駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇月組『All for One』

2017年09月28日 | 観劇記/タイトルあ行
 宝塚大劇場、2017年7月14日15時(初日)、15日11時、8月12日11時、15時。
 東京宝塚劇場、9月20日18時半、26日18時半。

 17世紀、太陽王と呼ばれたルイ14世(愛希れいか)が治めるフランス。国王が隊長を務める銃士隊は国家と王家を守るため、日々鍛錬を積んでいた。隊員たちはそれぞれ腕の立つ個性派揃い。大胆不敵なポルトス(暁千星)、沈着冷静なアトス(宇月颯)、正規の色男アラミス(美弥るりか)、そして無敵のヒーロー・ダルタニアン(珠城りょう)。ある時、ダルタニアンにルイ14世の剣術指導をするよう指令が下るが…
 脚本・演出/小池修一郎、作曲・編曲/太田健。アレクサンドル・デュマの小説『三銃士』をもとに、新たな発想で描くオリジナル・ミュージカル。全2幕。

 初日の感想はこちら。これでほぼほぼ書き尽くしている感じです。
 東京公演もビギナー(男性含め)を誘って楽しんでいただき、私は鼻高々でした。やはり毎夏これでいいと思うんだけどな、新規ファン獲得のいいチャンスだと思うけどな。コアファンがちょっと飽きてきてチケットが一般に取りやすくなるならなおのことチャンスだと思うんですよね、少なくとも向こう四年、各組で順次やるのはいい手だとマジで思います。
 公演が進むにつれて、同性愛を笑いのネタにしているのではないか、また年かさの未婚女性を馬鹿にして笑うようなところがあるのではないか、色男というよりは女性を蔑視・軽視するキャラクターとして描かれていないか…といった点に引っかかる、というような意見も聞かれるようになりましたし、そうだなと思う部分もそうかなと思う部分も個人的にはありました。
 まず同性愛に関する引っかかりとしては、たとえばれっきとした男性だと思われていたルイがダルタニアンとキスしているところを目撃したときの、宮廷の面々の反応だとか、ダルタニアンに国王との恋愛を相談されたときのアラミスの反応だとかがあたるのだと思いますが、まず当時としても同性愛は普通にあったものの公然の秘密とされていたようなところがあって、決して大手を振って公表されたり公認されたり歓迎されたりするものではなかった、ということは踏まえておく必要があると思います。「女嫌い」というのは男性同性愛の婉曲表現だったのかもしれませんが、この作品では単なる性向を語るものとしても捉えられるようで、私は引っかかりませんでした。
 ただ、最初はそんな反応だったかどうかあまり記憶がないのですが、ヤスちゃん演じるリュリがこれを歓迎するそぶりを見せ始め、さらに仮面舞踏会でアトスに会って「タイプ!」と言ったりするようになったので、リュリはそういう性指向の人なのね、ということが印象的になり、結果的にこの問題が際立ってきてしまったのだと思います。リュリはバレエの振付家ですが、こういう芸術関連の職の人にそういうキャラクターが当てられがちだというステレオタイプに反発する空気もあるでしょうし(以下脱線しますが、思えば『華やかなりし日々』でやはり振付家を演じていたあっきーにもそういう方向性の役作りはありえたんだろうけれど、おそらくダーハラにはこのあたりのキャラクターたちにそこまでのこだわりはなかったんだろうし中の人はそういうことを考えつくタイプではないので、ごくフツーのキャラクターになったのでしょう。やらされていたらやっていたかもしけないけれど、上手くできたかは不安かな…ちーちゃんならともかく。また、ヘタに上手くできてしまっていた場合、以後そういうタイプの芝居ばかり求められる上級生になっていってしまった可能性もあるので、やはりやらなくてよかったんだろうと思うのでした。そっちにいっていたらおそらく私はその後こんなに好きにはならなかったと思うよ…この芸の幅の異様に狭いザッツ・二枚目スターが結局私は好きなんだもん…閑話休題)、ヤスは『A-EN』でも「男の子を好きな男の子」を演じているので、またかいな、という空気もあるんだと思います。
 でも私はリュリは、相手が同性だろうが異性だろうが、国王が恋愛をしていることを喜んでいるように見えたと思いました。政治や剣術にはあまり興味がなくてバレエに夢中で、いつも母親と乳母にべったりされているような奥手の、ちょっと引っ込み思案そうな青年王のことを、リュリは兄貴分としてちょっと心配していたんじゃないかと思うんですよね。でもちゃんと恋愛しているんだ、人とつながれる人だったんだ、そうだよ愛は素晴らしい…と喜び寿ぎ感動している、ように私には見えた。だからリュリがアトスを恋するのは蛇足だったかなとは思います。同性愛者じゃないと同性愛を認められないわけではありませんからね。でもとにかくそのことで同性愛をネタにして笑いにしているとは、私は感じませんでした。
 ダルタニアンに国王との恋愛を相談されたアラミスの反応についても同様で、驚くのも単に珍しいからであり、同性愛が少数派なのは単なる事実であって差別でもなんでもないのだし、彼自身は単に同性には性的に興味がないからそういう相談には乗れないと言っているだけで、嫌悪感を示したり馬鹿にして嘲笑している感じはまったくありません。ルイ13世のことを語るマザラン(一樹千尋)しかりです。
 今回はそもそもがイケコが、ちゃぴで『リボンの騎士』ができる、やりたい、となったところから生まれた物語でしょうが、ダルタニアンが男としての国王に恋してしまってとまどい混乱する…みたいな展開もなかったわけですし、同性愛がネタとして安易、安直に使われているとか馬鹿にされて笑いの種にされているとかは私は感じなかったのでした。
 モンパンシェ公爵夫人(沙央くらま)に関しても、まずこの時代の高位の貴族の女性には称号として爵位や夫人という名が与えられても実際には夫を持たず独身だった女性が少なからずいた、という事実がありますし、それはいわゆるオールドミスとか、現代の職があって自立もしている独身女性の在り方とかとはちょっと違うものなんですよね。そして彼女への笑いは、「中年女が年甲斐もなく若い男を追っかけまわして、みっともない」というような嘲笑ではなく、「幼い初恋を一途に貫き、脈がないけど知らぬふりで無邪気に恋焦がれ続けアタックし続けている勇気といじらしさ」に対する、微笑ましさと共感の笑みだと思うのです。それはコマのチャーミングでキュートでかつ押し出したっぷりな芝居の上手さによるところも大きい。イケコがどこまでわかって書いているかは正直ナゾかとも思いますが、なのでこれも私は引っかからなかったのです。
 逆にアラミスが本当に色男なのか、というかいい男なのか問題、はけっこう根深いかなと思いました。プレイボーイってもはや古い概念ですよね、だって不特定多数にモテたって仕方がないわけですから。愛している人に愛されるだけで十分なはずなんですから。たくさんの相手をするということはそのそれぞれを大事にはしづらいということで、それは男を下げることになりますよ今や。
 というか厳密に考えるならキャラブレしているように感じられなくもなかった…かな、私には。単に女にモテちゃうので相手にしちゃうけど本質的には興味がない、むしろ女を馬鹿にしている…というのはまあありがちなプレイボーイ像だと思うんですけれど、やはり女性が演じ主に女性の観客が観る芝居のキャラクターなのですから、そういう女性蔑視・軽視は良くないです。あくまで女性を尊重しているキャラクターとして描いてほしい。となると、懺悔でテキトーな助言をしたり献金と称して金を巻き上げようとするのはけっこうグレーかなと思うんですよね。まあそこまで深く描く暇はないのかもしれませんが…
 というわけで、深読みしようとすればポリティカル・コネクト的にもフェミニズム的にもポロポロ齟齬もある物語ではあるかと思うのですが、でもやはり細かいことをそこまで気にさせないパワーと明るさ・楽しさ・単純明快さは特筆ものなので、やはり素晴らしいエンタメ傑作に仕上がっているのではないか、と私は思うのでした。

 では、出演者の感想を。
 「無敵のヒーロー」なんてキャッチをもらってまったく違和感も遜色もないダルタニアン珠城さん、素晴らしいですね! ファンも増えたことと思います。
 田舎出身でちょっと武骨で、でも明るく誠実でまっすぐで真面目で、嘘やごまかしが嫌いで、努力と勇気の人。本人そのままで、そしてちゃんと主役・主人公になっていて、とても魅力的でした。ガタイの良さも素晴らしい、劇場全体抱いても大丈夫! もう信頼感しかありません。決して器用なタイプではないけれど、だからこそのラブコメにハマったかなというのがまた素晴らしい。
 そしてフィナーレでは本当に色っぽくセクシーになりました! テレは捨てられたし気合も入った、センター任せて安心だし、娘役ちゃんたちに囲まれても男役たちを率いても素敵に決まる。そして何よりちゃぴとの愛と信頼あふれるデュエダンが素晴らしい。ここで理想のカップルを体現してみせることこそが宝塚歌劇の大命題なんじゃないかと私は思うのです。
 たとえ同性愛者でも異性愛からしか生まれてこられないのだし、というか理想の男女カップルを演じているのがそもそも同性同士という本当に深いねじれがここにはあるのだけれど、だからこそ「愛は素晴らしい」とてらいなく訴えられるデュエダンが人の心に届くのだと思うのです。本当に素敵です。泣けます。

 そして無敵のヒロインと言いたくなるちゃび。もはや裏トップスター様とも言えますが、変わらずみずみずしく愛らしく、素晴らしい。
 ルイは元男役だからできる役…ということでもなくて、要するにちゃびの芝居が上手いから成立できている役だとも思います。ルイーズになったときの落差も素晴らしい。東京で増えた、酒場でダルタニアンとベルナルド(月城かなと)に挟まれたときの「彼女って言って!」アクションと、馬鹿正直に「会ったばかりだ」と答えちゃうダルタニアンにガクーッてなるトコ、ホント可愛かったです。
 これまた女性だからって着飾ることしか考えていなくて今にも国政を放り出しそうな無責任なキャラクターに描かれていることが女は政治に向かないと言うかのようでフェミニズム的に云々、という意見もありましたが、これまたこの時代の国王で本当の意味で親政をした人って少ないんだろうし、「自分に嘘をつきたくない」というのは誰しもが願う真実の望みだと私は思うので、本当に王になるべき兄弟の代理を務めるのはもう限界、普通の女の子として生きてみたい、とりあえず髪を伸ばしたいドレスを着たい恋をしたい…というのは無責任でも考えなしでもなんでもないと私は思いました。可愛くて一生懸命なルイーズを演じるちゃびにはその説得力があったと思います。
 欲を言えば、本編中でもバレエをそれほどがっつり踊っているわけではないので、フィナーレではガンガン踊る場面がひとつ欲しかったところだけれど、尺の問題もあるしあまり珠城さんを食っちゃってもなんなんで(^^;)、次のショー作品への期待として取っておきましょう。
 まだまだ珠ちゃぴ作品がたくさん見たいです、長く長くいてね、ちゃび。

 イケコの一本立てのフィナーレの歌手を務めるのは何回目?というみやちゃんですが、押しも押されぬ二番手スターとしてこちらも盤石の輝き。まあある種似たような色男役ばかりになっちゃっている気がしなくもないのは、本当はもっと芝居ができる人なだけにもったいない気もしますが、これも今後の課題として、楽しみに見守り続けたいです。
 フィナーレの男役群舞で珠城さんが抜けたあとのセンターをきっちり務められているのはさすがです。小柄だけれどオーラがある。一級のスターさんですよね。

 そして組替えしてきてすんなり三番手にハマったれいこちゃん、これまた素晴らしかったです。悪役なんだけどちょっと抜けてて憎めない、というのがまたぴったりで、超絶美人なんだけど全然お高くなくてむしろほわわんとしている中の人の人となりも見えてとてもよかったです。そして芝居の質も月組に合いそう。今後、かっちりしたお芝居やシリアスな作品も楽しみです。
 
 三銃士はとしちゃんとありちゃん、こちらも盤石。としちゃんの渋さ上手さ、ありちゃんの闊達さは財産です。フィナーレでアイドルふうにしてくるとしちゃん、逆に大人っぽくセクシーに垢抜けてきたありちゃんと、こちらも恐ろしいまでの戦力っぷりです。今後にもさらに期待!

 イケコにコメディリリーフとして絶大な信頼を寄せられているっぽいゆりちゃんがまたいい味出しているし、まゆみさんの上手さ手堅さ、るうちゃんの渋さカッコよさ、ジョーの素敵さも得難いものです。護衛隊の四人もホントいいんだよね。
 それからすると娘役にはちょっと役不足だったかな? くらげちゃんのマリア・テレサは絶品でしたが、マザリネットとかは本当はやりようがないんですよね。でもわかばはやっぱり華があるし、私はさくさくな夢中でした。みんな妍を競って美しく可愛かった! あとはすーさんの素晴らしさ、なっちゃんの手堅さ、さち花の泣かせる情愛ね…!
 おだちんも本当に垢抜けてきて、でもロケットで濃厚なウィンクを飛ばすので「国王様ご乱心…!」って毎回思うのが本当に楽しかったです。れんこん、るねっこ、ぎりぎり、あちも素敵でした。ヤスの仕事人っぷりももちろん素晴らしい。はるくんもホント綺麗。
 新公は東西とも観られなくて残念でしたが、充実したものだった模様。もう未来に楽しみしかありませんね。
 専科のヒロさん、コマちゃんはこれぞ専科という確かな仕事ぶりだったと思います。素晴らしいバランスでした。

 そうだ、東京で変更になった壁ドンの効果音ですが、これは正直ちょっとやりすぎじゃないかな? 壁ドンそのものに十分インパクトがあるので、少なくともあんなに残響音があるタイプの効果音は要らないと思うなあ。珠城さんなら生音で十分なのでは…?(笑)
 というのも、壁ドンって普通はイメージ上のものなんですよ。実際にやられたことがある人もやったことがある人もそうそういないと思うの。せいぜい少女漫画やテレビドラマで見かけるくらいのもので、そのブームだってピークは去りつつある。
 それを、リアル三次元で目にする衝撃とおもしろさの方が、ものすごいワケですよ。もちろんお芝居の中なんだけれど、生身の役者が目の前で実現して見せてくれているという衝撃が、十分すぎるくらいある。そしてときめきと同時におもしろさも湧く、その絶妙さを観客に十分に味わわせるためにも、長引く効果音は蛇足だと思います。ドン!があって笑いが起きて、固まったちゃぴルイーズがすぐ「…今、ドンって響いたわ」とか言うんで十分だと思うのです。そこでまた笑えるんだし。効果音が長いと間も開くわけで、それこそ間抜けです。
 でも本当にベタは最高です、こういうことをてらいなくやってくれるイケコと珠ちゃぴは素晴らしい。萌え、ときめき、恥ずかしくてちょっと笑っちゃう感じ、大事です。
 だからベルナルドの柱ドンもそれこそ効果音なんかいらなくて、ぺちんとかぺたんみたいな生音でいいんですよ。で、響かなかったルイが「壁がないから」って流すんですから。
 ベルナルドの「おまえがオレの壁だ!」のハケに思わず湧いた初日の拍手喝采、よかったなあ。あれは『王妃の館』初日のこんクレのチューからのチュー返しに湧いた拍手と歓声とまったく同じものでした。ホントに素の、心からの、「よくやった!」っていうねぎらいの拍手喝采なんですよね。役者冥利に尽きるのではないでしょうか…
 公演は残り10日ほど。新鮮さを失わず、ますます盛り上がることを祈っています。れいこが加わってのさらなる新生月組のさらなる飛躍に、期待しています。

***

 9月27日に東京宝塚劇場にて開催された、「第11回演劇フォーラム 宝塚歌劇と海外文学」なるものにも、お友達にお誘いいただいて参加してきました。おかげさまでSS席聴講(?)になりましたが、思った以上に楽しい2時間弱のトークショーになりました。
 第一部はまず、演劇評論家の大笹吉雄氏による、日本演劇における海外文学作品の上演についての概要、みたいなレクチャー。明治以降、シェイクスピア、イプセン、ロシアもの、フランスものというよっつの入り口があったこと、当時女優が洋装で舞台で歌うことがどれだけ衝撃的なことだったか…など、楽しくお勉強できました。
 続いて植G…というのは失礼ですね、植田紳爾氏による宝塚歌劇における海外文学作品の上演について。1917年にもう『クレオパトラ』をやっていて、これはつまり史実ではなく戯曲『アントニーとクレオパトラ』をやっている、ということなのでしょう。植田先生は脚本の師匠から原作のあるものの脚色なんかやるな、と指導されていたそうですが、実際にはそんなことは言っていられなくて、いろいろ手がけざるをえなかったとのこと。
 入団年に上演された『赤と黒』では上がった脚本が戯曲っぽくて上演台本としては使えなかったということなのか、助手以前の若手四人がかき集められて書き直しを命じられ、なんとか間に合わせたものの初日に生徒に台詞がまだ全然入っていず、舞台のベッドの下やら洋服箪笥の中やらに隠れてプロンプターを務めたそうです。生徒が芝居で箪笥の扉を開けようとするので中で必死に扉を引っ張って止めたとか、すごい話に大爆笑でした。
 『ベルばら』ブームのあと次に何をやるかすごく悩んで、スケールの大きさから『風共』を考えていたのだけれど権利関係が大変そうで、でも契約できちゃってがんばって…という話もおもしろかったです。当時レット・バトラーに髭をつけるか否かが大論争になって、二枚目スターに髭なんてとんでもないという拒否反応も大きかった中、「宝塚だからあれはムリ、これはダメ」という風潮に風穴を開けたくて、やらないでやめるよりやってみて駄目ならやめようとトライしたこと、ショーちゃんが家でも一日中口髭をつけて生活してみて必死に慣れてくれたこと、それでも公演が東上する際には当時の新聞に「髭は箱根を越えるか(東京公演では髭をやめるのではないか、の意)」と騒がれたこと…などなど、知っていた話も多かったけれど改めて聞くといろいろすさまじく、おもしろかったです。あと春日野八千代を「石井さん」と呼んじゃうのもツボでした。
 『戦争と平和』が長く再演されていない話も出ましたね。私は生には間に合っていないのですが、人気があったと聞いています。またやればいいのになあ…もう新作はけっこうですと言いたいですけれど、変わらずお元気で、宝塚歌劇と舞台に愛情があるのはとてもよくわかったので、ちょっと見直した楽しいトークでした。
 さらにイケコこと小池修一郎氏が登場して、『ヴァレンチノ』から始まる自作を語ってくれました。どちらかというと海外ミュージカルの輸入翻案が多くて、海外文学の上演というテーマから外れる部分もありましたが、最新作はもちろんデュマの小説『三銃士』が原作なわけで、これまたおもしろトークが炸裂しました。
 『エリザベート』ガラコンなんかでは人生経験を積んだOGの歌の上達に感動する、みたいな話もおもしろかったし、どこの組で誰主演でいつこの企画で、と劇団から振ってくることもあるので、生徒の持ち味に合わせたり前後の作品と被りがないよう留意すること、宝塚では脚本と共に演出も担当するので、夢ばっかりの設計図だけを書くのではなく納期や予算も考えた現場工事部分も請け負うようなものだ、という話も興味深かったです。
 今の月組は、トップスターが組長・副組長を除けば一番の上級生で貫禄もあって…という構成ではなく、ややイレギュラーな、トップスターより上級生のスターが何人もいる構造になっているけれど、だからこそダルタニアンと三銃士もいいユニット感が出た、という話はおもしろかったです。四人だと偶数なのでセンターがなく、トップスターがセンターでないなんて異例なんだけれど、今回に限ってはそれがかえっていいのではないか、と言うのですね。下克上というか、下級生が上級生をちゃん付けして呼んじゃうようなビックリの組もあるんだけれど、珠城さんはトップスターにもかかわらず上級生たちに対して敬語を使うし前を通るときは頭を下げるし、でも上級生たちも珠城さんをタテ、支え、口先だけでない仲の良さ、雰囲気の良さ、チームワークの良さがあって、そのバランスの良さが作品にも反映されていると思う、とのこと。「ホントはそんなこと思ってないだろ、なんてことがないんですよ」とか、「ファンのみなさんにはいろいろ思うところもあるでしょうが」とか言っちゃうところもおもしろかったです。
 厳密な歴史劇ではないので衣装や音楽でも遊んでみた、などと語るときは、イケコ自身も新たなチャレンジを楽しみおもしろがってるんだな、と感じられて興味深かったです。
 15分ほどの休憩を挟んで、第二部は珠ちゃぴみやちゃんがゲストでトーク。
 衣装が暑いとか重いとか、立ち回りがすべてカウントがついていて、でも音楽と綺麗にハマったときには感動したとか、客席も東西で反応が違うような、でも壁ドンは鉄板でウケてくれるとか、いろんな話が出ましたが、基本的に珠みやが「るりさん」「りょうちゃん」としょっちゅう目を見交わしているのが萌え萌えでした。ひとりだと、あるいはちゃびとふたりだとしっかりするのに、みやちゃんがいると任せて甘えたになるよね、珠城さん…(*^o^*)
 それから、三人が語るそれぞれのツボ、の話がおもしろかったです。ちゃぴがみやちゃんのツボを、みやちゃんが珠城さんのツボを、珠城さんがちゃびのツボをかたる流れのはずが、珠城さんだけみやちゃんのツボも語るという強火担っぷりで。
 まずちゃぴは、アラミスならまあ懺悔ソングとか酒場の立ち回りでのラストに髪をふっと払うところなんかを挙げそうなものですが、ダルタニアンとベルナルドが熱くやり合い始めるときにアラミスがルイーズをかばってくれるところの、その優しさ、紳士らしさを挙げるのが、なかなかマニアックでよかったです。というかふたりのほぼ唯一の絡みであり、アラミスにとっても客席下りを除けばほぼ唯一のアドリブ・ポイントだそうです。
 みやちゃんは、仮面舞踏会に紛れ込んだダルタニアンとルイーズが銀橋に出て、ルイーズがわかばちゃんマリー・ルイーズの目からダルタニアンを隠そうとしたりするくだりの、ふたりの目配せが好きなんだそうです。広い舞台で、あんなにたくさんの人が出ている場面で、だけど無言で通じ合ってるふたり…みたいなのに萌えるらしい。こっち側ですねみやちゃん!(笑)
 そして珠城さんは、単にちゃぴの可愛いところを挙げるんじゃないところがすごくらしくてよかったです。珠城さんのツボはルイーズがアンヌ皇太后に「もうこれ以上嘘はつけません、マリア・テレサにではなく、自分自身に」みたいなことを宣言するところ、だそうなんです。ずっと親やマザランの言いなりできたルイーズが、ついに、自分自身の真実の想いをきっぱり告げるところに感動するんだそうです。すごくらしくないですか!? みやちゃんが「真面目だ…」とつっこんでいました(笑)。
 返す刀で珠城さんが挙げるみやちゃんのポイントは、クライマックスの立ち回りの際にダルタニアンに「恋人を助けに行け」みたいに言ってくれるところ、だそうです。「恋人」という表現がアラミスっぽいんだそうな。私はダルタニアンの返しの「メルシー!」も大好きです!!(聞かれていない)
 ニマニマしていたらあっという間にお開きのお時間でした。最後のご挨拶もものすごくきっちりしっかりしていて、任せて安心の三人でした。珠城さんは黒のスーツ、ちゃびはピンクのワンピ、みやちゃんは白ドットの黒ジャケットにグレーのパンツだったかな? 細くてお洒落でした。そして珠城さんはホント脚が長いなー! 眼福でした。
 公演のお疲れも見せず終始ニコニコの三人に、すっかり癒やされたひとときでした。楽しかったです!!








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まぁ様サヨナラショー大劇場前楽雑感

2017年09月25日 | 日記
 宝塚歌劇のサヨナラショー、というものが今のようなスタイルにおちついたのは、その長い歴史の中で見ればごく最近だとも聞きます。でも、それこそ最近ではライブ・ビューイングもほぼ毎回開催されるようになりましたが、生で観劇する・できるのはごくコアなファンのみ、またそうあるべき…というイメージが私にはあります。私も、宝塚歌劇ファン歴25年になりますが、ごく初期に確か仕事の関係か何かでノンちゃんの東京大楽を観せていただいた他は、大空さんのサヨナラショーが初めての生観劇だったと思います。
 その後、やはり宙組つながりで、テルは東京前楽を観劇し、みりおんは東西とも観られました。で、今回、まぁ様の大劇場前楽をお友達のおかげで観劇しまして、帰京したところです。これで『神クラ』遠征は終了でございます。

 最近のサヨナラショーは涙、涙のしっとりモードばかりではなく、組子みんなで盛り上がるような構成のものも多いかな…という印象ではありましたが、まさかこんなにヒューヒュー言うノリのサヨナラショーになるとはさすがに思っていませんでした。でもさすが宙組の太陽、七代目トップスターは明るく楽しい新たな風を組に吹き込んでくださいましたよね、さすが「なじめるか心配だったけど二日でなじんだ」ですよ!(笑い) 我々も『A Motion』で培った(残念ながらサヨナラショーには登場しませんでしたが)歓声盛り上げスキルが発揮できて楽しかったです!

 幕開きはお披露目公演だった『王家に捧ぐ歌』より、「エジプトは領地を広げている」。まあぶっちゃけ想定内ではありました、でもセンターのセリ上がりで見るとやはりまた違った感慨がありましたね。私は気づかなくてあとでレポツイで知ったのですが、前奏に花組時代の『マラケシュ』かな?のフレーズがあったとか。愛だなあ!
 で、きらびやかな軍装ラダメスの登場だったんですけれど、なんかホント今さらなんですが、そのコスプレ力に私は心打たれました。
 まぁ様って、飾りのないシンプルな黒燕尾で端整に踊るのが一番いい…と総括されるスター、になるのかもしれません、今後、卒業後、歴史の中で。でも、たとえば宙組デビューが『銀英伝』の忠実な副将にして親友、のっぽで赤毛のスラリとした軍服姿が印象的なキルヒアイスだったように、こういうハッタリの効いたコスプレ・パフォーマンスもすごく魅せるタイプで、そういう点もすごく宙組トップスターとして似つかわしかったな、と改めてすごく感動したのです、私は。
 じっくり台詞から入ったので、本公演で振り返ったら拍手!と同じタイミングで拍手が入れられたのも楽しかったです。

 ジャン!と決まって暗転、したら愛ちゃんがデーハーな『ビバフェス』プロローグのお衣装で花道にズカズカ出てきて、逆サイから卒業するありさ、ゆうりちゃん、しーちゃん、まやちゃんが出てきて、『ビバフェス』主題歌を熱唱。こちらも楽しく手拍子!
 愛ちゃんがセンターを占めて娘役ちゃんたちをはべらかしてニマニマしてるかと思えば、途中では位置を入れ替えて下手に控え、娘役ちゃんたちがそれぞれソロをワンフレーズ歌うのを立てるのもツボでした。

 で、ここも決まって暗転して、でもブツ切れ感がしないのがさすがで、すぐにドンドコ太鼓が鳴って、照明点いたらまぁ様センター、組子が法被姿で勢揃いのソーラン節ですよ! そりゃテンション上がりますよねこちらもヒューヒュー言って手拍子ガンガン入れてコール&レスポンスの掛け声飛ばしますよね!!
 しかもまぁ様は客席降りしてくださいました! もう声上げるよね、しみついてるもんね、「どっこいしょーどっこいしょ! ソーラン宙組!! ハイハイ!!!」拳だって振り上げますよね!!
 ゆりかセンターのリプライズまでバッチリやって、ここもヒューヒュー言って楽しく盛り上がって終われて。

 そうしたら正統派燕尾とはまたちょっと違う、お洒落ボウタイのまぁ様が現れて「チーク・トゥ・チーク」を歌い出しましてね…プレお披露目の『TOP HAT』ですね。みりおんはいないけれど、ます初舞台の星組カラーのブルーのドレスのまやちゃんが現れて、続いて花組カラーのピンクのドレスのしーちゃんが現れて、そして宙組カラーのパープルのドレスのありさが現れて、まぁ様を囲んで踊り、でもゆうりちゃんはここに現れないのです。特別枠なんですね…!とすでに逸る私の心。
 そうしたらまぁ様が『翼ある人びと』から歌い出し、スモークが焚かれ、銀というかグレーというかクララ仕様のドレスのゆうりちゃんが現れて、あのフィナーレの、決して触れ合わない、けれど誰より心が近いデュエットダンスを展開し…ほぼほぼシメでまぁ様がツルッと足を滑らせてスリップ転倒したのはご愛敬でしょう。イヤ悲鳴上げたけどね! 照明がすく落ちてすごいなと思ったけれどね!!
 でもすぐスタッと立ち上がったまぁ様がゆうりちゃんに笑顔で近づいていって暗転…だったのですが、さらに神展開だったのが、照明がついたらゆうりゃんがいたところにトランク持ったゆりかちゃんスタンがいて、『メランコリック・ジゴロ』の寸劇(笑)が始まったところです。さっきのアクシデントも笑いに変えられたのです! さらに、初演『メラジゴ』でヤンミキがやった、歌いながら銀橋にどっちが先に出るかの鍔迫り合い小芝居を、まぁまかで再現してくれたのです!! 『メラジゴ』は中日劇場での再演以降、ずっと銀橋がないままでしたから、これは感無量でした…!

 なのにふたりが銀橋渡って下手花道まで来たら、せーこ早見くんが待っていてこれまた客席から拍手喝采! 愛されてるなあ!! まぁ様に吸水して、その間にゆりかちゃんはルイに変わって「楽しみにしておるぞ、余の小説!」と次代を匂わせて去り、まぁ様は右京さんモードでクネクネしながら主題歌を歌い、またまた客席は大笑い&拍手喝采!
 から『エリザベート』トートになって「最後のダンス」ですよまぁ様怖い…!!!

 そうしたらまた意外なことに『HOT EYES!!』全ツ版とでも言いましょうか、「Loving Eyes」をゆうりちゃんが大階段に上がって歌い出し、しーちゃんがコーラスをつけ、愛ちゃんがありさと踊りずんちゃんがまやちゃんと踊るという神場面が…! というかこのくらい本公演『クラビジュ』でもピックアップがあっていいと思いましたけれどね!?
 まあそれはともかく、ここのありさのドレスの裾さばきが本当に素晴らしくて、それはそれはきれいな弧を描いていて、宙組の娘役にはそういうスキルを求められているように見える場面はなかなかなかったかと思うのですけれど、ちゃんとやれているよさすが上級生だよみんな見習って受け継いで…!と祈りましたね…!
 ありさはこの場面の最後のシメも歌ってくれました。そうだよねシンガーだもんね…!

 そうしたら黒燕尾の男役たちと白いドレスの娘役たちが出てきて、大階段に板付いた金のアシンメトリーのスタイリッシュなお衣装のまぁ様を迎え、『Shakespeare』より「Will in the World」…!
 いい曲でした、いい作品でした…! みんなでまぁ様を囲って、みんなで歌い上げて…感動的でした。

 本当に気持ちよく手拍子し拍手し声を上げ、一緒に懐かしみ喜び泣いたひとときでした…!
 電飾サインがなかったのは残念だったけれど、『A Motion』を思わせるAのマークと「Manato Asaka」のロゴサインは出ました。
 花組時代はDSでおさらいするのかもしれません。エース!エース!が全員でできなかったのは寂しかったかな。でも本当に楽しい、盛りだくさんな、愛たっぷりのサヨナラショーでした。担当は稲葉先生なんだと思うけれど、ありがとうございました…!
 
 個人的に「おおお」と思ったのがいわゆる第二場で愛ちゃんが卒業する娘役四人をはべらせる大役を務めたことです。イヤ『HOT EYES!!』で娘役ちゃん四人とやってましたからあるかなとは思っていたのですが、『ビバフエス』というのが意外でよかったし、三番手スターがサヨナラショーでこんなにちゃんと場面を担わされるのって意外にないと思うので頼もしいやらうれしいやら出した。キキが来るけど大丈夫だからね!って気合いを感じました。いやキキちゃん自身に含むところはありません、組替えに関しては思うところはありますが。
 でもでも、ありさは同期だしゆうりちゃんは『SANCTUARY』の相手役ですもんね、ふさわしいですよ!
 それで言えば愛ありさ、ずんまやのダンスにあきりく出して四組で踊ってくれてもよかったんですよ? でもずんちゃんですかまあそうですよね、とも思いましたし、あそこできちんとゆうりちゃんに歌わせるのにはなんというか意地みたいなものを感じたのでこれも結果オーライです。贔屓的には再びの熱くノリノリなソーラン節が見られたので満足です。
 次は『WSS』に出してあげたかったけれどね、再演希望していたのに出られないなんてしょんぼりだろうな。でもまかキキがあっちなんだからまあ振り分け的に仕方ないかなとも思っていました、なんにせよ楽しみです。『不滅の棘』は私は生では見たことがなくて、スカステで見たときに「変わった作品だな、私は嫌いじゃない気もするけどあんまウケなかった作品だったんじゃないかな…」という印象だったので(^^;)、再演には驚きましたしどう出るか謎だけれど、どのみち通わないという選択肢はないのだし、期待しています。アサコの役よりユミコの役、とか言う人が多いようだけれどどうなの? 細かく覚えていないのです。というか似合わない役をあえてやってもらいたい気もするけれどな…?
 そして夏の『WSS』には出ていただきたいけれど、もちろん裏のバウ主演でも支えますけれどね…?とか思い出すと、もう早くも来年の手帳を手に入れて予定を算段しないとね、と気忙しいのでした。

 でもまずは明日の千秋楽を無事に終えますように。『神土地』、ここに来てまた台詞が初日バージョンに戻った箇所があったりしたからな…! 『クラビジュ』もサファイア場面の逆立ちリフトがなくなったり…まああれはやっぱり見ていて危なっかしげだったりそこまで美しくは感じられなかったりしていたので、改変はありがたいですが。
 ともあれ生徒になるべく負担のないように、その上で万全の舞台を務めていただきたく…東京でお待ちしています。珍しく初日に行けないのだけれど!(><)
 コンスタンチンくんと、流れ者SAYATOと、幻に早くまた会いたいです…!




 



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『円生と志ん生』

2017年09月17日 | 観劇記/タイトルあ行
 紀伊国屋サザンシアターTAKASHIMAYA、2017年9月13日18時半。

 昭和二十(1945)年夏から二十二年春までの六百日間、旧満州国南端の大連市内のあちこちを舞台に、慰問に行ったふたりの日々を描く。作/井上ひさし、演出/鵜山仁、音楽/宇野誠一郎。全二幕、10年ぶりの再演。

 落語のことも落語家のこともほとんど知らないで観に行きましたが、とても楽しく観ました。ちょいちょい出てくるは出てくるので落語にくわしい方が楽しいんでしょうけれど、私程度の知識でもわかるところもたくさんありましたし、落語家の落語の話ではまったくないので、いいのです。
 慰問で落語をするために満州に渡ったんだけど日本が戦争に負けてしまってそれどころではなくなって、さてどうするよ?ってところをただうだうだしている仲良しふたり組の話…ってなもんだからです。
 円生こと山崎松尾(大森博史)と志ん生こと美濃部孝蔵(ラサール石井)は通し役ですが、女優陣四人は各場面によって役柄を変え、コロスのように歌います。ミュージカルなんですね。筆頭は大空さんで、どの場面でもキュートでしたし、コーラスでときどき下のパートを担当しているのがツボでした。こまつ座に出たいとずっと思っていたそうですが、ご縁があったのがこの作品でよかったです。大空さんが好きそうな小難しい作品ではなくて(笑)、ほっこり笑ってちょっと悲しい…みたいないい作品で。
 そう、下手すると人情ドタバタ喜劇になりそうというか、なんてことない日々をただ男ふたりがうだうだしているのをおもしろおかしく描いているように見えかねないんだけれど、ちゃんと井上さんっぽい批評眼というかが効いていると思っています。男たちはそのままだけれど、女たちは男たちが作った世の中やその時局に合わせて姿を変えざるをえない。女優四人がやっているのはそういうことだと思います。帝国軍人の現地妻からロシア兵相手の娼婦、アカがかった学校教師、貧民への炊き出しをしている修道女…いつの時代ものほほんとしているのは男どもだけで、虐げられそれでもけなげに働くのは女たち…ということのようにも思えます。
 実際には、ふたりが慰問で満州に渡った事実があるだけでエピソードは完全に創作だそうですし、それでこそのお芝居でしょう。そして帰還後のふたりの芸はすごく良くなって評価も人気も高まったそうですが、それがこの時期に本当にこうしたことがあったせいなのかどうかは、また全然わからないことですし別のことなのでしょう。やっぱり、戦争はいかんな…というのか結論です。

 そうそう、女優のひとり太田緑ロランスが、舞台だと単に背の高い美人に見えて別に浮いていないのがおもしろかったです。まあ遠目に見ているからかもしれませんが。プログラムの写真はとてもバタくさい(古いし差別的な表現ですよね、すみません)顔立ちだし、当人も「私はダブルで、見た目があまり日本人らしくないため、映像だと役が狭まる部分があ」ると語っています。そう、でも舞台の魔法、というか論理ではその役に見せられればなんにでもなれるんですよね。
 四人とも達者で歌も良かったし、林勝哲の軽快なピアノ演奏も素敵でした。普段と違う、こまつ座らしい観客で埋まる客席で、それもなかなか味わい深かったです。


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『神土地』ル・サンク&新公雑感(&澄輝日記7.75)

2017年09月11日 | 澄輝日記
 私の大劇場観劇予定も早いもので残り一回となりました。生徒さんたちのお茶会レポツイなどから漏れ聞こえてきた話なども含めて、舞台から得るものは観るたびにいや増しているところへの脚本付き「ル・サンク」の発売です。読んでみて、「ほうほう」というところや「おやや?」というところ、改めて感じたこと考えたこと…などをつらつら書いてみたいと思います。
 個人的には表記にこだわりがあるので「…」とか句読点とかのニュアンスも重要視したいタイプで、「でも今こうなっていないよね?」というところも多々見受けられますが、『AfO』に関してイケコが言っていたようにこれも読まれるための戯曲ではなくて、最終的に舞台になったものを観てもらうための台本にすぎないんだろうな、とも思っています。ともあれ初日の記憶や今の舞台と違う点や、プログラムと違う歌詞などもありますので、そのあたりも見ていきたいです。


●第1場A ペテルブルク近郊〈1910年 夏〉

 のっけから本質とまったく関係ない点ですみませんが、「ドミトリー(ダミー)」って表記がちょっとおもしろかったです。
 この、紗幕の向こうで展開される、開演アナウンスより前のアバンみたいな皇帝暗殺未遂事件(結果的にイリナの夫セルゲイ大公が死ぬ)場面のドミトリー役はもえこがやっているのですが、何故なんでしょうね?
 5年前でかなり若かったのです、ということを表したいのであれば、たとえばイリナだってららたんがやったりしていてもいいのかもしれないし…それとも単に、主役のまぁ様はあとできちんと出してあげたかったのでここはあえて、という配慮なのかな?
 個人的にはここのもえこドミトリーのことをヤング・ドミトリーと呼んでいたので(^^;)、そうでない表記にちょっとウケちゃったのでした。
 パレードの間、このドミトリーはイリナしか見ていないんですよね。皇帝のことも周りの民衆のことも目に入っていなくて、顔が完全にイリナの方を向いちゃってるんです。護衛としてはまったくなっていないんだけれど、ここでは皇族としてパレードに参加しているんだろうから、そこまで求めるのは酷なのかな? ともあれいじらしくて微笑ましくて、そして悲しくなります。
 
 続く開演アナウンス、雷鳴、稲光に浮かび上がる次の場面のパーティー客たち…という展開、素晴らしすぎます。


●第1場B モスクワ郊外 セルゲイ大公邸〈1915年12月 冬の午後〉

 クセニヤ「また昨日もあったのですってね」
 ロパトニコフ「駅で三人死にました」

 ロパトニコフ長官の「職務」が要人警護やテロ対策であること、昨日駅で起きたのがテロ事件であること、ははっきり語られないまま進む会話がいかにも、です。普通の会話ってそういうものだし、でももっとわかりやすくするために少し言葉を補ったら?と言いたくなる気もするけれど、これで十分類推できる気もするし、それが出来なくてここで脱落するお客がいるのは仕方ない、と判断しているのかもしれないし…という、くーみんらしい台詞だなあ、と思うのでした。
 しかしジナイーダってのは困った女性ですねえ。美至上主義、快楽至上主義の享楽家というかなんというか…女相続人、ということですが、食べるもの着るものにまったく困らない豪奢な暮らしをしてきた人なのでしょうか。まさにフェリックスの「ママ」ではあります。
 のちの場面での「ぺとろぐらーど(ぶるぶる身震い)」って表記には笑ったけど。せーこの言いようはそこまで変ではないけれど、十分ニュアンスが出ていると思います。


 イリナ「あなたが彼にこだわるのは何故?」
 フェリックス「…本人の気が変わったら、いつでも我が家のドアは開いています」

 ここの「…」が重要だと思うの! でもいつもゆりかちゃんはわりとさっさと言っちゃうというか、それまでの会話のテンポと同じ調子で言っちゃうからこの間が感じられることがあまりないの!
 イリナの質問に対して答えづらくて、全然違う話にすり替えている感じをもっと出したらいいと思うんだけどなー。くーみんからのダメ出しは出ていないのかなあ。ちなみにゆりかは声かこもるタイプでこのくだりの台詞も当初はかなり聞きづらかったけれど、今は努めて明晰に発音することで聞かせようとしている意志が感じられます。そのダメ出しは出ているんだと思うんだけどなあ。


●第2場 大公邸近くの雪原〈同日 曇天・雪〉

 イワン「旦那は皇帝の従兄弟でロマノフの皇子でさ…本心は言えん…」

 初日は確か「皇帝の従兄弟で」がなかった気がします。これはいい追加だと思います。単なる貴族、皇族ではなくてそんなにも皇帝に近い血縁、ということは明示されていていい。イワンはおそらくセルゲイ大公の領地の小作人で、農閑期にはセルゲイやドミトリーの猟の手伝いなんかもしてきて、おそらくセルゲイもドミトリーも気さくでイワンも身分の違いはあれど心安く応対してきたんだろうし今もそんなノリで会話してきたんだけれど、でも、だからこその「本心は言えん」というか、そういう言い方で言いたいことを言っているというか、なのが本当に上手い。
 そしてこのイワンこそが農夫、農民、一般市民、一般大衆の象徴的存在なのではないでしょうか。地域に根差して堅実に暮らし、お上にちょっとの不満を持ちながらもなんとなくの敬意や親愛も抱いていて…みたいな存在。彼はのちの革命に参加しなかったのではないかしら。あれはやはり一部の突出した人が起こしたとても暴力的なもので、必ずしも国民の総意ではなかったのではないかしら…
 そしてイワンは自分が「農夫」であることに誇りを持っていて、だからラスプーチンが揶揄として「農夫」と呼ばれることを嫌う。でも貴族たちはおそらく「農夫風情が皇帝に取り入って宮廷に出入りするなんて」という形でラスプーチンのことをくさし、ひいては一般大衆のことを軽んじているわけです。その断絶が窺えます。深い。
 ところでそのあとのドミトリーの台詞の「国内ではラスプーチンが皇帝への不信を煽り~」というのは「ラスプーチンの存在が」とした方が良くないでしょうか。ラスプーチン自身は皇帝一家に取り入っているだけで、彼が自らそのことで「こんな俺を信じている皇帝一家なんか信じられないだろ?」って言って回っているわけではないと思うので。


 雪原でのドミトリーとイリナのタンゴに関する6行のト書きが素晴らしい。そう、タンゴはワルツのように華やかに気持ちを開放する踊りではなくて、愛と情熱をステップに封じ込めて戦い合うような男女の真剣なダンスですからね。その好敵手、名カップルのふたりなのです。
 ドミトリーがそのままイリナにキスしようとして、でもイリナが逃れて…というくだりについては逆に細かく書かれていません。演技としてあとからつけられたものなのかなあ。跪くのが「冗談で」となっているのも、いい。
 そしてこの場面のラストでまぁ様が歌う歌は「神々の大地」。歌詞はプログラムにあるものと変わっていて現行の舞台どおり。初日からこの歌詞だったと思うので、プログラムの締め切りがよほど早かったのかな?
 以前の記事でも書きましたが、まずは主役ふたりが別れるところから始まる物語、というのがすごい。そしてこの歌詞がまた、サヨナラ仕様ということもありますが、観客に「お前に託そう この愛」「ここに残す 我が思いを」って迫ってくるんですよ、苦しいせつない悲しい愛しい…!


●第3場 近衛兵隊任官式 冬宮大広間〈1916年1月〉

 マリアが息子でもなく嫁でもなく、まず孫たちに話しかけるっていうのがもう、ねえ…
 そして任官式の緋の大階段、素晴らしいですね。初日は個人的にはあまりのショーアップぶりにくーみんが無理しちゃっている感を勝手に感じてちょっとウケちゃったくらいなんですが、逆に言うとくーみんはそういう「宝塚歌劇らしさ」をすごく大事にしてくれているところもある演出家さんなんですよねえ。自分のやりたいように生徒にやらせているだけで宝塚でなくてもいい気がする、みたいな意見も見ましたが、私はそうは思わないなあ…
 そして二度登場するこの緋色の大階段を、まぁ様は最初は降りてきて、そして二度目は上がっていって終わるんですよね。すごい。

 マリア派の貴族たちから無視されて間が持たなくなるドミトリーが、煙草を出すもののライターがないところに、「フェリックスがライターを出してやる」という表記がまたたまらん。どなたかのつぶやきで見ましたが、ドミトリーに煙草を教えたのはフェリックスなのでしょうかね…


●第4場 ジプシー酒場ツィンカ〈1916年3月 早春の午後〉

 フェリックス「第一級の芸術もいいが~」

 このセリフのそこはかとない、というかむしろけっこうあらわなスノッブ臭がまたたまらん。くーみんのフェリックス像がよく表れている台詞だと思います。ジプシーの歌をほめているようで一級品ではないと貶めている、その傲慢さが、ね。


 ドミトリー「褒美なんていらない。友達になってギターを教えてもらえ」

 本編とあまり関係ないけれど、おそらくドミトリー自身がこうした教育を両親から受けて育った青年なのではないでしょうか。たまたま皇族に生まれついているけれど、それに驕ることなく、周囲の人々と誠心誠意、心を開いて、対等につきあい関係を紡ぐ大切さを彼の両親は彼に教えたのだと思うのです。だからドミトリーは今こうした青年に育っていて、アレクセイにもそう指導してやれるのです。アレクセイの甘やかされたわがまま皇太子っぷりと、言われればちゃんとやれる思わぬ素直さ、変わるかもしれないこと、未来だって変えられるかもしれないこと…を示す素晴らしいエピソードでもあると思います。
 でもそのあとのオリガが席を立つのは「(間が持たなくなって)」とありますが、単に弟のことが心配でたまらないから、というふうに見えるし、それでいいのかなと思います。ここのコンスタンチンたちの緊張と動揺っぷりは毎回けっこうノリが違っていて、主にもえことりくががんばってくれているのも微笑ましいです。コンスタンチンくんはニコニコしているだけですまん…というかそういうキャラクターとされているんですけれどね、後述。
 ところでそのコンスタンチンがフェリックスを押しとどめるのに「(なじるように)」とあるけれど、これも現状はむしろとりなすように、という感じに見えるし、それでいいのではないでしょうか。コンスタンチンはドミトリーより年上だけれどおそらくフェリックスからしても年上で、でも多分フェリックスはそんなことには頓着しないんだろうしコンスタンチンもこういう性格の人だから年長ぶったり先輩ぶったりしないんだろうし、仲間内の討論でもリーダーとして議論を引っ張るようなことはしない人なのでしょう。性格的に穏やかなこともあるけれど、政治思想としても一番穏健派というか中立派なのではないかしらん。それはのちの「…すみません、場合によっては」(この「…」がちゃんと表現されている言い回しになっているの、本当に好き! これも後述しますが、私は贔屓の芝居に内心点が辛いところが常々多々あるんだけれど、今回は一番好きかもしれない…ありがとうくーみん…)にも表れていて、つまり場合によっては皇帝一家の悪口を言っちゃうけれど場合によっては褒めたり認めたりすることもある、ということでしょう。でも多分ウラジーミルとかは熱いし単純だから頭ごなしになんでもかんでもNOなんですよ(笑。個人の見解です)。そういう、このグルーブが実は一枚岩ではない感じも、いい。
 ちなみにこの前振りとなるフェリックスの「中傷だ」という言葉は、ちょっと引っかからないでもないです。言う側の当人がそれを中傷、という言い方で表すかなあ?と。当人たちにとってはそれが正しい意見であり感想であり、でもそれが言われた側からしたら不当な中傷に感じられる、というものだと思うので。でもいい代案がないんだよなあ…それこそ「悪口」じゃ軽いんだよね、オリガが言うにはいいんだけど。


 後述と言いつつここでもけっこうコンスタンチンさんの話をしますが、この流れのあとの「用意してくれた?」がまたいいんですよ。あっきーの明るく優しい声音がいいというのもあるんだけれど、ぶっちゃけ形としては用意「させている」わけじゃないですか。もはやこの花売りの少年は彼が必ず買い上げてくれることを期待して商売しているんだし。でもコンスタンチンにそういう発想はないの、お花屋さんにいいお花を用意してもらって、それに対してただきちんとお金を払っているだけなのであって、だから「用意してくれた?」なの。可愛いな。「用意できた?」「いいの入った?」でもいいかもしれないけれど。まあこういうおこちゃまなところがもちろんゾバールなんかにはダメだってことなんですけれどもね。
 ところで花の病気ってなんなんだろうな…ここには何か設定や裏エピソードがあるんですかねくーみん先生! てかそろそろ私は彼女をちゃんと上田先生と呼ぶべきですよね…

 のちにジプシーたちの踊りになってゾバールに掛け声が飛ぶところは、ロシア語の発音ではなくて日本語訳をつけてほしかったんだけれどな…冒頭の「ウラー」には「(万歳)」ってついてるのにな。残念。ま、やったれゾバールよっ日本一!みたいなノリなんでしょうけれど。

 そしてそのあとのドミトリーの「だが手を携え問題を解決すべき支配者たちは~」というセリフの「支配者」という言葉が、また代替案が思いつかないんだけれど個人的には引っかかるもので。というのも私は主権在民とする国家に生まれ育った者なので、一般市民と支配階級という発想にそもそもなじめないからなんですね。でもこれは貴族の話、皇族ロマノフの物語であり、ドミトリーやオリガが自分たちのことを支配階級だと考えているのは極めて当然のことであり、ドミトリーに至ってはそれに伴う責任まで含めて考えているのだから別に高圧的に感じる必要はないんだけれど、でも私はざらりとするのでした。そして結局そういう感覚が市民革命を引き起こしていくのでしょう、最終的には…


●第5場 ツァールスコエ・セロー アレクサンドル宮殿〈同日夕方〉

 ここの「ラスプーチンの奇跡」という歌も歌詞の和訳が欲しかったです。


 ドミトリー「僕の手落ちでした」

 「僕の落ち度です」でもよかったかもしれません。これはちょっと言葉狩りに通じるレベルかもしれませんが、たとえば「片手落ち」という言い方をしないようにしている流れから考えると、という意味での話です。


 この場面のラスト、皇帝に対するフェリックスの会釈がいかにもぞんざいなのがちょっとすごいですよね。すべての貴族は皇帝の臣下…という感覚はない社会なのかなあ? ロシアのことに疎くてわかりませんが。もちろんフェリックスは単に相手の位が高いからってだけで簡単に頭を下げるような人間ではない、ってのもあるんだけれども。
 続く第6場でニコライとドミトリーを挿げ替えたい、という話のときに、「能力に優れ」っていうのは確か初日にはなくてのちに追加された台詞で、つまり逆に言うとフェリックスたちはニコライは無能だと考えているということを明示したということで、だからそもそも前のシーンでも頭なんざ下げない、尊敬できない相手に下げる頭なんか持っていない、ということなのでしょうね。
 ニコライが本当に政治的に無能だったのかは描かれているわけではないけれど、優しすぎて弱腰っぽそうな感じは十分に表現されています。アレクサンドラと恋愛結婚したことだって、ロマンチックな正義に一見聞こえるかもしれないけれど、一国の君主としては褒められた行為ではないという見方も当然あるわけですしね。


●第6場 ガッチナ宮殿〈1916年6月 初夏の夕べ〉

 脚本では場面Cでマリア、クセニヤと共にジナイーダも廊下に出てきてオリガと対峙することになっているけれど、これはなくなりましたね。もうイーダはイリナを迎えに行っているんですね、きっと。クーデターに関してもおもしろそうだから、今の体制が美しくないから加担している…というようなところがありそうで、真剣に国の行く末を考えている皇族たちとはちょっと距離があるのかもしれません。


 マリア「(オリガに)お前がそんなふうに私に話しかけるのは~」

 これは直前までマリアに話しかけているのがドミトリーなので、そして観客に対して完全に一列になって向かい合って会話しているのでマリアがドミトリーではなくオリガに向けてこのセリフを発しているというのがわかりづらいので(向きを変える、とかの仕草ができるほどスペースの幅がない)、「お前」というのがドミトリーと捉えられて混乱される危険が高い言い回しです。工夫したいところです。


●第7場 ガッチナ宮殿 大広間 舞踏会〈同日 初夏の夕べ〉

 ラスプーチンにひっつかまれたとき、イリナって悲鳴を上げてます? 脚本ではそうなっていますが、私は客の誰かが上げた悲鳴かと思っていました。
 ここのゆうりちゃんの背中、肩甲骨がどんどん緊張で硬くなっていくのがわかる、とつぶやいていたお友達がいたな…すごいな…
 そしてラスプーチンはイリナに何をささやいたんでしょうね? 脚本にも「何か」とだけにされているので、実際のささやきの中身よりも何かがささやかれたことに眼目があるのでしょうが、たとえば愛ちゃんは何をささやいたこととしてお芝居をしているのかとか、ちょっと聞いてみたい気もします。
 今回の脚本・演出は本当に、書く必要がないことは書かない、見せる必要がないものは見せない、という取捨選択が絶妙なのも素晴らしいな、と改めて思うのでした。


 フェリックス「ドミトリーの婿入りなんぞ僕は絶対に反対だ」

 これは初日は「縁組」だったと思います。いい改変です。縁組という言葉は既出だし、婿という言葉を使うことで揶揄が強まっていますしね。


 ドミトリー「婚約披露の集まりに来てください」

 誰と誰の婚約なのか語らないんですよ、でもあの流れでドミトリーがオリガとの結婚を決意し承諾し婚約したのだということがわかる芝居になっているんですよ、素晴らしい。


●第11場 冬宮〈1916年12月30日〉

 ドミトリーとラスプーチンの泥仕合云々のト書きはまさしく読ませるためのものではありません。意味として、意図として、お芝居で出せるものでもないとも思います。でも、そういうことの帰結であるのだ、という表明を演じる生徒にしておくことは重要でしょう。うなりました。
 愛し合う者同士が愛を選択する、という単純なことができないと、とたんに世界は破綻し崩壊し滅亡する、ということなのですねくーみん先生様…!


●第12場 賽は投げられた

 フェリックスが歌う歌詞は、それでも彼の本心の一部にしかすぎない気もします。
 彼は貴族ですが皇族ではないし、国家のこともロシアのこともドミトリーが愛するようには愛していません。でもドミトリーがロシアを一番に愛しあくまでロマノフとして生きようとしていることはフェリックスも知っている。だから、だったら彼にロシアをやる、それが俺の愛だ、ってなもんなのでしょう。ふたりで治める、なんてめんどそうなことは実はあまり考えてなさそう(笑)。そういう支配欲はない人なんじゃないのかなあ。
 あるいは彼が欲しがった「世界」とは、彼とドミトリーがふたりだけで生きていける世界のことだったのかもしれません。でもそんなものはそれこそこの世のどこにもありえないんですよね…
 ところで、なのでここの歌詞がまだまだ聞き取りづらいのはけっこう問題だと思うので、ゆりかちゃんなのか音響さんなのか、もうちょっとがんばっていただきたいです。


 ゾバール「ラスプーチン打倒の救世主を、皇帝は死に追いやろうとしているぞ!」

 打倒、という言葉がなんかちょっと引っかかるんだよなあ、軽いというか、ちょっと単なるスローガンに聞こえるというか。実際にやったことは暗殺、殺人なんだし。でもいい代替案がない…まだラスプーチンを倒した、あるいは打倒した、のほうがいいのかもしれません。


●第13場 モスクワ郊外 セルゲイ大公邸〈1917年1月 深夜〉

 ポポーヴィッチ「革命屋がそこら中壊して回って、今夜はどこも停電しております」

 イワン同様、彼もまた革命には与しなかった一般市民のひとりなのではないかと思えるのは、革命家とか活動家とか言わないで「~屋」という蔑んだ言い方をしているからです。もちろん貴族に仕える者として心情的に貴族側にいるせいもあるのかもしれませんし、意外に(?)学があってちゃんといろいろ勉強していてその上でこういう形の革命には反対である、というような設定でもおもしろいのかもしれませんね。
 モンチ、ホントいい仕事します…
 ところでこの場面Aの締めのト書きは「場面は消えていく」ですよ。イリナの手がドミトリーのマントをつかんでいくのばかり見ていますが、同時にポポーヴィッチが起こした暖炉の火が消えていくんですよね…それはもちろん暗転だからなんだけれど、いやぁ…素晴らしい。

 翌朝現れるフェリックスの台詞には今は「ペルシャに行けば死ぬぞ!」が追加されていて、まあ言わずもがなな気もするけれど、とにかくフェリックスがドミトリーを救いたい、というのは伝わるので、あってもいいのかなと思います。


●第14場 大公邸近くの雪原〈同日 冬の朝 晴天〉

 ドミトリーとイリナが交互にロシア語の単語を言って意味を答えるくだりは、日本語でやっているロシアものの芝居だから成立するものですよね。本来ならロシア語とドイツ語? それともふたりの最初の共通言語は英語かな? どちらにせよリアルにやられたら私たち日本人にはワケわからないわけです。おもしろい。
 イリナのさりげない「あなたがいたから、私はこの国を好きになった」という台詞は、もしかしたら最大級の告白ですよね。ドミトリーの存在によってロシアを好きになり、ロシア人になろうとした、ドイツ人である自分や娘時代の自分、「イレーネ」だった自分を封印し、切り捨て、イリナとして生まれ変わった。彼女がイレーネと呼ばれて「イリナよ」と言い返すたびに、彼女はドミトリーによって生まれ変わらせられた自分を意識し、ドミトリーへの愛を自覚してきたのではなかろうか…静かに、ずっと。ただ口にしなかっただけで。言ってはいけない感情だったから。
 でも、そういう縛りなんて「くそくらえ」なんです。教科書、規律、規範、ルール、常識、法律、世間の目…外国人だからとか未亡人だからとか叔母と甥だからとか皇族だからとか貴族だからとか全部うっちゃって、ただ好きな者同士がただくっついたって本当はよかったはずなんです。でも、できなかった。「でも駄目だった」というジナイーダの台詞がのちに別の意味でありますが…
 ト書きに「イリナは泣いている」とありますが、いつもゆうりちゃんは本当にぐちゃぐちゃに泣いていてでもやっぱり美しくて、胸に迫ります。
 ドミトリーはイリナを抱きしめ、涙をぬぐい、しかし車の音がしたので離れる。フェリックスの「…車で待つ!(腹を立てたように去る)」は絶品です、今のゆりかちゃんにしかできないと思います。
 フェリックスはもちろん怒っています。ドミトリーが翻意してくれないから、ドミトリーが自分のものになってくれないから。せめて命だけでも救いたいのに、イリナも協力してくれないし。でも、彼のために、ふたりのために、最後にふたりだけの時間を残してやる。だから先に立ち去るのです。そしてドミトリーの言うとおりに、列車に間に合うよう駅まで送るのでしょう。それが彼の愛なのです。なんて可愛らしい人なのでしょうね…
 やっぱり非常に難しい、見せどころがあるようなないようなキャラクターだと思います。彼が成し遂げたことはほとんど何もありません。でも、いなくていいということではない。それでは全然違う物語になってしまう。彼は確かにドミトリーもイリナも愛したのでしょう。ゆりかちゃんはお茶会では特にイリナに対してはそうは言っていなかったそうですが、それでも、ね。
 最終場の、「在りし日の人々の姿が舞台を行き交う」で、フェリックスがどんなふうに何をしているのか、すみません見られていません。でも彼の愛もまた確かにこの大地に今もあって、覚えられているのです。大地に、私たちに。
「覚えていてくれ 僕が全てを忘れても」と歌われているから、私たちは覚えている。決して忘れない、かつてこうした物語が、芝居が、舞台があったことを。こうしたスターたちがいたことを。歌い踊り、輝いていたことを。託されたから、残されたから。だからずっと見守っていくの、待っているの、すべての魂が戻ってくるのを…簡単に泣くことすらはばかられる、重いものをつきつけられる、最高のサヨナラ仕様のラストシーンです。
 そこで行き交う人々の姿は、ありえたかもしれないもの、何か幻のような、天国のような幻想のような、そんな理想的すぎるものではありません。かつて一度は確かに存在したものなのです。談笑するアレクサンドラとイリナ姉妹も。元気に跳ね回るアレクセイも。ご機嫌そうなラスプーチンだって。
 でもコンスタンチンとラッダの視線は合いません。彼らがかつて持った幸せな時間はこの大きな歴史の時間の中できっとあまりにも短すぎて、ここではうたかた扱いなのでしょう。彼らはともに自分たちが属するグループの中で歌い踊り、並行するまま逆走してまた離れていきます。コンスタンチンが、そしてウラジーミルもロマンも最後に一度立ち止まって何かを探すような、不安そうな表情を見せるのだけれど、でも結局はそのまま去っていくのです。それが人生です。
 だから最後にドミトリーとイリナが残って、歩み寄っていくようにして終わることこそが夢、幻なのかもしれません。あるいは魂では常にいつもそうだった、ということの表れなのかもしれません。
 雪がふたりにただ静かに美しく降り注ぎ、合わせて幕が下りる…これは、そんな作品だったのでした。

 そういえば前回の記事に耳で聞き取ったつもりでいた歌詞を上げましたが、一部間違っていました。
 正しい歌詞はみなさん「ル・サンク」をご参照ください。
 ところでこの歌は録音なんですね? ずんちゃんは普通に舞台に出ているもんね? 生歌だとだんななんでしょうね…


※※※

 というわけで、友会が当たりまして19列目どセンターという演出家目線で大劇場新人公演も観てきました。
 みんななかなか健闘しているような、でもやはりまだまだ歯が立っていないなと思うような、おもしろい観劇になりました。少なくともひとつの作品として見せよう、とするのはかなりハードルが高かったかな。たとえば最近だと『グランドホテル』の新公なんかはもうひとつの役替わりの域に達していたと私は感じたのですが、そのレベルではなかったと思いました。
 でも各生徒がこの役にこうチャレンジした、こうアプローチしている、というのはみんなくっきり見て取れました。それだけでもたいしたものなのでしょう。
 新公担当もくーみん。指導が厳しいと聞きますね。でも絶対にみんなの血となり肉となり、財産になることでしょう。

 もえこドミトリー、冒頭の「ダミー」も当人がやっていましたね(^^;)。
 持ち味として、もっと内向的っぽい、巻き込まれ型のキャラクターにはまるタイプだと思うので、「何のためにどう生きるかは自分で決める」と言っちゃうような役はなかなか難しかったかな、と思いました。でもニンでない役をやりこなしていくことも役者には必要だからなあ、がんばれ!
 あと、歌がいいのはとにかく武器なので、よりいっそう磨いていっていただきたいです。

 話題の研一ヒロイン(初舞台からの時間という意味ではあみちゃんに次ぐ短さだとか)夢白あやちゃんイリナ。というか本公演ロケットでもとても目立っていて、でも下半身がガリガリすぎて私はちょっと怖いんですけど、ショーではとなみに似て見えましたが新公ではスミカにも似て見えました。
 きれいで声がおちついていて、まあまだいろいろわかっていなくて舞台度胸だけでやってるのかもしれませんがすごくちゃんとしていたと思いました。ただやっぱりまだまだお衣装に着られちゃっているように見えたし(初期のちゃびがまりもの新公やったときとかを思い出しました)、この役にはゆうりちゃんの上背が必要だったのだなとも思いました。
 まあ期待の新人さんですよね、上手く育てていただきたいです。何しろ次期娘役トップのまどかちゃんがまだ100期と若いのに、同期のじゅりちゃんを組替えで持ってくるし、でもまだららとかまいあとかいるんですからねあとりらを大事にしてくださいね!?

 こってぃフェリックスは…心配していたより健闘していたと思いますが、逆に言うとゆりかちゃんを単になぞって見えたかもしれません。難しいよね…
 最後にポポーヴィッチいとゆがなかなか出てこないアクシデントがあって、音楽はスローになる中こってぃも基本的には突っ立ってるだけでしたが、案内がないのにイリナの家にズカズカ入れないボンボンがイラついているようでもあって、観客も笑ったりせず静かに心配しつつ待っていたのが印象的でした。

 そして私はまどかオリガが好きすぎるせいかはつひオリガにはあまり感心しなかったのでした。幼くはない、という役作りなんだと思うんだけれど老けて思えて…あんまり賢しらでも駄目な役だと思うんですよね。でもこれくらいでちょうどいいという意見も多く見たなあ。

 孫息子から祖母に化けたりずちゃんのマリアはとても良かったです。これも上背が欲しかったところだけれど、すっしぃとはまた違った嫌味な感じがいい味を出していました。
 心ちゃんのクセニヤもそういうニュアンスがとてもうまく出せていたと思います。
 まいあジナイーダはさすがにこってぃのママには見えなかったけれど、可愛いんだけど芝居が…という以前の印象からしたらかなりジナイーダっぽくできている感じがしました。でも路線の役を一度やらせてみてくださいよ劇団さん…
 アリーナはららたん、これは残念ながら埋没して見えたかなー。ららアリーナはしーちゃんアリーナよりおっとりして見えたけど、本当は能ある鷹はなんとやら、な聡明さゆえのおとなしさが見える必要がある役なんだと思うんですよね。台詞はそんなにないけど舞台にはしょっちゅう出ていてなんらかのメッセージを発する役でもありますし。でもさすがにそこまではできていないかな…という印象でした。単にこちらの目が足りなくてそこまで見られていない、というのもあるかもしれませんが。
 ロパトニコフりっつは良かったですね。私は本公演の士官の台詞(ありますよね?)にあまり感心していないんだけれど、こちらはちゃんとしていました。
 ほまちゃんのガリツキーはそりゃ任せて安心です。それはナベさんイワンも同じ。いい仕事しすぎです。

 あーちゃんラスプーチンにはやはり狂気が足りなかったかな…ええ声なんでちょっとクレバーにみえちゃうんですよね。ただ愛ちゃん以上に顔が見えないくらいにもじゃもじゃ長髪振りまくっている芝居心は、買います。
 コンスタンチンはどってぃ。エリザでもあっきーの役をやったかと思いますが、これがまた意外に難しい役なんですね?と思わせられましたが単に私が贔屓に甘いだけだったらすみません。でもただ優しそうな真面目そうなおとなしそうな普通の青年、じゃダメなんだと思うんだよなあ…でもじゃあどうすりゃいいんだ本役だってニンでやってるだけなんじゃないのかって言われたらそうかもしれないんですけれど…ううーむ、後述。
 ウラジーミルはわんた、これはニンだと思いました。ただもうちょっと大きい役をやらせてあげたいけどなあ、どういう扱いなのかなあ?
 そしてロマンの風色くんはなんかすごく美形でしたね! 年下感があってよかったです。

 ニコライはなっつ、優しいし上手い…泣ける。
 そしてさよちゃんのアレクサンドラは、これまた難役だと思うのだけれど、娘役がやるとちょっとホントに嫌な女に見えちゃうのかな、と私は上手く同情・共感できなくてとまどいました。メイクがきつすぎたのかな? マリアに言い返そうとするところとか、いろいろりんきらと芝居が違っていて、そもそものアプローチが違うのだろうなとは思ったのですが。

 きよゾバールは鮮やかで仰天しましたねえ! 踊れるとは知っていたけど歌もいい。今のずんちゃんみたいな濃さ、熱さ、狂気めいた情熱…とまではいかないけれど、まっすぐなひたむきさがあって、いい革命活動家だったと思います。あとちゃんとジプシーたちの長に見えました。
 りりこマキシムも良かった! 憎々しい台詞がそらとまた違っていて。そしてこれまた踊れる…!
 アラレちゃんのエルモライもまた美形で、あきもみたいなちょっとクールな年上、とはまた違ったニュアンスでグループに存在していて印象的でした。
 あとミーチャの碧咲くんも美形ですね…!? 帽子をかぶってなくて顔がよく見えて、ときめきました。
 そして私的MVPはまどかラッダで、本当はもうちょっとこういうタイプの役の経験ももっと踏ませてあげてからのトップ娘役就任をさせたかったんですけれどねー。まあ最近のショースターっぷりといいだいぶ仕上がってきているとは思うのであまり心配はしていないのですが、それにしてもいいラッダだったと思いました。
 ちゃんと野性的でちょっと性悪そうな、でも本当は寂しがり屋で優しい女の子なんじゃないの?みたいな。だからどってぃコンスタンチンだと完全に手玉に取られちゃってそうに見えて、それで結果的にはいろいろアレだったのかもしれませんが。きよとの距離感もとても良かったし、本当に感心しました。

 あとはちょっと追い切れなかったかなあ…
 東京も観られたら観たいなあ…進化が観たいです。


※※※

 それでは最後にちょいと澄輝日記を。というかコンスタンチン・スモレンスキーさん語りをさせてください。あと中の人の話もね。

 お稽古場でのお稽古がまもなく最終、みたいなころのお稽古の入りにお隣歩きをさせていただいたことがあったのですが、コンスタンチンのキャラクーについて聞いてみたのですね。人柄というか、性格設定というか。役回りについて聞くと、それはお話の中でどういう機能をするキャラクターかということを語ることになるし、要するに物語のネタバレに関わりかねないのでそういうことに関しては公演前に絶対に言及しない人だと知っていたので、あえて性格だけに話を絞って聞いてみたわけです。
 そうしたら、
「…優し~~~~い、人です」
 と、眉をしかめて笑って答えてくれたんですね。それがコンスタンチン・スモレンスキーさんというお役です。
 前回の記事で、こういう役が来がちなんだよなとか、ゾバールみたいな役をやらせてみたいと演出家に思わせられる生徒になってほしいとか、やや後ろ向きっぽくも取れるようなことを書いたりもしましたが、もちろんくーみんの配役意図の正確なところがわかるわけはないのですがこの役に不満があるわけではもちろんまったくありません。というかむしろけっこう難しいことをやらされていると思うし、ちゃんとできているよなとか日々思うのでした。
 当人もお茶会で言っていましたが、ここまで優しい役、というか何事もいったん引き受けてから返すような穏やかさ、しなやかさがあるような役は実は今までやったことがないし、自分でも自分をおっとりしているとかのんびりしているとか思うんだけれどでも、自分の中ではせっかちな部分もあって、だからそんなに似ていないし…ということでした。
 自分に似ている役の方がやりやすいのか、正反対の役の方がやりやすいのか、は役者によって違うのかもしれません。また、自分と似たタイプの役だとしても自分そのものではないのだから演技するとなるとまた難しい、ということもあるのでしょう。
 どんなに優しい人間でも、一瞬かっとなったりむっとしたりすることはあるものでしょう。でもコンスタンチンはそういう脊髄反射みたいな反応をしない人です。ゾバールにわあわあ言われてどつかれても、図星でカチンときちゃうとか失礼だな乱暴だなとムカッとするとかじゃなくて、「そういうこともあるのだろうか」といったん自分の中に受け止めて、それで応える、みたいなところがある人なのです。優しくてか弱く見えるようで、それは実はけっこうしなやかで強いことなんじゃないでしょうか。
 中の人にはけっこう頑固で負けず嫌いなところもあって、優しいばっかりの人ではないことはファンは承知なので、やはりこれはくーみん指導の下、そういうキャラクターをちゃんと演技で構築しているということなんだろうな、と思います。新公コンスタンチンはぱっと言い返しかけているように見えたもんなー、でもそうじゃないんだと思うんだよなー。
 一方で、オリガに「…特にないわ」って言われちゃうところもまたおもしろくて、これまた当人がお茶会で言っていましたが一見つっこみどころがない人、というかぶっちゃけ可もなく不可もない平凡で凡庸な人、と捉えられかねないキャラクターだということなんですよ。でもそこに、恵まれたノーブルな容姿とかほんのり茶目っ気がありそうなところが足されて、つまらない役に堕してしまっていないんだと思うんですね。
 最近は、オリガのこの発言にウラジーミルとロマンが目をむく様子を見るのが楽しいです。つまり彼らだけが知るようなコンスタンチンのダメなところとかが実はあるんだろうけれど、意外と上手く隠されているので(笑)たいていこういうときにこういう程度の知人はみんなふたりではなくコンスタンチンをほめるわけですよ。三人で同じいたずらをしても捕まって叱られるのはウラジーミル、みたいな、さ(笑)。ふたりの「えええ皇女様そりゃないっすよ、そいつだってけっこうねえ…えーっとねえ…」って言ってやりたいダメなところがやっぱりぱっと出てこない、みたいな口パクパクっぷりが本当に愛しいです。
 この三人は年齢差もあるんだろうし、だから士官学校とか幼年学校の同級生、とかではないのでしょう。でも貴族の子弟として幼いころから親交があったのかもしれないし、今は近衛隊の所属部署が同じだったりするのかな? それで気が合ってつるむようになって、やがて同じ政治思想を持つことがわかって、フェリックスともつきあうようになって…みたいなところなのでしょうか。最近では本当にいい感じに男子高校生感みたいなものが出てきて、とてもいいと思います。国を憂い政治を語り信じる未来のためなら乱暴な手段を取ることをも厭わない血気盛んな若者である一方で、恋し歌い飲んで騒ぐ普通の明るい若者たちでもあるのでしょうからね。
 まあフェリックスは本当のところ三人まとめてあまり買っていないかもしれませんけれどね…あんまりアタマ良くないと思ってるんじゃないのかな(^^;)。彼からしたらコンスタンチンの深慮は単なる弱腰に見えるかもしれません。彼にはコンスタンチンがラッダに花を贈っていることはどう見えていたのかしら…「花はそいつの病気なんだ」あたりのフェリックスを何しろ見られていないのでわからないのですが。それともオリガに言われたことを反芻している様子なのかな?
 当人によればラッダにはコンスタンチンの一目惚れだそうで、ツィンカで歌う彼女を初めて見たときに、その野性的で情熱的なところ、今まで自分の周りにはいなかったタイプの女性であることに惹かれたのではないか、とのこと。赤い薔薇は彼女のイメージで選んだものだそうです。と、くーみんの脚本外の指示書にあったのかな、とか邪推する私…(笑)あるいはこのあたりには細かい設定はないのかもしれません。物語には必要ない部分だから。今現在、こういう形で恋愛しているこういう立場と身分の違うふたりがいる、ということが重要なのだから。簡単に結ばれるには高いハードルがある、という点でもう一組のドミトリーとイリナであるカップルなわけですから。そこに、卒業の餞としてかもしれないけれどありさちゃんを配してくれて、そしてその相手役として(なんせ「最後の男」ですからね!)我が麗しの贔屓を配してくださって、くーみんには感謝しかありません。そもそもどういう経緯だったのかなあ、着想時代は以前からあったにしろ、劇団からぁ様の卒業公演の担当を任されてから、組と組子を想定して作った物語だったのかなあ。だとしたらもたろん役が生徒のニンに引っ張られる部分もあったかもしれません。そういう化学反応もおもしろいものでしょうね。
 コンスタンチンのこの優しさ、穏やかさ、しなやかな強さ、おちつきは、生来の性格もあるかもしれませんが、優しく温かな両親に愛情豊かに育てられたゆえのものなのではないでしょうか。学習して得た部分もある、というか。そしてそんな彼が育った貴族社会は権謀術数渦巻く…なんてものよりはもっと穏やかで優しくて上品な世界で(もしかしたら爵位みたいなものがあまり高くないのかもしれない…)、だから彼は礼儀作法として令嬢がたに花をプレゼントすることは日常的にやってきたのかもしれないけれど、でも真剣な恋としては初めてで、それで薔薇を贈っているのであって、風流とか恋愛遊戯とかでは全然ないんだけれど、でもゾバールにはそんなことはわからないわけです。金だけ積んでラッダをものにしようとしてきた貴族のボンボンなんか彼は今までたくさん見てきたのかもしれません。というかラッダはゾバールやミーチャを食べさせるために身を売ったことだってあったのかもしれません。その厳しさ、しんどさ、苛烈さとコンスタンチンの優しさ、穏やかさは確かに相容れないものなのかもしれません。
 描かれていない数か月の間に何があって、少なくともコンスタンチンの方は結婚を考えちゃうような深い仲になっているのか、妄想し出すと夜も眠れません。でもコンスタンチン、結婚なんて夢物語だよ、普通誰でも思うよ、そりゃラッダも口をふさぐためにキスするよ。でも「いいじゃないか、今が良ければ」というラッダだって、ほんのちょっとは、その「今」が永遠に続けばいいのに、と思ってはいるはずなんですよね。あるいはせめて少しでも長く、と。そのあきらめられなさが、せつない。
 応じるコンスタンチンは「…じゃあ、行くよ(離れる)」ですよ。この「…」と「、」ね! このニュアンスがちゃんと芝居にありますよね、もうたまりませんね!! 怒ってなんかいないのよ、それは本当にそうなのよ。でも今ここでその話を続けてもどうにもならないこともわかるし、彼には一応このあとお仕事があるのですよ。だから離れるだけなんですよ。でも恋する女は不安になっちゃって「怒ったんだね…怒ったんだ!」って嘆くんですよホント可愛いせつないいじらしい。ここで出てくるロマンがラッダにぺこんと頭を下げるのがまたいいんですよね。彼もまた貴族のボンボンだけれど、ジプシーだ踊り子だと一方的に人を見下すようなことはしなくて、友達の彼女としての敬意をちゃんと会釈で示せる人なのです。でも男子高校生みたいに冷やかし合って去っていくけどな。そしてこれが生きているロマンの最後の出番になっちゃうんですけどね…(ToT)
 駅でのテロ事件は、どんなものだったのでしょうね。ロマンは即死、イリナは爆風で髪も乱れマントはボロボロですが、コンスタンチンはきれいなままだから、少し離れて警護していたのでしょうか。馬車か車を呼んでいたとか? ともあれ彼は友の死を悼む暇もなく、イリナを抱きかかえるようにして宮殿に運んできました。その間ずっと、これは自分のせいだ、自分がラッダに駅へ行くと言ったせいだと自分を責めていたことでしょう。ラッダを疑ってはいなかったかもしれませんが、弟はじめ彼女の周りのジプシーたちが貴族を忌み嫌っていたことは十分承知していたからです。イリナを送り届けた後、どう上官に報告し、どうツィンカを摘発する指揮を執ったのか、想像するだに胸がつぶれそうになります。
 それでも、こんな銃撃戦になることは想定していなかったことでしょう。でもゾバールが発砲し、店は乱戦状態になった。コンスタンチンが最初にゾバールを撃ったときには、殺さないよう腕や足を狙う余裕はあったのかもしれません。それくらいの訓練は積んできた優秀な軍人でもあったのでしょう。でも再度狙ったときには…そこにラッダが飛び出して来ていたのでした。ゾバールたちが逃げ出して、コンスタンチンが倒れたラッダに寄っていって…ここの「ラッダ…」、本当につらい。そして上手い。
 おそらくそのあと、ミーチャの死のくだりのあとのことかと思いますが、当初お稽古ではもっとラッダに「ペタペタ触って」(当人談。ホラいろいろ距離感おかしい人だから…)嘆きすがりつくようなお芝居だったそうですが、くーみんがもっと茫然自失のていで、みたいな指導をしたそうで、今の形になっているそうです。信じられない、信じたくない、死を認識したくない、だから触れられもしない…そんな感じがよく出ていますよね。負傷したウラジーミルがゆっくり寄ってきてコンスタンチンに何か声をかけ、それだやっとコンスタンチンは動いて、ふたりでラッダの体を移してやります。それはそのあと降りる幕の奥に動かすためのものかもしれないけれど、いたわりと弔いの儀式めいて見えて、ラッダの頭を最後まで丁寧に抱いて床に置くコンスタンチンの手つきが本当に優しくて、胸が締め付けられます。そしてそのあとも、ただ茫然とラッダを見下ろし、しゃがみこんだままのコンスタンチン…
 そこからラスプーチン暗殺の日まで、同じ12月のうちのこととされています。彼はやはり強い人で、ぼっきり折れてしまったりはしなくて、むしろやっぱりラスプーチン暗殺は必要だ、でないとテロルはますます過激になる一方で革命だって本当に起きてしまうと考えるようになって、それでドミトリーの潜入や逃亡に協力し、「おめでとう」と作成成功を祝うところまでこぎつけました。ウラジーミルの負傷も治っています。けれど、軍隊が動いていないのでした…
 同じ近衛将校でも、奥さん持ちの方がより宮廷貴族としての生き方があるのか? 憲兵に混じって彼らがドミトリーたちの逮捕に来ます。しかし宮廷貴族というならどちらかというとマリア皇太后派が多かったはずなんだけれど、最後の最後にやはり現役の皇帝に与したのですね。寄らば大樹という貴族の生き方が見えるようです。
 コンスタンチンはここで連行されて退場し、それで出番は最終場を除けば終了です。これまた中の人は、真面目で責任感が強い人だし、そのまま投獄されて処刑されちゃったんしゃないでしょうかね、とのんきにその後を語ってくれました。確かにドミトリー同様、そういう責任の取り方をするタイプの人でしょう。でも私は「好きな男が死んでもいい」わきゃまったくない人間なので、ぜひウラジーミルにがんばって脱獄してもらって遠慮するコンスタンチンを殴ってでも連れ出してパリに亡命していただきたいです。で、こんクレになればいいよ!(アレ?)
 最終場、まぁ様のソロが終わって(歌い終わりに拍手が入るようになりました。いい…!)音楽が変わって、本舞台の神々の土地に下手から先頭で出てくるのがコンスタンチンです。その横顔の神々しいまでの美しさときたら! まさしく美しいものには価値があるというものです。
 でも彼ら三人は軍人として踊り進み、去っていきます。その奥で上手からジプシーの一団が踊りながら一列になってやって来るけれど、視線が合うことはありません。三人が再び上手から現れたときには、その手前を下手から来たジプシーたちがよぎり、その中にはラッダもいます。けれどやはり視線は合うことはなく、お互いの存在にも気づかないままです。それがせつない、というお手紙をもらって「どこのことだかわかっていません!」と笑って言っちゃうのが中の人です。でもそれでいいと思ってくーみんは振りをつけているのだと思います。ハケる直前に、コンスタンチンはふと立ち止まり、遠くを見るような顔をします。それは続くウラジーミルもロマンも同じです。そのときには彼らの前にはもうどのグループもいません。だから彼らは何も見つけることなく去っていきます。それが人生なのです…せつない、しんどい、いい作品です。
 本公演で娘役ちゃんとキスシーンができてよかったねえ、してもらってるだけだけどねえ。でもまた指輪をあげるような関係じゃないんだよね、だからその夢はまた持越しね。
 そして私がお隣歩きで優しい人発言を聞いたときに、焦ってフォローのように、それは似合いそうだし悲劇の予感があって楽しみだけれどもでも、やっぱり念願の悪役も見たいですって言ったら「私も待ってます!」と笑ってくれたので、だからやっぱり今回もとても素敵なお役だけれどだからってこれで満足するってことはなくて、まだまだやってくれるんだと信じています。念願の『WSS』もあるしね! まあ振り分けわかんないけれどねキキも来るしね! 理想は国際フォーラムのに出て梅田の裏のバウ主演だけどな!! 言霊、言霊!!!
 …毎度暑苦しくてすんません…スルー推奨です……
 最後になんですが、私はコンスタンチンの名字はくーみんが芸名ふうロシア名前にしてくれたものだと思っているのですが、どうなのかな、関係ないのかな…




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『神土地』の風は凪ぎ、ただ美しく雪が降るのだ。

2017年09月03日 | 観劇記/タイトルか行
 六度の観劇を終えて今、くーみんへの詫び状を認めようとしています。前回の記事はこちら。上田久美子先生に、そのときの一方的な暴言を謝罪したく思います。
 イヤ、初日は本当にああ感じたのです。それは撤回しないしできるものでもないし、劇場でもみんながみんな傑作キタコレ!みたいな空気にはなっていなかったと記憶しています。でももちろん、最初からいいと言っていた方も多かったのです。そして今、私は自分の不明を恥じています。だからこその、詫び状です。
 今日(9月1日13時。レビュー記念日でした!)初めて、前回(8月31日11時)には確実になかった台詞の追加に気づき、そしてそれは私にはちょっと言わずもがななものに思えたので、そろそろくーみんも迷走に入ったのかなと心配になりましたが(^^;)、ともあれほぼ毎回観劇していて毎回ダメ出ししているらしく、細かい追加や削除や修正の手を入れているようです。でも、もういいよくーみん、そろそろおちつかせてもいいと思うよ、あとは役者に任せても大丈夫だよ、それくらいすべて出揃いましたよ、もうカンペキですよ。そもそもすべては最初の脚本に、そして初日の舞台にきちんとあったのでしょう。修正と言ってもそれはたとえば例に出すにもはばかられるようですが『邪馬台国の風』の変更の「そこじゃねえ」感とはまったく無縁で、たとえるならちょっとだけ引っかかってキシキシいっていた箇所に油を差してなめらかにするような(名香智子の傑作社交ダンス漫画『パートナー』にそんな比喩があったな…)、そんなごくささやかな修正で、でもそれで本質がより鮮やかに立ち上がってきて、こちらがあえて読み取ろう補完しようと無理にがんばらなくても自然にしみしみと心に入ってくるような、そんなドラマが舞台に今、現出しています。そしてそれは、本当に美しいものなのでした。
 今でも私だったら、というか私がたとえばプロデューサーだったら、いっそ題材ごと変えるか、これをやるならもうちょっとだけキャッチーにしたら?という提案をしてしまうと思います。でもおそらくくーみんがやりたいことはズバリ今のこれなのであり、そういう外野の助言もあるいはよけいなお節介も全部消化した上でやっぱりこれでいきます、という信念のもとにこの作品はこう書かれたのだろうし、それであればやっぱり作品というものは名前を出して世に出す作家のものなのです。だからたとえファンでもとやかく言えるものではないのでした。
 もう一段階だけドラマチックに、わかりやすくして涙、涙という演出にももちろんできたことでしょう。でもそれをあえてしていないのだ、そしてそれをしなかったことでよりせつなく立ち上がる美しいドラマがあるのだ…ということに、やっと私の目が開かれたのでした。私はナンパで幼稚で無精なのでわかりやすいエンタメを愛しているし、そういうものをたくさん作ってたくさん売ってたくさん楽しくなろうというポリシーのもとにエンタメ業界で働いてきた人間なので、こと商業作品に関しては好みや視野が狭く、文学的なものや芸術的なものに対しては好みだからこそ特別視しすぎていて心が狭いというタイプの、しょーもない人間なのです。ホントすんませんでした…
 幸い客入りもいいようだし(私が観ている回はすべて立ち見が出ていました。商業演劇なんだからこの要素だけは譲れません。仮にもトップスターの退団公演なのにガラガラだったとしたら、たとえ中身がどんなに良くて高尚でも私は暴れる。プロとしてその仕事は違うと言う。イヤ何かを言う権利なんか全然ないんだけれど! それでも!!)、評判も尻上がりに良くなっているようなので、本当によかったなと思います。あとはこの作品が広く世に受け入れられ、記憶に残る作品として輝いていくことを祈るのみです。
 ミュージカル・プレイ『神々の土地』は、静かで悲しく、せつなく美しい。心を激しく揺さぶるような劇的な嵐が劇中で巻き起こることはないけれど、風は静かに凪いで空気が澄んで、雪だけがただ音もなくはかなげに降っています。その中で呼び起こされる感動、震わされる心というものがあるのだということに、私はやっと気づかされたのでした。

 第1場Bはやっぱり説明台詞が重いと思うのだけれど、第2場は言葉数が少なくても漂う情感がとても雄弁ですね。
 やはりドミトリーとイリナは、セルゲイ大公の甥と妻として初めて出会ったのでしょうね。だから彼女が結婚でロシアに来る前、ドイツではイレーネと呼ばれていたことをドミトリーは知識としてしか知らなくて、もう当人も「イリナよ」と名乗っているし今さら呼べなかったんだけれど、でもずっと呼んでみたいと胸に秘めていたのでしょうね。
 イリナはダンスの名手で、セルゲイ大公が存命だったころはたくさん踊って社交界の華で、でも未亡人になってからは公の場では決して踊らなくなってしまったのでしょう。社交ダンスはノン・シークエンス・ダンスで、リーダーの男性が即興で考えたフィガーをパートナーの女性が瞬時に読みとって追随することで生み出されるカップル芸術です。ドミトリーとイリナはかつてたくさん踊ったし、息が合っていて見栄えのいい、お似合いの、素晴らしいカップルだったのでしょう。
 イリナがお嫁に来たときドミトリーはもう大公家に身を寄せていて、外交だの軍事だのに忙しい家長に代わってイリナの家庭教師となり社交界でのエスコートとなり、姉弟のような親友のような、深い情愛を育てていっていたのでしょう。ときにドミトリーが戯れのように恋情を表すことがあっても、イリナは優雅にいなしてきたのでしょう。そういうことが、この舞台のこの場面のふたりを観ているだけで、自然と想像されるのです。
 大公が皇帝をかばって凶弾に倒れ、世界大戦が勃発し、皇族として軍隊や民衆を鼓舞するためにあえて前線に出たドミトリーの生き方は、いかにもロマノフの血を引く者の考え方であり、それはセルゲイ大公も確かにそうだったもので、「叔父上に似ているとしたら、嫌だな」と言われてもやはり争えないその血ゆえのものなのでした。それでもドミトリー自身は単に血とか皇族の義務からとかではなく、自分の考えで選んで生きているのだと言い張り、「なんのためにどう生きるかは自分で決める」と言うのです。そしてそれはお嫁に来ただけだけれどすでに立派なロマノフでもあるつもりのイリナも同じで、野戦病院で従軍看護婦として働くことを決心している…この物語は、己が信念に従って生きようとするふたりが今別れんとするところからそもそも始まるのでした。
 公の場でないからいいでしょう? 僕の望みを叶えてくれたらあなたの望みどおり首都に行くからいいでしょう? …いたずらっぽく提案してイリナをダンスに誘うドミトリーと、踊っているうちにやっぱり楽しくなってしまうイリナがともにいじらしい。主役のいない壮行パーティーの会場ではブツブツした蓄音機から流れるだけだった曲が、ここでは優雅なBGMとして流れるのも美しい。
 でもドミトリーがそのままキスになだれ込もうとすると、さすがにイリナはそれは拒否する。それでドミトリーはちょっとおどけてみせて、騎士として貴女の命令に従います、なんて言ってみせる。でも返す刀でイリナに驚かされ、「寂しくなったら言ってちょうだい」なんて軽口が言えるイリナの方がやっぱり一枚上手なのかもしれません。
 ともあれこの難しい時代に、ロマノフの末裔として、それぞれ誠実に生きることを選び誓い合ったふたりは、ひととき静かに別れる…ここでのまぁ様のソロへの前奏の入り方の素晴らしいこと! いかにも主役が一曲歌います、みたいなタイミングではあるんだけれど、物語の空気をうまくまとったまま銀橋に出て囁くように歌い出すまぁ様が素敵ですし、何度か観たあとではお芝居のラストに再びこの渡り方、この歌でドミトリーが現れるフラッシュバックがすでに襲ってきて、もう本当につらいのでした…
 ニクい演出すぎますよくーみん…!

 そして私が前回の記事で書いた、皇帝一家と皇太后・貴族一派がものすごく対立していることの描写がもっとあった方がいいのでは、みたいなことは、私が見えていなかっただけでちゃんと第3場で描かれていたのでした。赤絨毯の大階段をバックに任官式で踊るコンスタンチンさんの唇の端に笑みがひらめくのに気を取られすぎて(なんなのキャラ違うじゃんやっぱ軍人だから嬉しくてハイになっちゃうのなんなの素敵やめてイエもっとしてー!)そのあと彼を追っかけすぎてしまい、ドミトリーが皇太后派の貴族たちにことごとくスルーされる流れを完全に見落としていました…皇帝一家の孤立もここでまたきちんと描かれており、離宮に下宿することで彼もまた微妙な立場に立たされていることもちゃんと描かれていたのでした。
 この場面の不安げな音楽の終わり方がたまりません。上手い!

 ジプシー酒場ツィンカの場面は、コンスタンチンとラッダの逢瀬に割って入るそらマキシムの憎々しい低い声が本当にいいですよね…そして貴族のボンボンと酒場の女といったら『バレンシアの熱い花』のロドリーゴとイサベラと同じなんだけど、ラモンに平手打ちを返したロドリーゴと違って打たれるがままのコンスタンチンったらもう…そもそもドツかれて抗弁するのも微笑みながらだし、殴られて立ち去る前にラッダに謝るときにも笑みを絶やさないし…それは優しさや誠意というよりは笑ってとりつくろうとする彼の弱さなのかもしれないけれど、でも彼はそういう人なのよ…そしてやっぱりラッダは、たとえ花が腹の足しにならなかったとしてももらって嬉しかった、貴族の令嬢のように丁重に扱われて優しい言葉をかけてもらって、嬉しかったと思うのよ…それは弟ゾバールとどんなに堅い絆で結ばれていたのだとしても、彼からは与えられなかったものなのでしょう。
 そしてここで一瞬友達になるアレクセイとミーチャね…子供同志はすぐ仲良くなれる、そのすこやかな愛しさ美しさと、でものちにアレクセイは皇太子として銃殺されるしミーチャもコンスタンチンを助けようとしたドミトリーに射殺されてしまう…くーみんホント鬼だな!? でもホントに上手いです。
「神父様のところにつれていって、早く!」
 という悲痛なオリガの叫び声が、いい。まどかちゃんはまだ台詞が流れるところもあるんだけれど、こういう絶叫がちゃんとできるところを私はとても買っています。あとこの場面終わりの照明が本当に素晴らしい。

 愛ちゃんラスプーチンの素晴らしき怪演については今さら言いますまい。祈祷に踊らされる民衆たちもちょっと怖くて、たとえば本来スミレコードというものはこういうところにも発動されるべきものなのではないかと思うのだけれど、ギリギリのところかと思いますし、ざらりとした感触を残してくれて、いいですね。アレクセイを黒いマントで包んだラスプーチンのセリ下がりと被せるように、ドミトリーとフェリックスを登場させる流れも本当に見事です。
 続くドミトリーと皇后アレクサンドラの会話で私が引っかかっているのは、短い台詞の中で二度出る「彼」が最初はラスプーチンのことで次はフェリックスのことであること。あそこは改善した方がわかりやすいと思います。
 それはともかく、ここのりんきらも本当に素晴らしい。そしてこの場面の終わり際、フェリックスがドミトリーの手を握ってから退場する振りが初日の舞台稽古でついたという恐ろしさよ…!

 続く第6場のセットがまた素晴らしいですよね。隙間があって、盆が回っても奥が見えるところが素晴らしい。マリアの紹介でオリガの世界が開けていくのが見える一方で、ドミトリーとイリナ、そして乱入するフェリックスの会話がなされます。
 ベタなチャイコフスキーの使い方はやっぱり謎で、これからバレエの『白鳥の湖』を観るたびに思い出してしまいそうですけれど。
 ドミトリーがちょっとはしゃぎすぎてふざけてしまい、イリナにたしなめられるように手荒れを見せられるところも、ちょっと『翼ある人びと』にありそうで個人的には引っかかるのですが、まあ中の人が同じなのだし仕方ないのかな。手袋を脱いで素手を見せるというのはなかなか色っぽいですね。
 その流れでオリガとの結婚話を持ち出すのはドミトリーのささやかな復讐なのかもしれないし、本当に迷っているのかもしれません。イリナとしてはいいことだと思うとしか言えませんよね。フェリックスは「結婚してほしいの?」という言い方をしますが、そう言われたらもちろん本当はしてほしくないんだけれど、そもそもしてほしいとかほしくないとか口を出す権利なんかないわけで…とまっとうに考えるのがイリナで、それはフェリックスもわかっているんだろうけれどだからこそ拗ねて激昂しちゃうんですよね。フェリックスもそもそもドミトリーとは結婚できないんだから、逆に言えば誰が嫁に来ても関係ないと考えるようになってもいいようなものなのに、やっぱり嫌で妬いちゃうんですね。これは初日から改変された台詞だと思うのだけれど「婿入り」というのがまた的確でわかりやすい言葉で、いい。
 そしてどこにでも現れるラスプーチン…ドミトリーは王子様としてオリガを守り、ともに立ち去り、そして彼女との結婚を決意したのでしょう。皇室と、国への責任を改めて感じた、と言ってもいいのかもしれません。

 一方ですっかりラッダと恋仲になっているコンスタンチンですが、描かれていない間にナニがあったのかしらねワクテカ! 結婚を持ち出して、キスされて、それは口をふさぐためのものだとわかって、つまり今はまだラッダにはその気はないんだなとわかって、だからちゃんと引き下がるのがコンスタンチンくんなんですけれど、ラッダは恋する乙女だからちょっと不安になっちゃって「怒ったんだね」とか言っちゃうんですよね。ささやかな痴話トークですが、それがラッダをつけてきたゾバールに機密が漏れることにつながるワケで…くーみんってホント(以下略)。
 第9場のマリアの煙草ネタが本当に素晴らしい。そしてもえこロマン、ごめんね台詞だけで殺してしまって…(ToT)
 ここで兵士たちが駆け込んでこなければ、ドミトリーはたとえ嘘でも「オリガを愛していきます」と言ったと思うんですよね…
 続く第10場の銀橋のありさラッダの台詞はちょっと緩急がなくて実は私はもの足りないと思っているのだけれど、ずんちゃんゾバールのギラギラさは素晴らしいですよね。彼は両親の復讐を姉に誓い世界をともに変えることを誓ったんですよね。「世界を革命する!」ですよヤバい。シスコン以上の情念と執着、狂気を感じさせて素晴らしい。姉と別れたことで彼の暴走はスピードアップするのです、コンスタンチンくんがホント結果的にいろいろごめん…
 酒場でうそぶくゾバール、でもドミトリーたちに踏み込まれて、そして…もう本当に本当にコンスタンチンの中の人のファンとしては謝るしかない展開です。ミーチャ、すまん…!
 ともあれ、イリナを殺そうとした者たちを捕らえるため、そしてコンスタンチンを危機から救うため、手を汚したドミトリーはついに悟るのでした。暴力でしか守れないものがある、得られない結果がある、と…

 そしてトップ娘役でもなかなかしないような、長いトレーンを引いて銀橋を渡るりんきらアレクサンドラ様よ…! 付き従う愛ちゃんラスプーチンが完全にうつむいていて顔も見せなくて不吉な影みたいになっているのがまた素晴らしい。入れ替わるようにしてドミトリーが銀橋に出てきて…こんな劇的な銀橋の使い方を私は他に知りません。
 これまた以前の記事で、私は仮にも宝塚歌劇の主人公が、トップスターが演じる主人公が暗殺、テロに走るなんて、と書いたものでしたが、ここでラスプーチンが全然簡単に死んでくれなくて、だからドミトリーとしてももう仕方なく手に掛けるしかなくて…というフォローがちゃんと効いているんですよね。これまた私の不明でした。
 放心したドミトリーが階段をゆっくり、ただ上がっていく演出も素晴らしい。「捕えなさい!」というアレクサンドラの悲鳴だけが残る…
 ラスプーチン暗殺に狂喜する民衆を扇動するかのようにしてやっとフェリックスのソロが来るんだけれど、やはり彼には、ドミトリー絡みでもう一押しなんらかの場面、なんらかのエピソードが入れられていたらベストだったでしょうね。手を触っていくだけじゃなくてさ(^^;)。
 クーデターは失敗し、ドミトリーは逮捕される。ラスプーチンを殺した救国の英雄への処罰に民衆は怒り狂い、ラスプーチンの幻の扇動もあって革命への気運が高まっていく。国民に譲歩するようにと言うオリガの願いはアレクサンドラに受け入れられず、ドミトリーはペルシャ戦線に送られることになる。死ぬのが確実の激戦地に…だがドミトリーはそれを受け入れる。冒頭にあった、銃声と雷鳴のコンボが再び現れるのも見事です。
 私が以前の記事で書いた、イリナが一連の顛末をどう考えているのかはやはり描かれていません。それは必要ないとされているのですね。彼女が事態を浅ましいことと思っていようが仕方なかったと考えていようが起きたことは起きたことで、彼女にどうすることもできなかったことで、ペルシャに発ったというドミトリーに対してももう何をしてあげられるわけでもないのですから、描く必要はないのでしょう。ただイリナもまたひとりのロマノフとして、国民の犠牲の上に暮らしてきた貴族として、国から逃げ出すことなどせずに責任を取ろうとしている、ということが語られます。亡命など考えられないし、それはドミトリーも同じだろう、と思っている…それは、十分に伝わります。離れていても、ふたりは同じように行動するのだ、ということが顕わになっているのです。
 彼が現れて、イリナは驚く。そのときのドミトリーの「僕はあなたがかわいそうだった」という言葉の、なんとシンプルで、でも豊かで深いことか…それは単なる同情なんかではもちろんなく、我が身以上に相手のことを想う、愛おしむ、慈しむ、その幸福を祈るという告白です。
 ゆっくりと近づいてくるドミトリーをもはやイリナは拒みません。キスも受け入れる。それでドミトリーはさらにキスを深め、ドミトリーの背に回されたイリナの手が強く握りしめられる。最後だから、最後の夜だけのことだから。ふたりを裁くものはただ神のみ…!

 ドミトリーを愛し、しかしまったく違う生き方をしているフェリックスは、母親に頼んで外国への亡命の手配をして、ドミトリーを迎えに来る。邪魔するなと言われたふたりの散歩に割って入りにいく。
 広い、見渡す限り雪景色の大地で、静かな散歩を楽しむドミトリーとイリナ。ここの「教科書なんてくそくらえ!」で、私は『誰がために鐘は鳴る』のアグスティンの「戦争なんてくだらねえ!」の絶叫を思い起こしました。やはりあちらの方がわかりやすい台詞です。この「教科書」は世の中のすべての規範とかルールとか、それこそロマノフとしての義務とか責任とか、愛に反するすべてのことごと、そういったもの全部が含められているのでしょう。それを最後の最後に「くそくらえ」と言って泣くイリナ。本当は愛を一番に、愛だけを選びたかったのに…いう想いをこういう言葉で表させるくーみんよ…! 美しい顔を涙でぐちゃぐちゃに歪め泣くイリナに、ドミトリーは抱きしめてその顔を覆ってやることしかできない。ふたりでどこへでも逃げちゃえばいいのに、と観客みんなが思います。しかしそこに憲兵ならぬフェリックスの車が来てしまうのでした。だからなおさら、「僕は行かない」になるのです。そしてフェリックスは「車で待つ!」としか言えないのです。
 ドミトリーはずっと呼びたかった結婚前のイリナの名を最後に呼んで、立ち去ります。「我が麗しのイレーネ」…なんという詩的な響き。かつてイリナに憧れてつきまとったオリガは彼女を「麗しのイレーネ」と呼びました。ドミトリーは万感の「我が」をつけて呼んだのです。「イリナよ」と言われても「イレーネ」と呼んで、去る。その明るい笑顔に泣かされます。その笑顔がイリナの胸に焼きついたことでしょう…

 革命が起きて皇帝一家は銃殺され、イリナも獄死します。いわゆるナレ死ですが、これまた上手いと思いました。
 フェリックスはマリアやジナイーダ、妻アリーナとともにニューヨークに亡命し、三流絵画をロマノフの遺産と偽って成金に売りつけたりしている。ドミトリーも一時期は一緒にいたのかもしれませんが、体の傷が癒えたのか、今はどこかへ行っていて、送った手紙も届かない。
 彼が今どこでどう暮らしているのかは、もはや問題ではないのです。彼の想いは今もなお、ロシアの大地に戻っていく。すっしぃマリアの台詞はいかにもサヨナラ公演らしいもので、こんなある種の迎合をくーみんがしてくれることに驚きと感謝しかありません。こういうの、大事です。
 いつか必ず帰るロシアの地とは宝塚歌劇のことであり舞台のことであり板の上のことであり、そこに現れる神々とは現役含め今までそこに立ってきたすべてのタカラジェンヌのことでしょう。彼女たちこそが神なのです。
 最終場。大地の記憶のように、かつてそこに生きた人々が再び現れ、踊り、行き交う。コンスタンチンとラッダの視線が合うことはありません。それは泡沫の夢だったのでしょう。中の人が言うとおり、彼はきっと脱獄や亡命などせず、逮捕されたまま処刑されて果てたのでしょうね…
 カゲソロはずんちゃんかな? もちろん美声で選ばれたのかもしれませんが、ラッダが歌った歌詞のバージョン違いなので、ゾバールの歌のようでもあり、民衆代表としての歌のようでもあります。
 人々が去り、最後に残って見つめ合うのは、ドミトリーとイリナ。お互いに向かってゆっくりと歩み始めたところで、幕…
 こんなにがっつり相手役なら、この公演だけでもトップ娘役として…!と思わないでもないのですが、それはくーみんにはどうしようもないことなのでしょうし、だからこそ意地でも、のこのヒロインだったのかもしれません。

 前回の記事へのコメントで気づかされたのですが、確かに私は柴田スキーですし、それはわかりやすく色恋をテーマにしていることでエンタメ性、普遍性が高くなっていることを評価しているからなんですね。
 それからすると色恋以上にキャラクターの生きざま、人生みたいなものを描こうとしているくーみんは、わかりづらく見えるしエンタメ度、普遍性が低く見えて、その点で私は不満に思うというか、もの足りなく感じるというか、両方取ってさらに高みを目指してくださいよと強欲になるというか、なのでしょう。でもやっと『AfO』みたいな全方向に伝わる作品がオリジナルでできたのだから、一方でくーみんや大野先生みたいな趣向と世界観の作品も増えていってもいいのかもしれない、とも思うようになりました。
 あの土地に、雪の中に、早くまた行きたいです。次の観劇が本当に楽しみです。


シベリアの風よ答えておくれよ
あの人がどこへ行ったか
大地よ答えて私はどこへ消えるのか
土よ雪よ聞いてくれ
嘆き叫ぶこの声を
おまえに刻もう 我ら生きてるこの証を
踊れ踊れこの土に
歌え歌えこの命
はかない恋とおまえのために歌った歌
歌って大地よ
私がどこかへ消えても
この日々生きた場所だけ覚えているこの歌を

土よ雪よ ただ歌え
光る夏に巡る冬に
祖国への愛を 尽きぬ我が愛我が想いを
草よ木々よ ただ歌え
遅い春に急ぐ秋に
あなたへの愛を 消えぬ我が愛我が想いを
覚えていてくれ僕がすべてを忘れても
あの日々生きた場所だけ 覚えているこの愛を
あの日々生きた場所だけ 覚えているこの愛を
 



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