駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宮部みゆき『過ぎ去りし王国の城』(角川書店)

2015年06月30日 | 乱読記/書名さ行
 早々に進学先も決まった中学三年の二月、ひょんなことからヨーロッパの古城のデッサンを拾った尾垣真は、やがて絵の中にアバター(分身)を描きこむことで自分もその世界に入りこめることを突き止める。友達の少ない真は、同じくハブられ女子で美術部員の珠美にアバターを依頼するが…

 私は宮部みゆきの現代ものや時代ものは大好きでほぼ欠かさず読んでいて、逆にファンタジーやジュヴナイルっぽいものはあまり評価していずほとんど読んでいません。これは…微妙だったかな。雑誌に連載されていたもののようですが、どういう立ち位置の作品だったのでしょう? 単行本化に際しあまり加筆修正されていなさそうというか、編集されていなさそうというか、コントロールされている感じがあまりしませんでした。つまり、せっかくのアイディアとかギミックとかがありながら、とても中途半端に展開されてしぼんで終わってしまったお話に見えました。残念。
 ことに前半は、どんなお話になるんだろう、ととてもスリリングに、楽しく読んだのだけれどなあ…
 思うに、何故真のようなキャラクターを主人公に据えたのでしょうか。それが失敗の原因だったのではないでしょうか。何故珠美にしなかったのでしょうか。
 ふたりとも、いわゆるスクールカーストの上位にいるタイプではありません。しかし真は平凡な8割のボリュームゾーンの中の、中の下くらいにいるような、本当に平凡で凡庸な少年にすぎません。読者の大半はこの層の人間だからこういう主人公にした方が読者の感情移入が誘える、と計算したのでしょうか? でもそれって正しい計算かな?
 珠美はスクールカーストの最下層にいるキャラクターでしょう。ただし本人はそれを真の意味ではなんとも思っていない人間です。自分の技能、自分の特技、自分の世界をすでに持っている、ほぼ自立した少女です。こういうキャラクターを主人公にした方が、読者の憧れや好感を誘導できるのではないでしょうか?
 少なくともそれが、最近までの創作のセオリーだったと思うのだけれどな…超最近ではそれではダメだということなのかな…
 でも私は後半の展開にいたって真の言動にいちいち本当にイライラさせられました。というか真って事態の進展に対して完全にアウトサイダーにさせられちゃってるじゃないですか。凡人だから、凡庸で了見が狭く想像力がない人間だと珠美やパクさんから思われて遠ざけられているからです。こんな主人公ってアリですか? ドラマに全然関与しない、できない主人公なんてダメでしょう。
 真はあまりに平凡すぎて、この物語の最初と最後で何も変わっていません。小さな幸せを発見し感謝するようになった、ということもないし、何かに能動的になってたり勇気を出せるようになったということもない。伊音の運命を変えることになったにもかかわらず。世界を変えてしまったのかもしれないにもかかわらず。
 こんな変化のない、無感動な主人公なんて、イヤだなあ、私は嫌いだなあ。
 もっといいキャラクターの主人公で、もっと心揺さぶられながらこのお話を追いたかったなあ。もったいないなあ。これでよかったと思ってるのかなあ。残念だなあ。せっかくおもしろいのになあ…
 そんなことを感じながらの、不思議な読書となりました。




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王家に抱く夢

2015年06月29日 | 日記
 週末に遠征して『王家』を観、平日は日比谷で『1789』を観る日々が始まると、舞台としての密度というか完成度の差に愕然とします(もちろん演じる生徒のせいではなく、作品の構造として、もともとのポテンシャルとか出来として、という話です)。もちろん後者の方が素晴らしい。てか『王家』はぶっちゃけ一幕にした方がいいとすら思います。
 でも、箸にも棒にもというワケではなく、もっとああしたらこうしたらと改善プランがどんどん出るくらい(どんどん出ちゃダメなんだけど)もともとの良さ、見どころはあるし、なんと言っても贔屓が出ていることもあり、見限れず、遠征しない週末なんか寂しくて仕方ありません。
 そんなこんなで、最近ちょいとつらつら考えてしまったことなどを、手遊びとして書いておきます。

***

 ヴェルディのオペラ『アイーダ』のソリストは、ラダメスと二組の父娘、神官くらいです。
 アイーダの兄ウバルドはキムシン創作によるキャラクターなのでしょう。
 宝塚歌劇化するにあたり男役が演じるキャラクターが必要だ、ということもあるし、オペラにはないファラオ暗殺のドラマを担う存在としても必要とされたのかもしれません。
 しかしウバルドは、アイーダの兄ということはエチオピアの王子のはずなのだけれど、それにしてはあまり大事にされていないというか、ちょっと不思議な立ち位置にいるように見えるキャラクターです。初演で微妙な番手の男役スターが演じていたせいもあるのかもしれません。
 今回は押しも押されぬ二番手スターがウバルドを演じていますが、性格としても役割としても初演を踏襲する作りになっているので、そのちょっと不思議な違和感は未だに払拭されていない気がします。
 そこに何か、憶測というか推測というか邪推というか夢想というか、そんなものが生まれる余地があるように思えるのです。
 要するに、ウバルドというのは王子とはいっても庶子で、母親はエチオピア王アモナスロの正妃ではなかったのではないか。アイーダはアモナスロと王妃の間に生まれた正統な王女だけれど、ウバルドはその異母兄にすぎないのではないか。エチオピアには王と王妃の間に生まれた正統な嫡子が、アイーダの同母兄である皇太子が別にいるのではないか。彼こそが世継ぎだと考えられているのではないか、だからこそウバルドはああした行動に出たのではないか…
 そんな、夢の、お話です。

 この時代のことゆえ、エジプトでもエチオピアでも王には正妃の他にたくさんの妾妃がいて、どこも多産で、しかしこの時代のことゆえ子供たちはなかなか育ち上がらなかったのかもしれません。
 エジプト王家では無事に成人したファラオの子供はアムネリスただひとりだったのかもしれません。エチオピア王家でも、幼いころにはアイーダにもウバルドにも他に兄弟はいたのかもしれません。
 カマンテやサウフェはエチオピア王家の家臣ということになっていますが、成人してから王家に仕えたのではなく、貴族の子弟として、王の子供たちの学友のような存在だったのかもしれません。幼なじみ、遊び相手、乳兄弟、お付きの従者、というような。
 そしてもしかしたら彼らは、皇太子の側近だったのかもしれません。そして王女アイーダのことも妹のように慈しみ面倒を見、ともに遊び学んで暮らしていたのかもしれません。ウバルドはあとからそこに加わったのかもしれません。

 ウバルドの母親は妃として王の後宮に迎え入れられる身分ではない、宮廷で働く下女や端女だったのかもしれません。王の手がついてウバルドを産み、しかし妃として遇されることもないまま同じ身分の男と結婚したか、実家に帰ったか。王も男児といえどあまたいる庶子をいちいちかまわなかったのかもしれません。
 母親が死に、あるいは実家が断絶することになって、少年ウバルドはやっと宮廷に迎え入れられることになったのかもしれません。
 皇太子も王女も、半分しか血のつながっていない兄弟がいることに慣れてはいたでしょうが、ある程度歳がいってから家族に加わったこの少年には、当初ちょっと距離を置いていたのかもしれません。あるいはウバルドの方がなかなか馴染もうとしなかったのかもしれません。
 皇太子はウバルドを目の敵にしたのかもしれません。ふたりはそりが合わなかったのかもしれません。皇太子の近習だったカマンテもサウフェも、皇太子の意を酌んでウバルドを遠巻きにしていたのかもしれません。アイーダだけが分け隔てなく、ウバルドに優しく声をかけ続けたのかもしれません。

 先の戦争でエジプトがエチオピアに侵攻したとき、それでもウバルドは、王と皇太子を戦火から逃がすべく矢面に立ち、奮戦したのかもしれません。このとき初めて、ウバルドは家族のために働いたのかもしれません。このとき初めて、カマンテはウバルドを認めたのかもしれません。
 ウバルド、カマンテ、サウフェはエジプトの虜囚となり、アイーダもラダメスに捕らえられ、ともにエジプトに連れられていったのかもしれません。
 エジプト王宮で、奴隷として扱われるわけでもなく、しかし人質としても中途半端なままに、ただ捕虜として収監され無為な日々を送る中で、やっとウバルドとカマンテの間になんらかの交情がなされたのかもしれません。
 そして彼らはともに、アイーダの心がラダメスに傾いていくのをすぐに察知したのでしょう。

 アモナスロはウバルドにファラオを暗殺させ、鳩を飛ばしました。エチオピアでその鳩をその腕に止め、再戦に立ち上がったのは皇太子だったのかもしれません。エチオピアの未来は彼が紡ぐはずだったから、ウバルドは喜んで家族と祖国の犠牲になるつもりで死ねたのかもしれません。
 皇太子にはすでに正妃も、小さな跡継ぎ息子もいたのかもしれません。アモナスロはそこに国の未来を賭けていたのかもしれません。
 けれど新ファラオとなったアムネリス率いるエジプト軍の猛攻に皇太子は敗れ、アモナスロは絶望に狂い、国土は蹂躙され、そうしてエチオピアは滅んだのかもしれません。世継ぎは逃げ延びたのでしょうか。
 いずれ誰かがこの世継ぎの少年を担ぎ上げるか、誰か自身が王を名乗って兵を挙げ、国を興し、再び戦争は起きるのでしょう。アムネリスがケペルを婿に迎えて平和な時代をひととき作ったとしても、その子供の時代には再び国は乱れ、戦争に巻き込まれていくのでしょう。
 戦いに終わりを、この地上に喜びを、そう望み願いながらも、人がみな等しく認め合いお互いを許せるような時代は今なお訪れていません。ラダメスとアイーダは愛と祈りの国に旅立っていけたのかもしれません。しかしウバルドの、カマンテの、サウフェの魂は今なお暗いこの世を彷徨い続けているのです。
 何度やり直しても、やっぱり人は同じことをしてしまうのでしょう。それでも夢見ることはやめられない、今度こそは、次こそは、違う未来を、明るい世界を、戦のない世を築きたい…と。そのとき初めて、彼らの魂は解き放たれるのでしょう…

***

 …というわけでエチオピア宮廷での少年時代の三人の物語で薄い本が作れそうだよね!って夢想の話です。誰かー!!




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『メアリー・ステュアート』

2015年06月27日 | 観劇記/タイトルま行
 パルコ劇場、2015年6月26日ソワレ。

 生後6日にしてスコットランド女王に即位したメアリー・ステュアート(中谷美紀)はフランスで育ち、フランス皇太子フランソワ(のちのフランソワ2世)と結婚するも、フランソワ2世が若くして亡くなるとスコットランドに帰国し、やがてはイングランドに亡命する。一方イングランド王ヘンリー8世とアン・ブーリンとの間に生まれたエリザベス(神野三鈴)は異母弟、異母姉のあとについにエリザベス1世として即位する。結婚して王位を与える価値のある男などいないと考える彼女はヴァージン・クイーンとして生きることを選ぶ。やがて彼女は、亡命してきた従妹メアリー・ステュアートの処遇について決断を迫られる…
 作/ダーチャ・マライーニ、訳/望月紀子、演出/マックス・ウェブスター、セットデザイン/ジュリア・ハンセン、衣装デザイン/ワダエミ。シラーの同名の戯曲の自由な翻案として1980年に書かれ、1990年日本初演、今回が四演目。全1幕。

 リュート奏者(久野幹史/笠原雅仁)がいる他は女優がふたりだけで出ずっぱりの、完全なるがっつりふたり芝居でした。途中にほんの少しインターバルがある他はノンストップの100分。
 ふたりの女優はメアリーとその乳母ケネディ、エリザベスとその侍女ナニーをほぼ交互にかつめまぐるしく演じます。その鮮やかなことと言ったら! 役者ってすごい。
 ふたりの女優はほぼ同じデザインのドレスを着ていて、神野三鈴の飾りが金で中谷美紀の飾りは銀。中谷美紀の左腕だけ袖がありませんでしたが、あれは若さを表しているのかな…完全にお揃いでもよかったかもしれませんが。ともあれ素敵でした。舞台奥に傾いた鏡を置いたごく簡素なセットも素敵。
 しかしこの作品は何故『メアリー・ステュアート』というタイトルなのでしょう? たとえば『エリザベスとメアリー』というようなタイトルでは何故いけなかったのでしょう? それくらいこの作品は、ふたりの対照的な女を対照的に描くことに主眼が置かれた作品に見えました。
 恋多き女でいかにも女、女していて、結婚もしたし出産もして、政治家としては脇が甘く不遇に終わり、しかし意外にサバサバと男っぽい気質でもあったのではなかろうかと思われるメアリーと、結婚もせず世継ぎも産まず男に互して生き、賢王として国を治め栄えさせ大国と渡り合い、しかし意外に嫉妬深く自分の評判を気にする女っぽさがあったエリザベスと。代々それを、歳若くどちらかと言うと理知的なイメージの女優と、より年長でどちらかと言うと情の濃いタイプの女優とで演じてきた。役のキャラクターとはむしろ逆に思えるような布陣で。
 実際には顔を合わせることなく終わったとされているふたりですが、このお芝居では会うことになっている…と聞いていたのですが、夢オチでしたね。そしてお話はメアリーの処刑で終わる。
 最後にメアリーが史実どおり赤いドレスに着替えて出てくるので(ポスターで赤を着ているのは神野三鈴の方なのですが)、青いドレスのエリザベスが語って閉めると美しい、と思ったけれど、ここでは神野三鈴はケネディでした。なのでやはりこれはエリザベスとメアリーの物語ではなく、メアリーの物語だということなのでしょう。
 でも、別に個人的にエリザベスの方により肩入れしたとかそういうことではなくて、これだけ対照的に対に描いてきたのだから、片方だけがタイトルロールであり主人公っておかしくないか?と思ったのでした。
 そして、メアリーの物語というか人生の顛末、解釈はわかりやすいけれど、エリザベスのそれはうまくまとめられていないのではないかと思いました。あまりにも不世出の人物すぎて、難しい生き方を強いられたキャラクターとして、上手くすとんとわかりやすい「お話」に落ちていない、というか。映画『エリザベス』とか『エリザベス:ゴールデン・エイジ』を見ていないせいかもしれませんが(『ブーリン家の姉妹』は映画、原作とも大好き!)。だからエリザベスの物語により興味を持ち、それが語られないことにやや不満を感じてしまったのかもしれません。
 現代にも通じるフェミニズムの問題、みたいなものは私は感じませんでした。単純に歴史絵巻として、またあるふたりの女の生き方とその係わり合いの物語として、おもしろいなと思いました。だから私だったら「エリザベスとメアリー」のお話にする、もっと言えば、残された者であるエリザベスのお話にする、と思ったのです。だとしたらメアリーの処刑を語るのはエリザベスにしただろうし、その後にエリザベスが天寿をまっとうする場面も作ってそれはメアリーの亡霊に語らせたでしょう。そんな、実際には会うことがなかった、対照的な、しかしどこかでとても似ていたふたりの女の物語を、観てみたかった。
 この舞台自体は素晴らしかっただけに、そんなこともつい考えてしまったのでした。



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熱海五郎一座『プリティウーマンの勝手にボディガード』

2015年06月25日 | 観劇記/タイトルは行
 新橋演舞場、2015年6月24日ソワレ。

 何故か突然来日したハリウッドスター(春風亭昇太)のボディガードを元伝説のSP(大地真央)が勝手に買って出る。命を狙われたスターの謎を追ううちに、驚愕の事実が判明し…!? キャバレーを舞台にした歌ありダンスありのエンターテインメント東京喜劇。
 作/吉高寿男、構成・演出/三宅裕司。全2幕。

 ハートフル・コメディなんかではなく爆笑に爆笑を狙うフルスロットル・コメディ…とのことでしたが私は笑いには厳しいので(^^;)、もっともっとできるだろうヌルい!と思いながら観ていましたが、それでもやっぱり笑いました。楽しかったです。
 ただし正価で買ってたら怒ってたと思うけどな…新聞社の割引でそこそこの値段でかなりいい席が来たのでセーフ、という感じでした。外部のチケットは今ホントーに高くなってるなー!
 劇場も内容もノリも客層もザッツ・昭和、オーバー40の世界で、そういうのもたまには楽しかったです。魔王さまが聖子ちゃんカットでブリブリのアイドルソング歌って、トレーナーにスコートにポニーテールにポンポン持ったバックダンサーがコーラスするのにお茶の間感覚で笑えるのは、これくらいの世代までですよね。
 魔王さまはさすが軍服風のお衣装も着こなすしスーツ姿も素敵だしわざとくどいセリフ回しするのもおかしくて上手いし、ラストは大階段のてっぺんにセリ上がって真紅のドレスでお歌いになるのですからたまりません。しかも歌はあまり上手くないのがご愛敬(笑)、アイドルソングの方がよっぽど良かった…そこがまたたまりません。
 年齢的にはいい勝負だと思うのだけれど、そんな大輪の花を芸達者だけどくたびれたおじさんたちが囲む構造がまたおもしろくてシュールで、とても良かったです。
 セットチェンジの間、幕前で展開される小ネタとかがいちいちおもしろくて、芸の力というものをものすごく感じました。みんな歌えたり楽器ができたりとにかく声が良かったりするのもすごいことですよね。
 お話はタイトルどおりというか設定とギャグだけのごく単純なものなんだけれど、元夫婦が元サヤに?とか身を引いて初恋の人へのロマンスを応援?とか、ちょっとロマンチックな要素もあったので、もう少し作り込んでもよかったのに~と残念でした。そこまでできたらものすごくウェルメイドな人情喜劇、ロマンチック・コメディになったのになー!
 カテコの挨拶が漫談みたいでまた絶品でした。あ、前説もあった(笑)。花道も使うし宙乗りも披露するし、サービス精神にあふれたエンタメステージで、楽しかったです。



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宝塚歌劇星組『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』

2015年06月19日 | 観劇記/タイトルか行
 赤坂ACTシアター、2015年6月18日ソワレ。

 旅行客や客室乗務員らでごった返すマイアミ国際空港のゲート。FBI捜査官のカール・ハンラティ(七海ひろき)は長年追い続けた男を今まさに逮捕しようとしている。男の名はフランク・アバグネイルJr.(紅ゆずる)。パイロットや医者、弁護士になりすまし、偽造小切手の詐欺で大金を手にした若き天才詐欺師である。拳銃を手にフランクに迫るハンラティ。絶体絶命かと思えたそのとき、フランクが意外な言葉を口にする。「ようこそ僕のショーへ、ここからは僕の物語」そう軽やかに言い放つと、彼は今までいかにクールにやってきたか語り始める…
 脚本/テレンス・マクナリー、作詞・作曲/マーク・シャイマン、作詞/スコット・ウィットマン、日本語脚本・歌詞・演出/小柳奈穂子、音楽監督・編曲/手島恭子。振付/AYAKO,KAZUMI-BOY、装置/二村周作。実話を元にした同名のアメリカ映画を2011年にミュージカル化した作品を宝塚歌劇で上演。全2幕。

 オギー演出でクリエで上演されたときの舞台の感想はこちら。とても楽しかった記憶があります。
 ただ、宝塚歌劇でもやる、と聞いたときには、ちょっと後出し感を感じた、というのはあったかな。ヒロインの出番が二幕からと遅いし、ラブロマンスというよりは父性愛がモチーフだったり主人公のビルドゥングス・ロマンみたいなお話だし、どうかな?と思ってしまったのです。上手く改変できるならいいけれど、海外ミュージカルは契約的にもけっこううるさいことが多いし…と、ね。
 ブロードウェイ版は映像でも見ていないので、クリエ版がそこからどれくらい改変されているのかもよく知らないのですが…今回の宝塚版は、記憶と比べる限りでは、クリエ版をほぼ踏襲していたのではないでしょうか。セットの作り方も似ていたし。歌詞とかは細かく覚えていないのですが。
 だからヒロインのあーちゃんはプロローグに少し出た他はバイトもせずに二幕までお休み。ハンラティの部下3人以外はフランクやブレンダ(綺咲愛里)の両親たちが意外と大きな役だったりするのもほぼそのままで、宝塚歌劇がやるにしてはバランスを欠いて見えたのもやや残念でした。はっちさんとか、そりゃ上手いのはわかってるんだけど、使われすぎというかついこの間もこの劇場で見たけどね!?ってなるしね。背伸びさせてでも組子にやらせてもよかったかもしれません。
 宝塚歌劇ではトップコンビのラブロマンスの他にトップスターと男役二番手スターとのブロマンス要素もあってもいいと思うので、そういう意味では適していたのかもしれません。星組に組替えして初の舞台となるかいちゃんの化学反応も楽しみでしたしね。
 でも、全体にもう少し、丁寧に手を入れて、馴染みやすくわかりやすく作ってくれてもいいのになー、という気がしました。なんか、あまりにまんまな気がして、なーこたん仕事して!って気になっちゃったんですよね。
 初日開いて最初の夜公演に行ったということもあるかもしれませんが、客席もまだまだリピーターが少なくて、お洒落すぎてとっかかりがない舞台に観客がちょっと引いているようにすら思えたので…
 せめてつかみがもう少しよければなあ、と思ったのでした。

 冒頭の空港のシーンはアバンとして問題がなくて、そこから過去を見せていく…というのもよくある手法なのでいいとして、それを宣言(?)する最初のナンバーが、翻訳が悪いのかとにかく歌詞が聞き取れなくて、何を歌っているのかが私にはさっぱりわからなかったんですよね。それでは観客はこれから何を見せられることになるのかさっぱりわからなくて不安なまま、突然歌い踊り出すキャラクターたちを見せられることになるワケで、そら呆然としますよ。これじゃお客のハートがつかめたとは言えません。
 ベニーもかいちゃんもそしてあーちゃんも歌はすっごく上手くなっていて、けっこう難しい楽曲もあったと思うんですけれどとにかく正確な音程が取れているので(オイ)、そのあとのナンバーはまったく問題がなかっただけに、この冒頭が残念でした。
 それから、もともとナンバーが多くてそれでつなぐレビューみたいなタイプのミュージカルなのですが、それでももう少し台詞を増やすというか芝居パートを増やしてほしかったと思います。説明が足りないんだよねー。当時のアメリカの風俗とか、そのまんま出してもそれはオシャレ感なんか演出されないしワケわかんないだけだと思う。そういうことよりもっと重要で必要な、たとえばキャラクターに関する基本的な情報が提示されなさすぎなのです。
 逮捕直前の冒頭場面から遡って、過去の経緯を見せるのはいいとして、ではフランクは冒頭はいくつで遡った最初の場面ではいくつなの?とかね。ベニーが明るい声を出しているのははしゃいだ演技としてなのか若者としての台詞だからなのか、判断がつきづらいというのもありますが、こういうことを役者の演技だけで説明しようとするのは無理ですよ。ハイスクールって言われたって日本と海外では学校教育システムに数年ズレがある場合があることは知られているし、しかもこれは現代ではなく少し昔の時代の話らしいのだから、なおさらズバリ年齢を数字で言ってくれないとぴんときづらいんですよ。そもそも男性ですらない男役が扮しているんだからさ、「見えないかもしれないけど主人公は16歳の少年ってことなんです」みたいなお約束を早い内に提示してくれないと、お客はそもそもスタートで躓くのです。
 実話では彼は老け顔で、だから大人の振りをしていろいろできちゃった、ということらしいのだけれど、普通に見たらベニーはアラサー女性に見えちゃうわけだからさ。観客をもっと丁寧に物語の世界に、彼女が十代の少年を演じている世界に誘導してほしいのですよ。それは演出家の仕事だと思う。
 それはかいちゃんについても同じ。スーツがちょっとへたれた感じだから冴えない中年男ってことなのかな? でもどう見ても素敵美形メガネなんだけど? 映画はトム・ハンクスだったかもしれないけどここではどういうことなの美青年キャラでいくことにしたの?と観客は混乱するのです。ワーカホリックで女房に逃げられたくたびれてちょっと偏屈なでも仕事はできる中年男という設定なのである、ということはもっとずっと早くにはっきりと出してくれないと、困るのです。
 何度も言いますがそういうことを演技で見せて納得させろ、というのは無理だと思う。それは生徒の演技力のありなしとかのレベルの話ではない。
 こういう、ちょっと気を遣っただけでスムーズになることができていない作品って観ていてホントいらつくんだよなー。誰か客観的に見て助言する人いないの? なんならやらせてマジで?
 スタートがこんなで私はホントに冷めたんですけど、でも生徒はみんな熱演でそのあとの歌もホントよくてお話は尻上がりにおもしろくなっていくし芝居の力に感動させられてほろりと泣けたので、なおさらもっと最初っから「キタコレ!」と前のめりになれるくらいのつかみをしてくれたらなー、と思ったのでした。

 というわけで稀代のトリックスター・ベニー(褒めて聞こえなかったらすみません)には確かに向いていたかもしれない演目で、『メイ執』『ジャン・ルイ』もまあまあよかったし、ベニーは主演作に恵まれているんだなあ!
 口八丁手八丁の天才詐欺師で、でも実は両親の離婚に傷ついているナイーブな少年で、理想的な父親像をハンラティに見ていて…いじらしい、可愛らしいキャラクターだな、と素直に思えました。
 一時期迷走して見えたお化粧もすっきり綺麗になっていたし、歌は本当にしっかりしていてよかったです。さらにハートが乗るようになるともちろんもっといいけれどね。出ずっぱりの大変な舞台を楽しそうにやってのけているのもすごくいいことだと思いました。
 みっちゃんの新生星組でゼヒさらに一皮剥けて、より大きくなっていってほしいと思います。
 組替えしたかいちゃんもナウオンなど見ているとメンバーによく馴染んでいるようで、何よりこの作品のテーマや本質をよく理解し、かつこう演じたいこう作りたい!という意志がしっかり感じられるトークをしていて頼もしく、そしてそれをしっかり体現して見せていて、とても素敵でした。
 そしてちゃんとカッコいいし、何よりハートフルなお芝居に泣かされました。歌も本当に良くなったよね…(涙)
 あーちゃんは、ブレンダはおそらくはもっと地味なくらいフツーの娘なのがお話としては正しいのかもしれなくて、それからすると華がありすぎるんだけど(^^;)、これまたキュートででも全然カマトトっぽくなくてよかったです。かつて席からズリ落ちる思いもした歌も本当に良くなって…何が起きたんだみんな!(^^;)
 FBIスリーアミーゴーズもこの先きっともっと良くなっていくんだろうな、せおっちがやっぱり上手いなーと思いました。
 あんるちゃんのフランク・ママ、ポーラ(夢妃杏瑠)は、もうちょっと弾けてくれるのを期待していたのですが…クリエ版のユミコが素晴らしかったのが印象的だったので。大きい役だし、チャンスなんだし、さらにがんばっていただきたいです。
 娘役ちゃんたちは基本的にアンサンブルでのナンバーが多いのだけれど、ソロ・パートもそれぞれあるし、だんだん見分けられてくると(^^;)またより楽しくなりそうですね。でも歌は全体的に弱かった、みんなもっとがんばっていただきたいわ。あと、もっといい感じのセクシーさも研究の余地アリだと思いました。中途半端だとかえってヤラしくてヘンなので。
 真彩希帆はちょっともったいなかったかなー、劇団はどういう起用をこの先考えているのかな…?

 フィナーレはなし。カテコでベニーが挨拶を毎回ムチャぶりしているようで、なかなか楽しかったです。みんながんばって応えていこう! 別に舞台がちゃんとしていればアドリブ力なんかなくてもいいのかもしれないけれど、宝塚歌劇はやはりスターを愛でるものでもあるので、素が出たときにチャーミングに思われてなんぼなところもあると思うのです。テンパって何もできないのはせっかくのチャンスをもったいないぞ、と思ったので。
 新生星組に幸多かれ!




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