駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

マイ宝塚版『ベルばら』論その1

2013年04月28日 | 日記
 まずは、自分の過去の日記から、以下の文章を上げます。
 論考のスタートとして。

***


2001年11月13日 宝塚歌劇版『ベルサイユのばら』完全版を考える

 言わずと知れた少女漫画の傑作『ベルサイユのばら』(池田理代子/集英社マーガレットコミックス)は、1972年(昭和47年)から翌年にかけてのわずか82週に連載された作品なのですが、今なお読み継がれる、もはや古典と言っていい名作です。
 宝塚歌劇団が創立60周年の1974年に舞台化し、世はまさに「ベルばらブーム」となったそうです。宝塚歌劇ではその後も組を変え配役を変えて初演から実に昭和版4バージョン、平成版4バージョンと続演を重ね、今年になって2001年版2バージョンを上演し、公演回数は1400回余、観客動員数360万人余を数えるに至りました。
 私は原作漫画はもちろん愛読していましたが、宝塚歌劇版は今年の星組バージョンを実際に舞台で観るまでは、平成版をいくつかビデオで見たことがあっただけでした。先日、NHK-BSが昭和版・平成版を通して放送してくれて、ようやくすべてに目を通すことができたのでした。
 もっとも「すべて」とはいっても、放送されたものの他に役替わりによるいくつかのちがったバージョンもありますし、地方公演などでまた配役が替わっていたりもするので、全バージョン数は10ではきかないのですが。
 しかし、どれを見ても、どうも一長一短なのですね。平成版しか知らなかった頃は、「アントワネットとオスカルとフェルゼンの三人が出会ってそれぞれ恋に落ちるオペラ座の仮面舞踏会のシーンは絶対に必要だろう。なんでないんだろう? それと、オスカルがただ一度だけドレスを着て、正体を隠したままフェルゼンと踊るシーン、あれはいじらしくていいんだけどなー、なんでやんないんだろう?」とか思っていただけでした。昭和版にはこれらのシーンがあるバージョンがあったので、この疑問は払拭されたのですがも、それにしてもどうも、「これがベストだろう」と思えるバージョンがないのです。
 長大な原作を2時間半の舞台にすることがいかに大変かはわからなくもないのですが、これだけ回を重ねているのだから、そろそろ決定版と言える脚本ができてもいいんじゃないだろうかと思ったのです。その上で、その脚本に見合ったスターたちが揃ったときに、ベストの配役で、ぜひ「完全版」を上演してほしいなあ、と考え始めてしまったのでした。そうしたら止まりませんでした(笑)。

 初演では、男役偏重の現在からは想像もできないほどに傑出したプリマドンナ・初風諄がいたため、彼女がマリー・アントワネットとして主役を務め、男役陣はフェルゼンやオスカル、アンドレとしてそれを支えました。
 ところがこのオスカルが爆発的な人気を呼んだそうなんですね。男装の麗人というキャラクターは宝塚歌劇の男役にぴったりですし、女性像としてのオスカルのキャラクターにはやはり傑出したものがあります。よって続演版ではオスカルとアンドレが主役のバージョンが作られ、続くⅢと銘打たれたバージョンではそのときのその組のトップスターのニンに合わせて、フェルゼンとアントワネットが主役に据えられたバージョンになりました。
 こうした歴史があるため、宝塚歌劇版『ベルサイユのばら』には、おおまかに言って「オスカルとアンドレ編」と「フェルゼンとアントワネット編」の二大バージョンがある訳です。今年の2001年版でも、星組は前者、宙組は後者のバージョンを上演しました(「オスカルとアンドレ編」の場合、その組のトップスターのニンに合わせてアンドレが主役を務めるバージョンもあるのです。よく考えるとすごいことだ…それから、フェルゼンとアントワネットがまったく出てこない「オスカル編」というものが「今世紀最後の『ベルばら』」と銘打たれて公演されたこともありました。さすがにこれはあんまりだったと思います。当時のその組のスター構成にもよるのですが、トップ娘役が演じたのはなんとディアンヌなんですよ…)。
 でも、私はどちらのバージョンにも不満があるのです。まず、「オスカルとアンドレ編」では、物語がバスティーユ陥落で終わってしまう点。その後の天国でのふたりを表現するガラスの馬車のシーンが気恥ずかしくて嫌いだということもありますが(前述の「オスカル編」で唯一私が評価するところは、このくだりが大階段でのオスカルとアンドレのダンスシーンで表現されていたことです。これでこれまた私が好きな、アランがオスカルにキスしちゃうシーンがあったなら、このバージョンへの私の評価もかなり持ち直してしまったでしょうが…いかんいかん)、やはり『ベルサイユのばら』はアントワネットの処刑で幕を下ろすべきでしょう。宝塚歌劇版の主役を誰に据えようが、フランス革命の主役はまぎれもなく王妃マリー・アントワネットだったのであり(革命を起こしたのはもちろん民衆なのですが、起こさせた原因の大部分はアントワネットによるものだった、という意味での「主役」です)、その断頭台での処刑はフランス革命の象徴でもあるのです。そして『ベルサイユのばら』はフランス革命を描いた物語であることもまたまぎれもない事実でしょう。そもそもタイトルロールたる「ベルサイユのばら」とはアントワネットのことなのです。宝塚歌劇版ではアントワネットを紅薔薇、オスカルを白薔薇にたとえることが多いのですが、原作にはオスカルのこの比喩はありません。ちなみにフェルゼンの死で幕を下ろす原作のラストシーンが私は大好きなのですが、宝塚歌劇版では「さようならベルサイユ、さようならパリ、さようならフランス!」「王妃様!!」で幕、というのがやはりいいと思います。このセリフも原作にはありませんが、私は何も原作原理主義者ではないので。
 一方の「フェルゼンとアントワネット編」では、一幕で早々にバスティーユが落ち、オスカルとアンドレが二幕にまったく出てこなくなってしまっている点が気になります。これまたちょっと早すぎるというか、扱いが軽すぎるだろうと思うのですね。
 総じて、10バージョンの中では昭和花組版がよかったかなと思っています。これにバスティーユの後に牢獄と断頭台のシーンを追加してくれるだけでも、かなり「完全版」に近くなるのではないかと個人的には考えています。

 さて、では問題です。宝塚歌劇版『ベルサイユのばら』では、はたして主役は誰が務めるのが正しいのでしょうか。
 宝塚歌劇を実際に観たことがない人でも、宝塚歌劇団が独身女性だけの劇団であることと、スター・システムがあることくらいはご存じでしょう。
 このスター・システムというのは、最近になって新専科が創設されたために今では事情が少々変わりましたが、基本的には各組(現在では花・月・雪・星・宙の5組)に男役トップスターとトップ娘役がいて、男役二番手スターがいて、以下いわゆるスター路線と言われるような若手がいて、別格の脇を固める存在がいて、それに応じて役が付き、公演をしている、ということです。
 この「スター」というのが曲者で、トップは劇団から公表されて確定しているのですが、あとはまあ学年順(在団年数のこと)とか成績順(入団7年目までは試験があり、名簿などはこのときの成績順に並べられる)とか人気のあるなしとか役の付き方とかでほとんどカオス状態と言っていいでしょう。各生徒(役者のこと)のファンはここに一喜一憂する訳で、それが他の劇団とはちがう熱狂的・狂信的なファンを産む原因にもなっているのだと私なんかは思うのですが。私は大人になってから公演を観るようになったので、誰かひとりのスターさんを好きになって追っかけて泣いて騒ぐような元気さはもうなく、芝居の内容そのものを楽しみたい方ですが、その気持ちはわからなくもありません。好きな競走馬がデビュー戦から下級条件戦へ、ついにはGⅠへと勝ち上がっていくのを応援する感じ、ひいきの相撲取りが序の口、序二段からついには横綱へ昇りつめていくのを応援する感じと同じなのだと思うのですが、そう言ったら怒られるでしょうか。でも、トップになったらあとは引退しかないところなどは、相撲の横綱と本当に同じだと思います。それはさておき。

 トップ娘役がマリー・アントワネットを演じるべきである、これはほとんど異論がないでしょう。前述のディアンヌの他にも、トップ娘役がロザリーを演じたバージョンもあるのですが、今は役者のニンに特に配慮しない「完全版」を考えたいので、まずはこれは確定。
 では、トップ男役はフェルゼンとするべきか、オスカルとするべきか。
 これに関しては2001年版の上演が決定したとき、ファンの間でかなり論争が起きました。星組と宙組のバージョンを入れ替えるべきだというものです。星組ではこれがトップコンビの退団公演に当たっていたため、ふたりに恋人同士であるフェルゼンとアントワネットを演じてもらって、最後までじっくりと絡んでもらいたい、という要望が強かったのです。オスカルとアントワネットでは、王太子妃時代のアントワネットがオスカルを男性と勘違いしてちょっとどぎまぎするくだりがあるものの(といっても宝塚歌劇版ではほとんどこの描写がないのですが)、結局のところは同性同士なのであって、信頼や友情は描けても、宝塚歌劇を宝塚歌劇たらしめている美しいラブシーンはこのコンビでは望めないからです。片や宙組の現男役トップはいかにも「白い王子様」というタイプで、この人のオスカルが見てみたいというファンもまた多かった訳です。
 さらにこれに関して、私は思うところがありました。オスカルを男役の役者が演じることは、はたして正しいことなのだろうか、ということです。
 宝塚歌劇団の役者はすべて女性です。芝居の中の男性キャラクターを男役が演じ、女性キャラクターを女役が演じる、というのが原則な訳です。もちろんいくつかの例外はあります。たとえばどちらも輸入ミュージカルですが、『WEST SIDE STORY』のアニタや『ME AND MY GIRL』のジャッキーは宝塚歌劇版では男役がそれぞれ演じました。宝塚歌劇版『風と共に去りぬ』には『ベルばら』のように「バトラー編」と「スカーレット編」というバージョンがあって、「スカーレット編」では男役トップスターがスカーレットを演じました。
 これはまあいいとしても、オスカルというキャラクターは「普段は男装をしている女性」なんですね。そういうキャラクターを、「本当は女性なんだけれど普段は男性の役をしている男役」が演じると、なんだかそういう男役の虚構性を暴かれている気がするというか、男役・女役の約束事を破っているようで、私はおちつかない気にさせられるのです。
 私はアニタもジャッキーも娘役が演じるべきだと思っていますし、『風共』は「バトラー編」だけで十分だと思っています。オスカルも、娘役が演じるべきなんじゃないだろうか、とこのとき思ったのです。特に星組のこのときのトップ娘役が、もちろん楚々として可憐でもあるのだけれど、強く凛々しい面もあるといったタイプの娘役だったため、軍服の着こなしはもちろん難しいだろうけれど、ちょっと見てみたいよなといった気にさせられたのです。
 でも、宝塚歌劇が最もおもしろいのは、男役トップと娘役トップと二番手男役とのトップ・トリオのメナージェ・ド・トロワがビシッと決まったときではないでしょうか。男同士が親友だとかライバルだとか敵同士だとか、ふたりの男が女を争うとか、男が愛した女はもうひとりの男が好きでとか、男が愛した女は憎んだ男の妹でとか、そういう絡み合いですね。
 男同士には友情も対立もありますが、男女となるとやはり恋愛の形になります。そうなるとやはり、娘役トップがアントワネットをやる以上、その恋人であるフェルゼンを男役トップがやり、二番手男役が、本来は女性という役所ですがオスカルをやる、という形が最も美しいように思います。
 男役スターの女装(?)姿が見たいという屈折・倒錯した嗜好がファンにはあって、ショーなどではよくそういうシーンが設けられたりするのですが、一方で、今回の星組バージョンに関しては男役トップを女性の役(オスカル)で退団させることに異議を申し立てるファンも多く(このバージョンでのオスカルは終始軍服で、女姿のシーンがないにもかかわらず)、やはり男役にはバリバリの男姿を望みたい、という気持ちもよくわかります。そもそもそれが宝塚歌劇の宝塚歌劇たる所以なのですから。
 でも、だから、二番手男役ならば、本当は女性、という役どころをやることも許されるかな、とも思うのです。
 フェルゼン、アントワネット、オスカルの三人は同じ年生まれという設定になっていますが、やはり本当は女性であるオスカルの方がフェルゼンよりも線が細くなります。ニンにもよりますが、学年が上の分、トップの方が二番手より大きく頼もしくあることが多く、この点でもフェルゼンをトップが演じる方が収まりがいいということになるでしょう。
 この形で、トップコンビの不倫の恋、二番手のトップへの秘めた恋、トップ娘役と二番手男役の友情と信頼、意見の別れ(さらに二番手と三番手の身分を越えた愛もある)、というのを緊密にやってくれたら、本当に見応えあるものができると思うのですが。

 もちろん、フェルゼンというのはかなりの辛抱役で、なかなか魅力的に見せるのが難しい役でもあります。出番もどうしても少ないですしね。
 逆にオスカルというのはどうやっても目立つ役で、二番手にはとてもおいしい役、儲け役の最たるものです。
 でもまあ、たとえば男役トップがアンドレを演じたバージョンなどもあるように、その役者が役は地味でも舞台全体を支えるような包容力を見せられれば、芝居は十分成立するのだと思うのです。
 フェルゼンは、アントワネットとオスカルというふたりの女性に愛される男です。そのそれぞれを、輝かせてあげられる男性だとも言えます。相手のいいところを引き出す形の男性像、というのもなかなか新しく(というか現代的?)、いいものなのではないでしょうか。
 それに、私は、わりと宝塚歌劇版では軽視されがちな、アントワネットとオスカルとの友情や信頼といった面がものすごく好きなのですが、もしもトップコンビがこのふたりを演じてきちんとこれをやってしまったら、それはもう宝塚歌劇ではないかもしれない、とも思うのです。きちんと恋愛はするけれども男に殉じるでもなく、自分の考えで自分の道を突き進む、ふたりの女を描くことになるのですからね。宝塚歌劇は女性のための娯楽なのですが、私は恋愛を信じているので、宝塚歌劇が恋愛をいらないと言うようになったらこの世は終わりかななどと思ったりもするのです。

 という訳で、以下、私なりの「完全版」を作ってみました。このまま脚本まで書いてしまいそうな自分が怖いです。それにしても、全国にこんなことをしている心あるファンはごまんといるでしょうに、当の歌劇団の脚本は年々改悪されているきらいがあるというのは、どうしたものでしょうかね…



第一幕
●プロローグ
  小公子、小公女、バラの青年、バラの娘
   ♪ごらんなさい ごらんなさい ベルサイユのばら(「ごらんなさい」)
  フェルゼン、アントワネット
   ♪愛 それは甘く 愛 それは強く(「愛あればこそ」)
  オスカル
   ♪ああ 我が名はオスカル(「我が名はオスカル」)
  アンドレ
   ♪白きばらひとつ清らかに咲く(「ばらベルサイユ」)

「女ながらジャルジェ家の跡継ぎとして育てられたオスカル・フランソワは、オーストリア帝国ハプスブルク王家から嫁いでくるフランス王太子妃マリー・アントワネット付きの近衛士官に任命される」というようなことをセリフで説明しつつ次の場面に移っていくのはどうでしょう。このバージョンはないようなので。
 しかしプロローグですが、カーテンの電飾はかまわない、しかしレタリングがダサいのが許せません。どうにかしてください、マジで。絵から出てくるパターンも嫌だなー。だって絵が下手なんだもん。
 トップスターがオスカルでもアンドレでも、プロローグのこのふたりの衣装はオスカルが白と銀、アンドレが白と金の軍服と決まっているようですが、これに対して「オスカルは光でアンドレは影、オスカルが太陽ならアンドレは月なのだから、オスカルが金でアンドレが銀の軍服であるべきだ」というような意見を聞いたことがあります。至極まっとうだと思います。改善してくれる気はないのでしょうか。

●パリ・オペラ座の仮面舞踏会
  ♪ああ パリの夜 踊り明かさん いつまでも
 「無礼者!」~「私は生まれて初めて私の心ときめかせる人に会った」
   ♪叶わぬ恋とは知りながら(「愛の怯え」)

 オスカルを連れておしのびでパリへ出かけたアントワネットは、スウェーデン留学生のフェルゼンと出会う。

●ベルサイユ宮の廊下
  プロヴァンス伯爵とオルレアン公爵
   「何より忌まわしいのは不倫の噂」

 希望と祝福に満ちた輿入れから十数年、アントワネットの浪費に民衆の不満が高まっていることが論争される。

●ベルサイユ宮の夜会
  さんざめく宮廷貴婦人たち
   ♪ベルサイユに我ら集い 永遠に称えん王家の栄光(「ベルサイユ宮の舞踏会)
  アントワネット、ポリニャック伯夫人
   「女王陛下ご臨席!」「みなさん~わたくしはあの方がそばにいないと寂しいの」
 スウェーデン竜騎兵の軍服を着たフェルゼンが現れるが、ポリニャックに遠ざけられる。
  ドレス姿のオスカル
   「あの方はどなた?」「なんでも外国の伯爵夫人とか…」
 オスカルは正体を知られぬままフェルゼンと踊り、立ち去る。

●控えの間
  アンドレ、オルタンス、マロン・グラッセ、ル・ルー
   「あなたはオスカルお姉ちゃまを心ひそかに愛しているんでしょ」
 オスカルは彼女たちに無理矢理着せられたドレスを脱ぎに去る。
 フェルゼンが貴婦人を追ってくる。
 軍服に着替えたオスカルがフェルゼンに帰国を奨める。
   「お別れするのが本当の愛ではないのか?」~「こんなむごいことは言われないはずだ」~「私だって恋をしている!」
  フェルゼン ♪この世では結ばれぬ愛と知りながら(「結ばれぬ愛」)
  オスカル ♪私は愛の巡礼 見知らぬ国を唯一人(「愛の巡礼」)
  アンドレ ♪朝風に揺れる後れ毛見せながら(「白ばらの人」)

●パリ下町
  ジャンヌが町を出る。
   「あたしは神様に逆らって生きたいの!」
  ラ・モリエールがポリニャックの馬車に轢かれる。
   「文句があるならベルサイユへいらっしゃい」
  ベルナール ♪人はみな幸せに 世の中は明るく(「人はみな幸せに)

 この歌はオスカルが、アランやロザリーの案内でパリの下町を訪ねるシーンがあるバージョンで歌うものですが、ベルナールが歌っても変と言えないこともない、と思います。
 アラン、ベルナール、ジェローデルというキャラクターは四番手以降の若手スターのしどころですね。役の重い軽いはバージョンによってだいぶちがいますが、配役次第といったところでしょうか。

●ジャルジェ家
  オスカル、アンドレ、ジャルジェ夫人、ロザリー
 夫人を母の敵と間違えたロザリーが、オスカルから貴族の作法を教わることになる。

●ベルサイユ宮
  ♪オー プランタン 春4月(「オー、プランタン」)
   or ♪ダンスをするのもいいわ 歌を歌うのも (「恋をすれば」)
  オスカル、アンドレ、ロザリー、ポリニャック、ジャンヌ、シャルロット
    オスカルがロザリーを宮廷に連れて行く。
  「私の姉の嫁ぎ先の主人の妹の…」~「母の敵と姉さんが…!」

 シッシーナ夫人とモンゼット夫人に関する駄洒落は許せませんが、貴婦人たちがオスカルをアイドル扱いして夢中になっているというのは原作にもあるエピソードで、このコミカルなくだりは嫌いではありません。「オスカル、あたくしのオスカル!」というセリフとかね。

●夜の庭園
  フェルゼン、アントワネット
   「わたくしは未だにオーストリアの女なのです」
   ♪人には終わりがあるように 花さえいつかは散ってゆく(「ばらのスーベニール」)
 ふたりは人目を忍んで逢い引きを重ねる。
  オスカル、アンドレ、黒い騎士(ベルナール)、ブイエ将軍、ジャルジェ将軍、ジェローデル、ロザリー
 貴族の屋敷を次々と襲っていた盗賊・黒い騎士を捕らえるも、民衆の現状を説く姿にうたれ、オスカルは彼を将軍に引き渡すのを思いとどまる。
 酔ってアンドレの膝を借りるオスカル
   「星がきれいだ」♪ブロンドの髪ひるがえし 青い瞳のその姿(「心のひとオスカル」)

 このシーンでは庭園の池だか運河だかに浮かべられた船のセットが出てくることが多いようですが、恋の情熱とときめきを表現するダンスシーンでもいいと思います。

●ジャルジェ家
  ロザリー、ベルナール「大人にしているんですよ」
 ロザリーの実の母親、マルティーヌ・ガブリエルとはポリニャック夫人の名前であることが判明する。

●ベルサイユ宮
  ♪俺達は陽気な近衛兵 士官帽子を小粋にかぶり(「俺達は陽気な近衛兵」)
  ポリニャック、ジャンヌ
   「スウェーデンの恥になりますわ」
 フェルゼンが帰国の暇乞いに来るがポリニャックが退ける。
  アントワネット、オスカル「世の中の恋人たちならば、涙が枯れるまで別れの言葉を交わすのだろうけれど」
 ロザリーはポリニャックの娘だとオスカルが告げ、怒ったポリニャックは代理人を立ててオスカルに決闘を申し込む。

 「オスカルのお稚児さんね」と続く森のシーンでの「稚児の剣法、見せてやる!」というセリフは絶対にカットしてください。
 フェルゼンがルイ16世に帰国を告げ、ルイが引き止めるというシーンがあるバージョンもあります。あのルイがいいんですよね。アントワネットとフェルゼンとの噂を知らないではないが、一線を越えてはいないだろうとふたりを信頼し、またフェルゼンの誠実な人柄を信用しているルイ。従兄弟たちに陰口を叩かれていることを知らないではないルイ。泣かせます。

●サン・クルーの夜の森
 オスカルの身代わりに決闘に臨むアンドレ
 帰国直前に決闘の噂を聞いて止めに来るフェルゼン
  「君がつまらぬ決闘で怪我でもしたら、誰が王妃様をお護りするのだ~私は君との美しい思い出を胸に抱いてスウェーデンへ帰る」~「オスカルに言ってやってください」
 ジャンヌの罠にはまり、アンドレは片目を負傷する。

 アンドレの片目は原作とちがって、この他にアランとの喧嘩によって負傷するバージョンもありますが、ここではこれで。フェルゼンが帰国に際しアンドレと語り合ってから去るシーンがあるバージョンもあります。このくだりにそのあたりのセリフをうまいことはめ込めればと思うのですが…

●ベルサイユ宮
 ジャンヌはロザリーと決別する。
   「私とあなたはもう赤の他人、二度と声をかけないで!」
  ポリニャック、ロザリー
  「許してください、ロザリー。あなたはわたくしの娘です」
 オスカルがポリニャックを告発する。
   「アンドレの敵! 宮中に巣食う佞臣!」~「母なんです!」
  プロヴァンス、オルレアン、ブイエ、ジャルジェ
 フランスに暴動が起きたことを国王に報告しようとする。
  アントワネット「すべての責任はこのわたくしが取ります。マリー・アントワネットはフランスの女王なのですから」

 シャルロットの自殺、ジャンヌが告発され宮廷を追放されるくだりはカット。

--幕--

第二幕
●スウェーデン、ストックホルム
 フランスの情勢が不穏なのに心を痛めるフェルゼン
  ♪振り向けば心の荒野に 優しく微笑む愛の面影(「愛の面影」)

 幕開けということでこんなシーンから始めるのもいいかも、と思っただけなんですが。銀橋を歌って渡るだけでもいいのですが、何かフェルゼンのかっこよさをアピールするようなエピソードを入れられればベストなのでしょう。
 原作にはないスウェーデンでの婚約者が出てくるバージョンがありますが、彼女や弟のファビアン、父伯爵などをからめて何かできるといいんでしょうね。

●衛兵隊錬兵場
 オスカルは国状を考えて近衛隊から衛兵隊に異動し、アランたちを指導している。
 ブイエ将軍が無理な命令を下し、騒ぎになりかける。
 ジャルジェ将軍がことを収め、オスカルにジェローデルとの結婚を勧める。
  アンドレ「オスカルを他の男に渡すくらいなら、このアンドレがオスカルをもらう! たとえオスカルを殺してでも」
  ♪忘れえぬ人と恋慕う 白い面影美しく(「白ばらのひと」)

 ここでブイエ将軍は何故オスカルを後で部屋によこせと言うのでしょう? 説教するためだとは思うのですが、無駄なセリフなのでは…部屋で何かするつもりなのかと妙な邪推をしてしまうのでカットしたい。それと、アンドレにはジャルジェ将軍を「ご主人様」ではなく「旦那様」と呼んでもらいたい。
 あと、ジェローデルがオスカルを呼び捨てにするのも気に入らないです。今なお「隊長」と呼んでいるところがいいのだと思うのですが…

●ジャルジェ家・オスカルの私室
  ジャルジェ夫人、オルタンス、マロン・グラッセ
 オスカルの弾くヴァイオリンに聴き惚れる。
   「女として育っていたならば、私も姉上たちと同じように十五歳になるやならずで嫁がされ…」~「我が子の幸せを願う親の心を愚かだと思いますか」
 アンドレが毒入りのワインをオスカルに飲ませようとし、思いとどまる。
   「…それでどうしようというのだ」

 このくだりでジャルジェ夫人はただ思い出話をするだけのことが多いのですが、原作のこのセリフをぜひ言ってもらいたいのです。オスカルのこのセリフもここに収めても支障ないのではないでしょうか。

●ベルサイユ宮の国王の私室
 くつろぐルイとアントワネット
  「私とあなたがこうしてくつろぐのは、なんだか初めてのことのような気がする」
 オスカルがパリ出動の暇乞いに来る。
 プロヴァンスが、王太子は私生児であるとする
 オルレアンの策謀を告げ、アントワネットは軍隊に攻撃命令を下す。

 このくだりでアントワネットが民衆の蜂起や王家の没落に対しずいぶんと理解を示しているバージョンがありますが(「あなたはフランスのことを考えて行動してくださいね。そのための犠牲ならばわたくしはどんなことでも喜んで受けますから」)、原作どおり、この点についてはアントワネットとオスカルの意見が合わないことにした方がいいと思ういます。その上で揺るぎない友情があり、かつ、道は分かれていく、というところが眼目なのですから。
 あと、アントワネットがオスカルに「おまえだけは私のところへ帰ってきておくれ」と言うバージョンは言葉づかいが変です。アントワネットの手の甲にオスカルがキスする仕草はぜひ!

●ベルサイユ宮の廊下
  オスカル、ジェローデル
  「私はあなたが痛々しい~わかりました、身を引きましょう。ただひとつの愛の証です」
  ♪私の求める愛は何処 私の求める愛は何(「愛の巡礼」)
  プロヴァンス、オルレアン
  ♪押し寄せる急流は誰も止められはしない(「押し寄せる急流」)

●ジャルジェ家・オスカルの私室
  オスカル、アンドレ
  「私の存在など、巨大な歴史の歯車の前には無にも等しい」~「千の誓いが欲しいか」~「今宵一夜、アンドレ・グランディエの妻に…」
  ♪愛 それは甘く 愛 それは強く(「愛あればこそ」)
    翌朝、ジャルジェ夫妻、オルタンス、ル・ルー、マロン・グラッセが出発を見送る。

 「アンドレ、私を抱け」「あなたの妻に」「あなたの妻と呼ばれたいのです」などすべてカット。このシーンだけは頼むから原作にないセリフは使ってほしくないです。逆に、あまり使われたことがないらしい「おれのものになってくれるのか」というセリフは加えてもいいと思うのですが。
 それと故・長谷川一夫大先生がなんとおっしゃったかは存じませんが、立て膝に膝枕はともかく、その後の倒れこみ方はあまりに不自然で美しく見えないと私は思います。昭和雪組版の汀オスカル・麻実アンドレのときのような、手の添え方の自然なキスシーンがいいなあ。

●パリ市街~バスティーユ
  オスカル、アンドレ、アラン、ベルナール、ロザリー、ブイエ、ダグー大佐、ジェローデル
 軍隊が民衆に発砲する。
 オスカルは伯爵号を捨て、民衆側につく。
    「我らは祖国の名もなき英雄として、民衆と共に戦おう!~さらば、もろもろの古きくびきよ」
    アンドレの落命「見えていないのか!? 何故ついてきた!~シトワイヤン、行こう!!」
    バスティーユが陥落する。「白旗が!」「フランス…万歳…!」

 どうして宝塚版ではダグー大佐が民衆側につくことに変更されているのでしょう。彼がブイエ将軍とはまたちがった意味で貴族の側に残る点に意味があるのになあ。
 オスカルの「この戦闘が終わったら結婚式だ」というセリフがないバージョンがありますが、ぜひ欲しいです。
 アンドレの絶命シーンは「白バラの人」を口ずさみながら、がいい。「命だけは大切に」というセリフは余計。

●スウェーデン、ストックホルム~オーストリア、ウイーン
  フェルゼン、ソフィア、ファビアン
 妹弟の制止をふりきって再びフランスに向かうフェルゼン
  ♪駆けろ 駆けろ 大空を行く ペガサスの如く駆けて行け(「駆けろペガサスの如く」)
  ヨーゼフ2世
  「妹を助けたくば自分自身でやることだ。自分で蒔いた種だ、自分で始末するがいい!」

●王室のパリ移送
  ルイ、アントワネット、王太子、王女、エリザベス内親王
  「私たちはお父様とご一緒に、この人たちとパリへ行きましょう」

 「フランスのためならば務めとしてどんな犠牲でも引き受ける」という前出のアントワネットのセリフが、このくだりでルイのセリフに書き換えられているバージョンもあります。そのまま革命委員会からの呼び出しにつなげるようなら、ルイの方がアントワネットより正確に現状を認識していたことにした方がいいと思います。

●パリ
  ジャンヌ ♪思い出してごらん 苦しかった日々を
 市民たちが亡命しようとする貴族を捕まえて血祭りにあげ、王妃の死刑を求める。

●コンシェルジュリー牢獄
  ベルナール、ロザリー、メルシー伯爵
  「王妃様にはこのままフランスの女王としてまっとうしていただきたいのです」
 フェルゼンが牢獄のアントワネットを訪ねてくる。
 フェルゼンは逃亡を提案するが、アントワネットは退ける。
   「あなたが今でもわたくしのことを愛してくださっているのなら、どうか私をフランスの王妃として立派に死なせてください」
  断頭台に向かうアントワネット「さようならベルサイユ、さようならパリ、さようならフランス!」
  フェルゼン「王妃様!!」
  ♪どうしてどうして 忘れることができよう(「愛の面影)

 非難轟々のステファン人形ですが、実は私は意外と嫌いではないんです。「このお人形がわたくしで、わたくしがお人形だったのです」というセリフはなかなかに真実をついていて、泣かせます。イントロで少女時代のアントワネットがシェーンブルン宮を出るシーンが入れられるようなら、ぜひ入れたいエピソードではあります。

●フィナーレ
  小雨降る経
   アンドレと女姿のオスカルが踊る
  薔薇のタンゴ
   フェルゼンが男役連を従えて踊る
  ボレロ
   フェルゼンとアントワネットが踊る
  ロケット
   ♪シャンシャン鈴の音軽やかに ガラスの馬車は雲を行くorラ・マルセイエーズ
  パレード
   エトワール ♪青きドナウの岸辺に 生まれた一粒の種

 シャンシャンは紅白の薔薇の花束が好みです。キャンドルが付いているバージョンもありますが、あれって変じゃないでしょうか?
 基本的にはフィナーレはこれくらいで、時間目一杯お芝居をやってほしいのですが…これでもだいぶオーバーしているだろうな…

***

 …とりあえずここまで。
 10年前と今となんらやっていることが変わらないのが我ながら怖いよ…
 続く。
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新野剛志『あぽやん』(文春文庫)

2013年04月20日 | 乱読記/書名あ行
 遠藤慶太は29歳、大航ツーリスト本社から成田空港所に「飛ばされて」きた。返り咲きを誓う遠藤だったが…パスポート不所持や予約消滅といった旅客トラブル解決に奮闘するうちに、空港勤務のエキスパート「あぽやん」へと成長していく…さわやかな空港お仕事小説。

 テレビドラマの方は、一話完結ものが苦手で見なかったのですが、せっかくなので原作を読んでみました。まあドラマ化されたのはシリーズ2冊目のほうですが。
 初めて読む著者でしたが、ミステリー作家のようですね。それが取材してお仕事ものを書いたのでしょうが、なんといっても主人公が女々しくて後ろ向きでプライドばかり高い女の腐ったような男だったのがもの珍しかったです。
 そういうキャラクターとして立てているんじゃないの。おそらくごく普通の男性主人公としてただ普通に書いているんだろうけれど、そこはかとなく嫌らしさが漂うの。一人称形式なだけに逆にある種の客観性が出るのが救いでしたが、読んでいてチクチクイライラさせられました。普通は主人公に共感して、感情移入して、主人公を応援しながら読むものですからね。
 どうせならダーティ・ヒーロー、アンチ・ヒーローにしてしまえばいいのになあ…絶対無自覚だよこの作者。まあ別にいいんですけれどね…機会があれば推理ものも一応読んではみたいと思っています。

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『トゥモロー・モーニング』

2013年04月20日 | 観劇記/タイトルた行
 シアタークリエ、2013年4月18日ソワレ(初日)。

 離婚前夜のジャック(石井一孝)とキャサリン(島田歌穂)。結婚前夜のジョン(田代万里生)とキャット(新妻聖子)。人生の岐路に立つ二組のカップルが、それぞれの夜を迎えていた。「明日の朝」という新たな扉が開くとき、彼らが目にするものとは…
 脚本・作詞・作曲/ローレンス・マーク・ワイス、翻訳・訳詞・演出/荻田浩一、音楽監督・編曲/玉麻尚一。ロンドン、シカゴ、メルボルン公演を経て2011年にオフ・ブロードウェイで上演されたミュージカル。全2幕。

 初日ということで原作者が来日観劇していて、カーテンコールで挨拶がありましたが、この演目の公演で最も大きい劇場での上演だったそうです。さもありなん。キャスト四人の一夜の物語で、もう一声小さい劇場でも親密さが出てよかったかもしれませんからね。でも上品なセットといい、なかなかいい空間でした。
 オギーの訳詞も綺麗に韻が踏まれていて、実力者四人の三重唱四重唱でも美しく聴けました。

 以下ネタバレ。
 二組のカップルは異なる空間にいて、同じ歌を歌っても出会いませんが、台詞の端々から私は、キャサリンはキャットの上司なのかな?と思っていました。そしてどこかで四人が顔を合わせる瞬間が来るのかと。
 その一方で、ジョンとジャックって同じじゃん、同じ名前の愛称じゃん、でもまあ西洋人のファーストネームにはバリエーションがないからな、とかも思っていました。
 しかしこんなギミックがあったのですね。二組は違う空間にいるのではなく、違う時間にいるのでした。
 ジョンとキャットは十年前のジャックとキャサリンだったのです。ワクワクソワソワしながら明日の結婚式を待っていたジョンとキャットは、十年して離婚の危機を迎えていたのでした。
 それがわかると、確かに男性ふたりは背が高すぎて女性ふたりは小柄すぎて、どちらもカップルバランスが悪いなあとか思っていたのも当然だったのですね。ふたりは同一人物だったのですから。
 そしてこれは、どちらのカップルも、一悶着あって乗り越える話でした。すなわちジョンとキャットは無事に結婚し、ジャックとキャサリンは離婚を取りやめました。結婚前夜のことを思い出したからです。
 しかしでは何故、ジャックは、男というものは、浮気をする前に結婚前夜のことを思い出せないのか。遊びだろうとそうでなかろうと関係ない。何故そのときには振り返られないのか、何故そんなに愚かなのか、愛があろうとなかろうと女はそんな男の愚かさを許し続けないといけないということなのか、そんな疑問への回答は当然ながらありません。
 だから私だったら。
 一夜を越えて、ジャックとキャサリンは離婚を取りやめる。その一方で、ジョンとキャットには結婚を取りやめさせます。「私たちやっぱり合わないみたい、お別れしましょう」と言わせる。キャットが妊娠していようと関係ない。子供の問題は夫婦の問題とは別に考えることができるはずです。
 ジョンとキャットが結婚しないならジャックとキャサリンが離婚を考えることもないんじゃない?というタイム・パラドックスを作る。そうやってメビウスの輪のようにぐるぐるしていくのが男女なんだ、とする。安易な結婚ハッピーエンドなんてちゃんちゃらおかしいやね、としたい。

 こんなハッピーミュージカルを見ながらそんなアイディアを思いついている私はダメなんでしょうかね…
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『今ひとたびの修羅』

2013年04月20日 | 観劇記/タイトルあ行
 新国立劇場、2013年4月16日ソワレ。

 昭和初頭の東京・深川のはずれ。渡世人の飛車角こと小山角太郎(堤真一)は義理の上から加担した出入りで人を殺め、警察に追われる身になる。飛車角は泣いて止めるおとよ(宮沢りえ)を後にしてね警察に出頭するが…
 原作/尾崎士郎、脚本/宮本研、演出/いのうえひでのり。全2幕。

 いやあ、いくら任侠だ昭和だアナクロだっつったって、ファンタジーとしか思えませんでした。ちょっと単純すぎないかなあ?というか、リアリティやシンパシーが感じられませんでしたよ私にはね。
 この舞台を作っている側がギリギリこの時代の感覚を知る者として自覚的なだけに、より若い世代に向けて作っているんだろと魚もいますが、はたして刺さるものやら…
 まあ物語として楽しくなかったわけではないのですけれどね。
 でももしかしたらわざとなのか、意外に色気を感じなかったところも、私が肩透かしに感じた原因なのかもしれません。

 今だったら、私だったら、というかこの話って本質的には、吉良常(風間杜夫。かつて映画版で宮川を演じたというのはおもしろい)と飛車角と宮川(岡本健一。そうかタメだったのか…いい役者になったよねえ)とのブロマンスなんだと思うんですよね、だからそう作る。
 ブロマンスという言葉自体は最近のアメリカ文芸の造語だそうだけれど、要するにそういう概念は昔からあったわけで。
 吉良常はまあ現役じゃないからちょっと置くにしても(年寄り扱いして申し訳ない)、宮川がおとよの面倒を見る、というか結局のところおとよに惚れる、おとよを抱くのって、要するに宮川が飛車角を愛しているからなんですよ。おとよを通じて飛車角と寝ているんだよね。おとよを抱くことで飛車角を抱いている、あるいは飛車角に抱かれているわけ。
 おとよはそういうこととはまた別に、まあだらしがないといってしまえば簡単だけど常に誰かにそばにいて愛してもらいたがっている、そうでないと駄目な、常に人肌を求めているような女なんだけれど、心のどこかで自分がふたりの男の間にただあるだけのものだとわかっているところもあって、だから余計に空しいしますます誰でもいいから人肌を求めるのだ、というところがあるのだと思うのですよ。
 そうして男は宮川のように出入りで死のうが(これは飛車角との心中だよね、飛車角はたまたま落命しなかっただけで)吉良常のように寿命で老衰死しようが要するに勝手に死んでいって完結するわけですが、女はそうはいかないし残される側としては冗談じゃない、って話だってことですよね。
 任侠ものだからマッチョで当然なのかもしれないけれど、演劇の観客って過半数以上が女性だと思うし、これじゃ楽しくないと思うけどね…
 しかしそういえば風間杜夫つながりでもあるが、そんなワケでおとよは小夏なワケですねえ。銀ちゃんとヤスは精神的に共依存というよりもはやデキていたのだし、女は常に「だって銀ちゃんいつも一緒にいてくれないじゃない、どっかいっちゃうじゃない」と泣き叫ぶしかないわけです。
 まあこのお話は飛車角が死に切れずおとよと再会して終わるわけで、でもまたきっと同じことの繰り返しが待つだけだろうし、だからこそのこのタイトルなのでしょうし、そういうある種の愛の形を描いたものなのでしょうが…誰もあまり幸せになっていない感じなのが、観ていてちょっとしんどい、というのはあるのですよね。やはり女は幸せが好きなんだなあ、幸せを信じたいのだなあ。

 だからもうおとよは本当は照代(村川絵梨)とかとくっつくといいと思うんですよね。
 飛車角とおとよと宮川との三角関係とある種の対象を描いて、お袖(小池栄子。とても良かったがこの人が意外にクレバーでいい女優なことは隠せないので、その意味ではミスキャストだったのではあるまいか)と瓢吉(小出恵介。こういうボンボン役が本当に似合いすぎていて素晴らしい)と照代との三角関係があるのだけれど、こちらは崩壊して終わっています。というかそうあってほしい。実際には瓢吉とお袖がよりを戻すであろう幹事で終わっているのだけれど、もういい仕事もあるんだし独立させてやれよ、という気がします。
 というかそのふたりがどうであれそれでも照代は残されるのだから、だから飛車角は宮川と死なせてやって、おとよは照代とくっつくといいと思うんですよねー。
 照代はどこにも行かないよ、家で仕事をする才能ある作家だしね。ずっとおとよのそばにいて、愛してくれると思うよ。それでやっと幸せになれるんじゃないのかなあ。
 …とついつい考えてしまったこともあり、照代はもうちょっとネームバリューのある女優さんに演じさせるべきではなかったかとも思いました。美しさ、スターオーラがこのメンバーに入ると弱くて、いかにもサブキャラに見えてしまったのが残念でした。

 黒馬先生の浅野和之がまた素晴らしかった。いい役者さんですよねえ。

 と、なかなかおもしろい観劇体験だったのでした。
 わっと泣くとか感動するとかもいいし、いろいろ考えさせられるのもいいですよね。つまらない、退屈、何もない、なんかより断然いい。
 そして私はまたそんな出会いを求めて劇場に向かうのでした。
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2013年04月13日 | 日記
 宝塚歌劇の本格アジア進出について、「歌劇」の高声低声に投稿して掲載されなかった意見をこちらに掲載しておきます(^^;)。
 台湾公演、楽しかったけれど。いろいろな可能性を感じたけれど。それでも、やはり、まだまだまずはすべきことがあると思えるのでした。
 しかし嫌みったらしい口調だねえ…(^^;)

***

 宝塚歌劇が本格アジア進出、海外輸出を目指すというニュースを聞きましたが、巷でファンの多くがなんと言っているか劇団首脳部はご存じですか?「外国に媚びるより国を見ろよ」(『エリザベート』より)ですよ。
 首脳部の方々には、まずは2階席に座ってみることをお勧めします。たとえば今東京で公演中の月組『ベルサイユのばら』では、B席からはアンドレの死に際が完全に見切れます。S席3列目からですらバスティーユに揚がる白旗が見えません。『ロミオとジュリエット』でも仮面舞踏会で主役ふたりがバルコニーでぶつかって出会う場面は見切れていました。初めて舞台を観た観客が、重要場面が見切れて話が追えなかったら、二度と劇場に来ないだろうと思いませんか?
 演目によってはガラガラな客席をどう思いますか? S席は空いていてもB席は埋まっているのを見てどう思いますか? 空けておくくらいならS席の料金を下げるか、S席の範囲を狭めるべきだと思いませんか?
 ファンが幕間に囁く感想が聞こえてきませんか? 再演や原作ものばかりで、宝塚歌劇らしいロマンチックな題材の、当て書きのオリジナル脚本の演目が減っていること、華麗なレビューやショーの上演が減っていることをみんな危惧していますよ。公演期間が短くなって観劇しづらくなったことを嘆き、過密スケジュールによる生徒および座付き作家の疲弊や技術の低下を心配していますよ。公演期間を延ばし、平日は一回公演のみにしたり2週に一度は休演日を2日入れるなどして公演回数は減らし、生徒の負担を軽減させられませんか? その分レッスンや休養に充てたり、新たな自分磨きをさせるべきでは?
 テレビ地上波での舞台中継がほぼ皆無になり、チケット発売のTVCMもなく、新規客に告知がまったく届いていない点をどう考えていますか? 歌番組やトーク番組に現役生徒が出演したあと、少なからずあった反響をどう考えていますか? より効果的な露出がもっと考えられませんか?
 熱心なファン向けであるCS放送のあまりにも低い画質は改善できませんか? 公演DVDや実況CD、写真集やその他グッズなどについて、もっとファンのニーズに応えられませんか?
 まだまだ身近にできることはたくさんあるのではないでしょうか。足元を固めずに手を伸ばしても転ぶだけです。150周年も見守る気満々ですが、まずはもっと努力できることをしていただきたく思います。

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