駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『ニュージーズ』

2024年11月03日 | 観劇記/タイトルな行
 日生劇場、2024年10月28日18時。
 
 1899年、夏、ニューヨーク。少年ジャック(岩﨑大昇)は足の不自由な友人クラッチー(横山賀三)や他の孤児、ホームレスの新聞販売少年たち「ニュージーズ」とともに暮らし、毎日新聞を売って生活している。ジャックは「いつかニューヨークを出てサンタフェへ行く」と夢見ているが、現実はその日暮らし。ある日ジャックはデイヴィ(加藤清史郎)とその弟レス(この日は大久保壮駿)と出会う。彼らは他のニュージーズと違って家と家族があるが、父親の失業という事情があってニュージーズに加わったばかり。その頃、ワールド紙のオーナーであるピュリッツァー(石川禅)は売り上げを伸ばそうと、販売価格は据え置きでニュージーズへの卸値を引き上げることを企てていた…
 作曲/アラン・メンケン、作詞/ジャック・フェルドマン、脚本/ハーヴェイ・ファイアスタイン、演出・日本語訳・訳詞/小池修一郎。1992年のディズニーによる実写ミュージカル映画を原作に、2013年ブロードウェイ初演。21年日本初演の再演、全2幕。

 初演も主演は確かジャニーズでヒロインのキャサリン(星風まどか)はゆうみちゃんで気にはなっていた記憶ですが、何故か見送っていました。再演が決まり、まどかの退団後初舞台とあっていそいそとチケットを取りました。今回の主演もSTARTO所属ですが、歌が上手くてタッパもあって(なので少年というよりは青年、に見えてしまったのは役としてはアレだったかも、でしたが)、素晴らしい座長っぷりでした。逸材はいるもんなんですねえぇ…! ニュージーズの心のパトロネス、メッダ(霧矢大夢)は初演から続投のきりやんで当然ながらこれも上手い。石川禅は言わずもがな。横山くんはヤングシンバだったそうで当然ですがこれも上手くて、加藤くんももちろん上手くて、総じて歌唱やダンスナンバーにまったくストレスのない舞台でした。アンサンブルのニュージーズたちも素晴らしい歌、ダンス、アクロバットのパフォーマンスで、生き生きしていて楽しそうで本当によかったです!
 そして我らがまどかにゃんも立派だった! 男役に合わせた娘役のキーでなくても抜群の歌唱! 忙しく難しいソロを難なくこなして、リリカルなデュエットソングも素晴らしく、ヒロイン仕草もバッチリで、でもキャサリンってわりと強いお役なのでそこもよかった。バルコニー・シーンではジャックの方が姫っぽかったですもんね(笑)。エアチューなのもよかったです。いやぁ、これからミュージカル女優としてバリバリやっていけると思うよ! 期待しかない! 『ラブネバ』も作品がアレでまだチケット取っていないけど、なんとかしたいです…!!
 なので、毎度言いますが問題はホンですよ。というかもともとの脚本はいいと思うのです、でも足りない。欧米でやるならこれで十分伝わるのかもしれないし、ショーアップミュージカルとして成立しているのかもしれない。でも日本でやるならもっと掘った方が絶対にいいんですよ。ディズニーには珍しく、日本オリジナル演出を認めてくれた契約だったようだから、なおさらそっと台詞を足しちゃえばいいだけのことだったのに…!と、終始脳内ノートしながらの観劇となってしまいました。イケコ、仕事してー!

 まず、ニュージーズが「個人事業主」であることが本編できちんと触れられてないことが問題です。私は事前にプログラムを購入してコラムにさっと目を通していましたが、そんな観客ばかりじゃないでしょう。そして現代日本人のほとんどにとって新聞配達っていったら苦学生のアルバイトとか、そんなイメージでしょう? でもそういうことじゃないんだ、ってのはもっとちゃんと明示しないと、そもそもの前提が共有されないじゃないですか。
 そもそも、サラリーマンの大多数って商売、ビジネスの基本がよくわかっていないんじゃないでしょうか。少なくとも私は、営業の部署に異動するまできちんと考えたことがありませんでした。会社のどこからかの収益からなんらかの給与が出ている…くらいの意識しかなかった。でも商売って、どこから何をいついくらの卸値でいくつ仕入れるかを考え、それをいくらでいつどう売るか工夫し、その差額が儲けになる…という、まあ言われればあたりまえのことでしょうが、それをこの物語を観せるに当たっては改めて押さえておく必要があったのではないでしょうか。
 ニュージーズたちは、雇われバイトではない。売った新聞の量に合わせて歩合をバイト代としてもらう雇用形態ではない。彼らはそれぞれ個人事業主で、自分が売り捌けると判断した量だけ商品である新聞をあらかじめ卸値で買い取り、それをなるべく効率よく売り切ったら、売値との差額がその日の収入になる…そういうビジネスをしているのです。私は委託再販制という特殊な商売をしている業界にいますが、それでも直接取引や買い取りの案件はあり、その場合は料率が違う…ということをだいぶ大人になってから学んで、なるほどね、と思ったものでした。私がもの知らずだっただけかもしれません、フツーは常識なのかもしれません。でも私はこの作品でも改めてその理屈を説明してほしかった。わかっていない人だって絶対にいると思っている。それじゃこのあとの何がどう争点になりドラマになっているのかが理解されないじゃん、それじゃもったいないじゃん…! そういう雑さ、もったいなさが私は嫌なんですよ…!!
 ニュージーズがその日の新聞の見出しに一喜一憂するのは、大きな事件や報道があった日の新聞はたくさん売れるから、でしょ? 地味なニュースしかない日は新聞の売れ行きも悪い、だから儲けも少ない、だから落胆するんでしょ? 今でこそ減っているんでしょうが、当時の新聞は毎朝家庭に配達されるものではなく、駅の売店や通りの新聞売りから適宜買うものだった、だから売れ行きが見出しに左右されて重要なんだ、って話でしょ? それもノー説明じゃん。あのくだりの意味がわかっていない観客、絶対いるって…!
 デイヴィはお坊ちゃん育ちでこの商売の常識を知らないから、先に新聞を預かってあとから売上代金を納めて、差額を報酬として受け取る気でいたんでしょ? そして新聞は売れ残ったら戻せると思ってたんでしょ? それをニュージーズたちに笑われたんでしょ? でもそこになんの齟齬があるのかわからない観客がいたら、ここでもう取り残されちゃうじゃん。そういう作り方をしちゃダメなんだって、もったいないんだって…!
 私は卸値だって交渉できているのかと思っていました。たくさん売るものは安く仕入れられる、というのが当然のように思えたからです。でもそれはないようでした。一律の卸値を強いていることでピュリッツァーはもはや理想的な取引相手ではないわけです。そこから問題は始まっているのです。
 ジャックはレスにかわいそうな孤児のふりをさせて、客の同情を引いて新聞を売らせる。デイヴィは抵抗します。確かにそれは嘘だし、詐欺かもしれない。でもそれで新聞が余計に捌けるのならそれに越したことはないのです。彼らはその日の売り上げをその日の食い扶持に当てるような、まさしく自転車操業のその日暮らしをしているのですから…
 だから、ピュリッツァーの一方的な卸値の値上げに対して(売値も彼らによって決められているようでしたし、勝手に上げたら客は今までどおりの値段で売っているところで買うようにするだけなので、卸値を上げられたらニュージーズたちの手取りは減るだけなのでした)、ストライキで抵抗しよう、となったときも、ホントはもっと問題があったはずなのです。だってストをしたらもうその日の収入が断たれるんですから。彼らに貯金があった者なんかいないでしょう。数日はツケだの貸し借りだのなんだので賄えても、すぐに干上がったはずです。だからこそスト破りが出る。でもストは、なるだけ大規模に連帯して一枚岩でやらないと意味がない。そういうメカニズムを見せる描写がもっとあるべきでした。だってそれくらい見せないと、労働争議って今の日本の普通の人にとって遠いことで、理解できないじゃん…(ホントはそれじゃダメなんですけどね、我々は自分たちの権利に無関心すぎるのです)
 一方で、ピュリッツァーも発行数を上げたいから、という理由で卸値を上げたような描写でしたが、発行数だけなら単に刷り増しすりゃいいんだから好きに刷ればいいんです。そうじゃないでしょ? 売上数を上げたいんでしょ、売上を上げたいんでしょ? だから卸値を上げた、でもそれはとても短絡的なことです。事実、ニュージーズたちのストに遭い、新聞は売れなくなって倉庫に山積み…みたいな描写があるべきなんじゃないの? それとも新聞社にはニュージーズたちの他にも販路があって、彼らのストなんか屁でもなかった、ってことなの? じゃストなんかスルー、で終わり、じゃん。なんなの? そのあたり、もっと説明してくれないと何が争点のドラマかわからず、私は不満でした。史実なんだろうけど、ビジネスを舐めたビジネスもののお話なんか作るなよ素人か、と言いたいです。
 ストは新聞売りのみならずすべての小売業界に広がって、そして最終的には、州知事のルーズベルト(増澤ノゾム)が出てきてトップダウンで解決してしまうようだけれど、本質的には雇用者と被雇用者との契約とか信義とか信頼関係とかの商売の基本のキの話なんだと思うので、なんかデウス・エクス・マキナみたいなあるいは大岡裁きみたいな…で終わるのはどうなんだ、と私はちょっと消化不良に感じました。史実はどうであれ、この作品の中の物語として、ドラマとして、ということです。あとはなんかここにルーズベルトとピュリッツァーの男同士の、あるいはビジネスマン同士の、腹に一物ある者同士の、あるいは脛に傷持つ身同士としての何かの屈託や連帯や貸し借りや同盟やいわゆる「握り」があったようなんですが、そのあたりも描写が曖昧でよくわかりませんでした。スカッともニヤリともできない、そんなんじゃダメだろう…!
 さらに言うと、この物語ではヒロインのキャサリンがピュリッツァーの娘であり、しかし父親に逆らい嫁にも行かずペンネームで記事を書く報道記者として働く女性で、一方で主人公のジャックはリーダーシップや男気はあるものの所詮は無学な孤児で(ところでしかしニュージーズたちは新聞の見出しの字が読めていたな、当時のこの界隈の識字率はどんなものだったのでしょうか…)、しかし絵の才能があり、劇場の背景幕を描くこともできれば写真代わりの写実的なルポ絵も描けるのだった…というところがミソなんですよ。つまりマスコミの基本ですよね。『ビリー・エリオット』の炭鉱夫たちのストとはちょっとまた意味が違うのです、そのあたりももしかして消化不良のままなのでは…?
 ニュージーズたちがストを起こして新聞が売れない、配られないと、ニュースは人々に届かない。他で事件の報道はされず、事件そのものもなかったものとされかねないのです。キャサリンはストの記事を書いて新聞に載せ、より広く周知させ連帯を誘おうとしますが、そもそもその記事は読まれないのでは? ニュージーズたちのストによって新聞が足止めされているのでは…? というジレンマがノータッチでしたよね? 私はムムム?となりましたよ??
 ワールド紙は大衆向けの、スポーツやファッション、コミックなど娯楽に強い新聞だったそうですが、それでも基本はニュース、報道でしょ? ここには現代に通じるメディアの問題があるわけじゃないですか。今オオタニサンばっか言って衆院選の各党の細かい政策の精査報道なんかを全然しない本邦メディア批判にも通じる問題なんじゃないの? 新聞社主に反旗を翻している娘と被雇用者トップがそれぞれ報道記者、報道画家たる人材だという皮肉とジレンマ…そこにこそドラマのキモがあったのでは…? あるいはここがねじれてるから爆発しきれていない話になっちゃっているのでは…? だって彼らを記者、画家として雇いその稿料もちゃんと支払い新聞売りたちにもきちんと歩合で配達・販売料を支払うライバル社が出て、そっちの新聞の方が記事もおもしろいしちゃんと流通しているし結果売れて大勝利…ってのがありえるホントの道筋だったんじゃないの?って思うじゃん。あるいはそれこそ炭鉱とか、別業界でストが起きて、それに連帯した主人公たちが報道の力で一大ムーブメントを起こす…って話の方がわかりやすかったのでは? 事実を伝える、隠された真実を暴く、という報道の基本のキの力に特化した主人公たちが活躍する物語…でも彼らが戦う相手が直接の雇い主ないし契約関係にある相手、報道の元締めとなると、複雑というか微妙というか、になっちゃってるんじゃないのかなあ。でも勧善懲悪、というのとは違うけれど、正しい商売はみんなの幸福につながる、というのが資本主義の理念なんじゃないのかなあ…(そして今その資本主義がどん詰まりに来ているから世界はこんなにも荒廃しているわけですが…)それを描いてこそのフィクション、ハッピーエンド・ミュージカルなんじゃないのかなあぁ…?

 あとは細かいことですが、感化院も廃止して終わり、じゃない気がしました。だってそこから追い出されたら孤児たちは路上に戻るだけじゃん、彼らを保護し支援し育成する施設、システムは必要ですよ。排除されるべきは児童虐待する職員とかピンハネするような経営者なんであってさ…モヤったなあぁ。
 でも、この作品のお話としては、ニュージーズたちは健全な経済活動に復帰できて(児童就労の問題、とかまではこの作品では扱えない、のはわかっています。いますが…)、ジャックはキャサリンとの恋を実らせる。そういうハッピーエンドなのでした。下世話なことを言えば逆玉に乗って、いつかふたりはサンタフェに行く…まであるのかもしれません。
 クラッチーかデイヴィがサンタフェに行くことはないのでしょう。でもデイヴィの父親は、怪我さえ治ればまたバリバリ働けて、デイヴィもレスも新聞売りなんかせず学校に戻れて、もしかしたら彼らの家にはクラッチーを引き取る余裕くらいあるのかもしれない…そんなことを、夢見ないではいられません。ここのBL感とか三角関係感がもっと見えてもよかったのになー…イケコはガチだから逆にそういう琴線がない、とかなんだろうか…てかアンサンブルたちのパフォーマンスがどんなに見事でも、「でもみんなイケコのお稚児さんなのかな…」とか思わないでは観られないのって、めっちゃつらいんですけど、ホントこのままどうにもする気がないんですか東宝およびミュージカル界…
 ここではないどこかへ、みたいな望みを歌う歌はありがちではありますが、サンタフェへの想いを歌うジャックとクラッチーは吉田秋生『カリフォルニア物語』のヒースとイーヴを想起させました。懐かしや、引っ張り出してきて読み返しちゃいましたよ…そしてキャラとして私が好きなのはもちろんデイヴィです。こういう優等生タイプ、大好き! でも彼が学校で得た知識や教養がニュージーズたちの労働争議に役立ったのですもの、学校は大事、勉強は大事、知識や教養は本当に大事で必要。そういうことが改めて伝わるといいな、とも思いました。
 なのでなんかいちいちちょっとずつもったいなくて、ただ少年たちががんばっていて輝いていて楽しい演目でよかったね、だけで、だからブレイクしきれないし社会を変えるインパクトたりえてないんじゃないの?とちょっと歯がゆかったです。本来、エンタメにはそれだけの力があるのに…この作品にも要素は揃っているのに…エンタメはエンタメの力を信じている人に作ってもらいたいよなあ、などちょっと残念に思ったのでした。キャストも楽曲もよかっただけに、ね…演出家を変更し、ブラッシュアップされた三演に期待します。
 ちなみに二階最前列で観たのですが、イケコはわりと上の階にも配慮した構成をすることが多い印象で(美術/松井るみ)、いいところはけっこう高いところでやってくれていて、逆にあれは一階前方席の観客からはかなり見づらかったのでは…など思ったりも、しました。いろいろ難しいもんだなあぁ…私がうるさいことを言い過ぎなだけ、という自覚がないわけではないのですが…あー、手放しで褒められる作品に出会いたいもんだよーーーー!!!











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musical『9to5』

2024年10月14日 | 観劇記/タイトルな行
 日本青年館ホール、2024年10月10日18時。

 ロサンゼルスの大企業に勤めるヴァイオレット(明日海りお)はシングルマザー。日々の生活に追われながら仕事と家庭を両立し、社内で確固たる地位を築いていた。若手社員ジョー(内海啓貴)に慕われる一方で、社長のハート(別所哲也)の横暴には悩まされている。ある日、同じようにハートのハラスメントに耐えている秘書ドラリー(平野綾)、新入社員ジュディ(和希そら)と意気投合したことで、ハートをとっちめる計画を立てるが…
 音楽・歌詞/ドリー・バートン、脚本/パトリシア・レズニック、原作/20世紀フォックス同名映画。翻訳・訳詞・演出/上田一豪、音楽監督/江草啓太、振付/藤林美沙、ZooM。1980年公開の映画をミュージカル化したもので、2008年ワールドプレミア、09年ブロードウェイ初演。19年にはウェストエンドで別演出となるジェフ・カルフーン演出版が開幕し、24年には原作映画をジェニファー・アニストンがリメイクすると発表された話題作。全2幕。

 ソラカズキの退団後初出演作!というので、みりお会の親友に連れて行っていただきました。なんと最前列でしたが、舞台までちょっと距離があるし舞台の床が低くて、とても観やすくて楽しかったです。総踊りになってメイン3人が2列目になるときだけ、前列のアンサンブルが被って見づらかった程度。近さを堪能できました…!
 もとはまあまあ古い映画なので、今観てズレがどうか…という心配は事前にささやかれていましたし、蓋を開けたら逆に、セクハラもパワハラも女性差別も何もかも全然改善されていない現代の現実と地続きすぎて観るのがしんどい…みたいな声も聞こえてきていました。
 でも私は図太いので、めっちゃ楽しく観てしまいました。装置(美術/石原敬)やお衣装(衣裳/十川ヒロコ)なんかがポップでスタイリッシュなのが作品全体をファンタジーとして、フィクションとして上手く見せている気がしましたし、なんせみんな上手かったし可愛くて超キュートでプリティだったのも良きファンタジー感を醸し出していたと思います。もちろん戯画化されているし露悪的にも感じられ、ザラザラしたりヒヤヒヤしたりもしたのですが、それでも私はとにかくおもしろく感じてしまったのでした。ダメな人はダメでしょうとは思いますし、もしかしたらトリガーアラートが必要な作品だったのかもしれませんが…でもオールド・タイプのミュージカルとして、クラシカルな仕上がりで、とてもよくできていたと思うんですよね…私は演出家の癖とか傾向とかがあまりよくわからないへっぽこ観劇ファンなんですけれど、この演出家さんも作品をいくつか観ているはずですが特に個性とかはわかっていません。でも過不足なく、またある種の狙いをちゃんと持ってタイトに仕上げている気がしました。休憩込み2時間半で綺麗に終わる作品なので、ソワレはもう30分開演が遅くてもいいかもね、くらいかなあ…
 イヤ問題はありますよ? 一番まずいのはボリビア差別で、もとの映画なりウェストエンド版まんまなんだとしても今すぐ変更していただきたいですね。ボリビア人に観られて抗議を受けることなど想定していないのでしょうが…つーか抗議されなくてもこんなことやっちゃ駄目。別に砂漠のド真ん中のなんとか、みたいな架空の国にすればいいだけでしょ? 絶海の孤島でも極寒の僻地でもジャングルの奥地でもなんでもいいけれど、実在の国名を出す必要はないし、腰蓑でドクロとか本当に駄目すぎて肝が冷えました。
 あとは、会長(ひのあらた)の鶴の一声、トップダウン、大岡裁きで決着してしまうところとかもね…結局、上の男が了承すればいいんかい、ってなっちゃいますよね。実は会長は女性だったとか、会長は会社にノータッチなんだけど会長夫人が賛同してくれて…とかならまだよかったのかなあ…でも権力者がオーケーならオーケー、って構造はやっぱりアレなので、ヴァイオレットたちの改革で売り上げが伸びて株主たちが大満足で株主総会でオーケーが出て…というのが民主主義的に、資本主義的にも?正しかったのかしらん…??
 それからロズ(飯野めぐみ)はともかく、マーガレット(船山智香子)のザッツ・オールドミスみたいな描写とかももちろん引っかかりました。ここにはアルコール依存の問題もあって、まあ綺麗に解決されているっちゃいるんですけれど、健康が改善されると眼鏡もなくなって美人になる、というのはルッキズムを指摘されても仕方ないですよね…
 ヴァイオレットたちの妄想爆発場面も、ミュージカルナンバーとしてめっちゃ楽しいんだけれど、でも本当はそうじゃない感はありました。たとえばヴァイオレットが(白スーツで現役時代もかくやというノリノリでキメるみりおが絶品なのは別として)若い男たちに傅かれもてはやされてドヤるのって、ハートが今やっていることをただ男女逆転させただけなので、愚かさ加減はおんなじなわけです。だから、今の理不尽が撤廃できたとしてアンタのやりたいことって結局ソレなの?って気はちょっとしてしまう。でも、女だけが常に正しいことをしなくちゃならない、ってことはないのです。女にも愚かなことをやる権利がある。だから男からそれを取り上げたら同じようにおバカをやってもいいのです。ましてこれは妄想、想像の場面であって、実際のヴァイオレットはちゃんとした働き方改革を進めるんですからね。ドラリーが男たちをビシバシ叩きのめすようなスパンキング・プレイに走るのも同じことです。女にだって暴力を振るう権利はある(もちろんそれは犯罪なのですが、やりたいならやっていいのです。あとでその責を負う必要があるというだけのことです)。ジュディのように憎たらしい男たちをバンバン撃ち殺して、それで溜飲を下げたっていいんです。スカッとしちゃう、笑っちゃう、でもひんやりした罪悪感が忍び寄る…それがまともな人間の感覚でしょう。男性観客の心証を案じるツイートなんかも見ましたが、こういう作品を観に来る感性がある人は同じように感じて楽しむんじゃないかしらん? むしろこういうものを観に来ない人、そして現実にはまさにこんな感じで周囲に対して横暴で威圧的で暴力的でかつそのことになんの疑問も感じない男が多すぎるわけで、それこそが問題なのであって、そういうことを浮き彫りに描いているにすぎないと思うのです。私は、これを観ていて必要以上に申し訳ながったり居心地悪く感じたり自己反省的になる必要はない、と思ったけどなあ…
 マリファナの存在がカットされなかったのはよかったです。国によっては合法なんだし、フツーにやっていいのに、そんなところばっか変にちゃんとするフリをしようとするところがあるからさ本邦制作陣…でもそれでラリって見る夢があの大ナンバーたちなんだから、カットしようがなかったってのはあるんでしょうけどね。でも変にごまかしたり「マリファナ」という言葉を出さない、みたいな姑息なことがされていなくてよかったです。
 大人のお伽話ではあり、まして今や9時から5時までの会社生活が人生のすべて、なんて生き方をしている人は少ないよ…?とは冒頭から思いましたが、ちゃんとラストでみんなのその後を描いていて、会社を辞めて違う人生を生きているキャラクターもちゃんといて、そういうところはホントいいなと思いました。ドラリーについては、作品の音楽・歌詞を担当したカントリー・ミュージック・アーティストのドリー・バートンになぞらえているんだと思いますが、日本で上演するにはそこは通じなくて不発だったのが残念でしたね。

 というわけで私は楽しく観たしみんな上手くて可愛くて、満足でした!
 みりおちゃんは、今回は歌えていて、久々にダンスも観られて、とてもとてもよかったです! まあ外見というか、『王様と私』くらいならそれ相応に見えましたが、思春期?で車の免許も取れるような歳の息子がいる母親の歳には見えない…というのは、あったかな。実年齢としてはそれこそ全員近い感じなんでしょうけれど、役者さんってみんなすごく若く見えるから、みんなもう十くらい上の人がやってちょうどいい感じなのでは…というのは、ありましたね。でもそれもファンタジー感が出て、ちょうどよかったのかもしれません。どのパンツスーツも、妄想の白雪姫ドレスもお似合いで楽しかったです。ただ痩せすぎだよね、さすがにここまでだと不健康、不自然に見えてお衣装もやや映えないのが気になりました。まあもうこういう体質で、こういう人って太れないんでしょうけれど…
 1974年のアメリカ社会のリアル像が私には今ひとつピンときませんが、おそらくヴァイオレットは大学時代の恋人とすぐ結婚して妊娠して出産したんじゃないかしらん? でも専業主婦になる発想はなくて、結婚しても妊娠しても出産しても会社で働き続けた人だったのでしょう。それが当時どれくらいレアなことだったのかあるいはメジャーなことだったのか、そのあたりはよくわかりません。離婚ではなく死別、しかも3年前、というのはけっこう重要な情報だと思うので、もっと早く提示してもらえた方がキャラや境遇がつかめてよかったかな、とは思いました。なので40手前くらいの歳の設定なんでしょうか。やっと30というジョーの年齢に対するショック、わかるようなわからないような…(笑)めっちゃいい間でした。今なら十歳か一回りくらい男が下なんで平均寿命から言ってもバランスいいんじゃない?とか思えますが、当時はナイナイまず絶対にナイ!って感じだったのでしょう。あと、若い男に言い寄られて嬉しい、みたいなところが全然ないのもよかった。そうなのよ、好意なんて寄せられても面倒なだけ、とかとにかくまったく眼中にない、ってのが女のデフォルトなのに、嬉しがる描写をされがちだからさー…でもハートのストレスがなくなって働きたいように働けることになれば、恋愛する余裕も生まれる、というのはリアルだと思うので、良き展開だと思いました。
 脱線しますが、一緒に観た親友は92年の新卒就職時に金融業界に進んだので、均等法施行からだいぶ経っていてもまだまだ男女差別はあったし、総合職とか一般職とかの女性に気を遣っているようでやっぱり差別的だったシステムその他に悩まされた人でした。だから74年のアメリカでもこんな感じだったろう、というのはすごくわかる、と終演後に語っていました。私はそういう堅いところには進まなかったので、給与の男女の別はないことになっていたし、同じ部署に配属された同期は男子でしたがそれぞれ担当業務をバリバリやるだけで、性別も何もなくただ忙しかった最初の十年を過ごしたので、そういうことには全然無頓着でしたが(もう平成だったけれど、昭和のおじさんのセクハラ戯れ言みたいなのはもちろんフツーにありましたが)、今まさに、いわゆるガラスの天井みたいなものにぶち当たっていて、遅まきながら「これか!」となっているところです。
 ある程度までは年次で等しく昇進し、しかし管理職以上はポジションの数の問題もあるし、優秀な人や向いている人がなる…というのは、理屈としてわかります。でもそれが男性ばかりになっていることは、解せません。今の部署に異動してきたら、かつての後輩が上長で同期がその上にいました。彼らの方が先にここに異動してきていて実績を積んでいたのだから、それは納得できます。でも私よりあとに異動してきた後輩の男性が私より先にトントンと昇進したことは解せません。彼の方が私より有能だとか管理職に向いている、ということは特にないと思えたからです。女性の役職者が少ない、と全社的に問題視されている中なのに、たとえ数合わせのためだけでも私を起用しないのか、他に近い歳の女性社員がいないので、私を上げないならこの部署はまた十年とか女性の管理職が生まれないのだがそれでいいという判断なのか…とちょっとがっかりです。イヤ私は管理職なんてやりたくないんですよ、めんどそうだし。でもやれと言われればやりますし、やれるでしょう。だってどんな無能な男もやれているんだからさ。評価基準が昇進しかないんだから(弊社には査定がないので)、昇進しないってことは評価されていないってことなんだな、と思うと、仕事が空しいですよね…別に役職者になって会社に残りたいとか関連会社に再就職したいとかはまったくなくて、定年退職後に遊んで暮らすのを今から楽しみにしているし、それがバレているのかもしれませんが、それとこれとは別でしょう。今はちゃんと働いていて、かつまあまあめんどい担当業務をやらされているのに評価ナシ、グレていいですかね…?ってなりますよ。私はヴァイオレットのように育てた部下に抜かれたことはありません、何故なら部下を持ったことがないから。でも他部署含めて後輩がどんどん昇進していて、なんだかなあ…なのです。若いころでも、仕事も楽しかったけれど趣味もあった生き方をしてきたので、仕事で評価されなくても自分が楽しかったりある程度やり甲斐を感じられたり世の中にちょっとは貢献していると思えたり単にお金が稼げたりしていればそれで十分っちゃ十分なのですが…さて、現実は多少は良くなっているのでしょうか。こういう作品を観て批評することも世の改善に何かしら貢献している、とは思いたいものです。
 平野綾は私は実はあまり舞台を観られていなくて、人気声優、でもミュージカル女優としてもすごい、というイメージしかなかったのですが、ドラリーとてもよかったです! セクシーな格好をしているのは、それくらいしていないとハートにクビを切られるから、というのもあるのかもしれませんし、それが好みのスタイルで自分を素敵に見せている自信がある、ということなんでしょうね。セクシーな格好は自分のためのものであって、それで男が見ていいとか襲っていいとかいうことはまったくないのです。そんな格好しているから…みたいな台詞がなかったのもよかった。そこはもう自明の世界なのです。
 そしてそら! これまた年齢不詳で、新卒の新入社員の役ではありませんでしたが、まあおっつかっつのお若いお嬢さんの役なのでしょう。それは明示してほしかった、かな。でも出だしのたどたどしいタイピングからカワイイ! ポーズやアクションがいちいちカワイイ!! 冒頭の格好、帽子はエレガントに見えかねないしツイードのスーツはフォルムやスカートの丈をもっとダサくしないと「ダサい」の記号が伝わらないな、とは感じましたし、そこからどんどん垢抜けていって…というには後半のお衣装が色目こそ鮮やかになったもののまだパンチに欠けて見えて残念、ってのはありました。でもでも、そんなことよりも何よりも、歌もダンスも芝居もホントーーーーに上手い! あたりまえ体操!! これからもなんでもできる! ガンガン活躍してーーーーッ!! ってなりました。ビルボートライブが取れなくてしょんぼりです…
 でも実は内海くんジョーが一番カワイイですよね。これも、マザコンなのでは?とかフツーなら考えちゃうので、やはりファンタジーなキャラなんですけれど、誠実さ、実直さ、真面目さ、奥手っぷり、でも妙に突っ走るところ…塩梅が良くてもちろん上手くて、素晴らしかったです。
 さらに別所さん、もう大ベテランの域に入ってきましたが…多分ちゃんと割り切って、昭和のアメリカン・ガイを楽しそうにやってくれていて、爽快でした。これまた上手いし、ちょうど良くて素晴らしかったと思いました。
 アンサンブルもバンバン着替えてガンガン踊って、素敵でした。赤とブルーグリーンを効かせた宣伝写真も素敵だったなー。でもプログラムはフツーにA4がいいです。このサイズの正方形は扱いづらいんだよー…機会があればもとの映画も見てみたいです。
 大楽は静岡なんですね、どうぞご安全に…!











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『ナビレラ』

2024年05月29日 | 観劇記/タイトルな行
 シアタークリエ、2024年5月23日18時。

 バレエ団に所属する23歳の新進ダンサー、イ・チェロク(三浦宏規)は、恵まれた才能を活かしきれず将来を迷っていた。一方、定年退職を迎えた70歳のシム・ドクチュル(川平慈英)は、ある秘密を抱えながら、残りの人生について考え始める。ある日、ダンススタジオの前を通りかかったドクチュルはチェロクが踊る姿に心を奪われて、子供のころに憧れたバレエへの夢を思い出し…
 作/HUN、JIMMY、オリジナル台本・作詞/パク・ヘリム、作曲/キム・ヒョウン、オリジナル・プロダクション/ソウル芸術団。上演台本・日本語歌詞・演出/桑原裕子、オンガクカントク・キーボードコンダクター/門司肇。韓国のウェブトゥーンを原作に、テレビドラマ化もされた韓国ミュージカル。全2幕。

 サブタイトルは「それでも蝶は舞う」。ナビは蝶ですが、~のように、の意味のレラがついたとても詩的で繊細で、現代ではあまり使われていない言葉だそうです。素敵ですね…!
 評判は聞いていたのですが、『赤と黒』でも観て、『メディア/イアソン』では贅沢すぎるというか無駄遣いだったのでは…とも思えた三浦くんのバレエを活かした作品を観てみたいとも思っていたので、飛びついてきました。期待に違わぬ良き作品で、ダダ泣きしました。
 韓国では年に三百本ものミュージカルが制作され、切磋琢磨しブラッシュアップされ取捨選択されているんだそうで、それはちょっと勝てないよな…と思いました。イヤ私が最近評判の『千と千尋の神隠し』とか『この世界の片隅で』、『ゴースト&レディ』とかを観られていないだけで、日本のオリジナル・ミュージカルもたいしたものですよ、と言われればそれはそうなのかもしれませんが、なんていうのかな…こういうフツーのお話をきっちり仕上げてくる地力がもうものすごい、と震えたのです。ウェルメイドを超えていると思いましたしね、普遍的な力がある…! ザッツ・韓国で、ストーリーはこのイントロダクションから想定されるように進みオチる、ベタベタのベタかもしれない。でもそこがすごい。変なひねりを入れてこない、真の力量に裏打ちされた自信みたいなものが窺えました。
 あとは、緞帳を使っていたのがよかったなあ。一幕も二幕も、幕が上がって始まり、下りて終わる…暗転よりクラシカルで、私は好きです。この作品にも合っていたと思いました。
 配役もある種の異種格闘技戦感がありましたが、適材適所で新鮮で、とてもよかったです。そしてみんな達者で歌も上手かった…! ドクチュルの長男ソンサンがオレノグラフィティ、次男ソングァンが狩野英孝、バレエ団の団長ムン・ギョングクが舘形比呂一、ぴったり!! ドクチュルの妻ブンイの岡まゆみは、私は初めてかな? いかなもなアジュンマを作っていて好感。ソンサンの娘ヘジンがダブルキャストで、この日は青山なぎさ。東宝ヤング女優枠なのかな? 良き良き。そしてチェロクのサッカー選手時代のチームメイト、ソンチョルの瀧澤翼は『SPY×FAMILY』のユーリだったそうですが、私は観ていない方かな…? タッパがあってスタイル良くて、カッコよかったです!
 アンサンブルさんもみんな素敵で、バレエはもちろん、お芝居でも何役もこなして、達者でした。バレエを習っている役者さんは多いとは思うけれど、これだけ踊れて活かせる機会もなかなかないだろうし、楽しかったのではないかしらん…
 それでいうと川平さんはジャズもタップもヒップホップもやっているのに、バレエはやっていなくて、今回の件で初めてレッスンに行ったんだそうな。意外! 実際には10歳近く若いということだし、本当はもっと全然動ける人なのに、白髪にして足取りもおぼつかないような老人の動きにして、それでも少しずつ手脚が伸びやかになっている様子を実にナチュラルに演じてくれていて、素晴らしかったです。
 うちのアラウンド80の両親を見ていても、70なんてこんな年寄りじゃないだろう、とも思うのだけれど、韓国のこの世代の人たちは子供をより良く育て上げることに全力投球で自分のことはみーんな後回しにして、やっと勤め上げたらもうくたびれきっていて…というのがリアルなのかもしれません。そこへ病気で余命が…ということかなと思っていたら、なんとドクチュルの「秘密」とは認知症でした。せつない…! てか私なんて60で定年退職したらそのあと25年くらいは遊んで暮らしてそのあとやっとおとなしくしようかなとか考えているのに、70なんてすぐすぎます…!
 それでも、身体を壊すより、夢が壊れることの方が怖い、と言ってがんばるドクチュルに、もう泣かされること泣かされること…完全にそっちの視点で観てしまいました。幼いころに親の仕事の都合でロシア(ソ連か?)に行っていた、そこで赤ずきんちゃんのような、バレエを踊る花売り娘(川西茉祐)と友達になって…とかも、ありそうだしエピソードとして本当に美しすぎました。イメージとして何度も現れ、くるくると踊る少女の姿のいじらしさ、美しさにも泣かされました。好きだから、美しいから、バレエを踊りたい…それで十分じゃないか、と心底思えました。
 そして、若いころにバレエをやっていた母親を病気で亡くし、父親はワーカホリック気味なのか子供に無関心で、バイトで生計を立て、目標を定めきれずに悩み苦しみさまよっているチェロク…冒頭、レッスンに遅れてやってきて、ウォームアップもせずにそのまま曲に乗って踊り出す彼のジュテの高さよ! これに心を鷲づかみにされない観客なんています!?(珠城さんリリーに欠けていたのはコレですよ!!)あまりにも鮮やかすぎました。三浦くんは熊川哲也に憧れてバレエを始めて、怪我で断念したそうですがそれはプロのバレリーノになるには、ということで、こういうレベルならなんの問題もなく踊れるのでしょう。これは大きな武器ですよ…! 素晴らしかったです。もちろん、演技も歌もよかったです。
 バレエ団の経営の厳しさとか、ドキュメンタリー番組でクラファンをとか、今っぽい要素も入ってくる中、最後の公演が始まり、チェロクとドクチュルのパ・ド・ドゥ(なのかな?一応…)が始まる。美しい振付、そしてクライマックスにチェロクが跳ぶ。それはポスターのポーズで、そこで暗転…! 舞台の魔法でした。着地の音なんかしなかったじゃん…! もうもう素晴らしすぎて、爆泣きでした。
 ラストは数年後で、海外で活躍しているチェロクが久々に帰国して、シム一家のピクニックに混ざる。ドクチュルは車椅子に乗っていて、もう家族のこともわからない。けれどチェロクが踊ると、そろそろと腕を伸ばす。かつてバレエを教え始めたときのように、彼の指先を直してあげるチェロク、幕…
 人は老いる、いつかは死ぬ、みんな忘れ去られる、でも何もなかったことにはならない。夢があった、美があったのだ…そう信じられる、美しいラストシーンでした。
 こういう体験ができるから、観劇はやめられない…そう、思うのでした。






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『20世紀号に乗って』

2024年03月29日 | 観劇記/タイトルな行
 東急シアターオーブ、2024年3月24日13時。

 世界恐慌を脱出し、人々が再び自信と活力を取り戻し始めた1930年代のアメリカ。かつてはブロードウェイの花形舞台演出家兼プロデューサーだったオスカー・ジャフィ(増田貴久)は華麗で非情、そして誇大妄想気味。現在は多額の借金を抱え、シカゴの荒れた小さな劇場で芝居を打っていた。彼は世界一と言われる豪華客室を備えた高級列車「特級二十世紀号」に乗り込み、元恋人であり、現在はハリウッドの大女優リリー・ガーランド(珠城りょう)に偶然を装って出会う計画を立てるが…
 脚本・作詞/アドルフ・グリーン、ベティ・カムデン、作曲/サイ・コールマン、原作/ベン・ヘクト、チャールズ・マッカーサー、ブルース・ミルホランド、演出・振付/クリス・ベイリー、演出補・共同振付/ベス・クランドール、翻訳・訳詞/高橋亜子、音楽監督/八幡茂。1932年に書き下ろされた戯曲で、ストプレとして上演され、34年アメリカで映画化。その後ブロードウェイにて1978年にミュージカル化、2015年リバイバル上演。全2幕。

 宝塚歌劇雪組版の感想はこちら
 よく笑った、ということしか覚えていませんでしたが(笑)、そしてきぃちゃんのところを珠城さんがやる上演と聞いて素直に「無理では!?」と思いましたが、ともあれ観たくてチケット取りはまあまあがんばったつもりです…が、玉砕に次ぐ玉砕。嘆いていたら、心優しき相互フォロワーさんがお声がけくださいまして、無事の乗車とあいなりました。
 観るのがけっこう公演後半になってしまい、漏れ聞こえてくるのが好評ばかりだったので、ちょっと期待して行ってしまったのですが…みなさん、本当に心優しいんですね。私はダメでした、主に珠城さんが…みんな、他人に目につきやすいSNSではいいことしか言わない良識人なのかもしれませんね。聞けば増田さんファンは抜群にお行儀がいいそうな…でもここは私のブログなので、私は私の感想を書きます。素晴らしかった、最高だったと思う、という方はここでUターンしてください。あ、作品そのものはおもしろかったと私も思いますよ、でもそもそも映画はヒロインが主役なんでしょう? 雪組版も今回もオスカーを主役にしていますが、リリーは立派なヒロイン、大役です。そこがこうつらくっちゃ、そら全体もつらかろう…というのが、私の所感でした。
 言い訳しますけど、ここを読んでくださってきている方はご存じかと思いますが、私は珠城さんのファンなんです。でも私は好きな人にほど点が辛くなる、そういう自覚は確かにあります。でもね、好きだから心配で、過剰に期待し求めてしまうんですよね。だって全然知らない人が観たら「なんであんな下手な人がヒロインやってんの?」って言われかねないじゃん!って思っちゃうからです。イヤ歌えない人が出ているミュージカルなんてざらにあるよ、と言う方もいるでしょうが、歌上手しか出ていないミュージカル舞台もたっくさん知っているしそれがあたりまえであるべきだと考えている私としては、そこで「だからしょうがないよね」とは言いたくないのです…
 てかどうしてこういうオファーをするんだ、あるいは受けるんだ。そもそもタカラジェンヌは、特に男役は、現役時代は歌上手と言われていても退団後は苦労する人がとても多いと思います。おそらくキーの他にもいろいろ違いがあって、チューニングが大変なのでしょう。だいもんだって未だ完璧な出来ではない気がするし、最近こそなんでもござれなきりやんだって退団直後の『マイ・フェア・レディ』とか散々でした。トウコは私が退団直後を観ていないし、みっちゃんも全然観ていないので語れませんが、みりおちゃんも未だに苦労していると思います。なのに大作ミュージカルにばっか出るんだよなあ、『王様と私』も正直めっちゃ心配しています、私。
 逆に娘役スターは、現役時代に歌の印象がそんなにない人でも、卒業して外部に出るとめっちゃ上手っ!と驚かされることが多々あります。これまたキーの問題で、要するに現役時代はものすごく高いところを無理して歌わされていたんでしょうね。そして男役は無理して低いところを歌ってきた…だから高音が弱い。ある意味、自然なことです。
 でもプロなら研鑽してしいし、歌えるようになってほしいし、そうなってから大作ミュージカルに出てほしいんですよ…それは決して望みすぎなことではないと思うんですけれど……しょぼん。

 ヒロインは、とある女優のオーディションの伴奏ピアニスト、の代理、として現れます。まず歌詞を忘れた女優のプロンプをし、次に音を外した女優を正しい音で歌って導き、さらには曲そのものをアレンジして朗々と歌い上げてしまう…それがオスカーの目にとまり、華やかな芸名が与えられて、女優への道が開ける。そういうお役じゃないですか、リリーって。
 でもこの、音を外した女優のために歌ってみせる音が、もう正しくないんだもん。珠城さんに出ない音がある、常に半音下がる音があるのなんてファンはみんな知っていて、私だって愛嬌だと思って愛してきましたが、ここで歌えないのは駄目じゃん。しかも声量がない。だから自信なさげに聞こえる。なのでこの場面の説得力が全然ない。あ、駄目じゃん…とこの時点で目を覆いたくなりましたよ、私…いや、耳を塞ぎたくなる、が正しいのか…
 ミルドレットは着込んでいたダサダサの服や帽子を脱いでいく。美しく波打つブロンドが現れ、ショートパンツだけどほぼダルマみたいに腕も脚も出た赤と青のデーハーなお衣装に
なり、舞台は劇中劇『ヴェロニク』に突入していく。そら珠城さんはスタイルが良くて美しく、真ん中力があり、華もありましたよ。でも声はやっぱり出ていない。マイク音量、もっと上げちゃったら? 音量が弱いから余計に頼りなげに聞こえて、一躍スターダムに駆け上がった女優!って説得力が全然出せてない。おまけに、腕も脚も綺麗でしたが膝が美しくなくて、私はしょんぼりしました…これはルッキズムに当たるのか? バレリーナは脚のために決して正座しないと聞くけれど、あの膝はなんなんだ、学生時代のスポーツの名残なの? 女優としてやっていくためには今後も脚を出す機会はまあまああるものだと思うんだけれど、あれはなんとかなるものなのかしら…
 あとはこれは個人的な好みもあるけれど、胸はないならもっと詰めた方がお衣装が映えるしスタイルのバランスもより良くなる、と思いました。ほとんどないんだもん、単に美しくないよ…ヘルシーでいいとか清潔感がとか色気云々の問題ではなくて、ただ胸が足りない、と私は感じたのです。
 そして…さらに続けて申し訳ございませんが、私は珠城さんの芝居もよくわかりませんでした。これも声のせいもあるのかなあ…男役として出していた低い声はむしろ無理して出していたもので、それにこっちの耳が馴染んでいるだけなのかもしれませんが、素の珠城さんの声ってまあまあヘンじゃないですか。イヤ私はそこも好きなんですけれどね、ヘンな声スキーなので(まったく褒めているように聞こえないことでしょう、ホントすんません)。でもなんかあの声で早口でつっかかるようにキンキンしゃべられると、どうもなんか変に無理しているっぽく聞こえるんですよね…
 つまりリリーって、ハリウッドの人気女優として群がるマスコミやファンに見せる顔と、プライベートになってポンコツ・ボーイフレンドのブルース(渡辺大輔。絶品!)に見せる顔と、彼すら追い出してひとりになったときに見せる本音の顔と、があるわけじゃないですか。その演じ分けが、なんか全然わからなかったんですよね。オスカーと対峙しているときなんかはリリーとしてナチュラルな部分も多くあったはずなんだけれど、珠城さんリリーのナチュラルさをあの発声からでは私は感じられなかった、というか。なのでなんか、だんだんオスカーにほだされていって…とか焼けぼっくいに火が点いて…とか本当は映画でなく舞台がやりたいしそれをわかってくれる人がいて嬉しい…とかの感情の変化や揺らぎみたいなものが、観ていて全然追えなかったんですよね。お友達のおかげで、ほぼオペラ要らずで表情まで追えるような6列目から観ていたにもかかわらず…!
 なので、「わー、全然ダメだ。みんなはこれで大丈夫なの?」と勝手にハラハラしながら全編観たんですよ…あげくオチが雪組版とちょっと違ったのでなおさらトートツに感じられて、それでも最後はむりくり大団円ハッピーウェディングなわけで、まあ早速ウェディングドレス着ちゃって珠城さんよかったねえぇ…などと見送るしかなかったのでした。
 しかしカテコで娘役お辞儀ができていないことにまたイラついてしまい…ドレス着るんだからそこも学んで! くれあ姐さんに今すぐ教わって! と思いましたよ…女優は美しくいることも仕事なのよ!?
 思えば私、『天翔ける風に』も駄目だったんですよね…どうしよう、卒業後2連敗…? あ、『8人の女たち』はちょうどいい胡散臭さだったんですけれどねえぇ……

 私がアイドルとしての姿をまったく存じ上げない、舞台で観るのもお初な増田さんは、それはもう素晴らしいミュージカル・スターでした。歌も芝居もダンスも上手い、そして大ナンバーのあとそのまま演技、とかも難なくこなす体力お化けでした。すごいなあぁ!
 オスカーの部下、オリバー(小野田龍之介)とオーエン(上川一哉)もあたりまえですが任せて安心の上手さで、安定感しかない…! ただ三人とも似たような茶系のスーツ姿だったので、宝塚歌劇ならここはブルー、グリーン、紫のスーツとかで遠目にも識別しやすいようにしたろうな、などと考えてしまいました(衣裳/前田文子)。
 プリムローズ(戸田恵子)も素晴らしいマダムっぷり、可愛らしいボケ老婦人っぷりと安定の歌唱で、これまた抜群でした。アンサンブルもみな達者で、素晴らしい座組だったかと思います。
 なので、ホントいろいろ気にしすぎて楽しめなかった自分を恨めしく思います…いいよいいよ、可愛いよがんばってるよ綺麗よー、と褒めそやしてみることが私はできなかったのです。くうぅ…ホント、私の問題だと思っています。でも私はもっと安心して、たとえ中身のないスクリューボール・コメディだろうと(オイ)もっと深いところで鑑賞したいんだー! 雪組版よりラブロマンスとして、お芝居として深い、みたいなことを語る有識者さま方の感想ツイートを見ると、そこまでとても読み取れなかった自分が不甲斐ないのでした…しょぼん。
 でも、しつこいですが未だファンのつもりではあるので、またおもしろそうな作品に出てくれればいそいそと出かけたいと思っています。とりあえずなんかもっと渋い、小さいハコでのストプレとかどうかな…向いてると思うんだけどな…
 ところでお衣装や私服のスカートはもう見慣れましたが、プログラムの稽古場写真のお稽古スカート姿にはなんかときめきました…(笑)りょうちゃん、として周りから愛されているようなら何よりです!











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劇団四季『ノートルダムの鐘』

2023年07月22日 | 観劇記/タイトルな行
 四季劇場 秋、2023年7月19日18時半。

 1482年1月6日の朝、パリ・ノートルダム大聖堂の鐘が街に鳴り響く中、人々は大聖堂に集まり、厳かにラテン語の聖歌を歌い始める。会衆に語りかけ始めたのはノートルダムの大助祭、クロード・フロロー(この日は芝清道)。今では権力を持ち、人々に恐れられる彼だが、子供のころに孤児として弟ジェアンとともに大聖堂に引き取られた過去があった。真面目にカトリックの教えを学ぶ兄と違って弟は遊び好きで、やがて大聖堂を追放されてしまう。数年後、突然届いた手紙を読んで駆けつけたフロローを迎えたのは、重病で死を迎えようとする弟だった。ジェアンの赤ん坊を託されたフロローは、怪物のように思える顔をしたその赤ん坊を、人目から隠して大聖堂で育てることにし、「出来そこない」という意味の「カジモド」(この日は田中彰孝)と名付けるが…
 作曲/アラン・メンケン、作詞/スティーヴン・シュワルツ、台本/ピーター・パーネル、振付/チェイス・ブロック、演出/スコット・シュワルツ。日本語台本・訳詞/高橋知伽江。ヴィクトル・ユゴーの小説とディズニー映画の楽曲に基づくミュージカルで、2014年サンディエゴ初演、16年日本初演。全二幕。

 この日はエスメラルダ/山崎遥香、フィーバス/加藤迪、クロパン/白石拓也。
 思えば私はアニメ映画版は観たことがなく、なんとなーくのお話は知っているつもりで行ったのですが、こういう設定のこういう物語だったのか…と改めて知る、といった観劇となりました。そういえば海と自由劇場は行ったことがあるけれど、春、秋に行くのも初めてだったような…
 そして「僕の願い」は知っていたのですが、これはアニメ版の曲なのかな? 今回はタイトルも歌詞も違っていましたね。そして何度も変奏される、メインテーマ曲なんですね。なるほどなるほど。
 タイトルといえば、『ノートルダムの鐘突き男』とか『ノートルダムのせむし男』とされることもあるお話だと思うので、主人公はカジモドなのかなと思うのですが、実質的にはフロローの物語のようでもあるんですね。というかカジモドってフロローの甥なのか、そしてそもそもカジモドの父である弟にフロローはなんかこう…執着というか過剰な愛情というか、を抱いていた設定なんですね。それはもう、なんかこう…濃いわ。ハナから歪んだ、濃い、重い想いが絡んで立ち上がった物語だったんですねえ…
 異形の者が人目から遠ざけられて育つ、という意味では『ファントム』(『オペラ座の怪人』というよりはむしろ)や『美女と野獣』っぽくもあり、まあこういう要素ってお話の種になりやすいんだな、とも感じました。それでいうとフィーバスは、でも全然ガストンみたいなキャラじゃなくて、よかったです。ただ、わかりやすい二枚目ヒーローだったり王子さまキャラ、ってことでもないんですね、そこがいいですね。戦場勤めに倦み疲れた兵士で、街の教会でガードマンめいたところに再就職してちょっと骨休め、みたいな…マッチョでも単純でもあるようですが、その分竹を割ったようにさわやかで素直でもあり、意外と心が広く屈託がない。エスメラルダもイケメンにコロッとまいるような形ではなく、対等な男女として双方アグレッシブにくっつく展開なのがいいし、カジモドとも凸凹コンビみたいな友情がちゃんと成立するのもいい。
 カジモドももちろんエスメラルダのことが好きで、それは純粋な友情よりは一歩恋愛に踏み出したものだったろうけれど、恋愛はひとりでできるものではないし、エスメラルダの方はカジモドにそういう感情は抱いてなくて、だから三角関係としてこじれるとか煮詰まるとかいうことはなくて、そのまま時間があれば奇妙なバランスのよき友情が三人で築けたようにも思えるんだけれど、そんなふうになる前にもっと面倒臭い感情を抱えたフロローがつっこんできての四角関係になるので、そういう意味ではもうこの関係は破綻するしかなかったのでした。
 だからエスメラルダは、死にます。これもまた物語都合で殺される女性キャラクターのひとり、と言っていいでしょう。フロローもまた殺されますが、それはこの報いだからいいでしょう。カジモドの死が告げられてこの物語は終わります。彼はエスメラルダの亡骸をひとり守り、抱きしめたまま、おそらくは飲まず食わずで日々を過ごし、やがて果てて白骨化して発見されたのでしょう。
 そういう意味で、サバイバーはフィーバスだけであり、逃げ延びたとも言えるしドラマの中核に絡めなかった部外者にすぎなかったのだ、とも言えます。書き手は男性でこのあたりに都合良く自分を置いているんだろうしな、とも思ったりします。いやフィーバスは本当にナイスガイだったので、このあとは平凡でいいから幸福な人生を送ってくれよ、と願わずにはいられないのですけれどね…
 アニメでは、孤独なカジモドは大聖堂のガーゴイルたちとおしゃべりして過ごす、みたいな描写があったようですね。舞台では、グレーのマントを羽織ったコロスたちがガーゴイルとなり、マントを脱げばパリ市民となり、さらには聖歌隊にもなって、アンサンブル大活躍舞台でもありました。セット(装置デザイン/アレクサンダー・ドッジ)もとてもお洒落で、舞台の魔法に満ちた作品でした。
 確かに暗いというか重いというか、でまったく子供向けでもファミリー向けでもない作品だとは思いますが、愛されるに足る作品だということはわかりました。そして四季なのであたりまえにみんな上手い、耳福でした。
 ジプシー差別、障害者差別、マジョリティの狂信や暴力が描かれていて、それは本当に今日的でもありました。最後の最後に、バリ市民を演じていたアンサンブルたちが顔を汚して四肢を歪めて固まり、カジモドを演じていた男性が肩につけた瘤を外してのびやかにまっすぐに立ち顔を拭い、世界が逆転する様子が怖ろしいほどに鮮やかで残酷で、ぞっとさせられました。どうして人は、「でもおんなじだよ、何も変わらないよ、友達になろうよ、なれるよ」となれないのか。何を恐れ、何に怯えて他者を拒むのか…人は神から本当に何かを学べているのか、絶望しそうになりますね。
 そういうことを訴えた、世界がもっと完全に良くなるまでは決して廃れない、物語のひとつなんだな、と思いました。




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