駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

続・宝塚歌劇版『ベルサイユのばら』完全版を考える

2010年02月28日 | 日記
第一幕
●プロローグ
  小公子、小公女、バラの青年、バラの娘
   ♪ごらんなさい ごらんなさい ベルサイユのばら(「ごらんなさい」)
  フェルゼン、アントワネット
   ♪愛 それは甘く 愛 それは強く(「愛あればこそ」)
  オスカル、アンドレ
   ♪白きばらひとつ清らかに咲く(「ばらベルサイユ」)
  オスカル
   ♪ああ 我が名はオスカル(「我が名はオスカル」)

 女ながらジャルジェ家の跡継ぎとして育てられたオスカル・フランソワは、オーストリア帝国ハプスブルク王家から嫁いでくるフランス王太子妃マリー・アントワネット付きの近衛士官に任命される。

 というようなことをセリフで説明しつつ次の場面に移っていくのはどうでしょう。このバージョンはないようなので。
 しかしプロローグですが、カーテンの電飾はかまわない、しかしレタリングがダサいのが許せません。
 どうにかしてください、マジで。絵から出てくるパターンも嫌だなー。だって絵が下手なんだもん。

 トップスターがオスカルでもアンドレでも、プロローグのこのふたりの衣装はオスカルが白と銀、アンドレが白と金の軍服と決まっているようですが、これに対して
「オスカルは光でアンドレは影、オスカルが太陽ならアンドレは月なのだから、オスカルが金でアンドレが銀の軍服であるべきだ」
 というような意見を聞いたことがあります。
 至極まっとうだと思います。改善してくれる気はないのでしょうか。

●パリ・オペラ座の仮面舞踏会
  ♪ああ パリの夜 踊り明かさん いつまでも

 オスカルを連れておしのびでパリへ出かけたアントワネットは、スウェーデン留学生のフェルゼンと出会う。

   「無礼者!」~「私は生まれて初めて私の心ときめかせる人に会った」

   ♪叶わぬ恋とは知りながら(「愛の怯え」)

 フェルゼンの一人称はぜひとも「わたし」としたいところです。

●ベルサイユ宮の廊下
  プロヴァンス伯爵とオルレアン公爵

 希望と祝福に満ちた輿入れから十数年、アントワネットの浪費に民衆の不満が高まっていることが論争される。
   「何より忌まわしいのは不倫の噂」

●ベルサイユ宮の夜会
  ♪ベルサイユに我ら集い 永遠に称えん王家の栄光(「ベルサイユ宮の舞踏会)
  さんざめく宮廷貴婦人たち
  アントワネット、ポリニャック伯夫人
   「女王陛下ご臨席!」「みなさん~わたくしはあの方がそばにいないと寂しいの」

 スウェーデン竜騎兵の軍服を着たフェルゼンが現れるが、ポリニャックに遠ざけられる。

  ドレス姿のオスカル
   「あの方はどなた?」「なんでも外国の伯爵夫人とか…」
 オスカルは正体を知られぬままフェルゼンと踊り、立ち去る。

●控えの間
  アンドレ、オルタンス、マロン・グラッセ、ル・ルー
   「あなたはオスカルお姉ちゃまを心ひそかに愛しているんでしょ」
 オスカルは彼女たちに無理矢理着せられたドレスを脱ぎに去る。
 フェルゼンが貴婦人を追ってくる。
 軍服に着替えたオスカルがフェルゼンに帰国を奨める。
   「お別れするのが本当の愛ではないのか?」
   ~「こんなむごいことは言われないはずだ」
   ~「私だって恋をしている!」
  フェルゼン ♪この世では結ばれぬ愛と知りながら(「結ばれぬ愛」)
  オスカル ♪私は愛の巡礼 見知らぬ国を唯一人(「愛の巡礼」)
  アンドレ ♪朝風に揺れる後れ毛見せながら(「白ばらの人」)

 フェルゼンとオスカルには原作どおり互いを「おまえ」と呼ばせたいところですが…せめて「きみ」にしてほしいです。オスカルがたとえ恋心を吐露するシーンでも、「あなた」はやめてほしい。

●パリ下町
 ジャンヌが町を出る。
   「あたしは神様に逆らって生きたいの!」
 ラ・モリエールがポリニャックの馬車に轢かれる。
   「文句があるならベルサイユへいらっしゃい」
  ベルナール ♪人はみな幸せに 世の中は明るく(「人はみな幸せに)

 この歌はオスカルが、アランやロザリーの案内でパリの下町を訪ねるシーンがあるバージョンで歌うものですが、ベルナールが歌っても変と言えないこともない、と思います。
 アラン、ベルナール、ジェローデルというキャラクターは四番手以降の若手スターのしどころですね。役の重い軽いはバージョンによってだいぶちがいますが、配役次第といったところでしょうか。

●ジャルジェ家
  オスカル、アンドレ、ジャルジェ夫人、ロザリー
 夫人を母の敵と間違えたロザリーが、オスカルから貴族の作法を教わることになる。

●ベルサイユ宮
  ♪オー プランタン 春4月(「オー、プランタン」)
   or ♪ダンスをするのもいいわ 歌を歌うのも(「恋をすれば」)

  オスカル、アンドレ、ロザリー、ポリニャック、ジャンヌ、シャルロット
 オスカルがロザリーを宮廷に連れて行く。
  「私の姉の嫁ぎ先の主人の妹の…」~「母の敵と姉さんが…!」

 シッシーナ夫人とモンゼット夫人に関する駄洒落は許せませんが、貴婦人たちがオスカルをアイドル扱いして夢中になっているというのは原作にもあるエピソードで、このコミカルなくだりは嫌いではありません。「オスカル、あたくしのオスカル!」というセリフとかね。

●夜の庭園
  フェルゼン、アントワネット
    ふたりは人目を忍んで逢い引きを重ねる。
   「わたくしは未だにオーストリアの女なのです」
   ♪人には終わりがあるように 花さえいつかは散ってゆく(「ばらのスーベニール」)

  オスカル、アンドレ、黒い騎士(ベルナール)、ブイエ将軍、
  ジャルジェ将軍、ジェローデル、ロザリー
 貴族の屋敷を次々と襲っていた盗賊・黒い騎士を捕らえるも、民衆の現状を説く姿にうたれ、オスカルは彼を将軍に引き渡すのを思いとどまる。

   酔ってアンドレの膝を借りるオスカル
   「星がきれいだ」♪ブロンドの髪ひるがえし 青い瞳のその姿(「心のひとオスカル」)

 このシーンでは庭園の池だか運河だかに浮かべられた船のセットが出てくることが多いようですが、恋の情熱とときめきを表現するダンスシーンでもいいと思います。

●ジャルジェ家
  ロザリー、ベルナール「大人にしているんですよ」
 ロザリーの実の母親、マルティーヌ・ガブリエルとはポリニャック夫人の名前であることが判明する。

●ベルサイユ宮
  ♪俺達は陽気な近衛兵 士官帽子を小粋にかぶり(「俺達は陽気な近衛兵」)

  ポリニャック、ジャンヌ
 フェルゼンが帰国の暇乞いに来るがポリニャックが退ける。
   「スウェーデンの恥になりますわ」
  アントワネット、オスカル「世の中の恋人たちならば、涙が枯れるまで別れの言葉を交わすのだろうけれど」

 ロザリーはポリニャックの娘だとオスカルが告げ、怒ったポリニャックは代理人を立ててオスカルに決闘を申し込む。

 「オスカルのお稚児さんね」と続く森のシーンでの「稚児の剣法、見せてやる!」というセリフは絶対にカットしてください。
 フェルゼンがルイ16世に帰国を告げ、ルイが引き止めるというシーンがあるバージョンもあります。あのルイがいいんですよね。アントワネットとフェルゼンとの噂を知らないではないが、一線を越えてはいないだろうとふたりを信頼し、またフェルゼンの誠実な人柄を信用しているルイ。従兄弟たちに陰口を叩かれていることを知らないではないルイ。泣かせます。

●サン・クルーの夜の森
  オスカルの身代わりに決闘に臨むアンドレ
  帰国直前に決闘の噂を聞いて止めに来るフェルゼン
  「君がつまらぬ決闘で怪我でもしたら、誰が王妃様をお護りするのだ~私は君との美しい思い出を胸に抱いてスウェーデンへ帰る」~「オスカルに言ってやってください」
 ジャンヌの罠にはまり、アンドレは片目を負傷する。

 アンドレの片目は原作とちがって、この他にアランとの喧嘩によって負傷するバージョンもありますが、ここではこれで。
 フェルゼンが帰国に際しアンドレと語り合ってから去るシーンがあるバージョンもあります。このくだりにそのあたりのセリフをうまいことはめ込めればと思うのですが…

●ベルサイユ宮
 ジャンヌはロザリーと決別する。
   「私とあなたはもう赤の他人、二度と声をかけないで!」
  ポリニャック、ロザリー
  「許してください、ロザリー。あなたはわたくしの娘です」
 オスカルがポリニャックを告発する。
   「アンドレの敵! 宮中に巣食う佞臣!」~「母なんです!」
  プロヴァンス、オルレアン、ブイエ、ジャルジェ
 フランスに暴動が起きたことを国王に報告しようとする。
  アントワネット「すべての責任はこのわたくしが取ります。
  マリー・アントワネットはフランスの女王なのですから」

 シャルロットの自殺、ジャンヌが告発され宮廷を追放されるくだりはカット。

--幕--

(続く)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宝塚歌劇版『ベルサイユのばら』完全版を考える

2010年02月26日 | 日記
 2001年11月13日の論考(笑)です。

*****

 言わずと知れた少女漫画の傑作『ベルサイユのばら』(池田理代子/集英社マーガレットコミックス)は、1972年(昭和47年)から翌年にかけてのわずか82週に連載された作品なのですが、今なお読み次がれる、もはや古典と言っていい名作です。

 宝塚歌劇団が創立60周年の1974年に舞台化し、世はまさに"ベルばらブーム"となったそうです。
 宝塚歌劇ではその後も組を変え配役を変えて初演から実に昭和版4バージョン、平成版4バージョンと続演を重ね、今年になって2001年版2バージョンを上演し、公演回数は1400回余、観客動員数360万人余を数えるに至りました。

 私は原作漫画はもちろん愛読していましたが、宝塚歌劇版は今年(2001年)の星組バージョンを実際に舞台で観るまでは、平成版をいくつかビデオで見たことがあっただけでした。
 先日、NHK-BSが昭和版・平成版を通して放送してくれて、ようやくすべてに目を通すことができたのでした。もっとも「すべて」とはいっても、放送されたものの他に役替わりによるいくつかのちがったバージョンもありますし、地方公演などでまた配役が替わっていたりもするので、全バージョン数は10ではきかないのですが。

 しかし、どれを見ても、どうも一長一短なのですね。
 平成版しか知らなかった頃は、
「アントワネットとオスカルとフェルゼンの三人が出会ってそれぞれ恋に落ちるオペラ座の仮面舞踏会のシーンは絶対に必要だろう。なんでないんだろう? それと、オスカルがただ一度だけドレスを着て、正体を隠したままフェルゼンと踊るシーン、あれはいじらしくていいんだけどなー、なんでやんないんだろう?」
 とか思っていただけでした。
 昭和版にはこれらのシーンがあるバージョンがあったので、この疑問は払拭されたのですがも、それにしてもどうも、「これがベストだろう」と思えるバージョンがないのです。
 長大な原作を2時間半の舞台にすることがいかに大変かはわからなくもないのですが、これだけ回を重ねているのだから、そろそろ決定版と言える脚本ができてもいいんじゃないだろうかと思ったのです。その上で、その脚本に見合ったスターたちが揃ったときに、ベストの配役で、ぜひ「完全版」を上演してほしいなあ、と考え始めてしまったのでした。そうしたら止まりませんでした(笑)。

 初演では、男役偏重の現在からは想像もできないほどに傑出したプリマドンナ・初風諄がいたため、彼女がマリー・アントワネットとして主役を務め、男役陣はフェルゼンやオスカル、アンドレとしてそれを支えました。と
 ころがこのオスカルが爆発的な人気を呼んだそうなんですね。男装の麗人というキャラクターは宝塚歌劇の男役にぴったりですし、女性像としてのオスカルのキャラクターにはやはり傑出したものがあります。よって続演版ではオスカルとアンドレが主役のバージョンが作られ、続くⅢと銘打たれたバージョンではそのときのその組のトップスターのニンに合わせて、フェルゼンとアントワネットが主役に据えられたバージョンになりました。

 こうした歴史があるため、宝塚歌劇版『ベルサイユのばら』には、おおまかに言って「オスカルとアンドレ編」と「フェルゼンとアントワネット編」の二大バージョンがある訳です。今年の2001年版でも、星組は前者、宙組は後者のバージョンを上演しました(「オスカルとアンドレ編」の場合、その組のトップスターのニンに合わせてアンドレが主役を務めるバージョンもあるのです。よく考えるとすごいことだ…それから、フェルゼンとアントワネットがまったく出てこない「オスカル編」というものが「今世紀最後の『ベルばら』」と銘打たれて公演されたこともありました。さすがにこれはあんまりだったと思います。当時のその組のスター構成にもよるのですが、トップ娘役が演じたのはなんとディアンヌなんですよ…)。

 でも、私はどちらのバージョンにも不満があるのです。
 まず、「オスカルとアンドレ編」では、物語がバスティーユ陥落で終わってしまう点。その後の天国でのふたりを表現するガラスの馬車のシーンが気恥ずかしくて嫌いだということもありますが(子供の頃のオスカルが、ガラスの馬車が銀河を越えてやってくると言っていたなどというエピソードは原作にはないのだし…とにかくあの馬車のセットがイヤ。前述の「オスカル編」で唯一私が評価するところは、このくだりが大階段でのオスカルとアンドレのダンスシーンで表現されていたことです。これでこれまた私が好きな、アランがオスカルにキスしちゃうシーンがあったなら、このバージョンへの私の評価もかなり持ち直してしまったでしょうが…いかんいかん)、やはり『ベルサイユのばら』はアントワネットの処刑で幕を下ろすべきでしょう。宝塚歌劇版の主役を誰に据えようが、フランス革命の主役はまぎれもなく王妃マリー・アントワネットだったのであり(革命を起こしたのはもちろん民衆なのですが、起こさせた原因の大部分はアントワネットによるものだった、という意味での「主役」です)、その断頭台での処刑はフランス革命の象徴でもあるのです。そして『ベルサイユのばら』はフランス革命を描いた物語であることもまたまぎれもない事実でしょう。
 そもそもタイトルロールたる「ベルサイユのばら」とはアントワネットのことなのです。宝塚歌劇版ではアントワネットを紅薔薇、オスカルを白薔薇にたとえることが多いのですが、原作にはオスカルのこの比喩はありません。
 ちなみにフェルゼンの死で幕を下ろす原作のラストシーンが私は大好きなのですが、宝塚歌劇版では
「さようならベルサイユ、さようならパリ、さようならフランス!」
「王妃様!!」
 で幕、というのがやはりいいと思います。このセリフも原作にはありませんが、私は何も原作原理主義者ではないので。

 さて一方の「フェルゼンとアントワネット編」では、一幕で早々にバスティーユが落ち、オスカルとアンドレが二幕にまったく出てこなくなってしまっている点が気になります。これまたちょっと早すぎるというか、扱いが軽すぎるだろうと思うのですね。

 総じて、10バージョンの中では昭和花組版がよかったかなと思っています。これにバスティーユの後に牢獄と断頭台のシーンを追加してくれるだけでも、かなり「完全版」に近くなるのではないかと個人的には考えています。

 さて、では問題です。宝塚歌劇版『ベルサイユのばら』では、はたして主役は誰が務めるのが正しいのでしょうか。
 宝塚歌劇を実際に観たことがない人でも、宝塚歌劇団が独身女性だけの劇団であることと、スター・システムがあることくらいはご存じでしょう。
 このスター・システムというのは、最近になって新専科が創設されたために今では事情が少々変わりましたが、基本的には各組(現在では花・月・雪・星・宙の5組)に男役トップスターと娘役トップスターがいて、二番手男役スターがいて、以下いわゆるスター路線と言われるような若手がいて、別格の脇を固める存在がいて、それに応じて役が付き、公演をしている、ということです。
 この「スター」というのが曲者で、トップは劇団から公表されて確定しているのですが、あとはまあ学年順(在団年数のこと)とか成績順(入団7年目までは試験があり、名簿などはこのときの成績順に並べられる)とか人気のあるなしとか役の付き方とかでなんとなく決まり、ほとんどカオス状態と言っていいでしょう。各生徒(役者のこと)のファンはここに一喜一憂する訳で、それが他の劇団とはちがう熱狂的・狂信的なファンを産む原因にもなっているのだと私なんかは思うのですが。
 私は大人になってから公演を観るようになったので、誰かひとりのスターさんを好きになって追っかけて泣いて騒ぐような元気さはもうなく、芝居の内容そのものを楽しみたい方ですが、その気持ちはわからなくもありません。好きな競走馬がデビュー戦から下級条件戦へ、ついにはGⅠへと勝ち上がっていくのを応援する感じ、ひいきの相撲取りが序の口、序二段からついには横綱へ昇りつめていくのを応援する感じと同じなのだと思うのですが、そう言ったら怒られるでしょうか。でも、トップになったらあとは引退しかないところなどは、相撲の横綱と本当に同じだと思います。それはさておき。

 トップ娘役がマリー・アントワネットを演じるべきである、これはほとんど異論がないでしょう。前述のディアンヌの他にも、トップ娘役がロザリーを演じたバージョンもあるのですが、今は役者のニンに特に配慮しない「完全版」を考えたいので、まずはこれは確定。

 では、トップ男役はフェルゼンとするべきか、オスカルとするべきか。

 これに関しては2001年版の上演が決定したとき、ファンの間でかなり論争が起きました。星組宙組のバージョンを入れ替えるべきだというものです。
 星組ではこれがトップコンビの退団公演に当たっていたため、ふたりに恋人同士であるフェルゼンとアントワネットを演じてもらって、最後までじっくりと絡んでもらいたい、というファンの要望が強かったのです。オスカルとアントワネットでは、王太子妃時代のアントワネットがオスカルを男性と勘違いしてちょっとどぎまぎするくだりがあるものの(といっても宝塚歌劇版ではほとんどこの描写がないのですが)、結局のところは同性同士なのであって、信頼や友情は描けても、宝塚歌劇を宝塚歌劇たらしめている美しいラブシーンはこのコンビでは望めないからです。
 片や宙組の現男役トップはいかにも「白い王子様」というタイプで、この人のオスカルが見てみたいというファンもまた多かった訳です。

 さらにこれに関して、私は思うところがありました。オスカルを男役の役者が演じることは、はたして正しいことなのだろうか、ということです。

 宝塚歌劇団の役者はすべて女性です。芝居の中の男性キャラクターを男役が演じ、女性キャラクターを女役が演じる、というのが原則な訳です。
 もちろんいくつかの例外はあります。たとえばどちらも輸入ミュージカルですが、『WEST SIDE STORY』のアニタや『ME AND MY GIRL』のジャッキーは宝塚歌劇版では男役がそれぞれ演じました。宝塚歌劇版『風と共に去りぬ』には『ベルばら』のように「バトラー編」と「スカーレット編」というバージョンがあって、「スカーレット編」では男役トップスターがスカーレットを演じました。

 これはまあいいとしても、オスカルというキャラクターは「普段は男装をしている女性」なんですね。そういうキャラクターを、「本当は女性なんだけれど普段は男性の役をしている男役」が演じると、なんだかそういう男役の虚構性を暴かれている気がするというか、男役・女役の約束事を破っているようで、私はおちつかない気にさせられるのです。
 私はアニタもジャッキーも娘役が演じるべきだと思っていますし、『風共』は「バトラー編」だけで十分だと思っています。
 オスカルも、娘役が演じるべきなんじゃないだろうか、とこのとき思ったのです。特に星組のこのときのトップ娘役が、もちろん楚々として可憐でもあるのだけれど、強く凛々しい面もあるといったタイプの娘役だったため、軍服の着こなしはもちろん難しいだろうけれど、ちょっと見てみたいよなといった気にさせられたのです。

 でも、宝塚歌劇が最もおもしろいのは、男役トップと娘役トップと二番手男役とのトップ・トリオのメナージェ・ド・トロワがビシッと決まったときではないでしょうか。男同士が親友だとかライバルだとか敵同士だとか、ふたりの男が女を争うとか、男が愛した女はもうひとりの男が好きでとか、男が愛した女は憎んだ男の妹でとか、そういう絡み合いですね。
 男同士には友情も対立もありますが、男女となるとやはり恋愛の形になります。そうなるとやはり、娘役トップがアントワネットをやる以上、その恋人であるフェルゼンを男役トップがやり、二番手男役が、本来は女性という役所ですがオスカルをやる、という形が最も美しいように思います。

 男役スターの女装(?)姿が見たいという屈折・倒錯した嗜好がファンにはあって、ショーなどではよくそういうシーンが設けられたりするのですが、一方で、今回の星組バージョンに関しては男役トップを女性の役(オスカル)で退団させることに異議を申し立てるファンも多く(このバージョンでのオスカルは終始軍服で、女姿のシーンがないにもかかわらず)、やはり男役にはバリバリの男姿を望みたい、という気持ちもよくわかります。そもそもそれが宝塚歌劇の宝塚歌劇たる所以なのですから。

 でも、だから、二番手男役ならば、本当は女性、という役所をやることも許されるかな、とも思うのです。

 フェルゼン、アントワネット、オスカルの三人は同じ年生まれという設定になっていますが、やはり本当は女性であるオスカルの方がフェルゼンよりも線が細くなります。ニンにもよりますが、学年が上の分、トップの方が二番手より大きく頼もしくあることが多く、この点でもフェルゼンをトップが演じる方が収まりがいいということになるでしょう。
 この形で、トップコンビの不倫の恋、二番手のトップへの秘めた恋、トップ娘役と二番手男役の友情と信頼、意見の別れ(さらに二番手と三番手の身分を越えた愛もある)、というのを緊密にやってくれたら、本当に見応えあるものができると思うのですが。

 もちろん、フェルゼンというのはかなりの辛抱役で、なかなか魅力的に見せるのが難しい役でもあります。出番もどうしても少ないですしね。
 逆にオスカルというのはどうやっても目立つ役で、二番手にはとてもおいしい役、儲け役の最たるものです。でもまあ、たとえば男役トップがアンドレを演じたバージョンなどもあるように、その役者が役は地味でも舞台全体を支えるような包容力を見せられれば、芝居は十分成立するのだと思うのです。
 フェルゼンは、アントワネットとオスカルというふたりの女性に愛される男です。そのそれぞれを、輝かせてあげられる男性だとも言えます。相手のいいところを引き出す形の男性像、というのもなかなか新しく(というか現代的?)、いいものなのではないでしょうか。
 それに、私は、わりと宝塚歌劇版では軽視されがちな、アントワネットとオスカルとの友情や信頼といった面がものすごく好きなのですが、もしもトップコンビがこのふたりを演じてきちんとこれをやってしまったら、それはもう宝塚歌劇ではないかもしれない、とも思うのです。きちんと恋愛はするけれども男に殉じるでもなく、自分の考えで自分の道を突き進む、ふたりの女を描くことになるのですからね。
 宝塚歌劇は女性のための娯楽なのですが、私は恋愛を信じているので、宝塚歌劇が恋愛をいらないと言うようになったらこの世は終わりかななどと思ったりもするのです。

 という訳で、以下、私なりの「完全版」をでっち上げてみました。このまま脚本まで書いてしまいそうな自分が怖いです。
 それにしても、全国にこんなことをしている心あるファンはごまんといるでしょうに、当の歌劇団の脚本は年々改悪されているきらいがあるというのは、どうしたものでしょうかね。

(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

池田理代子 『ベルサイユのばら』『ベルサイユのばら外伝』

2010年02月26日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名あ行
 正編は集英社マーガレットコミックス、全10巻。
 外伝は中公文庫コミック版。

 1755年、ヨーロッパにある三人が生まれた。スウェーデン貴族のハンス・アクセル・フォン・フェルゼン。フランスのジャルジェ伯爵家の末娘、オスカル・フランソワ。そしてオーストリア・ハンガリー女帝マリア・テレジアの第9子マリア・アントニア、後のフランス国王ルイ16世妃マリー・アントワネットである…フランス革命を背景に交錯する三人の生涯を描いた歴史絵巻。

 確か小学生の頃、おたふく風邪で学校を休んでいたときに、従姉妹がお見舞いにくれた単行本だったと思います。お下がりなので一部カバーなし(泣)。

 一番好きなシーンは、オスカルが女装(! 盛装して、と言うべきでしょうな)してフェルゼンと踊るくだり。
 着飾って好きな人と、というのもいいんだけれど、誰でも、人が自分に聞かれているとも知らず自分を誉めて言ってくれるのを聞くのって、うれしいと思うんですよ。それがまして好きな人の口から語られるんだから、最高に幸せなんじゃないでしょうか。ここのオスカルの涙に、読むたび一緒になってうれしくなってしまうのです。

 「2001」と銘打って再び宝塚歌劇で上演されるんですが、はたしてどうなりますことやら。下手に大時代的に演出しないでほしいんですけれどね。

 宝塚ファンの間ではその台詞から「今宵一夜」と呼ばれているオスカルとアンドレの一夜のシーン(原作では「こん夜ひと晩」)ですが、やはりいいですね。
 オスカルが
「生涯かけてわたしひとりか!? わたしだけを一生涯愛しぬくとちかうか!?」
 とアンドレに返事を強要するところがいいのです。
 愛しているから全部あげるなんてもんじゃない、愛しているといったらそれは絶対に一生のことなのだ(「あげる」から一生、なのではないことに注意)、それを当然のこととして要求する権利が女にはあるのだ、ということをこのシーンは教えてくれるのです。

 かつて宝塚版ではこのくだりのオスカルがやたらと女々しくてファンの間でも論争になったそうですが、ここにこのシーンの本質があることを理解しなければいけません。
 読んだ当時はきちんと理解していたとは思えませんが(^^;)

 最近では、このシーンには、身分の差があって法律的な結婚はできないけれど、すべてを与え合うことでお互いを「夫」「妻」と呼ぶ、というところなんかいいなあと、この年になると思います。
 ちょっと平安時代の日本の貴族の結婚みたいですね。事実婚というか。
 でも、そもそも結婚って、夫婦って、そういうものですよね。社会契約の側面を除けば、「夫」「妻」というのはつまり「彼氏」「彼女」と同じ、恋人の名前なのですから。(2001.4.2)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竹宮惠子『風と木の詩』

2010年02月25日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名た行
 小学館フラワーコミックス全17巻

 19世紀後半。かつて父がその青春時代をすごした南仏のラコンブラート学院に、セルジュ・バトゥールはやってくる。学院の問題児ジルペール・コクトーと寮で同室になり、ふたつの魂の相克が始まる…少女漫画史に燦然と輝く金字塔。

 小学校高学年の頃に単行本で読みました。学校で休み時間に読んでいて、クラスメイトに
「何読んでるの? わ、ヤラシー」
 と言われたときには、その子をひっぱたいてやろうかと思ったこともありました。当時すでに、これは世に言われているような少年愛漫画なんかではないと考えていたからです。
 狼少年じゃないけれど、人は人に育てられないと人になれないのだ、ということを知った作品でした。

 オーギュストは父と兄の歪んだ愛情を受けて育ちそこね、それを倍増してジルベールにぶつけてしまった。だからジルベールは人の愛情を肌でしか計れなくなってしまった。学校や社会といった共同体で生きていけなくなってしまった。それはまっとうな人のあり方ではない。人種差別を受けながらも両親の深い愛情によってまっすぐに育ったセルジュをもってしても、ジルベールを変えることはできなかった。ジルベールはオーギュを追って馬車に轢かれたのだから…
 なんてひどい物語でしょう。人間が人間の尊厳をどこまで痛めつけられるかという物語なんですもの。セクシャルでセンセーショナルだった部分や、当時の少女漫画の読者にとって主人公が少年たちであったことの意味、同性愛が描かれたことの意味などにも深いものがあるとは思いますが、私にとってはこの作品は、以上のことに尽きるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竹宮恵子『ファラオの墓』

2010年02月25日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名た行
 小学館フラワーコミックス全8巻

 紀元前1700年頃のエジプト。エステーリアはウルジナの侵攻に会い滅亡する。第二王子サリオキスは妹姫のナイルキアを河に流して逃がすと、自身は砂漠へ逃れるが…今も残る「エステーリア戦記」を伝える大ロマン。

 卑近な感情移入など拒むような高潔なキャラクターたちと、手に汗握る大冒険、醜い政争、戦争の悲劇。時代を超えた名作ですね。よくできたNHK大河ドラマでもこれだけのものはなかなかないんじゃないでしょうか。
 私は昔からアンケスエンがけっこう好きでした。あんまり読者に人気なさそうですけれどね。戦時下の女の生き方を説く彼女はひたむきで正しい。そしてスネフェルとナイルキアのあまりにも悲劇的な恋にかき消されがちですが、アンケスエンとサリオキスの恋のまた悲しくかつ激しいものだったと思います。そしてまた、アンケスエンとスネフェルとの間にありえたかもしれない恋も…
 かわいらしい少女が苦手と言いつつ産み出した、清潔なナイルキアの存在もすばらしいものでした。そしてもちろん、竜虎サリオキスとスネフェルも。
 余談ですが、私はこの作品を宝塚歌劇で翻案して上演してくれないかしらんと夢見たことがあります…「そして今でも…」(『カサブランカ』イルザふうに)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする