駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇月組『風と共に去りぬ』

2015年02月27日 | 観劇記/タイトルか行
 中日劇場、2015年2月21日マチネ。

 1861年4月12日、アメリカ南部、樫の木屋敷と呼ばれる豪壮なウィルクス家の庭園では野外パーティーが開かれていた。タラの大農場主の娘スカーレット・オハラ(龍真咲)はその界隈の青年たちの憧れの的だったが、彼女が一途に想いを寄せるのはウィルクス家の長男アシュレ(華形ひかる)だった。そのアシュレが従妹のメラニー(愛希れいか)との婚約を発表すると聞いたスカーレットは、なんとか思い止まらせようと屋敷の書斎で愛を告白するが…
 原作/マーガレット・ミッチェル、脚本・演出/植田伸爾、演出/谷正純。1977年初演以来、何度も再演されている作品。全2幕。

 去年梅芸で観たときにはまさおスカーレットの浮かれっぷりに閉口したのですが、今回は何故か可愛くいじらしく見えました。あいかわらずまさお節はややうるさいのだけれど、可愛いお馬鹿さんっぷりが憎めなくて、こういうスカーレットもアリだよな、と素直に思えました。歌がいいのも強い。
 イシちゃんのレットは引き続き素晴らしいですが、ぼちぼち枯れた味わいが出すぎてきてしまっているかも。特に最終場のバトラー邸でのまさおとの芝居の色の違いが極端で、ううーむ、となりました。階段落ち前後のマミーやスカーレット、メラニー相手の芝居や、スカーレットに結婚を迫るくだりなど、私がレットに求める演技とちょっと違って見えて、残念だったかも…テルのレットとまさおスカーレット、というのが一度観てみたかったかもしれません。
 ちゃぴの聖母っぷり天使っぷりが上がっていて素晴らしい。
 アシュレは難しい役だしみつるのニンだとも思えませんが、軍服がすらりと似合ってこれはスカーレットが惚れるよなという王子様っぷりでよかったです。あと二幕冒頭、スカーレットにキスしてしまったあと、スカーレットに「出て行く必要はないわ」と宣言されて閉まるカーテンの向こうに引っ込むところで、妙にしょぼんとうなだれて見えて「ホント、アシュレって実は困った男…!」って感じがなんかすごくよかったです(笑)。
 スカーレットⅡのカチャもいじらしくてよかったです。スカーレットがアシュレに愛の言葉をねだるとき、スカーレットとまったく同じ仕草で待っているのが可愛かったなあ。
 そして泣かされたのがみやちゃんのベル・ワットリング! 汽車並みに大きかったキタさん(失礼!)と違ってコンパクトなトランジスタ・グラマー(死語)で本当に普通の綺麗な女子で、だからこそこんなに普通の女性があんな商売を、そしてそのせいであんなに蔑まれ、でもあんなに南部を愛していて誇り高く生きていて…というのがグイグイ胸に迫ってきました。メラニーとのやりとり、歌、レットに対する距離感、どれもすごくよかったです。
 マギーのミード博士はなんかおもしろくなっちゃいそうでちょっとハラハラしちゃったわ。ミード夫人のまいまいがいかにもでよかったです。
 チャールズのあとはバイト三昧のゆりちゃん、フランクを過不足なく演じていたゆうき(ずいぶんと痩せた?)も好印象。ひびきちも素敵でした。
 マミー、ピティパットも手堅く、やりすぎていないのがいい感じ。南部婦人がたでは男役に負けないなっちゃんの押し出しの強さと漂う品格が見事でした。
 みくちゃんはもうちょっと使ってあげたいけどなあ。あとくらげちゃんもこのバージョンのメイベルってやりようがないので、ファニーかインディアをさせてあげればよかったのに…

 総じて台詞や細かい流れに手が加えられて洗練されていて、もともと『ベルばら』なんかより演目としてよくできていますし、全ツでは回せなかった盆が今回のラストではちゃんと回ってキタこれ感ハンパなく、ストレスなく楽しく観られました。
 フィナーレにダンスがないのは残念ですけど、尺的にいっぱいいっぱいなんでしょうね。
 ありちゃんはやはり目を引くし、かしろんはいい声ですぐわかりました。下級生はアンサンブルが中心ですが、いい勉強になっているといいなと思いました。


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シス・カンパニー『三人姉妹』

2015年02月27日 | 観劇記/タイトルさ行
 シアターコクーン、2015年2月20日ソワレ。

 県庁がある地方の町、プローゾロフ家の屋敷。オーリガ(余貴美子)、マーシャ(宮沢りえ)、イリーナ(蒼井優)の三姉妹は将軍だった亡き父の最後の赴任地で暮らしている。今日はイリーナの「名の日」の祝い。オーリガは女子高の教師として働き、マーシャは若くしてクルイギン(山崎一)と結婚し、イリーナは「働くこと」の喜びを夢見ている。三姉妹の希望の星は長男アンドレイ(赤堀雅秋)だが、期待されている大学教授への道は遠いようだ。単調で退屈な日々を過ごす中、姉妹の故郷モスクワへの思いはつのるばかり…
 作/アントン・チェーホフ、上演台本・演出/ケラリーノ・サンドロヴィッチ、美術/二村周作、照明/服部基。1901年初演、全2幕。

 最後の10分か下手したら5分の三姉妹の台詞を導くために、これだけの膨大な台詞と何も起こらない日常のあれこれを(イヤ火事とか一応起きてるんだけど)積み重ねてきたのかな、と圧倒されました。劇作家ってすごいよなあ。
 人はなんのために生きるのか、という問いの答えは私には自明なもののようにも思えていて、私にとってそれは「幸せになるため」なんだけれど、どこへも行けず何もできず何にもなれず幸せだと感じられていないこの三姉妹が、幸福を渇望して絶望してなお「生きていかなければ」と語るのに泣けました。
 本当は彼女たちは、気苦労は多いかもしれないけれど食べていけているし健康で元気で恵まれているのでしょう。オーリガは校長にだってなれているし、マーシャは夫に愛されているし、イリーナだってなんにでもなれるしどこへだって行けるのでしょう。幸せだと感じてもいいはずなのです。でもできない。囚われている。そしてそれでも生きていかなければならないとは思うのです。その強さ、悲しさ。
 姉妹が生きていかなければならないと語るその理由がまた詩的で、圧倒されました。正確な台詞は繰り返せませんが、のちの世の人々に今を振り返られたときに、この時代も人々は優雅に気高く幸せに生きたのだと思われるために…みたいなことでしたよね。それは見栄を張るとか嘘をつくとかそういうことではなくて、人はそうしていつの世も幸せに生きていくべきで、そうやって時をつないでいくべきで、だから自分たちもそれをつながなくてはいけない、というような、不思議なある種の義務感というか、そんなものを三姉妹は心の支えにしているように私には思えました。それが支えであり呪いでもあるのかもしれないけれど。
 でも三人だから耐えられる。神話的な、美しい数字です、三というのは。
 物語の中にたくさんの三角形が描かれ、散り、三姉妹の三角形だけが残って終わる。美しく、悲しい舞台でした。

 三女優とも大好きですが、みんな声が音楽的に美しくて素晴らしかったです。カーテンコールのお辞儀の形が三者三様なのも美しかった。
 お話としては『かもめ』の方がおもしろいというか、ドラマチックな分、好みかな? イヤでもあとでじわじわと来そうだなこの演目は。残る『ワーニャ伯父さん』と『桜の園』も楽しみです。
 役者はみんな素晴らしかったなー。宮沢りえと堤真一なんて、『人形の家』観たなー、と懐かしかったり。
 神野三鈴もホント上手い。中谷美紀との『メアリー・ステュアート』、おもしろそうだなー! 観られれば観たい。
 セットと照明がまたたいそう美しかったです。



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『マーキュリー・ファー』

2015年02月27日 | 観劇記/タイトルま行
 シアタートラム、2015年2月18日ソワレ。

 時の流れからはぐれ、暴力と略奪に支配された街。エリオット(高橋一生)とダレン(瀬戸康史)の孤独な兄弟は、恐怖の時代を生き延びるため日々を戦っている。彼らが生業としたのは「バタフライ売り」と「パーティ」、そこには濃密な死と血の匂いが立ち込める…
 作/フィリップ・リドリー、演出/白井晃、翻訳/小宮山智津子、美術/松井るみ、照明/齋藤茂男。2005年初演、全一幕。

 リドリー×白井晃の第一作だった『ピッチフォーク・ディズニー』は観ていて、こちらを読み返しましたが、当時の私はざっくりすごいこと書いてますね(^^;)。このときが初トラムだったのか…
 今回も、高橋くんがとにかく好きなのと、トラムっていつもおもしろいものやるもんね、というだけでのこのこ出かけました。
 ゲイの兄弟のパーティーの話、ではないことは聞いていましたし、水星の毛皮の話でもないことも知っていました。陰惨な舞台だとかなんだとか言われていることも。
 しかして…
 観ていてずっと、私はある種のファンタジーとしてこの世界を捉えていたように思います。今日的だとか現代日本にすら通じる作品だとか言われてもいるのも聞いていましたが、私にはそんなリアリティは感じられませんでした。どこかの国のちょっと近未来の話…のようでもあるけれど、たとえば「バタフライ」のギミックとか、とにかく饒舌に重ねられていく会話とか、そうした目くらましみたいなものに視界を遮られて今ここと地続きという感じはせず、でも緊張感だけはどんどん高まっていって…というような。
 だから、これは大変な話だぞ、となったのはかなり終盤というか土壇場というか、「パーティ」って要するになんなのかが見えてきたあたりからでした。
 パーティプレゼント(小川ゲン)が死んでしまい、しかしパーティゲスト(半海一晃)を満足させなければならない。だから新たなプレゼントが必要だ。それで白羽の矢が立てられたのはナズ(水田航生)でしたが、ナズ本人は怖がって嫌がりますし兄弟たちも拒みます。だってナズはもう赤の他人じゃないから。偶然関わり、一方的に懐かれるところから始まった関係かもしれないけれど、家族の話までした仲だから。もう家族みたいなものだから。
 そうやってローラ(中村中)ともスピンクス(小柳心)とも「家族」になってきた。スピンクスは兄弟のみならず姫(千葉雅子)の面倒まで見てくれている。そうして家族として生きていくためにパーティをやっている。その犠牲にナズを差し出せない。
 でもスピンクスにとってナズは10分かそこら前に会っただけの赤の他人で、家族の犠牲にしてもかまわない存在なのです。
 その差はどこにあるのでしょう? 人は血縁がなくても情愛に結ばれて赤の他人とも家族になれるのに、その家族のためには別の赤の他人を犠牲にできるのです。その薄皮一枚の恐ろしさ。
 返り血を防ぐためにエリオットたちが身につける白いつなぎとガスマスクがまた恐ろしい。それこそ現代日本に生きる私たちはごく最近に、そんな非日常的なものをものすごいリアリティを持って目撃しているからです。
 そんなにまでしてプレゼントを差し出し、最終的にはゲストを殺してでもパーティをやめさせ、あらかじめ用意しておいたガソリンでパーティの痕跡を消しても(ガソリンが用意してあることをエリオットに思い出させるのがダレンなのがまた恐ろしい。ダレンはバタフライのせいで記憶が曖昧になっていたりして、基本的には常に冷静なエリオットがこれまで弟を守り導いてきたというのに、こういうときにエリオットは意外にもろく、ダレンは図太い。ダレンは守られるべき純粋無垢な子供なんかではないし、エリオットもまた冷静沈着でまっとうな青年なんかではないのです)、結局は何もかも無駄だったのでした。街そのものが爆撃されるからです。
 今の日本に暮らす者にとって、たとえば東京が爆撃とか空襲とか空爆されるとかは、その恐怖とかは、想像することすら難しいでしょう。太平洋戦争時代の空襲の記憶がある世代は少なくなりましたし、隣国のミサイルの驚異すら身近に感じることができないくらい、私たちは平和ボケしています。
 でも私はこの音を知っていました。被災などしていない、なんの被害も被らなかった者として言うのもおこがましいですが、それでも私は想起したのです、迫り来る津波の音を。
 そのとき、私は、願わくは、家族のそばに、大事な人のそばにいたいし、何もできないならせめて抱きしめ合うでしょう。
 でも彼らは違いました。というかエリオットは違いました。自分の銃でダレンを撃ち、そして自分を撃ったのです。爆撃で街が、世界が、すべてが終わる直前に、自らの手で始末をつけたのです。
 でもダレンは嫌がっていました。ただ怖かったのかもしれないし、エリオットと生き延びる未来を夢見ていたのかもしれません。
 そう、エリオットは何故そんな未来を信じられなかったのでしょう? 殺しちゃったら、死んじゃったらそこで終わりじゃないですか。何故ただ兄弟で抱きしめ合って、未来に希望をつなげられなかったのでしょう?
 死ぬよりつらい目に家族を遭わせたくないから? でも私はやっぱりそこにエゴを見ました。世界に殺されるくらいなら自分で死を選ぶ、自死することで自分の方から世界を遮断してやる、というエゴイスティックな、男性的な思想を見ました。世界と共に優しく滅ぶとか、世界の向こうに希望を夢見るとか、そういうことができない悲しさを見ました。エリオットが最後まで手放せなかったその自己決定権への執着を憎みました。
 そうやってなんでも自分で決められると思っているから、コントロールできると思っているから。その驕りこそが、そのマッチョさが、その男性性が、結局は世界を戦争に駆り立てているんじゃないの? この世から争いがなくならないのはそのせいなんじゃないの? みんな女から生まれているのに、どうして男はそうなの? 男がいないと子供が生まれず人類は滅ぶけれど、男がいるから争いが起きてやっぱり人類は滅ぶんじゃないの?
 でもたとえ戦争がなくせても、自然災害をなくすことはできないのでしょう。そうしたものの前に人間が築いた社会はあまりにもろい。人間とはそれほどに脆弱な生き物なのでしょう。
 もうただただ泣くしかありませんでした。そんなふうにしか生きられなかった、そんなふうにしか死ねなかったエリオットとダレンのために。すべての人間のために。彼らの家族がどうなったかまではまったくわからなかっただけに。
 そして、なんて作品を作ってくれちゃうんだ人間ってヤツは…と、絶句するしかありませんでした。
 希望も絶望もなく、ただただ人間というものを、突きつけられた気がしました。そんな観劇でした。これを観劇と呼べるとするならば、ですが。会場は狭く舞台は近く、ほとんど体験させられたようなものでしたが。
 これを演じてみせる役者さんにもただただ脱帽だったのでした。

 以下蛇足。個人的に。
 私は小学校の高学年くらいから児童書を卒業して大人の本を普通に読むようになったかと思うのですが、そんなワケでどうも初恋の二次元キャラはエラリー・クイーンなんじゃないかと思うのですよね。
 それよりもっと幼い頃から漫画は普通に読んでいて、暗記するほど大好きだった作品もあったし愛したキャラクターもたくさんいましたが、そのキャラクターたちは作品の世界というか物語にきちんと紐付けられていて、キャラクター単体で今の言葉で言ういわゆる「キャラ萌え」する存在ではなかったように思うのです。
 エラリー・クイーンというのは、従兄弟同士のふたりの作家が共著で推理小説を書くときのペンネームであり、かつその推理小説シリーズの主人公の名前です。私が愛したのはこのキャラクターの方です。ニューヨーク市警のリチャード・クイーン警視の息子で、推理小説家で素人探偵の青年。クイーンの小説群はこのキャラクターを共通項に、トリックのみ変えて連作されており、エラリーさんはある種「探偵役」の記号のようなキャラクターであって、決して物語の主人公ではありません。その薄さこそキャラ萌えの源であり、私はそこを愛したのでしょう。
 で、そのエラリーさんは、家族やごく親しい人にごくたまにだけ、「エル」という愛称で呼ばれることがあるのでした。
 それがもう、今回刺さって刺さって…つまりエリオットの愛称がエルで、彼もまたダレンやローラやスピンクスにそう呼ばれることがある、というだけのことなのですが。
 エラリーさんはまたちょっとタイプが違うけれど、私は今回のエリオットというキャラクターも本当にツボで、もちろん好きな俳優である橋くんが演じていてかつ上手いということもありますが、生真面目で優等生タイプで周りを慮って結局自分が貧乏くじ引くタイプが私は本当に、病的にと言っていいくらいに好きなのです、偏愛しているのです。
 だからもうなんかそれだけでも泣けました、すみません。

 あと、全然関係ナイというか的外れな感想かもしれませんが、私はこの舞台を観ていてちょっとだけ吉田秋生『BANANA FISH』を思い起こしました。何か逃げた考えなのかもしれませんが、もしかしたら何かあるのかもしれない…生きづらい世界で生きようともがく大人未満少年以上の男たちの物語、としてわりに普遍的なものを描いているから…かな?
 だとしたら、というわけだけでもないけれど、日本の漫画ってやっぱりすごいのかもしれない、と思ったり、しました。

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宝塚歌劇宙組『白夜の誓い/PHOENIX宝塚!!』

2015年02月17日 | 観劇記/タイトルは行
 宝塚大劇場、2014年11月15日ソワレ、16日マチネ、24日マチネ、ソワレ、12月6日マチネ。
 東京宝塚劇場、2015年1月12日ソワレ、14日ソワレ、20日ソワレ、22日ソワレ、24日ソワレ、25日マチネ、29日ソワレ(新人公演)、2月3日ソワレ、5日ソワレ、8日マチネ、ソワレ、11日ソワレ、12日ソワレ、14日ソワレ(前楽)。

 1770年、スウェーデンの皇太子グスタフ(凰稀かなめ)は幼なじみのアンカーストレム(緒月遠麻)と共にパリに遊学していた。パリの地で自由思想に触れたグスタフは、一国の君主となるべき立場にもかかわらず、市民の手による新しい時代の到来を確信する。グスタフはエグモンド伯爵の未亡人イザベル(伶美うらら)に想いを寄せていたが、ある日彼女の邸を訪れていたグスタフの許へ、父であるスウェーデン国王が亡くなったとの報せが届く…
 作・演出/原田諒、作曲・編曲/太田健。宙組六代目トップスター・凰稀かなめの退団公演。

 「サヨナラ公演に名作なし」とはちょっと年期を積んだ宝塚歌劇ファンなら誰でも知っている残念な格言(?)かと思いますが、今回もソレでした。
 ま、『華日々』よりは私はマシだったかな、アレは本当に苦痛だった…それからすると大劇場公演より東京公演ではこの脚本なりにブラッシュアップされ、多少はマシになり、生徒たちの多大な努力のおかげもあってなんとか凡作レベルにまで這い上がって終わった…という感じでしょうか。
 駄作、とまでは言えないと思うのです。もっと本当にどうしようもない、箸ボーの作品も私たちはたくさんたくさん観てきました。
 でもこれはもっともっとおもしろくできたはずの、とてもいい題材を扱っている作品です。だからこそこんな出来なのが悔しくて、みんなアレコレ言うのです。
 原田先生は小公演ではいい作品を書いていることもありますし、次のだいもん主演の小公演も期待しています。でもぼちぼち本公演でももう少しまともなものを書いてくれないと、署名運動してでも退団要請をしたいくらいのところまで来ています。猛省を促したいです。
 宝塚歌劇ビギナーや組ファン以外の観客、一回しか観ない人、ハードルを下げて観に行った人にはむしろおおむね好評だったようにも思えました。ちょっと淡々としすぎてはいるけどわかりづらい話ではまったくないし、史実を知らなければ話がどう進むのか興味を持って追えた、ということなのでしょう。美しいお衣装やセットも堪能し、スタイルのいい生徒たちの見目麗しさも堪能してまあまあ満足、みたいな。
 でもそれだけじゃダメだろうと思うのは贅沢ですか? 「一回観て、まあまあ悪くなくて、おしまい」じゃダメじゃないですか? ファンを増やし、おもしろかったカッコよかった目が足りなかったもう一回観たい何度でも観たい!と思わせなければダメじゃないですか?
 宝塚歌劇の興行収入はあきらかにリピーターが支えているのではないでしょうか。101年目以降も続けていきたいと思うなら、宝塚歌劇を深く濃く長く愛するファンに応えそういうファンを育てる演目を送り出し続けないとダメだと思います。それがこの作品はできていないと思う、だからダメだと言うのです。
 暗殺者アンカーストレムをグスタフの幼なじみに改変したことは素晴らしいアイディアだと思います。でもそれをテルキタに演じさせ、かつ今のこのキナ臭い世の中にハト派とタカ派の論争みたいなことさせちゃって、オレちょっといいもん書いちゃったなーとかまさか悦に入ってんじゃねーだろーなダーハラ!と、口が悪くてすみませんがしかし私は糾弾したい。
 そんなことより大事なものが宝塚歌劇にはあるのです。トップコンビのラブラブがない! トップトリオの愛憎渦巻くドラマがない! それだけで宝塚歌劇の演目の条件を満たしていない、くらいのことを私は言いたい。何度も言いますが原田先生には猛省を促します。

 始まり方は素敵だと思いました。子役(星風まどか、素晴らしい!)と本役のセリ入り替わりも定番だけれど美しい。振り返ってライト、拍手!というのも美しい。
 でも白い鷲の仮面はいらないよね。衣装や鬘で鳥だってことは表しているんだからそれで十分です、生徒の顔をきちんと観客に見せるべきです。たとえどんなに下級生であろうと宝塚歌劇では生徒はすべてスターです。出演者をただのモブ扱いしたいのなら、座付き作家をやめて外部で仕事してください。
 主役の銀橋ソロからパリの夜会へ、流れるようで美しい。しーちゃんのソロも麗しい。貴族バイトも楽しい。かけるベルジェンヌ(風馬翔)が素晴らしい。
 スウェーデン皇太子の身分を隠してフランスに留学中のグスタフが、新世紀を見据え、市民に広がりつつある平等指向、知識人の間で常識になりつつある自由思想などに開眼しつつある、開明的で進歩的な青年であることが語られます。でもそれは未だ栄耀栄華に酔う貴族社会では受け入れられず、彼はひとり浮いている。孤高の憂愁の貴公子…テルにぴったりで、いい感じです。
 だが「めっきり不器用」は「めっぽう不器用」が正しいのでは? 修正しろダーハラ、できないなら校閲入れろ!
 彼はイザベルの亡夫の蔵書を求めて彼女の邸宅にせっせと通っています。で、うっすら結婚を考えるほどの関係でもある…はずなんだけれど、このあたりはたとえ後半に登場するヒロイン・ソフィア(実咲凜音)のことがあるとはいえ、もっと色っぽく濃く描いておいてもよかったのではないかしらん。ぶっちゃけ台詞も芝居もふたりがデキているようにはとても見えず、その分キャラクターとか人間関係の在り方がとても嘘くさくなった気がしました。恋人ならグスタフがパーティー嫌いだったり戦術に興味があることを知らないわけないじゃん、とかね。こういうディテールは大事ですよ。
 イザベルはアンカーストレムがグスタフに「おまえはスウェーデンの皇太子なんだぞ」と言うのを聞いて初めて彼の真の身分を知りますが、そこでの第一声は「皇太子(ですって)…?」とアンカーストレムの言葉を繰り返すものであるべきでしょう。で、あわてて「殿下」という敬称をつけて続きの会話をする、とするべきなのでは? 呆然としている人間が今まで「伯爵」と呼んでいたのを急に「殿下」と変えられるわけないじゃん。どういう意図の台詞書いてるの?
 大劇場ではグスタフはここでイザベルに指輪を渡していましたが、東京公演ではその流れはなくなりました。だが改変すべきはそういうことではないのだよダーハラ。このときグスタフはイザベルに対して本気でもいいのです、のちにソフィアと真に心を通わせたときにイザベルとのことがきちんと過去のものとなっているとするのであれば。全体を薄くしてどーする、恋愛一回一回はむしろ濃く情熱的にすべきなんだよ!
 というワケでグスタフはスウェーデンに帰国します。
 場面は前後しますが、クランツ大臣(寿つかさ)とその取り巻きが黒いお衣装で、グスタフ側の忠臣たちはパステルカラーの宮廷服、というのはわかりやすくていいと思います。だが幕の前に人を等間隔に立たせるのはやめてくれ、不自然です。弟子だかなんだか知らないが、そういう植田歌舞伎は踏襲する必要はありません。まっぷーヨハンソン(松風輝)が素晴らしい。テッシン(汝鳥伶)の従者の秋奈るいはいい声してますよね。もっと使っていってほしいです。
 クランツに弱みを握られてスパイまがいのことをさせられているリリホルン(朝夏まなと)たんですが、えーと…ま、いいか。
 イヤまあ、たとえばアンカーストレムがグスタフの幼なじみからだんだん離反していくキャラクターであるとすれば、逆にリリホルンは当初はアンチ・グスタフで、そこから何か劇的なことがあってグスタフに心酔するようになり真の忠臣となっていく…みたいな構造でもいいのかな、とかも考えたことはあるのですが、おそらくこのキャラクターをそこまで膨らませ存在感を与えドラマを組み込むキャパと尺がこの作品にはない。イヤ本当は作るべきなんですけれどね、なんてったって次期トップスターを配する役なんですからね。でもそもそもの構造としてこの作品はそうなっていない、まぁ様に大きな比重を置く用意がない。だからもういいです。
 でもこんなホントどうしようもない、いてもいなくても話の本筋にほとんど関係がないような役を、キラキラオーラである種の絶対的な説得力を持って成立させてしまうまぁ様が本当にすごい。こんな麗しい優男が家族を盾に取られてフラフラするのはソラ仕方ない、と思わせるんだからたいしたものです。だからもういいです。
 三番手格のかいちゃんは山賊の真似事をしている農夫ニルス(七海ひろき)役。銀橋から登場、仲間を従えて一曲、とベタだけどちゃんと扱われていて一安心。でも後半ぐだぐだだけどね、全然出てこなくなっちゃうもんね、ひどいよね。エビちゃんマーヤ(綾瀬あきな)の傷とかもね、作中できちんと描けないならなくしゃいーんだよダーハラ!
 「たかがしれてる」という言葉の使い方(小役人を襲ってもたいした稼ぎにならない、と言っているように聞こえますが、ならなんでわざわざ大岩転がして道ふさいでんの?ってなっちゃうでしょ? そうじゃなくて、悪いヤツから金を奪っても倫理的に悪いことではない、というようなことを言わせたいんでしょ? そういう理屈で彼は動いている、ホントのワルではない、圧政に苦しみはねっかえってるだけの庶民なんでしょ? でも強盗なんて刃傷沙汰になって危険だし捕まったらどんな罰を科せられるかわからないから、マーヤは「そんな危ないことはやめて」って言ってるんでしょ? ああもうこんなこと手取り足取り書かせんなよ…)や、のちに王宮に忍び込んだときの台詞の脈絡のなさ(山育ちをダーハラはなんだと捉えているのか、はともかくとして、どんなに厳重に警備しているつもりでもはしっこいニルスにしてみたらザルだ、ということと、王宮が豪華で贅沢だということとはつながらないでしょ? そしてそんな王宮で国王自身がクーデターをもくろんでいることと何がどうつながるの???)が聞いていて本当に苦痛で、こんな脈絡のない台詞を役者はよく覚えられるなと本当に感心するのですが、とりあえずかいちゃんはカッコいいのでいいです。
 クランツの専横を懸念するグスタフ派の家臣sは…これまた東京で状況を説明する台詞が増え、愛ちゃんレーベンイェルム(愛月ひかる)が血気に逸る強硬派であっきーアルムフェルト(澄輝さやと)が彼らの中では年長でもあるのか(はたまた家格が上なのか…あのロイヤル感、ノーブル感ホントたまらん!)穏健派・慎重派であることがよく見えるようになりましたが、まあでもそれ以上はやりようがない五人口なのは残念でした。美しくいることが仕事、みたいなポジションで、こんなんばっかじゃ若手スターは育たないんですけれどねえ…
 ちなみに私はここの場面終わりみたいな暗転が大っ嫌い。舞台っぽくない、映像っぽい場面の終え方だからです。
 戴冠式からソフィアの入内までは悪くない。しかし入内って…平安時代か!とは言いたくなりますが(それで言うと冒頭の歌詞の「日嗣の皇子」もな!)。あと「ご独身」というのも日本語としていかがかと思いますし、「私の妻となるべく人は」は「なるべき」ではないかと思いましたが。東京で増えたソフィアが鼻で笑う芝居は私は好きです。不承不承の政略結婚でツンケンして出会ったふたりがラブラブになっていく様を観られるんですよねわあ萌える!となるからです。…まさかラブラブしないまま終わるとはね…
 これまた東京で「自由な恋愛は許されないと?」という台詞が「自由な意思を持つことは許されないと?」と改変されたのもよかったです。当時の王侯貴族の常識として、そしてそのあたりにくわしい我々観客にとって、結婚と恋愛が別物であることはほとんど自明です。主人公を阿呆に見えるような台詞を書くんじゃねーよダーハラ、事前に止めろよ劇団チェックしてんのか本当に!?
 このあとのイザベルのソロは深みや情感が出ていていい感じでした。しかしゆうりちゃんはとにかく歌の猛レッスンを早急に頼みますよ!
 クーデター計画場面がまたまた人を等間隔に立たせていて、私はアルムフェルトたんしか見てないとはいえ観ていて本当に苦痛です…しかしそらの声はホントいいなあ。もっと仕事させてください。
 リリホルンたんのソロの歌詞のしょうもなさがまたたまらん。パパに言われたから騎士になるんだもん!ってのがこんなに似つかわしく演じられるなんてまぁ様すごいわ…! ありさラウラ(瀬音リサ)たん、しっかり支えてあげてね。グスタフの暗殺が止められなかったことで降格されちゃうかもしれないけど(知らないけど)、結婚してあげてね。てか凱旋&和平協定場面にいないのって挙式してるから? いるとアルムフェルトにソロ歌わせるのが不自然だから?(ToT)
 「行方が見当たらない」というまたまた摩訶不思議な日本語に心底ウンザリしますが、囚われのアルムフェルトたんが後ろ手に縛られて登場するのにうはうはなので見逃してやってもいいです。レーベンイェルムの激しい抗い方もいいよね。ここは拷問されても口を割らなかったあとなんだからもっとイロイロ乱れていても私はよかったんだけど邪すぎますかそうですか。連行されるアンカーストレムの抵抗が日々激しくなって軍服が肩脱ぎになるのも素晴らしかったです。
 で、結局鍵はどこから湧いたんですかね…ファンタジーなんですかね…幽閉されたグスタフがヴァーサの剣が隠されていた宝物庫から脱出できた、という流れは大劇場後半からテルが自主的に道を探す芝居をつけてわかりやすくなってきていて、東京ではセリ下がりもなくなってより良くなりました。ここで拍手するの大嫌いだったので。でも閲兵式のラストで拍手するのも気恥ずかしくて嫌です私は。なんの見得切りなんだ…
 ところでこの閲兵式でソフィアはグスタフの凜々しさに打たれたことになっているようですが、本舞台で話が進んでいるときに花道でヒロインが台詞もなく演技していても観客は見やしませんよ。あと、かつての属国の内紛なんか馬鹿馬鹿しい、って思うだけかもしれないでしょ? ソフィアがグスタフに心を寄せていくきっかけには、もっと具体的なエピソードが必要です。そういう人の心を動かすエピソードをきちんと描けないのなら劇作家なんてやめるべきです。レオノーラ(大海亜呼)が「そんなにお心をかける必要はございません」とか言っているけど、いつ心をかけたよ?って観客がぽかんとしているのがわからないのダーハラ?
 リリホルンたんの自決未遂場面はお髪の乱れ具合とかが麗しいのがいいですね。白いお衣装にしたのはまぁ様発案だというから演出家はホント仕事してんのか謎ですけどね。
 ここで東京で追加された「国王である前に」云々の台詞は意味不明すぎて苦痛極まりなかったです。王制国家において軍の最高司令官が国王なのは当然だろう、元帥だろうがなんだろうがガタガタ言えるはずがない。なのにナニつまんないことキタさんに言わせてんの? そしてつまんない返しをテルにさせてんの? ダーハラどう責任取ってくれんの?
 やっと出たせーこエカテリーナ(純矢ちとせ)の貫禄が素晴らしい。侍女役の星風まどかがどんどんつける表情の演技が濃くなっていったのが素晴らしい。ちなみにさっつんモルコフ(風羽玲亜)の黒さ悪さ美しさも素晴らしい。
 ソフィアのソロはたっぷり美声を聞かせて素晴らしい。しかしここからの聖堂場面はなんとかすべきだった場面ナンバーワンです。ここも東京では「あの方の前では素直になれないのです」などの台詞が足されて格段に良くなりましたが、しかしそもそもソフィアがグスタフを愛し始めていることをグスタフがテッシンに言われて気づく、なんて展開にしてはいけないのです。この場合テッシンはお邪魔虫なの、伝聞じゃダメなの、主役とヒロインの場面をちゃんと作れよダーハラ! ここでふたりが和解して抱き合ってキスして「君のために勝って帰る!」とかいうんじゃなんでダメなの? ねえ??
 そこからの海戦場面はいろいろなデジャブが脳裏をよぎりますがカッコいいから許してやってもいい。
 新奇な戦術でロシアに奇跡的に勝ったグスタフに対し、アンカーストレムは危うさとついていけなさを感じています。いい展開です。
 和平協定場面のアルムフェルトたんの晴れやかなソロが素晴らしい。短いけどな! ソフィアに「すまなかった」と頭を下げるグスタフのまっすぐさ、素直さが美しい。ここでりくバハトマイスター(蒼羽りく)がすごく嬉しそうにしているのがすごくいい。臣下sたちは普通に考えたら妻帯者でしょうが、彼は愛妻家に違いない。いいな、りくくん。
 エカテリーナとソフィアの場面はこれまたデジャブ感があるし本当に必要なのかと疑問でもあるのですが、ふたりの歌唱がすばらしいので目をつぶります。
 新聞売りの少年、朝比奈蒼くんもいい声ですね。しかしロビン(星吹彩翔)は文盲なのか、ならなんで新聞欲しがるんだ…てかニルスってここが最後の出番なの? そんなんでいいと思ってんのダーハラ?
 イザベルを革命の嵐から救うようリリホルンに頼むグスタフ。命令ではなく個人的な頼み、というのはいいですね。しかしのちにソフィアに説明するときも「かつて愛した人だ」とあくまで過去のこととして語らせてほしかったし、ただの恩人扱いでもよかったと思います。それを「愛人を呼び寄せた」と誤解されてしまうのが悲しいのであって、ホントに未練タラタラに見えちゃっちゃダメでしょ?
 見かねたアンカーストレムが揶揄して絡みますが、ここからの論争の非論理性が本当に嫌。実際の口論はそうそう論理的に進まないものだけれど、ここの台詞はそれを意図して書かれたものではなくて、単に脚本家がアタマの悪さを露呈しているだけにすぎません。観ていて本当に苦痛でした。そんなことでこのふたりを、テルキタを決裂させないでよ!とか観客に思わせてどーするダーハラよ?
 ここでふたりが本当にそれぞれに理のある、けれど決して摺り合わせのできない議論の果てに決裂するのならドラマチックだったんですけれどねえ…しかしキタさんは誠実で実直で温かな人柄がにじみ出るアンカーストレムで素晴らしい。それが愚直にねじれたからこその悲劇なんだよね。
 そのアンカーストレムを幼なじみとして今までずっと厚遇してきたグスタフがついに一線を引くところなんか、私はゾクゾクしたけれど人によっては主役が冷酷に見えてしまって嫌だったかもしれません。しかし「臣下の礼を取ってもらう」か「臣下の分をわきまえてもらう」ではあるまいかダーハラよ。
 このあとの二重唱は演出ともども素晴らしい。りんきらベールヴァルド(凛城きら)の黒さ悪さがまたたまらん。アンカーストレムをダークサイドに落とすだけのパワーがありました。
 舞踏会前夜、グスタフがソフィアを抱き寄せるようになって本当によかった。みりおんがついに報われた!感に全観客が泣きましたよ。かなめさんがつけた芝居だそうだけどねホント何やってんだろうね演出家ってね。
 暗殺を危惧するリリホルンをつっぱねるグスタフに拍手するのが嫌い。勇気を称えるべきってこと? 史実というかオチを知っていてもいなくても私には蛮勇に思えたし、いい演技とか歌唱に拍手して場面を終えるのはいいんだけどただの見得切りに拍手するのが苦手なんですすみません。
 ところでソフィアとイザベルの会話はホラーか笑うところかと思った観客が意外に多いことを、脚本家は知っておくべきだと思いますよ。
 舞踏会でグスタフの方からイザベルに声をかける形に改変されて本当によかった。イザベルの方から声をかけていてはあつかましい馬鹿女になってしまっていましたよ。レオノーラには心配させすぎかもね。鷹揚なソフィアは美しい。
 ダンスにまざらず会場に警備の目を向けている臣下sが美しい。アンカーストレムの登場にストップモーションになるときの美しいお人形っぷりがたまらん。
 アンカーストレムが発砲し、グスタフはソフィアの腕の中で落命する…ベタだけど美しい。
 でもねえ…幼なじみが違うステージに行ってしまうのが寂しかったんだよね、その翼を手折ってでも自分のそばにいてほしかったんだよね、誰かに奪われるくらいなら自分が殺してでも独占したかったんだよね。というかそういうドラマを描きたかったんだろうねダーハラ。
 でもそれもう『ニジンスキー』で観た、同じキタさんでやった。しかもあのときもそれほど完璧に成功していたとは言いがたいと思う。同じことはもういいです。それともそれしか書けないの? だったらなおさら一刻も早く座付き作家やめてね?
 そもそもそういう部分はこちらが勝手に補完して妄想して紅涙を絞るものなので、もっとメインのドラマをちゃんと構築してくださいお願いだから。
 リリホルンたん惜別の銀橋ソロ、そして白いお衣装で再び舞台に現われ、みりおんの大鷲に誘われるように舞台奥に向かう主役のテル、ふと振り返って幕…美しい。
 生徒と衣装とセットと音楽と様式美は美しい。でもそれだけじゃダメなんだということを、原田先生にはもっともっと真剣に考えていただきたいです。

 グランド・ショーは作・演出/藤井大介。『ファンシー・ガイ!』を観たあとではもはや世紀の傑作に思えますが、まあ普通に考えて可もなく不可もない定番のダイスケショー、だったかな。藤井先生も働かされすぎてイメージやアイディアが枯渇していると思うので、休養したり研修したり充電したりしてください。ベタとか定番とかってのとマンネリ、デジャブ、既視感満載でつまらなくて退屈ってのとは違うのよ?
 あと後半のサヨナラモードはいいにしても、一度幕を下ろすのはやはりどうかと思うし、エトワールが次期トップコンビってのもどうかと思うし、そのふたりを再度大階段からパレードさせなかったのもどうかと思います。
 結局まぁ様は正式な二番手扱いを一度もされることなくトップスターに就任するのね…若いときから抜擢されていろいろな経験を積んでいるタイプだからいいっちゃいいけど(全ツ主演なんかもやってるわけですしね)、一般的には二番手時代ってものすごく大切なものだと思うので、劇団はもっとちゃんと考えて生徒を育成し配属し異動させて組をきちんと構成してください、頼むから。

 プロローグは大階段、何度も見た小林幸子パターンから男役たちの赤いスーツに黄色のサッシュ、ハットで勝ったも同然。三角隊形の娘役ちゃんたちを引き連れて大階段を下りてくるまぁ様のカッコいいことったら! あっきーがハケたあとだから見ていられて嬉しかったです(笑)。あとはずっとあっきーのハットの下の流し目とか噛み付くようなニヤリ笑いとかシケとか曲が晴れやかバージョンになってからのニコニコ顔とかウィンクとかばっか見てましたすみません。
 宝鳥場面ではマドモアゼル・フェニックスに群がる紳士たちが楽しかったなあ、さっつんが綺麗でやっぱり目を引いたなあ。Wキタロールのアドリブも日々楽しくてでも決して冗長じゃなくて(そんな尺ないし)よかったです。やはり『PUCK』のアドリブはやや問題があったと思うよ…
 暗転のあと音楽が入るのがいつも早すぎないか?と思っていたサラマンダー場面も素敵。娘役ちゃんがふたりだけ入っているのもいい。まぁ様の二度の掛け声にはどちらも拍手入れたかったのになー、なんで入らなかったのかなー。
 中詰めのビューティフル・バード・レビューは銀橋歌い継ぎがみんな短すぎたのが残念。とっぱしのかいちゃんが浴びたライトを気持ちよさそうに跳ね返していて、三番手スターとして仕事をしていてとてもよかったです。星組に行っても輝いていただきたい。
 フラミンゴのロケットも素晴らしい。ららまどかもホント可愛いんだけど、ゆいちぃの芸術的なまでの脚がホントたまりませんでした。
 火の鳥というキャラクターはテルに合っていて私は大好き。愛りく対決もよかったしまぁ様もみりおんも素敵でした。キタさんさっつんのセリ上がりには泣くしかない。そこから暗い中端っこで踊るあっきーが私にはキラキラして見えてたまらなくて以後そこだけしか見てなかったので全体の絵面はあとで映像で見ますすみません…
 こういう総踊りはそれこそ定番だけれど、本当にみんな息が合っていて感動的でした。歌詞も素敵でしたしね。
 黒燕尾はやや短くて残念。でも名曲「愛の宝石」が美しかったのでよしとします。デュエダンがテルキタ、テルまぁと来て、テルみりでやっと芝居にもなかったキスシーンがあって、劇場中がきゅんとする流れでした。そこからのサヨナラソングも定番ですが、照明が美しく歌声が甘く、素晴らしかったです。
 なのでパレードの不可思議さについてはもう言うまい。でももっと普通にやってくれていいんですよ、そういう定番、様式美は大事なんですよ?

 前楽でサヨナラショーも拝見しました。
 『銀英伝』やっぱりよかったよねえ、バリバリ踊るあっきーにシビれました。キタさんとせーこのそれはそれは美しい「サンセット・バレー」が再び聴けて感涙。
 ラストの白燕尾も私はあっきーロックオンでしたが、『NW!』先行画像やポスターを思い起こして早くもドキドキしてしまいました…

 『白夜の誓い』は東京新公も拝見しました。
 華の95期のずんちゃん、私はもっと早くからもっと使われてほしかったと個人的に思っていたので、満を持しての主演…なのかもしれないけれどニン違いでちょっと気の毒で残念でした。オスカルでもよかったんじゃないかなあ。
 印象的だったのは冒頭のパリの夜会で、ベルジェンヌ伯爵(朝央れん)にひやかされると、笑ってかわすテルと違ってずんちゃんはとまどってみせたんだよね。自分がモテていることに気づいていない、そういうことに無頓着な、本当に純朴な青年…というふうに作っているように私には見えて、その役作りには好感を持ちました。ずんちゃんには持ち味として明るさ、天真爛漫さがあると思うので。
 でも新公も担当しているダーハラはそういうキャラクターの新公グスタフに合わせてこの新公の演出を変えるということをしてこなかったので、ちぐはぐさは増すばかりだったのでした…
 そらがまた抜群に上手いのだけれど、テルキタみたいな好一対感、表裏一体感がどうしても出なくて…丸顔で大柄に見えるずんちゃんとコンパクトなそらでは、どうしてもずんちゃんが親玉の王様で太陽でそらがあくまで単なる従者、サブ、月に見えてしまっていました。それだとこのドラマは成立しないんですよね…脚本のもろさが新公でさらに露呈したと思います。
 そしてマキセルイのリリホルンたんとも歌とかホント素晴らしいんだけど完全にキャラ違いで、この人だったらクランツ(かけるはさすがでした)邸に単身突入して父も兄も力ずくで奪還するでしょ?って見えちゃうので、これまたドラマが成立してなくてつらかったです。
 ゆうりちゃんのソフィアは美しかった…けど歌は本当に早急にどうにかしないと…歌えない娘役なんて今まで山ほど見てきたけれど、でも、でもこれはさ…
 逆にららちゃんはイザベル、大健闘していたと思います。なんなら本役より色っぽかった、年上マダム感をちゃんと出そうとしていました。でもだからかなおさらグスタフとはデキてない感じが漂っちゃってたなあ…ホントどーにかせーよダーハラ。
 素晴らしかったのはニルスの瑠風輝くんですね。お化粧はもっともっと綺麗にできると思うけれど、とにかくスタイルがいいし晴れやかで華やかなオーラがある。かつ歌える! 新人起用の下手な宙組にしてはこんな下級生を三番手に使ってくるなんて大英断です。上手く育ててほしいです。
 テッシンの星月梨旺も手堅かった、モルコフのさおの悪さ美しさもホントたまらなかった、主演が観たかったなー! ゆいちぃベーネヴァルドも代役経験が効いていて立派でした。
 エカテリーナしーちゃんはさすがの歌声。
 かなこはとにかく美しい。歌もがんばっていたと思うけどなー、もっと使ってあげてほしいなー。
 殊勲賞は秋奈るい。おたおたしたアデルクランツもよかったしロビンも素敵でした。
 総じて新公らしい新公でしたが、まあいいんじゃないでしょうか。ビジュアルも大きな武器のひとつだけれど、テルキタの芝居心を学んで、さらにいい組になっていってくれることを願っています。あとはショー力な、まぁ様頼むよ!!

 最後に。
 脚本のせいで(もちろんもしかしたらそれだけが原因ではないかもしれないけれど)サヨナラ公演なのに残念ながら客入りが芳しくなく、各会とも追加取り次ぎの呼び込みに懸命でした。コラボ観劇とか出待ちイベントとかは主にそのためのものだと思われます。それを、舞台の外で媚びを売るようなことするなんて、みたいに言う意見を目にしましたが、私は悲しかったなあ…
 芸人なんだから売れるものはなんでも売るやろ、とも思う一方で、チケットが売れてたら媚びなんか売るかいな、とも思うのです。そういう批判をする人は、はたして生徒からチケットを買って公演を観たのでしょうか。ちょっとでもそういう関わり方をしたのなら、そんな言い方は簡単にはできないのではないのかなあ…
 ファンとしての在り方、生徒の応援の仕方なんて人それぞれだし、個々人でやれることをやりたいようにやればいいと思うけれど、他のやり方を安易に、かつ貶めるように簡単に言ってほしくないと思いましたし、自分も戒めとしたいと思いました。
 興業なんだから、一にも二にも出演者のチケットを買って席を埋め観劇することが、一番の応援なんじゃなかろうかと個人的には思っています。でも数観た方が偉いとかそういう話じゃなくて、自分と違う関わり方をしている人も認めよう、ってことですけれどね。
 宝塚歌劇は良くも悪くも一般的な商業演劇とはいろいろなことが違うのだなあと、最近改めて思います。スターシステム、出演者を「生徒」と位置づけていること、ファンクラブの存在…清く正しく美しいとされる幻の花園に咲く、フェアリーとも呼ばれる美しい人たちを、その世界を、優しい広い心で愛し守り慈しみ育て応援し、101年目以降にもつなげていきたいものです。




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SHOW-ismⅧ『ユイット』

2015年02月10日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 シアタークリエ、2015年2月2日ソワレ。

 ときは現代、パリのどこかにあるオテル・ド・ユイット。何故だか地図には載っていないが、本当に探し物がある人には見つかるという。ムッシュー・アン(井上芳雄)の屋敷を利用したこの豪華ホテルは、世界中の珍品奇品を蒐集するムッシュー・アンの膨大なコレクションを陳列する部屋がいくつもある。客室は全部で8つ。それぞれの部屋番号を呼び名にしている客人たちはみな、底なしの大金持ち。そしてムッシュー・アンの恋人、マドモアゼル・シス(蘭寿とむ)を除き、彼らはみな不老不死の身体を持っていた…
 作・演出/小林、音楽監督・作曲/斎藤恒芳、振付/川崎悦子、木下菜津子。全2幕。

 うーん、オトナのお洒落なレビューを作りたかったんだろうな、とは思います。でも、あまりにも散漫だったのではないかしらん。
 また、こちらがそこまでオトナじゃないから、という無粋もあるけれど、日本の観客は客席参加型のライブなんかより、やはり観客として舞台上の物語を鑑賞することを求めがちなのではないかしらん。
 もちろんこのシリーズはこういうタイプのものですよ、とずっとアピールして続けてきているので、それを納得した上でチケット取って来てくださいよ、ってことなのかもしれませんが、せっかくの豪華キャストだし、もっとステージングとしてもパフォーマンスとしてもくっきりちゃんとしたものが観られるかと思って私は行ったので、ちょっと肩すかしだったのでした。
 思えばもっとミュージカルっぽかった『TATOO14』はわりと好きで、やっぱりせっかくのキャストなのにあいまいな舞台でもったいない…と思った『ピトレスク』はダメだったので、さて今回はどっちかなと思って行ったのですが…もっと割り切って覚悟していくべきだったかな?
 キャストが客席にドリンクをサーブして回るのも、もっと役として回ってくれればよかったのかもしれません。あと、私は呑んべだからいいけれど、アルコールを嗜まない人には客席が酒臭くなって閉口したんじゃないかなあ。やはり真のナイトクラブ文化というかナイトライフ文化というかは現代の日本に未だ根付いてないというか成長しきっていないのではないでしょうか。
 とにかくそういうサービスより、ストーリーとかキャラクターを私は観たかったのです。
 ホテルの部屋番号で呼ばれる不老不死の泊まり客たち…というのはおもしろい設定だと思うのだけれど、だったらもっと個々人に不老不死になった理由とかなってどうしたかとか今何をどう考えているのかとか、もっとドラマがあるはずだと思うし、劇中劇らしきサロン云々なんかより私はそれを見せてもらいたかったです。てかあのサロン劇って何?
 百歩譲って他はみんなモブで焦点はムッシュー・アンとマドモワゼル・シスにあるのです、というならなおさらここはもっと丁寧に描いてほしかった。
 不老不死のムッシュー・アンはシスと出会い恋に落ちシスと共に生きてシスと共に死ぬためにドクトルを探し、不老不死でなくなろうとしている。しかしどんな捜し物をも見つけてきた彼をもってしても、ドクトルは見つからずユイットから戻る薬は手に入れられない。
 だったら私の方が不老不死になればいいわ、とシスはあっさりと薬を飲んでしまうわけですが、それはヒロインが人間であることを捨てるということで、人間である我々観客はそんなヒロインについていけなくなるわけで、やっぱりちょっとトンデモ展開だと思うんですよね。え? それでいいの??っていう…
 そこになんかすごく哲学的なテーマやメッセージとかがあるならそれはそれでアリかもしれないんだけど、どうも全体的にぬるくて甘いので、この部分に関してもイージーで雰囲気に流されただけの演出なのでは…みたいな邪推が捨てられないのです。うーむむむ。
 ヨシオもまゆたんもロッテンマイヤーさんみたいなユミコも素敵だったのになー、もったいないなー。セットは綺麗だったなー…でした。



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