東京芸術劇場、2019年4月23日17時45分。
1832年、アメリカ南部アラバマ州タスカンビア。ケラー家では、かつて南北戦争で大尉を担った“キャプテン”アーサー・ケラー(益岡徹)とその後妻ケイト(江口のりこ)が、熱病を患った1歳半の愛娘ヘレン(鈴木梨央)のベッドを囲んでいた。一命を取り留め安堵したのも束の間、ケイトはヘレンが視覚と聴覚を失っていることに気づく。5年後、ヘレンは何ひとつ躾をされず、自分の思いどおりにならなければたちまち癇癪を起こす手の負えない少女になっていた。救いを求める手は、北部ボストンのパーキンス盲学校で優秀な成績を修めたアニー・サリヴァン(高畑充希)へ…
作/ウィリアム・ギブスン、翻訳/常田景子、演出/森新太郎、美術/二村周作。実話をもとに1959年ブロードウェイ初演、1962年には映画化。日本初演は1964年。全3幕。
実は美内すずえの漫画『ガラスの仮面』でしか知らず、そのイメージだけで大空さんのサリヴァン先生にスミカのヘレンがいつか観たいな、なんてことを考えていた作品だったのですが、やっと実際に観られました。日本初演の演出は菊田一夫でアニー・サリヴァンは有馬稲子とのこと、さもありなん。歴代アニーだと大竹しのぶが有名でしょうか。今回の高畑充希はかつて二度ヘレンを演じているんですね。鈴木杏もヘレンからのアニーを演じているようです。そういうの、素敵ですよね。そのままケイトもやる流れになるといいと思うけれどなあ。ケイトっていいお役ですよね。
史実だと、アニーが二十歳でヘレンがむっつのときのお話だそうです。ケイトは後妻で再婚時22歳とのことなので、このとき30手前くらい? そしてジェイムズ(須賀健太)はケイトのふたつしか歳下でなかったようですが、これは作品としてはもう少しだけヘレンに近い歳の義兄となっているのかな。これはすごくいい改変だと思いました。
舞台としてはとてもシンプルでストレートな作りで、それもとてもよかったです。
私はちゃんと観劇して初めて知ったのですが、これはマッチョな家長がいる南部の家庭に、北部の職業婦人が乗り込んでくる構造になっていたんですねえ。実際にはさらにさらに大変なことで、まさに奇跡的なことだったんでしょうねえ。というかタイトルロールって実はアニーのことだったんですねえ。というかとにかく素晴らしいアニーでした。
若くてちゃっちゃいのももちろんお役にぴったりだと思うんです。だけど高畑充希は年齢とか見目なんかでは全然はかれない素晴らしい女優だと私は思っていますし、テレビドラマもいいけれど舞台でこそ輝く女優だとも私は思っているので(というかテレビドラマで見ると、やはり熱すぎ上手すぎ浮いていると個人的には感じています…)、この配役は本当にいいと思いました。
私が観た回はたまたま学生団体が入っていたのだけれど、普段テレビで見るような女優が生で、その場でリアルタイムで演技をしていること、それを目撃できることに感動してくれたらいいな、と思ったりしました。また、舞台ならではのマジックに感動、感激してくれるといいな、とも。
ワンパターンのセットでも、たとえば照明の効果やちょっとした小道具のチェンジで食堂にも寝室にもガーデン・ハウスにも変化すること。手前が庭で奥が屋内だと、壁なんかなくてもわかること。時間や空間が過去にも、夢にも、自在になること。パペット使いが目に見えていてもなお、操られるパペットがケラー家の愛犬ベルにちゃんと思えること…みんな、映像作品ではありえない、舞台演劇ならではのマジックで、もちろん不自由な部分もたくさんあるんだけれど、でもだからこそできること、見せられることがあるんだ…ということに覚醒してもらえたら、未来の舞台演劇ファンが増えるでしょうから、嬉しいです。
私も、子供の頃に『ガラスの仮面』で読んでいただけでは理解できなかったであろう、感じられなかったであろうことをいろいろ読み取れて、楽しい観劇でした。
この時代の南部の家庭でマッチョな夫に対するケイトの在り方とか、障害のある妹にかかりきりになられてないがしろにされがちな長男ジェイムズの不満とか寂しさとか、もうもういろいろたまりませんでした。益岡徹の口跡の悪さには閉口しましたが、他のキャストは子役含めみんな素晴らしかったです。
見えない、聞こえない(話せない、というのはそこから付随するものでヘレンの発声器官そのものには問題がなかったのかもしれませんが)中で育った人間が、世界をどう捉えるのか…そりゃ比喩でなく暗黒の中にいるんだろうよと、想像するだに恐ろしいです。でも、知性はあるんですよね。あるいは育つというか。その人間として、というか生き物としての強さに感動し打ち震えます。
ジェイムズは、ヘレンがアニーから教わった指文字を示すのは単なる猿真似にしかすぎず、意味なんかわかっていないのだと言います。ほとんど生まれたときから見えず聞こえず暗黒の世界に生きてきた人にとって、物に名前があること、そのスペル、それを表す文字、というものがひとつながりになるまでには、確かにたくさんのハードルがあるのだろうと私なんかでも想像できます。
でも、ヘレンが覚えた指文字を犬のベル相手にしてみせるところで、すでに私はダダ泣きでした。ジェイムズは、犬相手にするなんてそれこそ意味がわかっていない証だと言います。でも、子供って、お人形遊びで真剣に人形に話しかけます。人形から応えがないことはわかりながら、自分でその分も担当しておままごとを続けたりします。それは犬相手でも同じだと思うんですよね。実際に返答があるかどうかとは別で、というかないと承知していてなお、大人にやってもらったことを今度は自分が下位の相手にする、という行為は、まあ動物でも似たことはあるんだろうけれど、とても人間くさい行動のように私には思えるのです。相手からはかばかしい反応が返ってこないことまでセットで、人に自分がやってもらったことをヘレンはベルに対してやっているだけなのです。人形や犬にそういう知性はない、ということはもしかしたら子供にはまだわからないことなのかもしれないけれど、だからって当の子供自身に知性がないということにはなりません。だからこのときのヘレンも、こういう行為ができるからこそ逆に白痴でもなんでもない、ってことを立派に表現しているんですよね。
でもそれはこのときのアニーには伝わりませんでした。それで私はダダ泣きしたのです。
このまま理解されないなんてつらすぎる…でもこれはお芝居だからうまくいくのだし、もっとすごいことにこれは実話なのでした。
『ガラスの仮面』でもあった、いわゆる「ウォーター!」の場面をどう表現するか、というのはさすがに難しいテーマだな、とは感じました。熱病にかかる前の赤ん坊のヘレンがすでに「ウォーター」という言葉の意味をわかっていた、とこの作品ではされていますが(というかヘレン本人もそう言ってはいるそうですが)、うーんどうだろう。人の脳内で、しかもこういう境遇だった人の脳内で、物の名前とスペルと指文字、というものがひとつにつながった瞬間、なんてものはどんなふうにしても表現しきれないものなのではないでしょうか。私は正直ちょっと肩すかしだったのだけれど、そこは演出がどうとか表現がどうとかいうこととは別に、実際にある程度こうした経緯で本当にヘレンは目覚めたのである…という事実に、打ちのめされるように感動したのでした。そしてその前後の家族のエピソードも素晴らしい。そういうものが全部ひっくるまっての「ウォーター!」でしたよね。
セット内の小道具を片付ける役として舞台に現れ、そのまま使用人一家として居残るキャストもすごく効果的でした。
水を理解して、地面を理解して、ドアを理解して、お母さんとお父さんを理解して、そしてヘレンはアニーの胸を叩きます。この「物」の名前をヘレンは知らなかったからです。今まで聞いたことがなかったんだろうし、そもそもアニーも言わなかったのでしょう。
アニー、と名前を綴るのかなとも思ったけれど、アニーは「先生」と綴りました。それは役割というか職業の名称にすぎないし、そのあとヘレンがさらにそうした職種とその当人を区別するルールの理解に苦労するだろうに…と思わなくもないけれど、名前より何より「先生」を自称するアニーの矜持に泣けました。そしてそんな新たな単語を習得したヘレンは、そのスペルを繰り返し、アニーの頬を撫でて確認し、そしてキスをする…
これが泣かずにいらりょうか!!!
その後のヘレンは史実によれば大学進学も果たし、婦人参政権獲得や黒人差別廃止や死刑廃止に向けて運動する社会運動家になっていった…というのも素晴らしいことですね。アニーも結婚したり破綻したりしながらもヘレンとともに歩んだのだとか。すごいなあ。
先日書いた記事の舌の根も乾かぬうちに言いますが、再演するならアップデートを、みたいなことをこの作品に対して私が言わないのは、これが史実を基にしたものであること、また当時こうだったし今ならもうちょっと違ったかもしれないけれどとりあえずそれはまた別の話になりそうなので、といろいろ振りきってなお、心に響く普遍的な物語が残るからこそ、現代においてなおシンプルでストレートに演出し上演するのに耐えうる力がある戯曲だからこそ、だと考えています。
子役がいるせいかもしれませんがソワレがやたら早い開演時刻で難儀しましたが、しかしいい観劇でした。満足です。
1832年、アメリカ南部アラバマ州タスカンビア。ケラー家では、かつて南北戦争で大尉を担った“キャプテン”アーサー・ケラー(益岡徹)とその後妻ケイト(江口のりこ)が、熱病を患った1歳半の愛娘ヘレン(鈴木梨央)のベッドを囲んでいた。一命を取り留め安堵したのも束の間、ケイトはヘレンが視覚と聴覚を失っていることに気づく。5年後、ヘレンは何ひとつ躾をされず、自分の思いどおりにならなければたちまち癇癪を起こす手の負えない少女になっていた。救いを求める手は、北部ボストンのパーキンス盲学校で優秀な成績を修めたアニー・サリヴァン(高畑充希)へ…
作/ウィリアム・ギブスン、翻訳/常田景子、演出/森新太郎、美術/二村周作。実話をもとに1959年ブロードウェイ初演、1962年には映画化。日本初演は1964年。全3幕。
実は美内すずえの漫画『ガラスの仮面』でしか知らず、そのイメージだけで大空さんのサリヴァン先生にスミカのヘレンがいつか観たいな、なんてことを考えていた作品だったのですが、やっと実際に観られました。日本初演の演出は菊田一夫でアニー・サリヴァンは有馬稲子とのこと、さもありなん。歴代アニーだと大竹しのぶが有名でしょうか。今回の高畑充希はかつて二度ヘレンを演じているんですね。鈴木杏もヘレンからのアニーを演じているようです。そういうの、素敵ですよね。そのままケイトもやる流れになるといいと思うけれどなあ。ケイトっていいお役ですよね。
史実だと、アニーが二十歳でヘレンがむっつのときのお話だそうです。ケイトは後妻で再婚時22歳とのことなので、このとき30手前くらい? そしてジェイムズ(須賀健太)はケイトのふたつしか歳下でなかったようですが、これは作品としてはもう少しだけヘレンに近い歳の義兄となっているのかな。これはすごくいい改変だと思いました。
舞台としてはとてもシンプルでストレートな作りで、それもとてもよかったです。
私はちゃんと観劇して初めて知ったのですが、これはマッチョな家長がいる南部の家庭に、北部の職業婦人が乗り込んでくる構造になっていたんですねえ。実際にはさらにさらに大変なことで、まさに奇跡的なことだったんでしょうねえ。というかタイトルロールって実はアニーのことだったんですねえ。というかとにかく素晴らしいアニーでした。
若くてちゃっちゃいのももちろんお役にぴったりだと思うんです。だけど高畑充希は年齢とか見目なんかでは全然はかれない素晴らしい女優だと私は思っていますし、テレビドラマもいいけれど舞台でこそ輝く女優だとも私は思っているので(というかテレビドラマで見ると、やはり熱すぎ上手すぎ浮いていると個人的には感じています…)、この配役は本当にいいと思いました。
私が観た回はたまたま学生団体が入っていたのだけれど、普段テレビで見るような女優が生で、その場でリアルタイムで演技をしていること、それを目撃できることに感動してくれたらいいな、と思ったりしました。また、舞台ならではのマジックに感動、感激してくれるといいな、とも。
ワンパターンのセットでも、たとえば照明の効果やちょっとした小道具のチェンジで食堂にも寝室にもガーデン・ハウスにも変化すること。手前が庭で奥が屋内だと、壁なんかなくてもわかること。時間や空間が過去にも、夢にも、自在になること。パペット使いが目に見えていてもなお、操られるパペットがケラー家の愛犬ベルにちゃんと思えること…みんな、映像作品ではありえない、舞台演劇ならではのマジックで、もちろん不自由な部分もたくさんあるんだけれど、でもだからこそできること、見せられることがあるんだ…ということに覚醒してもらえたら、未来の舞台演劇ファンが増えるでしょうから、嬉しいです。
私も、子供の頃に『ガラスの仮面』で読んでいただけでは理解できなかったであろう、感じられなかったであろうことをいろいろ読み取れて、楽しい観劇でした。
この時代の南部の家庭でマッチョな夫に対するケイトの在り方とか、障害のある妹にかかりきりになられてないがしろにされがちな長男ジェイムズの不満とか寂しさとか、もうもういろいろたまりませんでした。益岡徹の口跡の悪さには閉口しましたが、他のキャストは子役含めみんな素晴らしかったです。
見えない、聞こえない(話せない、というのはそこから付随するものでヘレンの発声器官そのものには問題がなかったのかもしれませんが)中で育った人間が、世界をどう捉えるのか…そりゃ比喩でなく暗黒の中にいるんだろうよと、想像するだに恐ろしいです。でも、知性はあるんですよね。あるいは育つというか。その人間として、というか生き物としての強さに感動し打ち震えます。
ジェイムズは、ヘレンがアニーから教わった指文字を示すのは単なる猿真似にしかすぎず、意味なんかわかっていないのだと言います。ほとんど生まれたときから見えず聞こえず暗黒の世界に生きてきた人にとって、物に名前があること、そのスペル、それを表す文字、というものがひとつながりになるまでには、確かにたくさんのハードルがあるのだろうと私なんかでも想像できます。
でも、ヘレンが覚えた指文字を犬のベル相手にしてみせるところで、すでに私はダダ泣きでした。ジェイムズは、犬相手にするなんてそれこそ意味がわかっていない証だと言います。でも、子供って、お人形遊びで真剣に人形に話しかけます。人形から応えがないことはわかりながら、自分でその分も担当しておままごとを続けたりします。それは犬相手でも同じだと思うんですよね。実際に返答があるかどうかとは別で、というかないと承知していてなお、大人にやってもらったことを今度は自分が下位の相手にする、という行為は、まあ動物でも似たことはあるんだろうけれど、とても人間くさい行動のように私には思えるのです。相手からはかばかしい反応が返ってこないことまでセットで、人に自分がやってもらったことをヘレンはベルに対してやっているだけなのです。人形や犬にそういう知性はない、ということはもしかしたら子供にはまだわからないことなのかもしれないけれど、だからって当の子供自身に知性がないということにはなりません。だからこのときのヘレンも、こういう行為ができるからこそ逆に白痴でもなんでもない、ってことを立派に表現しているんですよね。
でもそれはこのときのアニーには伝わりませんでした。それで私はダダ泣きしたのです。
このまま理解されないなんてつらすぎる…でもこれはお芝居だからうまくいくのだし、もっとすごいことにこれは実話なのでした。
『ガラスの仮面』でもあった、いわゆる「ウォーター!」の場面をどう表現するか、というのはさすがに難しいテーマだな、とは感じました。熱病にかかる前の赤ん坊のヘレンがすでに「ウォーター」という言葉の意味をわかっていた、とこの作品ではされていますが(というかヘレン本人もそう言ってはいるそうですが)、うーんどうだろう。人の脳内で、しかもこういう境遇だった人の脳内で、物の名前とスペルと指文字、というものがひとつにつながった瞬間、なんてものはどんなふうにしても表現しきれないものなのではないでしょうか。私は正直ちょっと肩すかしだったのだけれど、そこは演出がどうとか表現がどうとかいうこととは別に、実際にある程度こうした経緯で本当にヘレンは目覚めたのである…という事実に、打ちのめされるように感動したのでした。そしてその前後の家族のエピソードも素晴らしい。そういうものが全部ひっくるまっての「ウォーター!」でしたよね。
セット内の小道具を片付ける役として舞台に現れ、そのまま使用人一家として居残るキャストもすごく効果的でした。
水を理解して、地面を理解して、ドアを理解して、お母さんとお父さんを理解して、そしてヘレンはアニーの胸を叩きます。この「物」の名前をヘレンは知らなかったからです。今まで聞いたことがなかったんだろうし、そもそもアニーも言わなかったのでしょう。
アニー、と名前を綴るのかなとも思ったけれど、アニーは「先生」と綴りました。それは役割というか職業の名称にすぎないし、そのあとヘレンがさらにそうした職種とその当人を区別するルールの理解に苦労するだろうに…と思わなくもないけれど、名前より何より「先生」を自称するアニーの矜持に泣けました。そしてそんな新たな単語を習得したヘレンは、そのスペルを繰り返し、アニーの頬を撫でて確認し、そしてキスをする…
これが泣かずにいらりょうか!!!
その後のヘレンは史実によれば大学進学も果たし、婦人参政権獲得や黒人差別廃止や死刑廃止に向けて運動する社会運動家になっていった…というのも素晴らしいことですね。アニーも結婚したり破綻したりしながらもヘレンとともに歩んだのだとか。すごいなあ。
先日書いた記事の舌の根も乾かぬうちに言いますが、再演するならアップデートを、みたいなことをこの作品に対して私が言わないのは、これが史実を基にしたものであること、また当時こうだったし今ならもうちょっと違ったかもしれないけれどとりあえずそれはまた別の話になりそうなので、といろいろ振りきってなお、心に響く普遍的な物語が残るからこそ、現代においてなおシンプルでストレートに演出し上演するのに耐えうる力がある戯曲だからこそ、だと考えています。
子役がいるせいかもしれませんがソワレがやたら早い開演時刻で難儀しましたが、しかしいい観劇でした。満足です。