駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『ピーターパン』

2012年07月29日 | 観劇記/タイトルは行
 東京国際フォーラム、2012年7月29日ソワレ。

 ロンドンにあるダーリングさんのおうち。今夜、お父さん(武田真治)とお母さん(渚あき)はパーティーにお出かけです。優しいウェンディ(仁藤萌乃のジョン(大野哲詩)、甘えん坊のマイケル(大東リッキーと清水詩音のダブルキャスト)は犬のナナとお留守番。そこへ、小さな光と共に男の子が飛んできました。ピーターパン(高畑充希)と妖精のティンカーベルです。ピーターはなくしてしまった自分の影を探しにきたのですが…
 原作/ジェームズ・M・パリ、演出・潤色・訳詞/桑原裕子、翻訳/秋島百合子、音楽監督・編曲/宮川彬良。
 1981年日本初演のブロードウェイ・ミュージカル。全三幕。31日には上演1500回を迎える。

 明らかなファミリー・ミュージカルなのでどうしようかと迷いましたが、高畑充希と武田真治のミュージカル俳優としての力を評価しているので、出かけてみました。
 とにかく客席が子供ばかりでビビりましたが、子供が飽きない工夫はされていて、でも子供だましではなく大人も楽しめて、子供は一度集中し出すと身じろぎもせず舞台を見つめるので、マナーが悪いのはむしろ大人の方でした。オペラグラスの貸し借りにごちゃごちゃ話す、前の席を蹴るなどなど。

 ディズニーアニメとか元の童話をよく知らないのですが、だいたいのあらすじが絵本のようになってプログラムについていたので、特に問題はありませんでした。
 ラストの、ウェンディが大人になってお母さんになってもう飛べなくなってしまうくだりは、『ナルニア国物語』で上の娘がたどった運命を思い起こさせてちょっと泣けました。私がナルニアを読んだのは小学校高学年の頃だったけれど、そのときですら私は自分が下の娘ではなく上の娘のタイプの人間であることがわかっていたりしましたからね。そのわりには未だにそんなことを生業にしているのだけれど、でもそれは子供のままで夢を見ているのではないのです。大人になって夢をつくり夢を売っているのです…フック船長の「夢を失うな、夢だけ見るな」というのは正しい。
 ティンカーベルがライトで示されて、アニメのように姿を現さないのもなかなかお洒落に感じました。
 あと、フライングはやはり大人でもテンション上がりますね! ワクワクしました。
 フック船長(武田真治の二役)があんなエキセントリックなキャラクターだということも知りませんでした…もっとおじさまの俳優が演じるともっと渋くなるのかな? でもよかったです。
 ダーリング夫人(渚あき)でやわらかな母親役を演じてみせたアキちゃんが、ぐるっと回ってラストではウェンディの娘ジェーンを無邪気に演じる…というのも素敵でした。さすがの演じ分けでしたよ!

 ピーターがウェンディに「女の子は男の子二十人分の価値があるんだ」と言ったときには、おっ、っと思ったのですが、女性を尊重しているというより、そもそもネバーランドには女性がいないんですね。まあタイガー・リリー(皆川まゆむ)はいるけど、これは数に入っていないのでしょう。本当のところを言うとそれもどうなんだという考えもあるわけですが。もっと言うとインディアンとか今どきいいのかという問題もあるわけですが。
 で、ピーターも、迷子たちも、海賊たちも、求めているのは「花嫁」ではなく「お母さん」なんですね(リリーを女王に掲げているインディアンたちだけは、必要としていないのかもしれません)。
 それも、自分の子孫を残すための母体としてではなく、自分を絶対的に守り愛してくれる存在としての母親、なんですよ。
 確かに、小さいころ、女の子の夢は「お嫁さんになること」よりもっと以前は、「お母さんになること」なのかもしれません。身近なロールモデルが母親くらいしかないわけですからね。そういう意味では、とても本来的なことをウェンディは求められているのかもしれません。
 怖い大人の男のように見える海賊たちも、外見がそんななだけで、中身はただの男の子なんです。海賊ごっこで遊んでいる子供たちと同じなのです。そしてみな、母親にうち捨てられた子供たちなのでしょう。
 もしかしたらネバーランドって、幼くして死んだ子供たちの魂が集う島なのでしょうか。そして、なりたかったものになって楽しく遊んでいるのだけれど、本当に欲しいものはただ「お母さん」だったりする…
「なんで私にはいないんだ!」
 という船長の悲痛な叫びが心に刺さりました。
 そのくせ彼らは、「お母さん」というものに対して薄ぼんやりとしたイメージしか持っていない。だからほとんど子供みたいなウェンディが来ても「お母さんだ!」と受け入れられるのです。
 それは何か優しい、やわらかい、温かいものに名づけられた名前なのです。

 ウェンディもごっこ遊び程度なら母親の役割は楽々と果たせるわけで、楽しく応じてみんなに喜ばれます。
 でも彼女は、いくつくらいの設定なのかな、キスを知っている、恋に恋することを知っているくらいの、児童よりも明らかに少女の年齢です。
 彼女が「お母さん」になるときには、ピーターに「お父さん」になってもらっている。子供たちにとってはただの親ですが、ウェンディにとってはピーターは夫だということです。
 ウェンディは少女として、小さい女として、すでにピーターに恋をしているのです。
 でも彼は少年以前の子供です。キスも知らない。もちろん恋も知りません。
 私は別れ際に、ウェンディがピーターにさよならのキスなんかしなくてよかったなと思いました。それは彼にキスを、恋を教えてしまうこと、彼を汚してしまうことでもあるかもしれないから…
 真に年をとらず、ネバーランドに住み続け、空を飛び続けるためには、恋なんか知ってはいけないのだと私は思います。ひとりでまったき世界を持っていた頃の子供のままでいないとダメなのだと思うのです。
 そしてもちろん、普通の人間にはそんなことは無理なのです。
 ウェンディだってずっとずっと窓を開けて待っていたに違いありません。でもピーターがちょっと遊びに呆けている間に、こちらでは二十年もの時間が流れてしまい、ウェンディは大人にならざるをえなかったのです…
 そして、大人になると、行ってらっしゃいなんて子供を空へ送り出せないものなのです。自分がかつて行って、そしてちゃんと帰ってきたことを覚えていても。
 心配そうなウェンディの声を振り切って、ピーターとジェーンは空へ飛び立ち、幕は下りるのでした…

 しかしワニがいい仕事していたわ!
 あとティンカーベルのくだりはうっかり泣いたわ!
 観てよかったです。

 ところでプログラムにブロードウェイ版の台本や音楽の作者について記載がありません。どういうこと?
 それからダブルキャストのマイケルについても場内に掲示がなかったです。失礼だと思います。
 そういえばAKN48ファンの大きいお兄さんが来ている感じはあまりしなかったな…


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宝塚歌劇星組『ダンサ セレナータ/Celebrity』

2012年07月27日 | 観劇記/タイトルた行
 東京宝塚劇場、2012年7月14日ソワレ、25日マチネ。

 クラブ「ルアアズール」のステージでは、イサアク(柚希礼音)たちを中心としたダンスショーが繰り広げられていた。ショーは大盛況のうちに終了するも、いさあくだけは納得できない様子を見せる。パートナーのアンジェリータ(白華れみ)はイサアクの言葉に耳を貸そうとせず、バーテンダーのジョゼ(涼紫央)がその様子を心配そうに見つめている。それから間もなく、イサアクは酔っ払った兵士に絡まれた植民地出身のアンジェロ(十輝いりす)とモニカ(夢咲ねね)の兄妹を助けるが…
 作・演出/正塚晴彦、作曲・編曲/高橋城、玉麻尚一。

 初見時は、「老いたなハリー…」と絶句しました。
 宝塚歌劇初観劇が『メランコリック・ジゴロ』なので正塚ファンだったし、不評だった『ラストプレイ』も『ロジェ』も『はじめて愛した』なんかの近作も許容できてきたというのに…
 二度目に見たときはだいぶココロが優しくなっていて(^^;)、「ま、これはこれでアリかな…」というくらいにはおちついたのですが。

 正塚先生がモチーフとしてほぼ常に取り上げる、戦争とか内乱とかは、私は嫌いではないんですよ。
 私自身はノンポリですが、それって無責任なことだとも思っているし、政治的なことってやはり人生にかかわる問題だと思うから。
 宝塚歌劇に不向きな素材だとも思わない。それがうまく、キャラクターたちの人生や愛のドラマに結びついていればね。物語として重要なのは後者だから。
 だからこの作品で一番不満なのは、この物語の中の戦争、内乱に主人公自身が一番距離を取ってしまっている点なのです。

 ホアキン(紅ゆずる)は現政権の国家防衛警察情報部中尉です。だから仕事として現政権のために働き戦っている。
 現政権のあり方や時刻と植民地のあり方について疑問を持つこともあったでしょう。でもとりあえずそれには目を瞑り、職務に邁進している。男性にありがちな生き方ですね。でも筋は通っていて、悪くないキャラクターだと思いました。ベニーの芝居にもう少し深みがあれば、あるいは私がもう少しベニーを好きなら、萌え萌えで見たことでしょう。でもベニーは上手くなったよね! 特に歌はかなり向上した。ショーのダンスはやっぱりまだまだつらかったけど…(^^;)

 アンジェロとモニカも植民地出身であり、完全な当事者です。
 アンジェロは独立運動のリーダーで、本国の反政府グループと結託しようとやってきました。
 モニカは運動には直接かかわっていず、戦乱を避ける意味で故国を出てこの国に留学中?みたいな身ですが(オーディションで勝手に?採用されてあっさり承諾していますが、それ以前に働いていたりはしなかったのか?とちょっとぎもんだったのですが…)、戦争がおちついたら故国に帰って父の事業を手伝いたいと考えている。ダンスは好きだけれど、趣味程度であって、あくまで自分の国に根ざした人生プランを持っている人間です。

 でも、イサアクはそういう人間じゃない。
 根っからのダンサーで、ダンスなんて体の動く若いうちにしかできないということもわかっていて、今ベストの踊りをしたいと思っていて、常により良いものを模索している。それはいい。
 国家とか戦争とかなんてくだらないことだと思っているし、どこでも同じだとかどうでもいいことだと思っている。それも一理あるでしょう。ボヘミアンというかコスモポリタン思想みたいなものがあるというのは、より高次なことかもしれないからです。
 でもそれが今、現実に、血を流して戦っている人に対しての説得力を持つかどうかはまた別です。そして私はイサアクからはそれが感じられなかった。だからどうしても「何言ってんのこの男?」って感じになっちゃうんですよね。

 思うに、イサアクの過去設定に失敗していると思うんですよ。親がギャングに殺されてそのギャングに復讐してそれで国から逃げた、なんてごく個人的なことじゃん。国家とか政治思想とかとなんら関係のない話ですよ。
 しかも私は二回しか観ていないのでよく台詞を把握していないのですが、彼は旅回りの一座のタップダンサーで国から国を渡り歩いていたようですが、殺人自体はどこで行われたんですかね? この国? なのに郷愁で戻ってきちゃったの? 逮捕されないの? 服役したの? 罪は償われたことになっているの?
 復讐だろうが殺人は殺人ですよ。しかもすぐやり返してるんじゃなくて、15歳になるまで待ってやったんでしょ? それは何故? ある程度体が大きくなるまで待ったっていうこと? その間に冷静になることはできなかったの? 復讐しても愛した人は帰らないと考えられなかったの? てか復讐って女々しくて空しいって『ロジェ』で学習しなかったのハリー!?
 こんな犯罪者を主人公に据えていいの? 宝塚歌劇のトップスターに演じさせていいと思ってんの?
 この設定、ホント何から何までいらないんですけど!

 それより、過去に政府のために働いてでも裏切られて、だから今はただの一般人のノンポリの、むしろアナーキストを気取っている、くらいにした方がよかった。
 でも裏では亡命を希望する人間を秘かに手引きして、なじみの漁師の漁船でマルセイユまで逃がしてやっている、孤独なゲリラ活動をしている、とかね。
 そういう、自分なりの政治活動をしていればこそ、アンジェロやモニカのまっすぐすぎる政治行動を無謀だよとか無駄だよとかそもそも国なんてくだらないんだよとか言える。言う資格がある。
 そういうもんじゃないですかね?

 だけど現状のイサアクは、とにかくなんだか今の自分がしっくりしてなくて、「確かめるために」モニカを利用したようにしか私には見えませんでした。
 そんなことに女を使わないでもらえませんかね? ましてわれらがねねちゃんを!
 私、初見時に最初のキスシーンで仰天しました。いつの間にそんな気持ちに!?って感じだったし、そのあともその気があるかないか確かめるために、みたいなこと抜かすし。そんなのレイプだよ。親しくもないのに他人の体に勝手に触れてはいけません!!!
 このキスは二度目に見たときもやっぱりイラッとしたなー。モニカが流すから一応納得するけれど、本当だったら頬ひっぱたいて股間に蹴り入れて警察呼んでいいレベルだと私は思うよ。
 最後の最後までイサアクは「確かめられたから、いいんだ」みたいなことしか言わない…ホントむかつくわー。中の人のせいじゃないよ、ハリーの書き方が悪いんだよ。ハリーが書きがちな男性主人公の悪い方が出ているよ。女は男のためにあるんじゃないということが一体いつになったら男は理解できるのかなあ…

 ラストもさあ。
 私は「歌劇」か何かで、ラストは時間が飛んで、ヒゲのイサアクが現れて、そこにモニカもいる、とは知っていたのですよ。
 でも私は、イサアクと管理人がしゃべっているところに、楽屋でも見ていたモニカが出てきて、「じゃあ帰りましょうか」とか言うんだと思っていたの。
 つまりモニカはイサアクと共に廃墟になったこのクラブを訪れていたんだと思っていたんですよ。すでにふたりは再会していて、結婚していて、クラブが潰れるっていうんでふたりで訪ねてきた。ふたりがあのあとちゃんと再会して今は幸せにやっているということがここで観客にわかる、という演出なのだと、まあ勝手にそう想定していた方が悪いのかもしれませんが。
 しかし現実には、ここで再会するんだったんですね。でもなんで?
 ジョゼがモニカに手紙を出せたくらいなんだから、探す気になればイサアクにだってモニカの居所は突き止められたはずじゃん。だったら戦争が終わったらすぐ迎えに行くもんじゃないの? いや受け入れられるとは思えなかったのかもしれないよ、でも顔くらい見に行くだろう、好きなら!
 なのになんなの? 確かめられたからよくて、あとはもうどうでもよかったってことなの?
 モニカの「今もひとりよ」なんて完全にご都合主義だよね。それが何年後の場面なのかよくわからないけれど、賢い女は愚かな男を待ったりしないと思うよ?
 それでも一万歩くらい譲って、「俺と踊ろう」と言うイサアクは素敵なんですけれどね。
 かつては、ダンスのパートナーとしてモニカを求めた。ダンスは若いときにしか踊れないから。モニカがダンスが上手いから。
 でも今、若くなくなって、もしかしたらもうダンサーではなくて、でも「踊ろう」という。それはつまり、残りの一生を共にすごそう、ということです。それはわかる。だからきゅんとくる、じんとする、感動する。
 というかそうすっきり感動して終わりたいの!
 だからそれまでのこの消化不良をなんとかしてほしいってことなの!って話です。

 ああ…書き出したらやっぱり長くなっちゃったよ…すみません…

 そうだ、あと、アンジェリータは、れみちゃんが演じていたからギリギリ成立していたけれど、普通に考えたらちょっと嫌な女だと思う。正直でサバサバシテイテかっこいいというよりは、無神経で嫌な女で、本当はこんな女性ってあんまりいないと思う。男性作家のミソジニーを感じました。
 あとモニカが警察に捕まってクラブのみんなで意見が割れるときの台詞がよくわからなかった。自分の代わりはモニカしかいないといっていたかと思ったらリタ、いやパトリシアがやればいいかとか言っているみたいで…
 あとトヨコの扱いはやっぱりちょっと微妙だったよね…もうちょっと本筋に絡む役を当ててあげたかったよね…
 それと気になったのは、リタ(早乙女わかば)とフェルナンド(美稀千種)のキャラクター造詣。私はこういう形で笑いを取ろうとするのはユーモアとかではなくて、ちょっと安いと思った。実際にはこういう人間っているんだけれど、でもちょっと不愉快でした。私はね。
 あとさー(どんだけ「あと」が続くんだ)、ルイス(真風涼帆)はなんなの? わざとなの? 下手なの? 正塚芝居が合わないの? ものっすごい浮いていたように私には見えたんですけれど。
 あと、こんな駆け落ちが失敗するのは当たり前なのでそれはいいんだけれど、でもつまりこの男は恋人を幸せにできなかったダメ男ってワケなんですよね。それでいいの? スターにやらせる役がそんなんで? 宝塚歌劇に出てくる男はすべからく女を幸せにするべきである、というのは極論かもしれないけれど、私はちょっとオイオイとおもってしまったんですけれどねえ…
 まあでもまっかぜーはホントに華が出てきたし、上背あるし、期待しているんですけれどね…

***

 ショー・グルーヴは作・演出/稲葉太地、作曲・編曲/高橋城、太田健、高橋恵。
 ギンギンギラギラの濃ゆいショーで楽しゅうございました。以前はオギーふうだったけれど今回はダイスケふうなのか稲葉先生?

 映像で映るヘリコプター、そこから現れるファーに身を包んだセレブリティのチエちゃん。ベタでいいですねー!
 ねねちゃんも加わって赤い革の…なんと表現したらいいのかわからないお衣装(^^;)。フリンジつきのボディスーツみたいな…スタイルが良くないと着られないよなー!
 
 お芝居ではワケアリっぽいながらもとくにでばんのなかったはるこがいい位置でいつも踊っていてよかったわー。もっと使われてほしいわー。

 レディ・ダイヤモンドのねねちゃんが素晴らしかったわー。私にとってはこの曲はヨシコとアヤカのDSで歌われた曲認識なんだけれど、いいよね!
 あとねねちゃんはファム・ファタルのオレンジのドレスも素晴らしかった。ちょっとマーサ・グラハムを思わせて、地母神のようでした。
 ただしドーンでは胸元が開きすぎだったと思う。鎖骨の下のあばらが浮き出て見えるのがちょっと痛々しくて…

 それにしてもまさこの扱いには泣けました。こんな扱いされるために嫁に出したんじゃない! こんなんだったらトップスターの同期生なんかわざわざ組替えで呼ぶなよ!!
 アカプルコ以外は完全に群舞の中じゃん。もちろん背が高いし踊りうまいし目立つよ、でもさあ…
 たとえば黒燕尾で、まずまっかぜーにピンスポ、続いてベニー、そしてトヨコってながれがあるじゃん。そこにまさこを加えてくれてもいいじゃん。
 その三人がチエちゃんを囲んでセンターで踊るところにも、まさこを入れてくれたっていじゃん。
 パレードもさあ、稲葉先生はもともとセンター降りの人数を絞るタイプだけれど、エトワールのれみちゃんがおりたらすぐまっかぜーで、すぐベニーで、すぐトヨコで、まさかまさこを脇で降ろすつもり…!?とガクプルしてたら上級生娘役を両脇にセンターで降りてきたけれど、ソロはなし、お衣装はみんなと同じピンク。
 もう泣きましたよ…どういうことなのホント?
 全ツは番手が上がるだろうけれど、その後の大劇場公演ではトヨコ並みの扱いをしてくれるんでしょうね?
 でないとホントもう、さあ…ファンは泣くよね…
 そりゃ宙組でだって番手不明の扱いでしたよ、でも組替えというものはすべからく栄転であるべきだと私は思っているので、ちょっとこれには憤りました。
 これは書いておく。

 あ、チエちゃんはノリノリの踊りまくりで素敵でした。プログラムのスーツも素敵だよねー。パレードのラストにナイアガラを蹴っぱるところも大好きです。
 チエわかば、ねねまっかぜーというカップルチェンジができるのもトップコンビ歴が長いからこそ。ゴールデンコンビと呼ばれるくらいまで、がんばってほしいです。




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『しみじみ日本・乃木大将』

2012年07月24日 | 観劇記/タイトルさ行
 彩の国さいたま芸術劇場、2012年7月22日マチネ。

 明治天皇大葬の日。大帝に殉死することを決意した陸軍大将乃木希典(風間杜夫)が、自宅の厩舎の前で三頭の愛馬に別れを告げている。馬の好物であるカステラを積み上げた大鉢を持つのは静子夫人(根岸季衣)だ。だが夫妻のただならぬ様子を敏感に察知した馬たちは、突如として人間の言葉でしゃべり出す。しかも三頭それぞれが前足と後ろ足に分裂し、あわせて六つの人格ならぬ馬格として動き出し…
 作/井上ひさし、演出/蜷川幸雄、音楽/朝比奈尚行。1979年初演。全2幕。

 童謡の替え歌が入ったりして、おもしろいミュージカルでした。
 馬たちに扮した役者さんたちも芸達者ぞろいで。
 でも、この作品の本質が、私には残念ながらわかりませんでした。それは私の無教養さ故に、です。

 この作品は、馬たちが推量する乃木大将の生き方を描くことによって、乃木大将の一生とか明治という時代とか天皇制とか、そういったものを見せたかったのでしょう。
 でも私はミーハー歴史ファンで、幕末と明治維新については多少の知識があっても、明治時代になってしまってからは、ましてその末期についてはほとんどなんの知識も持っていないのです。
 乃木大将についても、明治天皇に殉死した、ということしか知りません。どんな軍人だったのかとかどんな軍功を上げたのかとか当時の人にとってどんな存在だったのかとか現代ではどんな評価をされている人なのかとか、まるで知りません。
 この作品は、「乃木大将って○○だと思われているけれど、本当は△△だったのかもしれないよ」というお話なんだと思うのですが、そもそも私にその前提となる○○がないわけですよ、知識として、教養として。
 だから、もちろんお話がわからなかったわけではないのだけれど、本質的なところが届いてなかった、響かなかった、ということなんだろうなあと思います。
 これは、単に作品が古いとかいう問題ではない、根深い問題を含んでいますよねえ…

 さてではそんな私が何故この作品を観に行ったかと言えば、もちろんたぁたんとコムちゃんを見に行ったわけです。
 ふたりは近所の馬車屋の雌馬・英の前足はなと後ろ足ぶさに扮するわけですが、回想場面では男装して児玉源太郎と山縣有朋に扮します。
 これが、井上ひさしの細かいト書きでは「宝塚の男役風に」となっていたそうなのです。それで今回この配役になったそうです。ちなみに過去の公演でこの役を元タカラジェンヌが演じたことはないそうです。
 で、デフォルメとして、ふたりは「宝塚以上に宝塚っぽく」演じていて、コムちゃんはあいかわらず動きにキレがあって華やかだしウィンクも決まるし、たぁたんはヒゲも素敵で今でもすぐ男役ができるな!って感じで、客席も大ウケだったんですけれども。
 でも、これってはたしてどういう意味があったの?という気がちょっと私はしました。
 これまた役のふたりの史実とかを私が知らないからいけないのかもしれませんが、気障な男だったとかなよなよやわやわしていたということなの? それを「宝塚ふうの」演技で見せろ、という演出だったの?
 でも客席がウケていたのは明らかに、「元タカラジェンヌが本物の宝塚より宝塚っぽい演技をしている」ことに対してであって、この役の持つおもしろさとかこの演出の妙味とかそういうものに対して笑っていたのではなかったよ? それでいいの?
 そして私は宝塚歌劇ファンなので、ふたりのOGを「そうよさっきまでは可愛かったけどこの人たち実はカッコいいのよすごいでしょ」と誇らしげに思う一方で、いわゆる「タカラヅカ」というもの(私はこのカタカナ表記に常に悪意を感じる、心の狭い人間です)をちゃかされていることに腹立たしくも理不尽にも思えてきて、なんかイライラしてきちゃったんですよね。
 この場面の本質が捉えられなかった私が悪いのかもしれませんが…

 そんなわけで、ぶっちゃけ消化不良な観劇でした、すみません。

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『へルタースケルター』雑感

2012年07月19日 | 日記
 私は岡崎京子は大人になってから読みました。リアルタイムで、あるいは思春期に読んでいた人とは感想が違うと思います。
 愛蔵しているコミックスは、『pink』、『リバーズ・エッジ』、『ジオラマボーイ・パノラマガール』、『私は貴男のオモチャなの』、『くちびるから散弾銃』。
 『へルタースケルター』は読んだけれど、何度も繰り返して読むほどではない、と判断してどこかで手放したんだと思います。今は持っていません。
 だいたいの設定とうっすらしたストーリーの記憶だけで、映画版を観に行ってきました。蜷川さんの映画は『さくらん』も画面が美しいのが印象的だったので。
 でもまあ、この原作を、この監督が、この女優の主演で映画化するってだけで、企画としては勝ったも同然、というものだったかもしれませんね。
 いろいろと情報が過多なのですごい集中して観たというのもあるし、一本調子のド直球で緩急がなかったとも言えるし、でも一瞬たりとも飽きなかったし、そういう意味ではおもしろい映画でした。音楽の使い方とかもちょっと変でよかった。
 そしてとても女っぽい映画だなあとも思いました。なんでかは上手く説明できないのですが。
 ただ、逆に言うと、「だからなんだ」という話ではあったかな、とも思ってしまったかな。
 でもそこに、ヘンにしかつめらしい解釈とかを乗っけてこなかったところは、私は好感を持ちました。
 美しいことと幸せであることはイコールじゃない、とか、美しさは移ろうもので虚しいものである、とか、美しい偶像を消費して進む現代社会の闇がどう、とかさ、そういうわかりきった結論めいたものを特に置かなかったところが、私はよかったなと思ったのでした。
 好きかとか、人に勧めるかとか聞かれると、また回答に困るのですが…まあ、でもいい経験ができたかな。いろいろ思うところがあり、そういうことができたのがよかったです。

 思えば、美しいことにアイデンティティを置く生き方って、そりゃつらいよね。
 外見的な美はことに移ろいやすいし、内面からにじみ出る美なんてそうそう簡単に手にできるものじゃないだろうし。
 ただ女の子は、小さいときに「可愛いわねえ、綺麗ねえ」とか褒められて、それでそこに自我の立脚点を置いてしまうことも多いと思うので、こういう闇に囚われやすいんだろうなあとは思います。
 思えば私はそういう子供ではなかった、それでよかったと今は思うよ…
 可愛いとか綺麗だと言われて褒められることはなかった、そんな容姿じゃなかった。常にしっかりしているわね、お勉強ができるんですってねえ、という形で褒められる子供だった。そしてそれは単に事実で、私は学校の勉強が上手だったし、ガキ大将というかリーダータイプの性格だったので学級委員とかを好きでかつ平気でこなすようなタイプの子供だったのだ。
 さらに長じてはオタク気質が開花し、そこにアイデンティティを持つようになった。
 女子としてグレすぎなかったのは、美人でなくとも十人並みではあったことと、母親には本当に可愛く見えるらしく褒めて育ててくれたことが大きかったと思う。
 でもそういう、容姿以外の個性とか能力とか資質とか、要するにそういう「中身」をみんながみんな上手く発見できるとは限らないし(本当はそういうものがまったくない「空っぽな人間」なんて存在しないはずなのだけれど)、その場合この世は女にはいきづらいものになりやすいのだ…ということなのでしょう。
 りりこにだって、愛し気にかけてくれる人はいたのに。彼女がどんな姿をしていようと、変わらず心を寄せてくれる人が。
 でも、彼女はそれに気づかなかったのか、それでは足りないと思ったのか…それで踏み出して、走り続けて、そういて断崖から落ちたのですね。


 あとはあまり映画とか物語とかにあまり関係がない点についてなのですが、ちょっと思ったところを…

 なんかさあ、エリカさまをあんだけ脱がせて見せているんだから、窪塚でも綾野剛でももうちょっと脱がせろよな、と思ったのですよ。
 いや、女の女による女のための映画なんだから男の裸を出せとか、そういう浅薄なことじゃなくて。
 リアリティがないじゃん、それが嫌なの。
 いくつかある濡れ場で、というかそのほとんどが、情熱ゆえの性急さを表現しているんでしょうが、服半脱ぎで行われるわけですよ。まあそれはその方がセクシーだしね、というのもあると思うので、それはいい。
 でもさ、私はこういうときに、男性がズボンのベルト外してファスナー下ろして、それだけでやるってのがとても嘘っぽいと思っていて、それがとにかく嫌なんですね。すごく冷める。
 立ちションじゃないんだしさあ。そんな状態でペニスだけ出したって、もちろんやってやれないことはないんだろうけれど、棹でも陰毛でも(ダイレクトですみません)ファスナーに引っかかりそうで、気になると集中できないだろうし、だから普通はそんな状態ではやらないと思うんですよ。
 服は邪魔だしさ、普通に膝くらいまではズボン下ろしてやるんじゃないかと思うワケですよ。せいぜい半ケツくらいになるとかね(重ね重ね、こんな表現ですみません)。
 でもそれくらい真剣にセックスしてほしいわけ。でないと相手の女性キャラクターに失礼じゃない?
 上半身は服着てて、下半身は脱いでいて、そらマヌケですよ。でもセックスってそもそもそんなに綺麗なばかりのものじゃない。そのマヌケさがリアリティだし、美しさが必要ならそんな状態でも美しく撮るのが技ってものでしょう?
 なのに、これは少女漫画とかでもそうなんだけれど、女の体は見せるくせに男の体は見せないんだよね。少女漫画家はたいてい女性だから、女の体は自分を参考にある程度描けても男の体は上手く描けない、画力がないってこともあるかもしれないし、少女漫画の読者は実は男の体をそんなには見たがっていないのかもしれない、ということもあるかもしれないよ?
 でも私にはただの逃げ、怠惰に見える。ただリアルに描けないことから、それを素敵に描く力がないことから逃げているだけだと思う。
 お尻なんてモザイクかけなきゃいけない部分じゃないし、普通に見せろよ、ちゃんと描けよ、って思っちゃうんだよなー。
 リアルって、セックスって、愛って、嘘がないって、そういうことじゃないの?

 もう一点、これはオチというかクライマックスについて。
 記者会見でりりこが何をしでかすかということは私は綺麗さっぱり忘れて観ていたのですが、なので「あら、『殉情』」とか思ったワケです。世間一般的には『春琴抄』ですね。
 TVCMのキャッチなどでも使われている、「見たいものを見せてあげる」という台詞がこの物語のひとつのテーマなのでしょうが、今なら、私なら、だったら両目やらせたかもな、とか思いました。
 全身整形したりりこが元のままなのは「目玉と耳とアソコくらい」だそうで、その目すらダメにする、というのがいいのかな、と思ったし、片目だけでは眼帯はファッションと変わらない。
 そうではなくて、両目を潰して、もう本人は何も見ることができなくて、それでもどこか異国の曖昧宿(!)で、自分は見世物になって生きている…というのが、いいのかな、と思ったので。

 しかしいい寺島しのぶであった、いい桃井かおりであった、いい原田美枝子であったことよ…!
 うん、やっぱり満足。レディスデーで1000円だったしね!(爆)





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『ルドルフ』

2012年07月16日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 帝国劇場、2012年7月16日マチネ。

 1888年10月、オーストリア・ハンガリー帝国。ウィーンのホーフブルク劇場では皇帝フランツ・ヨーゼフ(村井國夫)列席のもと華麗なオープニングセレモニーが行われていた。しかし煌びやかな帝国の表の顔とは裏腹に、国内外の情勢は混乱を極め、帝国内では諸民族独立の動きが活発になっていた。そんな中、自由と独立を求める皇太子ルドルフ(井上芳雄)は、国民の声に耳を傾けるよう父である皇帝に訴えるが…
 原作/フレデリック・モートン、音楽・原案・脚色/フランク・ワイルドホーン、脚本・歌詞/ジャック・マーフィ、追加歌詞/ナン・ナイトン、演出/デヴィッド・ルヴォー。翻訳/迫光、翻訳・訳詞/竜真知子。
 2006年ハンガリー初演、08年日本初演。09年ウィーン初演に際し改定されたルヴォー版の日本初演。全2幕。

 そういえばもう一昨年になるのか?いや三年前か?にウィーンに旅行して、オペラ座でバレエ『マイヤーリンク』を観ましたよ…
 ところでマイク・ブリットンの装置が素晴らしかったです。私は盆は回してなんぼ派なので(^^;)。カーテンというか幕というかの使い方もよかったなあ、赤の使い方も素敵でした。

 しかし話は…私はなんかいろいろ考えながら観てしまって、いい観客ではなかったと思うので、その点をお含みおきつつ読んでいただけると助かるのですが…
 私には納得がいきませんでした。このキャラクターで、この展開で、何故ふたりが心中に至るのか、さっぱりもってわからなかったので。
 私にとってはほぼ唐突にベッドと一面の蝋燭とスモークが出てきて「えっ、これでもうラストなの!?」とか思っているうちに暗転と銃声、だったので…
 えええ全然わかんない。誰にも共感できないうちに終わってしまったというか…しいていえば理屈が通って見えるのは皇太子妃ステファニー(吉沢梨絵)だけだったのですが…あれえ?
 別に『うたかたの恋』が観られると思っていたわけじゃないですよ、でも私だって愛の悲劇に涙したかったのに…あれえええ??

 とにかく驚いたのがマリー(和音美桜)の造詣です。そここそがルヴォー版の改変だったようですが。
 冒頭、ホーフブルク劇場のオープニングセレモニーで、庶民らしき女性が舞台に走り出て拳銃自殺をします(プログラムは「自殺する下層民」となっています。これもすごいな)。なにやら政治的な抗議のためなのだろうということはうかがえます。
 首相のターフェ(坂元健児)が必死に事態の収拾を図ろうとする中で、なかば呆然と女性の死体に近づくルドルフ。そこへ若い女が走り寄ってきて、
「毎日ゆっくり死んでいくよりは、一度に死んでしまいたいときもあるのよ、人間には!」
 みたいなことを言い放ちます。同伴していた年上の女性、これは私は一路真輝の顔はわかるのでこれがラリッシュかとはわかったのですが、彼女が
「マリー!」
 と呼ぶので、ではこれがマリーなのかオイすごいキャラだな!と思ったところから私の観劇はスタートしました(^^;)。
 イヤその前の、セレモニーに向かうために身支度するステファニーとそれを無視するルドルフ、のやりとりにはニヤリとしましたけれどね。この場面は登場人物が誰でありどんな関係かよく表現していてよかったです。
 しかしマリーは私は顔がわからないということもあるし(彼女が在団していたころの宙組公演を私はほとんど観ていないので…そして今回は真ん中からやや後方の全体が見やすい席で、そして私は本来はオペラグラスを使うのがあまり好きではない質なので)、次に出てくる場面とかはなかなか名前が呼ばれないのでわかりづらく、不親切な演出にイライラしましたが、とにかくメインふたりが出揃って話が始まった、とここで思ったわけです。
 しかしスターにぱっとスポットライトを当ててアピールする宝塚歌劇の様式美と親切さはすばらしいなあ!
 
 それはともかく、次の場面では彼女はツェップス(だったかな?)の新聞を読んでいて、どうやらルドルフが偽名で書いている記事の熱心なファンであるらしいことが描かれるのです。さらにすごいなオイ!
 私は史実はだいたいのところしか知りませんが、彼女は男爵令嬢なんですよね。落ちぶれかけた、なのか成り上がり気味の、なのかは物語によって扱われ方が違ったのではなかったかなあ。ここでは家は零落していて、彼女は家族を助けるために財産家との政略結婚を勧められているらしい。しかし別に「♪結婚だけは好きな人としたい」という理由からではなく、単に相手が気に入らないのでその話からは逃げているらしい。
 まっとうに育てられた貴族の女は愛と結婚が別物だと教育されるので、普通は政略結婚を嫌がらないものなのではないかと私なんかは思いますけれどね…家族のために政略結婚をしないのは義務の放棄だよね。ただのわがままです。アタマか悪いとさえ言える。
 しかし彼女は別にロマンチックな愛を求めているからとかそういうことではなくて、まあいずれそのうちしなくちゃなんないならしますけど今はもう少しだけほっておいてほしいなあ、くらいに見える。それには好感を持ちました。自然なことだと思えるからです。なんてってってまだ17歳だしね。
 では何が彼女にとって当面の問題なのかというと、それが驚いたことに政治問題なわけなんですねえ。
 貧乏かもしれないけれど貴族の特権は享受しているであろう年端もいかない幼い娘が、なんだって現政権の政治に反対したりするんですかねえ。私は政治に疎いんでさっぱりわからないのですが…

 本当のことを言えばそれはルドルフに対しても言えることなんだけれど、彼については明らかに父親への鬱屈という側面があるわけです。
 フランツ・ヨーゼフ自身は若くして即位して、そこから在位50年とかそれはめでたいことですが、確かに体制は硬直しているだろうし、皇太子のルドルフは中年になろうとしているのにさしたる権限も与えられずただくすぶっているんだから、それは不満もたまるし反抗もしようというものです。
 そこを反体制派につけこまれたりなんたりしているんですよね。でもこれは類推や『エリザベート』からの知識であって、この作品の中できちんと何が原因で誰と誰が何をどう争っているのかが描かれることはあまりなく、それがこの物語の弱さになっていると私は思いました。
 誰と誰が何をどう争い、それがどう展開し、だからそれに敗れた者が死を選ばざるをえなかったのだ…という物語の流れが私には不明瞭に思えました。だからラストに納得がいかなかった。そこが最大の問題でした。
 史実や歴史上の人物の言動を現代的視点でのみ切り解釈しても無理もあれば限界があるのも当然です。
 しかしマリーを、ただの清純無垢な乙女にしなかったのならば、ルドルフの思想に共感し同調し政治的盟友ともなれるソウルメイトとして設定したのなら、それはかなり現代的な見方で、だからこそ心中に至るにはより必然性が、その説明が必要になったと思うのです。それは、私にはなかったように思えました。

 ルドルフについても、病みかけた繊細な夢見がちな若者ではなくて、心身ともに健康な、だからこそ抑圧に反発している、ごく普通の大人の男性、に描いているように私には見えました。
 だったら、彼の、彼と彼女の戦いがなんだったのかをもっとクリアに見せないと、何故死を選ばなくてはならないのかが納得できないのは仕方ないですよね。
 弱い、現世に疲れた、ロマンティストな男女が逃げて死んだんじゃないんだもん。そういう解釈にはしないことにした話なんだもん。だったら違う解釈とはなんなのか、それを見せてもらいたかった。そして私にはそれが見えませんでしたよ? それは私のせいなのか?

 というワケでマリーが何故そんなに政治的な人間なのか説明がまったくないのは減点1ですが、彼女が政治的な人間であった方が同じく政治的な人間であるルドルフと接近しやすかったのでしょうからそれはいい。
 彼女はルドルフが偽名で書いた記事の熱心な読者で、彼こそがその書き手だと知ったとき、恋に落ちます。ルドルフもまた、彼女が自分の記事を認めてくれたからこそ恋に落ちたのでしょう。
(確かに文章に人となりは表れるし、だから書いた文章が好きなら書いた人のことも好感を持つというのは自然です。しかし実際に書き手に会って恋に落ちるかどうかは本当のことを言えば残念ながらまた別問題であることを私は経験をもって知っていますが、それはまた別の話。ここではふたりは幸運にも恋に落ちることができた、そうしたらそれはかなり強い結びつきになりますよね、それはわかるので、それで十分なのです)
 こうしてふたりはソウルメイトとなりえるお互いと出会い、恋に落ちた。めでたいですねえ、ではその先、何が問題になるのか?

 ルドルフがローマ教皇に自分とステファニーの結婚を無効にするよう手紙を書いたというのは史実なんでしょうかねえ。どこのヘンリー8世なのか。
 しかしこの行動がまずよくわからん。ルドルフってマリーと結婚したかったの? 少なくともマリーがルドルフと結婚したいと言う場面はなかったと思うけれど。
 先述したとおりこの時代の貴族社会に生まれ育った人間にとって愛と結婚は別物であることはごく一般的な常識のひとつにすぎなかったのではないでしょうか。すごく好きな人ができたから政略結婚はチャラにして好きな人と結婚したがる、というのはいかにも現代的な視点に私には思えるんだけれどなあ…お互い支障のないよう婚外恋愛をする、というのも自然なことだったんじゃないの?
 ただ一方で彼らは敬虔なカトリックだと思うので、婚外性交は問題だという意識もあったんだろうし、神のもとに誓った結婚は愛情と貞節を伴うべきものだという意識もあったのでしょうね。
 だからルドルフがちゃんとしたがったのもわからないでもない。でもそれはこの時代、かなり難しいことだった。だからこそステファニーも、怒り暴れなじりながらも、結局はおちついてふんぞり返っていられたわけです。妻の座は動かない、彼と暮らすのは自分であり、彼と共に家の墓に入るのはあくまで妻である自分なのです。
 そしてステファニーがあてこすったように、「近代的な人間である」マリーにとっては結婚は大きな問題ではなかったかもしれないのです。なのにルドルフが勝手にこうした行動に出たことは、マリーにとってはむしろ侮辱だと私は思うのだけれど、このあたりのことについても特にくわしく描かれることはなく話は進むのでした…

 マリーはルドルフを愛しルドルフに愛されていることに自信を持っていました。だから結婚なんかどうでも、まったく問題はなかったのです。
 ではマリーがしたかったこと、ルドルフとしたかったことはなんなのか。「世界を変えること」だったんじゃないの?
 彼らはふたりとも政治的な人間で、政治的思想が一致して共鳴して恋に落ちて、だからその思想を実現すべく、改革を推し進めるべく生きていこうとするのではないの?
 それが阻まれるから死に追いやられるのだと思うのだけれど…
 そこらへんも不明瞭でしたよね?
 そもそもフランツの政治は本当に問題があるのか、問題があるとすればそれはなんなのか、もっと端的に表現してくれないとわかりません。なんだかんだいって『エリザベート』はそういう部分が見えやすかった。この作品にはそれがない。
 ルドルフはフランツ体制の何をどう改定しようとしているのか? 感動的なナンバー「明日への道」からは、彼のスピーチが民衆の心を捉えたようにも見えたのだけれど、では何故、何が頓挫するの? 何も描かれないままルドルフはマイヤーリンクに行きますよね?

 対するマリーも、ターフェに呼び付けられて家族の安全をダシに脅迫されるわけですが、それは彼女にとって本当に苦しいことなの、なんなの? マリーの家族はまったく出てきませんよね、理解も愛もない親なんだったらうっちゃったっていいんじゃないの? 生活保護支給問題じゃないけど、成人の親の扶養義務はないんじゃないの?(ましてマリーは未成年だよ?)
 マリーが、ルドルフと共に生きたいという思いと家族との思いに引き裂かれる、ということならば、その家族を、家族への思いを描いてくれないとわかりません。
 自分が生きていると家族の身が危ない、愛する家族の命を救うためには、私が死ぬしかないのだ…くらいに追い込まれないと、このマリーが、心中を選ぶ理由がないように私には見えるのですが…

 ふたりが何をどう戦い、どうそれに敗れて、だから死を選ばざるをえなかったかが、私にはまったく見えませんでした…
 だから「ええええ」と思っているうちにマイヤーリンクの場面は終わり、物語も終わってしまったのでした…

 うーんうーんうーん。
 たとえばバレエやオペラの主人公はヒロイン、プリマドンナです。そろそろマリーを主人公にした『マリー・V』なんて作品が生まれてもいいのかもしれない、Vにはいろいこじつけたいところだけれど、何があるかな…なんて考えながら観ていた私が悪いのかもしれないのですが。
 主人公は女。若くて、でも決して愚かではなくて、理想や志があって。それを共にできる相手と出会って。彼はなんとたまたま王子様で。
 もちろん彼と結婚することを夢見なかったわけではない。そこまでできなくても、公妾の地位を得るだけでも宮廷には君臨できて、華やかでおもしろおかしい暮らしが送れたかもしれない。
 そういうことを考えなかったわけではない、女だもの。でもそれよりもっとしたいことか、欲しいものがあったの。それは…
 まあ私はあまり政治的な人間ではなく、国とか世界とかを考えるのが苦手なのでなんかちょっとこの先がうまくイメージできないんだけれど…でもなんだろう、民族とか宗教とか身分とか、そういうことで差別されない世界を作りたい、とか、そういうのはわかる。というか世界ってそうあるべきだなんて普通の人間はわかってる。
 今の皇帝にはそれがわかっていない、そういう世の中が作れていない。既得権益にしがみついて、弱者を弾圧し、悪政をしいている。
 あなたは皇太子なんだから、もっとお父さんに強く言わなければダメよ、あなたがお父さんりなり代わるくらいでなくてはダメよ…とか?
 もしかしたら、では、来たるべき物語とは、女のそういう志が男を追い詰め殺してしまう物語になるしかないのかしら…そして女自身もそれに殉じる物語に?
 うーんうーんうーん…
 でもなあ、ありえるなあ。
 新しい時代を夢見て。共闘できる相手と出会って愛し合ってがんばって。
 でも現実の壁は厚くて、男は疲れて病んで死のうとする。女はそんな男を捨てられないんだよね。自分ひとりじゃできないから、国を継ぐべきなのは彼だから、というのもあるけれど、そういう損得だけじゃなくて、本当に愛してしまったら、その男が変節してしまっても別れられない。
 いやホント言うと別れられるんだけど、そんな男なら捨てちゃえる女の方が普通なんだけれど、普通と言うか当然と言うか健全と言うか。でもそれじゃ物語にならないんだよね残念ながら。
 現実はそうだからこそ、物語には、捨てられない恋、捨てられない男を望むわけですよ女というものは。
 しかし…壊れていく男を捨てられなくて、愛に殉じて死ぬ女の物語、か…成立するかなあ。でも、愛に殺される女の悲劇、というのは広い意味では定番でもあるかなあ。
 うーんうーんうーん………


 というワケでキャストはみなさん素敵でした。
 こんな感想とまとめですみません…




コメント (3)
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