駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『アナスタシア』

2020年03月26日 | 観劇記/タイトルあ行
 シアターオーブ、2020年3月25日13時半。

 20世紀初頭、帝政末期のロシア、サンクトペテルブルク。ロシア皇帝ニコライ2世の末娘として生まれたアナスタシア(この日は西光里咲)の宝物は、パリへ移り離ればなれになってしまった祖母マリア皇太后(麻美れい)からもらったオルゴールだった。宮廷で家族と幸せな日々を送るアナスタシアだったが、突如ボリシェビキ(のちのソ連共産党)の攻撃を受け、皇帝一家は滅びてしまう。しかし街中ではアナスタシア生存の噂が広がっていた。パリに住むマリア皇太后はわずかな希望にすがり、アナスタシアを探すために多額の懸賞金を懸ける。それを聞いたふたりの詐欺師、ディミトリ(この日は相葉裕樹)とヴラド(この日は大澄賢也)は、アナスタシアによく似た記憶喪失の少女アーニャ(この日は木下晴香)を利用し、賞金をだまし取ろうと企てるが…
 脚本/テレンス・マクナリー、音楽/ステファン・フラハティ、作詞/リン・アレンス、演出/ダルコ・ドレスニャク、振付/ペギー・ヒッキー、美術/アレクサンダー・ドッジ、翻訳・訳詞/高橋亜子。アナスタシア伝説をモチーフにした1956年の映画『追想』をリメイクした1997年のアニメ映画『アナスタシア』をミュージカル化、2017年ブロードウェイ初演。全2幕。

 アニメは未見。ナンバーのひとつ「遠い12月」しか知りませんでしたが、宙組公演の予習として出かけてきました。初日開いてすぐに新型コロナウィルスの影響で休演していましたが、劇場入り口で体温チェックもして、アルコール消毒して、マスク推奨で、ホワイエや客席での飲食も禁止して再開され、私がチケットを持っていた回も無事に上演されたのでした。おりしも脚本家テレンス・マクナリー氏がコロナ感染による合併症で亡くなったとの訃報が入った日であり、宝塚歌劇の再々度の公演中止延長が発表された日でもありました。雪組東京千秋楽は前楽ともどもなんとか劇場に観客を入れて上演され、大楽は映画館でのライビュは中止されたもののスカステ生中継ということまでやってくれたわけですが、星組東京公演の初日の幕は上がらず、花組大劇場公演初日も再び延び、宙組の別箱公演ふたつも最初の2日が飛びました。私は宙別箱はどちらも初日から観劇予定でしたので、ことのほかショックでした…が、返す刀で振り替えや追加を依頼しました。オスマン帝国にも水星にも絶対に行ってみせる、まずはペテルブルクそしてパリへ…と、万全の支度をして渋谷に赴いたのでした。
 外部の公演には開演アナウンスはないので、1幕最初のナンバーが終わって自然と拍手したときに、「ああ、舞台に向けて、演者やオケやスタッフさんたちに拍手が送れる嬉しさよ…!」と心震え、ラストのラインナップに手拍子を入れられる楽しさにも酔いました。ポツポツ空席もありましたが、よく埋まり、拍手も温かな、集中した良い空間でした。確かにいつもより空調が効いていてすうすうするのを感じましたが、肌寒いということはなく、端の席でも観やすく聴きやすい劇場で、快適に観劇しました。
 ただ、内容的にはいろいろ思うところがありました。ザッツ海外ミュージカルだな!というのが率直な感想です。宝塚歌劇化するにはもっといろいろ改変したいし、単純に作品としてのクオリティを上げるためにももっともっと手を入れたい、と私は思いました。もちろん私はなんの権限も持たない、一舞台ファンにすぎないのですが。
 以下ネタバレ全開で語ります。未見の方や内容を事前に知りたくない方はご考慮ください。

 というわけでそもそもはタイトルロールたるアナスタシアが主人公の、まあ一代記というほどではない物語ではありますが、同じタイトルのままでいくにしても宝塚歌劇にするならトップスターが主人公でトップ娘役とのラブロマンス、にきちんと変換しなければなりません。なのでまずはディミトリの出番をどう増やすかが問題なのだけれど、まずは冒頭、のちに話に出るパレードの場面を入れた方がいいと思うんですよね。
 皇帝一家が馬車に乗って街をパレードして、それを幾多の民衆が見守る。戦勝イベントか建国記念か皇帝生誕祭か何かわかりませんが、とにかくなんかそんなイベントがあった、ということでしたよね。馬車はどーするんだ、とかの問題はさておいて、この場面はあった方がいい。あとで「そんなことがあったわね」と後出しするのではなくて、あとで「あのときのあれか!」となった方がいいのです。なんといっても、ふたりのファースト・コンタクト場面なのですから。
 役がないので増やすためにも子役を立てたいところですが、でもちゃんとまかまどで観たいなー。ふたりとも幼い演技がちゃんとできると思うんですよね。馬車の中で微笑む皇女と、目が合って沿道でお辞儀をする少年…絵になります。
 そしてここで、ディミトリのキャラクターをもっと立てたい。おそらく彼はアナーキストである父親に連れられてこのパレード見物に来ているのでしょう。となれば父親は皇帝一家に敬意を持って見守っているわけではない。思わずお辞儀しちゃった息子を叱ったりしたかもしれない。そこで帝政ロシアの問題点とかも語らせて、父親の思想と、そんな彼に育てられたディミトリの立ち位置をきちんと見せたい。そして、それがそのまま大きくなって革命後は日雇い労働者、実は詐欺師…みたいに見せるくだりになったときに、次はもっと性格その他を見せたいです。
 現状、彼には「詐欺師」という肩書きみたいなものしかなくて、キャラクターがないのです。ヴラドと組んで詐欺を働いている、というのはわかる。でもたとえば、実は嫌々やっていて、人を騙すことに罪悪感を感じている、本当は優しくて真面目で純朴な青年…なのか? それとも、革命後もたいして良くならない世の中に絶望して厭世的、冷笑的になっている、クールで冷酷な男なのか? あるいは口八丁手八丁で陽気な明るい天性の詐欺師、深いことなど何も考えていないお調子者、なのか? そういう性格設定、キャラ立ちが全然見えてこないままに話が始まるので、観客が彼に感情移入し、応援して物語を追いたい、という気持ちになれないのです。そこが弱い。なんなら名前すらきちんと明かされないままに始めるのとか、ホントやめてほしいです。演出としてヘタすぎる。
 まあ宝塚歌劇はファンが観るものだし他組ファンでもトップの顔くらい知ってるだろうしスポットライトは当たるしなんなら他の民衆よりいい服着ちゃってて目立つだろうから、誰が主役かわからないなんてことはまずありません。でもそういうことに甘えて作品を作っていてはいけないのです。まず一番に誰かに「おい、ディミトリ」と声をかけさせ、彼の名前を呼ばせる。観客に知らしめる。そしてその応え方で彼の人となりを見せる。「俺のペテルブルク」を待たず、「ペテルブルクの噂」のリードを歌わせながら、彼がどんな人間で今までどうやって育ってきて今はどう暮らしていて将来どうしたいと思っているか、をしっかり見せる。でないと観客は彼を主役だと認識しません。それが現状まったく足りていません。
 アナスタシア詐欺をやろうとする経緯もまったく不明なんですよね。今まではどんな詐欺をしていたのか、何故偽者を皇女に仕立てようと思ったのかがまったく描かれていないのは問題です。報奨金欲しさか、ロシアを出たいということなのか、パリへ行きたいということなのか、マリアの鼻の穴を開かしたいということなのか。これは全部少しずつ違うことです。最初に彼の望みをきっちり掲示しておかないと、アーニャと出会い、事態が進んでいく中で彼の思惑が当初とズレていってしまうことによるドラマが追えなくなるじゃないですか。その変化と捻れがおもしろいんじゃないですか、ドラマの盛り上がるところ、見せどころ、キモじゃないですか。ここがゆるいんだもん、あまりにもヘタすぎます。
 一方、アーニャもキャラが弱いのが気になります。宝塚版では役を増やす必要があることもあり、道路掃除婦仲間なんかを作って、その中で彼女の人となりなんかを見せたいところですね。役者はプログラムの対談で「小学生のときに、男子の友達の方が多くいた女子」「女の子たちとおままごとするより、男の子たちと一緒に虫取り行ってました!みたいな」とアーニャのイメージを語っていますが、具体的に表現できる場面やエピソードがないので、印象として弱いのです。そりゃディミトリたちに対して意外とおてんばっぽかったりお行儀悪かったり気が強かったりするような部分は出ていて、元気で好感が持てていいんだけれど、でも表現として弱いと思うのです。もちろん、ずっとひとりで生きてきてロシアの半分を歩いて移動してきたような設定なんだから、孤独で、友達なんかいない境遇なのかもしれないけれど、でも周りに上手く人を置かないとその人の人柄は表現できないものなのです。そこがヘタ。
 人となり、人柄、性格の描写、つまりキャラ立ちが弱いと、ディミトリもグレブ(この日は山本耕史)も彼女のどこにそんなに惚れるの?ってなっちゃうでしょ?
 そうそう、宝塚歌劇的にはやはりまかまどの出会いの方をまどキキの出会いより先に置くべきです。冒頭の子供時代のパレードの場面はノーカンだから、何か印象的ないいエピソードを作っていただきたいです。そのあとのアーニャとグレブの出会いは、今くらいでもいいかと思います。そしてここは、鬼のグレブも美人には甘い、ということではなくて、表向きは仕事として冷酷無比な顔でやっているけれど、一度演台を降りればわりと普通の人間で、たとえば栄養失調でフラフラしているような掃除婦にも優しく声をかけるよ、というようなセンでいっていただきたいです。今、なんか中途半端だと思いました。グレブはいい萌えキャラなので、美人に安易にフラフラする男として描いてほしくないのです。
 海外ミュージカルあるあるで、この作品も基本的にナンバーが中心で芝居パートがほとんどなく、特に1幕はキャラが布陣しただけで話はイントロでしょ?程度のところまでしか進まなくて終わります。そして2幕になると俄然芝居パートが増えるんだけど、ここがまた未整理やら足りないやらでせっかくのモチーフが全然盛り上がらなくて、私は観ていてイライラしました。これは改善していただきたいです。
 ディミトリの当初の望みを明示してほしい、と言ったのと同様に、アーニャの望みも明示してほしいです。そもそも彼女は自分が皇女だと本当に考えていたのでしょうか? なんだかよくわからなかった気がしました。記憶を取り戻したいのか、家族を取り戻したいのか、本来の立場を取り戻したいのか、ディミトリたちのために小金を稼いであげたいのか? これも、どれもちょっとずつ違うことです。彼女の当初の望みがどれなのかしっかり決めて、提示しないといけません。それがマリアの思惑とは違う、ディミトリの思惑とは違う、すれ違っていく、捻れていく…そこにドラマの醍醐味があるんじゃないですか。なのに今、誰の何と何がどう対立していてどう問題になっているのか、さっぱりわかりません。だから盛り上がりに欠けるのです。ただそれぞれがヒステリックに叫び合うだけの流れになっちゃっています。それじゃダメでしょ?
 それに肝心の、アーニャがマリアと対面する場面がないのも謎なら、マリアとディミトリが対峙する場面がないのも謎です。ディミトリはアーニャはただの掃除婦だと思っていて、アナスタシアに仕立ててマリアを騙し報奨金を手に入れて、その金でバリで遊んで暮らす…みたいなことを考えていたのではないの? でも、明るく優しいアーニャを好きになった。だから今度は、お金なんかもらえなくても、手に手を取ってふたりで逃げてどこかでふたりで生きていくことを一瞬は夢見た。けれど、アーニャが教えてられていないアナスタシアに関する知識なんかをぽろぽろ出してくるに至って、もしかして本物の皇女なのかもしれない、だとしたら自分とは身分違いだ、だから自分は身を引こう、彼女をマリアに預けて自分は消えよう、お金なんか要らない、俺が望むのは彼女の幸せだけだ…となる、って流れになるべきなんじゃないの? それをマリアも認めた、ということなのではないの? せっかくのあのお辞儀が効いてないよ??
 一方アーニャはマリアに孫だと認められずに傷ついて、ディミトリを詰りますが、なんでそうなるのか私にはよくわかりませんでした。嘘をつかせたことを詰るような台詞もありましたが、記憶が戻って自分が皇女だと自覚しているなら、それは嘘ではないのでは? 皇女としての復権だとかロマノフの遺産を継ぐとかなんかは望んでなくて、ただ世界にひとりだけ残った家族に会いたかっただけだということなら、自分を孫だと認めてくれないマリアに怒るべきなのでは?
 それと、家族に会いたい、祖母に孫だと認められたいという想いよりも、一緒に旅してきたディミトリとまだまだ一緒にいたい、この先もずっと一緒にいたい、偽者扱いされるならもうそれでいいからふたりでどこかへ行きたいと思うようになったのに、ディミトリが一線を引こうとするのが悲しくて…みたいな流れなんじゃないの? 愛し合っていると思っていたのに、私の思い違いだったの!?みたいなメロドラマになるべきなんじゃないの??
 今、アーニャの望みが当初はなんだったのか、アナスタシア・レッスンをするうちにどう変わったのか、マリアに会って、また拒否されてどう変わったのか、がきちんと追えないままに話が進むので、せっかくのすれ違いやボタンの掛け違いのメロドラマにも萌えられないのです。ああ、もったいない。
 そしてマリアもよくわかりません…DNA鑑定なんてもののないこの時代、偽者は何人も現れて辟易していて、そこにオルゴールひとつでマリアは本当にアーニャを孫娘だと確信できたのでしょうか? 真相はわからないしむしろどっちでもよくて、でもマリアはディミトリとアーニャが愛し合っているのを見て取ったので、ふたりが一緒にいられるよう仕向けた…とかなのではないの? 今、一度は拒否して、次に認めて、でも出ていくのを容認するとか、ワケわかりません。
 グレブは、まあいいです。本物の皇女なら暗殺しなくてはならない、偽者なら自分の妻にしたい、彼女に惹かれている、しかし彼女は俺を愛していない、だから殺してやりたい、だが殺せない…みたいなドラマは、わかりました。イヤ十分わかりづらかったけれど、2番手のドラマだから重要度としては後回しにしてもいいわけです。肝心の主役カップルのドラマがきちんと描けていない方が断然問題です。
 報奨金ももらわず、以前と同じボロを着て、パリを去ろうとするディミトリの前に、記者会見から逃げ出してきた、王冠も付けたままのドレス姿のアーニャが現れる。トランクに乗って目の高さを合わせ、ゆりかちゃんにキスするまどか! ここはまんまやりましょうね!! で、お金も地位も要らない、お城も宮廷も要らない、お互いがいればいいの、でハッピーエンド。お話としては、よくできていると思います。
 私はこの物語は、記憶喪失のアーニャが本当にアナスタシア皇女だったのかどうかはわからないままにお話が終わる、あるいは本人も悩む…みたいなところに眼目があるのかと思っていたのですが、プログラムではアニメ版に関してですが「記憶をなくした皇女アナスタシアが、自分自身の過去と愛する家族、そして、心のよりどころを見つける旅路を描いた作品」とズバリ総括していて、アーニャがアナスタシアであることは規定なのですね。そこがなんかひとつ、掘り下げ甲斐があるところをあっさり埋めてしまっている気もしてもったいなくも感じました。
 ともあれその気になれば90分で十分にまとめてしまえるお話なので、芝居を足し役を足しさらにショーアップしないとしんどいぞ、というのが正直な印象です。おそらく先方も改変には協力的だと思われるので、ぜひ期待したいところです。
 ディミトリと常に一緒にいるヴラドは大きく見える役ですが、年齢設定を下げてずんちゃんとかにやらせるのでしょうか…ま、おじさんのままでもできそうですが。それか、そら? マリアは上級生娘役がやっちゃうのかなあ、となるとリリー(この日は朝海ひかる)くらいしか他に役がないんだけれど、これもあまり路線っぽくない役なのでららとかじゅっちゃんとか夢白ちゃんってのもどうなのよ?という感じで、いろいろ心配ではあります。

 さて、木下晴香ちゃんは上手で綺麗で、過不足なかったです。相葉くんも素敵、山本くんも素敵、そして大澄さんがさすがすぎました。コムちゃんももちろん素敵。でもダブルキャスト、トリプルキャストは他の役者も観てみたかったです。
 ターコさんは歌は私にはあいかわらず謎に感じられましたが、さすが皇太后陛下の貫禄とたおやかさ、まろやかさは素晴らしかったです。
 映像だの装置だのも意外と大仰でなくてよかったです。トロイカ、マズルカ、チャールストンそしてロシアバレエと、この時代のいろいろな楽曲やダンスが見られたのも楽しかったです。お衣装も素敵でした。
 ところで額に付けるマイクは線が青筋みたいに見えて私は気になります…前髪で隠せる人はいいんだけれど…
 生オケはさすがよかったです。今どき贅沢だなあ、ありがたいなあ。
 機会があればアニメも観てみたいです。そして宙組公演、楽しみにしています。ちゃんと初日から行くから、予定どおり幕が上がりますように…!
 確かにエンターテインメントは不要不急のものかもしれません。でも人はパンのみにて生くるにあらず、です。というかパンもサーカスも与えられない政府そこ要らないよ…次の選挙、絶対見てろよな。そして新たな世をしっかり作っていきましょう。まずは体調管理を万全に、元気に楽しく、よく食べよく寝てよく手を洗い、免疫力を上げていきましょう。
 負けないぞ!!!






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宝塚歌劇雪組『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』

2020年03月14日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 宝塚大劇場、2020年1月12日11時。
 東京宝塚劇場、2月27日18時半。

 1920年代のアメリカ、ニューヨーク。マンハッタン島東南の場末、ローワー・イーストサイドには、政変のロシアや極貧の東欧から多くのユダヤ人が移住していた。誰もが新大陸での成功を夢見ていたが、現実は厳しいものだった。デイヴィッド・ヌードルス・アーロンソン(望海風斗)は幼い頃から裏社会で自らの手を汚して生きていた。マックス(彩風咲奈)、コックアイ(真那春人)、パッツィー(縣千)、ドミニク(彩海せら)ら信頼する仲間同士が寄り添い、非合法の世界に根を下ろすしか生きていく術がなかったのだ。ヌードルスには恋い焦がれる少女がいた。仲間内でただひとり正業に就き、親のダイナーを手伝っているファット・モー(奏乃はると)の妹デボラ(真彩希帆)だ。この土地を離れ、日の当たる場所へ抜け出し成功者になる、とヌードルスと女優志望のデボラは互いの夢を語り合い、自分たちの未来に思いをはせるが…

 大劇場での観劇は、友会が当たってSS最前列でのマイ初日となりました。ご縁があればなるべく生徒さんからチケットを買いたいと思っいて、東京はそれで手配していただいて観劇した回が、結局マイ楽となってしまいました。お友達に翌週の新公を手配していただけることになって舞い上がっていたところだったのですが、幕間に翌々日から3月8日までの公演中止発表を知ったのでした。政府が不要不急のなんちゃらみたいなことを言い出したときから悪い予感はしていたのですが、なんとかがんばってくれるのかもしれないと思っていただけに、しょんぼりでした。
 ただ、星組大劇場千秋楽は無事に9日に幕が上がり、袴のみつるも無事に大階段を降りて幕を下ろし、雪組東京公演も9日はもともと休演日でしたが無事に10日から、換気やアルコール除菌、検温、マスク装着、店内売店の営業中止などなど万全の体制で再開されました。さすが宝塚歌劇、と思いました。どのみち罹るときは罹るんだし、ある程度健康なら罹っても重症化しないと聞くし、もちろんなるべく罹らないよう移さないように必要な準備はするんだけれど、何もかもナシにしてただ家に籠もっていたら世界は終わるので、きちんと対策しつつなるべくいつもどおりの生活を続けた方がいいに決まっているのです。ファンの間にも、体調が悪いなら絶対に行かない、健康ならきちんと支度して元気にでもおとなしくでも熱く楽しく舞台を見守るのみ…!という気概が漲っていました。おもしろおかしく取り上げようとするマスコミの取材もあったようですが、おおむね毅然と無視していたようでした。なので中止期間中にあった新公も、再開したらどこかの水曜か金曜の夜にねじ込んでもらえるのでは、そしてチケットをそのままスライドさせてくれるなら私も観られるのでは、と密かに希望を抱いていました。すわっちのラスト新公にしての初主演をこの目で観たかったし、あがちんマックスとか良さそうだしあみちゃんジミーが大評判だったので、本当に楽しみにしていて、お友達たちとのごはん会の予定なんかも入れないで、空けて待っていました。中止になった日に上級生やスタッフの前でだけ上演したとかいう噂も聞きましたが、やはり舞台は一般の観客がいてなんぼでしょう。
 けれど、政府はさらなるイベント自粛要請の期間延長をしてきました。全国一斉休校騒ぎも同時でしたっけ? あいかわらずなんの根拠もないままに、事態がどうなったら再開でどうなったら中止延長なのかの明確な説明もないままに。そもそも現状の明確な説明からしてほとんどないし、あったとしても信用できないわけです。なんせ領収書も明細も議事録も公文書もない政府なんですからね。
 なので従う義理なんざない、引き続きできる限りの対策をして自己責任でショー・マスト・ゴー・オンだよ!…と思っていましたが、やはりなんらかの圧力はかかるものなのでしょう、宝塚歌劇は再度の公演中止を発表しました。悔しさのにじみまくる発表文でした。政府が言う19日までの中止です。20日には東京オリンピックの聖火が日本にやってくるらしいので、政府はそこから五輪万歳の空気を作りたくて仕方がないのではないか、と申し訳ありませんが私は邪推しています。私はずっと、日本開催なら福岡を推していて、東京開催に関しては反対してきました。今も反対です。今や延期ではなく中止にすべきで、ロンドンだけでなく世界のどこでも今回は開催が難しいのではないでしょうか。まずは健康でないと、スポーツも平和の祭典も何もあったものではないと思います。聖火は採火されたもののギリシア国内のリレーを中止しました。いろいろともう無理なんですよ、責任者とされる方が一刻も早く決断するべきだと思います。なんかWHO待ちみたいになってるの、おかしくないですか?
 …脱線しましたが、そんなわけで宝塚歌劇は、なんとしても22日の雪組東京千秋楽の幕は上げるべく、今は雌伏しているのでしょう。信じて待ちたいと思います。13日が初日のはずだった花組大劇場公演は、再開したその日が初日です。新トップコンビのお披露目本公演を、みんなで寿ぎたく思います。
 雪組が20日から再開されたとしても、週末はマチソワ公演ですし再開初日の夜公演に急遽新公をねじ込むとはさすがに考えられないので、やはり私の観劇はこれ以上はないでしょう。毎回ここの記事はマイ楽を終えたら書くことにしていて、最初の中止のときにも「まだチャンスはあるかもしれないから」と粘っていたのですが、現実を受け入れて、書き出すことにしました。
 ただし、そんなわけで東西1回ずつしか観劇していないので、いくら贔屓の卒業を見送って観劇回数も減るだろうとは思いつつも今までもまあまあもう少しは観られていただけに、近年では最小観劇回数の本公演となってしまい(別箱なら1回しか観ないことはむしろ通常運転なのですが…)、あまりディープにかつ細かくは観られていないかもしれません。でも、なんせ真ん中のたまさくが好きだし主要メンバーみんな好きなんで目が足りなくてタイヘン、な月組や、贔屓がいないとなると逆に見るとこなくてむしろ娘役ちゃんばっか見ちゃうんで「あんた、娘役群舞になるとオペラグラス上げるんだね」と親友にも笑われた宙組、らいととだいやをつい探してしまう花組とかりんちゃんをついつい追っかけてしまうだけの星組と違い、あやなが好きなはずなのに最近あがちんがグイグイ来て困るわでもまだ大丈夫よ、くらいな雪組は、今の私にとって一番フラットに全体を観られる組なので(個人の見解です。ちなみにだいきほは大好きだし雪娘もりさみちるひまりかのと大好きです)、少ない観劇数ながら演目そのものを堪能したなあ、という印象がとても強い公演となりました。この演目、私はとても好きです。今回はそんな話です。
 毎度前置きが長くてすみません…

 さて、私は映画は未見です。今回の舞台では映画からどこがどう改変されていたか、の解説ブログなんかをふたつほど読んだ程度です。ま、とてもよくイケコナイズ、宝塚歌劇ナイズされているのでしょうね。デボラやキャロル(朝美絢)センター場面でのショーアップぶりや、特に1幕はヌードルスとデボラのラブストーリーに寄せていて2幕はヌードルスとマックスの友情や確執のドラマを描く感じなど、イケコの手だれっぷりを感じました。私にはなんの不満もないです。描かれていない部分はあえて描いていないのだと思えるし、基本的にヌードルスが主人公なんだから彼が知らないことは明かされないのが当然で、人生ってそういうもので、そういう多少のあいまいさとか不可解さとか謎とかつじつまの合わなさがまさしく人生そのもので、これはそういうことを描きたかった作品なのであり、タイトルは「かつて、アメリカで」だけれど私たちはこの時代のこの国のこともそこに生きた人々のことも本当の意味では知りえなくて、でも要するに「今、東京で」とか「いつかの、どこかで」の人間同士の物語である、ということはひしひしと感じ取れるので、それで十分なのである…という作品なのだと思いました。
 ハッピーエンドとは言いがたいし、多少は地味かもしれないし、確かにせつなくてしんどい話でもあるかもしれません。そういう意味で、好みでないと判断する方ももちろんいるでしょう。そして私は好みとして好きなので、いい作品だなーとマイ初日は本当にしみじみしました。初日には行けませんでしたが、あまり前情報を仕入れずに観られたのもよかったんだと思います。キャラクターにも役者にも特段の予断がなく、でもヌードルスやデボラやマックスやキャロルの想いに心寄せながら、ストーリーを追えました。もちろん宝塚歌劇的にも、この演出いいなとかこの転換上手いなとか感心しながら観られました。だいきほホントなんでもできるな、とかね。最近味が出てきてホントいいよなと思っているナギショーがまたまた良かったのもよかったです。とはいえ役の数自体は少ないかもしれない、とは思いましたが、それは原作ものあるあるですしね(オリジナルでも役が作れない座付き作家も残念ながらいますしね…)。フィナーレも素敵でした。
 私はだいもんも咲ちゃんももちろん好きですが、それはフツーの好きなので、もっとがっつり萌えモエで好きでかつもう少し回数を観られていたら、長官になってからのマックスがジミー(彩凪翔)に追い詰められてヌードルスに連絡して…からのドラマにもっとのめり込み執着し追っかけとことん考えたことでしょう。自分を責め、相手に悪いと感じ、どうせ死なねばならないのなら相手に殺されたいと考えるに至る想い…重くないわきゃないですよね、いいわー。
 そしてマックスとデボラの再会やその後の展開についても、もっと萌えモエで考えたことでしょう。私はマックスはキャロルとはあくまで遊びでずっとデボラが好きだったんだ、なんてふうには思わないし、デボラはマックスのことをヌードルスを悪の道に引きずり込んだ男としてむしろちょっと嫌う、くらいのところがあったかと思っています。でもお互いいろいろあって、いい歳になって、それこそ人生の後半にたまたま再会した。お互いの仕事のことやキャロルの存在もあった。それでもそこに芽生えた何かがあったということで、それを愛とは呼べないなどと外の誰かには言えないものだと思うのです。私は、デボラはヌードルスに本当にバーティーに来てもらいたくないと思っていたと思います。今一緒にいる人の方が大事、というのはとても自然なことだと思います。ヌードルスが去り、銃声が響き、デボラがマックスの部屋に入ってその姿を見て、顔を覆い天を仰ぐ…その姿を見せるイケコの手腕に唸りました。そういう人生を、ドラマを、宝塚歌劇の枠の中できっちり描いて見せている。長年温めていた企画だというのもあるかもしれないし、今のだいきほ(次の本公演での卒業が、東京お稽古最終日翌日に発表されました)がそれを十全以上にやってみせて、イケコの代表作のひとつといっていい仕上がりになったのではないでしょうか。少なくとも『るろ剣』はこの域にはなかったよイケコ…イヤ外部でやるのもいいことなんだとは思うけどさ…(笑)

 無事の再開を祈っています。そして全ツはチケットがなんとかなったので、コンサートが無事に観られますように。というかちゃんと公演されますように。そしてその次の卒業公演が素晴らしいものになりますように。
 花組も無事に初日が開き、宙組の別箱も無事に予定どおり公演されますように。星組も無事に東京にやってきて公演できますように。
 年末を除けば、いつでもどこかで何組かが公演していて誰かしらが観ていて、レポツイがツイッターのタイムラインに上がりお友達からレポLINEをもらい、常に常にキャッキャしているのがこの数年の、なんなら十数年の日常でした(私は観劇歴研28で、今は個人的に第三次ブームを終えたところなのですが、ツイッター歴は丸11年とかでやはりこれが大きいのです)。通勤の満員電車危難の制限もされず、ただイベントだけに自粛要請がなされ、映画館はやっているものの劇場は大きなところはほぼ公演中止になり、宝塚歌劇も例に漏れず、こんなに静かで張り合いがなく虚しい日々を過ごそうとは思ってもいませんでした。家にいる時間が長くなった分は、愛蔵コミックスの再読なんかを順にしていて、それはそれで新しい発見があったりしておもしろいものなのですが(どこまでもオタク…)、やっぱりちょっと、かなり、寂しいです。
 そうそう、会社で50歳で取れる十日間のリフレッシュ休暇とニューヨーク旅行もキャンセルしました。おりしもブロードウェイも公演中止になりましたね。悲しいです…
 キャンセルした当初は、なので予定を全然入れていなかったのでこれを機に絶食ダイエットでもして少し身体を絞りたい、とか考えていたのですが、そんなことをしていたら近隣のなじみのお店が端からつぶれてしまいそうだし経済回さないとウィルスよりそっちの影響で人死にが出そうなので、ガンガンお金を使おうと思ったりしています。よくわからないノーブレスオブリージュめいたキモチ…ただ、このまま緊急事態なんちゃらとかになって預金封鎖でもされた日には、私が今まで汗水垂らして働いて稼いで貯め込んだ小金も何もあったもんじゃなくて、ああさっさと海外移住しておけばよかったと臍を噬む羽目にもなりかねないので、今後も政治には注視していきたいし次のでっかい選挙って何? いつ? 早くして? マジヤバいって今の政府! と騒いでいきたいです。
 引き続き、がんばります。ここは公演感想日記がほとんどなので更新が少なくなりますが、こりずに覗きに来ていただけたら嬉しいです。私はめげずに5月とか7月とかのチケット手配をガンガンしています。ニューヨークも秋には行きたいし、今年も夏の海外ひとり旅をやりたいです。
 負けないぞ!!!







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千早茜『西洋菓子店プティ・フール』(文春文庫)

2020年03月12日 | 乱読記/書名さ行
 フランスで菓子作りを修行したパティシエールの亜樹は、菓子職人の祖父のもと、下町の西洋菓子店で働く。女友達、恋人、仕事仲間、そして店の常連客たちなど、店を訪れる人々が抱えるさまざまな事情と、それぞれの変化を描く連作短編集。

 よくあるレストランもの、つまりグランドホテル形式で舞台がレストランになっていて料理に絡む人情ものでそのケーキ版…くらいなイメージでいたのですが、さすがこの作家、どれもすっきりほっこりさわやかいい話なんかではなくて、ざらりとしていて、とてもおもしろく読みました。
 ただ、ラストは「えっ、これで終わり!?」と思ってしまいましたけど…やっぱこのヒロイン、別にこの婚約者のこと好きじゃなくない? そしておじいさんがいなくなったくらいでこんなにならなくない? 私はこの人は結局のところレズビアンで、1話目の女友達ターンに戻って輪が閉じて終わるものかとばかり思っていました。
 別に想像していたとおりのオチじゃなかったから不満だ、ということを言っているつもりではないのですが…なんかわりと平凡なところに着地して終わってしまった気がしたので、肩すかしに感じたのでした。紅茶店のオーナーの件もフラグだと思ったのになー…まあいいんですけれどね。
 取材をしっかりしている感じはさすがだと思いましたし、その面でも楽しく読みました。何作か読んでいる作家さんですが、引き続き追いかけてみたいなと考えています。

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あだち充『クロスゲーム』(小学館文庫全11巻)

2020年03月07日 | 乱読記/書名か行
 しっかり者の長女・一葉、コウのことを大好きな次女・若葉、コウのことを大嫌いな三女・青葉、おてんばの四女・紅葉。幼なじみの月島四姉妹に囲まれて、樹多村光の青春が幕を上げる…

 最新連載『MIX』のTVアニメ化に合わせて文庫化されたようですね。週刊連載時に読んでいなかったので、まとめて読んでみました。これでももう15年前の作品(連載完結は2010年ですが)なんですね、ホントすごいなあだち充…
 『タッチ』『MIX』同様、定番の恋と野球の物語で、幼なじみ設定や家族に死者がいる・出る展開も同じです。『H2』にもあった、野球への愛をこじらせてダメなことになっている選手や監督が出てくるところも同じ。でもちゃんと同工異曲になっていて(この言葉は褒め言葉には使わないかな?)、東くんはいいところに着地したと思います。作画が悪役なので苦労したでしょうが。
 ただ、キャラの幅がない作家なので、水輝の失敗は目に余りますし、あかねも効いていないのが難点だったなと思いました。水輝はビジュアルはよかったのに、上手く優男というか色男キャラに描けなかったんですね。後半、千田くんと同じになっちゃってましたからね…カッちゃんや新田くん、英雄の路線でよかったんだと思うんだけれど…野球から離れたところにいるのも、おもしろいポジションだったんだけどなあ。作家の「いい男」像の引き出しのなさが露呈しましたし、担当編集もいい提案ができなかったんでしょうね。
 さらにあかねの登場は、苦し紛れすぎたのではないでしょうか。どこまで当初から構想されていたのかわかりませんが…『タッチ』では、カッちゃんが死のうとタッちゃんと南はずっと両想いだったのであまり問題がなかったのでしょうが、今回のコウは若葉と両想いで、その若葉が死んで、ラストは青葉とくっつけるというのはそりゃ難儀な道ですよね…死人には勝てないものです。さらに病気をぶっ込むとかホントお笑いぐさです。というか笑えません。
 ストーリーとしては甲子園出場を決めて終える、とは決まっていたのかもしれませんが、恋愛に関してはほぼ何も解決されていないままに決勝戦が始まって文庫残り一冊とかになってしまったので、読んでいて解決されるのか本当にヒヤヒヤしましたし、ラストはトートツに感じてフラストレーションが溜まりました。それこそ週刊連載だと気にならなかったかもしれませんが、通しで読むと残念ながらストーリー展開としては失敗している作品だな、と私は思いました。もちろん決勝戦の時々刻々の戦況の変化とともに青葉の心も揺れ動き、変わり、かつ前に進んではいるのですけれど、それ以前にコウのあかねへの違和感、というか彼女は若葉ではない、若葉に似ているのはむしろ青葉だが、それで青葉を好きなわけではない…みたいな想いをもう少し描いておいてほしかったです。
 青葉というのは新しい形のキャラクターで、いいなと思ったんですよね。甲子園を目指す野球少年が主人公としていて、その夢を応援する少女がそばにいる、という形があだち漫画の定番だった中で、野球をしている少女を造形した。それがすごい(この作家は野球少女をヒロインにした別の作品も描いてはいますが)。しかも性格が主人公と一緒(なんなら描き分けもかなり怪しい…特にユニフォーム姿のアップ…)、だから仲が悪い、という設定。おもしろい。だからこそもっと、一緒に若葉の死を乗り越えて心が近づく…みたいな流れがありえたんじゃないかなーと思うんですけどね。あとは、初期はコウより青葉の方がずっと真剣に野球をやっていたし上手くもあったんだけれど、青葉は硬式野球の公式戦には出場できないので…というターンになったときに、もっと男女差の話とか、そういうところから恋心の芽生え、ないし移り変わりを描くこともできたんじゃないかな、と思います。
 でも、「世界で一番嫌い」は「世界で一番好き」に容易に変化する、のはわかります。この「嫌い嫌いも好きのうち」は正しい。そして「愛してる」「知ってる」の『スター・ウォーズ』よ! この「言わなさ加減」こそあだち漫画の真骨頂かもしれないので、やはりこれはこれで、いいのかな…甘いな、私も。次は『ラフ』をちゃんと読みたいです。


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