私の老後の密かな野望に、毎日漫画喫茶に通って、世代が違ったり忙しくて手が回らなかったりで読めずにきた人気作や名作と言われる漫画を、端から読んで端からブログに感想を書きたい、というものがあるんですけれど、コロナ感染拡大防止のためのテレワークにより浮いた通勤時間と電子無料キャンペーンとで、今すでにそれができつつある気がしています。というわけで例によってマンガParkで絵夢羅『Wジュリエット』と樋野まつり『ヴァンパイア騎士』を読みました。
『Wジュリ』はツボりませんでした。背が高くてショートカットでボーイッシュで、アクション女優になるのが夢のヒロインが属する演劇部に、サラサラ金髪ロングの美女が転校してきて、けれど彼女は実は、女装が露見しないことを条件に父親に役者になる夢を認めてもらおうとする男子だったのです…というのが基本の設定のお話です。私はBLもユリも大好物ですが、基本的にはバリバリのシスジェンダーへテロセクシャルなこともあって、性別を偽るとか越境するというテーマにはよほど上手くやってもらわないとあまり惹かれない…というせいもあります。でもこの作品では、鬘を被ったり地毛になったりして髪の長さを変えればそれだけで男になれたり女に見えたりする、というのがなんとも安易だし、その男女差を描き分ける画力もないし(さいとうちほ『とりかへ・ばや』を見習ってほしい)、結局ヒロインが「でも女の子らしく、可愛いところあるじゃん」と言われて愛されたり、相手役が「意外と男っぽいよね、頼れるよね」みたいに言われて惚れられたりするので、そういう男らしさ、女らしさみたいなものの強要が嫌だったんじゃないの!?とうんざりしちゃったのでした。
ラブコメとしても、主役ふたりはかなり初期にできあがってしまって、あとは波風がほぼ立たないので、ドラマが盛り上がらず、あまりおもしろく思えませんでした。グルグル漫画として繰り出される学校行事その他のエピソードには格別なアイディアも目新しさもないし、掻き回しに投入される新キャラクターたちにも特に萌えエッセンスがない。シスコンの兄弟たちやブラコンの姉妹たちはちょっといじらしかったかな、でもそれだけなんですよね。演技や演劇とは何か、というようなことを深く描くターンもないので演劇漫画とも言えませんし、結局は親に認められて卒業してハッピーエンドゴールインになるに決まってるじゃん、という感じしかしなくて、読み進めていっても私はまったくノレなかったのでした。
今、でも、続編を連載中なんですよね。人気あるんだなあ。ふたりが結婚して、役者夫婦になっていて、かつふたりが男女ともに演じられるような役者になっているような演劇漫画になっているんだったら、ちょっとおもしろいことになっているのかもしれません。さて、どうなんでしょうね…?
一方『ヴァンパイア騎士』の方ですが、こちらの方がまだおもしろく読みましたが、やはり一世を風靡した人気作、話題作という印象だったわりには肩すかしの出来だったかな、という感想に終わりました。
私はここで何度も言っているのですが、というかここで何かを言っていてもなんにもならないことはもちろん承知しているのですがおそらく漫画の描き方本とかには書いてあってしかるべきだろうと考えているのですが、宇宙人とか、超能力者とか、妖怪とか、吸血鬼とか、狼男とか、まあなんでもいいんだけれど要するにそういう超常的な、ファンタジックなものを扱う際には、必ずルールの設定をすることが必要なのです。でもこの作品はそれができていない、それがまずダメダメです。
彼らには何ができて何ができないのか、彼らの特殊能力とは何か、それはどういう条件で発動できて、発動させないためには何が必要なのか、人間との違いは何か、弱点は何か、どこから来てどう育ったものなのか、というようなことをきちんと決めて、説明してからお話を進める必要があるのです。別に演出上おいおいになってもかまいませんが、あまりに後出しっぽくなるのはルール違反です。何より、なんでもアリになってしまうとドラマが盛り上がらなくてつまらなくなるからダメなんです。だって死んでも生き返るかもしれないんじゃ、死なれても悲しくないし、それじゃ読者は泣けません。心を震わせられないなら、物語なんて意味がありません。
吸血鬼はかなり手垢がついた素材ですが、それでもたとえばブラム・ストーカーと萩尾望都が描いているものは全然違います。この作品ではどう設定するのか、もっとちゃんと決めて、きちんと説明してほしいのです。なのに美形で長命らしいこと、昼間が苦手らしいことくらいしか冒頭で説明されていないじゃないですか。それで急に念動力みたいなものを発揮する場面が出てきたり、吸血鬼に対してなんらかの威力があるらしき謎の武器が出てきたり、コウモリだか蝶だかオオカミだか知らないけれど急に変身するんだかあるいは謎の使い魔なんだかが現れたり、もうワケわかりません。それに吸血鬼の血を吸っても飢えが満たされるんだったら、吸血鬼同士で吸血していればいいのでは? 人間の血の方が美味しいんだとか元気が出るんだとか、人間を襲う理由をなんかつけてくださいよ。でないと彼らが敵対している人間とあえてかかわろうとすることに納得できません。あと、人間の血を吸ったらその人間を吸血鬼にさせるのかどうかも説明がない。吸血鬼を人間に戻す方法があるらしいけれど、それもどういう理屈なのか説明がない。純血の吸血鬼がどうとかこうとか言うけれど、吸血鬼の男女が性交して妊娠して出産して生まれてくるんですか吸血鬼って? その説明もない。無い無い尽くしでなんでもありで、そんなノールールじゃバトルもドラマもロマンスも盛り上がらないに決まっています。
いや、ファンはがんばって脳内補完して妄想して、ついていこうとするものですよ? 実際それで人気を博したのだろうし。でも作家はそういうふうに読者に甘えてはいけないんだと思うのです。あと、そういう甘えで紡がれた物語は、そのときはよくても時代を超えられません。いわゆる「大人の鑑賞に堪えられない」ってヤツです。もちろんそれでいいんだ、この手の少女漫画は思春期の読者のハートをつかむことに特化した作品群なんだから整合性とか普遍性なんか要らないんだ、という考え方ももちろんあるかもしれませんが、私は欲張りだから、それではもったいないと思ってしまうんです。両方欲しいよ、目指そうよ、と思う。その時代のその年代の読者をつかむ力と、百年経っても万人に読み継がれおもしろいと思われる力、両方ある作品を描くことを理想としてほしいのです。そういう作品がこの世には少なからずあるだけに、低きに流れてほしくないのです。作家は若いことが多いからそこまで考えられていないことが多いでしょう、だからこそ担当編集がリードしプロデュースしていってほしいのです。この作品は素材としては十分魅力的なものが揃っていたと思えるだけに、残念です。
ただ、この作者が一番上手いのは、「綺麗な線を引くこと」かな、とは思いました。絵を描くこと、でもキャラを描くこと、でもなく、線を引くこと、です。線はとにかく綺麗。流麗で端正。でも絵としては、そりゃ美形を何人も描いてはいるんだけれど、表情に乏しいしデッサンもやや怪しくて、実は漫画家ではなくイラストレーターに向いているタイプとかお人形を描くのだけが異様に上手いとかでもなく、とにかく線そのものだけが綺麗に描けるという描き手に思えます。漫画としての絵は、構図も描写もどちらかと言えば拙いと言っていい部類だと思う。本来ならこういうバトルアクションロマンを描ききるだけの力量はない、と言ってしまえると思います。
描き分けが怪しいのと同様に、キャラクターがどんどん無表情に、アンニュイになって言ってしまうのも、読んでいてしんどかったです。中盤以降、キャラクターの見開かれた瞳がほとんど描かれていないのが典型的で、それが何を意味しているかというとそのキャラクターが驚いたりハッとしたりしていないこと、つまり心が動いていないということなんです。キャラの心が動いていなけりゃ、読者の心だって動きません。読者はキャラクターに共感したり感情移入したりして、お話を追っていくものだからです。
なのにこの作品はどんどん思わせぶり描写が増えていって、キャラクターたちはそのあと何が起きてもみんな「わかっていたわ…」と言わんばかりのしらっとした無表情をするばかりなのです。そして何がわかっていたのか、実際には何が起きたのかはまったく説明されず、ひとりよがりで雰囲気だけのワケわからん展開になっちゃっています。それを流麗な線による絵で流して、めくらましでごまかしている。そして美形キャラに惹かれた、根性ある読者だけが妄想補完でがんばってお話についていくという構図…これは苦しいです。
『フルバ』にも言いましたが、演出として思わせぶりな前振りとかはあってもいい。けれど必ずそのあとには真相、真意の開示、説明が必要です。これはもう、トイレに行ったあとは手を洗う、のと同じくらいのワンセットだというつもりで作家には肝に銘じていただきたいです。
また、この作家はキャラ萌えも実はそんなになさそうなんですよね…でも更はいいラスボス、素晴らしい仇役になりえたと思うんだけどなー。だからキャラクター造形力はある程度あるんですよね。あと、ありがちなポジションですが頼ちゃん、いいよね。好きでした。もうちょっといろいろ役割を与えてあげたかった気もします。あとは一条さんとか、好きです。これももっといくらでも掘り下げて描けたキャラクターだったでしょうよ…やはり作家がそこまでのこだわりのないタイプなのではあるまいか。もったいない…
箸にも棒にも、という作品ではないと思えたからこそもったいなくてネチネチ語っているので、瞬殺スルーでないだけマシと思って引き続き読んでいただけたら嬉しいのですけれど、まだまだ語ると、私はこの作品のラブロマンスに関する部分のストーリー展開が、ゴールは合ってるんだけど途中が全体になんだかなーだったかなー、と感じました。
構造としては、ヒロイン優姫の両脇に枢と零、です。憧れの先輩で命の恩人の枢と、幼なじみの弟分の零、みたいな、まあよくあるパターンです。そして枢は吸血鬼で、優姫と零は人間です(物語のスタート時点では、ですが)。
あたりまえですが読者は人間なので、こういう物語は人間エンドに持っていくのが基本です。そうでない場合にはそれなりの覚悟と、そういう物語を描ききるだけの力量が絶対に必要になります。人間は人間の物語にこそ共感し心震わせ感動するものであって、人間となんら関係ないものの物語など知ったこっちゃないからです。
でも、優姫は枢に、恋愛とまでは呼べないまでも、強い思慕の念を抱いている。零は優姫のためを思ってそれを押しとどめさせようとしている。叶わないから、報われないとわかっているからです。だって「異種」だからです。枢も、優姫を愛しく慈しみながらも、吸血鬼であることその他のいろいろな事情のせいで、正対できないでいる。だからこれは零→優姫→枢という構造の物語で、主に優姫と枢の禁じられた、上手く進まない関係を描き、しかし最後に枢は死ぬというか塵に帰るか何かしてとにかく優姫の前から存在しなくなり、ふたりの愛は成就したが結ばれなかった、みたいな結果になり、そのとき零は優姫の傍らにいて彼女を慰め大きな愛で包むのであった、完、みたいなのが、まああるべき流れのパターンだろうとすぐさま予測はつくわけです。というかそういう定番パターンってとても大事で、それ以外のことがやりたいのならそれ以上のことをやってみせなければならないわけで、それはとても大変なことなのです。
なので私は、優姫のそばにいながらもずっと不憫な目に遭うのであろう零を応援して読んでいってあげよう、と思って読み進めていったわけですが…途中、彼らが吸血鬼になろうが吸血鬼ハンターになろうがそれはもういいとして、枢と優姫が兄妹だったということになって零と別れて暮らす(?)展開になっちゃってからは、アレレレレ?となってしまったのでした。兄妹だろうと吸血鬼は近親婚もなんのそのらしいのでそれはいいとして(いいのかよ)、ここで一度優姫が枢とともにいることを選んだのって、「でも本心は違ってむしろともにいたいのは零なんだ」というフラグが立ってしまうということなので、それじゃ零エンドがバレバレすぎてダメだと思うんですよ。人はそばにいない人のことをより強く想うものです。でもあくまで優姫はずっとずっと枢オンリーで、だからこそラスト零、って持っていくのが効くはずだったんだから、この展開は、ない。
でも、ちょっと行き当たりばったり感もあったのかもしれませんが、とにかく話はこう展開されてしまったんですねー。そしてこのあたりの零のキャラ変もキツかった…そりゃ吸血鬼になっちゃったこととか双子(またも! ホント少女漫画って…)のこととか、彼にはとてもショックで自意識にまで作用することであろうのは想像できますが、しかしこれは作劇上のミスであるキャラ変と言っていいと思います。血気盛んなしゃかりきワンパク小僧だったのがすっかりアンニュイ男子に…枢と被ってるやん…
で、結局枢がしたかったことってなんなのかとか、優姫を人間に戻すっとかてどうなったんだとか、始祖の女性云々ってのもなんかいろいろ説明不足なまま、やっぱり枢が消えて零が残るラストで、でもそれじゃ盛り上がらないんだよだって零フラグ立ちっぱでわかってたじゃん…という、残念な結果になったのでした。ちなみにこれも『フルバ』で言ったけど(いや『フルバ』はメインカップルではちゃんとできてたんだけど)、せっかくのヒロインと相手役との最後の、ここぞというラブシーンは、もっとちゃんと明確でわかりやすい、お熱い台詞でお互いの愛を表明し合ってくださいよ! それが読みたくてここまで来たんじゃん! ロマンスのゴールはそこだろう! だって朝チュンすら枢と迎えちゃっんだからさあ!(少女漫画コード的にちょっとぎょっとした展開でしたけれどね…ただ、女が同情や憐憫や友情に近い感情で男に体を開くことはままあるものである、と納得してやり過ごすことにしました。あわれ零…)
やっぱ『ベルばら』の偉大さってアレだよ、「生涯かけてわたしひとりか!?/私だけを一生涯愛しぬくとちかうか!?」「千のちかいがいるか万のちかいがほしいか」「愛している」「生まれてきてよかった…!!」ってやりとりがちゃんとあることですよ! ちなみに「愛している、愛しているとも…!」は舞台版だけの繰り返しの台詞なんだけれど、それだけは植田先生を褒めてやってもいい…あ、脱線しました。
で、さらに大ラスは、優姫が枢を人間にしてあげて終わり、ということなんですが、これってハッピーエンドなのかなあ? これで枢は倖せなのかなあ? これって枢の望んだことだったのかなあ?
この物語の吸血鬼たちは結局、純血だろうと単なる貴族だろうと、長生きに倦み疲れてみんな狂うか死にたがるかしていました(「女王」になりたがった更は別格で、だからおもしろい存在だったのになあ…)。だから、美しかろうと長生きできようとそんなことは幸せとは関係ないよ、だから吸血鬼なんかに憧れず人間としてまっとうに生きよう、短いかもしれないけれど与えられた時間を真剣に生きて、愛して、幸せになろう…みたいなメッセージを乗せるのが、こういう物語の定番だと思うし、それでこそ人間である読者も納得するし感動するし、だからこそ主人公を人間ないし人間側に置いておく必要があるワケです。枢も人間との共存を謀る側の吸血鬼だったので、その意味ではちゃんとしていました。
でもこのラストは…孤独だぞ? 優姫の子供たちも相手になってあげなさそうだし…それはちょっと枢がかわいそうすぎるんじゃないの?と私には不憫に思えるのでした。不憫萌えもいいんだけれど、なんかちょっと枢に対して不当な気がします…そんなちぐはぐさ、違和感が、読んでいる間ずっとあって、「あーもう…!」とキリキリしながら読みました。
そういう意味では、心動かされたのです(笑)。なのでこうしてなんの得にもならないのにねちねち語っているのです。困った性癖です…
『Wジュリ』はツボりませんでした。背が高くてショートカットでボーイッシュで、アクション女優になるのが夢のヒロインが属する演劇部に、サラサラ金髪ロングの美女が転校してきて、けれど彼女は実は、女装が露見しないことを条件に父親に役者になる夢を認めてもらおうとする男子だったのです…というのが基本の設定のお話です。私はBLもユリも大好物ですが、基本的にはバリバリのシスジェンダーへテロセクシャルなこともあって、性別を偽るとか越境するというテーマにはよほど上手くやってもらわないとあまり惹かれない…というせいもあります。でもこの作品では、鬘を被ったり地毛になったりして髪の長さを変えればそれだけで男になれたり女に見えたりする、というのがなんとも安易だし、その男女差を描き分ける画力もないし(さいとうちほ『とりかへ・ばや』を見習ってほしい)、結局ヒロインが「でも女の子らしく、可愛いところあるじゃん」と言われて愛されたり、相手役が「意外と男っぽいよね、頼れるよね」みたいに言われて惚れられたりするので、そういう男らしさ、女らしさみたいなものの強要が嫌だったんじゃないの!?とうんざりしちゃったのでした。
ラブコメとしても、主役ふたりはかなり初期にできあがってしまって、あとは波風がほぼ立たないので、ドラマが盛り上がらず、あまりおもしろく思えませんでした。グルグル漫画として繰り出される学校行事その他のエピソードには格別なアイディアも目新しさもないし、掻き回しに投入される新キャラクターたちにも特に萌えエッセンスがない。シスコンの兄弟たちやブラコンの姉妹たちはちょっといじらしかったかな、でもそれだけなんですよね。演技や演劇とは何か、というようなことを深く描くターンもないので演劇漫画とも言えませんし、結局は親に認められて卒業してハッピーエンドゴールインになるに決まってるじゃん、という感じしかしなくて、読み進めていっても私はまったくノレなかったのでした。
今、でも、続編を連載中なんですよね。人気あるんだなあ。ふたりが結婚して、役者夫婦になっていて、かつふたりが男女ともに演じられるような役者になっているような演劇漫画になっているんだったら、ちょっとおもしろいことになっているのかもしれません。さて、どうなんでしょうね…?
一方『ヴァンパイア騎士』の方ですが、こちらの方がまだおもしろく読みましたが、やはり一世を風靡した人気作、話題作という印象だったわりには肩すかしの出来だったかな、という感想に終わりました。
私はここで何度も言っているのですが、というかここで何かを言っていてもなんにもならないことはもちろん承知しているのですがおそらく漫画の描き方本とかには書いてあってしかるべきだろうと考えているのですが、宇宙人とか、超能力者とか、妖怪とか、吸血鬼とか、狼男とか、まあなんでもいいんだけれど要するにそういう超常的な、ファンタジックなものを扱う際には、必ずルールの設定をすることが必要なのです。でもこの作品はそれができていない、それがまずダメダメです。
彼らには何ができて何ができないのか、彼らの特殊能力とは何か、それはどういう条件で発動できて、発動させないためには何が必要なのか、人間との違いは何か、弱点は何か、どこから来てどう育ったものなのか、というようなことをきちんと決めて、説明してからお話を進める必要があるのです。別に演出上おいおいになってもかまいませんが、あまりに後出しっぽくなるのはルール違反です。何より、なんでもアリになってしまうとドラマが盛り上がらなくてつまらなくなるからダメなんです。だって死んでも生き返るかもしれないんじゃ、死なれても悲しくないし、それじゃ読者は泣けません。心を震わせられないなら、物語なんて意味がありません。
吸血鬼はかなり手垢がついた素材ですが、それでもたとえばブラム・ストーカーと萩尾望都が描いているものは全然違います。この作品ではどう設定するのか、もっとちゃんと決めて、きちんと説明してほしいのです。なのに美形で長命らしいこと、昼間が苦手らしいことくらいしか冒頭で説明されていないじゃないですか。それで急に念動力みたいなものを発揮する場面が出てきたり、吸血鬼に対してなんらかの威力があるらしき謎の武器が出てきたり、コウモリだか蝶だかオオカミだか知らないけれど急に変身するんだかあるいは謎の使い魔なんだかが現れたり、もうワケわかりません。それに吸血鬼の血を吸っても飢えが満たされるんだったら、吸血鬼同士で吸血していればいいのでは? 人間の血の方が美味しいんだとか元気が出るんだとか、人間を襲う理由をなんかつけてくださいよ。でないと彼らが敵対している人間とあえてかかわろうとすることに納得できません。あと、人間の血を吸ったらその人間を吸血鬼にさせるのかどうかも説明がない。吸血鬼を人間に戻す方法があるらしいけれど、それもどういう理屈なのか説明がない。純血の吸血鬼がどうとかこうとか言うけれど、吸血鬼の男女が性交して妊娠して出産して生まれてくるんですか吸血鬼って? その説明もない。無い無い尽くしでなんでもありで、そんなノールールじゃバトルもドラマもロマンスも盛り上がらないに決まっています。
いや、ファンはがんばって脳内補完して妄想して、ついていこうとするものですよ? 実際それで人気を博したのだろうし。でも作家はそういうふうに読者に甘えてはいけないんだと思うのです。あと、そういう甘えで紡がれた物語は、そのときはよくても時代を超えられません。いわゆる「大人の鑑賞に堪えられない」ってヤツです。もちろんそれでいいんだ、この手の少女漫画は思春期の読者のハートをつかむことに特化した作品群なんだから整合性とか普遍性なんか要らないんだ、という考え方ももちろんあるかもしれませんが、私は欲張りだから、それではもったいないと思ってしまうんです。両方欲しいよ、目指そうよ、と思う。その時代のその年代の読者をつかむ力と、百年経っても万人に読み継がれおもしろいと思われる力、両方ある作品を描くことを理想としてほしいのです。そういう作品がこの世には少なからずあるだけに、低きに流れてほしくないのです。作家は若いことが多いからそこまで考えられていないことが多いでしょう、だからこそ担当編集がリードしプロデュースしていってほしいのです。この作品は素材としては十分魅力的なものが揃っていたと思えるだけに、残念です。
ただ、この作者が一番上手いのは、「綺麗な線を引くこと」かな、とは思いました。絵を描くこと、でもキャラを描くこと、でもなく、線を引くこと、です。線はとにかく綺麗。流麗で端正。でも絵としては、そりゃ美形を何人も描いてはいるんだけれど、表情に乏しいしデッサンもやや怪しくて、実は漫画家ではなくイラストレーターに向いているタイプとかお人形を描くのだけが異様に上手いとかでもなく、とにかく線そのものだけが綺麗に描けるという描き手に思えます。漫画としての絵は、構図も描写もどちらかと言えば拙いと言っていい部類だと思う。本来ならこういうバトルアクションロマンを描ききるだけの力量はない、と言ってしまえると思います。
描き分けが怪しいのと同様に、キャラクターがどんどん無表情に、アンニュイになって言ってしまうのも、読んでいてしんどかったです。中盤以降、キャラクターの見開かれた瞳がほとんど描かれていないのが典型的で、それが何を意味しているかというとそのキャラクターが驚いたりハッとしたりしていないこと、つまり心が動いていないということなんです。キャラの心が動いていなけりゃ、読者の心だって動きません。読者はキャラクターに共感したり感情移入したりして、お話を追っていくものだからです。
なのにこの作品はどんどん思わせぶり描写が増えていって、キャラクターたちはそのあと何が起きてもみんな「わかっていたわ…」と言わんばかりのしらっとした無表情をするばかりなのです。そして何がわかっていたのか、実際には何が起きたのかはまったく説明されず、ひとりよがりで雰囲気だけのワケわからん展開になっちゃっています。それを流麗な線による絵で流して、めくらましでごまかしている。そして美形キャラに惹かれた、根性ある読者だけが妄想補完でがんばってお話についていくという構図…これは苦しいです。
『フルバ』にも言いましたが、演出として思わせぶりな前振りとかはあってもいい。けれど必ずそのあとには真相、真意の開示、説明が必要です。これはもう、トイレに行ったあとは手を洗う、のと同じくらいのワンセットだというつもりで作家には肝に銘じていただきたいです。
また、この作家はキャラ萌えも実はそんなになさそうなんですよね…でも更はいいラスボス、素晴らしい仇役になりえたと思うんだけどなー。だからキャラクター造形力はある程度あるんですよね。あと、ありがちなポジションですが頼ちゃん、いいよね。好きでした。もうちょっといろいろ役割を与えてあげたかった気もします。あとは一条さんとか、好きです。これももっといくらでも掘り下げて描けたキャラクターだったでしょうよ…やはり作家がそこまでのこだわりのないタイプなのではあるまいか。もったいない…
箸にも棒にも、という作品ではないと思えたからこそもったいなくてネチネチ語っているので、瞬殺スルーでないだけマシと思って引き続き読んでいただけたら嬉しいのですけれど、まだまだ語ると、私はこの作品のラブロマンスに関する部分のストーリー展開が、ゴールは合ってるんだけど途中が全体になんだかなーだったかなー、と感じました。
構造としては、ヒロイン優姫の両脇に枢と零、です。憧れの先輩で命の恩人の枢と、幼なじみの弟分の零、みたいな、まあよくあるパターンです。そして枢は吸血鬼で、優姫と零は人間です(物語のスタート時点では、ですが)。
あたりまえですが読者は人間なので、こういう物語は人間エンドに持っていくのが基本です。そうでない場合にはそれなりの覚悟と、そういう物語を描ききるだけの力量が絶対に必要になります。人間は人間の物語にこそ共感し心震わせ感動するものであって、人間となんら関係ないものの物語など知ったこっちゃないからです。
でも、優姫は枢に、恋愛とまでは呼べないまでも、強い思慕の念を抱いている。零は優姫のためを思ってそれを押しとどめさせようとしている。叶わないから、報われないとわかっているからです。だって「異種」だからです。枢も、優姫を愛しく慈しみながらも、吸血鬼であることその他のいろいろな事情のせいで、正対できないでいる。だからこれは零→優姫→枢という構造の物語で、主に優姫と枢の禁じられた、上手く進まない関係を描き、しかし最後に枢は死ぬというか塵に帰るか何かしてとにかく優姫の前から存在しなくなり、ふたりの愛は成就したが結ばれなかった、みたいな結果になり、そのとき零は優姫の傍らにいて彼女を慰め大きな愛で包むのであった、完、みたいなのが、まああるべき流れのパターンだろうとすぐさま予測はつくわけです。というかそういう定番パターンってとても大事で、それ以外のことがやりたいのならそれ以上のことをやってみせなければならないわけで、それはとても大変なことなのです。
なので私は、優姫のそばにいながらもずっと不憫な目に遭うのであろう零を応援して読んでいってあげよう、と思って読み進めていったわけですが…途中、彼らが吸血鬼になろうが吸血鬼ハンターになろうがそれはもういいとして、枢と優姫が兄妹だったということになって零と別れて暮らす(?)展開になっちゃってからは、アレレレレ?となってしまったのでした。兄妹だろうと吸血鬼は近親婚もなんのそのらしいのでそれはいいとして(いいのかよ)、ここで一度優姫が枢とともにいることを選んだのって、「でも本心は違ってむしろともにいたいのは零なんだ」というフラグが立ってしまうということなので、それじゃ零エンドがバレバレすぎてダメだと思うんですよ。人はそばにいない人のことをより強く想うものです。でもあくまで優姫はずっとずっと枢オンリーで、だからこそラスト零、って持っていくのが効くはずだったんだから、この展開は、ない。
でも、ちょっと行き当たりばったり感もあったのかもしれませんが、とにかく話はこう展開されてしまったんですねー。そしてこのあたりの零のキャラ変もキツかった…そりゃ吸血鬼になっちゃったこととか双子(またも! ホント少女漫画って…)のこととか、彼にはとてもショックで自意識にまで作用することであろうのは想像できますが、しかしこれは作劇上のミスであるキャラ変と言っていいと思います。血気盛んなしゃかりきワンパク小僧だったのがすっかりアンニュイ男子に…枢と被ってるやん…
で、結局枢がしたかったことってなんなのかとか、優姫を人間に戻すっとかてどうなったんだとか、始祖の女性云々ってのもなんかいろいろ説明不足なまま、やっぱり枢が消えて零が残るラストで、でもそれじゃ盛り上がらないんだよだって零フラグ立ちっぱでわかってたじゃん…という、残念な結果になったのでした。ちなみにこれも『フルバ』で言ったけど(いや『フルバ』はメインカップルではちゃんとできてたんだけど)、せっかくのヒロインと相手役との最後の、ここぞというラブシーンは、もっとちゃんと明確でわかりやすい、お熱い台詞でお互いの愛を表明し合ってくださいよ! それが読みたくてここまで来たんじゃん! ロマンスのゴールはそこだろう! だって朝チュンすら枢と迎えちゃっんだからさあ!(少女漫画コード的にちょっとぎょっとした展開でしたけれどね…ただ、女が同情や憐憫や友情に近い感情で男に体を開くことはままあるものである、と納得してやり過ごすことにしました。あわれ零…)
やっぱ『ベルばら』の偉大さってアレだよ、「生涯かけてわたしひとりか!?/私だけを一生涯愛しぬくとちかうか!?」「千のちかいがいるか万のちかいがほしいか」「愛している」「生まれてきてよかった…!!」ってやりとりがちゃんとあることですよ! ちなみに「愛している、愛しているとも…!」は舞台版だけの繰り返しの台詞なんだけれど、それだけは植田先生を褒めてやってもいい…あ、脱線しました。
で、さらに大ラスは、優姫が枢を人間にしてあげて終わり、ということなんですが、これってハッピーエンドなのかなあ? これで枢は倖せなのかなあ? これって枢の望んだことだったのかなあ?
この物語の吸血鬼たちは結局、純血だろうと単なる貴族だろうと、長生きに倦み疲れてみんな狂うか死にたがるかしていました(「女王」になりたがった更は別格で、だからおもしろい存在だったのになあ…)。だから、美しかろうと長生きできようとそんなことは幸せとは関係ないよ、だから吸血鬼なんかに憧れず人間としてまっとうに生きよう、短いかもしれないけれど与えられた時間を真剣に生きて、愛して、幸せになろう…みたいなメッセージを乗せるのが、こういう物語の定番だと思うし、それでこそ人間である読者も納得するし感動するし、だからこそ主人公を人間ないし人間側に置いておく必要があるワケです。枢も人間との共存を謀る側の吸血鬼だったので、その意味ではちゃんとしていました。
でもこのラストは…孤独だぞ? 優姫の子供たちも相手になってあげなさそうだし…それはちょっと枢がかわいそうすぎるんじゃないの?と私には不憫に思えるのでした。不憫萌えもいいんだけれど、なんかちょっと枢に対して不当な気がします…そんなちぐはぐさ、違和感が、読んでいる間ずっとあって、「あーもう…!」とキリキリしながら読みました。
そういう意味では、心動かされたのです(笑)。なのでこうしてなんの得にもならないのにねちねち語っているのです。困った性癖です…