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駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『奇跡の人』

2022年05月31日 | 観劇記/タイトルか行
 東京芸術劇場プレイハウス、2022年5月25日17時半。

 森新太郎演出、高畑充希アニーは前回も観ていて、そのときの感想はこちら
 今回のキャストはヘレン/平祐奈、ケイト/村川絵梨、ジェイムズ/井上祐貴、アーサー/池田成志。
 おもしろく観たことしか覚えていませんでしたが、10分ずつ2回の休憩込みで3幕3時間20分、ほぼ変更はなしかな? 下手手前にポンプ、上手手前に玄関前のステップがあってそこが前庭のイメージ、奥はわずかに八百屋になっていて、駅舎になりケラー家のダイニングになりアニーの2階の部屋になりガーデンハウスになる構造です。
 前回もケイトに惹かれたけれど、今回もとてもよかったです。何度も観る女優さんだけれど声がいいですよね。そしてすらりと背が高く、とても優美なサザン・ベルっぷり! ヘレンをやってアニーをやった女優さんがいつかケイトをやる、なんて素敵だなと思ったのですが、でもヘレンは6歳かはともかく子供の役で、アニーもはたちの小娘って感じなのに対してケイトはすらりとした大人の女性であってほしいから、やはりひとりがやるのは無理かしら…少なくともアーサーは小男であってほしいですよね(笑)。
 前回ほどには感じませんでしたが、アーサーはやはり南部のマッチョな、愛情深くはあるんだろうけど思慮の浅い、ワガママで癇癪持ちな男なわけです。だいたい過去の栄光にすがって軍隊時代の階級の称号で家族に呼ばせているなんてろくな男じゃない。でもそれは家族側が悪いところもあって、そうしておけば彼が機嫌がいいから、それで周りも楽できるからおだてて持ち上げてそれですませているんですよね。本気のぶつかり合いをしていない。だからジェイムズも疎外された気持ちになって歪んで育つんです、かわいそうです。
 そこに、遠慮とか配慮とかそうしたいっさいにかまわない、火の玉みたいなアニーが活を入れるんです。そういうお話です。それはアニーの性格でもあるけれど、そうしないとヘレンの魂に寄り添えないからでもある…
 ヘレン役は、ホント痣や生傷だらけなんじゃないかと思うような転がりっぷり、ぶつかりぶりなんですけれど、だからこそラストの、水に名前があること、手で綴るスペルはそれを表していることに気づいたときの、瞳に光が宿り知性の灯りが灯る瞬間の鮮やかさが素晴らしいです。それまで、お行儀を覚えても人形のようだった少女が、真に人間になる瞬間…涙せずにはいられません。
 そう、犬も馬も賢くて、人間の幼児より知能があると言われています。猿とかね。イルカでもシジュウカラでも、言語らしきものを持って意思疎通している動物は意外にもたくさんいるのです。けれど彼らは文字を持ちません。その記号化、抽象化ができるからこそ人間の文化文明があるのです。愛犬の肉球にスペルを綴っても反応は得られない、けれど人間同士ならそこから全世界が広がるのです。
(三角関数はその延長です。あの数値、あの概念をあの記号で表すことで世界の記述がよりシンプルに容易くなり、それこそ人間は新たな次元を手に入れたのです。たとえ実社会で使わなくてもそのこと自体には敬意を払ってほしいものですよ人間なら。それができない、したくないと言うのは自ら昆虫以下くらいの生き物だと言っているのと同じだと私は思いますし、そういう人間を軽蔑します)
 ホームドラマで、南北の歴史や文化が激突する物語で、何より人間の愛や努力や情熱を讃える、激しく美しい舞台です。わかっていても、何度観ても、泣く。今回もとても良きでした。




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『お勢、断行』

2022年05月23日 | 観劇記/タイトルあ行
世田谷パブリックシアター、2022年5月11日19時(初日)、21日18時。

 大正末期の東京。女流作家お勢(倉科カナ)は資産家の松成千代吉の屋敷に身を寄せている。この屋敷には、千代吉が愛する一人娘の晶(福本莉子)と住み込みの女中・真澄(江口のりこ)、そして千代吉の暴力や小姑・初子(池谷のぶえ)の嫌味に苦しむ後妻の園(大空ゆうひ)が住んでいた。ある日、千代吉に屈辱を受けた代議士・梅次郎(梶原善)と園が結託し、千代吉を狂人に仕立てて知り合いの精神病院に入院させ、松成家の財産を奪う計画を企てるが…
 原案/江戸川乱歩、作・演出/倉持裕、音楽/斎藤ネコ、美術/二村周作。2020年2月に緊急事態宣言発令のため初日直前に上演中止となり、ゲネプロだけやったという公演の待望の上演。全1幕。

 前作にあたる『お勢登場』もたまたま観ていて、感想はこちら
 この作品は乱歩のいくつかの短編を組み合わせ翻案したものでしたが、今回はそのお勢という悪女のキャラクターだけを使った、オリジナルの作品です。ただ、実際に大正時代に世間を騒がせた事件をもチーフに取り入れている部分があり、そのせいもあって全体に乱歩感がある、というような作品になっているんだと思います。
 主に松成家の家屋を表す、しかしときに往来になり病院になり電燈工夫(堀井新太)の下宿屋になるような、パタパタ動いたり引っ込んだり展開したりする四角いセットが印象的で、そしてお話というか場面も時系列に従って一直線には進まず行ったり来たり繰り返したりして「ああ、あの場面はこの時間軸につながるものだったのか」とあとからわかったりする構造なので、私はなんか箱根名産の寄せ木細工を思い起こしたりしました。カタカタ組み立てているうちに違う顔が見えてくる、違う形になっていくような…むしろ平面的なルービック・キューブとでもいうような…な? そんな幻想的な摩訶不思議さにくるまれた、しかし結局は人の色と欲にまみれた泥臭い犯罪ドラマで、人はけっこう死ぬし、そんな中に咲いて高笑いするような悪女・お勢のピカレスク・ロマンかと思いきや、実は晶の愛と憎しみのラスボス感が最後に露わになって悲しくも恐ろしく終わる、まさしく乱歩チックな舞台に仕上がっていたと思います。
 父を愛し、後妻を憎む娘というのは、なんかちょっと『エレクトラ』『オレステイア』要するに『冬霞の巴里』チックでもありましたよね…個人的にタイムリーでもありました。スリリングでときにユーモラスで、様式的なんだけどリアルでナチュラルで世俗的で、でもはんなりした色っぽさも漂っている、幽玄な、とてもおもしろい舞台でした。
 前作で、黒木華ではお勢らしい婀娜っぽさが足りないのではと感じたものでしたが、倉科カナはそりゃバッチリです声がいい仕草がいい妖しくて色っぽい!
 そしてテレビドラマでは見ていたんですけれど福本莉子が上手い! 怖い! お勢はそもそも悪女といっても、自らの正義感で動いているような(千葉雅子演じる西さんの言う罪と罰が釣り合う正義の天秤、みたいな感覚を彼女もまた持っているのでした)、あるいは騒ぎを楽しんでいるようなところがちょっとある人で、今回も松成家の騒動に乗っかって引っかき回してやろうと楽しんでいるように見えましたが、実は晶の掌で踊らされていただけなのかもしれない…となるせつないやらおかしいやら悲しいやら怖いやらのラストが、とてもとてもよかったです。その奥で屋敷に灯りをつけて回る晶の軽やかな足音がパタパタと響く…怖っ!
 大空さんが他の役をやるなら真澄をやりたい、とアフタートークで言っていた真澄がまたチャーミングでした。「ソレどこ情報!?」とか言ってほしかった…(笑)ところで真澄と電燈工夫は姉弟なんですか? 私は2回観て2回とも聞き逃していたようなのですが、2回目を同伴した友達によれば河合が「姉ちゃん」と言う台詞があったんだとか。同郷の者、とだけ説明していて、でもカレカノではないようなこのビミョウな距離感のふたりはナニ?とおもしろく感じていたのですが…でも名字が違うけど、真澄さんは既婚者なんでしょうか。それか連れ子同士とか、義理の姉弟とか? 姉弟にしてもなんかちょっと不思議な色っぽさが漂うペタペたっぷりがまたよかったです。
 でも結果的に真澄はこの事件から生き延びるんですよね、よかったわ。どこかで幸せになってほしいわ。探偵(粕谷吉洋)の死体を運ぶくんだりのおもしろさったらたまりませんでした。あと電話のくだりで途中から直接しゃべっちゃうの、おもしろかったなあ。もちろん途中で移動して途中からは直接しゃべっている場面なのだ、という解釈もできるけど、舞台のおもしろさを生かしたギャグとしてニクいと思いました。
 アフタートークで、2年前のゲネプロでお園が真澄について語る最期の台詞を聞いて、この役の良さや意味やおもしろさが改めてわかって、それで今回こう演じている、というようなことを江口さんが語っていて、おもしろいなそういうこともあるんだな、と思いました。ちなみにプログラムからしてもテレやさんなんだろうなと思ってはいましたが、こういうイベントには初参加だというアフタートーク、ガチガチででも司会任されちゃって台本棒読みでそのぶっきらぼうさが可愛くて、客席大ウケでした。大空さんがうらやましがるくらいでした、いいわあ。
 初子がまたいい、絶妙に上手い、派手な着物もサイコーでした。絶対いるよねいつまでも実家に入り浸ってるこういう小姑…!
 西さんがまたよくて、ちょっとクールで達観しているような我関せずというポーズがズルいような、でも意外なキーパーソンになっている人で、そういう佇まいがホント上手くて、唸りました。
 そして倉持作品で2作連続「奥様」の大空さん、はんなりしんねりしてそうでだんだん牙を剥く感じや意外にお金にしわい人妻の感じ、イイですねー! 最初の藤かな?の模様のお着物がことに素敵。2着目は筍でしたかね? ちょっとおもしろかった…しかしネタバレですがまさか殺されるときに薔薇を散らしてもらえるとは思いもしませんでしたよ、どこの『ドン・ジュアン』…! イヤ素敵でした。
 もはや大河のオープニングでテロップが出ると「今回は誰が死ぬんだ」となる梶原善がまた大空さんの手をぺたぺた握るもんだから(そういうお役です)、ホントどきどきしちゃったわー! まあみんな殺されるんですけどね(笑)。アフタートークでも、お稽古場や楽屋裏で馴れ馴れしいキャラとしてムードメーカーになっているんだろうなと頼もしく感じました。
 その他みんな達者で色っぽくて陰や裏がありそうで、実にいい座組でした。アフタートークで今後のツアーを案内しつつ「誰も来ませんよねえ」と江口さんが言っちゃうのがまたまたおもしろすぎましたが、このあと兵庫、愛知、長野、福岡、島根と回るそうです。どうぞご安全に、悪の華を振りまいてきてください。なんか久々にこういう、娯楽娯楽したものを観た気がしました。コロナで中断される以前の形のまま、そっくり、きちんとやってくれたからだと思います。二年寝かせておいた意味があったということなのかもしれません。でもみんなスケジュールが取れて、そのままの座組でできてホントよかった…! 再演ではない、ループもの、タイムリープしたような…という不思議な感覚は、大千秋楽にやっと浄化されるのかもしれません。







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宝塚歌劇が滅びる日

2022年05月22日 | 日記
 来年の『刀剣乱舞 禺伝 矛盾源氏物語』という舞台の主演が、歌仙兼定役の元宝塚歌劇団・七海ひろき氏であることが先日発表されました。共演は同じくOG、大倶利伽羅役の彩凪翔氏とのこと。
 私はゲームと名の付くものをほぼまったくしないので、上記に関してもよくわからないままに書いています。私が一応知識として持っているのは、『刀剣乱舞』というゲームがあって、戦国武将とかが愛用する日本刀がイケメン男性に擬人化されていて、アニメ化などの二次展開もたくさんされていてとにかく人気で、若手イケメン俳優が多数出ているストプレとかミュージカルのいわゆる2.5次元舞台もある…というものなんですが、はたして合っているんでしょうか。で、どうやらこの舞台版はこれまで男性俳優しか出演していなかったのに、先日千秋楽を迎えたとある演目で、かいちゃんが初めて女性キャストとして、細川ガラシャ役で出演した…ということで、これまた合っているでしょうか。そのときも多少の軋轢というか賛否の騒ぎとかがあったのかもしれませんが(たとえて言えば歌舞伎に女優が、宝塚歌劇に男優が出演するようなものなのでしょうからね)、ともあれ舞台は成功し、それを踏まえて、なのかはたまた同時進行で企画が進んでいたのかはわかりませんが、ともかく今度はかいちゃんとなぎしょが共に男役として、というか男性キャラクターとして、要するにいわゆる「刀剣男子」として出演、しかも主演することが発表された、ということですよね。
 なぎしょは卒業からまだ間がそんなにありませんが、かいちゃんは卒業後のキャリアを数年かけてすでにしっかり築いていて、いわゆる「女優」にはならず、俳優としてまた声優として、主に男性キャラクターないし性別不明の役(さらには人間以外の役も)に扮して活躍の場を広げてきました。私が卒業後に観た舞台は『RED&BEAR』だけですが、これも年齢性別不詳の探偵、というキャラクターでした。
 宝塚歌劇のOG、特に元トップスターは、芸能活動を続けるにしても、女優になるというか女性に戻るというかの作業に難儀することがままあり、またそれで今までのファンが離れていくことがあることなどもあり、なかなかに大変なもののようでした。まあそれでも身体が女性ではあるわけですから、みなさんそれぞれに軟着陸してそれぞれにご活躍なさっています。ただここへ来て、トップスターでこそありませんでしたが卓越した人気を誇っていた男役スターだったかいちゃんやみやちゃんが、新しい働き方をしてみせている、ということですね。別に実は性自認が男性だったとかあえて男性っぽく振る舞ってみせているとかいうことではなく、一人称は「私」でまあ女言葉の範疇に入る口調で話し、ただそのままナチュラルに、現役男役のときとほぼ同じようないわゆる男装を普段からしていて、女優としていわゆる一般的なシスヘテロ女性役に扮することをほぼしない、というような仕事の選び方をしている、ということです。ジェンダーレス俳優、とでもいうのでしょうか。
 まあ誰でもオファーがあって、それをやりたいと思えば引き受ける、とかやりたいもののオーディションを受けに行って受かったらやる、とかいうような形で仕事をしているんだと思うので、常にまずは当人の選択ありきなはずではあるのですが、どうしてもいろんな事情とかが絡んで希望どおりの仕事だけをやるわけにはいかない、とかそもそも希望に添うような仕事が来ない、とかいったようなことは今までもあったのでしょう。そしてみんなその中でそれなりにやりくりしてきたんだと思うのですが、そうした先人たちの努力があったり、はたまた世の中がゆっくりとではあっても変わってきていて多様性が認められ仕事の幅が広がってきていて、そこに「本当にやりたい仕事しかしない、やりたいことだけをやる」という強い志のある者がさらに果敢に道を切り開きに行っている、というところなのかもしれません。
 なのでガラシャはかいちゃんにとって卒業後初めての女性役(在団時も女性の役に回った演目はありました)だったくらいで、彼女にとってもイレギュラーなことだったわけですが、見事やり遂げたわけです。そしてそれを布石に…というのがハナからあっての今回の発表だったんだとしたら、なんかホントすごいな、攻めてるよな切り開いてるよな、でも応援したいよな、と改めて思ったりしたのでした。実際には一部からバッシングなんかもあったりするんでしょうが、なんとか上手く収まり、結果を出し、広く納得させて、新たな発展へつながるといいなと祈っています。
 で、そこからさらに改めて、では宝塚歌劇の男役ってそもそもなんだろう、役者と役のジェンダーってなんだろう、宝塚歌劇の優位性っていったいなんなんだろう、とかいろいろ考え始めたら、ちょっと怖いタイトルをこの記事につけたくなるような結論に至ってしまったのです。今回はそんなお話です。
 ちなみに特に後半は論旨が飛んでいるというかねじれているというか迷走しているかもしれません。自分でもまだ考えがうまくまとまっていないのです。でもとにかく宝塚歌劇ファンとして、ある種の危機感を今までになく強く持った、ということを言いたい回です。

 そもそもそんな定義はないよ、とつっこまれたら「そのとおりですね」としか返せないのですが、私は宝塚歌劇というものは、オリジナル当て書き新作ミュージカルで、トップスターが演じる主人公と、トップ娘役が演じるヒロインと、男役二番手スターが演じる男性キャラクターとで三角関係のメロドラマを展開するもの、だと考えています。ショーの話とかスターとしての在り方とかの話はまた別として、です。
 だから物語の舞台となる国を変え時代を変え設定を変え、目先の手を変え品を変え、ハッピーエンドになろうが悲劇に終わろうが、とにかくひたすらに愛を、理想の愛の物語なるものを描くことを十年一日のごとくやっている劇団、だと認識しています。男2女1のお話が多いのは今のファンがほぼ女性だからで、そら女ふたりがひとりの男を取り合う話より心理的に観やすいからやろ、という理屈かと思います。
 でも別に愛って宝塚歌劇の専売特許じゃありません。本邦では漫画も小説もドラマも映画も外部の舞台も、ありとあらゆる物語、フィクション、エンターテインメントが愛をテーマにしていると言っても過言ではないでしょう。
 それでも、宝塚歌劇の愛の物語が唯一無二であるのは、全員が独身女性である劇団員が、男役と娘役に別れてそれぞれの性別のキャラクターに扮している、という点において、でしょう。
 かつては宝塚歌劇の観客は男性が多く、娘役が人気だったそうですが、いつしか観客の女性比率が高まり、男役が人気になっていったんだそうですね。このあたりの相関関係は鶏が先か卵が先か、みたいなものなのかなあ。ともあれ、小林一三翁は最初から一家で楽しめる国民劇を、というようなコンセプトで宝塚歌劇を始めたのでしょうが、実際には家族みんなで劇場に来られるような裕福な層はまだ少なくて、となるとまずは一家の長たる男性だけが、あるいは余裕のある独身男性だけが客になり(その男性の家では母ないし妻たる女性たちが観劇どころではなく家事に忙殺されていたのでしょう)、その後徐々にそうした女性たちにも、そして独身女性たちにも娯楽の門戸が開かれていって、そうしていつしか客席での立場が逆転したのかもしれません。令和になっても所詮世は未だ男社会なわけで、男性が女性を愛でたいってだけなら他の娯楽もいろいろあるわけですから、男性はどこへでも移っていけます。でも女性が、愛でられる側でなく愛でる側に、いわゆる眼差す側に回れる場って意外にまだまだ少ないので、その意味でも宝塚歌劇は貴重で特別で大切な娯楽ジャンルのひとつなのではないでしょうか。
 さて、観客女性が眼差す側に回る場で、眼差す先がジャニーズなどの男性アイドルや男性俳優、男性ミュージシャンなどの場合は要するにそれはそのまま「男性」なわけですが、宝塚歌劇の場合は女性である生徒が扮する「男役」なわけです(娘役への眼差しについてはここでは割愛します)。芝居の中で物語の役、キャラクターとしての「男性」を観る部分ももちろんありますが、宝塚歌劇の場合はその「中の人」、その役をやっているスター、「男役」そのもの、愛称や本名の部分含めてその女性そのもの、を観ている部分がとても大きい。「男役」を観ているようで実は女性が女性を観ている、ここが宝塚歌劇の特殊な点だと思います。長々まだるっこく言ってきましたが、まあほとんど自明に近いことですね(しつこいですが娘役についてはここでは割愛します。それは差別ではなく、ここでの論旨に合致しないからです)。
 「男役」の何がどう特殊なのかといえばもちろん、まさに「女性」がやっている、という点にあるわけです。女性だからこそ、もっと言えば男性でないからこそ、現実の男性よりも理想的な、女性にとってベストの「男性」になれる、それが「男役」です。現実の男性よりも美しく、凜々しく、気高く、優しく、賢く、強く、心が広い人間。女性を、あるいは広く相手をきちんと尊重し、対等に対峙し、その話にきちんと耳を傾けてくれる男性。女性が求めていることにきちんと応えてくれる相手。それが「男役」なのです。
 そんなに素敵で完璧な男性は、現実にはいません。ここが問題であり、宝塚歌劇の強みでもあります。
 つまり、私は、世界から女性差別やあらゆるマイノリティ差別が完全になくなり、特にすべての男性が女性を対等と認め、尊重し、その話を聞いてくれるようになったら、宝塚歌劇の存在価値はなくなるだろう、と考えていました。だったら現実の男性の方が良くなるだろう、と思うのです。そりゃ現実の男性は男役ほど美しくはないかもしれない。でもルッキズムの問題はさておいて、実際に男性の身体を持った相手が自分にきちんと正対してくれるなら、そちらと交際するじゃないですか。だって男役はスターで、生徒で、仕事としてそれをやっているだけの人だし、芸能人なので現実の一般社会でそうそう簡単にお近づきになれるものでもないし、何より彼女たちの中身は、女性の身体を持った女性だから、まさしく「彼女」だから、私たちの同性だからです。シスヘテロ女性は現実の恋愛や性行為を女性とはしません。そして現実で完全に満たされるなら、フィクションやドリームは要らなくなるでしょう。
 宝塚歌劇の観客の多くは女性で、その多くはシスヘテロ女性でしょう、おそらく。この「多く」ってのが実際に何割なのかは別として、でも過半数、大多数と言っていいくらいであることはまず間違いないでしょう。人間のSOGIはそんなにくっきりはっきり別れるものでもないし一生の間に変わることもあるしグラデーションというよりいろいろ入り交じったまだら模様みたいなものだ、というような認識は昨今進んできたかと思いますが、それでもシスヘテロがマジョリティ、というのはまず揺るがないのではないでしょうか。
 そして現実が理想に追いついてくれたなら、もう舞台に、物語やフィクションに夢や希望や理想を求めドリームを見ることはしなくてよくなるわけです。そんな時代が来たら、宝塚歌劇はその存在意義をなくし、終わるのだ、と私は考えていました。逆に言えば、残念ながら、そんな理想的な世の中は絶対に実現しないので、だから宝塚歌劇は永久に不滅なのだ、と私は考えてきました。
 私は物語やフィクションに理想を追うことをやめられません。そこに描かれる理想の愛の形は、現実が目指すべきもの、現実に求めたいけれど今は無理ででもいつか…と思いながら夢見るもの、ドリームだと思っています。物語に理想を見て勇気をもらった人が、現実もそれに近づけようともうちょっとだけ現実であがいて努力し、そうやって少しずつ少しずつ世界は良くなっていくはずだ、と信じてもいます。それはあきらめていません、だから生きていられる。
 けれど一方で、そんな理想的な世の中は決して現出しないだろうとも思っているわけです。それくらい、人類に絶望しています。人間は本当に残念な堕天使で、理想の境地に至ることなど決してないしょーもない生き物なのだ、という諦念を持っています。このふたつは別に共存できる考え方だと思うんですよね。努力はする、だが叶わないと絶望もしている。絶望しているが、多少は良くなれるはずだとは思っていて努力は続ける、とでもいうような…
 だから、私は、今のこの世の中で、宝塚歌劇には現実を照らす、理想の灯として輝きまくっていてほしいのでした。現実が目指すべき理想を、人々の高潔な生き様を、お互いを尊重し慈しみ合い譲り合い愛し合う男女の姿を、希望を、真実を、美しい男役と娘役のパワーを借りて舞台に描き、そうして観客を魅了し啓蒙し、世界を浄化し、みなをそこへ至らんと導く青き衣をまといし者のような存在であってほしいのです。他のエンタメにもそういう部分はもちろんあるけれど、宝塚歌劇には「男役」があるから、男役が演じる理想の男性像というものがあるから、今のしょーもない男たちの男たちによる男たちのための世の中に対して、「違うよ、こっちが正解だよ」と言える力がある、と私は考えているのでした。だからファンを増やしたいと思い、せっせと布教(笑)もしているのです。宝塚歌劇を観て今の世の男女の理不尽なありさまに初めて気づく人がいるはず、本来あるべきはこっちなんだと考えるようになる人がいるはず、その気づきから始まって世界は今より少しだけでも良く変わっていけるはず、と考えているのです。
 現実しか知らない人は現実の駄目さ加減がわかりません。その方が幸せ、という考え方もあるかもしれないけれど、当人が実際に現実に対して不満を感じ不幸でいるのなら、理想を、ドリームを見せてあげて、正解はこっちだよ、これを目指そうよ、ともに戦おうよ、と言ってあげられるといいと思うのです。宝塚歌劇はそのいい機会だと私は信じているのです。現実の男性と違う、理想の男性像を体現する男役が牽引する宝塚歌劇には、それだけのパワーがあると考えているのです。
 だからこそ、今の宝塚歌劇の現状にしょんぼりもしています。まだまだ観たことがない人の方が多いくらいだし、世のイメージは未だ「タカラヅカといえばベルばら」じゃないですか。でも百億回言ってきましたが、『ベルサイユのばら』は池田理代子が描いた傑作少女漫画です。宝塚歌劇のオリジナルのものではない。いや舞台化、翻案には価値がある、という意見もあるでしょうが、宝塚版『ベルばら』は最初の三本ほどを除いてみな脚本が駄作すぎます。原作漫画には百年後も読み継がれるだけの価値がありますが、宝塚版『ベルばら』にはこのままなら再演の価値はまったくありません。これを代表作とし続けなければならないなんて、情けなさすぎます。
 ミュージカル界的には『エリザベート』初演、というのも誇っていいことかもしれませんが、そしてあの輸入翻案にはやはりある程度の意味や意義や価値があったとは考えていますが、作品そのものはやはり宝塚オリジナルではありません。基本的にオリジナル新作当て書き主義を標榜し、演出家が脚本家も兼ねているにもかかわらず、宝塚歌劇のオリジナルで、これぞという代表作がない、大ヒットがない、誰もが知る不朽の名作というものが作れていない、これが問題だと思います。その作品観たさに新規客がわんさと増えて、コミカライズされノベライズされアニメ化されドラマ化され映画化され輸出されてブロードウェイやウェストエンドやテハンノで上演されるような国民的人気を博す一大傑作が、未だに作れていないのです。二次展開されてしまうと「男役」「娘役」がなくなってしまってそれはもう宝塚歌劇の本質を失うことになるのですが、それはまた別の問題として、とにかくそういうふうに波及していくような力を持った作品が、百年かけても生み出せていない。それが本当に痛恨だと思います。劇団首脳陣はこのことをもっともっと恥じた方がいい、そして危機感を持って新作制作にかかった方がいいですマジで!
 いつかそんな新作が現れるはず、そして世界を変えてくれるはず…と信じて大劇場に、日比谷に、バウ始め別箱や全ツでもなんでもとにかく全演目をここ数年観ている私なわけですが、しかし日々裏切られているわけです。しかもこのところ、何故それをセレクトしたと問い質したい平成の少年漫画や昭和の時代小説が原作になったり、客は同じ女性かもしらんけど明らかに求めているものが違うやろというつっこみしかないジャンルとの謎コラボが発表されたりして、意気消沈な日々が続いているわけです。
 そうやって、劇団が甘えてのんきに怠惰にのったらくったらやっている間に、今や時代の方が大きく動いてきてしまっているんじゃないの?という衝撃を、私は今回の『刀剣乱舞』の発表に受けたのでした。

 以前から、少女漫画に飽き足らずBLを読む女性、というものは存在していました。今のこの男社会に普通に育つと女性もまた自身の中にミソジニーを育ててしまうので、たとえ自身がシスヘテロであっても、いやだからこそ、フィクションには女性が介在しないものを望む、その方がドリームに浸りやすい、という層が一定数あるのでしょう。それは否定すべきものでもないし悪いことでもなんでもないと思います。ただ、たとえば私自身は、たとえば「on BLUE」も読むけどやっぱ「別マ」とか「ココハナ」っておもしろいなと思ってしまうクチなのですが、そして人は誰でもつい自分基準でものを考えるものなので私もこれがマジョリティなんじゃないかとずっと思ってきたのですが、どうもそうではないのではあるまいか、と最近思わせられるようになってきた、ということです。
 それは少女漫画雑誌の部数の凋落とか、ヒット作と呼ばれるタイトルであってもそのコミックス部数が一時期よりはなはだ小さいこととかに数字として現に表れています。もちろんBL市場が逆転したかといえばそんなことはなくて、この分野も隆盛を誇った一時期に比べると今は多少シュリンクしていますし、今でもたとえばリアル書店の売り場を見れば女性向けの棚のごく一部を占めているだけでしょう。しかしこれはリアル書店の棚で見るからであって、紙のコミックスを出版し流通させるということにおいて未だ大きな力を持っている大手出版社に対して、主にBLを扱う版元はそこが弱いという歴史的背景によるところが大きい。そして今やエンタメは紙の本より、そこから派生する、あるいはそもそも紙の本とは関係ない、電子書籍やアニメやドラマや映画やゲームや舞台や…といったところに領土を広げているわけです。エンタメ全体の市場においては、シスヘテロ文脈に根差す物語はもはや少数派なのではないか、ということに肌感覚を持って私は初めて思い至ったのでした。読者、視聴者、ユーザー女性の大半は未だシスヘテロだとしても、エンタメの世界はそこにとらわれすぎることなく、より豊かに、多用に広がりつつある。その中ではもはや異性愛ものは少数派に転落しているのではないか、ということです。

 またそうして、現実のSOGIとドリームのSOGIが一致しないから、非婚化、晩婚化、少子化が現実に進んでいるのかもしれません。恋愛の経験数や性交渉の経験数のカウント調査はなかなか難しい問題で、たとえば結果として公表されているデータでもどこまで信頼がおけるか怪しいところもありますが、単純に人間の数が昔より減っていることを考慮してもそれより減りすぎている傾向があることは否定できないでしょう。人間は現実に昔より恋愛したりセックスしたり妊娠・出産したりしなくなっています。それにはもちろんいろいろな要因が絡んでいますし、減少傾向そのものはいいとも悪いとも評価されるべきものではないと思います。どんな生き物もいつかは滅ぶ、無限に増殖し繁栄し続けるなんてありえない。無常観なのかSF史観なのかわかりませんが、私はずっとそう思ってきました。
 ただ私は、自分では結婚も妊娠・出産経験もありませんが、機会に恵まれればしただろうと思っていますし、したい人はして安心、安全に暮らしていける社会であることが、生き物として自然だし幸福だしまた高等生物たる人類社会の在り方として理想的なんじゃないのかな、と漠然と考えていました。でもこれって、もはやとても古臭い、保守的な、レトロな、アナクロな感覚なのではないでしょうか。
 今、世の中は、特に日本は、ちょっと前の時代からは想像もつかなかったほどに、思いもよらなかったくらいに悪くなっていて、「普通に」「自然に」なんて甘っちょろいことは全然通じなくなっていて、ジェンダーギャップはますます広がり世界の中での順位は下降し、とにかくひたすらに貧しくて、だから結婚できない子供も作れない育てられない、というありさまになってきています。そんな中でも、いやだからこそ、私は宝塚歌劇に「でも理想は、正解はこっちだよ、ここを目指そうよ」と松明を掲げていてほしかったんですけれど、どうもそれはもうかなりハードルが高いというか、なんなら贅沢すぎる、高尚すぎる、浮き世離れしすぎているものになってしまっているのかもしれません。
 この記事、もう4日くらいかけてちまちま推敲したり書き進めたりしているのですが、今日のニュースがまたひどかった。経団連では、若者の賃金が下がり経済的に苦しくなっているから非婚化が進んでいる、と解析できた上で、では賃金を増やそうという方向ではなく、「収入が不安定な男性をどのように結婚までもっていくか、そのような男性と結婚しても大丈夫という女性をどう増やすか」を少子化対策として議論しているんだそうですよ。もう地獄ですよね。若者を、男性を、女性をなんだと思っているんでしょう。こういうおじさんたちにとってはこうした若者たちは家畜同然に見えているんじゃないでしょうか。女性は子供を産み出せる便利使いのできる道具で、その子供は将来納税してくれる投資先、そして戦地に送り込み戦わせ死んでもらう兵士予備軍、にしか見えていないのではないでしょうか。このままではこのおじさんたちは、ひとり口よりふたり口、といういつの時代の言葉だよという事態に若者を追い込み、より女性の賃金を下げ社会的に縛りひとりでは生きていけないようにして、低収入のままの男性と番わせ子供を産ませ育てさせようとするでしょう。
 そもそも彼らには少子化が何故問題なのかがわかっていないのです。私は子供が減っても残る大人や数少なく生まれている子供たちが幸せに生きていけるなら、それはけっこうなことだと思います。人が減り続け社会が維持しきれなくなりいつか国が、そして人類が滅んでしまうんだとしても、変な言葉ですがトータルのしあわせ量がその方が多いならそっちの方がいいに決まっている、と思っています。でもこういうおじさんたちは、とにかく国が、人類が存続することが大事だと考えている。国があってもその国民が不幸せならそんな国に意味なんかないのに、そういう発想はまるでない。国家を維持するためには国民の数を増やす、少なくともキープする必要があって、その数だけが大事で、人は生きながらえていさえすれば不幸せでもかまわないと考えている。
 でも、ただ存続することになんの意味があるのでしょう? しかも人の命は有限で、このおじさんたちの方が今の若者より先に死ぬし、せいぜいあと二十年とかしか生きないくせに、なんでそんなふうに未来をコントロールしたがるんでしょうね? 神様になれる気でもいるんでしょうか、ホントほとほとあきれます。
 でも、こういう事例を嫌というほど見せられてきて、もはや女性は、男性に夢見ることをやめ始めているのではないでしょうか。フィクションや物語に男性の理想像とか男女の理想的な愛なんてものを求めることも、やめ始めてしまっているのではないでしょうか。だからもはや刀でいい、刀がいい、人間じゃないところがいい、となってしまっているのではないのでしょうか。
 こんな私みたいな昭和の人間が、宝塚歌劇が描く古い理想に浸っている間にも、世にはもっと全然違う種類の、そして小さいかもしれないけれど優しい灯が、知らぬ間にいくつもいくつも灯っていて、疲れた女性たちはそのそれぞれに三々五々集い、癒やされ、そこにドリームを見るようになっていた、ということなのかもしれません。少女漫画の異性愛の物語がBLとそれを含むクィアの物語に凌駕されつつあるように、その小さな灯は全部合わせれば宝塚歌劇ひとつの灯よりもはや全然明るいのかもしれません。宝塚歌劇にシスヘテロの、男女の理想の恋模様を見ている私は、もうコンサバすぎるというか、まさしく前世紀の遺物にすぎないのではないか、ということに気づかされたのです。
 それくらい、世の中は激変している。宝塚歌劇が進化できないでいるうちに、世の中を変える作品を生み出せないでいるうちに、世の中の変化はもうずっとずっと先まで行っていて、もはや追いつくも何もないという事態になっているということなのではなかろうか…というのが、今の私の実感なのです。

 異性愛少女漫画/BLというのはひとつのわかりやすい例であって、エンタメ全体で見ればもっと多様な在り方にすでになっているわけです。主に観客が女性で、男性俳優しか出演せず、男性キャラクターしか登場しないようなタイプの2.5次元舞台は構造としてはBLに近いでしょうが、この形に当てはまらないものはすでにたくさんある。
 女性が眼差す先に存在するのが「男性」なら、それはまだ広い意味での異性愛の範疇なのかなと思っていましたが、「刀剣男子」は男性どころか人間でないところがよいのだ、とされているとも聞きます。イケメン男性に擬人化されているけれど、そもそもが刀なのですからね。性別どころか、生物ですらない。
 そこにさらに、今、「刀剣男子」として女性の身体を持った俳優が立とうとしている…ますますいろいろねじれてくる気もしますが、これは役や役者のジェンダーの地平を広げ、そのファンにも新たな何かを見せてくれる可能性がある現象なのかもしれません。

 かいちゃんやみやちゃんの前に、近くでは卒業後のみりおが『ポーの一族』でそのままエドガーを演じ、その前には同じくチギちゃんが『るろうに剣心』で剣心を演じています(いずれも漫画原作の宝塚歌劇の外部公演、になりますね…)。古くは内重のぼるが卒業後に『霧深いエルベのほとり』のカールをそのまま外部で演じた事例があったそうです(これは宝塚歌劇オリジナル作品ですね、まあ脚本を書いたのは正確には劇団の座付き作家ではないという点が痛恨ですが…)。私は卒業後のヤンさんが男役として演じた『ハムレット』も観ていますし、ターコさんでも何かあったはずです。だからトップスターが卒業後に男役を演じた例は皆無では全然ないわけです。しかし当時は当たらなかったというか根付かなかったというか、一大ジャンルにはならなかったということでしょう。当時のファンにあまり受け入れられなかった、みたいな。みなさん結局今はいわゆる「女優」さんです。私自身にも、個人的には、卒業しても在団時と同じようなことをやるのはどうだろう…というのは、あります。卒業したなら、違うタイプの仕事をしてみせてほしい、そこでまた新たにファンにならせいほしいと思っているからです。
 ただ、これらの例は、彼女たちがみんな「元トップスター」だったからこそでもあったのかもしれない、とも思います。この世は未だ男社会で、芸能界もしかり、大手芸能事務所もまた男性が仕切るもので、男性/女性の枠に押し込めようとする無言の圧力が絶対に存在するはずです。マッチョな男性は越境を絶対に許しません。元トップで大手事務所に所属し芸能界で活動しようとした彼女たちがそれに逆らいきれない部分も、少なからずあったはずです。
 その点、元トップでなければ、ゲリラ的にその枠から外れて活動しやすい、というのはあるのかもしれません。きちんと追っていませんが、たとえば汐月しゅうは卒業後2.5で男性キャラクター役に扮することをもっぱらにしていたのではなかったかな…? たとえばそういう草分け的存在は常にあったのかもしれません。そこからのいよいよ、今、ということなのかもしれません。
 かいちゃん、みやちゃんが今後どうなるか、ことにかいちゃんの「刀剣男子」がどうなるかは、もちろんまだわかりません。けれどまず、こうなると、「元トップスター」みたいな金看板って一般ファンには全然関係ないんだよな、とも思います。だって今、普通の人は柚香光の名も真風涼帆の名前もまず知りません。大地真央や黒木瞳、檀れい、真矢ミキ、天海祐希を元トップスターだよ、と言えば「へー」くらいの反応は返ってくるかもしれませんが、わりとテレビに出ているみりおやまとぶんの名を挙げても「誰ソレ?」でしょう。タカラジェンヌだったかどうかもどうでもいいのに、トップスターだったかそうでなかったかなんて一般ファンにはもっとどうでもいいことです。芸能界内部、特に舞台演劇界隈では、トップスターが辞めるとなればいろんな事務所が群がるのかもしれないし、その後も仕事の声がかかったりするのでしょうが、トップでなかったOGには事務所の引受先がなかったりプリンシパル級のオファーがなかったりそもそもオーディションにも参加できなかったりと、線引きがありそうです。でもそれって本当に旧来の芸能界の話であって、「役」、元のキャラクターに似ている、似せられることが最優先で、それができるならちょっと見目いいだけの素人だろうと多少のレッスンさせてすぐ舞台に出しちゃうような(すみません、よくわかっていないので完全に憶測で語っています)2.5次元界隈みたいな新興勢力世界には全然関係のない、通じない話なのではないかしらん、と思うのです。
 そしてちゃんと役になっていれば、役者の出自がなんだろうとファンは全然気にしないんだろうし、そこで人気が出た者勝ちなんじゃないのかな、と思うのです。そこから他のタイプの舞台や作品に出て最終的にはテレビで全国区になる、という下克上がすでに起きているのではないでしょうか。テレビを上に見るのは前世紀的で、最近の若い人はテレビなんか見ない、持っていない人も多いそうなので、マジョリティとしてもそろそろ逆転の日が近い気はしていますけれどもね。
 もちろんかいちゃんたちのスキルは宝塚歌劇団で男役として過ごしたからこそ磨かれたものであって、ただの見目いいだけの素人ではありません。でもたとえばトップスターをトップスターたらしめているものって、単なるそういうスキルだけじゃないじゃないですか。宝塚内部のいわば共同幻想がそうさせているにすぎない。組子が全員でピラミッドを作り、その頂点に据えられ、毎公演常に主役を張る、そのシステムがトップスターをトップたらしめている、トップスターを現出させているにすぎない。まして卒業後、元トップと非トップOGのどっちにスキルがあるかなんて誰にも比べられない。芸能人の技量なんて数値化できるものではないからです。だからもっと言えば、今後ずぶの素人ででもめっちゃ才能やセンスがある人が現れて、ちょっとレッスンしたら並みいるOG薙ぎ倒して人気者になることだってあるだろうってことです。女性で、「男役」として。
 そして女性ファンのミソジニーを越えて女性の「刀剣男子」が受け入れられたら、女性はいよいよ男性になんか見向きもしなくなるのではないでしょうか。素晴らしい刀を素晴らしい女性が演じてくれる、それでいい…となったら、男性が入る余地なんかありません。いや末満氏始めスタッフ回りはまだまだ男性が多いよ、とかそういうことではなくて、ファンタジーの、ドリームの対象として、ということです。これは本当に新たな地平を切り開くことになるかもしれません。
 「刀剣男子」が一足飛びにそこへ行くかはともかくとして、男装の女性アイドルみたいなものはこれまでにも何度も現れましたし、これまでは一大ムーブメントにならなかったようだけれど、次こそ違うかもしれない。それくらい、ファンの好みは多用になり細分化されていて、宝塚歌劇なんてそのうちのひとつ、しかも保守派の古臭いさびれつつあるひとつにもはやすぎないのかもしれない。エンタメの規模を計るのもなかなかに難しいことですが、宝塚歌劇と『刀剣男子』派生作全部との興行収入みたいなものを比べたら、もはや負けているのでは? 一般的には、まだ「宝塚歌劇」という単語は知っているけど「刀剣男子」は知らない、という年寄りの数がまだ多いかもしれないからその意味での知名度は勝っているかもしれないけれど、実際に一度でも舞台を観たことがある人とゲームをやったことがある人、あるいはそこからの派生作に触れたことがある人の数で比べたらどうでしょう? そして使ったお金に換算したらもう負けているのでは…という想像を私はしているということです。そしてさらに、宝塚歌劇もOGも必要としないエンタメの未来がもうそこまで来ているんじゃないの?ということです。

 私はよく、宝塚150周年記念公演を杖ついてでも観に行くから、と冗談として言ってきました。そのときの自分の歳が今の女性の平均寿命からしてけっこうギリギリの線で、だからこその意欲の表明として、一方であくまでジョークとして言っているつもりでした。仮に自分が先に死んで観られなかったとしても、宝塚歌劇は紆余曲折ありながらも二百年も三百年も続くのだろう、と漠然と考えていました。まあ三百年となると人類の寿命的にアレかなとは思いますけれど、とにかく性差別のない理想的な世の中なんて決して実現しないし、だからそのドリームとしての宝塚歌劇は安泰だろうと考えてきたわけです。
 でも、今、全然違う視点から、そんな安泰な未来はないな、と考えるようになりました。宝塚歌劇は今すでにもう古い、駄目すぎる、あっという間にさらに転落する可能性がある。エンタメは、人間のファンタジーやドリームは世につれて、世よりさらに先へ進化し多様化し、ファンは分散してそれぞれで楽しんでいる。一方で現実の性差別はむしろさらにひどくなり、現実の女性は現実の男性に期待し愛することをほぼやめかけ出している。そんな世の中で「男役」が理想の男性像を体現してみせても、もはやハナからそんなものを欲しない層がむしろ増えている…そんな図が私には今見えている気がするのですが、穿ち過ぎですか? 心配しすぎですか? 悪く考えすぎですか?
 でも、本当にただ今のままだったら、宝塚歌劇が滅ぶ日って、意外と早くないですか…? 恐ろしいことだけれど、悲しいことだけれど、でもそんな現実が見えている気が今、私はするのでした。





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『青空は後悔の証し』

2022年05月19日 | 観劇記/タイトルあ行
 シアタートラム、2022年5月17日18時。

 パイロットを退職したロウ(風間杜夫)と息子ミキオ(豊原功補)、その妻ソノコ(石田ひかり)は以前は同居していたが、今は別居して家政婦の玉田(佐藤直子)がロウに仕えている。ロウの暮らす部屋の窓は大きく、その窓からは青空に伸びる建築途中の建物の尖塔が見えた。ロウはパイロット時代にスチュワーデスとして働いていた部下で今は郊外でレストランを営んでいる女性との久々の再会を楽しみにしていた。だがその再会を前にしたある日、若い女(小野花梨)が訪ねてきて…
 作・演出/岩松了、美術/加藤登美子。全1幕。

 セットチェンジのないワン・シチュエーションの、少人数の一幕ものの舞台、というのは直近の『エレファント・ソング』と同じで、『エレファント~』同様退屈し、ピンとこず、『エレファント~』は帰宅してプログラムを読んだら「ああ、そういう…?」くらいは考えたんですがこれはプログラムを読んでも何もわかりませんでした。売店には「ネタバレあり」となっていたのに…え? どこが? 何が? これがロウの夢オチみたいな話だったってことが? でもだからって別に何もオチていないし、何も描いていなくないですかね? これって何がテーマで観客に何を味わわせたかったの? 私、何か見落としてます? 退屈だったけど寝なかったよ、まず寝ないのは私の特技なんです。客席からきけっこう笑いが沸いていたけど、そしてユーモラスだったり馬鹿馬鹿しいやりとりも確かにあったけど、でも私は観ていて全然心が動きませんでした。
 それは『エレファント~』同様、役が、キャラクターが全然チャーミングに思えなかったからです。みんなテレビで見る、そういう意味では親近感が持てる役者が、実に達者に、ナチュラルに演じていたというのにね。でもみんな屈託があって、ふたりないし三人のやりとりがなんの説明もなく交わされて、そこから立ち上がってくる彼らの人となりや関係性に私はみじんも愛着や共感や興味が持てなかったのです。誰とも境遇が似ていないから、というのももちろんあるかもしれないけれど、とにかく誰もチャーミングじゃなかった。だから他人事として眺めるしかできなかったのです。
 ユキが出てきたときだけが鮮やかに見えました。朝ドラ『カムカムエヴリバディ』でとても良かった若手女優さんで、私は舞台で観るのが初めてだったからです。そして窓の向こうに見える尖塔のてっぺんを登り、空を飛び(まあその部分は映像だったんだろうけれど)、こちらの窓にへばりついて部屋に入ってきた少女に、心つかまれない人なんています? 彼女もまたある種の支離滅裂な、世迷い言のような夢のような台詞をしゃべるのですが、それは彼女自身がそういう不思議なキャラだからいいんだと思うのです。のちに、ロウのかつての部下の娘として現世の姿で(?)現れたときも、人を食ったような話をする若い女という役どころで、なんだなんだどうなるんだと興味が持てました。
 でも、どうもならなかった。びっくりの展開です。
 あげく、すべてはロウの夢だったのかもしれない…みたいになって暗転して音楽が流れてああ終わりなんですねって思わされても、何もオチていないし何も観た気になれないままだったのでした。
 なんなの? ロウには息子にも嫁にも家政婦さんにもかつての部下にも屈託があって悔やんでいることがあって、それを部屋の窓から青空を眺めてただ思い悩んでいた、ってだけなの? 何ソレ??
 ここまで言っておいてなんですが、私がもしかしたら岩松了のあまりいい観客ではないのかもしれません…全然数は観ていませんがいずれも感心しなかった記憶がある…(なら何故チケット取ったんだ自分…でもトラムのこんな座組の芝居、おもしろそうに思えたんだよ~!)
 でもさ、しつこいけれど『エレファント~』は外国の戯曲で外国が舞台の物語だったからまだ良かったけど、これは現代日本の話で、でも人って、特に日本人って絶対こんなふうにしゃべらないじゃないですか。役者がどんなに上手くて自然にしゃべってみせたって、そもそもがあまりにも嘘くさいんです。結局、いけすかない人たちがわあわあ言い合っているのを見せられただけな気持ちになったんですよね私は…え、何をどう鑑賞したらよかったのマジで??
 明後日の企画で、風間杜夫と豊原功補で「いい歳になった父親と息子という設定」、というコンセプト自体はとてもおもしろいと思えたんですけれどねえ…
 ところで「家政婦」「スチュワーデス」というのはもちろんわざとだと思うんですけど、わざとだということがもっとわかるようにしないとダメなのでは…とか感じました。
 開演前の注意事項アナウンスと終演後の規制退場アナウンスがキョンキョンの声に聞こえたのだけが、テンションが上がるものでしたよ…しょぼん。でもホントはどうだったんでしょう?
 こんな感想ですみません…









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宝塚歌劇月組『Rain on Neptune』

2022年05月17日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 舞浜アンフィシアター、2022年5月16日16時。

 今から200年ほど未来。地球は度重なる戦争と疫病とで荒廃し、有毒の雨が降り注ぐ星となっていた。人類は月や火星への移住を図り、今まさに地球をあきらめようとしている。太陽系のはるか彼方に存在する海王星ネプチューンには、ダイヤモンドの雨が降るという。そんな噂を聞きつけた伝説のトレジャーハンター、シャトー・ド・カロー♦(月城かなと)はロマンを求め、仲間たちと共に海王星へやってくるが…
 作・演出/谷貴矢、作曲・編曲/太田健、高橋恵、多田理紗。70分ほどの芝居に40分ほどのフィナーレがついた一幕のドラマチック・ショースペース。

「当初の予定では地球とかここまで関係無かったし、もう少しドロドロしていたんですが、アンハッピー脳が死んでしまった」のでこういうお話になったんだそうです。「歌劇」を読んでナウオンを見ただけで観たので、帰宅してゆっくりプログラムのあらすじを読んだら「あ、そんな設定だったの…?」って私はなりましたけどね。いやノートルダムに有毒の雨が降って孤児院の子供たちが大きな帽子だのマスクだのをつけてる、というのはもちろんわかりましたが、その他の人々、もっと言えばおそらくは裕福な人々はとっくの昔に地球なんか見捨てて他の惑星に移住している、つまりそれくらい宇宙工学的な科学は進んでいる時代の話なのだ、ということは私にはわからなかったのです。ずばり『銀河鉄道999』みたいな世界観ってことですよね。歌詞とかでちゃんと歌われていたならすみません、私が聞き取れなかっただけかもしれません。
 そのあたりがよくわからなかったので、シャトーと仲間たちがコールドスリープを使って太陽系を渡り海王星に至る、というのもわりとよくあることなのかものすごく特殊なことなのかそもそも技術的にできることとされているものなのかがよくわからず、つまりこれはSFというよりはあくまでなんちゃってSFでファンタジーなのかな?と私はそのあたりで困惑してしまったのでした。
 で、海王星の王だというトリトン(鳳月杏)や彼が創造したらしい生きて動く宝石たち?が現れるんだけど、そして彼は実はもとは地球人でアプリコという名の科学者だったらしいことが語られるんだけど、クローンやAIの研究みたいなことと鉱物が生命や意志を持って動く云々ってだいぶ遠くない? この人の本当の専攻はなんなの?? とか思ってしまったり…
 さらに、少年シャトー(蘭尚樹)が姉のように慕っていたベルメール(海乃美月)という少女と、海王星に住む氷の女王ネプチューン(海乃美月の二役)とが似ていて…となるわけですが、ネタバレすると要するにアプリコの妻は娘ベルメールをおいて亡くなっていて、絶望したアプリコは海王星に移住して自分の楽園を築き、妻に似せてクローンのネプチューンを作った、ということですよね。その後ベルメールは孤児院で育って少年カローと仲良くなった、でも星間サーカスに売られ、ちょっとは歌手として活躍したものの雨の毒に侵されて死んだ、と…で、いろいろあって(笑)シャトーと意気投合したネプチューンは地球に行ってみたいと言い、トリトンも認めてくれて、シャトーの仲間たちと共に地球を目指すことにする。そして…そこから地球?の海やディズニーやSFアニメや宝塚歌劇のショーの主題歌のフィナーレになる、という構成だったのでした。
 あらすじにあるシャトーの恋が海王星を変える、みたいなことはあまり感じられなかったのだけれど(^^;)、まあそこまでシリアスというかしっかりした芝居でもないし、まあいいのかな、と思いました。タカヤ先生もアンハッピー脳、シリアス脳が死んでちょっとライトななんちゃってSFショー作品に仕立てたくなったのでしょう。本来のコンセプトとしては、帰還したシャトーたちが地球を救う…までがあったんでしょうけれどね。「関係無かった」地球を絡めることにしたならそこまでやるべきでしたよね。あ、ラストのアンコールに雨に関する歌をれいこが歌っていたけれど、そうかアレで、つまりタカラヅカの歌と踊りの愛と希望と祈りの力で地球が浄化され独のない雨が降るようになりました、ってことなのか…へー…(棒)イヤちょっとここに関しては無垢なハートのない、小うるさいSFファンで申し訳ないです。
 ヒロインの設定に関してはそれこそ『999』のメーテルとプロメシュームのような、いやアレとはまたちょっと違うんですけど、要するにザッツ松本零士的というか古き良きSF(まあ『エヴァ』とかもこの設定ですよね、これももう「古い」と言ってしまっていい作品なのかもしれないけれど)みたいな感じで、私は微笑ましかったです。新世代のタカヤ先生といえども理想の女性像が単一で母だの娘だのクローンだのって発想になるんだから、男性はあと1万年経ってもここから逃れられないのかもしれませんね…
 まあでもれいこちゃんは「鬼のようにキレイ」で、みんなのお衣装が良くて、楽しかったのでいいです。個人的にはアメシストの麗泉里の圧とトパーズの美海そらたんのキュートさ、サファイアの白河りりたんの凜々しさに釘付けでした。『コブラ』のパンチ、最高! あ、クール♥(彩みちる)のみちるももちろんめっカワでした!!
 『センセ』のひらめもだけど今回のくらげちゃんの背中も仕上がりきっていて、娘役として完成されてきましたな…!と感心しました。
 私はセラムンはかすってもいない世代なので知識でしか知りませんでしたが、盛り上がっていたので良きでした。あとはやはり『るろ剣』をここでやってくれたのは、ファンには嬉しかったのではないでしょうか。
 でもみちるとりりちゃんは歌っていたけどあとはるねっこもうーちゃんもソロがなくて、若手陣にはもちろん何もなくて、ちょっともったいなかったかな…

 このハコはこれまで花組でも星組でも観てきましたが、今回はDブロックのお席に当たり、私的に今までで一番近く観やすかったと思います。
 でもここって、サイドブロックの席もS扱いなんですかね? 半円形に張り出したような舞台なんですが、花や星のときに比べて舞台奥の部分を使ってそこに一列に横に並んだり、あくまでセンターに向けてまっすぐ隊列を組むことが多く、生徒が円周状に並んだり放射状に向いたりすることがあまりないように思えたので、サイド席の観客はほぼ横顔か後ろ姿しか見えなかったのでは…とちょっと心配してしまいました。奥は見切れも多いだろうし…ちょっと残念。照明や装置など、このハコにしかないおもしろいものもいろいろあるので、いっそうの工夫と配慮が欲しいなと感じました。
 次の宙のゆりかちゃんリサイタルはまた新たなハコなので、楽しみです。
 星組大劇場公演の再開も決まりましたし、どうぞどの公演もご安全に、引き続きなるべく予定どおりに上演されていきますように…!






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