駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇花組『TOP HAT』

2022年03月31日 | 観劇記/タイトルた行
 梅田芸術劇場、2022年3月21日15時(初日)、30日11時半。

 新作レビューに出演するためロンドンにやってきたジェリー・トラバース(柚香光)は、同じホテルに滞在していたデイル・トレモント(星風まどか)に一目惚れ。デイルもまた陽気でチャーミングなジェリーに惹かれていくが、ひょんなことからジェリーが友人マッジ(音くり寿)の夫ホレス・ハードウィック(水美舞斗)であると誤解してしまい…
 脚本・演出/齋藤吉正、音楽監督・編曲/手島恭子。ハリウッド黄金期の同名ミュージカル映画を舞台化したもので2011年イギリス国内ツアー初演、宝塚歌劇では2015年に宙組で上演。全2幕。

 宙組版の感想はこちら、来日版を観たときのはこちら
 細かいところはいい感じに忘れて観たので、そうかこんな感じの勘違いラブコメだったっけ、とニヤニヤキュンキュンワクテカで楽しく観ました。まぁみりかいせーことのニンの違いなんかもおもしろく観ましたね。
 でもやっぱり、ヨシマサもっとちゃんと仕事して、とはまず思ったかなー。版権とか契約の問題とかもあるのかもしれないけれど、やはり脚本や演出というか演技の付け方が雑で、なんか意味がよくわからない、あいまいなところが多すぎて、気持ちよく笑えない気が少なくとも私はするんです。だから長く感じて意外と退屈する人も出てきちゃうんだと思います。もったいないよ! もっと丁寧に作ろうよ!!
 まず訳詞があまり良くないと思う。英語のままの部分が多すぎやしませんか? そしてその部分がいかにもな慣用表現だったり聞いて脳内でパッと日本語に変換しづらいものだったりすると思うので、なおさら良くないと感じました。ならもっと意訳してでも、もっとちゃんと伝わる歌詞にしてほしいなと思いました。とびっきりの歌手がいるという座組でもないので余計に感じましたね、まどかですらちょっとあっぷあっぷしてるように思えたもんなあ…
 そして台詞も足りていないし練れていないし演出とセットで意図や意味がわかりづらい掛け合いの連続で、観ていて解釈に非常に疲れる、と感じました。ル・サンクがあれば1行ごとに「この台詞の真意は? 何を伝えたくてこの言葉にしているの? でもそれならこうこうじゃないとわからなくない? そうしたらこうこうで返さないとおかしくない?」みたいに赤入れしたいくらいです。そもそもの基本設定や状況、情報の説明もなっていない気がしましたし…
 ジェリーはブロードウェイのスターで、でもロンドンのレビューにゲストか何かで呼ばれた、それはいい。モテモテだけど独身で、周りが勝手に気を揉んでいる、それもいい。
 で、ジェリーをロンドンに招聘したプロモーターがホレスで、そもそもはジェリーと良き友人関係(あるいは以前にも仕事をしたことがある?)というのはいいとして、ホレスって心配性で小心者でしなくていい心配を先回りしてくどくど心配して自滅しておもろいことになってしまうキャラ…ってことなんですかね? でもソレ、なんかよくわからなくないですか? なんちゃらクラブに出向いてくるマイティーって普通にりゅうとしていてカッコいいし貫禄あるし、なんかキャラ付けがよくわからないんですよ…あとプロモーターとしての腕はどうなの? 普通に敏腕なのそれともカツカツで常に資金繰りに苦労しているようなタイプなの? 彼が何をどう本当に心配しているのかよくわからないんです。妻の金遣いが荒いと案じているようですがどの程度の深刻さなのかもよくわからないので、観ていてどれくらい真剣に案じてあげた方がいいのかもわからなくてとまどいます。
 また、ベイツ(輝月ゆうま)はホレスの「付き人」とされていますが、付き人って聞いて普通連想されるのって芸能人の付き人、つまり内弟子みたいなあるいはマネージャーみたいな…じゃないですか? でもベイツはホレスの興行のサポートをしているわけではなく、ビジネス上の秘書っぽくもない。むしろプライベートな執事っぽいですよね? だからホレスはそもそもは坊ちゃん育ちというか、ビジネでやっている興行が当たろうと外そうと資産には実は響かない大金持ちで、でもそれとは別に妻の浪費が心配で胃が痛く薬に頼る日々…というようなことなのかなとも思ったのですが、明快な説明がないのでとにかく状況がよくわかりません。また年齢設定もよくわからない。ジェリーやデイルに比べたらホレスとマッジは年かさで中年、ということなんだろうけれどこれまた明快な説明や描写が全然ないので(くりすのおばちゃん芝居は実に上手いのですが)、普通程度のファンならジェリーとホレス、デイルとマッジが同期なことは知ってるんだから混乱しちゃうんですよ。あと、マッジは再婚らしいけどホレスはどうなの?とかね。3年目の結婚記念日を迎えるなんて新婚のうちの気もするけど、ホレスはもう妻を若い女に取り替えたいとか言っちゃってるしそもそもどういう経緯で結婚したカップルなのか、今はお互い全然別行動を取っているようだけれど家庭内離婚みたいな状況をそれでいいと思っているのか実は不満があるのかなんなのか、全然わかりません。
 これがラブコメとして問題なのは、デイルがジェリーをホレスと間違えるのと同時にマッジもホレスの浮気を疑いホレスにも思い当たりがないわけではないからこじれる、って構造なんですけど、そもそもは両想いなのである、という前提がきちんと確認された上でこじれてくれないと、誤解が解決されてちゃんとラブラブになってハッピー、というのがゴールというのも共有されないので、観客は観ていて不安になるというか、「嫌なら金払って/もらって別れた方が良くない?」ってなっちゃうでしょ、ってことです。こういう「前提の共有」は疎かにしてはいけません。それでいうなら、ジェリーもデイルもモテモテで、いつまでも独身だからモテすぎて苦労してるんだからテキトーに身を固めろ、って周りが世話を焼き出す…ってのがそもそもこのお話のスタートなんだけれど、それも明確にされていなさすぎると思います。やり方が下手、見せ方が下手すぎますよヨシマサ…そうやって世話を焼かれて、でも面倒くさいなあまあいい人がいればね…なんて嘯いていた人がコロッと恋に落ちちゃって結婚する!ってなるのがおもろいお話なんだからさ、ちゃんと演出してくださいよと思います。
 デイルも、デイルがベディーニ(帆純まひろ。私が観た回は2回ともパジャマがイタリアンバージョンで、けっこう日替わりだそうなので違うものが観られなくて残念でした…! てかこのラティーノいじりは原作映画にあるんだろうからもう仕方ないんでしょうけれど、そろそろどうにかしたら?というネタですよね…でもほってぃははっちゃけていて大健闘だったと思いました)の専属モデルなのかベディーニがデイルの専属デザイナーなのかなんかよくわからんと思ったし、デイルはベディーニの服着て出歩いて宣伝する代わりに生活費のすべてを面倒見てもらっているんだけれど囲われている愛人ではない、というのはもうちょっとクリアにしておかないとこれまた前提が気持ち悪いな、と思いました。あとデイルは結局ジェリーの顔も知らなかったし名前を聞いても「あのブロードウェイのスターの…!?」となりませんでしたけど、ジェリーってどの程度のスターなんでしょうね…?(^^;)

 …と、以上ブーブー言うだけは言いますが、でもまぁ様のあっかるいチャラさとは違ったキラキラのチャーミングさと粋さと意外に一途で一本気なれいちゃんのジェリーにキュンキュンしましたし、歌はまあいつもの出来かなという気もしましたがダンスはタップ含めてもちろん絶品でした。でもプロローグのステッキは何故ベージュなんだろう、白か金がよくない…? 普通な年寄りが持つものに見えた、って意見を見かけましたよ…
 まどかデイルもみりおんよりちょっと幼い感じで、でもまどかって意外にこういうブロンド美人役をやったことないよな? でもツヤピカメイクがとーっても似合っていてプンスカしててめっかわだぞオイ! と悶絶しながら見守りました。乗馬服もめっちゃカラフルになっていて、みりおんのを着たプログラムの写真もシックでいいんだけれどこれはこれでやっぱりまどかデイルっぽい気がして、私は好きです。ほってぃの趣味がいいということなのか!?(笑)馬場の、下半身をみっちり密着させてのダンスはまだ体重が預けきれていないというかバランスを取りきれていない気がして重そうでヒヤヒヤしましたが、チークトゥチークのダンスは絶品でした! 来日版のポスターにあったあのポーズといいリフトといい、息ぴったりで軽やかでドレスの裾のフワフワも美しく、夢のようで涙が出ました。はーきゃわうぃい。
 マイティーはホント上手いよね手堅いね、そしてくりすも本当に本当に上手いよね、そしてまゆぽんホント絶妙でしたさすが専科でしたプロローグやフィナーレにはちゃんといてバリバリ踊っているのも素敵でした。ほってぃも大健闘、そしてキョンちゃんやさなぎやカガリリちゃんが確実に脇を固めているのもイイ。糸月ちゃんも踊っていて可愛くてホントいい…んだけどあのキャラは不発で残念。これでご卒業の桜月のあちゃんが可愛かったです。あとあわちゃんの生腹、ごちそうさまでした。どこにいても可愛い美里玲菜ちゃん、しかしここからどうして起用がないのか…はなこはなんか役不足だったかもしれません、パワーを持て余しているようにも見えました。ベディーニ役替わりとかもアリだったのかも…
 生オケ、やはりとてもよかったです。送り出し音楽付き。初日は私の席からは柱で見えなかったのですが、指揮の橋本和則先生はちゃんとトップハットを被っていらしたんですね。オシャレ!
 アステアを敬愛してやまないというれいちゃんには素晴らしい出会いとなったことでしょう。珠玉の名曲に彩られたハッピーで楽しいラブコメ・ミュージカル、千秋楽までどうぞご安全に!


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ブラッド・ブラザーズ』

2022年03月30日 | 観劇記/タイトルは行
 東京国際フォーラム、2022年3月28日18時半。

 ナレーター(伊礼彼方)が語る、ある双子の数奇な物語。ミセス・ジョンストン(堀内敬子)は7人の子持ちで、新たな妊娠を機に夫に逃げられ、借金取りに追われ、その上お腹の赤ん坊は双子と知らされる。一方、彼女が仕えるミセス・ライオンズ(一路真輝)は仕事で多忙な夫(鈴木壮麻)との間に子供ができず悩んでいた。ミセス・ライオンズはミセス・ジョンストンに双子の片割れを欲しいと懇願し、裕福な家庭で育つ方が幸せになれる、仕事のたびに会えると説得されたミセス・ジョンストンは、ついに生まれた双子のひとりを渡すが…
 脚本・原作・作曲/ウィリー・ラッセル、演出/吉田鋼太郎、翻訳・訳詞/伊藤美代子、訳詞/岩谷時子。1983年リバプール初演、1991年日本初演。全2幕。

 タイトルは知っていて、日本初演のミッキー(柿澤勇人)は柴田恭兵だったんだよね、という知識だけでチケットを取りました。ちなみにエドワード(ウエンツ瑛士)は三田村邦彦だったらしい、わかるー! そして今回演出の吉田鋼太郎は初演から三演までミッキーの兄サミー(内田朝陽)役を務めたんだそうです。わかるー! 他に坂本昌行ミッキーに赤坂晃エドワード、武田真治と藤岡正明のミッキーに岡田浩暉と田代万里生エドワードのダブルキャストという公演もあったそうな。UKツアーはなお上演中という、不朽の名作といったところでしょうか。
 始まって1分でこれはたーっぷりやるタイプの芝居だな、と感じましたが、自分のコンディションが良かったのか休憩込み3時間の舞台をみっちり楽しみました。なんせみんなとにかく上手いので、冗長には感じなかったかな。主役ふたりが開始40分くらい出てこないし1幕は子供のまま終わっちゃうんですが、それでも巻いてスピーディーにしちゃうとかえって痩せてしまう作品だろうとも感じました。ミッキーは1947年生まれの作者の分身とも言える存在だそうで、だからこれはその年代くらいのその地域に根付いた物語なんだけろうけれど、でも貧困とか格差とかいったものはいつの時代でもどこの国でもある問題であり、それでも子供たちが仲良くなることや恋が生まれることは普遍的で、ある種抽象度の高い骨組の物語なので、くどいくらいにしっかりベタに人情味ある演技と感情を重ねて作り上げた方が響くのではないかな、と思ったのでした。
 お互い本当に兄弟であることを知らず、近所に住んでいるから、そして正反対の暮らしをしている正反対の性格だから、惹かれ合い仲良くなり親友になり、義兄弟の契りを交わす、男の子たちの物語。そして同じ日に生まれ同じ日に死んだ、しかも殺された男たちの物語でもあることも冒頭ですぐ明かされます。
 でも真の主役はミセス・ジョンストンですよね。まさしく圧巻の堀内敬子、納得で貫禄のどセンター役でした。彼女が歌い、劇中何度かリプライズされる「マリリン・モンロー」というナンバーは、この作品が役者5人の70分の芝居としてまず作られたときから唯一あった楽曲だそうです。マリリン・モンローというのはひとつの典型的な、象徴的な女性像ですが、私はむしろカテリーナ・スフォルツァを想起したくらいでした。子供に何人死なれても、女は産める限り産み続けるしかない。どうせ男は種を付ける他は殺し合うことしかしない。女が産まなければ人類は絶えてしまう…そんな物語のようにも思いました。
 あるいは『ロミジュリ』の兄弟版かな、とかね。ミッキーの遺体にリンダ(木南晴夏)が寄り添いエドワードの遺体の傍らにミセス・ライオンズがたたずむ構図は、ロミオとジュリエットが眠る霊廟に集った両家の両親の姿のようでした。でも彼らを殺したのは彼女たちではない。だから彼女たちは「罪人」は歌わない。貧困や格差が彼らを殺したということなら、そういう社会を作っているのはまぎれもなく男たちだからです。女たちはその社会に、政治に、ほぼ何も寄与させてもらっていないからです。これは男たちのせいで男たちが死ぬ、勝手に死ぬ物語なのでした。
 リンダが生きていてくれてよかったです。そして彼女の生んだ子供が娘であったことも。お話の途中でナレーターが、彼女がこの地に女として生まれただけで払わされるツケがある、みたいなことを語ったときに、私はまたお話の都合で殺されるヒロインを観ることになるのか…と気が気でなくなったのですが、彼女が病で死んだり出産で死んだり殴られて殺されたり犯されて殺されたり事故に遭って死んだりしなくて本当によかったです。もちろん彼女は夫に死なれて不幸ではあると思います、でも命あっての物種です。生きてさえいればこの先なんとかなることもある、ミッキーやエディには持てなかった可能性が残されているのです。救われました。エディがミスター・ライオンズそっくりの、けれどもちろんあつらえた新調であろう三つ揃えのスーツを着るようになった一方で、リンダは姑のカーディガンやエプロンをそのまま引き継いで身につけるようになりました。後ろ姿なんか本当にそっくりで、もちろんそう見せているんだけれど本当に残酷で怖くて悲しかったです。ミセス・ジョンストンもリンダも生まれた地を愛し、そこで出会った男を愛し結ばれて子供を産み育てるだけの暮らしをしましたが、リンダの娘サラは違うかもしれません。リンダもミッキーの前ではひとりで柵が越えられない振りをしてみせましたが、ひとりのときはハードルのように華麗に飛び越してミッキーを驚かせていたではありませんか! サラはここではないどこかへ行きたいと考える人間になるかもしれない。そして親や祖父母たちとは違う生き方をし始めるかもしれない。生きているって、命って、希望って、そういうことです。
 ミッキーが最期に言う、「なんで俺をあの家にやってくれなかったんだ、あっちの方がよかった」という言葉の、なんとひどいことか。こんな言い様を他になかなか聞けませんよ。この台詞を吐き出すのとほとんど同時にミッキーは衝動的にエディを撃ち、彼らを包囲していた警官たちはミッキーを射殺します(客席降り、客席登場が効果的に使われていて、コロナ以前のように見えた久々の作品でした)。そのあっけなさがまた絶望的なまでに上手いしいいんだけれど、だからこそこの台詞のひどさも際立つのでした。
 実際には双子のうちのエドワードになる方の赤ん坊を選んだのはミセス・ジョンストンではなくミセス・ライオンズでしたし、氏より育ちというのはもちろんあるだろうけれど生来の性格というものだってあるんじゃないのかとか考えればミッキーがライオンズ家に行っていたとしてもエドワードのようになったとは限らない。そしてもしミッキーがエドワードにようになっていたのならそれはエドワードがミッキーのようになっていたということであって、そのときは要するにそちらが彼を殺すことになっただけかもしれないのです。あっちがよかった、なんて意味ないし言っちゃいけないことなんです。でも今、親ガチャなんて言葉がある時代に、この台詞が響く…それを聞かされてミセス・ジョンストンは、女は、女たちはどうしたらいいというのか。兄弟の死なんかよりもそっちの方がよほど絶望的で、その意味でもものすごい演出であり作品だと思いました。
 ミッキー視点で観られがちでしょうが、エディは大学で新たな友を得て新たな人生に踏み出していたのであり、ミッキーはそれを無残に奪ったのでした。そのことも忘れてはならないと思います。
 兄弟が知り合い、仲良くなってすぐに、ミッキーがエドワードに卑猥な隠語を教え、エドワードは家で初めて母親に逆らってその言葉をミセス・ライオンズに投げつける、というくだりがあります。私は、そのエピソードの意図や意味はわかるし、確かに子供にありがちなことだし効果的だとも感じましたが、でも似た類の別な言葉でもなんでもよかったじゃん、とその言葉のセレクトにはやや退きました。要するに女性器を指す隠語です。今なお力を持っていて、ネットスラングでは女性差別に多いに使用されている言葉です。私は別の言葉にしてもらいたいと強く思いました。こんな悪いことしてるオレ、とかって意気がっていないか演出家? つまり7歳男児とまったく精神年齢が同じってことだけどなオイ? と思ったのです。
 でも、最後まで見て、正しい言葉のセレクトだったのかもしれない、とも思いました。女はすべて男をほんのり嫌いなものですが(あえて主語をデカくして断言しますが)、男もまた実はほんのり男を嫌っているのです。それはつまり自分を嫌い呪っているということです。そしてその呪いを、自分を産んだ女にぶつけている。自分をこの世に放り出した女性器に罪を負わせようとするのです。だから女を女性器の名で呼ぶ。そこに男根が挿入され射精されなければ、そしてそこでできた子供が旋回しながら産道を通りその一部に裂傷を作ってまで出てこなければ、人は決してこの世に生まれないというのに。それそのものはただの器官にすぎないのに。男たちは生まれてきた憎悪をすべてそこにぶつけます。自分たちにはない器官なのに、それなしでは生きていけないようなこだわりをしつこく見せ続ける。なんたる不毛、なんたる皮肉であることか…
 それでも女たちは子供を産み続けるのでしょう、しばらくは、まだ。これはそんな時代の物語です。この先は、女たちは本当に産まなくなりますし、産みたくても、欲しくても子供は宿らなくなります。そうして人類が死に絶える未来がやがて必ず来る。だからこれは、まだ人類を愛し信じる時代の物語なのでした。絶望的な死で終わる悲劇なのに後味が悪くないのは、人間を愛おしみ慈しむ視線がある、人間賛歌の物語だからだと思いました。

 「マリリン・モンロー」の歌詞の中にあるダンスとは、私はときめきとか人生のちょっとした余裕、華やぎ、お楽しみみたいなことなのかなと感じました。それこそ観劇のような。コンスタンツェのようにあまりにも毎晩踊りに行く、ダンスはやめられない、となるとまたアレだけれど、毎日ではなくても誰にでもちょっとは必ず必要なもので、でなければ人生は生きて行くにはあまりにつらく厳しすぎるものだと思います。それを単なる色欲とか前戯みたいなものとしてしか見ず、若い女にだけ与え認め利用しようとする男たちには本当に反吐が出ます。男とは自分に本当はどんな「ダンス」が必要なのかが全然わかっていない、愚かな生き物なのだろう、とも考えさせられました。将来サラが踊るダンスに希望をつなぎます。好きなときに好きなようにひとりで踊ることだってできるようになっているはずだから…

 何役もこなすアンサンブルが素晴らしかったですね。スウィングもふたりいたようで、いいことです。メインキャストももちろんみんな素晴らしかったです。このあと何都市か回るようですが、どうぞご安全に!



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『サロメ奇譚』

2022年03月27日 | 観劇記/タイトルさ行
 シアターイースト、2022年3月26日17時。

 サロメ(朝海ひかる)はずっと耐えてきた。支配的な母ヘロディア(松永玲子)のまなざしに、義父ヘロデ(ベンガル)のじっとりしたまなざしに、そして「風俗王の娘」である自分に向けられた好奇と侮蔑が混じった周囲のまなざしに。満月が輝く夜、ユダ屋グループ率いるヘロデの六十歳生誕祭が開かれる。屋敷に紛れ込んだ預言者ヨカナーン(牧島輝)に出会ったサロメは雷のような衝撃に打たれるが…
 原案/オスカー・ワイルド、脚本/ペヤンヌマキ、演出/稲葉賀恵。朝海ひかる芸能生活三十周年記念公演。全1幕。

 私はこの戯曲が好きで過去にいくつかいろいろ観ています。こちらこちらこちらなど。今回は脚本、演出が女性なのでひと味変えてくるか…?とか、南部(東谷英人)、奈良(伊藤壮太郎)、吉田(萩原亮介)といった名前の登場人物がいるようなので現代日本に翻案したもの…?とか、さてどうなることかと観ていました。プログラムによればヘロディアは52歳でサロメは32歳の設定だそうです。ヘロデはキャバクラなんかを手広くやっていて儲けている男、という設定の模様。12歳のときに母の再婚でこの父親の娘となったサロメは、バレエだけをずっと続けている、恋をしたこともない女、とされていました。変な名前、とされているし、ヘロデやヘロディアのお衣装はパーティーの仮装なのかもしれず、やはりそこはかとなく日本感が漂い、余計にざらざらします。が、それだけとも言えて、私は中盤はやや退屈しました。
 が、今回の翻案にはやはり意味があったのです。後半が、というかラストが、まさしくラストショットが重大な意味を持っていたのです。
 サロメがヨカナーンの首を欲しがり、ヘロデに指示されて南部が斬って差し出すわけですが、吉田が密告したらしく事態は警察沙汰になります。今まで賄賂か何かでごまかしてきたさまざまな非合法な悪事も暴露され、ヘロデの仕事は炎上しおそらく逮捕されたのでしょう、実行犯として逮捕されたらしき南部が獄中から語ります。ヘロデの事業は崩壊し、サロメは行方知れずになった、と。ヨカナーンとの新生活を夢見て支度など進めていたサロメは、ヨカナーンの首にキスをしたあと、ひとり去ったようなのです。
 そう、この作品にはもとの戯曲のラストのあの「その女の首を刎ねよ!」がないのです。このサロメは死なない、殺されないのです。ヨカナーンの首をねだるためにヘロデの前で踊ったときよりさらに激しいダンスを、サロメは最後に再び踊ります。そして空中に飛び上がる…私には『ボレロ』のジョルジュ・ドンのポーズが想起されました。空中に飛び上がったところを強い照明が捕らえて、そして暗転、終幕でした。震えましたね! それまでの退屈が吹っ飛びました。
 コムちゃんは今でも素晴らしいダンサーで、でも変わらず小顔なわりには体には年齢相応の肉がついて現役時代より厚みが出ていて、そのボリューム感がかえって良くて、やっと生身のひとりの人間の女として生きていけるサロメ…というものを体現しているように思えました。実際には苦労知らずのお嬢様育ちでこの先苦労するだけなのかもしれません。でも少なくとも生きている。サロメはストーリー展開のためにある種不必要に殺されてきた何百万何千万といるヒロインのひとりですが、このサロメは生き延びたのです。生きて親の家を抜け出せたのです、これは大きい。「1人の女性の自立と解放」、プログラムにあった言葉どおりのすがすがしいラストシーンでした。
 萩原亮介の声と佇まいがとても素敵でした。というか他のふたりもめっちゃ上手くて効果的でした。コムちゃんと実年齢がほぼ変わらないという松永玲子も色っぽくて嫌みっぽい母親役でとてもよかったです。ヨカナーンは…難しい役だけど、よくわからなかったかな。もっと身体的にものすごく特徴のある俳優さんを起用するとおもしろかったのかもしれません。すっごく背が高いとかすっごく痩せてるとか、ものすごく美形だとか。違う次元にいる人間、という感じがもっとあるといいのかなと思ったのです。
 あ、わざとなんだろうけどBGのセレクトのベタさはちょっとおもしろすぎちゃったかもも…
 ちょうど東京公演の折り返しくらいだったのかな? 大阪公演の洛まで、どうぞご安全に…!


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『奇蹟』

2022年03月24日 | 観劇記/タイトルか行
 世田谷パブリックシアター、2022年3月23日18時半。

 法水連太郎(井上芳雄)は頭脳明晰な私立探偵だ。高校時代からの親友で、脳神経外科医の楯鉾寸心(鈴木浩介)は、「キキュウノイライアリ」という書き置きを残して姿を消した法水を追う。傷を負い、眠り続ける探偵を見つけた楯鉾だが、目を覚ました法水は記憶障害に陥っていて…
 作/北村想、演出/寺十吾。全1幕。

 ヨシオさんのコロナ罹患で初日が延び、持っていたチケットが飛んで、取り直してまで出かけたというのに…1時間40分と上演時間が短いことだけが救いの、私にはまったくワケわからん舞台でした。あ、あとヨシオイノウエの歌が生声で聞けたことはよかったかな? しかも3曲も。あとセット(美術/松井るみ)や映像(映像/浜嶋将裕)がちょっとキッチュでよかったけど…あとは基本的にはお金はともかく時間を返してもらいたい、と思った観劇になりました。
 プログラムでみんながみんな「わからない」とコメントしていたので嫌な予感はしたんですけれどね…ミステリーのパロディをやりたかったのか、宗教批評をしたかったのかなんなのかはわかりませんが、とにかくまるでワケがわからず、ワケがわからないことを楽しむこともできず、寝はしないんだけどとにかく退屈で見るものもないから(なんせまた動きがない舞台なんですよ…)目をつぶって考えごとしちゃったりなんかしちゃいましたよ…え、ホント何がしたかったの???
 寺十演出は『あなたの目』で観たことがありますが、北村作品は私は初めてだったのかな…プログラムによれば現代演劇界のマッド・サイエンティストと呼ばれているそうですが、ずっとこんな作風の作家さんなのでしょうか…名前は聞く気がするんですけど…不勉強で申し訳ございません。
 入りも悪かった気がしたしね…うーん残念でした。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夢Senマイ初日雑感

2022年03月21日 | 日記
 宝塚歌劇雪組大劇場公演『夢介千両みやげ/Sensational!』3月20日11時を観てきました。いただいたお席は2階前方センターブロックやや下手寄り、とても観やすかったです。ショーのフォーメーションがたいそう美しく見えました。
 お芝居の原作小説は未読。申し訳ありませんがそもそも知らない小説、作家だったので、予習する気にも特になりませんでした。なんとなく痛快娯楽活劇とか人情喜劇みたいな世界観であることは察せられたので、まあノー知識で行っても十分わかるものになるだろう、と安心していたというのもあります。実際に初日の評判からは「頭を使わなくていい」「誰も死なない」「良いダーイシ」といったものが聞こえてきたので、これが純粋な褒め言葉なのかは怪しいところですが(笑)、まずは自分の目で見て確かめよう…と出かけてきたのでした。

 そして実際ノー予習でまったく問題なくわかり、楽しめる仕上がりだったと思います。というか舞台なんてすべからくこうあるべきなんだけれどさ本来。ただ、じゃあそこから原作小説を読んでみようとなったかというと私はそれはなかったわけで、その底の浅さというかそれこそ世界観の軽さが私は気になりました。
 悲劇の方が難しくて高尚で重厚で価値がある…という考え方は間違っていると私は思います。ダーイシはこの考え方にハマってしまっていると思う。だから明るく楽しく万人が喜ぶ喜劇を作ろうとしたのだと思うのだけれど、でも喜劇を舐めているのだと思うのです。だってチェーホフだってワイルドだって自作を喜劇としているんだぜ? 喜劇だから、コメディだからって人間の感情の機微を疎かに扱っていいということではない。軽やかなのと薄っぺらいのとは違う。人間というものに対する解像度がもっと高くクリアな喜劇というものは存在するし、宝塚歌劇でも十分作れるはずだと私は考えています。たとえば、これまた原作映画未見で申し訳ないのですが、そしてたまたまか同じ雪組でしたが、『幕末太陽傳』はもっと人間の描き方がちゃんとしていたと思います。あちらは死人が出ていたけど…でも、なーこたんとダーイシの差を感じます。ダーイシはコメディ、喜劇となるとドリフのコントみたいなものしか思い描けないんだと思う。それでは大人の鑑賞には耐えられないと私は思います。
 華やかでわかりやすいプロローグは、いい。でもすぐに私が「ダメだこりゃ」となったのは、お銀が夢介に惚れたことを自覚するくだりの演出です。下手花道とっつきに出てきたひらめちゃんに七色かなんかのライトを当てて「キラ~ン」みたいな効果音入れて(記憶違いだったらすみません)、恋に落ちたと自覚する描写としたことです。別にお銀みたいな肩書き持ち(「肩書き」が意味するものが現代とは違うので、何か説明がもっとあってもよかったと思う)の女がこういう経緯で夢介みたいな男に岡惚れすること自体は、十分ありえると私も思います。というかそうでないと始まらない話だし。でももっと普通に、ちゃんと、恋する演技をしっとり芝居させたって別にいいワケじゃん。そのときめき芝居に観客の心もときめくんじゃないの? なんで笑かそうという方向に持ってくの?
 つまりダーイシ自身がこんな恋はくだらない、嘲笑していいものだって思ってるってことなんですよ、その表れなんですよ。作家がキャラクターや作品世界に愛もリスペクトも持っていないのが丸わかりなんです。もうその人間性が嫌。私がそもそもアンチ石田だってのもあるけれど、わかりやすい差別表現や下卑た下ネタがなかったとしたって(穿ち過ぎかもしれないけれど貝については微妙だと思ったしそういう意図があるならかなり露骨で不快ではある…あと婉曲表現として今回初めて「肌を合わせる」という言葉を知ったのかもしれないが、いい気になって三度も四度も使いすぎで、ホントただのアタマ悪い中学生男子みたいだよなダーイシ…と思ったのでした。これは誹謗中傷ではなく正当な批評だと私は考えています)「今回は良いダーイシ」と言うのはどうだろう…と私は思いましたね。良かろうが悪かろうがダーイシはダーイシなのです。
 それと、これは完全に原作準拠なんでしょうが、私は夢介がやっているバラ捲き施策に関してはあまりいいようには受け取れませんでした。生きたお金と死んだお金がある、というのはわかるけれど、お金に色があるじゃなし、金は金だろう、とつい思ってしまうというのもあります。これは私の心が汚れているのかもしれません。でもみんながみんなこの夢介の鷹揚さに感化されて真人間になっていってみんなハッピー、みたいなのはやっぱりちょっと嘘くさすぎやしないか? 百歩譲ってそういうことがあるんだとして、そういう形でしか人が改心することはないというなら、夢介みたいにお金をばらまける人間は現実にはほぼ絶対に存在しないのだからつまりこの世は闇のままってことにならないか、と私なんかは考えてしまうのでした。日本人ってお金というものに対して屈託があってちょっと正対しきれていないところがあるから、もっとこれくらい素直かつドライでいいんだぜ、ってことなのかもしれませんが…うぅーんどうだろう…
 あと、「道楽修行」というのが実はよくわからないな、と感じました。主にアメリカなんかでは大学受験して合格したあと、すぐ進学せずに一年くらい休みを取って旅行したりなんたりしてから大学に行ったりしますが、あんなようなものかな?と思いはしたのですが…私の今の実家からすると入生田は知っている地名で、もちろん田舎なんだけどあんなに訛るような田舎かないうても神奈川県やぞ失礼な、とかこれまたナチュラルに失礼な地方差別をするのですが、ともかく夢介は地方の豪農の跡取り息子、ってことなんですよね? 私は実は「庄屋」というものの実態をよく理解していないのですが…実際には彼自身は田畑に出てつらい農作業をすることはない身分なのではないかしらん、乳母日傘の(ゆーちゃんさんは爺やだけど(笑)。てかそらとゆーちゃんさんはわかっちゃいたけど芝居が抜群に上手いね! 台詞や立ち居振る舞いに宿る情報量が圧倒的に多い!!)坊ちゃん育ちなわけですし。で、親が隠居するかはともかくとして夢介に本格的に家の仕事をさせるにあたり、その前に金を与え自由な期間を与えて、人生修行をしてきなさい、という意味で親は夢介を送り出したのではないのでしょうか。具体的に言うと要するに都会で呑む打つ買うみたいな遊びをひととおりしてみて、してみさえすればだいたいのことはわかるし飽きるしもういいやとも思えて、あとはいっさいそうした遊びはせず真っ当に家の仕事を継ぎ、でも世間というものも多少は知った大きな人物になる…というようなことを期待してのものだったのではないの? そんな「修行」を「道楽修行」と言ってみせる、ちょっと洒落たところのある父親だった、ということではないのかなあ?
 でもこのあたり、なんの説明もないので、「道楽息子になるための修行ってことなの? なら総太郎に弟子入りすればよくね?」みたいになりません? 夢介(とその親)が何を見据えているのかがよくわからないままにただ金がばらまかれるので、それはお人好しのおせっかい故だとわかりはするのですが、彼の目的ってなんなんだろうね…とふと虚しくなってしまうんだと思うのです。観客は、観劇ができる程度には小金がある身分かもしれませんが、それこそ生活を始末してチケット代を捻出している人も多いだろうというのが今の不景気の世の中なのですよ。夢介が安易に大金を出すのに、少なくとも私はけっこうざらりとしたものを感じながら観たのでした。もっとバブルなころならまたもうちょっとウケ方も違ったのかもしれませんが…うううぅーむむ。

 あとは、今すぐにでも改善できるところとして、お松に総太郎のいいところ、好きなところを語らせ、伊勢屋夫妻や総太郎にもお松のいいところを語らせ、要するに子供のためだけに結婚するのではない、としてくれ頼むから…という点を挙げたいと思います。
 総太郎はしょーもないバカ坊だけど、あーさがやるから許せるんだし、実際あーさの役への愛嬌の持たせ方などとても上手いと思います。そしてひまりは狸メイクでも多少おてもやん気味でもちゃんと可愛い。でもお松は、顔と財産だけが目当てで総太郎に群がっている女たちとは違って本当に彼を愛しているんでしょう? ならどこをどう好きなのかってのを、一言二言の台詞でいいから足してほしい。そして伊勢屋夫妻も総太郎も、ただ跡取り息子の子供を孕んだ女だからお松を迎え入れるのではなくて、お松ならではの良さを買い愛し家族にしよう未来を共にしようとするのでしょうから、そういう台詞を足してほしい。現状、双方とも子供の話しかしていません。そういう出来婚は悲劇に終わり子供にも良くないことが多い、というのはすでに広く知られた厳然たる事実でしょう。宝塚歌劇が愛をないがしろにしてどーする。次の休演日明けからでいいからすぐ脚本に足してくれ頼む。

 ま、そんなところでしょうか。
 あとは、そらがホントいい仕事をしていて、その弟妹のぶーけたんとりなくるもめっちゃおいしいし、あやなちゃんの役は原作から変えられているそうで、花を持たせてもらって何よりだと思いました。その妻がともかというのもイイ! というかこのともかといい妃華ちゃんといい愛すみれといいもちろん夢白ちゃんといい、娘役にたくさん活躍の場があるのがいい! あがちんの役まわりもとてもイイと思いました(長袴の扱い、鮮やかでした!)。まなはる以下の悪役チームはちょっと『CH』と同じ役まわりになっちゃってるかな、とは感じましたが…
 これから細かい小芝居も増えて、組ファンは楽しく通えるのかもしれません。咲ちゃんとひらめちゃんが終始ラフラブしているのもいじらしくて楽しいですしね。私は咲ちゃんはカッコイイ系の役の方が似合うのではないかと思っている派ですが、こういういい人系をやらせたくなる気持ちもわかりますしね。
 新公は主役のあがちんは安定でまあいいとして(というかバウ主演までしているんだからもう新公は脇に回ってもよかったと思う…)華純ちゃんのお銀に話題の華世くんの総太郎というのは注目かもしれませんね。こちらも楽しみです!


 ショーはいつもの中村Bで、それこそ雪組はしょっちゅう当たっている気がするので新鮮みがないこと甚だしかったです。てかプログラムでそらがBショー初めてとか言ってんだよどんだけ宙組に来てくれてないねん! 偏りすぎなの、良くないと思います。
 あとはホントいつものBショーで…とりあえずスクリーンセーバーはもうやめようよ無意味だよ経費の無駄遣いだよ邪魔なだけだよ。あと銀橋渡りの大盤振る舞いはまあいいとして、フィナーレのワンモア中詰めみたいなのもちょっともう飽きたかなー。要するに手抜きして生徒のスター力に頼っているだけに見える。もちろん生徒にはいい機会だと思うしファンも楽しいかもしれないけれど、もうちょっと手を入れたものが私は観たいのです。ストーリー仕立ての場面があーさと夢白ちゃんがメインだった場面くらいしかなくて、あとはスター構成的にもダンスの種類的にも似ていてデジャブ感があってとにかく場面のコンセプト的に目新しさがなくて、ちょっとどうかなと感じてしまいました。そらがきちんと使われていることやあやなちゃんへの餞別が手厚くあるのはいいなと感じたのですが…あとプロローグ、番手スターが銀橋渡りしているときの本舞台が、娘役がピンでセンターで男役をズラリ従えてバリバリ踊っていたところ!(ひまりと夢白ちゃんの踊り継ぎだったかな?)てか娘役はひまりに夢白ちゃんはもちろん、お芝居に続いて妃華ちゃんの扱いが良くて、私は以前からずっと好きだったので嬉しい!となりました。ともかにもどこかで歌わせてほしかったなー。あと何回かあったカゲソロやカゲデュエットはなんか不発だった気がする。別にカゲである必要ないんじゃないかな、とか思いました。
 おっと!と注目したのはひらめちゃんの仕上がりっぷりで、特にデュエダンは背中が開いたドレスでしたがまあ美しいこと! やはり上級生トップ娘役だけのことはある! そういえば男役上級生陣を従えての一場面もあり、今までひらめちゃんではこういう場面がなかったように思ったのでいいぞいいぞと気分がアガりました。
 パレードは、確かにあやなちゃんは順番はどこであれひとりで階段降りさせてあげてもよかったのでは…とは思いましたね。はばまいちゃん(ロケットセンター可愛かった!)とか使えば構成はまだまだ変えられたでしょう。てかすわっち挟んでひまりと夢白ちゃんの3人で降りたところ、上手は夢白ちゃんなんだふーん…と思いました心が狭くてすみません。でも次の『心中』のヒロインはひまりがニンだと思うよ…!
 まあでもショーもそらが加わったことでホント層が厚くなったと思いました。あいかわらず団体戦なんで下級生が識別してもらったり頭角を現すのはけっこう大変そうですが、がんばっていっていただきたいものです。わあわあ言いましたが、組ファンが楽しく通えると判断しているならそれでいいかとも思っています。
 次に行くときはもう桜は終わっている頃かな…進化を楽しみにしています!




コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする