駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『ヴァンパイア騎士』を読んで

2020年07月31日 | 日記
 私の老後の密かな野望に、毎日漫画喫茶に通って、世代が違ったり忙しくて手が回らなかったりで読めずにきた人気作や名作と言われる漫画を、端から読んで端からブログに感想を書きたい、というものがあるんですけれど、コロナ感染拡大防止のためのテレワークにより浮いた通勤時間と電子無料キャンペーンとで、今すでにそれができつつある気がしています。というわけで例によってマンガParkで絵夢羅『Wジュリエット』と樋野まつり『ヴァンパイア騎士』を読みました。
 『Wジュリ』はツボりませんでした。背が高くてショートカットでボーイッシュで、アクション女優になるのが夢のヒロインが属する演劇部に、サラサラ金髪ロングの美女が転校してきて、けれど彼女は実は、女装が露見しないことを条件に父親に役者になる夢を認めてもらおうとする男子だったのです…というのが基本の設定のお話です。私はBLもユリも大好物ですが、基本的にはバリバリのシスジェンダーへテロセクシャルなこともあって、性別を偽るとか越境するというテーマにはよほど上手くやってもらわないとあまり惹かれない…というせいもあります。でもこの作品では、鬘を被ったり地毛になったりして髪の長さを変えればそれだけで男になれたり女に見えたりする、というのがなんとも安易だし、その男女差を描き分ける画力もないし(さいとうちほ『とりかへ・ばや』を見習ってほしい)、結局ヒロインが「でも女の子らしく、可愛いところあるじゃん」と言われて愛されたり、相手役が「意外と男っぽいよね、頼れるよね」みたいに言われて惚れられたりするので、そういう男らしさ、女らしさみたいなものの強要が嫌だったんじゃないの!?とうんざりしちゃったのでした。
 ラブコメとしても、主役ふたりはかなり初期にできあがってしまって、あとは波風がほぼ立たないので、ドラマが盛り上がらず、あまりおもしろく思えませんでした。グルグル漫画として繰り出される学校行事その他のエピソードには格別なアイディアも目新しさもないし、掻き回しに投入される新キャラクターたちにも特に萌えエッセンスがない。シスコンの兄弟たちやブラコンの姉妹たちはちょっといじらしかったかな、でもそれだけなんですよね。演技や演劇とは何か、というようなことを深く描くターンもないので演劇漫画とも言えませんし、結局は親に認められて卒業してハッピーエンドゴールインになるに決まってるじゃん、という感じしかしなくて、読み進めていっても私はまったくノレなかったのでした。
 今、でも、続編を連載中なんですよね。人気あるんだなあ。ふたりが結婚して、役者夫婦になっていて、かつふたりが男女ともに演じられるような役者になっているような演劇漫画になっているんだったら、ちょっとおもしろいことになっているのかもしれません。さて、どうなんでしょうね…?
 一方『ヴァンパイア騎士』の方ですが、こちらの方がまだおもしろく読みましたが、やはり一世を風靡した人気作、話題作という印象だったわりには肩すかしの出来だったかな、という感想に終わりました。
 私はここで何度も言っているのですが、というかここで何かを言っていてもなんにもならないことはもちろん承知しているのですがおそらく漫画の描き方本とかには書いてあってしかるべきだろうと考えているのですが、宇宙人とか、超能力者とか、妖怪とか、吸血鬼とか、狼男とか、まあなんでもいいんだけれど要するにそういう超常的な、ファンタジックなものを扱う際には、必ずルールの設定をすることが必要なのです。でもこの作品はそれができていない、それがまずダメダメです。
 彼らには何ができて何ができないのか、彼らの特殊能力とは何か、それはどういう条件で発動できて、発動させないためには何が必要なのか、人間との違いは何か、弱点は何か、どこから来てどう育ったものなのか、というようなことをきちんと決めて、説明してからお話を進める必要があるのです。別に演出上おいおいになってもかまいませんが、あまりに後出しっぽくなるのはルール違反です。何より、なんでもアリになってしまうとドラマが盛り上がらなくてつまらなくなるからダメなんです。だって死んでも生き返るかもしれないんじゃ、死なれても悲しくないし、それじゃ読者は泣けません。心を震わせられないなら、物語なんて意味がありません。
 吸血鬼はかなり手垢がついた素材ですが、それでもたとえばブラム・ストーカーと萩尾望都が描いているものは全然違います。この作品ではどう設定するのか、もっとちゃんと決めて、きちんと説明してほしいのです。なのに美形で長命らしいこと、昼間が苦手らしいことくらいしか冒頭で説明されていないじゃないですか。それで急に念動力みたいなものを発揮する場面が出てきたり、吸血鬼に対してなんらかの威力があるらしき謎の武器が出てきたり、コウモリだか蝶だかオオカミだか知らないけれど急に変身するんだかあるいは謎の使い魔なんだかが現れたり、もうワケわかりません。それに吸血鬼の血を吸っても飢えが満たされるんだったら、吸血鬼同士で吸血していればいいのでは? 人間の血の方が美味しいんだとか元気が出るんだとか、人間を襲う理由をなんかつけてくださいよ。でないと彼らが敵対している人間とあえてかかわろうとすることに納得できません。あと、人間の血を吸ったらその人間を吸血鬼にさせるのかどうかも説明がない。吸血鬼を人間に戻す方法があるらしいけれど、それもどういう理屈なのか説明がない。純血の吸血鬼がどうとかこうとか言うけれど、吸血鬼の男女が性交して妊娠して出産して生まれてくるんですか吸血鬼って? その説明もない。無い無い尽くしでなんでもありで、そんなノールールじゃバトルもドラマもロマンスも盛り上がらないに決まっています。
 いや、ファンはがんばって脳内補完して妄想して、ついていこうとするものですよ? 実際それで人気を博したのだろうし。でも作家はそういうふうに読者に甘えてはいけないんだと思うのです。あと、そういう甘えで紡がれた物語は、そのときはよくても時代を超えられません。いわゆる「大人の鑑賞に堪えられない」ってヤツです。もちろんそれでいいんだ、この手の少女漫画は思春期の読者のハートをつかむことに特化した作品群なんだから整合性とか普遍性なんか要らないんだ、という考え方ももちろんあるかもしれませんが、私は欲張りだから、それではもったいないと思ってしまうんです。両方欲しいよ、目指そうよ、と思う。その時代のその年代の読者をつかむ力と、百年経っても万人に読み継がれおもしろいと思われる力、両方ある作品を描くことを理想としてほしいのです。そういう作品がこの世には少なからずあるだけに、低きに流れてほしくないのです。作家は若いことが多いからそこまで考えられていないことが多いでしょう、だからこそ担当編集がリードしプロデュースしていってほしいのです。この作品は素材としては十分魅力的なものが揃っていたと思えるだけに、残念です。
 ただ、この作者が一番上手いのは、「綺麗な線を引くこと」かな、とは思いました。絵を描くこと、でもキャラを描くこと、でもなく、線を引くこと、です。線はとにかく綺麗。流麗で端正。でも絵としては、そりゃ美形を何人も描いてはいるんだけれど、表情に乏しいしデッサンもやや怪しくて、実は漫画家ではなくイラストレーターに向いているタイプとかお人形を描くのだけが異様に上手いとかでもなく、とにかく線そのものだけが綺麗に描けるという描き手に思えます。漫画としての絵は、構図も描写もどちらかと言えば拙いと言っていい部類だと思う。本来ならこういうバトルアクションロマンを描ききるだけの力量はない、と言ってしまえると思います。
 描き分けが怪しいのと同様に、キャラクターがどんどん無表情に、アンニュイになって言ってしまうのも、読んでいてしんどかったです。中盤以降、キャラクターの見開かれた瞳がほとんど描かれていないのが典型的で、それが何を意味しているかというとそのキャラクターが驚いたりハッとしたりしていないこと、つまり心が動いていないということなんです。キャラの心が動いていなけりゃ、読者の心だって動きません。読者はキャラクターに共感したり感情移入したりして、お話を追っていくものだからです。
 なのにこの作品はどんどん思わせぶり描写が増えていって、キャラクターたちはそのあと何が起きてもみんな「わかっていたわ…」と言わんばかりのしらっとした無表情をするばかりなのです。そして何がわかっていたのか、実際には何が起きたのかはまったく説明されず、ひとりよがりで雰囲気だけのワケわからん展開になっちゃっています。それを流麗な線による絵で流して、めくらましでごまかしている。そして美形キャラに惹かれた、根性ある読者だけが妄想補完でがんばってお話についていくという構図…これは苦しいです。
フルバ』にも言いましたが、演出として思わせぶりな前振りとかはあってもいい。けれど必ずそのあとには真相、真意の開示、説明が必要です。これはもう、トイレに行ったあとは手を洗う、のと同じくらいのワンセットだというつもりで作家には肝に銘じていただきたいです。
 また、この作家はキャラ萌えも実はそんなになさそうなんですよね…でも更はいいラスボス、素晴らしい仇役になりえたと思うんだけどなー。だからキャラクター造形力はある程度あるんですよね。あと、ありがちなポジションですが頼ちゃん、いいよね。好きでした。もうちょっといろいろ役割を与えてあげたかった気もします。あとは一条さんとか、好きです。これももっといくらでも掘り下げて描けたキャラクターだったでしょうよ…やはり作家がそこまでのこだわりのないタイプなのではあるまいか。もったいない…
 箸にも棒にも、という作品ではないと思えたからこそもったいなくてネチネチ語っているので、瞬殺スルーでないだけマシと思って引き続き読んでいただけたら嬉しいのですけれど、まだまだ語ると、私はこの作品のラブロマンスに関する部分のストーリー展開が、ゴールは合ってるんだけど途中が全体になんだかなーだったかなー、と感じました。
 構造としては、ヒロイン優姫の両脇に枢と零、です。憧れの先輩で命の恩人の枢と、幼なじみの弟分の零、みたいな、まあよくあるパターンです。そして枢は吸血鬼で、優姫と零は人間です(物語のスタート時点では、ですが)。
 あたりまえですが読者は人間なので、こういう物語は人間エンドに持っていくのが基本です。そうでない場合にはそれなりの覚悟と、そういう物語を描ききるだけの力量が絶対に必要になります。人間は人間の物語にこそ共感し心震わせ感動するものであって、人間となんら関係ないものの物語など知ったこっちゃないからです。
 でも、優姫は枢に、恋愛とまでは呼べないまでも、強い思慕の念を抱いている。零は優姫のためを思ってそれを押しとどめさせようとしている。叶わないから、報われないとわかっているからです。だって「異種」だからです。枢も、優姫を愛しく慈しみながらも、吸血鬼であることその他のいろいろな事情のせいで、正対できないでいる。だからこれは零→優姫→枢という構造の物語で、主に優姫と枢の禁じられた、上手く進まない関係を描き、しかし最後に枢は死ぬというか塵に帰るか何かしてとにかく優姫の前から存在しなくなり、ふたりの愛は成就したが結ばれなかった、みたいな結果になり、そのとき零は優姫の傍らにいて彼女を慰め大きな愛で包むのであった、完、みたいなのが、まああるべき流れのパターンだろうとすぐさま予測はつくわけです。というかそういう定番パターンってとても大事で、それ以外のことがやりたいのならそれ以上のことをやってみせなければならないわけで、それはとても大変なことなのです。
 なので私は、優姫のそばにいながらもずっと不憫な目に遭うのであろう零を応援して読んでいってあげよう、と思って読み進めていったわけですが…途中、彼らが吸血鬼になろうが吸血鬼ハンターになろうがそれはもういいとして、枢と優姫が兄妹だったということになって零と別れて暮らす(?)展開になっちゃってからは、アレレレレ?となってしまったのでした。兄妹だろうと吸血鬼は近親婚もなんのそのらしいのでそれはいいとして(いいのかよ)、ここで一度優姫が枢とともにいることを選んだのって、「でも本心は違ってむしろともにいたいのは零なんだ」というフラグが立ってしまうということなので、それじゃ零エンドがバレバレすぎてダメだと思うんですよ。人はそばにいない人のことをより強く想うものです。でもあくまで優姫はずっとずっと枢オンリーで、だからこそラスト零、って持っていくのが効くはずだったんだから、この展開は、ない。
 でも、ちょっと行き当たりばったり感もあったのかもしれませんが、とにかく話はこう展開されてしまったんですねー。そしてこのあたりの零のキャラ変もキツかった…そりゃ吸血鬼になっちゃったこととか双子(またも! ホント少女漫画って…)のこととか、彼にはとてもショックで自意識にまで作用することであろうのは想像できますが、しかしこれは作劇上のミスであるキャラ変と言っていいと思います。血気盛んなしゃかりきワンパク小僧だったのがすっかりアンニュイ男子に…枢と被ってるやん…
 で、結局枢がしたかったことってなんなのかとか、優姫を人間に戻すっとかてどうなったんだとか、始祖の女性云々ってのもなんかいろいろ説明不足なまま、やっぱり枢が消えて零が残るラストで、でもそれじゃ盛り上がらないんだよだって零フラグ立ちっぱでわかってたじゃん…という、残念な結果になったのでした。ちなみにこれも『フルバ』で言ったけど(いや『フルバ』はメインカップルではちゃんとできてたんだけど)、せっかくのヒロインと相手役との最後の、ここぞというラブシーンは、もっとちゃんと明確でわかりやすい、お熱い台詞でお互いの愛を表明し合ってくださいよ! それが読みたくてここまで来たんじゃん! ロマンスのゴールはそこだろう! だって朝チュンすら枢と迎えちゃっんだからさあ!(少女漫画コード的にちょっとぎょっとした展開でしたけれどね…ただ、女が同情や憐憫や友情に近い感情で男に体を開くことはままあるものである、と納得してやり過ごすことにしました。あわれ零…)
 やっぱ『ベルばら』の偉大さってアレだよ、「生涯かけてわたしひとりか!?/私だけを一生涯愛しぬくとちかうか!?」「千のちかいがいるか万のちかいがほしいか」「愛している」「生まれてきてよかった…!!」ってやりとりがちゃんとあることですよ! ちなみに「愛している、愛しているとも…!」は舞台版だけの繰り返しの台詞なんだけれど、それだけは植田先生を褒めてやってもいい…あ、脱線しました。
 で、さらに大ラスは、優姫が枢を人間にしてあげて終わり、ということなんですが、これってハッピーエンドなのかなあ? これで枢は倖せなのかなあ? これって枢の望んだことだったのかなあ?
 この物語の吸血鬼たちは結局、純血だろうと単なる貴族だろうと、長生きに倦み疲れてみんな狂うか死にたがるかしていました(「女王」になりたがった更は別格で、だからおもしろい存在だったのになあ…)。だから、美しかろうと長生きできようとそんなことは幸せとは関係ないよ、だから吸血鬼なんかに憧れず人間としてまっとうに生きよう、短いかもしれないけれど与えられた時間を真剣に生きて、愛して、幸せになろう…みたいなメッセージを乗せるのが、こういう物語の定番だと思うし、それでこそ人間である読者も納得するし感動するし、だからこそ主人公を人間ないし人間側に置いておく必要があるワケです。枢も人間との共存を謀る側の吸血鬼だったので、その意味ではちゃんとしていました。
 でもこのラストは…孤独だぞ? 優姫の子供たちも相手になってあげなさそうだし…それはちょっと枢がかわいそうすぎるんじゃないの?と私には不憫に思えるのでした。不憫萌えもいいんだけれど、なんかちょっと枢に対して不当な気がします…そんなちぐはぐさ、違和感が、読んでいる間ずっとあって、「あーもう…!」とキリキリしながら読みました。
 そういう意味では、心動かされたのです(笑)。なのでこうしてなんの得にもならないのにねちねち語っているのです。困った性癖です…





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『フルーツバスケット』を読んで

2020年07月29日 | 日記
 例によってマンガParkの花とゆめ&LaLa名作全話無料で、葉鳥ビスコ『桜蘭高校ホスト部』と高屋奈月『フルーツバスケット』を読みました。『フルバ』はちょっと読んだことがあった記憶があったのですが、読んでみたらほぼ序盤の設定くらいしか知りませんでした。『ホスト部』の方は完全にタイトルしか知らない作品でした。
 ヒロインが男装して男子校なり男子寮なりに入って逆ハーのモテモテで…というのは、少女漫画によくある設定のひとつかと思います。『ホスト部』の場合は学校自体は共学ですが、男子部員ばかりのホスト部に性別を偽って入ることになるので、要するにこのパターンです。かつ、お坊ちゃまお嬢様学校なのにヒロインだけが庶民の出で…とか、みんなお金持ちだけど家族にはいろいろ確執があって…とかも定番のパターンですが、それらもいちいちきちんと抑えているところにむしろ好感が持てる作品でした。白泉社の少女漫画は集英社や小学館、講談社のそれと違って(そして秋田書店作品はさらにまた別かと思いますが)、恋愛よりは家族関係とか自我、自立のテーマが前面に出てくることが多く、なので非常にいわゆる中二っぽく、思春期真っ盛り感が満載となりますが、だからこそある種の読者のツボを捕らえて多大な人気を博し、長く記憶に残るのでしょう。この作品はさらに、描き文字を含めた絵柄の流麗で端正なことやユーモラスさ、ギャグさ加減の絶妙さ、そして何よりヒロインのドライで面倒くさがりでちょっとことなかれ主義的という一風変わったキャラクターの目新しさが光って、特異なものとなったのだと思います。ラストにかけて意外に重くなりすぎず、わりとたわいないと言ってもいいオチで終わったのもよかったのではないかな、と個人的には思いました。そういえばこれまた定番の双子ネタもありましたね、私はもちろん馨派です。イヤもちろん、そもそもメガネ派としては鏡夜一択なワケですが(笑)。あと、アニメ版も評判が良かったと聞きました。幸せなことですね。
 一方『フルバ』は今、続編だか新作をやっているんですよね。どんな設定で描かれているのでしょう…こちらはだいぶ大ざっぱな括りになりますが、いわゆる妖怪ものという、これまた少女漫画のよくあるジャンルを描く一作で、これは十二支の物の怪憑きを巡るお話でした。今回ちゃんと読んでみてやっと、ヒロインが透という、女の子にしてはちょっと変わった名前の、とてもいい子であることと、女顔の美少年の由希が鼠で赤毛の乱暴者の夾が猫、ということしか自分がこの作品に関して把握していなかったことに気づきました。
 まず難点を上げると、特に中盤以降、フキダシの位置が良くなくて台詞を読ませる順番がわかりづらいことが多々あったのと、同様にどの台詞が誰の言ったものかわかりづらいことも多々あったのが、こういうテクニカルなことは簡単に直せるだけに非常に残念に感じました。あと、これはトータルの画力の問題でもあるので仕方ない部分もあるのですが、たくさんのキャラクターの外見の描き分けがあまり明確にできていないので、特に扉絵なんかは「コレ誰?」ってのが多々あったのもちょっともったいなかったです。なのに十二人どころではない、やたら登場人物の多い話を描くんだもんなー、無謀だよなー…まあこれは少女漫画的絵柄の限界でもあるところではあるのですが、でも上手い人はすっごく上手くて何百人でも描き分けられたりするものなので、あまり甘やかしてはいけないのだろうとも思うのです。さらに言うなら、十二支がモチーフなのにこんなふうにしか動物が描けなくていいんだろうか、ともつっこみたくはなりました…脱線ですが、そういえばこんなにたくさんキャラクターが出てくるのにメガネがいませんでしたね(前会長をノーカンする私…)。
 ヒロインのラブに関しては、私は夾エンドになると知らずに読んでいたので、というか先に登場したのは由希だし、普通はヒロインの相手役になるのはこっちだろう、と思っていたので、のちの展開がけっこう意外でした。それを言うなら一番最初に登場するのは紫呉ですが、彼は最終的に「神様」の相手役になるのだから、この演出は正しいとも言えます。また、再度冒頭を読み返すと、透は最初からあくまで猫派だったので、これも正しい展開なのでしょう。でも由希の王子様演出は中盤くらいまでかなりあったし、私は優等生の苦悩とかが大好物な性癖の持ち主なので夾よりは由希派だったため、やっぱりちょっと残念だったかな。ただ、由希の脱落のさせ方(言い方…)はなかなか斬新に思い、けっこう感心しました。男の子が好きな女の子に母性を求めちゃうことって、実はままあると思う。でもそれは恋愛とは違うんだ、ときちんと描いてみせたところがなかなかよかったかな、とエラそうですみませんが私は思ったのです。
 作品全体の究極的なテーマにも関わりますが、実の親との関係に問題があるキャラクターは結局みんな、透に「お母さん」を見るわけですよね。透の愛情や誠意や親切さや優しさはそれほど大きく、豊かで、深い。そして人は誰しもまずちゃんと「親」に愛されて「子供」として確立されてからでないと、「人間」になっていって誰かを「好きになる」こともできないのでしょう。夾も実の親との関係は不全でしたが、先に師匠の存在で癒やされていたから、そのあと出会った透を異性としてすんなり好きになれた、ということなのではないでしょうか。透に「おかえり」と言ってもらえたから、みんな「行ってきます」と出ていけるようになる。この物語は、そういう「巣立ち」のお話です。自分の居場所とか存在意義とか将来の展望といったものに悩む当時の少女読者たちに、それはそれは深く刺さったことでしょう。
 ただ、真知を出すためではあったのかもしれないけれど、生徒会ターンは私にはけっこうトートツでナゾに感じて、混乱しました(笑)。翔のキャラは作者的にもけっこう描きにくかったりしたんじゃなかろうか…ギリギリ成立していたとは思うけれど。公とかも…あとやっぱり真知は、ヒロインの相手役だったかもしれないキャラクターの相手役としては力不足に感じたけれどな、ごにょごにょ。でもこれは単なるやきもちかもしれません、すみません。
 あとは、みんながみんな相手を見つけてカップルになって終わったりすることがなかったのが、よかったです。それだとみんなちょっと上手くいきすぎ、世界が狭すぎだと思うから。自由になった人生、それこそこの先の方が長くて、まだまだ新たな出会いがあるはずなのですからね。
 また難点に話を戻しますが、そんなわけで私が忘れていたくらいの冒頭も冒頭に十二支の由来のお伽話?みたいなのは出てくるんだけれど、途中、もう何度か繰り返してもよかったんじゃないかとは思います。だってこの昔話?ってそんなにメジャーじゃなくないですか? 特に、猫は鼠に嘘を吐かれたので神様の宴会に間に合わず十二支の仲間に入れてもらえなかったのだ、ということと、鼠は悪賢いので牛の背に乗っていって最後だけ飛び出して一番乗りになったのだ、ということはもっと繰り返し語ってもよかったと思います。鼠と猫である由希と夾の仲の悪さや、十二支の中でも由希が筆頭とされている設定の補強になるので。
 同様に、ほとんど最終盤にだけ語られた、長命で孤独な神様が獣たちを宴会に呼んで契約を交わしたエピソードは、もっと早く、十二支が半分くらいか十人ほど出揃ったころにはしっかり語っておくべきだったと思います。合わせて、その契約が何代もの生まれ変わりを生み出しているんだけれど、いつも誰かが生まれていなくて、十二人揃ったのは初めてだ、ということも明かしておいた方がよかった気がします。やり過ぎちゃうと「初めてで、だから最後なのかもしれない。これで終わりなのかもしれない」ってフラグが立ちすぎちゃうだろうから、加減が難しいんだとは思いますが、今はちょっと後出し感がすぎると思うので。
 あとはこの設定に説得力をより持たせるために、草摩の家というか一族が政財界の黒幕として君臨していてすごい財力や利権があるんだ、みたいなことに、もっとちゃんとしておきたかったですね。だから仕える人間や周りで騒ぐ大人がいるんだし、その中で物語の最終的なラスボスが慊人から楝へ、そしてお局の長みたいだったあの婦人(名前、出てきませんでしたよね…キャラ立ててもよかったのに)へと移っていくのだし。まあこれは今読んでいる私がすでに十分大人だから気になるのかもしれませんが、当時夢中になっていたであろうザッツ中二の読者たちだって実はそんなにコドモではなかったりするので、そういうフォローは編集者が指摘して、一度だけ上手く説明しておけばいいことなので、やっておくといい補強になったろう、と思います。
 あとは(「あとは」が多いな)、結局のところ神様と十二支の「呪い」「絆」とはなんなのか、何故十二支は神様に絶対服従しちゃうのか、ってのはもうちょっと明快な説明が欲しかったかなと思います。思わせぶりな描写ってのはもちろん演出としてとてもいいんだけれど、そのあとにはちゃんと真相の開示や真意の解説という答え合わせがないと、不完全燃焼になるし読者は納得しきれなくて不安になっちゃうんですよ。血が呼ぶからとか、そう思い込まされ教育され洗脳されちゃうからってのはわかるけれど、成長して反抗期が来てそれでもなお逆らえないんだから、たとえば月に一度は神様とセックスしないと弱って死んじゃうんです、みたいな、そういう具体的な拘束条件みたいなものの説明が必要だったと思います。もちろん慊人の性別を最後まで知らなかった十二支がいるくらいなんだからセックスとなるアレなんでしょうけれど、たとえば粘膜の接触が必要であるとか粘液の交換が必要であるとか、だからチューくらいはしないとダメなんだとかにするとか、あるいはまあそうしたセックス方面(笑)から離れるなら、血を吸わせてもらうとかオーラに当たる必要があるとかでもいいし、とにかく同衾する、くっついて体温を感じて一晩眠らないと死んじゃう、あるいは弱って人間の姿が保てなくなる、とか、まあなんでもいいんだけれどとにかくそういう「実際に何がどうなるのでそれを避けるために何をどうしていたのだ」という説明が欲しかった、と私は思います。もちろん逆らうと一族郎党根こそぎ逆鱗に触れて経済的社会的被害を被るから、とかでもいいんだけれど、せっかくやたらと慊人が十二支にぺたぺた触り抱きつく描写があるんだからさ…
 ところで私は、慊人は脚が悪いのかなと思っていました。登場シーンは座っていたり腰掛けていたりすることが多かったし、十二支にやたらぺたぺた抱きつくのは実は移動のために抱き上げてもらう必要があったから、ということなのかな、でももちろんやるこたやってんだよね、とか思っていたのです。萌えません?
 …以上のことが気になるくらいで、でもたくさんのキャラクターをこれでもかと出し、描き込み、これまた中二に刺さる数々の家族の不幸や確執や相克を描き、愛情と信頼の屈託を描いて、でもストーリーが崩壊したり巻き巻きになったり尻切れトンボになったりせずに綺麗に着地し完結したことが、まずもって素晴らしいです。あたりまえのことのようですが、これがきちんとできている作品は残念ながらなかなかないからです。作品の人気とかコミックスの売れ行きとか掲載誌の都合とか作者の力量とか精神状態とかとか、いろいろな問題が起こりえるものですからね。
 結局のところこの物語は、子供が大人になるまでのお話であり、「変わるのが怖い(この作品では「恐い」)」「永遠の契約こそ最高にして至上」というある種子供じみた思いに縛られていた者たちが「変わらないものなどないんだよ」「変わらないと幸せ(この作品では「倖せ」)になることもできないんだよ」という本当ならほとんど自明の真理に触れて、それを受け入れ、「変わらないものなどないのだ、自分を信じて、他人を信じて、世界を信じて変わっていってみよう、そうして幸せになろう」と考えるようになる、踏み出していく、というだけの、お話です。でもその単純さが、その真理が、思春期や成長期にあってあれこれ思い悩む読者の心を、これでもかと強く捕らえたのでしょう。
 確かに「自明」というのは言いすぎなのでしょうからね。ある程度まっとうな親にまっとうに愛され認められ褒められ慈しまれて育てられないと、子供はそうしたことを自然には理解できるようになれないからです。読者の多くは、登場人物たちほど極端ではないにせよ、家族や家庭に問題や不安を感じているのでしょうし、たとえ問題はなくとも想像力で登場人物たちの不幸や不安に寄り添える、心優しい少女たちなのでしょう。これは、そんな彼女たちに支持された、珠玉の一作だったのだと思います。やってることはそんなに目新しいものではなかったかもしれませんが、おもしろいタイトルともあいまって、ひとつの時代を画した作品と言えるかもしれません。
 ところで私は動物では犬と馬とライオンを愛しているのですが、依鈴はそんなにツボらなかったのでちょっと残念でした。少なくとも馬はこういう性向の動物ではない…そして自分の干支が酉なので、紅野という特殊な設定を負ったキャラが配されたことは個人的に嬉しかったです。でも鶏って飛べないけどね…まあ辰が龍からタツノオトシゴに変わっているように、酉も何か違う鳥に変わっているのかもしれませんが。確かに天翔る龍を除けばあとの獣はみな地上を歩むものばかりなので、唯一空を飛べる物の怪憑きに特別な設定を持ってくるのはこれまた正しい演出だと言えるでしょう。
 では最後に個人的に萌え萌えの、ぐれさんとあーちゃん(笑)について語らせてください。てかこんなにも忠犬な戌よ…!
 私はわりと初期から、これまたやたら思わせぶりな演出をされる紫呉ですが別にラスボスとかってことではなく、単に慊人ラブなんだろうなとずっと思っていたので、ちゃんとストーリーがそう流れてくれて万々歳でした。てかその尺はないと判断されたのかもしれないですが、過去エピソードをちゃんとやってほしかったなー。
 慊人が楝の体内に宿ったときに嬉し泣きして集ったのは紫呉、はとり、綾女(そのあとに紅野?)の三人とされていますが、紫呉だけが最初から慊人に対して真剣な愛情を持っていたのでしょう。男子として育てられた慊人の胸がやがて膨らみ、初潮を迎え、最初に寝たのが紫呉だと私は思いたいけれど、そのあたり何がどうなってそうなったのか、知りたい! さらに慊人が紅野と寝たので紫呉は当てつけのように楝と寝た、とされていますがそのあたりももっとくわしく聞きたい! きっかけ、順番、タイミング…めっちゃドラマがあったはずです。
 ラストもね。不満なの。あっさりしすぎてるよー、もっとネチネチお熱く描いてよー、と歯噛みしました。
 要するに紫呉が常にフラフラして「一番束縛できなくて 一番僕を恐れないで/一番僕を突き離してた」と慊人に思わせるように仕向けていたのは、慊人を真に愛していたからこそで、そして十二分の一なんかでは満足する気がハナからさらさらなかったからです。
 彼はどんなに紅野を憎み嫉み羨んだことでしょうね。呪いから解放されていればこそ、彼は「でも慊人のそばにいる」ということを選択できた。紅野はそういう形で慊人への愛や忠誠を示すことができた。でも呪いに捕らわれている紫呉にはそれができません。彼が慊人のそばにいるのは単に十二支だからで、呪いがかかっているから、命令には逆らえないから、ということに「されて」しまう。本当は、ただ愛しているから、大事に想っているから、そばにいたいから、なのに。でもそれが証明できないから、むしろ十二支らしからぬように、気ままを装いフラフラ離れてみせていたのです、ずっと。でも本当は、ずっとずっと慊人を愛していて、そしてそっと「時」を待っていたのです。
 ずっとこだわってきた父親や母親と「お別れ」し、また呪いの絆が解かれて他の十二支たちがみんな「神様」の元を去ったときに、それでも彼女が自分の名を呼ぶことを、そしてそれに応えるそのときを、彼はどんなに待っていたことでしょう。だからこのくだりくらいは、もっとストレートな言葉を、場面を私は読みたかったです。「…わかるよね」じゃわからない! 「好きですよ/僕を求め続けてくれるなら」だと、慊人が愛してくれるなら僕も愛し返してあげる、と言っているみたいになっちゃうじゃないですか。でも紫呉の愛ってそういうんじゃないじゃん、「一度手に入れたなら 絶対手放したくないし/誰にも触らせたくない」ってものだったじゃん。十二分の一じゃなくなって、完全な一対になって、もう未来永劫全部あげるし全部奪う、みたいなヤツのはずじゃん。そういう熱い、どストレートな台詞が欲しかったなー。
 あとねあとね、男が女に着るものをプレゼントするのは、もちろんそれを着せて美しく着飾らせるためでもありますが、それを脱がせて我がものにするってところまでがセットだから!! 是非ともそこまでやってほしかったです!!!
 …なのでそこは仕方がないので脳内妄想で勝手に補完して、この物語を読み終えることにするのでした。
 あ、最後になりましたが、そんなわけで慊人が女性だった、というのがけっこういいな効いてくるなと思ったのは、主人公の透とラスボス慊人とのシスターフッド、みたいな感じでこの物語を締められたことです。確かに人は親子の確執が解けたら、次には好きな人を作るようになる前に、それがたいていは異性を対象にするものだからなおさら、まずは同性の友人を作るものですもんね。いろいろ歪んだり悩んだり迷ったりしたけれど、それでも人はすこやかに、ゆっくり、確実に、成長していく…これは、そういう物語だったのだと思います。


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『ホテリアー』~韓流侃々諤々リターンズ14

2020年07月25日 | 日記
 2001年MBC、全20話。

 本来なら東京オリンピックが開幕されるはずだった、そのためにむりやり作られた連休が五輪延期決定後もそのまま残り、しかもコロナ感染拡大防止も全然できていない中GoToなんちゃらだのイヤ東京除外で見切り発車だのなんだのとかまびすしい中、私はカレンダーどおりの休みや旅行を避ける癖が身に染みついていますので、予定どおりのステイホームのお籠もりで、連ドラ一気見第二弾をやらかしました。ちなみに次の予定はまだないのですが(またしばらくノー予定の週末がないので)、第三弾は『ミサ』にいきたいと思っています。その次に『コヒプリ』かなあ。
 それはともかく、当時は、『冬ソナ』のひとつ前のペ・ヨンジュン出演作、として日本では話題だったかと思います。同じくチェ・ジウがヒロインの『天国の階段』も話題でしたが、ヨンヨン(私は当時ファンすぎて「ヨン様」なんて恥ずかしくて呼べませんでした。やってることがホント今と同じや…)ファンとしては断然こちらでしたよね。
 ただ、当時もうっすら思っていたけれど、今見返してみてわかりましたが、特にものすごく良くできているということはない、むしろいかにも祖製濫造なザッツ韓ドラな一作だったよな、とは思いました。せめて全16話でまとめてくれていたらまだマシだったかもしれません。
 とはいえ、語りたいことは語ります(笑)。以下、おつきあいください。

 この作品もメインキャラクターは男女4人、韓ドラの定番です。
 ヒロインはソ・ジニョン(ソン・ユンア。というかソン・ユナのことなんだけれど、このパッケージではこの表記になっています。このドラマの字幕はユニだろうというところもユンヒとしているんだけれど、ハングルから考えてもこの日本語表記はおかしいです)。ソウルホテルのVIP顧客担当支配人。クールめな美貌なんだけれどざっかけない、おきゃんといってもいい、そこがチャーミングなキャラクターです。
 その元カレがハン・テジュン(キム・スンウ)。元ソウルホテルの支配人のひとりで、ジニョンとは同期で同僚で、多分いくらか年上で出世がちょっと早かったのかな? 次期総支配人とも目されていましたが、とある顧客トラブルでホテルを辞めさせられ、ラスベガスへホテルマン修行に行ったものの…という設定。口数は少ないものの優しくて人当たりが良く、頼りがいのあるタイプ。物語は、別れてから3年後、経営難に陥ったホテルを建て直すため、ジニョンが彼をラスベガスに探しに行くところから転がり始めます。
 ペ・ヨンジュンが演じるのはシン・ドンヒョク。アメリカ名はフランク・シン、在米韓国人で凄腕のM&A請負人。ソウルホテルの買収をもくろむキム会長から依頼を受け、またラスベガスでひょんなことからジニョンと関わり…という流れ。海外養子に出されて苦労して育ち、のし上がり、巨万の富を築いて成功しているものの、クールで冷酷で人を信じない男が、屈託のある母国にまで出向こうと思ったのは彼女に興味を持ったからで…という萌え設定です。
 そしてセカンド・ヒロインはソン・ヘギョ演じるキム・ユンヒ。キム会長のひとり娘で、母親を自死で失い家庭を顧みない父親に失望し、グレ気味のお嬢様です。これまたひょんなことからテジュンと知り合い、恋心を抱き、出自を隠してソウルホテルで働くことになります。
 キャストで最初に名前が出るのはキム・スンウで、次がペ・ヨンジュンなんですよね。だからテジュンがヒロインの相手役でドンヒョクはあくまで仇役、だったのかもしれません。けれど、今はさすがに改善されているのかもしれませんが当時の韓ドラは脚本の上がりの遅さが本当にひどくて、朝上がったホンで昼撮って夜放送するみたいなことがザラだったそうで、逆にいうとファンの反応を見て筋や結末を変えられたそうなのです。なのでこの作品も、本当はテジュンとジニョンが元サヤに治まって終わり、こちらが主役カップル、というはずだったのが、ドンヒョク人気が上がったのでこっちエンドに変えた、という噂も、まことしやかにありました。でもドラマの冒頭とラストにあるラスベガスのシーンを先撮りしていることを考えると(『バリ出来』と同じパターンですね)、ラスベガスでテジュンとユンヒが抱き合う場面があるので、ジニョンはドンヒョクと、テジュンはユンヒと、という四角関係のクロスエンドが当初から予定されていたようにも思えます。さて、どうなんでしょうね? それともこの場面は、あくまでユンヒの夢や願望として処理するつもりで撮っておいたシーンなんでしょうか?
 キャストの力関係の問題もあるのかもしれませんが、がっつり四角関係を展開にするにしてはユンヒが弱いのがまず玉に瑕です。キム会長はドンヒョクとユンヒを娶せたいと思っている節もあったので、そのあたりをもっと掘ってもおもしろかったと思うんだけれどなあ。それとは別に、ドンヒョクがユンヒに妹ジェニーの影を見たりしてもよかったと思うし。でもここの線が弱いので、4人の関係が四角関係にならず、一直線に並んでいるだけになっちゃってるんですよね。それがもったいなかったです。かつ、ユンヒのキャラがストーリー都合でちょいちょいブレる。これまたもしかしたら女優の演技力の問題なのかもしれませんが、でもグレてワルぶっていた気だるげな若い娘が突然中年男にアタックする前向きはりきりぶりを見せるのは、豹変の域を出ていたと思います。残念。
 さらに疵なのが、結局のところこれは恋とビジネスの相克を描くドラマなので、ビジネスの部分をもっとちゃんと描いてくれないと結局恋愛パートもぐずぐずになっちゃうのに、そこが甘すぎた点です。ホテルにとって、経営とは何か、株主とは何か、オーナーとは何か、社長とは何か、総支配人とは何かをきちんと定義してくれないと、何が争われていて、どう隙を見つけて逆転していくのかのドラマが立たないのです。視聴者も馬鹿じゃないんですからね。
 キム会長がソウルホテルを欲しがるのは、社長夫妻への私怨でいいんです、この人はこーいうキャラですからね(しかしキャラ、設定、パターンとはいえこういう財閥会長しか登場しない韓ドラってホントなんなんだ…恫喝は立派な犯罪です)。でも実際に今、このホテルが社長が代替わりして債務がかさんでいて社員に給料も払えないかもしれないくらいに経営が傾いていて、でも活路が見えそうで企業としての価値があると判断されて債権ごと買い取って改善して儲けようって人が現れたなら、むしろ健全で歓迎すべきことなのでは? もちろん即リストラが極端なのはわかるけれど改善手段のひとつでもあるだろうのに、「みんな家族みたいなものなんだから」とか言うのはビジネスの理屈になっていなくておかしいワケですよ。そういうおバカなことを主人公側に安易にさせてほしくないんですよね。ドンヒョクはそんなの全部わかってて、最終的には悪くさせないよう暗躍してくれているのに、そういうことがきちんと見えるように描かれていないのがすごーく不満でした。
 あと、ドンヒョクがジニョンとつきあううちにホテルマンたちの顔が見えてきて、懸命に働く彼らを好ましく思い、ホテル経営に興味を持ち…みたいな展開にも、ちょっと笑っちゃいました。この人は仕事が大変だなんてことはそれこそ身に染みてわかっている人で、だからこそ家族的なムードの中で甘えてのんきに働いている人たちのことなんざかえって軽蔑しそうなキャラだったんじゃないの? そんなわかりやすい甘ちゃんに彼のキャラを勝手に変えないでくれ~! せめてテジュンの総支配人としての手腕や力量やビジネスマンとしてのビジョンなんかを認め、ビジネスとして価値があるからこそ金を出そうとした、としてほしかった…百歩譲って、ジニョンが実家のように思っているホテルを守ってやりたかったから、とかなら、まだ愛に目がくらんだとして納得できます。お金なんて使い切れないほど持っていても仕方ない、ってのは、そこまでお金を持ったことがない我々庶民にだってわかるからです。使ってナンボの金なら愛のために使う、のはロマンです。でもおバカなビジネスに使うのはドブに捨てるのと同じになってしまいます。それじゃ萌えられない。ビジネスマンとしての彼の描き方が中途半端になることは、ロマンスとビジネスの対立を描くこのドラマの根幹を崩壊させてしまうことにつながるのですよ。ドラマスタッフ側には、そのことにもっと留意してもらいたかったです。
 だからドラマとしては、ホテルの上客だと思われていたドンヒョクが実はキム会長の手先で、ホテル買収のためにやってきた冷酷で卑劣な男だったのです…と発覚してジニョン大ショック、みんな大騒ぎ…までが、ぶっちゃけおもしろかったよね(笑)。視聴者側はドンヒョクの意図がわかっていて、なのにそれに反してジニョンにどんどん惹かれていってしまう彼と、何も事情を知らずにそれまたどんどんドンヒョクに惹かれていってしまうジニョン、ジタバタするテジュン、を存分に味わえていたからです。それ以降は、ドラマとしてはボロがどんどん出てきちゃうので。だって最後の3%の株を持っていたご婦人とのやりとりとかのその後の流されっぷりとか、すごすぎましたもん。株を半数買い占めてオーナーになるって話だっけコレ?みていな、さ。全体に間延びもしましたしね。だからせめて尺がもう少し短ければまだ…で、結果的にはキム会長のホテルへの権利を外すためにも、ドンヒョクが私財を投げ出してホテルごと買って、でもホテルの株以外は無一文になって、それはホテルを愛するジニョンへの愛のためなんだけれど、でも総支配人はテジュンで、ジニョンは彼と働くことが何より生きがいで、ドンヒョクはキム会長の不正を暴くために検察と取引してでも自分も韓国から立ち去らなくちゃならなくて、って何ソレどこがゴールでハッピーエンドなの?って、なっちゃうじゃないですか。でもなんかよくわからないけど感動的な貸切のレストランでのプロポーズとか空港での別れとかロビーでの再会とかハグとかアメ車で迎えに行くとかがあればいいのかよ、ってなっちゃうじゃないですか。さすがに失笑しますよ、もっと上手く作ってほしかった…!
 でも、シン・ドンヒョクが好きなので、耐えます(笑)。ホント途中で髪さえ切らなきゃなー! 別の仕事がペ・ヨンジュンに入ったのか、単なるイメチェンなのか、確かにちょっとマッチョにより強面に見えるようになって、でも前半の長い前髪が繊細でよかったのになー! てか登場シーンがヘリに乗ってパームいじってんですよ萌えるよね当時最先端だったんだよね!!
 テジュンは頼りたくなる男でドンヒョクは抱きしめてあげたくなる男、ってんでジニョンが揺れるのもよくわかります。だからドラマしてはテジュンとジニョンの恋とか別れの経緯ももっときちんと描かないと、これまた結果的にジニョンとドンヒョクのことも引き立たないんだから、そこも疵でした。でも、まあ、ファンは愛と妄想で埋めますから、もういいです(笑)。また忘れたころに見返したいと思います、老後の楽しみです。
 ロケ地、行ったなー。ソウル、もう十年以上行ってません。また久々に行きたいなー、いろいろ変わっているだろうし、楽しいだろうなー。
というかやはりラグジュアリーなホテルライフって楽しそうですよね。去年は誕生日に初海外ひとり旅を敢行し、今年は上海かウラジオストクにしようかなと思っていたらこのありさまで、せめて箱根でもと思っていたのも断念し、都内のホテルを予約しました。ひとりホテリアーごっこを楽しんできたいと思います…www





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『殺意』

2020年07月18日 | 観劇記/タイトルさ行
 シアタートラム、2020年7月14日19時。

 とある高級ナイトクラブ。最後の夜、最後のステージを終えたソロダンサア緑川美沙(鈴木杏)が突如、客に自分の身の上話を語り出す。南の国の小さな城下町に生まれた彼女は、日華事変、二・二六事件の直後、兄の勧めで上京し、「真実の進歩的思想家」で左翼の社会学者である山田教授のもとに身を寄せる。そこで教授の弟・徹男に淡い恋心を抱くが、やがて日本は戦争に突入し…
 作/三好十郎、演出/栗山民也、音楽/国広和毅、美術/二村周作。1977年初演、休憩なし2時間全1幕のひとり芝居。

 『アナスタシア』以来、3か月とほぼ20日ぶりの観劇となりました。劇場に入っただけで泣く…とかはありませんでしたが、行くまではさすがにソワソワしましたね。ちょうど出社する用事があった日なのですが、会議などを終えて自分の仕事を済ませながら、予定どおりキリ良く出られるだろうか、きちんと狙った電車に乗れてスムーズに移動できるだろうか、コンタクトレンズやチケットは忘れていないよね…と、何度も確かめちゃったのです。そして久々にいわゆる退勤時間の半蔵門線(田園都市線)に乗りましたが、座れないけれど立っている人が一車輌に数人…程度で、いつものギュウ詰めで自分の足でなんか立っていられない、みたいなもみくちゃ満員なんかでは全然なく、都心ではリモート勤務や時差出勤がちゃんと根付いてきたのかもしれないな、とちょっとホッとしました。ま、渋谷からはけっこう客が乗ってきて、まあまあの込み方になりはしたんですけれどね。
 劇場では入り口に手指消毒と足拭き消毒マットが置かれ、チケットカウンターにはアクリル板、チケットのモギリは観客自身で、改札や客席案内係はマスクにフェイスガシールド、客席はひとつ空きの市松模様と、きちんと対策されていました。
 客層は、いつも私が行くような舞台より老若男女幅広い印象。そしてシアターコクーンや新国立劇場小劇場なんかではよく見る、客席が舞台を囲む形になっていて、私はトラムでは初めて見た気がします。舞台、というか芝居が行われるであろう場所は主にほぼ床で、円形のザッツ・ストリップ小屋のステージが真ん中に据えられ、音響設備らしきものやライトやマイク、椅子、ソファなんかがあります。天井からは赤や黄色の裸電球らしきものがチカチカ瞬き、プログラムによれば「高級ナイトクラブ」ですが、昭和の場末のストリップ小屋感をバッチリ醸し出していました。
 鈴木杏は赤いブラジャーとかぼちゃブルマーみたいなステージ衣装に楽屋着らしきガウンを引っかけて、蕩々としゃべり出します。途中、鬘を取って口紅を拭うのには、どこのエロール・マックスウェルかなと思ったことはナイショです。いい生腹と美しい脚を堪能しました。もちろんときどきは噛んだりとちったりするんだけれど、口跡良く聴きやすく、鍛えられたいい声をしていますよね。もともと好きな女優さんなんですけれど、今回も感心しました。
 お話は、結局のところこの山田教授の転向、再転向を巡る物語、とでもいうのかな。こういう左翼の知識人が戦争中には…というのは実際に多くあったのだろうし、戦後このくらいの時期には文学始め創作のモチーフによくなったのでしょう。私は親の蔵書から読んだ知識なんかもあって、左翼とか社会主義者とかにはインテリとしての好感しか持ったことがなくて、今なおこんなにも日本共産党が忌み嫌われていることに合点がいかないくらいなのですが(と親友に言ったら、それは実際にあった非情に暴力的な犯罪や事件を知らなすぎる、と説教されましたが)、忌避されるならまだ良くて、今や「なんのことやら」という感覚の方が世には大きいのかもしれないので、今これを上演するのはアナクロというよりはやや的外れなテーマな気もしなくもない…とかも考えました。また、結局のところ教授はそんな思想的な、あるいは生き方の遍歴とは別に、美人で気立てのいい妻をさしおいて他に何人も情夫がいるような愛人に入れあげているわけですが、それで彼はおそらく幸せなんですよね。なのにおそらくヒロインは不幸です。彼を殺そうとすることは思いとどまったかもしれないけれど、それは彼女が愛を知ったからとか幸せになれたからとかではない。また女の不幸をネタに男が描く話かよ、と思わないではなかったです。
 でも、一方で、徹男がいる。幸せになるも何もなく、出征して、死んでしまった男が一方で、いる。そしてそれからしたら、まだ生きているヒロインはそれだけで十分幸せなのかもしれない。だとすれば、これは別にただ女が不幸になるだけの話ではなく、男が死ぬ話でもあるので、それでバランスが取れているのかもしれません。
 ステージを降りた彼女が、せめて心の平穏と、静かな暮らしを手に入れられますように。観客としては、そうそっと願うより他にないのでした。


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吉田秋生『ラヴァーズ・キス』

2020年07月14日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名や・ら・わ行
 小学館別コミフラワーコミックス全2巻。

 藤井朋章は鎌倉でも大きな産婦人科のひとり息子で、今はひとり暮らし。何人もの女の子をナンパしてるだの妊娠させて父親の病院でおろさせただのと、悪い噂が多い。だが早朝の海でサーフィンをしていた彼に会った里伽子は、何故か彼に惹かれ…

 久々に再読し、改めて上手さに唸らされました。てか好み…! てか私『BANANA FISH』も感想書いていないんですね、これも近々再読してまとめたく思います。
 それはともかく、男女、男男、女女のみっつの物語、それぞれ前後編で計6本の連作で全2巻、という構成が美しすぎますし、カバーレイアウトもまあ当時の空気を感じはしますがとてもお洒落で素敵です。
 学生時代の恋愛なんて半径数メートルで起きるものだし、美樹の初恋はおそらく朋章でオーサカにもかつて彼女がいたということですから、真性の(という言い方はややアレですが)同性愛者ということでもなく、こんな近距離でこんな複雑な関係が成立するなんて…と依里子は言っていますがわりとリアルかつナチュラルにあるのではないかなと思います。想い想われ、人は学び成長していく…私は「姉妹」というものに妙に憧れを抱いているので、ラストシーンがことに好きです。朋章は少し早く社会に出て行くので、テルさんなど他にも支えとなってくれる人を得ていきます。というか彼は家族を捨てざるを得なかった。でも里伽子や依里子はそうじゃないから、まずは姉妹で、家族の中でより理解し合い優しくなれるなら、その方がずっといいです。
 あと、ピアノの使い方にうっとりします…!
 ところで私も生まれは藤沢、育ちは鎌倉なんですよ。ほぼ横浜で、海は遠い町でしたが、そのまま住んでいたのなら七里ヶ浜の方へ進学したいとか思っていたものだなあ…



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