実さ、実直さ、真面目さ、奥手っぷり、でも妙に突っ走るところ…塩梅が良くてもちろん上手くて、素晴らしかったです。
 さらに別所さん、もう大ベテランの域に入ってきましたが…多分ちゃんと割り切って、昭和のアメリカン・ガイを楽しそうにやってくれていて、爽快でした。これまた上手いし、ちょうど良くて素晴らしかったと思いました。
 アンサンブルもバンバン着替えてガンガン踊って、素敵でした。赤とブルーグリーンを効かせた宣伝写真も素敵だったなー。でもプログラムはフツーにA4がいいです。このサイズの正方形は扱いづらいんだよー…機会があればもとの映画も見てみたいです。
 大楽は静岡なんですね、どうぞご安全に…!











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『ナビレラ』

2024年05月29日 | 観劇記/タイトルな行
 シアタークリエ、2024年5月23日18時。

 バレエ団に所属する23歳の新進ダンサー、イ・チェロク(三浦宏規)は、恵まれた才能を活かしきれず将来を迷っていた。一方、定年退職を迎えた70歳のシム・ドクチュル(川平慈英)は、ある秘密を抱えながら、残りの人生について考え始める。ある日、ダンススタジオの前を通りかかったドクチュルはチェロクが踊る姿に心を奪われて、子供のころに憧れたバレエへの夢を思い出し…
 作/HUN、JIMMY、オリジナル台本・作詞/パク・ヘリム、作曲/キム・ヒョウン、オリジナル・プロダクション/ソウル芸術団。上演台本・日本語歌詞・演出/桑原裕子、オンガクカントク・キーボードコンダクター/門司肇。韓国のウェブトゥーンを原作に、テレビドラマ化もされた韓国ミュージカル。全2幕。

 サブタイトルは「それでも蝶は舞う」。ナビは蝶ですが、~のように、の意味のレラがついたとても詩的で繊細で、現代ではあまり使われていない言葉だそうです。素敵ですね…!
 評判は聞いていたのですが、『赤と黒』でも観て、『メディア/イアソン』では贅沢すぎるというか無駄遣いだったのでは…とも思えた三浦くんのバレエを活かした作品を観てみたいとも思っていたので、飛びついてきました。期待に違わぬ良き作品で、ダダ泣きしました。
 韓国では年に三百本ものミュージカルが制作され、切磋琢磨しブラッシュアップされ取捨選択されているんだそうで、それはちょっと勝てないよな…と思いました。イヤ私が最近評判の『千と千尋の神隠し』とか『この世界の片隅で』、『ゴースト&レディ』とかを観られていないだけで、日本のオリジナル・ミュージカルもたいしたものですよ、と言われればそれはそうなのかもしれませんが、なんていうのかな…こういうフツーのお話をきっちり仕上げてくる地力がもうものすごい、と震えたのです。ウェルメイドを超えていると思いましたしね、普遍的な力がある…! ザッツ・韓国で、ストーリーはこのイントロダクションから想定されるように進みオチる、ベタベタのベタかもしれない。でもそこがすごい。変なひねりを入れてこない、真の力量に裏打ちされた自信みたいなものが窺えました。
 あとは、緞帳を使っていたのがよかったなあ。一幕も二幕も、幕が上がって始まり、下りて終わる…暗転よりクラシカルで、私は好きです。この作品にも合っていたと思いました。
 配役もある種の異種格闘技戦感がありましたが、適材適所で新鮮で、とてもよかったです。そしてみんな達者で歌も上手かった…! ドクチュルの長男ソンサンがオレノグラフィティ、次男ソングァンが狩野英孝、バレエ団の団長ムン・ギョングクが舘形比呂一、ぴったり!! ドクチュルの妻ブンイの岡まゆみは、私は初めてかな? いかなもなアジュンマを作っていて好感。ソンサンの娘ヘジンがダブルキャストで、この日は青山なぎさ。東宝ヤング女優枠なのかな? 良き良き。そしてチェロクのサッカー選手時代のチームメイト、ソンチョルの瀧澤翼は『SPY×FAMILY』のユーリだったそうですが、私は観ていない方かな…? タッパがあってスタイル良くて、カッコよかったです!
 アンサンブルさんもみんな素敵で、バレエはもちろん、お芝居でも何役もこなして、達者でした。バレエを習っている役者さんは多いとは思うけれど、これだけ踊れて活かせる機会もなかなかないだろうし、楽しかったのではないかしらん…
 それでいうと川平さんはジャズもタップもヒップホップもやっているのに、バレエはやっていなくて、今回の件で初めてレッスンに行ったんだそうな。意外! 実際には10歳近く若いということだし、本当はもっと全然動ける人なのに、白髪にして足取りもおぼつかないような老人の動きにして、それでも少しずつ手脚が伸びやかになっている様子を実にナチュラルに演じてくれていて、素晴らしかったです。
 うちのアラウンド80の両親を見ていても、70なんてこんな年寄りじゃないだろう、とも思うのだけれど、韓国のこの世代の人たちは子供をより良く育て上げることに全力投球で自分のことはみーんな後回しにして、やっと勤め上げたらもうくたびれきっていて…というのがリアルなのかもしれません。そこへ病気で余命が…ということかなと思っていたら、なんとドクチュルの「秘密」とは認知症でした。せつない…! てか私なんて60で定年退職したらそのあと25年くらいは遊んで暮らしてそのあとやっとおとなしくしようかなとか考えているのに、70なんてすぐすぎます…!
 それでも、身体を壊すより、夢が壊れることの方が怖い、と言ってがんばるドクチュルに、もう泣かされること泣かされること…完全にそっちの視点で観てしまいました。幼いころに親の仕事の都合でロシア(ソ連か?)に行っていた、そこで赤ずきんちゃんのような、バレエを踊る花売り娘(川西茉祐)と友達になって…とかも、ありそうだしエピソードとして本当に美しすぎました。イメージとして何度も現れ、くるくると踊る少女の姿のいじらしさ、美しさにも泣かされました。好きだから、美しいから、バレエを踊りたい…それで十分じゃないか、と心底思えました。
 そして、若いころにバレエをやっていた母親を病気で亡くし、父親はワーカホリック気味なのか子供に無関心で、バイトで生計を立て、目標を定めきれずに悩み苦しみさまよっているチェロク…冒頭、レッスンに遅れてやってきて、ウォームアップもせずにそのまま曲に乗って踊り出す彼のジュテの高さよ! これに心を鷲づかみにされない観客なんています!?(珠城さんリリーに欠けていたのはコレですよ!!)あまりにも鮮やかすぎました。三浦くんは熊川哲也に憧れてバレエを始めて、怪我で断念したそうですがそれはプロのバレリーノになるには、ということで、こういうレベルならなんの問題もなく踊れるのでしょう。これは大きな武器ですよ…! 素晴らしかったです。もちろん、演技も歌もよかったです。
 バレエ団の経営の厳しさとか、ドキュメンタリー番組でクラファンをとか、今っぽい要素も入ってくる中、最後の公演が始まり、チェロクとドクチュルのパ・ド・ドゥ(なのかな?一応…)が始まる。美しい振付、そしてクライマックスにチェロクが跳ぶ。それはポスターのポーズで、そこで暗転…! 舞台の魔法でした。着地の音なんかしなかったじゃん…! もうもう素晴らしすぎて、爆泣きでした。
 ラストは数年後で、海外で活躍しているチェロクが久々に帰国して、シム一家のピクニックに混ざる。ドクチュルは車椅子に乗っていて、もう家族のこともわからない。けれどチェロクが踊ると、そろそろと腕を伸ばす。かつてバレエを教え始めたときのように、彼の指先を直してあげるチェロク、幕…
 人は老いる、いつかは死ぬ、みんな忘れ去られる、でも何もなかったことにはならない。夢があった、美があったのだ…そう信じられる、美しいラストシーンでした。
 こういう体験ができるから、観劇はやめられない…そう、思うのでした。






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『20世紀号に乗って』

2024年03月29日 | 観劇記/タイトルな行
 東急シアターオーブ、2024年3月24日13時。

 世界恐慌を脱出し、人々が再び自信と活力を取り戻し始めた1930年代のアメリカ。かつてはブロードウェイの花形舞台演出家兼プロデューサーだったオスカー・ジャフィ(増田貴久)は華麗で非情、そして誇大妄想気味。現在は多額の借金を抱え、シカゴの荒れた小さな劇場で芝居を打っていた。彼は世界一と言われる豪華客室を備えた高級列車「特級二十世紀号」に乗り込み、元恋人であり、現在はハリウッドの大女優リリー・ガーランド(珠城りょう)に偶然を装って出会う計画を立てるが…
 脚本・作詞/アドルフ・グリーン、ベティ・カムデン、作曲/サイ・コールマン、原作/ベン・ヘクト、チャールズ・マッカーサー、ブルース・ミルホランド、演出・振付/クリス・ベイリー、演出補・共同振付/ベス・クランドール、翻訳・訳詞/高橋亜子、音楽監督/八幡茂。1932年に書き下ろされた戯曲で、ストプレとして上演され、34年アメリカで映画化。その後ブロードウェイにて1978年にミュージカル化、2015年リバイバル上演。全2幕。

 宝塚歌劇雪組版の感想はこちら
 よく笑った、ということしか覚えていませんでしたが(笑)、そしてきぃちゃんのところを珠城さんがやる上演と聞いて素直に「無理では!?」と思いましたが、ともあれ観たくてチケット取りはまあまあがんばったつもりです…が、玉砕に次ぐ玉砕。嘆いていたら、心優しき相互フォロワーさんがお声がけくださいまして、無事の乗車とあいなりました。
 観るのがけっこう公演後半になってしまい、漏れ聞こえてくるのが好評ばかりだったので、ちょっと期待して行ってしまったのですが…みなさん、本当に心優しいんですね。私はダメでした、主に珠城さんが…みんな、他人に目につきやすいSNSではいいことしか言わない良識人なのかもしれませんね。聞けば増田さんファンは抜群にお行儀がいいそうな…でもここは私のブログなので、私は私の感想を書きます。素晴らしかった、最高だったと思う、という方はここでUターンしてください。あ、作品そのものはおもしろかったと私も思いますよ、でもそもそも映画はヒロインが主役なんでしょう? 雪組版も今回もオスカーを主役にしていますが、リリーは立派なヒロイン、大役です。そこがこうつらくっちゃ、そら全体もつらかろう…というのが、私の所感でした。
 言い訳しますけど、ここを読んでくださってきている方はご存じかと思いますが、私は珠城さんのファンなんです。でも私は好きな人にほど点が辛くなる、そういう自覚は確かにあります。でもね、好きだから心配で、過剰に期待し求めてしまうんですよね。だって全然知らない人が観たら「なんであんな下手な人がヒロインやってんの?」って言われかねないじゃん!って思っちゃうからです。イヤ歌えない人が出ているミュージカルなんてざらにあるよ、と言う方もいるでしょうが、歌上手しか出ていないミュージカル舞台もたっくさん知っているしそれがあたりまえであるべきだと考えている私としては、そこで「だからしょうがないよね」とは言いたくないのです…
 てかどうしてこういうオファーをするんだ、あるいは受けるんだ。そもそもタカラジェンヌは、特に男役は、現役時代は歌上手と言われていても退団後は苦労する人がとても多いと思います。おそらくキーの他にもいろいろ違いがあって、チューニングが大変なのでしょう。だいもんだって未だ完璧な出来ではない気がするし、最近こそなんでもござれなきりやんだって退団直後の『マイ・フェア・レディ』とか散々でした。トウコは私が退団直後を観ていないし、みっちゃんも全然観ていないので語れませんが、みりおちゃんも未だに苦労していると思います。なのに大作ミュージカルにばっか出るんだよなあ、『王様と私』も正直めっちゃ心配しています、私。
 逆に娘役スターは、現役時代に歌の印象がそんなにない人でも、卒業して外部に出るとめっちゃ上手っ!と驚かされることが多々あります。これまたキーの問題で、要するに現役時代はものすごく高いところを無理して歌わされていたんでしょうね。そして男役は無理して低いところを歌ってきた…だから高音が弱い。ある意味、自然なことです。
 でもプロなら研鑽してしいし、歌えるようになってほしいし、そうなってから大作ミュージカルに出てほしいんですよ…それは決して望みすぎなことではないと思うんですけれど……しょぼん。

 ヒロインは、とある女優のオーディションの伴奏ピアニスト、の代理、として現れます。まず歌詞を忘れた女優のプロンプをし、次に音を外した女優を正しい音で歌って導き、さらには曲そのものをアレンジして朗々と歌い上げてしまう…それがオスカーの目にとまり、華やかな芸名が与えられて、女優への道が開ける。そういうお役じゃないですか、リリーって。
 でもこの、音を外した女優のために歌ってみせる音が、もう正しくないんだもん。珠城さんに出ない音がある、常に半音下がる音があるのなんてファンはみんな知っていて、私だって愛嬌だと思って愛してきましたが、ここで歌えないのは駄目じゃん。しかも声量がない。だから自信なさげに聞こえる。なのでこの場面の説得力が全然ない。あ、駄目じゃん…とこの時点で目を覆いたくなりましたよ、私…いや、耳を塞ぎたくなる、が正しいのか…
 ミルドレットは着込んでいたダサダサの服や帽子を脱いでいく。美しく波打つブロンドが現れ、ショートパンツだけどほぼダルマみたいに腕も脚も出た赤と青のデーハーなお衣装に
なり、舞台は劇中劇『ヴェロニク』に突入していく。そら珠城さんはスタイルが良くて美しく、真ん中力があり、華もありましたよ。でも声はやっぱり出ていない。マイク音量、もっと上げちゃったら? 音量が弱いから余計に頼りなげに聞こえて、一躍スターダムに駆け上がった女優!って説得力が全然出せてない。おまけに、腕も脚も綺麗でしたが膝が美しくなくて、私はしょんぼりしました…これはルッキズムに当たるのか? バレリーナは脚のために決して正座しないと聞くけれど、あの膝はなんなんだ、学生時代のスポーツの名残なの? 女優としてやっていくためには今後も脚を出す機会はまあまああるものだと思うんだけれど、あれはなんとかなるものなのかしら…
 あとはこれは個人的な好みもあるけれど、胸はないならもっと詰めた方がお衣装が映えるしスタイルのバランスもより良くなる、と思いました。ほとんどないんだもん、単に美しくないよ…ヘルシーでいいとか清潔感がとか色気云々の問題ではなくて、ただ胸が足りない、と私は感じたのです。
 そして…さらに続けて申し訳ございませんが、私は珠城さんの芝居もよくわかりませんでした。これも声のせいもあるのかなあ…男役として出していた低い声はむしろ無理して出していたもので、それにこっちの耳が馴染んでいるだけなのかもしれませんが、素の珠城さんの声ってまあまあヘンじゃないですか。イヤ私はそこも好きなんですけれどね、ヘンな声スキーなので(まったく褒めているように聞こえないことでしょう、ホントすんません)。でもなんかあの声で早口でつっかかるようにキンキンしゃべられると、どうもなんか変に無理しているっぽく聞こえるんですよね…
 つまりリリーって、ハリウッドの人気女優として群がるマスコミやファンに見せる顔と、プライベートになってポンコツ・ボーイフレンドのブルース(渡辺大輔。絶品!)に見せる顔と、彼すら追い出してひとりになったときに見せる本音の顔と、があるわけじゃないですか。その演じ分けが、なんか全然わからなかったんですよね。オスカーと対峙しているときなんかはリリーとしてナチュラルな部分も多くあったはずなんだけれど、珠城さんリリーのナチュラルさをあの発声からでは私は感じられなかった、というか。なのでなんか、だんだんオスカーにほだされていって…とか焼けぼっくいに火が点いて…とか本当は映画でなく舞台がやりたいしそれをわかってくれる人がいて嬉しい…とかの感情の変化や揺らぎみたいなものが、観ていて全然追えなかったんですよね。お友達のおかげで、ほぼオペラ要らずで表情まで追えるような6列目から観ていたにもかかわらず…!
 なので、「わー、全然ダメだ。みんなはこれで大丈夫なの?」と勝手にハラハラしながら全編観たんですよ…あげくオチが雪組版とちょっと違ったのでなおさらトートツに感じられて、それでも最後はむりくり大団円ハッピーウェディングなわけで、まあ早速ウェディングドレス着ちゃって珠城さんよかったねえぇ…などと見送るしかなかったのでした。
 しかしカテコで娘役お辞儀ができていないことにまたイラついてしまい…ドレス着るんだからそこも学んで! くれあ姐さんに今すぐ教わって! と思いましたよ…女優は美しくいることも仕事なのよ!?
 思えば私、『天翔ける風に』も駄目だったんですよね…どうしよう、卒業後2連敗…? あ、『8人の女たち』はちょうどいい胡散臭さだったんですけれどねえぇ……

 私がアイドルとしての姿をまったく存じ上げない、舞台で観るのもお初な増田さんは、それはもう素晴らしいミュージカル・スターでした。歌も芝居もダンスも上手い、そして大ナンバーのあとそのまま演技、とかも難なくこなす体力お化けでした。すごいなあぁ!
 オスカーの部下、オリバー(小野田龍之介)とオーエン(上川一哉)もあたりまえですが任せて安心の上手さで、安定感しかない…! ただ三人とも似たような茶系のスーツ姿だったので、宝塚歌劇ならここはブルー、グリーン、紫のスーツとかで遠目にも識別しやすいようにしたろうな、などと考えてしまいました(衣裳/前田文子)。
 プリムローズ(戸田恵子)も素晴らしいマダムっぷり、可愛らしいボケ老婦人っぷりと安定の歌唱で、これまた抜群でした。アンサンブルもみな達者で、素晴らしい座組だったかと思います。
 なので、ホントいろいろ気にしすぎて楽しめなかった自分を恨めしく思います…いいよいいよ、可愛いよがんばってるよ綺麗よー、と褒めそやしてみることが私はできなかったのです。くうぅ…ホント、私の問題だと思っています。でも私はもっと安心して、たとえ中身のないスクリューボール・コメディだろうと(オイ)もっと深いところで鑑賞したいんだー! 雪組版よりラブロマンスとして、お芝居として深い、みたいなことを語る有識者さま方の感想ツイートを見ると、そこまでとても読み取れなかった自分が不甲斐ないのでした…しょぼん。
 でも、しつこいですが未だファンのつもりではあるので、またおもしろそうな作品に出てくれればいそいそと出かけたいと思っています。とりあえずなんかもっと渋い、小さいハコでのストプレとかどうかな…向いてると思うんだけどな…
 ところでお衣装や私服のスカートはもう見慣れましたが、プログラムの稽古場写真のお稽古スカート姿にはなんかときめきました…(笑)りょうちゃん、として周りから愛されているようなら何よりです!











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