駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

ミシマダブル『サド侯爵夫人』

2011年02月26日 | 観劇記/タイトルさ行
 シアターコクーン、2011年2月18日ソワレ。

 18世紀、ブルボン王朝末期爛熟のパリ。サド侯爵夫人ルネ(東山紀之)は残虐かつ淫靡な醜聞にまみれる夫を庇い、愛し続けている。「悪徳の怪物」に「貞淑の怪物」として身を捧げる彼女に対し、世間体を重んじる母・モントルイユ夫人(平幹ニ朗)は様々な手を尽くして別れを迫るが…
 作/三島由紀夫、演出/蜷川幸雄、美術/中越司。

 『わが友ヒットラー』と交互上演だったのですが、こちらしか観られませんでした。
 戯曲は大昔に読んだことがあった気がしますが、上演時間が休憩込みの三時間半と大変なことになっていました。
 でも退屈は感じませんでした。
 役者の動きはほとんどなく、室内で交わされる会話劇で、まさに台詞が主役のお芝居ですが、その圧倒的な流麗さに聞きほれました。戯曲の力はもちろん、役者さんに並大抵の力がないとできないことです。

 役者陣は他にルネの妹アンヌが生田斗真、サン・フォン伯爵夫人が木場勝己、シミアーヌ男爵夫人が大石継太、モントルイユ夫人の家政婦シャルロットが岡田正。
 一幕のシミアーヌ夫人が良くて、ニ幕は出番がなくて寂しいなと思っていたら、三幕でまた出てきてくれてうれしかったんだけど、よりウザいキャラになっていてたまりませんでした(^^;)。ほめてます。
 アンヌもよかったなー。
 そしてもちろんもっともすばらしかったのは平幹ニ朗です。

 女性ばかりのキャラクターを男優だけで演じているのですが、別に無理に高い声を作っていることはなく、女性を演じているというよりは単に役を演じている感じ。
 この時代のドレスは装飾過多なので男女の体格差も逆に言えばあまり表に出ず、違和感なく楽しく観ました。
 美術も素敵でした。
 音楽は蜷川さんらしく歌舞伎ふうのもの、舞台奥の扉を開けてセットを組み立てるところから見せる手法もシアターコクーンでは何度か見ますね。より演劇感を強めている、ということなのかなあ。

 ところでタイトルロールのルネですが、嫌な女ですよね。
 そしてそれはおそらく解釈として正しいと思うのだけれど、しかし役者がそれを理解していてそう観客に思わせるためにそう演じていたのだ、というふうには私には見えなかったのですが…
 つまりぶっちゃけて言うとヒガシは精彩がなかったと思うの。演技としてあまりいいと思わなかったんだよなあ…残念。

 総じて『ヒットラー』の方が評判が良いようなので、両方観ているとまたちがうものが見えていたのかもしれません。
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宝塚歌劇星組『メイちゃんの執事-私の命に代えてお守りします-』

2011年02月25日 | 観劇記/タイトルま行
 毎度迂遠かつ胡乱な論議で申し訳ありませんが…
 おつきあいいただけば幸いです。

***

 漫画には二種類ある。
 もっと言えば、少女漫画には二種類ある。
 批評の対象になりやすい作品と、そうでない作品だ。
 もっと言えば、評価されやすい作品と、そうでない作品だ。

 手塚治虫文化賞とか、文化庁メディア芸術祭とか、「このマンガがすごい」とか、あるいはコミック誌の版元が出している賞、講談社漫画賞とか小学館漫画賞とか(集英社、白泉社は自前の漫画賞を持っていない)の、ノミネート対象にもならない作品群、というものが、この世の中にはあるのだ。

 漫画なんてそもそも高尚な文化じゃないし、サブカルとして崇めたてられるのもなんか間違っている気がするし、別に賞とかもらわなくたって関係ないよ、という考え方はもちろんある。
 賞をもらおうがもらうまいが、読者にウケていればいい、売れていればいい、というのは、メジャーな、大衆的な商業作品の在り方としては健全で正しいとも言える。

 しかし、こういう作品群は、単純に売り上げ順に並べたときにも、決してトップには出ないものなのだ。全ジャンル統一で並べたときには、ベスト20にすら顔を出さないだろう。

 ベスト20に顔を出すような作品群は、さすがに売れ方が桁外れなのだ。だからさすがに誰でもタイトルくらいは聞いていたりする。存在は認知されているのだ。
 しかし一般の人はまた、売り上げベスト100にも顔を出さないような作品のタイトルもまた耳にすることが多いものだ。このあたりに、あるいはもっと下に、いかにも評価されやすい、批評の対象になりやすい、結果的になんらかの賞を取りやすい作品群というものがあるからだ。

 それは、 ちょっとセンスが良く見えて、ニッチで、男性にも読みやすい、少女漫画だ。掲載誌は成人向け女性漫画誌であることが多く、青年誌であることも多く、版元が三大出版社以外の雑誌であることも多い。コミック誌ですらないことも多い。
 こういうタイプの作品群は、実際の部数に比べて(もっと言えば、作品の実際の出来に比べて)、ずっと高い評価をされがちだ。大人の、男性にも読みやすいからだ。だから批評の対象にしやすい。結果的になんらかの賞を取りがちなのだ。
 だから一般の人も、きちんと読んだことはなくとも、タイトルくらいは耳にしていたりする。
 そして「いいんだってね」「おもしろいんだってね」程度のことを語ったりする。
 それくらい、世の中は、まだまだまだまだ男社会なのである。

 文芸書の「本屋大賞」のような、書店さんが実際に売れているもの、売りたいものを推す賞みたいなものは、漫画においてはまだない。
 そして、文芸作品はいざ知らず、漫画については、書店さんは放っておいても普通に売れる作品にはあまり手をかけてくれない。熱心な書店員さんというものはまた熱心な漫画ファン、漫画マニアであることが多く、すでにある程度売れているものではなく、今はあまり売れていなくても自分が仕掛けたらもっと売れそうなもの、に手をかけがちだからだ。ここでもまた、ちょっとセンスが良くて、ニッチで、サブカルっぽいものに注目がいきがちだ。
 だからこうしたところからも、前述の作品群が日の目を浴びることは、今後もおそらくないだろう。

 批評の対象になりづらく、しかし批評の対象になりやすい一部の作品群よりもはるかに売れていて、しかし万人がその存在を知るというほど売れているわけではない、という作品群。
 それがローティーン向け少女漫画だ。
 このジャンルのヒット作は、この世代の読者の半分かそれ以上、下手したら大半に認知され、絶大な支持を受けている。だから尋常でなく売れている。
 しかしそもそも読者の絶対数が限られているため、世間万人がその存在を知る、というほどの部数は売り上げていない。そして読者は成長しこの世代を過ぎるとこのジャンルの作品を読むことを卒業していき、その存在を忘れていく。彼女たちがそのまま漫画ファンであり続けても、これらの作品を再び取り上げて語ることは非常に少ない。まして大人の男性の批評家がこのジャンルの作品群について言及することはまずない。読んですらいないだろう。
 かくて、凡庸な作品に比べてはるかに売れているにもかかわらず、また批評されやすいサブカル的作品群より売れていることも多いにもかかわらず、これらの作品群はまったく批評の対象になっていないのだ。

 もちろん、この作品群そのものが、そもそもこの世代の読者を対象にしてのみ作られており、その世代の読者の支持を得ることを最重要課題として作られていることがほとんどなので、その世代でない読者にはその魅力や価値がそもそもわかりがたい、という問題がある。
 だから世間の批評の対象にならないことはそもそも想定内なのである。そんなことを望んで作られてはいないのだから、当然のことなのである。
 冒頭で言ったように、この作品群は、別に批評されることを望んでいないのだ。別に賞なんかいらないよ、と負け惜しみでなく言えることはあるものだ。
 だからそれはいいと言えばいいんだけれど、でも。

 でも、ある程度正当な評価は欲しいよね。
 存在くらいはもうちょっと認知されていいのではないか、とか。
 こういう作品群を実際に読んで育ったどうかは別して、少女でなかった女性はいないはずなのだが。
 「少女」の感性を持った男性だっているはずなのだが(それで言うと「少女」の感性をかつても今も持たない、という女性ももちろんいるものなのだが)。
 過去のこととはいえあまりに黙殺されすぎでないかい?と、ちょっとつっこみのひとつも入れたくなるよな。

 まして、偏見が嫌だ。
 無関心は仕方ない、無理解も仕方ないかもしれない。
 でも読んでもいないのに悪く言うのはやめてくれ。
 それは天に唾するのと同じだよ? 過去の自分を貶めるのと同じことだよ?

 「少女」だったころの自分たちと同じように、現に今、なう、「少女」である読者層が存在していて、そこに、そこにのみではあるのだがしかし確実に、絶大な支持を受けている作品群というものが、この世の中には存在しているのである。そこになんらかの意味や価値がないわけないだろう?
 それを、無視したり誤解したりするのは百歩譲って許すにしても(そんなに譲っていいのかいな)、知りもしないでただ悪しざまに言うのはやめてほしいのだ。
 それは批評ではない。批判ですらないのではないか?
 発言するならきちんと現状を踏まえた上でしてほしい。素人の感想であっても、知らずに言うならイメージでのみ語っているという自覚を持ってほしい。でないと当人が浅薄に見えるだけだ。まして批評家においておや、である。

「私が読んでいたころの『りぼん』は良かったのに」
 とかね。
 「のに」とつけるなら今の「りぼん」を読んでから言ってほしい。昔の(昔っていつだよ)「りぼん」今の「りぼん」がちがうのはあたりまえだ。読み比べて、それで良し悪しが言えるなら言ってくれ。
 ちなみに「りぼん」は今も昔もローティーン向け少女漫画誌ではないが。そして現在その対抗誌で最も部数が大きい雑誌は「ちゃお」だが。
「私が読んでいたころの『少コミ』は…」
 も同様。
 今の二十代、あるいはアラサー、アラフォー、アラフィフが読んでいたころの「少女コミック」と今の「少コミ」はちがう。そもそも誌名が「週刊少女コミック」でかつ実際に週刊だった時代もあるし、混同している人も多いが「別冊少女コミック」とは別の雑誌だし、現在の誌名は「Sho-Comi」だし、いわゆる「別コミ」は現在は正式には「ベツコミ」だ。
 そういうことをきちんと把握していない人が論評するなんざちゃんちゃらおかしい。
 普通の人がイメージで語ってしまうのは仕方ないけれどね。悲しいけれどね。

 現代のローティーン向け少女漫画誌に掲載された作品群から、100年後でも読み継がれているであろう名作が生まれることは、おそろくないであろう(宝塚歌劇で舞台化された『ベルサイユのばら』は「マーガレット」掲載の作品だったが、そして100年後も読み継がれているであろう不朽の名作少女漫画のひとつではあることは言を俟たないが、連載されたのは現代のことではないし、極めて特殊な事例なのでちょっと別におく)。
 それは、編集部が、そういう編集方針で作品を作っていないからである。
「100年後にまで残る偉大な作品なんか、ここではいらない。万人に愛される普遍的な名作なんか、ここでは作ろうとしていない(作ろうとしていて作れるもんでもないということとはまた別の問題である)。今、なう、思春期の入り口に差し掛かった、14歳前後の繊細で多感な時期の少女たち、彼女たちの心に響く、今の彼女たちが必要とするもの、今の彼女たちだけが必要としてしまうものを、届けたい、与えたい。ここでしか与えられないものが絶対にある。ここでしか得られない支えが絶対にある。それを作りたい。時が来れば彼女たち成長し、卒業していく。我々は読み捨てられていく、忘れられていく。それでいい、それでこそ本望である。そういうものに私はなりたい」
 …あれっなんか後半感じちがっちゃったかしら…
 それはともかく。
 とにかくそういう方針でああした作品群は作られているのである。少なくとも、とある当該誌のとある最盛期の一時代を築いた編集長がそう発言していたことを私は知っているし、当該編集者も漫画家もその心意気で作品を作っていたことは事実である。おそらくは今もなお。

 中2病でけっこう。というか中2病上等である。
 義務教育が行き届いた現代日本において、かつて中2でなかった人間などいないのだ。人はみな中2を経て大人になるのだ。むしろ中2を経ずに大人になってしまう方が問題だ。
 そしていい大人になった今、中2だったころの自分を必要以上に否定するのも不自然だし、今の中2を必要以上に否定したり心配したりするのもナンセンスだ。

 大丈夫、大丈夫。みんなそうやってきたんだから。
 思春期特有の暗黒面はあって当然、誰しもが経験してきたことで、今も誰かが経験している。しかしだからってみんながみんなダークサイドに落ちないでしょ?
「今までは大丈夫だったけど、これからはそうじゃないかも」
 なんて言う人は、どれだけ自分を特別視しているのかと問いたい。人類は生まれたときから、といって言いすぎなら少なくとも文化文明なるものが出来上がってからこっち、ずっと中2病とは折り合ってきて、とりあえず滅びずに来てるんだから大丈夫なのだ。自分の世代までは大丈夫であとが心配、なんとことは逆に言えばみんなが言ってきたことで、でも今までもなんとかなってきたんだから。
 ホント、大丈夫だから。おちついて。あらなんかどっかの都知事に言いたいことみたいだわ。

 要するに、ちょっとだけ客観性を持てばいいだけのことですよ。
 あるいは、人間に対する信頼を持てば。自信を持てば。

 脱線を直して…


 そんなわけで、世間の評価を求めることもなくコツコツと作られているある作品群に対し、でももうちょっと評価されてもいいのになあと思うのは業界人の身びいきってことでおくとしても、とにかく根拠のないイミフな悪口はやめてんかー、ということで、さてやっと本論に入りたいと思います。
 が、実はまだまだ山あり谷ありなんだけどさ、この話(^^;)。


 というわけで宮城理子『メイちゃんの執事』である。というかその宝塚歌劇版について、である。


 「マーガレット」(しつこいようだが「別冊マーガレット」とは別の雑誌である)に現在も連載中のこの作品は、ご存じのようにいわゆる「月9」でテレビドラマ化もされたのだが、そのときにも思ったのだが、実はそんなには売れていないのである。
 (ちなみにジャンルを問わず少女漫画で最大部数を売り上げた『花より男子』はこれまた「マーガレット」掲載作品である)
 つまり、ローティーン向け少女漫画作品で、私がもっと評価されてもいいんじゃない?と言ったときに想定していた対象作品にはぶっちゃけ入っていなかったのである。もっと売れていてもっと一般的な意味でも出来がいい作品は他にもたくさんあるのである。
 ちがう意味で部数と評価は一致しないので別にいいのだが、そもそもテレビドラマのプロデューサーは何を持ってこの作品を原作に選んだのだろうか…

 もちろんオタク業界より一般社会の流行はかなり遅れてくるので、ああやっと執事っつーモチーフの存在に気づいたのね、というのはあるだろう。
 テレビドラマなんて遅れてやってちょうどいいくらいのところがあるもんね。
 イケメン俳優をたくさん揃えて執事の格好させて並べられるんだから、そら視聴率も見込まれよう…ってなことだったのだろうか。
 私はあくまで原作視点というか原作周り視点でいたので、原作ファンのこの読者層はテレビと言えばアイドル番組やお笑い、歌番組は見るが、意外に連続ドラマを見ていないんだけれどな、だからそこらへんの視聴率は期待できないはずなんだけれど、それはいいってことなのかな…とかいうことばかり心配していた。
 実際、ドラマ版を見ていたのはやはり原作の読者層とはちがう、主に20代以降の女性だった模様だが、トータルの視聴率としては可もなく不可もなかったのだろうか?
 当たれば第2シーズンとか映画化とかが今の流れだから、そうならなかったということはそこそこ程度だったということなのだろうか。

 そして、その流れに乗ったとも思えない、まったくナゾのタイミングでの宝塚歌劇化の報を聞いたとき、私はまたまた思った。ナゼ?と…
 聞けば編集部側に宝塚ファンがいるとかなんとかいう話もあるが、そんなことで簡単に動く歌劇団でないことはいろんな意味で知っている(笑)。
 イヤ重い腰を今やっと上げたからこそこんな謎のタイミングになってしまったのかもしれないが、まあそれはいいや。

 『ベルばら』はもちろん、木原敏江や萩尾望都の漫画を原作にした宝塚歌劇はいくつかある。
 今まで原作に選ばれてきたのは、どちらかと言えば文芸路線の漫画だったのに対して、今回は大衆路線というか現代路線というか、要するにローティーン向け少女漫画誌に今まさに連載中の作品という極めてホットスポットにきたワケだが、これまた先ほど言ったとおり、この作品がこのジャンルでナンバーワンの作品というわけでもないので、
「何故コレ?」
 と思ってしまったのである。

 しかし執事の制服・燕尾服はタカラジェンヌの制服でもある。いや嘘です、タカラジェンヌの正装は緑の袴、黒の燕尾服は男役の象徴ですね。
 とにかく似合わないわきゃない、少女漫画の三次元化が宝塚にしくはないのはほぼ自明なのだ。いいんじゃないですかねえ…みたいに考えるようにいつしか私はなっていた。

 仕事柄ざっと読んではいたが、イメージで語るのは問題だし、観劇前に予習もしたかったので、先日、コミックスを読み直した。舞台化されるという第一部、ルチア編の7巻までである。
 そのころにはすでにバウ公演の幕は開いていて、ツイッターなどで好評は聞いていた。演出家が漫画の世界を再現することに傾注し、台詞も漫画から抽出して構成していること、役者も漫画を読みこんでいること、装置や映像に工夫が凝らされているらしいこと、などもスカステ番組などから見えてきていた。
 しかし原作漫画には、このジャンルの作品群に特有の無茶さとか非現実感とかがあるワケで、それ故にその世代の読者に絶大な支持を受け、しかしそれ故に普遍化はならないものだから一般に評価され難く批評の対象にすらならずに来ているわけで、そのあたりはどうなの? みんなオールオッケーなワケないよね?とも思っていた。
 そうしたら、ちゃんと
「引っかかる点もある」
 という意見も聞こえてきて、安心した。
 しかしその「引っかかり方」に、いやちがうよそこが問題なんじゃないんじゃないかなー、と私が引っかかる(笑)ものも出て来て、これは心して観て、そして考えてみなければ、と思ったのだった。


 …はっきり言ってここまで前振りです。
 つきあってくださっている方、本当に申し訳ありません。でも引き続き読んでいただけたらうれしいです。

 というわけで、いつもの観劇記スタイルにここから切り替えますと…

***

 日本青年館、2011年2月18日マチネ。

 初めまして、私、柴田理人(紅ゆずる)と申します。容姿端麗、文武両道に秀で、何事もそつなく完璧にこなす、完全無欠のSランク執事でございます。いつか世界一のお嬢様にお仕えし、その方の幸せの為に自分の能力のすべてを使ってみたいという夢を持っています。そんな私の望みを叶えてくださるであろうお嬢様、それで今お仕えしている東雲メイ(音波みのり)様でございます。私がメイ様の執事になったのは、メイ様のご両親が不慮の事故で亡くなられたのがきっかけでした。私は日本の政財界を牛耳る本郷グループの創始者、本郷金太郎(汝鳥怜)様の命を受け、四国までメイ様をお迎えに上がったのです。メイ様のお父様は金太郎様のご長男でしたが、駆け落ち同然で本郷家を出られて以来、行方がわからない状態でした。メイ様は本郷家の血筋であることをご存じないまま、ごく普通に暮らしておられたのです。メイ様と仲の良い同級生の中に、私の愚弟・剣人(美弥るりか)がいたことは私の関知せぬところですが…金太郎様は本郷家の跡取りとしてふさわしい教育を受けてもらいたいと、メイ様を究極のお嬢様学校・聖ルチア女学園へ転校させますが…
 原作/宮城理子、脚本・演出/児玉明子、作曲・編曲/玉麻尚一、tak、振付/AYAKO。

 開演アナウンスにサブタイトルが入っていなくて、
「せっかくなのにさびしいじゃん」
 と思ったら、その台詞とともに主役登場!という演出になっていたので、満足&テンションアップしたプロローグでした(^^)。
 聞いてはいましたが装置や映像の使い方が斬新で小気味よく、ワクワクしました。
 映像のバラの花つぼみからが開ききたったらベニーが現れて、映像の花びらが飛び散って…花が飛ぶ少女漫画の世界を完全に再現してくれています(^^)。
 映像に扉が現れ、シルエットが現れ、そこからお嬢様たちが現れ、専属執事に迎えられる…またそのキャラクター三次元化がハンパなくて、楽しい!

 メイのクラスメイトたちは、まず華やかで勝気なリカ(音花ゆり)と美形の青山(芹香斗亜)のツンツンコンビ。
 お姉さん役に回ることも多いコロちゃんは、今回水を得た魚のようにイキイキしてて楽しそうだったけど、キキちゃんはあと一歩と言わず半歩、はっちゃけられたんじゃないかなあ。
 背もあるし美形だし「モジャ毛」パーマヘアも似合ってるんだけど、なんかキャラに対してテレが見られた気がして、ちょっと残念だったかな。最初のデュエロの顛末はとてもいいエピソードだと思うんだけど。

 メイが寮で隣室になるのはナゾのやんちゃ娘・多美(妃海風)と神崎(汐月しゅう)のバトルコンビ。
 話題のシュウシオツキは…あれはポニーテールとは言わないよね、長髪ってのもちがうよね、なんて言うのかな、長い髪を首の後ろで束ねているのですが、その髪型と、クールなメガネ姿、すらりとした立ち居振る舞いでビシバシとお嬢様とバトル…たまらん。こらファンが増えたことでしょう(^^;)。

 不二子(紫月音寧)と根津っち(漣レイラ)のお色気コンビは、不二子ちゃんにはぜひ胸を増量させてほしかったなー。男役は体型を補正するんだから、娘役だってこういうキャラの時には極端なくらいにナイスバディにするべきだよ!(^^)。
 根津っちは無精ヒゲとゆるめた襟元がだらしなくて実にいい感じで、
「そんな執事いるかい!」
 ってつっこみたくなる感じが正しくて実によかったです。ゆるいおっさんっぷり、たまらん。

 私が原作で好みだったキャラクターは泉(夏樹れい)で、男前の優等生で涼やかな美貌…ってのが好みだったので、娘役ちゃんがクールに素敵に演じてくれるのを楽しみにしていたのですが、わりと顔の濃い男役さんが扮していたのでちょっと残念。
 しかし見てみてわかった、これならドジっ子執事の木場ちゃん(如月蓮)より背が高くできるのです。すばらしい!
 そしてニコニコしているだけなんだけど輝いていたれんたはさすが若手スターだと思いました。短い髪もとてもよかったです。

 天才児でスキップしていて歳は幼いみるく(紫りら)と大門(礼真琴)のコンビもよかった。

 娘気分を失っていない学園長シスター・ローズに美穂圭子、さすがの歌声。その無口で控えめな執事・桜庭の海隼人も過不足なし。
 ものっそいヅラのゆうちゃんさんもこれまたさすがでした。

 「ルチア」の称号を持つ詩織役は白華れみ。もちろんさすがの存在感。美しさ、華やかさ、台詞の明晰さと怖さ、抜群。
 医者の資格を持っている執事だけに許される白装束の忍さまは、真風涼帆。怪しげで素晴らしい。でも最後のデュエロで黒い服になったときがより素敵だったかな。そういうキャラだよね。
 しかし、本当に、歌がね…コレ多分こういう音程の歌じゃないよね、って感じだったもんねえ…レバンガだ!

 それでいうとぺニーも、素敵なプロローグもシメのフィナーレも、歌が…音程は取れているんだけど苦手意識が見え見えだし、カマす癖がここぞというときに出るので、せっかく萌え萌えで観ているのにずっこけるという困った事態になりました。レバンガだよマジで!!

 そしてヒロインのハルコ。
 あんなシンプルなおかっぱ姿が可愛いし、制服姿はどっちも可愛いし、デュエロの盛装も舞踏会のドレスも可愛かった、お姫様抱っこもよかった!
 ただし、芝居がうまいのかどうかということは実はよくわからなかった…というのは、台詞が原作漫画のまんまだったからです。
 これは脚本のせいなのだけれど、やはり舞台のセリフは舞台用に書き出した方がよかったと思います。漫画のネーム(台詞やモノローグ、ナレーション)は漫画のために進化・洗練されてきたもので、そのまま舞台に使っても聞き取りづらかったりわかりづらかったりするものなのですよ。耳で聞くには不自然な台詞も多く、それが役者の演技がダイコンなせいに思われては気の毒です。

 そして、まさに少女漫画から抜け出してきたような、てか素で少女漫画な目の大きさを誇るミヤルリですよ。
 学ランですよ! 幼なじみ、悪友、ツンデレの鉄板キャラクターになりきってくれていました。女装姿がちゃんと成立しているのはまさに宝塚ならではですかね…
 でもとにかく楽しそうになりきっている感じに好感が持てました。
 ミヤルリは歌がまあまあなんですよね、もっと聞きたかったかな。

 第2場はちょっと漫画まんまにやりすぎなんじゃないの、と思いつつも、自転車の回想シーンやミニチュアの街の使い方、ヘリコプターの演出やパペットなどアイディアも良くテンポも良く、全編、原作漫画の世界を再現していきます。
 そして、怪しく恐ろしいルチア様と忍で、第1幕、幕…

 おもろしい、よくできている、萌える、鮮やか、漫画まんま。
 でも、本当に漫画を三次元化しただけ、という気もしました。それでいいのかな?って。それは学芸会と一緒じゃない?って。
 綺麗なだけが宝塚じゃないよ、少女漫画を三次元化できるのは宝塚だけかもしれないけれど、宝塚歌劇は少女漫画を三次元化するためだけにあるんじゃないんだよ、なのにこれだけでいいの?とも思ってしまったのです。

 そんな幕間をすごして、2幕…

 理人さんの内面が出る芝居になってきて、私は俄然おもしろく感じるようになりました。
 『リラの壁の囚人たち』でもそうだったけれど、ベニーのこもる感じの演技が好きだ、というのもある。キャラクターの内面、心理が出てくる、お芝居らしいお芝居の展開になったから、というのもある。
 しかし、もしかしたら、男役トップが演じる男性主人公視点のドラマ展開になって、見慣れた宝塚歌劇の世界に戻ってきたと私が感じられたから、俄然おもしろく感じられたのかもしれません。
 逆に言えば、1幕はどうしてもヒロイン視点で物語が進んでいたので、その違和感があったのかもしれません。
 少女漫画の主人公は、女性キャラクターです。ヒロインです。物語はヒロイン視点で進み、読者はヒロインに感情移入して物語を追っていきます。
 対して、宝塚歌劇の主人公は、男性キャラクターです。男役トップスターが扮する役が主人公であることが絶対の決まり事だからです(オスカルとかスカーレットとかは特例としてここでは除きます)。
 ヒロインはたいていの場合は主人公の恋愛ドラマの相手役であり、娘役トップスターが扮します。観客の多くは女性であり、男役トップスターとの疑似恋愛を楽しむために、ヒロインに感情移入して舞台を観ますが、一方で物語の主人公は別にいて、それは男役トップスターが演じていて、視点はそちらに置かれ、物語を追うためには観客は主人公に共感し、主人公視点でドラマを観るのです。
 もちろん舞台の視点は少女漫画よりずっと客観的で、観客はキャラクター視点で観るというよりは、もっと単純に観客として、言うなれば外野視点、ないし神様視点で観ることの方が多い。小説の文体で言えば三人称的なのです。
 対して少女漫画は、その対象読者年齢が低ければ低いほど、ヒロイン視点、ヒロイン一人称の世界観になるのです。

 2幕で理人と詩織の過去のいきさつが明らかにされ、理人とメイの恋愛の問題点も明らかにされ、さてどうなる、という展開になったことも大きいのかもしれません。
 この作品の根源にもかかわることなのですが、ここには大きな問題点があることを、みんなうすうす感づいているからです。

 お嬢様、そらなれるものならなりたいわー。
 執事、そらいたらいいわー。
 でもほんとはお嬢様って、執事って、そういうもんやないやろ、ってことですよ。
 ましてお嬢様と執事が恋愛って、そらあかんだろー、ってことですよ。
 似非関西弁ですんません。

 ローティーン向け少女漫画は、対象読者の嗜好に沿うように作られます。その方が読者にウケるから、売れるから。
 メジャーとして、というか商業作品として当然ですね。顧客の嗜好に合わせて商品は作られるものですし、そうした商品が売れるわけですから。
 そして誰しも記憶があるでしょう、
「実は私はここんちの子供じゃなかったりして。パパにもママにも不満はないけど、でももしかしたら私はもらわれっ子か拾われっ子で、本当はもっとなんかすんごい大金持ちのお館の子供で、いつか迎えが来て、『おかえりなさいませお嬢様』って言われるのよ!」
 とかなんとか、夢想した記憶が…
 大人になっても人は時折疲れると「ここではないどこか」を探してしまうものですが、思春期前後の少女はことにこの妄想にふけるものです。
 だから、そうした少女たちを顧客とする少女漫画の作り手たちは、作品のヒロインにそれを体現させます。『メイちゃん』もソレです。
 そして誰しも一度は思ったことがあるでしょう、
「イケメンでなんでもできて素敵な人に傅かれたいわー。そんでいろいろやってもらいたいわー」
 とかなんとか。
 実際には他人どころか自分のことすら自分の意のままにはならないものなのですが、しかし人間の他人への支配欲というものは意外に暗く根深いものです。そして否定しがたく万人にある。大人になると隠すことを覚えたり、正しくないなと理解できたりしていくものですが、そうでない困ったバカもまたいて他人を言うなりにできると思い込んでいたりして事件を起こしたりするのですがまあそれはまた別の話ですがしかし…

 そんなわけで少女漫画は、ポイントを集めるとクラスが上がるお嬢様と、その専属で忠誠心がハンパないイケメン執事、でもデュエロでやり取りできちゃう、とかなんとかいう世界観を作り上げてみせるわけです。
 リアリティがなくとも。
 お嬢様の仰せのままに…いや読者の仰せのままに。

 それをおかしい、というのはおかしい。
 すべての商品は顧客の嗜好に合わせて作られる。その方が売れるから。売れないと商売にならないから。
 リアリティがない、と指摘するのはわかります。しかしリアリティを重要視して作っていないのだから、言っても仕方ないのです。
 商業漫画は売れるために、喜ばれるために、作られているの賞品なのですから。
 フィクションなのだから、物語なのだから、哲学的で形而上的であるべきで、世俗の商売とかかわるべきではない、卑しい嗜好に合わせて低きに流れて作られるべきではない、なんて言われても困るんです。
 というか、そもそもこうした嗜好は、本当に恥ずべき、隠されるべき、誤ったものなのか。
 ある時期限定とはいえ、その時期のほぼ万人が一度は持ってしまう妄想なら、否定してなかったことにしようってのが間違っているのでは? ユー認めちゃいなよ、みたいな? だってどうせいつか夢は覚めるものなんだからさ。覚めるからこそ夢なんだからさ。だからこそ、夢は夢で、存在くらい認めていいんじゃない?ってことですね。

 お嬢様になってみたい。うん、いいんじゃない?(脱線するが「お姫様」ではなく「お嬢様」であるところがいかにも現代的である)
 イケメン執事に傅かれたい。うん、いいんじゃない?

 お嬢様ってものはポイント集めてランク上げてとかいうもんじゃないし、なんて言うのは野暮。
 執事ってそんなもんじゃないよ、普通に優秀なら一家丸ごとの家政の面倒を見るもので、お嬢様ひとりにつくなんておかしいよ、しかも妙齢の女性に妙齢の男性なんて危ないに決まってんだからその家の主人がそうするわけないじゃん、とかつっこむのも野暮。
 そんなことはわかってんの。描いてる方だって作ってる方だってわかってんの。それでもなお、この世界はこういうものだとして作ってんの。その方が読者にウケるから。
 読者だって幼くはあってもバカじゃないんだから、それくらいのことはわかっていて、それでもこのお約束の元に、楽しんでくれているの。
 お嬢様だったら、イケメン執事に傅かれたら、楽しいに決まってるから。
 現実を教えるのは、こういう作品の役割ではないから。

 だけど、そんな楽しい暮らしには、そら恋が生まれてしまいますわな。主従関係と一線引こうが、疑似恋愛と牽制されようが、ときめくものに待ったはかけられませんわな。

 理人はかつて詩織の執事だった。そして詩織は理人を愛してしまった。
 それは詩織の一方的な想いだったのかもしれない。理人にはそんなつもりはなかったのかもしれない。
 しかし今、理人はメイの執事で、メイは理人を愛し始めている。詩織と同じだ。
 そして今度は理人も、メイを愛するようになっている。ただの仕えるべき主人、お嬢様とは思えなくなっている。
 しかしそれは許されない恋なのだ。
 さて、どうする?

 で、あのラストですよ。私は感動しました。
 原作は連載中ですし、ぶっちゃけ言ってこの問題に解決策を見つけられないでいる。というか解決する気はおそらくないのではあるまいか。
 でもまあそれはいい。あの作品はローティーン向け少女漫画であって、読者は夢が覚めることを望んでいないからです。
 しかし宝塚歌劇でやる場合では、そのままではいけない。少なくとも未完にするわけにはいかないんだから、なんらかの決着をつけなければなりません。
 それが、苦肉の策だったのかもしれないが、あのラストに結実されたのではなかろうか、と思うのです。

 理人の時間巻き戻しという大技のことではない。あれはギャグです。
 そうではなくて、メイがデュエロの末に、理人も剣人も執事として持つことを選んだことです。
 イヤそれも原作どおりなのですが、なんというか、ニュアンスがちがって感じられたのです。

 ひとりのお嬢様につき、専属の執事がひとり。
 しかし執事はデュエロによってやり取りされて、取り上げられてしまうこともあり、逆に言えばふたり以上を抱えることもあるのである。
 だからメイはこれから、ルチアを集めてランクアップしていって、どんどん素晴らしいお嬢様になっていき、好みの優秀な執事を何人でもバンバン抱えるようになればいいのである。
 いやそもそも優秀な執事なんだったらお嬢様ひとりにつくなんて仕事なさ過ぎて暇だと思うよ、普通は一家の家政丸ごとを見るものだしね、とかつっこんでも仕方がない。これはそういう世界の執事の話ではないのだ。

 メイは理人だけでなく、剣人をも執事として抱えることを決意した。
 ふたりになるなら、あとは3人でも4人でも100人でも同じことである。
 執事はお嬢様の手駒である。優秀な執事を何人でも抱えて、素晴らしいお嬢様になっていけばいいのである。

 一対一なんかでつきあっているから、疑似恋愛が生まれるのである。しかし何人も抱えるようになれば、いちいち恋愛なんかしていられなくなる。そうやってお嬢様は、執事を真に使用人として見られるようになっていき、執事に仕えられるべき主人として成長していくのである。
 執事を恋愛対象として見ているようではお嬢様としては下の下なのだ。

 そうして多数の執事という名の使用人を抱えるようになったお嬢様が目指すべきは何か。
 お坊ちゃまとの恋愛であり結婚である。
 そうしてふたりは結ばれて、一家だか一企業だか一国家だか知らないが、とにかくふたりが持っているものを運営し経営し富ませ儲けさせ発展させていけばいいのである。
 それがお嬢様の務めである。セレブリティの生き方である。
 メイは三度のデュエロを経て、その第一歩を踏み出したのである。

 …私には、これはそんな物語に、見えました。

 多分、そう見たくて見たのかもしれないけれど。
 でも、こんなふうなオチになるんだろうな、と思って見ていた、ということはありませんでした。
 ただ、あのままでは剣人がかわいそうだったし、恋愛としても決着がついていなかった気がしたし、執事をひとりしか持てないなんてルールはないんだからとりあえずふたりもらっときゃいいんじゃないの?とは思って見ていました。
 それがこういう道筋すら含むものなのだとは、観てから初めて気づいたのです。

 もしかしたら、演出家にそういう意図はないのかもしれませんけれどね。
 でも、これなら納得できるんじゃないですかね?

 だって、こんな執事いるかい、とか、こんな執事がいたら好きになっちゃうに決まってんじゃん、とか文句言う人たちに対する、これは回答というか解決策になっていますよね?
 こういうことも見越したうえで、世のお金持ちは、自分たちの子女にメイドとか執事とかをつけているんじゃないですかね? だとしたらある程度の整合性があるんじゃないですかね、この世界は。原作とはちがって、中2ワールドを脱却できているんじゃないですかね?

 原作の第一部ラストにあった、忍と詩織のドロドロ部分がカットされる形になったのもよかった。舞台の詩織はヒロインとの対決に敗れたライバル役として、わりとあっさり引っ込められました。
 原作にあった忍のゆがんだ愛情とか詩織のその後の顛末とかは、それこそローティーンの少女特有の妄想の産物です。自己を完全に捨ててまで他者に愛されたい、愛したいと願うような愛情、純愛、純情…そういう絶対性にこの時期の少女たちは憧れるものです。
 自己が捨てられるくらい絶対的なものでないなら求める他者もまた絶対的なものではありえないのだよ、とかなんとか言ったって彼女たちの耳には届きません。この時期の彼女たちは、ただただそういう絶対的なものに憧れるものだから。
 楽しい妄想に、今は浸らせてあげておいてくださいよ。いずれ夢が覚めるときがくるのは、彼女たちにだってわかっているのですから。繰り返しますが、彼女たちは幼くはあってもバカではないのです。

 詩織はデュエロに敗れてルチアの称号を失い、執事の理人も失いました。本郷家の跡継ぎという地位も失い、一般庶民になるのでしょう。それでも忍は仕えてくれるでしょうが、詩織が愛しているのは理人です。
 しかし長い目で見れば、詩織は理人を恋人として手に入れることもありえるのではないでしょうか。
 なぜならメイはお嬢様として次のステージへ上がっていってしまったからです。
 メイはひとりの専属執事と疑似恋愛にふけるのをやめ、ふたり目の執事を抱え、さらに多くの執事を抱えるお嬢様に成長していくでしょう。理人はメイを愛しているかもしれませんが、恋愛はひとりではできません。それは詩織だけが理人を愛していた昔に恋愛が成立していなかったのと同じことです。メイはやがてどこかのお坊ちゃまと恋に落ちるのでしょうし、理人の恋は破れます。
 そしてそのとき、理人と詩織は、執事とかお嬢様とかの立場を離れて、ただの男と女として、再び恋をすることも可能なわけじゃないですか。ふたりはもうお嬢様と執事ではないのですから、誰はばかることもありません。
 忍が言うとおり、お嬢様と執事の恋愛は絶対の禁止事項です。理人は詩織に恋されてしまって時点で失点1なのです。メイに恋してしまった時点で失点2、メイに恋されてしまった時点で失点3ですよ。何がSランク執事やねんって感じです。
 理人はお嬢様との恋愛という失敗を繰り返すべきではないし、その意味でも理人とメイの間に恋愛が成立してしまってはいけないのです。

 だから、メイは、理人との恋愛を飛び越えて、さらに先へと進んでいくことにした。それがあのラストです。理人も剣人も自分の執事にする。これからも気に入ったものはバンバン自分の手下に加える。
 いやあ、頼もしいですよねえ。でもそれがボスの心意気ってもんですよ!(あれ?)

 ホントは、作っている方としてはそんな意図はないんじゃないかって、もちろん思います。
 今の夢のようなウハウハ三角関係を壊したくないの、素敵なふたりの間で永遠に揺れていたいの、どっちかなんて選べないの、どっちも欲しいの。
 だからあの選択なのだ、とね。

 でも、本当は、恋愛にはどっちかしかないんですよ。一対一でしかないの。ふたりにしたら半分ずつになるの。減るもんじゃないしってのは嘘なんです、減るんです。
 だからあれは、両方取ったつもりでいて、やっぱりちがうものを選んだことになっているんです。それはつまり、執事を捨ててお坊ちゃまを取るってことですよ。この先で会う、まだ見ぬお坊ちゃまとの恋を選んだということですよ。今の執事の理人はその相手ではないということですよ。
 正しい選択だと、私は思う。

 だから私は、とても満足して、おもしろく感じて、舞台を観終えました。
 そんな感想です。
 私は平日昼間に一度見ただけですが、週末はリアル「マーガレット」読者らしき少女たちの姿も客席には多かったとのこと。
 宝塚歌劇はあまり文芸路線に走ることなく、もっと大衆的な少女路線をやってもいいんじゃないかしらん、と思いました。
 そして、主な観客層であるアラサー、アラフォーの女性たちも、少女心を思い出すといいと思う。自分にダークな少女時代なんかなかった、というような顔をするのはやめた方がいいと思うんですよね。
 そういう嘘のつき方は良くない、否定することはない、蓋をすることはない。
 素直に認めて、開き直るくらいでいいと思うんですよね。
 それが結局は世の中を明るく健やかな方向へ開かせていくことになると、私は思います。



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宝塚歌劇星組『愛するには短すぎる/ル・ポァゾン 愛の媚薬Ⅱ』

2011年02月17日 | 観劇記/タイトルあ行
 中日劇場、2011年2月12日マチネ。

 資産家ウォーバスク家の養子であるフレッド(柚希礼音)は養父ジェラルドの跡を継ぐべく、留学先からニューヨークに帰る船に乗っていた。航海初日、フレッドは、船のバンドのショーチーム・メンバーであるバーバラ(夢咲ねね)と出会う。バーバラは、フレッドが新聞に婚約の記事も乗った有名な財閥の御曹司と気づき、未来を祝福する。だがフレッドは彼女とどこかで出会ったことがあるように感じ、自分の戸惑いを打ち明けてしまうのだった…
 原案/小林公平、脚本・演出/正塚晴彦、作曲・編曲/高橋城。2006年に初演された湖月わたる退団公演の再演。

 原案があるとはいえ、ある種の正塚ワールドだなあと思いました。ハードボイルドばかりじゃなくて、ハートウォーミングなものも書きますものね。フレッド、いいキャラクターだなあ、好きだなあ。
 孤児院から財閥のオーナーに引き取られて、望みすぎず、真面目に務めを引き受けてきた。今、自由な学生時代に別れを告げて、養父の会社を継ぎ婚約者と結婚するために故郷に帰る。わかっていたことだけれど、気が重い…
 そんな生真面目で不器用な青年…うーん、ヤンさんあたりがやったらハマりそう。正直、ワタルのニンではなかったのでは?
 チエちゃんはよかったです。ちゃんとそういう若者に見えた。やんちゃだったりワイルドだったりも似合うけれど、こういう役も意外と良くて、私は好きでした。
 フレッドがデッキで出会ったショーガールは、かつての幼なじみだった。ベタですねー。彼女には借金があり、借りた男につきまとわれているようだった。経済的な助けならしてあげられるししてあげたいけれど、彼女の気持ちを考えると簡単には言い出せなくて…ベタですねー。
 彼女もまた、男と別れて仕事を辞めて、母親の看病のために故郷に帰るところだった。 ふたりが一緒にいられるのは、船が着くまでの丸四日間だけ…
 ベタですねー。
 そして戦場ではさまざまな事件が起き、それを通してふたりの心は離れたり近づいたりするのでした。

 バーバラのネネちゃんはとにかく顔が小さくて細くてカワイイ(^^)。オープニング、すごい可愛いダンサーがいるなと思ったらネネちゃんでしたから(^^;)。
 性格づけがあるようなないようななキャラクターであり、もしかしたら初演のとなみはもうちょっと気が強い感じだったのかもしれないけれど、難しい立場で身を引く役を、嫌み泣く演じていたと思いました。
 特に別れ際は、台詞や演出の良さもあるけれど、よかったなあ。
 「笑ってよ。笑顔を見るまで行かない」と言う女、「じゃあ笑わない」とスネる男。近寄って男の頬に手を当てて、広角をあげる女。抱き寄せようとする男、立ち去る女…
 正直、前半がわりにコミカルだっただけに、後半が急にサヨナラ仕様になった気がして、少女マンガだったら幼なじみがお金持ちになって迎えにきてくれてハッピーエンド、というのが黄金の展開なんだけどな、なんとかそうならんもんかな、イヤ仕方ないんだけれどね大人って社会ってそういうもんだしね…と思いながら寂しく見てしまいました。うーむ。

 フレッドの友人で劇作家の卵…なのかな?のアンソニーは凰稀かなめ、初演はトウコ。
 口八丁で世慣れていて現実的でいい加減で…正塚作品に定番の相棒キャラクターですが、彼はなんなの?
 留学先での友人ってことなのかな? フレッドの過去にはくわしくないようでしたが。御曹司として留学してたんだったら周りもボンボンばかりだったんじゃないのかな? それとも身分はちがえど気が合ったということ? 彼も元々アメリカ人なの? なんで一緒に船で帰国するの? フレッドはおそらく執事のブランドン(未沙のえる)とスイートの船室でも取っているのが自然かなとも思うんだけれど、アンソニーと同室なの? 高いクラスなんじゃないの? アンソニーは庶民でそんなお金なんかもってなさそうに思えるけど、フレッドが出してるの? アンソニーはフレッドにたかってるの? フレッドはそれをどう思ってるの? アンソニーは? ふたりは本当に親友同士なの? なんなの?
 というのはですね、こんなにいろいろ考えちゃうくらい、フレッドとアンソニーって何やら怪しい感じすらするのに、演じているチエちゃんとテルがさわやかっつーかすこやかっつーか何も考えてなさそーっつーかぶっちゃけ子供だなっつーか、ホントただのそこらにいそうな男友達同士、って感じで、かえって謎なんですよ。
 たとえばこれが花組なり宙組なりだったら、絶対に別の話が花開きますよ? 私のツイッターのフォロワーさんで、とんなに男役同士が絡んでも何も生まれないのが星組、と言ってのけた方がいましたが、まさしくそれを痛感しました…キミたちは小学生男子か!
 逆に言えば、テルは私はとにかく声が好きだし優男っぷりが大好きで、みんながみんな組替えによるチエテル解体を嘆く中、「わーこの人が宙組に来てくれるんだ楽しみだな嬉しいな」としか考えられなかったんですが、しかし今のままだとやや浮くかもね…つまり裏とか深みとかがあまり考えられるタイプではないのかもしれない、ということです。
 テルのアンソニーはこの役柄にしてはあまりに優しげで人が良さげで、もうちょっとズルそうだったりワルそうだったり意外にイヤなヤツっぽい感じが本当は必要だったのではないでしょうか…
 だからこそ、最初のうちはひっかきまわしていただけだったアンソニーが本当にバーバラに惹かれてしまって、でもフレッドの想いもバーバラの想いも知っているからどうにもできなくて…というところが意外に聞いてくるはずだったと思うんだけれど、テルのアンソニーだとアンソニーがかわいそうに見えてしまうし、フレッドがどうにもならないんだったらアンソニーでいいんじゃない? それはそれでバーバラも幸せじゃない?みたいに見えてしまったように思えました。それだとちょっとアレだよね…

 ま、いいんだけれどね。お芝居としては十分成立していたと思うし、チエちゃんとの掛け合いもおもしろかったので。

 フランク(夢乃聖夏)は、健闘していたと思うのだけれど、どーも私この人に対してセンサーが働かないようで…
 以前チエちゃんがやっていた役、という思いがあって、チエちゃんフランクも見たかったなーとしか思えませんでした、すみません。


 古き良き時代のウェルメイド・ミュージカル、ということでしたが、時代も確かにゆかしいころで、ダイニングルームでの昼食のシーン、バーバラが中座すると男子三人も席を立つんですよね。紳士は淑女が席を立ったら席を立つべし、という時代の物語なんですよ。いいなあ。

 仮装舞踏会のシーンのチエちゃんの扮装は日替わりだそうで、私が見た人はアラビアの王子様ふうでした。ブランドンが用意していることになっているそうです(^^;)。

 船客では妻と愛人の間でフラフラしているスノードン卿の英真なおきがさすがの芸達者ぶり。妻は柚長、相変わらず美人で素敵なマダムっぷり。
 船長の十碧れいやくんも長身で目立っていました。
 女好き故にワナにかけられちゃうマクニールのドイちゃんもさすが。ドリー役のわかばちゃんもよかったです。
 バレエ団団長ロバートは美城れん。これまた手堅かったです。

 ロマンチック・レビューはウタコさん&ミミさん時代の月組による1990年の公演の再演。一部を『ナルシス・ノワール』からも取り入れています。作・演出/岡田敬二。
 昭和の香りのする(初演も平成だったのに!)素敵なショーでした(^^)。舞台が狭く感じられたし、あっという間でした。
 チエちゃんがのびやかに踊っていてよかったです。しかし歌手が欲しいよねこういうレビューには…テルもネネちゃんもがんばっていたけど、物足りなかったなあ。そういえばお芝居でのドイちゃんのソロはなかなか聞かせて驚いたなあ。ダンサーだとばかり思っていたので。
 もちろん踊るドイちゃんは絶品でした。
 第8場のテルの役名は「パラダイスの歌手」というのか…エデンでリンゴ持ってて緑だから蛇だとばかり思っていました。妖しくてよかった。
 そして続くアダムのチエちゃんがもうギャーッ!ってくらいカッコよかった!! 喜多先生の振り付けがカッコよく決まってセクシーで…! お芝居でのハートウォーミングさが吹き飛びました(^^;)。
 ここではガイズのみきちぐやしーらんの気合いの入れ方もハンパなく、星組の熱さってやっぱりハンパないなと思いましたよ…!
 イヴSのネネちゃんの雌豹のポーズにもひゃー!ってなりました。

 そのあとの場面のしーらんのタコ足ダルマ女役、綺麗だった!

 第12場は初演はユリちゃん、確かにね、という感じ。しかしここでもどこでも、わかばちゃんの笑顔がかわいくてかわいくて、ついつい目で追ってしまいましたよ…!

 アンダルシア、マタドールの光と影は初演はネッシーさんとシメさんで、身長差が残念だったそうですが、今回のテルネネは背丈はぴったりで、本当に「光と影」に見えました。たいしたものです。

 しかし第19場、ロマンスの歌手女はネネちゃんじゃなくてもよかったんじゃないかなー。二番手娘役格がいないから仕方ないんだけれど、トップ娘役はかずっつり組んで踊るときはトップ男役とであってほしい、という私のただの好みの問題ですが。テルネネも美しいよね、というのとは別の問題です。それにテルは宙にもらうんだもーん。

 というわけで「アシナヨ」に泣きもしなかっさた私はそういう意味ではチエネネテルの絶対的信奉者でもなくファンでもないのかもしれません、すみません…

 パレード、ナイアガラもばっさり前に回す勢いでお辞儀するチエちゃんがカッコよすぎです。
 エトワールは白妙なっちゃん。
 あっという間のレビューでした。いいよね、ロマンチック・レビュー。

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宝塚歌劇宙組『誰がために鐘は鳴る』

2011年02月14日 | 観劇記/タイトルた行
 宝塚大劇場、2010年11月12日ソワレ(初日)、21日マチネ、22日マチネ。
 東京宝塚劇場、2011年1月1日ソワレ(初日)、2日ソワレ、3日ソワレ、12日マチネ、16日ソワレ、27日ソワレ、30日マチネ(前楽)、30日ソワレ(千秋楽)。

 1937年、大学でスペイン語の講師をしていたロバート・ジョーダン(大空祐飛)は、国際義勇軍に加わる決意を固めてスペインへ赴く。マドリードに到着したロバートは、共和制府軍情報部のゴルツ将軍(寿つかさ)の指揮下に入り、最初の任務である列車爆破を成功させる。さらに彼は、グアダラーマ山中へと向かうが…

 それぞれの初日に感じたことなどを書いたり、マリア論などをまとめてみたり、観劇のたびにツイッターでつぶやいているので、もはや何を書いたものやら…
 となってしまうのが贔屓の公演なのですが、一応まとめておきます。

 どこかでも書いたかと思いますが、古風ではあると思います。
 刈り込んで一幕ものにしてもよかったという意見もけっこう見ました。
 でも私は何しろ柴田作品スキーなので(千秋楽の出で一番に楽屋から出られたのが柴田先生でした。おもいっきり拍手してしまいましたよ)全然この形で十分でした。
 ショーアップ部分のバランスもいいと思いましたし、繰り返されるラブシーンもどれもよかったと思います。
 戦闘シーンがあるわけではなかったので、ややもすると単調な部分はあったかもしれない。そして何より下級生どころか中堅どころに役がなかったのは致命的に問題だったとは思います。
 主演者のファンとして必要以上にそれは申し訳なく思ってしまう。
 けれど、総体としては、再演が望まれてきたのも納得の、再演されるべき、名作、佳作だったと私は思ってしまうのでした。

 他国の戦争に義憤から首を突っ込むアメリカ人、という意味では『カサブランカ』のリックと同じでしたが、ユウヒはきちんとそれとは違う人物としてのロバートを作り上げていました。これもどこかで書いたかと思いますが、私はまずそのことになんと言っても感動しました。
 リックと比較するのは本当はナンセンスなんだけれど、ロバートはリックより若いし、ある程度きちんとした家庭で育てられたのであろう明るさがあるし、大学の講師を務めていたことからもわかるようにきちんとした教育を受けていて、より教養がある人間です。逆に言うと青いし、したたかさには欠けるかもしれません。
 より純粋に、仲間を殺したことをひきずり、死ぬかもしれない任務に悲劇的に身を投じていきます。グレて酒場を起こしてクダ巻くなんて考えられない人です(^^;)。
 そういう若さ、青さ、明るさ、まっすぐさを、ユウヒは見せてくれていました。
 それは恋愛の点でも、マリアに対しても同様でした。
 マリアを包み込む包容力、大きさ、あたたかさ…というものももちろん感じられたけれど、上から目線というばかりではありませんでした。恋に落ちてからは、けっこう溺れて、甘えて、心の支えにしている。そんな弱さ、苦しさも、よかったなあと思うのです。

 プロローグ。
 何度も観劇すると、物語の終わりの場面からループするようにつながっていることがよくわかります。
 プロローグは死んだロバートが天国で見る夢のようでもあり、物語全体が天国にいるロバートが回想する人生のようでもあります。
 機関銃の傍らで落命したであろうロバートが、機関銃の傍らで目覚め、身を起こし、歌い始める。ライトが当たり、拍手が入る。美しい幕開きです。
「悲しみはもう忘れて、僕に手を預けなさい…」
 歌詞はロバートがかつてマリアに歌ったものですが、今は神様がロバートに歌うもののようでもある。ロバートはひとり、天使たちに囲まれて天国にいますが、そこへマリアの幻想が現れる。あるいはロバートの死後の何十年か後に、天寿をまっとうしたマリアが天に召されてきて、ロバートと再会する。マリアを見つけたときの、ロバートの笑顔の輝きといったら!
 一度かなり上手のかなり前列で見られたときに、銀橋で下手本舞台を振り返って顔を輝かせるロバートを目にしたとき、もうそれだけで泣けました。そこには確かな愛がありました。
 ここのデュエットダンスは今DVDを見るとそのあっさりさに驚くくらい、東宝では愛情細やかになっていたと思います。つなぐ手、引き寄せる手、交わし合う微笑み…愛にあふれていました。

 続くチャリティー・ショーと物語の導入はすばらしい。
 そしてここの京さんも本当にすばらしい。本当はピラールよりもガートルードがニンの人ですよね。
 スピーチのためにロバートが現れるところで拍手が入るようになったこともうれしかったな。プロローグの役名は、正確にはロバートではないとも思っていたので、ここで改めて主役登場に拍手をしたかったのです。だってまゆたんはチャリティーのショースターとして登場したときと、アグスティンとして登場した「♪グアダラ~マ~」のときと両方で拍手もらってたんだもん。

 ピラールに酒を持ってくるように言われて、マリアが初めて現れるシーンは、登場の音楽と、続くBGMが本当にいい。柴田作品では、植田歌舞伎の登場音楽とはまたちがうのです。絶妙にロバートの心情を表現しています。
 こんなところに、こんな少女が…という驚きと、その清らかさ、明るい輝きへの驚き。
 優しく「ありがとう」と会話しながらも、胸が詰まって言葉がうまく出てこない感じ。ただひたすらに目が離せなくて、目で追ってしまう感じ。
 つらい目にあったマリアですが、事件を棚上げにして自分の心を守っているのかもしれず、また死ねなかったこと、死ななかったことに表れているとおり、生き延びる強さを意外にも持っていたこと、その健やかな明るさが、ロバートを捕らえたのかもしれません。
 死を予感していたロバートの前に現れた天使のような、救いの女神としてのマリア…と、あまり聖なるものに祭り上げるよりはむしろ、生きる強さ、命の炎みたいなものを見たのだ、としたい気が、私はしています。

 第一夜。
「君が好きになってしまったようだ」
 と言って、キスしようと顔を近づけるロバートが本当に素敵。
 でもマリアは逃げて、告白を始める。最初のうちはロバートは話半分に聞いているように見えます。通りいっぺんの反応や慰めの言葉を口にしているあしらおうとしているようにも見える。しかしマリアが真剣で、本当に傷ついているのを感じると、事態の重さを理解し、そして本当にそう思っていたので、
「それは何もなかったことと同じだよ」
 と言う。そして、そのせいで愛さないと言うことはない、と言える。ロバートはそんな人間です。
 キスの仕方を知らないと言うマリアに、
「難しいことではないさ」
 と笑って腕を広げてマリアを誘うロバートさんが好き。優しいわ、やらしいわ。マリアはその腕に飛び込みかけて、立ち止まる。そのまま向かったら、鼻が邪魔になる気がするから。ずっと不思議に思っていたから。
 ロバートがやってみせてくれて、大丈夫なんだってわかって、
「もう一度!」
 と今度は自分からキスしてみるマリアが大好き。可愛い。まっすぐですこやかで、まだまだ素直な子供です。だから「君は小兎」です。ロバートの心には愛しさがあふれます。

 ちなみに私はこの夜はふたりはここで別れたんだと思っています。
 翌朝ふたりが手をつないで現れたのは、朝の散歩の帰りだから。マリアは朝早くに目覚めて、ずっと穿いていなかったスカートを引っ張りだしてきて着て、ロバートを起こしに言って、朝の散歩に誘ったのだと思うのです。
「もう兎さんになっちゃったのかい?」
 は恋人同士になったのか、というくらいのことです。ここのフェルナンドのクールなつっこみも好きだな。言葉少なな役、というのは難しいと思うのですが、今回大ちゃんのお芝居はとてもよかったなと思いました。じっとたたずんでいるだけ、やりすぎない、でも存在感は出す、ということが、できているように見えました。

 エル・ソルド訪問からの帰り道。
 マリアの過去をまた少し聞かされて、涙するマリアを本当にかわいそうに愛しく思って。でもマリアはもう「死ななくてよかったわ」と言えるようになっている。そして、ふたりの心臓が同じリズムで打ち、ふたりが分かちがたい存在になっていることをさらりと言う。
 このときにロバートは真実マリアを愛したのかもしれません。自分がこの計画で死ぬかもしれないことを、彼女をも死なせてしまうかもしれないことを、確信したから。そんなことをつゆ知らずに「あなたは私で、私があなたなの」とマリアが言うから。
 だから「マリア」「なあに」の三連発なのです。
 「胸の高鳴り」の二重唱が最後まで不安定だったのはご愛敬。その後の「寝袋と巻き煙草」のかわいらしさといちゃいちゃっぷりはすばらしすぎました。
「いいねえ、最後のが一番気に入った」
 と言うロバートのおっさん臭いため息がたまりませんでした。

 バレンシアの場面では、ピラールと背中合わせになってくるりと現れるりりこの歌がどんどんどんどん良くなっていって圧巻でした。ユウヒの闘牛士としての歌は、心情を歌う芝居歌ではないので、みっちゃんあたりに任せてもよかったんじゃないんかなと思いつつ、実は毎回けっこう楽しみに聞いていました。声がひっくり返ることとかは意外にないので、聞いていて楽しいというのもありますが。それにしてもかっこいいよねえ…

 パブロと口喧嘩になるシーンは、初日ではかなり台詞をおっかぶせていて、そのタイミングの方がロバートがカッとなる感じが出ていていいなと思っていたのですが…
 「♪いいともロベルト、やろうぜロベルト」の歌と振りはいかにも古風なんだけれど、自分は嫌いになれません…

 騎兵隊が通過するときに銃を構えるロバートさんの、足の開き方がカッコ良すぎでした。
 岩棚に腰掛ける姿がカッコ良くて、彫像にして花のみちに置きたいのと同レベルでした(^^;)。なんか決まってんだよねえ、膝とか直角でさあ…

 二幕の幻想の結婚式の場面は、アグスティンの幻想だと思うことにしました私は(^^;)。
 ここも後半はマリアやロバートに拍手が入るようになりましたねー。
 そのあとのアグステインの「♪俺はゲリラだ」もよく聞くとせつない歌詞で、彼が山の頂上で出会った光というのはマリアのことだと思うのですが、「そのまばゆさに目を閉じた」と歌ってしまっていて、近づいたことも想いを気ぶりにも出さなかったことがよくうかがえます。
 脱出後も彼は遠巻きにマリアの面倒を見るだけで、意外とラファエルあたりがマリアをさらってしまうんじゃないかいな、と思わせるような奥ゆかしさで、彼のことが心配です…ま、フラメンコダンサーはモテるだろうからいいか…

 ロバートのローサに対する「身が持たねえってとこだな、色男」っぷりが大好き。
 ロバートのラグランハの人たちへの丁寧な物腰が大好き。

 パブロにダイナマイトを台無しにされて、ピラールにキれ、マリアに慰められるロバートが好き。

 アグスティンとの会話のくだりは、初日はもっとソフトだったと思うんだけれど、だんだん男同士という面に引っ張られて、ややぞんざいな口調になっていったのが、私としては残念だったかな。ま、ヘミングウェイの想定からすると全然紳士的なんだけどさ。
「ありがとう、嬉しいよ」
 の熱く固い握手の長さ、見つめ合いは千秋楽にはもちろん頂点でした。
 その後のアンセルモじいちゃん告白タイムは、同伴した知人が軒並みウケていて嬉しかったです(^^)。

 最後の夜、ロバートが寝袋を敷くのは、当方では岩棚の上になりました。
 移動がちょっとわずらわしそうだたったけれど、
「いいよ、どうぞ」
 といいながら岩棚にもたれるポーズが美しかったので、DVDに残らないのが残念です。
 私はこの夜ふたりが初めて結ばれたのだと思っています。
 だから、マリアが「その寝袋の中で眠りたいわ」と言ってきたのに、大胆だなと思ったり、言葉どおりの意味なのかなと思ったりしたのだろうし、「ピラールがそうしろって言ったの」という言葉に、なあんだそういうことか、と笑ったのでしょう。
 つまり、ここまでは肉体関係がなくても、愛し合いされていることを確かめあった時点でマリアは自然と「あなたの奥さんになったら」と言うわけで、ロバートも自然にアグステインに対し「俺はマリアと結婚するつもりだ」と言えるわけです。何かに対する責任とかそういうことではなくて、ただ愛しているから。愛を確信しているから。
 過去の傷について、「私を奥さんにしてくれる?」と泣くマリアは、卑屈なのではない。それに対してロバートも、なんの迷いもなく「君はもう僕の妻だ」と言える。
 その上で初めて、ロバートはマリアを抱くのです。
 「今、今、今…」のあと、舞台奥にマリアを誘うロバートが好き。紗幕の奥に引っ込むためでもあるけれど、花嫁を新床に誘う新郎のようでもあるからです。
 ロバートはマリアの首筋に口づけ、マリアは身をそらせます。これが柴田先生ならではの性愛の表現なのだと、私は思うのです。

 橋の爆破が成功したとき、意外に喜ぶロバートさんの背中が好きです。腰のところで両手で小さくガッツポーズしているの。これもDVDにはないんだよね、残念。
 セット崩しとしてもすばらしいし、やはりロバートさんとしても成否は半々で不安だったんだと思うしね。

 クライマックスのミザンセーヌ(ここでは登場人物の導線、の意味で)のめちゃくちゃさはもう仕方がないことにしよう。
 マリアの絶叫は本当にせつなくて悲しくて、毎回涙を誘われました。
 よろよろと立ち上がるマリアを愛おしそうにみつめるロバート。
「別れるんじゃないから、さようならは言わないよ」
 と明るく言うロバート。
「振り向くんじゃない!」
 と顔を背けるロバート。
 機関銃を運んでくれたプリミティボに、こんなときなのに「ありがとう」と言う優しさ。
「さようなら、アグスティン。あの坊主頭を頼むよ」
 と言うときの、万感の想い。
 気が遠くなりかけながら、思い起こすのは、故郷のことでもなく、愛するスペインの未来でもなく、ただただマリアの笑顔だけ。
 不敵なようにも、また幸せなようにも見える笑顔を残して、ロバートは機関銃を撃ち続けて、死んでいきます。
 東宝から、フィナーレとのつなぎに鐘が鳴るようになりました。弔鐘なのかもしれない、天国の訪れを表す幸せの鐘の音なのかもしれない…

 フィナーレも素敵でした。
 トリオの銀橋渡りのあとのロケットがけっこう好きです。
 そしてグレイッシュなピンクのスパニッシュお衣装での、まゆたん渾身のショースターっぷり。
 そしてせり上がる後ろ姿、背中には羽、「私、飛べるんだ」と言ったマタドールの登場…!
 大階段を降りてくる六人にスポットが次々当たっていくところは、DVDはただ正面から引いて撮っていてほしかったなー。ここは大空さんのアップなんかいらないんだよー。
 逆に銀橋でひらりと笑う笑顔は押さえておいてほしかったなー。
 上手の端でやる「闇広」には千秋楽では拍手が入り、そのあとの手を引っ張りあうくだりでふたりが微笑みあっていて、もう本当に胸が震えました。
 デュエットダンスのお衣装も本当に素敵で、組む前に離れている間も心のつながりを感じて、不思議な空間でした。リフトはやっぱりアレだったけれど…そして銀橋ラストのキメは、スミカは横顔を見せてほしかったけどな。完全に顔を見せないのは寂しかったので。男役だけが顔を見せていればいいってものではないのですよ。
 パレードの白いお衣装も、肩の独特のデザインなど、見慣れればいつしか好きになっているのがコワいです(^^;)。
 シャンシャンも初日は「ホントにシャンシャンだよ!」と思っていたものでしたが、美しい音に心が洗われました。

 うん、いい公演だったな。
 作品に恵まれてるなあ、よかったなあ。

 ちなみに千秋楽の出はまゆたん、みっちゃんと揃い踏み。
 黒縁メガネでニコニコで、誰が言ったかお洒落エリートスポーツ選手みたいでした。
 まゆたんがエクステつけて長髪で、ハリウッド女優みたいで。軍服風のボタンが付いた黒のロングコートのみっちゃんが、お騒がせセレブ夫婦のSPみたいに見えました。
 まゆたんを抱き寄せて「花もよろしくねー」なんて言っちゃって、ホントに寒かったけれど、そのときだけは寒さを忘れましたよね…
 星原先輩も生徒監のお父ちゃんに同伴されて大泣きで、お花はスミレで…もらい泣きしました。卒業おめでとうございました。

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スタジオライフ『11人いる!』

2011年02月08日 | 観劇記/タイトルさ行
 あうるすぽっと、2011年2月6日マチネ。

 宇宙大学の入学試験最終テストは、外部との接触を断たれた宇宙船で、10人一組が53日間の宇宙飛行を成し遂げるというものだった。非常信号の発信ボタンを押して外部と接触すれば、生命は保障されるが、連帯責任で全員が不合格となる。しかし宇宙船・白号には何故か11人いた。受験生たちの試練が始まる…
 原作/萩尾望都、脚本・演出/倉田淳。スタジオライフの萩尾作品の舞台化は『トーマの心臓』『訪問者』『メッシュ』『マージナル』に続く5作品目。

 初めてのスタジオライフでした。
 『トーマの心臓』を舞台化した、男性だけの劇団、というだけの認識しかありませんでした。
 今年で創立26年と意外と歴史があるのだなとか、ほぼすべての作品を書いている脚本・演出家さんはひとりの女性だったんだなとか、今回初めて知りました。
 いやあ、なんでも観てみるものですね。いろいろとおもしろかったし、考えさせられました(^^)。

 スタジオライフの観劇歴がある知人に連れて行っていただいたのですが、
「漫画をほぼそのまんまやります。台詞もほぼそのまんまです」
 と聞いてはいました。実際、今回は休憩なしの二時間半でしたが、この劇団の作品としては短い方だそうです。

 「そのまんまやる」と聞いて覚悟はしていたのですが、原作漫画の最初の見開きにある、宇宙開拓史みたいなものから始まったのにはビックリしました。私はSF者なんで大好きだし、ある意味では重要だと思える部分ですが、耳で聞いてもとらえづらい言葉も多く、しかもあまり滑舌の良くないナレーションで、のっけから不安になってしまいました…
 そのまま、原作漫画はなんと言っても1975年のもので、科学考証的にいろいろとごにょごにょ…な宇宙服がこれまたそのまんま登場し、またマスク越しだからというのもあるでしょうが聞き取りづらい棒読みの台詞が応酬され、ますます不安になり…
 キャラクターの顔が見え出しても、仕方ないんでしょうがヌーム(林勇輔)に笑いは起きちゃうし、タダ(山本芳樹)のカチューシャも漫画まんまなんだけど実際に見るとひやややだし、フロル(及川健)の鬘もやたら長いしであわわわわとなり、なんか観ていくのが耐えがたいかも…と冷や冷やしました実は。

 が、簡素なセットを意外に上手く使っていたり、フォース(仲原裕之)やガンガ(船戸慎士)が意外にていねいな演技をして締めてくれていたり、というのにだんだん慣れてきて…
 そうしたら、やっぱり原作はよくできているし、ストーリーもオチもわかっていても話の展開にはドキドキさせられるし、だんだんワクワクしてきて、普通に見入ってしまいました。

 最終的には、稚拙な部分も含めて、でも熱くまっすぐ一生懸命に演じている役者さんたち、というのにジンときちゃいましたし、それは最終試験に全力で挑むキャラクターたちの青春模様と完全に重なっていて、最後はほとんどホロリとさせられちゃいました。
 最後にみんなで手を合わせるとこなんて、ホント青春!って感じで、いいですよね。
 明るく未来に羽ばたいて終わる、素敵な作品になっていたと思います。
 ま、個人的には、せっかく舞台化するんだから、漫画のまんまにやらずとも、もっと省略したり誇張したりすればよりいい舞台になったんじゃないの?と思わなくもありませんでしたが、それは多分そういうスタンスでは作品を作っていない、ということなのだと思うので、それならそれでいいのではないか、と最後は納得してしまったのでした。

 ただのイケメンを愛でているだけの空間なんでしょ、なんて斜めに見る気持ちもなくはなかったのですが、そんなことを言ったら宝塚も同じだし、実際に似ている部分も多いのだろうな、とも思いました。
 でも一番似ているのかもと思ったのは、性別はちがえど美形を愛でる、という部分ではなくて、一生懸命やっている人を応援する、役者のその熱い姿勢込みで鑑賞するファン・観客の見方かな、と思いました。これは外部の、一般的な舞台にはあまりないことなのではないかしら。
 もちろん一般の舞台作品でも、演じている俳優さんそのもののファンというスタンスの観客もいるとは思いますが、ある演目のために立ち上がるカンパニーは、当然その演目、戯曲、芝居の世界を見せるために芝居をするのが大前提で、中の人・俳優はそれを体現する器にしかすぎない、という部分が大きいと思うのです。
 でも、スタジオライフも宝塚歌劇も、それはある意味で真のプロフェッショナルではないということなのかもしれませんが、役と同じくらい役者を見せることにも意味があると思って作られている舞台ですよね。だって特に意味のない、あれだけ漫画そのまんまにやっているのに漫画にない、役者の顔見せだけのための場面とかがあったもん。それはそういうファンサービスであり、そういう舞台姿勢なわけですよね。
 それがカンパニー制度というものの真髄なのかもしれません。
 それはいいとか悪いとかではないということです。

 逆に、宝塚とちがうなーと思った点は…宝塚歌劇では男性キャラクターも女性が演じるわけですが、だから普通の男性以上に素敵な男性になるように作るし、そういう男役が演じている男性キャラクターをより男性らしく見せるために、女性キャラクターを演じる娘役もまた普通の女性以上に素敵な女性になるように作っています。
 そういう工夫を、スタジオライフではしていないように見えました。すごく簡単に言うと、ビジュアルがそんなに素敵ではなかった、ということです。いやファンの方すみません、怒らないで! 最後まで聞いて!!
 男性が男性キャラクターを演じるのだから、そのまんまでよくてかっこよく補正する必要はない、という考え方ももちろんあるでしょう。しかしこれは原作が少女漫画です。キャラクターたちは少女漫画に出てくる少年、青年たちなのです。それは普通にしたってビジュアルがいいってことなわけですよ。
 11人もいるし美醜の問題以前の異星人もいますし、明らかに美形とされているのはフロルくらいですが、しかし少女漫画において「普通の」キャラクターは「普通に」美しいものなのです。それが少女漫画の少女漫画たる所以です(言い切ったよオイ)。それを体現できていたとは私には思えなかった。
 端的に言って、たとえば肩とか腰とか、体の補正をするだけでももっと素敵に見える人もいたはずなのに、そういうことをしていなくて、それが残念でした。
 男性キャラクターがそのまんまだと、女性キャラクターは…まあフロルは正確には女性ではないわけですがしかし、それに準ずる存在として意味を持っているキャラクターなわけですが、扮する男優さんは背が低くて小柄だしなで肩なんだけど、でもそれはそういうタイプの男性だってだけで「女性らしい」ということとは違うし、私にはただただ普通の男性に見えました。
 タダたちがそのまんまだから、フロルもそのまんまただの男性に見えた、ということです。でもそれじゃ違うんじゃないのかなあ、と思ったのです。たとえばこの演目を外部で上演するなら、フロルは女優が演じ、アルトの声であのべらんめえ台詞をやんちゃにしゃべって、それがいい、って役ですよね。それと同等か、それ以上のことをやれているようには私には見えなかった。
 だから、ああせっかくなのにもったいないな、って思ってしまったのです。歌舞伎の女形が本物の女性以上に女っぽいと言われるように、宝塚歌劇の男役が本物の男性以上に素敵だと言われるように、単性の劇団でしかできないことがあるはずだよな、と私は思っているからです。

 でも、これだけ言っておいてなんなんですが、最後の最後、カーテンコール(幕なしだったけど)のフロル笑顔には単純に「わあ、可愛い人」と思えたので、もしかしたら慣れなのかもしれませんすみません…

 ところで、ということはやっぱりこれはよりディープにハマればBL的に楽しむものになるってことなんですかね。それも女性ばかりで演じられる宝塚歌劇が百合要素と表裏一体(そうなのか)なのと同じなんですかね。
 ただ私は、男になれないと落ち込むフロルにタダが「僕と結婚しなよ」と言うくだりは、純粋にいいシーンだと思うし、ある種のラブシーンであり胸きゅんポイントで、しーんとして真面目に見なきゃいけないシーンだと信じていたのですが、今回客席からは笑いが起きていたのが衝撃的でした。
 そりゃフロルのまばたきがオーバーだったけど、でも!
 笑ったらラブじゃないじゃん、真面目だからラブなんじゃん、笑ったらギャグになっちゃうじゃん!って悲しかったんだけどなあ…それともテレ隠し?
 二度目と言うかラストの「熱があるかも…』の絡みは笑っていいんだと思うんですけれど。感覚の違い? 私がスタジオライフ初心者だから??

 うーん、いろいろと深そうです…
 とりあえず『ファントム』にも興味あるし、またひとつ世界が広がった観劇体験となりました。
 あ、ダブルキャストでその日舞台に出ていない役者さんが物販の売り子をしていたり、チケットのモギリをやっていたりするのも、小劇場ではわりとあたりまえなのかもしれませんが、私には新鮮で楽しかったです(^^)。
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