日生劇場、2024年10月28日18時。
1899年、夏、ニューヨーク。少年ジャック(岩﨑大昇)は足の不自由な友人クラッチー(横山賀三)や他の孤児、ホームレスの新聞販売少年たち「ニュージーズ」とともに暮らし、毎日新聞を売って生活している。ジャックは「いつかニューヨークを出てサンタフェへ行く」と夢見ているが、現実はその日暮らし。ある日ジャックはデイヴィ(加藤清史郎)とその弟レス(この日は大久保壮駿)と出会う。彼らは他のニュージーズと違って家と家族があるが、父親の失業という事情があってニュージーズに加わったばかり。その頃、ワールド紙のオーナーであるピュリッツァー(石川禅)は売り上げを伸ばそうと、販売価格は据え置きでニュージーズへの卸値を引き上げることを企てていた…
作曲/アラン・メンケン、作詞/ジャック・フェルドマン、脚本/ハーヴェイ・ファイアスタイン、演出・日本語訳・訳詞/小池修一郎。1992年のディズニーによる実写ミュージカル映画を原作に、2013年ブロードウェイ初演。21年日本初演の再演、全2幕。
初演も主演は確かジャニーズでヒロインのキャサリン(星風まどか)はゆうみちゃんで気にはなっていた記憶ですが、何故か見送っていました。再演が決まり、まどかの退団後初舞台とあっていそいそとチケットを取りました。今回の主演もSTARTO所属ですが、歌が上手くてタッパもあって(なので少年というよりは青年、に見えてしまったのは役としてはアレだったかも、でしたが)、素晴らしい座長っぷりでした。逸材はいるもんなんですねえぇ…! ニュージーズの心のパトロネス、メッダ(霧矢大夢)は初演から続投のきりやんで当然ながらこれも上手い。石川禅は言わずもがな。横山くんはヤングシンバだったそうで当然ですがこれも上手くて、加藤くんももちろん上手くて、総じて歌唱やダンスナンバーにまったくストレスのない舞台でした。アンサンブルのニュージーズたちも素晴らしい歌、ダンス、アクロバットのパフォーマンスで、生き生きしていて楽しそうで本当によかったです!
そして我らがまどかにゃんも立派だった! 男役に合わせた娘役のキーでなくても抜群の歌唱! 忙しく難しいソロを難なくこなして、リリカルなデュエットソングも素晴らしく、ヒロイン仕草もバッチリで、でもキャサリンってわりと強いお役なのでそこもよかった。バルコニー・シーンではジャックの方が姫っぽかったですもんね(笑)。エアチューなのもよかったです。いやぁ、これからミュージカル女優としてバリバリやっていけると思うよ! 期待しかない! 『ラブネバ』も作品がアレでまだチケット取っていないけど、なんとかしたいです…!!
なので、毎度言いますが問題はホンですよ。というかもともとの脚本はいいと思うのです、でも足りない。欧米でやるならこれで十分伝わるのかもしれないし、ショーアップミュージカルとして成立しているのかもしれない。でも日本でやるならもっと掘った方が絶対にいいんですよ。ディズニーには珍しく、日本オリジナル演出を認めてくれた契約だったようだから、なおさらそっと台詞を足しちゃえばいいだけのことだったのに…!と、終始脳内ノートしながらの観劇となってしまいました。イケコ、仕事してー!
まず、ニュージーズが「個人事業主」であることが本編できちんと触れられてないことが問題です。私は事前にプログラムを購入してコラムにさっと目を通していましたが、そんな観客ばかりじゃないでしょう。そして現代日本人のほとんどにとって新聞配達っていったら苦学生のアルバイトとか、そんなイメージでしょう? でもそういうことじゃないんだ、ってのはもっとちゃんと明示しないと、そもそもの前提が共有されないじゃないですか。
そもそも、サラリーマンの大多数って商売、ビジネスの基本がよくわかっていないんじゃないでしょうか。少なくとも私は、営業の部署に異動するまできちんと考えたことがありませんでした。会社のどこからかの収益からなんらかの給与が出ている…くらいの意識しかなかった。でも商売って、どこから何をいついくらの卸値でいくつ仕入れるかを考え、それをいくらでいつどう売るか工夫し、その差額が儲けになる…という、まあ言われればあたりまえのことでしょうが、それをこの物語を観せるに当たっては改めて押さえておく必要があったのではないでしょうか。
ニュージーズたちは、雇われバイトではない。売った新聞の量に合わせて歩合をバイト代としてもらう雇用形態ではない。彼らはそれぞれ個人事業主で、自分が売り捌けると判断した量だけ商品である新聞をあらかじめ卸値で買い取り、それをなるべく効率よく売り切ったら、売値との差額がその日の収入になる…そういうビジネスをしているのです。私は委託再販制という特殊な商売をしている業界にいますが、それでも直接取引や買い取りの案件はあり、その場合は料率が違う…ということをだいぶ大人になってから学んで、なるほどね、と思ったものでした。私がもの知らずだっただけかもしれません、フツーは常識なのかもしれません。でも私はこの作品でも改めてその理屈を説明してほしかった。わかっていない人だって絶対にいると思っている。それじゃこのあとの何がどう争点になりドラマになっているのかが理解されないじゃん、それじゃもったいないじゃん…! そういう雑さ、もったいなさが私は嫌なんですよ…!!
ニュージーズがその日の新聞の見出しに一喜一憂するのは、大きな事件や報道があった日の新聞はたくさん売れるから、でしょ? 地味なニュースしかない日は新聞の売れ行きも悪い、だから儲けも少ない、だから落胆するんでしょ? 今でこそ減っているんでしょうが、当時の新聞は毎朝家庭に配達されるものではなく、駅の売店や通りの新聞売りから適宜買うものだった、だから売れ行きが見出しに左右されて重要なんだ、って話でしょ? それもノー説明じゃん。あのくだりの意味がわかっていない観客、絶対いるって…!
デイヴィはお坊ちゃん育ちでこの商売の常識を知らないから、先に新聞を預かってあとから売上代金を納めて、差額を報酬として受け取る気でいたんでしょ? そして新聞は売れ残ったら戻せると思ってたんでしょ? それをニュージーズたちに笑われたんでしょ? でもそこになんの齟齬があるのかわからない観客がいたら、ここでもう取り残されちゃうじゃん。そういう作り方をしちゃダメなんだって、もったいないんだって…!
私は卸値だって交渉できているのかと思っていました。たくさん売るものは安く仕入れられる、というのが当然のように思えたからです。でもそれはないようでした。一律の卸値を強いていることでピュリッツァーはもはや理想的な取引相手ではないわけです。そこから問題は始まっているのです。
ジャックはレスにかわいそうな孤児のふりをさせて、客の同情を引いて新聞を売らせる。デイヴィは抵抗します。確かにそれは嘘だし、詐欺かもしれない。でもそれで新聞が余計に捌けるのならそれに越したことはないのです。彼らはその日の売り上げをその日の食い扶持に当てるような、まさしく自転車操業のその日暮らしをしているのですから…
だから、ピュリッツァーの一方的な卸値の値上げに対して(売値も彼らによって決められているようでしたし、勝手に上げたら客は今までどおりの値段で売っているところで買うようにするだけなので、卸値を上げられたらニュージーズたちの手取りは減るだけなのでした)、ストライキで抵抗しよう、となったときも、ホントはもっと問題があったはずなのです。だってストをしたらもうその日の収入が断たれるんですから。彼らに貯金があった者なんかいないでしょう。数日はツケだの貸し借りだのなんだので賄えても、すぐに干上がったはずです。だからこそスト破りが出る。でもストは、なるだけ大規模に連帯して一枚岩でやらないと意味がない。そういうメカニズムを見せる描写がもっとあるべきでした。だってそれくらい見せないと、労働争議って今の日本の普通の人にとって遠いことで、理解できないじゃん…(ホントはそれじゃダメなんですけどね、我々は自分たちの権利に無関心すぎるのです)
一方で、ピュリッツァーも発行数を上げたいから、という理由で卸値を上げたような描写でしたが、発行数だけなら単に刷り増しすりゃいいんだから好きに刷ればいいんです。そうじゃないでしょ? 売上数を上げたいんでしょ、売上を上げたいんでしょ? だから卸値を上げた、でもそれはとても短絡的なことです。事実、ニュージーズたちのストに遭い、新聞は売れなくなって倉庫に山積み…みたいな描写があるべきなんじゃないの? それとも新聞社にはニュージーズたちの他にも販路があって、彼らのストなんか屁でもなかった、ってことなの? じゃストなんかスルー、で終わり、じゃん。なんなの? そのあたり、もっと説明してくれないと何が争点のドラマかわからず、私は不満でした。史実なんだろうけど、ビジネスを舐めたビジネスもののお話なんか作るなよ素人か、と言いたいです。
ストは新聞売りのみならずすべての小売業界に広がって、そして最終的には、州知事のルーズベルト(増澤ノゾム)が出てきてトップダウンで解決してしまうようだけれど、本質的には雇用者と被雇用者との契約とか信義とか信頼関係とかの商売の基本のキの話なんだと思うので、なんかデウス・エクス・マキナみたいなあるいは大岡裁きみたいな…で終わるのはどうなんだ、と私はちょっと消化不良に感じました。史実はどうであれ、この作品の中の物語として、ドラマとして、ということです。あとはなんかここにルーズベルトとピュリッツァーの男同士の、あるいはビジネスマン同士の、腹に一物ある者同士の、あるいは脛に傷持つ身同士としての何かの屈託や連帯や貸し借りや同盟やいわゆる「握り」があったようなんですが、そのあたりも描写が曖昧でよくわかりませんでした。スカッともニヤリともできない、そんなんじゃダメだろう…!
さらに言うと、この物語ではヒロインのキャサリンがピュリッツァーの娘であり、しかし父親に逆らい嫁にも行かずペンネームで記事を書く報道記者として働く女性で、一方で主人公のジャックはリーダーシップや男気はあるものの所詮は無学な孤児で(ところでしかしニュージーズたちは新聞の見出しの字が読めていたな、当時のこの界隈の識字率はどんなものだったのでしょうか…)、しかし絵の才能があり、劇場の背景幕を描くこともできれば写真代わりの写実的なルポ絵も描けるのだった…というところがミソなんですよ。つまりマスコミの基本ですよね。『ビリー・エリオット』の炭鉱夫たちのストとはちょっとまた意味が違うのです、そのあたりももしかして消化不良のままなのでは…?
ニュージーズたちがストを起こして新聞が売れない、配られないと、ニュースは人々に届かない。他で事件の報道はされず、事件そのものもなかったものとされかねないのです。キャサリンはストの記事を書いて新聞に載せ、より広く周知させ連帯を誘おうとしますが、そもそもその記事は読まれないのでは? ニュージーズたちのストによって新聞が足止めされているのでは…? というジレンマがノータッチでしたよね? 私はムムム?となりましたよ??
ワールド紙は大衆向けの、スポーツやファッション、コミックなど娯楽に強い新聞だったそうですが、それでも基本はニュース、報道でしょ? ここには現代に通じるメディアの問題があるわけじゃないですか。今オオタニサンばっか言って衆院選の各党の細かい政策の精査報道なんかを全然しない本邦メディア批判にも通じる問題なんじゃないの? 新聞社主に反旗を翻している娘と被雇用者トップがそれぞれ報道記者、報道画家たる人材だという皮肉とジレンマ…そこにこそドラマのキモがあったのでは…? あるいはここがねじれてるから爆発しきれていない話になっちゃっているのでは…? だって彼らを記者、画家として雇いその稿料もちゃんと支払い新聞売りたちにもきちんと歩合で配達・販売料を支払うライバル社が出て、そっちの新聞の方が記事もおもしろいしちゃんと流通しているし結果売れて大勝利…ってのがありえるホントの道筋だったんじゃないの?って思うじゃん。あるいはそれこそ炭鉱とか、別業界でストが起きて、それに連帯した主人公たちが報道の力で一大ムーブメントを起こす…って話の方がわかりやすかったのでは? 事実を伝える、隠された真実を暴く、という報道の基本のキの力に特化した主人公たちが活躍する物語…でも彼らが戦う相手が直接の雇い主ないし契約関係にある相手、報道の元締めとなると、複雑というか微妙というか、になっちゃってるんじゃないのかなあ。でも勧善懲悪、というのとは違うけれど、正しい商売はみんなの幸福につながる、というのが資本主義の理念なんじゃないのかなあ…(そして今その資本主義がどん詰まりに来ているから世界はこんなにも荒廃しているわけですが…)それを描いてこそのフィクション、ハッピーエンド・ミュージカルなんじゃないのかなあぁ…?
あとは細かいことですが、感化院も廃止して終わり、じゃない気がしました。だってそこから追い出されたら孤児たちは路上に戻るだけじゃん、彼らを保護し支援し育成する施設、システムは必要ですよ。排除されるべきは児童虐待する職員とかピンハネするような経営者なんであってさ…モヤったなあぁ。
でも、この作品のお話としては、ニュージーズたちは健全な経済活動に復帰できて(児童就労の問題、とかまではこの作品では扱えない、のはわかっています。いますが…)、ジャックはキャサリンとの恋を実らせる。そういうハッピーエンドなのでした。下世話なことを言えば逆玉に乗って、いつかふたりはサンタフェに行く…まであるのかもしれません。
クラッチーかデイヴィがサンタフェに行くことはないのでしょう。でもデイヴィの父親は、怪我さえ治ればまたバリバリ働けて、デイヴィもレスも新聞売りなんかせず学校に戻れて、もしかしたら彼らの家にはクラッチーを引き取る余裕くらいあるのかもしれない…そんなことを、夢見ないではいられません。ここのBL感とか三角関係感がもっと見えてもよかったのになー…イケコはガチだから逆にそういう琴線がない、とかなんだろうか…てかアンサンブルたちのパフォーマンスがどんなに見事でも、「でもみんなイケコのお稚児さんなのかな…」とか思わないでは観られないのって、めっちゃつらいんですけど、ホントこのままどうにもする気がないんですか東宝およびミュージカル界…
ここではないどこかへ、みたいな望みを歌う歌はありがちではありますが、サンタフェへの想いを歌うジャックとクラッチーは吉田秋生『カリフォルニア物語』のヒースとイーヴを想起させました。懐かしや、引っ張り出してきて読み返しちゃいましたよ…そしてキャラとして私が好きなのはもちろんデイヴィです。こういう優等生タイプ、大好き! でも彼が学校で得た知識や教養がニュージーズたちの労働争議に役立ったのですもの、学校は大事、勉強は大事、知識や教養は本当に大事で必要。そういうことが改めて伝わるといいな、とも思いました。
なのでなんかいちいちちょっとずつもったいなくて、ただ少年たちががんばっていて輝いていて楽しい演目でよかったね、だけで、だからブレイクしきれないし社会を変えるインパクトたりえてないんじゃないの?とちょっと歯がゆかったです。本来、エンタメにはそれだけの力があるのに…この作品にも要素は揃っているのに…エンタメはエンタメの力を信じている人に作ってもらいたいよなあ、などちょっと残念に思ったのでした。キャストも楽曲もよかっただけに、ね…演出家を変更し、ブラッシュアップされた三演に期待します。
ちなみに二階最前列で観たのですが、イケコはわりと上の階にも配慮した構成をすることが多い印象で(美術/松井るみ)、いいところはけっこう高いところでやってくれていて、逆にあれは一階前方席の観客からはかなり見づらかったのでは…など思ったりも、しました。いろいろ難しいもんだなあぁ…私がうるさいことを言い過ぎなだけ、という自覚がないわけではないのですが…あー、手放しで褒められる作品に出会いたいもんだよーーーー!!!
1899年、夏、ニューヨーク。少年ジャック(岩﨑大昇)は足の不自由な友人クラッチー(横山賀三)や他の孤児、ホームレスの新聞販売少年たち「ニュージーズ」とともに暮らし、毎日新聞を売って生活している。ジャックは「いつかニューヨークを出てサンタフェへ行く」と夢見ているが、現実はその日暮らし。ある日ジャックはデイヴィ(加藤清史郎)とその弟レス(この日は大久保壮駿)と出会う。彼らは他のニュージーズと違って家と家族があるが、父親の失業という事情があってニュージーズに加わったばかり。その頃、ワールド紙のオーナーであるピュリッツァー(石川禅)は売り上げを伸ばそうと、販売価格は据え置きでニュージーズへの卸値を引き上げることを企てていた…
作曲/アラン・メンケン、作詞/ジャック・フェルドマン、脚本/ハーヴェイ・ファイアスタイン、演出・日本語訳・訳詞/小池修一郎。1992年のディズニーによる実写ミュージカル映画を原作に、2013年ブロードウェイ初演。21年日本初演の再演、全2幕。
初演も主演は確かジャニーズでヒロインのキャサリン(星風まどか)はゆうみちゃんで気にはなっていた記憶ですが、何故か見送っていました。再演が決まり、まどかの退団後初舞台とあっていそいそとチケットを取りました。今回の主演もSTARTO所属ですが、歌が上手くてタッパもあって(なので少年というよりは青年、に見えてしまったのは役としてはアレだったかも、でしたが)、素晴らしい座長っぷりでした。逸材はいるもんなんですねえぇ…! ニュージーズの心のパトロネス、メッダ(霧矢大夢)は初演から続投のきりやんで当然ながらこれも上手い。石川禅は言わずもがな。横山くんはヤングシンバだったそうで当然ですがこれも上手くて、加藤くんももちろん上手くて、総じて歌唱やダンスナンバーにまったくストレスのない舞台でした。アンサンブルのニュージーズたちも素晴らしい歌、ダンス、アクロバットのパフォーマンスで、生き生きしていて楽しそうで本当によかったです!
そして我らがまどかにゃんも立派だった! 男役に合わせた娘役のキーでなくても抜群の歌唱! 忙しく難しいソロを難なくこなして、リリカルなデュエットソングも素晴らしく、ヒロイン仕草もバッチリで、でもキャサリンってわりと強いお役なのでそこもよかった。バルコニー・シーンではジャックの方が姫っぽかったですもんね(笑)。エアチューなのもよかったです。いやぁ、これからミュージカル女優としてバリバリやっていけると思うよ! 期待しかない! 『ラブネバ』も作品がアレでまだチケット取っていないけど、なんとかしたいです…!!
なので、毎度言いますが問題はホンですよ。というかもともとの脚本はいいと思うのです、でも足りない。欧米でやるならこれで十分伝わるのかもしれないし、ショーアップミュージカルとして成立しているのかもしれない。でも日本でやるならもっと掘った方が絶対にいいんですよ。ディズニーには珍しく、日本オリジナル演出を認めてくれた契約だったようだから、なおさらそっと台詞を足しちゃえばいいだけのことだったのに…!と、終始脳内ノートしながらの観劇となってしまいました。イケコ、仕事してー!
まず、ニュージーズが「個人事業主」であることが本編できちんと触れられてないことが問題です。私は事前にプログラムを購入してコラムにさっと目を通していましたが、そんな観客ばかりじゃないでしょう。そして現代日本人のほとんどにとって新聞配達っていったら苦学生のアルバイトとか、そんなイメージでしょう? でもそういうことじゃないんだ、ってのはもっとちゃんと明示しないと、そもそもの前提が共有されないじゃないですか。
そもそも、サラリーマンの大多数って商売、ビジネスの基本がよくわかっていないんじゃないでしょうか。少なくとも私は、営業の部署に異動するまできちんと考えたことがありませんでした。会社のどこからかの収益からなんらかの給与が出ている…くらいの意識しかなかった。でも商売って、どこから何をいついくらの卸値でいくつ仕入れるかを考え、それをいくらでいつどう売るか工夫し、その差額が儲けになる…という、まあ言われればあたりまえのことでしょうが、それをこの物語を観せるに当たっては改めて押さえておく必要があったのではないでしょうか。
ニュージーズたちは、雇われバイトではない。売った新聞の量に合わせて歩合をバイト代としてもらう雇用形態ではない。彼らはそれぞれ個人事業主で、自分が売り捌けると判断した量だけ商品である新聞をあらかじめ卸値で買い取り、それをなるべく効率よく売り切ったら、売値との差額がその日の収入になる…そういうビジネスをしているのです。私は委託再販制という特殊な商売をしている業界にいますが、それでも直接取引や買い取りの案件はあり、その場合は料率が違う…ということをだいぶ大人になってから学んで、なるほどね、と思ったものでした。私がもの知らずだっただけかもしれません、フツーは常識なのかもしれません。でも私はこの作品でも改めてその理屈を説明してほしかった。わかっていない人だって絶対にいると思っている。それじゃこのあとの何がどう争点になりドラマになっているのかが理解されないじゃん、それじゃもったいないじゃん…! そういう雑さ、もったいなさが私は嫌なんですよ…!!
ニュージーズがその日の新聞の見出しに一喜一憂するのは、大きな事件や報道があった日の新聞はたくさん売れるから、でしょ? 地味なニュースしかない日は新聞の売れ行きも悪い、だから儲けも少ない、だから落胆するんでしょ? 今でこそ減っているんでしょうが、当時の新聞は毎朝家庭に配達されるものではなく、駅の売店や通りの新聞売りから適宜買うものだった、だから売れ行きが見出しに左右されて重要なんだ、って話でしょ? それもノー説明じゃん。あのくだりの意味がわかっていない観客、絶対いるって…!
デイヴィはお坊ちゃん育ちでこの商売の常識を知らないから、先に新聞を預かってあとから売上代金を納めて、差額を報酬として受け取る気でいたんでしょ? そして新聞は売れ残ったら戻せると思ってたんでしょ? それをニュージーズたちに笑われたんでしょ? でもそこになんの齟齬があるのかわからない観客がいたら、ここでもう取り残されちゃうじゃん。そういう作り方をしちゃダメなんだって、もったいないんだって…!
私は卸値だって交渉できているのかと思っていました。たくさん売るものは安く仕入れられる、というのが当然のように思えたからです。でもそれはないようでした。一律の卸値を強いていることでピュリッツァーはもはや理想的な取引相手ではないわけです。そこから問題は始まっているのです。
ジャックはレスにかわいそうな孤児のふりをさせて、客の同情を引いて新聞を売らせる。デイヴィは抵抗します。確かにそれは嘘だし、詐欺かもしれない。でもそれで新聞が余計に捌けるのならそれに越したことはないのです。彼らはその日の売り上げをその日の食い扶持に当てるような、まさしく自転車操業のその日暮らしをしているのですから…
だから、ピュリッツァーの一方的な卸値の値上げに対して(売値も彼らによって決められているようでしたし、勝手に上げたら客は今までどおりの値段で売っているところで買うようにするだけなので、卸値を上げられたらニュージーズたちの手取りは減るだけなのでした)、ストライキで抵抗しよう、となったときも、ホントはもっと問題があったはずなのです。だってストをしたらもうその日の収入が断たれるんですから。彼らに貯金があった者なんかいないでしょう。数日はツケだの貸し借りだのなんだので賄えても、すぐに干上がったはずです。だからこそスト破りが出る。でもストは、なるだけ大規模に連帯して一枚岩でやらないと意味がない。そういうメカニズムを見せる描写がもっとあるべきでした。だってそれくらい見せないと、労働争議って今の日本の普通の人にとって遠いことで、理解できないじゃん…(ホントはそれじゃダメなんですけどね、我々は自分たちの権利に無関心すぎるのです)
一方で、ピュリッツァーも発行数を上げたいから、という理由で卸値を上げたような描写でしたが、発行数だけなら単に刷り増しすりゃいいんだから好きに刷ればいいんです。そうじゃないでしょ? 売上数を上げたいんでしょ、売上を上げたいんでしょ? だから卸値を上げた、でもそれはとても短絡的なことです。事実、ニュージーズたちのストに遭い、新聞は売れなくなって倉庫に山積み…みたいな描写があるべきなんじゃないの? それとも新聞社にはニュージーズたちの他にも販路があって、彼らのストなんか屁でもなかった、ってことなの? じゃストなんかスルー、で終わり、じゃん。なんなの? そのあたり、もっと説明してくれないと何が争点のドラマかわからず、私は不満でした。史実なんだろうけど、ビジネスを舐めたビジネスもののお話なんか作るなよ素人か、と言いたいです。
ストは新聞売りのみならずすべての小売業界に広がって、そして最終的には、州知事のルーズベルト(増澤ノゾム)が出てきてトップダウンで解決してしまうようだけれど、本質的には雇用者と被雇用者との契約とか信義とか信頼関係とかの商売の基本のキの話なんだと思うので、なんかデウス・エクス・マキナみたいなあるいは大岡裁きみたいな…で終わるのはどうなんだ、と私はちょっと消化不良に感じました。史実はどうであれ、この作品の中の物語として、ドラマとして、ということです。あとはなんかここにルーズベルトとピュリッツァーの男同士の、あるいはビジネスマン同士の、腹に一物ある者同士の、あるいは脛に傷持つ身同士としての何かの屈託や連帯や貸し借りや同盟やいわゆる「握り」があったようなんですが、そのあたりも描写が曖昧でよくわかりませんでした。スカッともニヤリともできない、そんなんじゃダメだろう…!
さらに言うと、この物語ではヒロインのキャサリンがピュリッツァーの娘であり、しかし父親に逆らい嫁にも行かずペンネームで記事を書く報道記者として働く女性で、一方で主人公のジャックはリーダーシップや男気はあるものの所詮は無学な孤児で(ところでしかしニュージーズたちは新聞の見出しの字が読めていたな、当時のこの界隈の識字率はどんなものだったのでしょうか…)、しかし絵の才能があり、劇場の背景幕を描くこともできれば写真代わりの写実的なルポ絵も描けるのだった…というところがミソなんですよ。つまりマスコミの基本ですよね。『ビリー・エリオット』の炭鉱夫たちのストとはちょっとまた意味が違うのです、そのあたりももしかして消化不良のままなのでは…?
ニュージーズたちがストを起こして新聞が売れない、配られないと、ニュースは人々に届かない。他で事件の報道はされず、事件そのものもなかったものとされかねないのです。キャサリンはストの記事を書いて新聞に載せ、より広く周知させ連帯を誘おうとしますが、そもそもその記事は読まれないのでは? ニュージーズたちのストによって新聞が足止めされているのでは…? というジレンマがノータッチでしたよね? 私はムムム?となりましたよ??
ワールド紙は大衆向けの、スポーツやファッション、コミックなど娯楽に強い新聞だったそうですが、それでも基本はニュース、報道でしょ? ここには現代に通じるメディアの問題があるわけじゃないですか。今オオタニサンばっか言って衆院選の各党の細かい政策の精査報道なんかを全然しない本邦メディア批判にも通じる問題なんじゃないの? 新聞社主に反旗を翻している娘と被雇用者トップがそれぞれ報道記者、報道画家たる人材だという皮肉とジレンマ…そこにこそドラマのキモがあったのでは…? あるいはここがねじれてるから爆発しきれていない話になっちゃっているのでは…? だって彼らを記者、画家として雇いその稿料もちゃんと支払い新聞売りたちにもきちんと歩合で配達・販売料を支払うライバル社が出て、そっちの新聞の方が記事もおもしろいしちゃんと流通しているし結果売れて大勝利…ってのがありえるホントの道筋だったんじゃないの?って思うじゃん。あるいはそれこそ炭鉱とか、別業界でストが起きて、それに連帯した主人公たちが報道の力で一大ムーブメントを起こす…って話の方がわかりやすかったのでは? 事実を伝える、隠された真実を暴く、という報道の基本のキの力に特化した主人公たちが活躍する物語…でも彼らが戦う相手が直接の雇い主ないし契約関係にある相手、報道の元締めとなると、複雑というか微妙というか、になっちゃってるんじゃないのかなあ。でも勧善懲悪、というのとは違うけれど、正しい商売はみんなの幸福につながる、というのが資本主義の理念なんじゃないのかなあ…(そして今その資本主義がどん詰まりに来ているから世界はこんなにも荒廃しているわけですが…)それを描いてこそのフィクション、ハッピーエンド・ミュージカルなんじゃないのかなあぁ…?
あとは細かいことですが、感化院も廃止して終わり、じゃない気がしました。だってそこから追い出されたら孤児たちは路上に戻るだけじゃん、彼らを保護し支援し育成する施設、システムは必要ですよ。排除されるべきは児童虐待する職員とかピンハネするような経営者なんであってさ…モヤったなあぁ。
でも、この作品のお話としては、ニュージーズたちは健全な経済活動に復帰できて(児童就労の問題、とかまではこの作品では扱えない、のはわかっています。いますが…)、ジャックはキャサリンとの恋を実らせる。そういうハッピーエンドなのでした。下世話なことを言えば逆玉に乗って、いつかふたりはサンタフェに行く…まであるのかもしれません。
クラッチーかデイヴィがサンタフェに行くことはないのでしょう。でもデイヴィの父親は、怪我さえ治ればまたバリバリ働けて、デイヴィもレスも新聞売りなんかせず学校に戻れて、もしかしたら彼らの家にはクラッチーを引き取る余裕くらいあるのかもしれない…そんなことを、夢見ないではいられません。ここのBL感とか三角関係感がもっと見えてもよかったのになー…イケコはガチだから逆にそういう琴線がない、とかなんだろうか…てかアンサンブルたちのパフォーマンスがどんなに見事でも、「でもみんなイケコのお稚児さんなのかな…」とか思わないでは観られないのって、めっちゃつらいんですけど、ホントこのままどうにもする気がないんですか東宝およびミュージカル界…
ここではないどこかへ、みたいな望みを歌う歌はありがちではありますが、サンタフェへの想いを歌うジャックとクラッチーは吉田秋生『カリフォルニア物語』のヒースとイーヴを想起させました。懐かしや、引っ張り出してきて読み返しちゃいましたよ…そしてキャラとして私が好きなのはもちろんデイヴィです。こういう優等生タイプ、大好き! でも彼が学校で得た知識や教養がニュージーズたちの労働争議に役立ったのですもの、学校は大事、勉強は大事、知識や教養は本当に大事で必要。そういうことが改めて伝わるといいな、とも思いました。
なのでなんかいちいちちょっとずつもったいなくて、ただ少年たちががんばっていて輝いていて楽しい演目でよかったね、だけで、だからブレイクしきれないし社会を変えるインパクトたりえてないんじゃないの?とちょっと歯がゆかったです。本来、エンタメにはそれだけの力があるのに…この作品にも要素は揃っているのに…エンタメはエンタメの力を信じている人に作ってもらいたいよなあ、などちょっと残念に思ったのでした。キャストも楽曲もよかっただけに、ね…演出家を変更し、ブラッシュアップされた三演に期待します。
ちなみに二階最前列で観たのですが、イケコはわりと上の階にも配慮した構成をすることが多い印象で(美術/松井るみ)、いいところはけっこう高いところでやってくれていて、逆にあれは一階前方席の観客からはかなり見づらかったのでは…など思ったりも、しました。いろいろ難しいもんだなあぁ…私がうるさいことを言い過ぎなだけ、という自覚がないわけではないのですが…あー、手放しで褒められる作品に出会いたいもんだよーーーー!!!